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百七十八話
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三週目。
ペア戦開始まであと一時間。
凱の子分に脅迫されてから試合当日まで、僕はなにもせず指をくわえてたわけじゃない。
思い出したくもない屈辱的な出来事、サムライに頭を下げてまで不承不承レイジとの話し合いを承諾させたはいいが肝心のレイジの説得は手に余る。正直僕はレイジが苦手だ。軽薄で尻軽で無節操で奔放で、およそ僕が最も軽蔑するタイプの人間だ。レイジの懐柔には僕は不適切、それよりはむしろレイジの最も身近にいて彼のことをよく知り抜いてるロンが適任だ。
そう判断し、食堂でロンをつかまえて耳打ちしたのが昨日。ロンもサムライとレイジの関係悪化には気を揉んでいたらしく二つ返事で快諾してくれた。なら話は簡単だ、話し合いの場にレイジを誘導するのはロンに任せて僕はサムライを連れてくればいい。
話し合いの場所に指定したのはレイジとサムライが喧嘩したあの廊下。
天井に吊られた蛍光灯が廊下に古ぼけた明かりを落としている。コンクリートむきだしの灰色の壁に凭れ、サムライは目を閉じて腕を組んでいた。瞑想に耽るような面持ちで沈黙したサムライを少し離れた場所から眺める。壁に凭れるのは服の背中が汚れるから抵抗があった。レイジはまだ来ない。不安と苛立ちとを押し殺し、落ち着きなく眼鏡の弦に触れる。どうしたのだろう、まさかすっぽかしたのではあるまいな。僕はこうして約束通りサムライを連れてきた、しかし肝心のレイジが一向に現れないのでは話にならない。まったくロンはなにをしてるんだ、昨日食堂で会った時は「任せろ」と大口叩いてたじゃないか。「絶対連れてくる。大丈夫、レイジあれで単純だから」と自信ありげに断言してたじゃないか。
ロンはレイジの説得に失敗したのではないか、やはり彼みたいな適当な人間にまかせるんじゃなかったと疑念と後悔が綯い交ぜになった複雑な感情にとらわれかけたとき。
「待たせたな!」
息せききって通路に駆け込んできたロンが、僕の顔を見て開口一番そう告げた。
「遅かったじゃないか、なにをしてたんだ」
「無茶いうな、レイジをなだめるのに手間食ったんだよ」
膝に手を置き、全力疾走で乱れた呼吸を整えながらロンが弁解する。ロンの後ろから悠々と登場したのはレイジだ。なるほど、通路に現れたレイジを見れば説得に時間がかかったのも頷ける。ポケットに手を突っ込んだふてくされたポーズといい憮然とそっぽを向いた顔といい、無敵の王様というより拗ねた子供みたいだ。ちらりと僕の方を向いたレイジがポケットから片手を抜く。
「よ、キーストア」
僕より位置が近くて、当然視界に入ってるはずのサムライは無視だった。軽く片手を挙げて僕に挨拶したレイジが、サムライと目を合わせるのを避けてるのは一目瞭然。サムライなどまるでそこにいないかのように無関心に扱って良心の呵責も罪悪感もないらしい。対するサムライもサムライで、レイジがやってきても目を開けようともしない。まるでレイジの顔など見たくないと宣言するかのように憮然と黙り込み、堅苦しく腕を組んでいる。
「おまえらなあ、いい加減にしろよ」
最初に沈黙に耐えきれなくなったのはロンだった。おなじくらい頑固なサムライとレイジをほとほとあきれたように見比べ、ぶっきらぼうに顎をしゃくる。
「あと一時間で試合始まっちまうんだぜ、とっとと握手して仲直りしちまえよ。いい年した男がいつまでもガキみたく拗ねてんじゃねーよ、大人げない」
「大人げなくて結構。こんな胸糞悪い男と手を組むくらいなら焼けたトタン屋根の上で悪魔とダンスしたほうがマシだ」
皮肉げな笑顔のレイジがポケットから手を抜こうともしない無礼な態度で吐き捨て、一気に雲行きが怪しくなる。不穏な気配が漂い始めた通路の中央、ロンの傍らに立ったレイジが先に謝罪を述べる気配はない。愚民を見下す暴君の如く傲慢な目つきに反発を覚え、無意識に一歩を踏み出した僕の背後で気配が動く。
「同感だ」
壁からゆっくりと背を起こし、腕組みをほどく。中間に僕を挟んでレイジと対峙し、目を開く。脂にぱさついた前髪の奥、近寄りがたく剣呑な印象の一重瞼の双眸には強靭な信念と拒絶の意志。
「捻挫は完治した。お前の手など借りる必要はない。話は済んだ、行くぞ鍵屋崎」
「ちょっと待て、かってに話を終了させるな!」
猛禽めいた双眸で眼光鋭くレイジを一瞥、包帯がとれた右手に木刀を掴んで背を翻したサムライを小走りに追いかける。サムライを制止しようと虚空に手を伸ばしかけ、
「こっちの台詞だよ」
憎憎しげな台詞に通路の半ばでサムライが立ち止まる。虚空に伸ばした手を引っ込め、振り向く。ロンを背に従えて廊下の真ん中に仁王立ちしたレイジがへらへら笑いながら続ける。
「おまえが仲直りしたがってるって聞いていやいや出向いてきてやったのに何だよその態度は、かわいげねえ。王様がしたてにでりゃつけあがりやがって、調子のるのも大概にしろ」
「だれがそんなことを言った?」
サムライの目つきが険悪になり、ロンが気まずげにそっぽを向く。
「……おまえの手など借りずともひとりで鍵屋崎を守る」
今一度自身の決意を確かめるように目を閉じ、また開く。木刀の柄をしっかりと握り締め、毅然と顔を上げる。サムライの声には揺るぎない信念がこめられていて、どれほど語彙を搾って言葉を尽くしても彼を翻意させるのは不可能に思えた。
頑なに説得を拒む横顔に胸かきたてられる。
何故こうも頑なにレイジを拒絶する?何故こうも頑なにひとりで戦おうとする?
