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百八十七話
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「鍵屋崎、返事をしろ!!」
こぶしでドアを殴打しながら鍵屋崎の名を呼ぶ。
が、返事はない。変だ、絶対おかしい。鍵屋崎は中にいないのか?俺の勘が間違ってたのか?ドアの下から廊下まで染み出して一面水浸しにしたこの大量の水は水漏れの事故かなんかで鍵屋崎には全然関係ないのか、鍵屋崎はここにはいないのか?殴れども殴れどもドアの向こうからは何の応答もなくて次第に不安が募ってくる。
いやな胸騒ぎ。
「くそっ、」
舌打ちし、足腰踏ん張って力一杯ノブを引っ張る。右に左にがちゃがちゃ捻ってみるが鍵がかかってるらしくてびくともしない。
俺の予感が正しければ鍵屋崎は絶対中にいるはずだ、ボイラー室以外はさんざん捜し回ったんだから残るはここのみ。なんてこたない、単純な消去法が正解に辿り着く一番の近道だったわけだ。しかし鍵屋崎が中に閉じ込められてるならなんで返事をしない、精一杯の声張り上げて居場所を知らせてこない?考えられる可能性はふたつ。鍵屋崎が中にいないか、いても返事をできる状態じゃないか。後者ならちんたらやってる場合じゃねえ、鍵屋崎は今危険な目に遭わされてると見て間違いない。
手遅れになる前に助けなければ。
「五十嵐、鍵貸せ!」
そばでぼんやり突っ立っていた五十嵐を一喝、五十嵐のズボンのポケットに無理矢理手を突っ込んで鍵束を探る。あった。最初は気付かなくてうっかり見過ごしちまいそうになったが、全身を注意深く観察してみりゃポケットが不自然に膨らんでたから五十嵐本人が鍵を持ってるとすぐにわかった。
「お、おい何すんだ!?」
五十嵐のうろたえた声を無視してポケットをまさぐり鍵束を掴み取る、五十嵐の制止に背を向け、力づくでひったくった鍵束を一本ずつ鍵穴にさしこむ。回す。ハズレ。次、これもハズレ。くそっ、どれがボイラー室の鍵だよ!?苛立ちが頂点に達して叫びだしたくなるのをぐっとこらえ、手が汗でぬめりそうになるのに難儀しながら一本ずつ鍵を鍵穴に当て嵌めてゆく。駄目だ、これも違う。
「ロンやめろ、鍵を返せ!」
『打優!』
背後でなにか喚いてる五十嵐を「邪魔だ」と一蹴する。早く早くと気ばかり焦って一向にボイラー室の鍵が見つけられない、中で何が起こってるかわからないが鍵屋崎が大変な目に遭ってる予感がする。悪い予感ってのは往々にして外れないもんだ。早く本物の鍵を見つけなければ―
前にもおなじ状況に直面した。
これとよく似た場面を体験した。
体の中で鳴り響く心臓の鼓動が壁越しのノック音と重なり、一気に時間が逆流する。売春班の仕事場で鍵屋崎の隣部屋に入れられた俺は、飲まず食わずで閉じこもってるあいだずっと通気口から聞こえてくる悲鳴や喘ぎ声や泣き声に耳をふさぎ、卑怯に卑劣に臆病に知らんぷりを決めこんでいた。壁に両手をつかされ、後ろから挿入されてる鍵屋崎がその反動で壁を叩いても何もできなくて、ドアをぶち破って助けにとんでく度胸もなくて、ただ無力感を噛み締めて壁にこぶしを預けて立ち尽くすしかなくて。
またあの時の二の舞なのか?
俺はまた鍵屋崎を見殺しにするのか?
―冗談じゃねえ。
あんな情けない真似もう二度と死んでもごめんだ、俺はもう逃げも隠れもしない、鍵屋崎を見殺しになんてしない。絶対このドアをぶち破ってやる。奥歯に力をこめ、指先に全神経を集中させ目を凝らす。どうか間に合ってくれ、無事であってくれと気も狂わんばかりに祈りながら鍵穴に鍵をさしこみ―
かちゃり、と小気味よい金属音。
『打開!』
開いた!