サムライが強いことは知ってる、刀を握れば無敵なこともよく知ってる。だが一人で意固地に戦い続けるのはいくらなんでも無茶だ、このままではペア戦の本質を見失ってしまう。
「僕の意志はどうなる?」
これ以上傍観者の立場に徹するのに耐えきれず、サムライを詰る。
「僕の意志は無視か。僕の意見は無視か。いったい何度おなじことを言わせればわかる、レイジと手を組まなければ100人抜きなど絶対に不可能だ。きみがいくら強くても人間なら体力に限界がある、交代せず全試合に出場するなど無茶だ」
今度は右手の捻挫じゃすまないかもしれない。これからますます敵は強くなる、ひょっとしたら命に関わる重傷を負うかもしれない。サムライが怪我するのも死ぬのもいやだ、これ以上僕のせいで迷惑をかけたくない、傷ついてほしくない。
彼を痛め付けたくない。
気付いたら大股にサムライに詰め寄っていた。無言で壁際に立ち竦むサムライの眼前、俯き加減の顔は伸びた前髪に隠れてよく見えない。今彼がどんな表情を浮かべてるかは想像するしかない。叱責された子供のように悲痛な顔か、他人の意見などには惑わされない不敵な武士の面構えか……いや、おそらくは常とおなじ無表情だろう。
こんなに言ってもまだわからないのか、ここまで言わなければわからないのか。
やりきれない想いが募り、胸が痛くなる。決して届かない距離に手を伸ばし、決して聞こえない距離に声を届かせようとしてみても結局サムライの心の内に踏みこむのは不可能だ。サムライは決して自らの心の内に他人を踏みこませず弱みを見せようとしない。僕を庇って手首を痛めた時も「大丈夫だ」と額に汗を浮かべてやせ我慢して、僕を心配させないよう虚勢を張ってたじゃないか。
彼が育った環境では「弱みを見せるのは恥だ」と徹底して叩きこまれたのだろう。
だからサムライはひとりで耐えようとする、戦おうとする。それが武士として正しい姿だから、身に染みついた生き方だから。
でも、
「僕が君を頼ったように君がレイジを頼ってなにが悪いんだ!?」
通路の壁と天井に絶叫が反響した。
前髪に隠れたサムライの顔をまっすぐ睨み付ける。君はあの時言ったじゃないか。二人分の体重に軋むベッドの上で、僕の上に覆い被さるようにして、熱い涙を滴らせて。頼むから自分を頼ってくれ、今頼ってくれなければ友人でいる資格がないと。じゃあ君はどうなんだ、本当は辛いくせにひとりで無理をして全部抱え込んで平気な顔をして……
「何故君が他人を頼っちゃいけない道理がある?相互扶助の精神で社会は成立してる。これまでさんざん頼られてきたんだからもう十分だろう、そろそろ頼る側に回ったらどうだ」
何故気付かない、無理をしてる君を見るのがいちばん辛いと。
本音と建前とに齟齬が生じ、矛盾の葛藤が胸裏を苛む。サムライは黙って僕の叱責に耐えていた。野犬に情けをかけて剣先が鈍り、井戸端までひきずられて冷水を浴びせ掛けられたときもこうしてただ耐えていたのだろう。不満ひとつ漏らさず弱音ひとつ吐かず、すべては自分の至らなさが原因だと己の未熟さを噛み締めて。
「もしここに苗がいたら、」
僕の言葉を聞いてるのかいないのか、無反応に顔を伏せたサムライを見てるうちに無性にやりきれなくなり、名伏しがたい衝動が突き上げてくる。苗、過去にサムライが愛した女性。いつもサムライの隣にいた女性、周囲の人間への甘えが禁じられた環境でただひとりサムライに優しく接してくれた女性。
僕の言葉はサムライに届かないのか?
苗のようには、サムライの心を溶かすことができないのか?
サムライの心の内に入れるのは結局のところ苗だけで、後にも先にもそれは変わらなくて、僕は永遠に部外者で。
苗がそうしたようには、サムライを安心させることも助けることもできなくて。
「……もしここに苗がいたら哀しむ。きみが無茶をして自分を痛め付けることを苗は望まない」
無意味な仮定だ。苗はもういないのだから。
だが言わずにはいられなかった、幼い頃からずっとサムライを見てきた苗なら僕とおなじように、いや、僕以上にサムライを心配したはずだ。苗なら頑なな心をときほぐすことができただろうか、もう無茶をしなくていいと、辛いときは無理せず人を頼ればいいと優しく教え諭すことができただろうか。
生憎僕は苗ほど優しくない。だからこうして、血を吐くようにサムライを詰るしかない。
沈黙の帳が落ちた通路で、ロンは固唾を飲み、レイジは醒めた目でこちらの様子を窺っていた。
やがてサムライが緩慢な動作で顔を起こす。
烏の濡れ羽色の前髪が揺れ、涼やかに額を流れ、その隙間から覗いたのは透徹した眼差し。
「鍵屋崎。苗はもういないんだ」
庭の桜はもう咲かない、とでもいうかのような淡々とした口ぶりだった。
「俺が殺したも同然だ。苗を追い詰めたのは俺だ。俺とおなじ重荷を背負わせたから苗は……、」
「……どういうことだ?」
自分とおなじ重荷を負わせたとはどういう意味だ?困惑した僕に鋭い一瞥をくれ、サムライが歩き出す。地下停留場へと続く出入り口に歩を向けたサムライを追いかけた視界に長身が割って入る。
「なるほどね。わかったよ」
サムライのすぐ背後に歩み出たレイジがしたり顔で頷き、サムライが怪訝そうに振り向く。
「なにがわかったのだ?」
「単純なことさ」
性悪な笑みを顔一杯に広げ、レイジが言う。
「鍵屋崎は死んだ女の代わりだろ?」
………な、
「何を言ってるんだ?」
理解できない。何故僕が苗の代わりなんだ?当惑した僕をよそに、廊下の真ん中でサムライと相対したレイジはにこやかな笑みを絶やさず続ける。
「むかし惚れた女を守り通せなかったから今度こそ鍵屋崎を守り通すってか?ようやくわかったよ、なんでお前がそこまで一人で戦うことにこだわるのか。お前にとっちゃひとりで鍵屋崎を守り通せてこそ意味があるんだよな、自分が守り通せなかった女の代わりに今度こそ助けてやるって、そしたら昔の女も許してくれるんじゃねーかって。けっ、過去と現実混ぜるのもいい加減に……」
渾身の拳はレイジの顔面に達する寸前に食いとめられた。
素早く眼前に手を翳して拳を受けとめたレイジが、サムライの顔を見上げてにやりと笑う。
「図星?」
「………お前になにがわかる」
唇から搾り出された声は、これがあの冷静沈着な男かと疑わせる瘴気に隈取られていた。
乱れた前髪の隙間から覗くのは、憤怒と憎悪とが激しく燃え盛る坩堝の双眸。
「偉そうに俺を語るな。踏みこんでくるな」
「おっかねえなあ、目の色変えちまって。そんなに好きだったんだ?じゃあ残念だったな、好きな女をむざむざ死なせちまった自分の無力を死ぬほど呪ったろ。おなじ間違いはしたくないよなあ」
「黙れ」
レイジは黙らず、この上なく楽しそうな笑顔で続ける。
膿んだ傷口を抉るのが楽しくて楽しくてしょうがないという暗い愉悦に酔った笑顔に、僕の中の何かが蠢く。
「いつもかっこつけてるサムライにそんな過去があったとはね、王様の耳がロバの耳でも届かない秘密はあるってか。いつまでたっても過去の女ふっきれないなんて意外と情けねえなサムライも、まあ童貞捨てさせてもらった相手ならわかるけど死んだ女に操立てても仕方ないじゃん。もし鍵屋崎守り通して惚れた女死なせた罪償おうってんなら虫がよすぎ……、」
「レイジ」
「あ?」
迂闊に振り向いたレイジの横っ面を、おもいきり殴りつける。
レイジの足がもつれ、床に尻餅をつく。
床に尻を落としたレイジがぽかんとして僕を見上げ、全員の視線が僕へと集中する。ロンの顔は驚きに強張り、サムライは目を見開いていた。胸の内側で沸騰する感情をおさえこむように目を閉じて深呼吸し、拳をおろす。
「貴様には反吐がでる。行くぞサムライ、こんな男に謝る必要はない」