祈りが天に通じたのか神様の気まぐれか、苦心惨憺の末にようやくボイラー室のドアが開いた。躍り上がって喜ぶのは後回しだ。勢い良くドアを蹴り開け、濛々と水蒸気に煙る中へと殴りこむ。水蒸気の濃霧をかきわけて中へと進んだ俺が見たものは、ぐったり仰臥した鍵屋崎とその上に跨って首を絞めてるタジマ。
「!!なにやってんだよっ、」
頭が真っ白になった。
なんでここにタジマがいるんだとか冷静な疑問は頭から吹っ飛んで、俺は一目散にタジマにとびかかった。水ですべりやすい床を蹴って加速、助走、跳躍。鍵屋崎に馬乗りになり、片手で首を絞めてるタジマを体当たりで突き飛ばす。激突の衝撃で鍵屋崎の胴から転げ落ちたタジマが「ぎゃっ!」と悲鳴をあげて床の水溜りに突っ込む。
「大丈夫か鍵屋崎、しっかりしろ!」
はげしく咳き込む鍵屋崎の首にはくっきりと手形の痣がついていた。タジマの指に圧迫された痕だ。体を二つに折って噎せ返る鍵屋崎の背中を撫でながら、肥満体ゆえに水溜りで溺れかけ、苦労の末にずぶぬれの上体を起こしたタジマを睨みつける。
「なんでおまえがここにいんだよ、タジマ」
「相変わらず鈍いな、タジマが黒幕だからに決まってるだろう」
「は?」
首を絞められて殺されかけたというのに、鍵屋崎ときたらそばに片膝ついて背中を撫でさすってやってた俺をそっけなくどかし、小さく咳をしながら痣になった首に手をやる。
「半年前の事件を思い出せ。イエローワークの砂漠で生き埋めにされかけたとき、凱たちを裏で操ってたのはタジマだった。今度もおなじだ。売春班撤廃に反対意見をもつタジマはペア戦100人抜きを阻止するため凱たちに命じてサムライから木刀を奪い、試合終了まで僕を監禁するという強硬手段をとった」
鍵屋崎の声は掠れていた。タジマに長いあいだ首を絞められてたせいだろう。咳まじりの掠れ声で理論整然と説明した鍵屋崎は、水溜りに尻餅ついたタジマを針より鋭い軽蔑の眼差しで突き刺していた。
瞬間、ここ一連の事件すべてが腑に落ちた。
三日前俺が残虐兄弟に脅迫されたのも、今日鍵屋崎が木刀を持って行方をくらましたのも、裏じゃ全部タジマと凱が手を組んで計画したことだった。東棟最大の中国系派閥のボスで三百人の囚人を傘下におさめる凱は自分と性格が似た主任看守のタジマと仲が良くて、賄賂の見かえりにたびたび悪さを見逃してもらってる。半年前も凱とタジマに遊び半分で殺されかけたが、今度もふたり手を結んで俺たちを襲うなんて……
「くそったれ」
はっきり声にだして悪態を吐く。もう我慢の限界だった。タジマは東京プリズン入所当初から俺に目をつけてる。売春班で煙草の火を押し付けられた記憶は夜毎夢に見るほど生々しくて、一生消えない火傷の痕が鎖骨と脇腹と右手の甲の三箇所に残ってる。これまでもこれからも俺はタジマに付け狙われる運命なのか?本当にうんざりする。
「あれ?でも五十嵐は、」
五十嵐はどうして嘘をついたんだ。ボイラー室の中に鍵屋崎がいないなんて、そんな嘘を。
「きみは馬鹿か?五十嵐が共犯者だからに決まってる」
少しは頭を使わないと脳細胞が壊死するぞ、と鍵屋崎に嫌味を言われてもすぐにはぴんとこなかった。理解の遅い俺に焦れたように捨て鉢な口調で鍵屋崎が続ける。
「五十嵐はタジマに弱みを握られ脅迫されてたんだ。言うことを聞かないと周囲に弱みをばらすぞと脅されて不承不承ボイラー室の見張りにつかされていた……そうですよね、五十嵐さん」
鍵屋崎が振り仰いだ方向につられて目をやれば、開け放たれたドアの向こう、水溜りの真ん中に呆然と五十嵐が立っていた。冷然と鍵屋崎に直視され、五十嵐はすまなそうに顔を伏せた。その態度がなにより雄弁に鍵屋崎の言葉が真実だと告げていた。
「嘘だろ」
鍵屋崎の口から真実を聞かされてもまだ信じられなかった。いや、信じたくなかった。五十嵐がタジマの共犯者だなんて何かの間違いか悪い冗談であってほしかった。ヨンイルの口から五十嵐の凶行を聞かされたときも俄かには信じられなかった、いや、信じたくない気持ちが強かった。あんなに親切にしてくれたのに、バンソウコウだってくれたのに。落ちこんでる俺に麻雀牌くれて「元気だせよ」と肩を叩いてくれた、あれも全部芝居だったのか?
「本当なのか五十嵐?でも、脅されて仕方なくやったんだろ。だったら……、」
だったらなんだ?
五十嵐が鍵屋崎を見殺しにしたのは事実だ。鍵屋崎が首絞められて苦しんでるときに見て見ぬふりで廊下に突っ立ってたのは動かし難い事実だ。五十嵐の口から否定してほしくて、おそるおそる念を押してみたところで一度失墜した信頼は回復できない。希望を捨てきれず、すがるように必死な声音で詰問しても、五十嵐はこっちを見ようともしなかった。鍵屋崎の言葉が事実だと全面的に認めるつれない態度で。
「……そいつの言うとおりだ。軽蔑してくれてかまわねえよ」
「―っ、」
やり場のない怒りをこめ、こぶしで床を殴りつける。
俺が甘かったのだ。東京プリズンに本心から囚人のことを気にかけてくれる看守なんているわけないのに、ちょっと優しくされただけで気を許して、手懐けられた猫のように警戒心を捨てて。鍵屋崎の面を見たら「もうちょっと警戒心もてよ」と説教してやろうと心に決めていたが、五十嵐の嘘を信じてまんまと回れ右した俺にこいつを叱る資格なんてない。
甘かった。他人なんか信じるんじゃなかった。そんなこと娑婆でさんざん思い知らされたのに―
「!」
背後に忍び寄る気配に先に体が反応、床に座りこんでた鍵屋崎を突き飛ばす。俺に突き飛ばされた鍵屋崎が最前まで座りこんでた床めがけ、風切る唸りをあげて警棒が振り下ろされる。
警棒が床に衝突する鈍い音。制服から水滴を滴らせ、ぬれた靴跡を床にひきずりながら歩いてきたタジマが目を凶暴に輝かせて警棒をぶん回す。
「なんだなんだ、いいところを邪魔しやがって……おまえも仲間入りしにきたのかよ、ロン!」
「ちっ、」
舌打ちとともに頭を伏せた上空を警棒が過ぎる。タジマがはでに体を動かして警棒を振りまわすたび、その手足の動きにつられてあたりを覆っていた水蒸気が千々に霧散する。水蒸気で視界が曇って攻撃をかわすだけでやっとだ、とても鍵屋崎の面倒まで見きれない。タジマのお遊びに付き合ってたらサムライの敗北で試合終了だ、鍵屋崎だけでも先に行かせなければ!
『奔!』
走れ!
床に転がってた木刀をひっ掴み、鍵屋崎めがけて放り投げる。いきなり木刀を投げ付けられ、反射神経の鈍い鍵屋崎がたたらを踏んだのが視界の端に入ったがなんとか持ち応えたようだ。慎重に木刀を抱えた鍵屋崎が、俺にあわせて台湾語で叫ぶ。
『君はどうするんだ?』
『タジマを食いとめる!』
実際それしかない、鍵屋崎を上手く逃がすためには俺が足止めするっきゃない。それを聞いた鍵屋崎が一瞬逡巡の表情を覗かせて足を一歩踏み出して、
「飛んで火にいる親殺しが!」
「!馬鹿っ、」
警棒の軌道が変わり、俺から鍵屋崎へと標的が転じる。
鍵屋崎の顔面を警棒が直撃する寸前に床を蹴って跳躍、タジマの腰に突撃して転ばせる。タジマの肩越し、警棒が巻き起こした風圧に鍵屋崎の前髪が舞い上がり、眼鏡越しの目を見開いた驚愕の表情がかいま見えた。タジマともつれるように床に転がりながら、木刀を抱えてぼさっと突っ立ってる鍵屋崎を怒鳴る。
「いいから行け、サムライ助けたいんだろ!?サムライにはおまえが必要なんだよ、早く行け、行かないとぶちのめすぞ!面倒くさいことになるからレイジに言うなよ!」
俺がいなくてもサムライは大丈夫だけど、鍵屋崎がいなけりゃ大丈夫じゃない。
叱責に鞭打たれた鍵屋崎の表情が厳粛に引き締まり、しっかり木刀を握り締めて走り出す。
そうだ行け、立ち止まるな、振りかえるな、俺にかまうな。サムライを助けにいってやれ。
運動音痴な鍵屋崎にしちゃ素早い身のこなしで濃霧を抜けて廊下にとびだして視界の彼方に遠ざかってゆく。鍵屋崎とすれ違いざま、廊下に佇んだ五十嵐がボイラー室の中に目をやったが、鍵屋崎の背中に手をのばしただけで積極的に止めようとはしなかった。
鍵屋崎の靴音が廊下に反響して遠ざかってゆき、口元に満足げな笑みを浮かべる。
その途端、横っ面を張られた。警棒を床に放りだしたタジマに素手で殴られたのだ。
「舐めた真似しやがって!!てめえが犠牲になって親殺し逃がすなんざ泣かせる友情だなおい!?」
激怒したタジマが俺の胸ぐらを掴んでのしかかってくる。そうだいいぞ、もっと怒れ。頭に血を上らせて鍵屋崎のことなんか忘れちまえ、鍵屋崎を追いかけようなんて考えるなよ。俺の役目は足止めと時間稼ぎ。鍵屋崎が試合会場に辿り着いてサムライに木刀を届けるまで体を張ってタジマを食いとめてやる。
少し間をおいて十分にタジマの注意を引き付けてから、せいぜい憎たらしく笑ってやる。タジマの神経を逆撫でして俺への怒りと憎しみで頭をいっぱいにさせるために、他のことは何も考えられなくなるように。
「いい加減負けを認めろよタジマ。鍵屋崎はもう行っちまったぜ、木刀受け取ったサムライが一発逆転大勝利で会場沸かせてるさまが目に浮かぶぜ。ほら聞こえてくるだろ、サムライの勝利を祝う歓声が……」
「はっ、なんにも聞こえねえな。親殺しが間に合わないほうに賭けるぜ」
「あいつは間に合う」
間に合ってもらわなきゃ俺の苦労が報われない。そう心の中で反駁し、怒りに充血したタジマの顔を仰向け向けに寝転んだ姿勢で仰ぎ見る。
「どうしたタジマ、煮るなり焼くなり好きにしろよ?ちょっと警棒振りまわしただけでもう息切れか、その贅肉落としたほうがいいんじゃねえの。あんたと寝た女が窒息死しちまうよ」
下劣な笑顔で冗談を言えば、タジマの表情が豹変する。憤怒の形相から凶悪な笑みへ、こめかみの血管も切れそうなタジマが片腕一本で俺の胸ぐらを引きずって壁際に歩いてく。
タジマに引きずられ、床に寝転んでるガキにつまずきかけた俺の視線の先にぶらさがっていたのは……手錠。手錠?なんでお誂え向きにこんな物が、ちょっと出来すぎだろ!?
背筋に悪寒が走り、タジマの手を振りほどこうとめちゃくちゃに暴れてみるが、不条理にもタジマの握力のほうが俺のそれより何倍も強かった。手首を絞り上げられる激痛に顔をしかめて苦鳴を漏らし、抵抗を緩めたその瞬間にカチリと不吉な金属音、手錠の輪が噛み合う音。
「いいんだな」
タジマの声がすぐ耳元でした。
反射的に顔を上げれば目の前にタジマの顔があった。黄ばんだ歯をむきだした、処女でも妊娠させちまいそうに好色な笑顔。性的興奮に股間を疼かせてるのが一目でわかるズボンの盛り上がり。
恐怖と生理的嫌悪に生唾を嚥下した俺に顔を近付け、タジマが念を押す。
「煮るなり焼くなり好きにしていいんだな」
……口は災いの元だ。
こぶしでドアを殴打しながら鍵屋崎の名を呼ぶ。
が、返事はない。変だ、絶対おかしい。鍵屋崎は中にいないのか?俺の勘が間違ってたのか?ドアの下から廊下まで染み出して一面水浸しにしたこの大量の水は水漏れの事故かなんかで鍵屋崎には全然関係ないのか、鍵屋崎はここにはいないのか?殴れども殴れどもドアの向こうからは何の応答もなくて次第に不安が募ってくる。
いやな胸騒ぎ。
「くそっ、」
舌打ちし、足腰踏ん張って力一杯ノブを引っ張る。右に左にがちゃがちゃ捻ってみるが鍵がかかってるらしくてびくともしない。
俺の予感が正しければ鍵屋崎は絶対中にいるはずだ、ボイラー室以外はさんざん捜し回ったんだから残るはここのみ。なんてこたない、単純な消去法が正解に辿り着く一番の近道だったわけだ。しかし鍵屋崎が中に閉じ込められてるならなんで返事をしない、精一杯の声張り上げて居場所を知らせてこない?考えられる可能性はふたつ。鍵屋崎が中にいないか、いても返事をできる状態じゃないか。後者ならちんたらやってる場合じゃねえ、鍵屋崎は今危険な目に遭わされてると見て間違いない。
手遅れになる前に助けなければ。
「五十嵐、鍵貸せ!」
そばでぼんやり突っ立っていた五十嵐を一喝、五十嵐のズボンのポケットに無理矢理手を突っ込んで鍵束を探る。あった。最初は気付かなくてうっかり見過ごしちまいそうになったが、全身を注意深く観察してみりゃポケットが不自然に膨らんでたから五十嵐本人が鍵を持ってるとすぐにわかった。
「お、おい何すんだ!?」
五十嵐のうろたえた声を無視してポケットをまさぐり鍵束を掴み取る、五十嵐の制止に背を向け、力づくでひったくった鍵束を一本ずつ鍵穴にさしこむ。回す。ハズレ。次、これもハズレ。くそっ、どれがボイラー室の鍵だよ!?苛立ちが頂点に達して叫びだしたくなるのをぐっとこらえ、手が汗でぬめりそうになるのに難儀しながら一本ずつ鍵を鍵穴に当て嵌めてゆく。駄目だ、これも違う。
「ロンやめろ、鍵を返せ!」
『打優!』
背後でなにか喚いてる五十嵐を「邪魔だ」と一蹴する。早く早くと気ばかり焦って一向にボイラー室の鍵が見つけられない、中で何が起こってるかわからないが鍵屋崎が大変な目に遭ってる予感がする。悪い予感ってのは往々にして外れないもんだ。早く本物の鍵を見つけなければ―
前にもおなじ状況に直面した。
これとよく似た場面を体験した。
体の中で鳴り響く心臓の鼓動が壁越しのノック音と重なり、一気に時間が逆流する。売春班の仕事場で鍵屋崎の隣部屋に入れられた俺は、飲まず食わずで閉じこもってるあいだずっと通気口から聞こえてくる悲鳴や喘ぎ声や泣き声に耳をふさぎ、卑怯に卑劣に臆病に知らんぷりを決めこんでいた。壁に両手をつかされ、後ろから挿入されてる鍵屋崎がその反動で壁を叩いても何もできなくて、ドアをぶち破って助けにとんでく度胸もなくて、ただ無力感を噛み締めて壁にこぶしを預けて立ち尽くすしかなくて。
またあの時の二の舞なのか?
俺はまた鍵屋崎を見殺しにするのか?
―冗談じゃねえ。
あんな情けない真似もう二度と死んでもごめんだ、俺はもう逃げも隠れもしない、鍵屋崎を見殺しになんてしない。絶対このドアをぶち破ってやる。奥歯に力をこめ、指先に全神経を集中させ目を凝らす。どうか間に合ってくれ、無事であってくれと気も狂わんばかりに祈りながら鍵穴に鍵をさしこみ―
かちゃり、と小気味よい金属音。
『打開!』
開いた!
祈りが天に通じたのか神様の気まぐれか、苦心惨憺の末にようやくボイラー室のドアが開いた。躍り上がって喜ぶのは後回しだ。勢い良くドアを蹴り開け、濛々と水蒸気に煙る中へと殴りこむ。水蒸気の濃霧をかきわけて中へと進んだ俺が見たものは、ぐったり仰臥した鍵屋崎とその上に跨って首を絞めてるタジマ。
「!!なにやってんだよっ、」
頭が真っ白になった。
なんでここにタジマがいるんだとか冷静な疑問は頭から吹っ飛んで、俺は一目散にタジマにとびかかった。水ですべりやすい床を蹴って加速、助走、跳躍。鍵屋崎に馬乗りになり、片手で首を絞めてるタジマを体当たりで突き飛ばす。激突の衝撃で鍵屋崎の胴から転げ落ちたタジマが「ぎゃっ!」と悲鳴をあげて床の水溜りに突っ込む。
「大丈夫か鍵屋崎、しっかりしろ!」
はげしく咳き込む鍵屋崎の首にはくっきりと手形の痣がついていた。タジマの指に圧迫された痕だ。体を二つに折って噎せ返る鍵屋崎の背中を撫でながら、肥満体ゆえに水溜りで溺れかけ、苦労の末にずぶぬれの上体を起こしたタジマを睨みつける。
「なんでおまえがここにいんだよ、タジマ」
「相変わらず鈍いな、タジマが黒幕だからに決まってるだろう」
「は?」
首を絞められて殺されかけたというのに、鍵屋崎ときたらそばに片膝ついて背中を撫でさすってやってた俺をそっけなくどかし、小さく咳をしながら痣になった首に手をやる。
「半年前の事件を思い出せ。イエローワークの砂漠で生き埋めにされかけたとき、凱たちを裏で操ってたのはタジマだった。今度もおなじだ。売春班撤廃に反対意見をもつタジマはペア戦100人抜きを阻止するため凱たちに命じてサムライから木刀を奪い、試合終了まで僕を監禁するという強硬手段をとった」
鍵屋崎の声は掠れていた。タジマに長いあいだ首を絞められてたせいだろう。咳まじりの掠れ声で理論整然と説明した鍵屋崎は、水溜りに尻餅ついたタジマを針より鋭い軽蔑の眼差しで突き刺していた。
瞬間、ここ一連の事件すべてが腑に落ちた。
三日前俺が残虐兄弟に脅迫されたのも、今日鍵屋崎が木刀を持って行方をくらましたのも、裏じゃ全部タジマと凱が手を組んで計画したことだった。東棟最大の中国系派閥のボスで三百人の囚人を傘下におさめる凱は自分と性格が似た主任看守のタジマと仲が良くて、賄賂の見かえりにたびたび悪さを見逃してもらってる。半年前も凱とタジマに遊び半分で殺されかけたが、今度もふたり手を結んで俺たちを襲うなんて……
「くそったれ」
はっきり声にだして悪態を吐く。もう我慢の限界だった。タジマは東京プリズン入所当初から俺に目をつけてる。売春班で煙草の火を押し付けられた記憶は夜毎夢に見るほど生々しくて、一生消えない火傷の痕が鎖骨と脇腹と右手の甲の三箇所に残ってる。これまでもこれからも俺はタジマに付け狙われる運命なのか?本当にうんざりする。
「あれ?でも五十嵐は、」
五十嵐はどうして嘘をついたんだ。ボイラー室の中に鍵屋崎がいないなんて、そんな嘘を。
「きみは馬鹿か?五十嵐が共犯者だからに決まってる」
少しは頭を使わないと脳細胞が壊死するぞ、と鍵屋崎に嫌味を言われてもすぐにはぴんとこなかった。理解の遅い俺に焦れたように捨て鉢な口調で鍵屋崎が続ける。
「五十嵐はタジマに弱みを握られ脅迫されてたんだ。言うことを聞かないと周囲に弱みをばらすぞと脅されて不承不承ボイラー室の見張りにつかされていた……そうですよね、五十嵐さん」
鍵屋崎が振り仰いだ方向につられて目をやれば、開け放たれたドアの向こう、水溜りの真ん中に呆然と五十嵐が立っていた。冷然と鍵屋崎に直視され、五十嵐はすまなそうに顔を伏せた。その態度がなにより雄弁に鍵屋崎の言葉が真実だと告げていた。
「嘘だろ」
鍵屋崎の口から真実を聞かされてもまだ信じられなかった。いや、信じたくなかった。五十嵐がタジマの共犯者だなんて何かの間違いか悪い冗談であってほしかった。ヨンイルの口から五十嵐の凶行を聞かされたときも俄かには信じられなかった、いや、信じたくない気持ちが強かった。あんなに親切にしてくれたのに、バンソウコウだってくれたのに。落ちこんでる俺に麻雀牌くれて「元気だせよ」と肩を叩いてくれた、あれも全部芝居だったのか?
「本当なのか五十嵐?でも、脅されて仕方なくやったんだろ。だったら……、」
だったらなんだ?
五十嵐が鍵屋崎を見殺しにしたのは事実だ。鍵屋崎が首絞められて苦しんでるときに見て見ぬふりで廊下に突っ立ってたのは動かし難い事実だ。五十嵐の口から否定してほしくて、おそるおそる念を押してみたところで一度失墜した信頼は回復できない。希望を捨てきれず、すがるように必死な声音で詰問しても、五十嵐はこっちを見ようともしなかった。鍵屋崎の言葉が事実だと全面的に認めるつれない態度で。
「……そいつの言うとおりだ。軽蔑してくれてかまわねえよ」
「―っ、」
やり場のない怒りをこめ、こぶしで床を殴りつける。
俺が甘かったのだ。東京プリズンに本心から囚人のことを気にかけてくれる看守なんているわけないのに、ちょっと優しくされただけで気を許して、手懐けられた猫のように警戒心を捨てて。鍵屋崎の面を見たら「もうちょっと警戒心もてよ」と説教してやろうと心に決めていたが、五十嵐の嘘を信じてまんまと回れ右した俺にこいつを叱る資格なんてない。
甘かった。他人なんか信じるんじゃなかった。そんなこと娑婆でさんざん思い知らされたのに―
「!」
背後に忍び寄る気配に先に体が反応、床に座りこんでた鍵屋崎を突き飛ばす。俺に突き飛ばされた鍵屋崎が最前まで座りこんでた床めがけ、風切る唸りをあげて警棒が振り下ろされる。
警棒が床に衝突する鈍い音。制服から水滴を滴らせ、ぬれた靴跡を床にひきずりながら歩いてきたタジマが目を凶暴に輝かせて警棒をぶん回す。
「なんだなんだ、いいところを邪魔しやがって……おまえも仲間入りしにきたのかよ、ロン!」
「ちっ、」
舌打ちとともに頭を伏せた上空を警棒が過ぎる。タジマがはでに体を動かして警棒を振りまわすたび、その手足の動きにつられてあたりを覆っていた水蒸気が千々に霧散する。水蒸気で視界が曇って攻撃をかわすだけでやっとだ、とても鍵屋崎の面倒まで見きれない。タジマのお遊びに付き合ってたらサムライの敗北で試合終了だ、鍵屋崎だけでも先に行かせなければ!
『奔!』
走れ!
床に転がってた木刀をひっ掴み、鍵屋崎めがけて放り投げる。いきなり木刀を投げ付けられ、反射神経の鈍い鍵屋崎がたたらを踏んだのが視界の端に入ったがなんとか持ち応えたようだ。慎重に木刀を抱えた鍵屋崎が、俺にあわせて台湾語で叫ぶ。
『君はどうするんだ?』
『タジマを食いとめる!』
実際それしかない、鍵屋崎を上手く逃がすためには俺が足止めするっきゃない。それを聞いた鍵屋崎が一瞬逡巡の表情を覗かせて足を一歩踏み出して、
「飛んで火にいる親殺しが!」
「!馬鹿っ、」
警棒の軌道が変わり、俺から鍵屋崎へと標的が転じる。
鍵屋崎の顔面を警棒が直撃する寸前に床を蹴って跳躍、タジマの腰に突撃して転ばせる。タジマの肩越し、警棒が巻き起こした風圧に鍵屋崎の前髪が舞い上がり、眼鏡越しの目を見開いた驚愕の表情がかいま見えた。タジマともつれるように床に転がりながら、木刀を抱えてぼさっと突っ立ってる鍵屋崎を怒鳴る。
「いいから行け、サムライ助けたいんだろ!?サムライにはおまえが必要なんだよ、早く行け、行かないとぶちのめすぞ!面倒くさいことになるからレイジに言うなよ!」
俺がいなくてもサムライは大丈夫だけど、鍵屋崎がいなけりゃ大丈夫じゃない。
叱責に鞭打たれた鍵屋崎の表情が厳粛に引き締まり、しっかり木刀を握り締めて走り出す。
そうだ行け、立ち止まるな、振りかえるな、俺にかまうな。サムライを助けにいってやれ。
運動音痴な鍵屋崎にしちゃ素早い身のこなしで濃霧を抜けて廊下にとびだして視界の彼方に遠ざかってゆく。鍵屋崎とすれ違いざま、廊下に佇んだ五十嵐がボイラー室の中に目をやったが、鍵屋崎の背中に手をのばしただけで積極的に止めようとはしなかった。
鍵屋崎の靴音が廊下に反響して遠ざかってゆき、口元に満足げな笑みを浮かべる。
その途端、横っ面を張られた。警棒を床に放りだしたタジマに素手で殴られたのだ。
「舐めた真似しやがって!!てめえが犠牲になって親殺し逃がすなんざ泣かせる友情だなおい!?」
激怒したタジマが俺の胸ぐらを掴んでのしかかってくる。そうだいいぞ、もっと怒れ。頭に血を上らせて鍵屋崎のことなんか忘れちまえ、鍵屋崎を追いかけようなんて考えるなよ。俺の役目は足止めと時間稼ぎ。鍵屋崎が試合会場に辿り着いてサムライに木刀を届けるまで体を張ってタジマを食いとめてやる。
少し間をおいて十分にタジマの注意を引き付けてから、せいぜい憎たらしく笑ってやる。タジマの神経を逆撫でして俺への怒りと憎しみで頭をいっぱいにさせるために、他のことは何も考えられなくなるように。
「いい加減負けを認めろよタジマ。鍵屋崎はもう行っちまったぜ、木刀受け取ったサムライが一発逆転大勝利で会場沸かせてるさまが目に浮かぶぜ。ほら聞こえてくるだろ、サムライの勝利を祝う歓声が……」
「はっ、なんにも聞こえねえな。親殺しが間に合わないほうに賭けるぜ」
「あいつは間に合う」
間に合ってもらわなきゃ俺の苦労が報われない。そう心の中で反駁し、怒りに充血したタジマの顔を仰向け向けに寝転んだ姿勢で仰ぎ見る。
「どうしたタジマ、煮るなり焼くなり好きにしろよ?ちょっと警棒振りまわしただけでもう息切れか、その贅肉落としたほうがいいんじゃねえの。あんたと寝た女が窒息死しちまうよ」
下劣な笑顔で冗談を言えば、タジマの表情が豹変する。憤怒の形相から凶悪な笑みへ、こめかみの血管も切れそうなタジマが片腕一本で俺の胸ぐらを引きずって壁際に歩いてく。
タジマに引きずられ、床に寝転んでるガキにつまずきかけた俺の視線の先にぶらさがっていたのは……手錠。手錠?なんでお誂え向きにこんな物が、ちょっと出来すぎだろ!?
背筋に悪寒が走り、タジマの手を振りほどこうとめちゃくちゃに暴れてみるが、不条理にもタジマの握力のほうが俺のそれより何倍も強かった。手首を絞り上げられる激痛に顔をしかめて苦鳴を漏らし、抵抗を緩めたその瞬間にカチリと不吉な金属音、手錠の輪が噛み合う音。
「いいんだな」
タジマの声がすぐ耳元でした。
反射的に顔を上げれば目の前にタジマの顔があった。黄ばんだ歯をむきだした、処女でも妊娠させちまいそうに好色な笑顔。性的興奮に股間を疼かせてるのが一目でわかるズボンの盛り上がり。
恐怖と生理的嫌悪に生唾を嚥下した俺に顔を近付け、タジマが念を押す。
「煮るなり焼くなり好きにしていいんだな」
……口は災いの元だ。
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