膝を崩して床にうずくまったレイジが、茫然自失の体で腫れた頬を押さえ、傍らを足早に通りぬける僕を見送る。おもいきり殴ったせいで手がひりひりした。背後から不意を衝かなければレイジの顔面に拳を決めることは到底不可能だった。甲高い靴音を響かせて出入り口へと赴く途中、通路に取り残されたレイジが何か喚いてるのが聞こえてくる。
「痛っ……おい待てよキーストア!ひとの顔おもいきり殴りやがって、男前が台無しになったらどう責任とってくれんだよ!?娑婆で俺の顔見る日を待ち望んでる世界中の女が泣くだろっ」
くだらない。
レイジの罵倒に背を向けて通路を出る。まだ腹立ちはおさまらない。どうしてもあれ以上レイジの暴言に我慢できなかった、サムライが唇を噛み締めて耐えていたからなおさら。苗のことをなにも知らないレイジに、苗とサムライの間にあったことを何も知らないレイジにしたり顔で口だしする権利などありはしない。サムライを侮辱するだけならまだしも、苗まで侮辱するのは許さない。それはたぶん僕自身を侮辱されるより恵を侮辱されるほうが何倍もつらいのとおなじことで、苗はサムライにとって決して汚したくない思い出、他人に土足で踏み込まれたくない聖域なのだ。
サムライと苗を笑いながら侮辱するような男に、こちらから頭を下げる義理などない。
「……すまん」
その声で我に返る。
僕の傍らで、サムライが木刀を片手に悄然と立ち竦んでいた。
「なぜ謝るんだ。自分に恥じることをしてないなら謝るんじゃない」
眉をひそめてサムライを叱責し、眩い照明を上部に取り付けられ、着々と組み立てられつつあるリングを見つめる。
大丈夫だ。
レイジの協力が期待できなくてもサムライには僕がいる。戦力面では足しにならないが戦略面でこの天才的頭脳を存分に発揮すればサムライを補佐して試合を有利に進めることもできるはずだ。
今からサムライの相棒は、この僕だ。
「サムライ、君一人の力で今日の試合に勝ってレイジを見返してやれ。不可能を可能にするのが天才が天才たる所以だ、僕が加勢して負けるわけがない」
そうだ、もっと早く気付くべきだった。サムライにはこの僕がついてるんだ、東京プリズン最高の頭脳の持ち主が背後に控えてるんだ。
この鍵屋崎直が全幅の信頼を寄せる男が、リングでみじめに惨敗するわけがない。
「しかと心得た」
視界中央、四方から強烈な照明を浴びて晧晧と輝くリングに目を細めたサムライが力強く首肯した。
単身戦いに挑む決意を新たにした、孤高の武士の顔で。
ペア戦開始まであと一時間。
凱の子分に脅迫されてから試合当日まで、僕はなにもせず指をくわえてたわけじゃない。
思い出したくもない屈辱的な出来事、サムライに頭を下げてまで不承不承レイジとの話し合いを承諾させたはいいが肝心のレイジの説得は手に余る。正直僕はレイジが苦手だ。軽薄で尻軽で無節操で奔放で、およそ僕が最も軽蔑するタイプの人間だ。レイジの懐柔には僕は不適切、それよりはむしろレイジの最も身近にいて彼のことをよく知り抜いてるロンが適任だ。
そう判断し、食堂でロンをつかまえて耳打ちしたのが昨日。ロンもサムライとレイジの関係悪化には気を揉んでいたらしく二つ返事で快諾してくれた。なら話は簡単だ、話し合いの場にレイジを誘導するのはロンに任せて僕はサムライを連れてくればいい。
話し合いの場所に指定したのはレイジとサムライが喧嘩したあの廊下。
天井に吊られた蛍光灯が廊下に古ぼけた明かりを落としている。コンクリートむきだしの灰色の壁に凭れ、サムライは目を閉じて腕を組んでいた。瞑想に耽るような面持ちで沈黙したサムライを少し離れた場所から眺める。壁に凭れるのは服の背中が汚れるから抵抗があった。レイジはまだ来ない。不安と苛立ちとを押し殺し、落ち着きなく眼鏡の弦に触れる。どうしたのだろう、まさかすっぽかしたのではあるまいな。僕はこうして約束通りサムライを連れてきた、しかし肝心のレイジが一向に現れないのでは話にならない。まったくロンはなにをしてるんだ、昨日食堂で会った時は「任せろ」と大口叩いてたじゃないか。「絶対連れてくる。大丈夫、レイジあれで単純だから」と自信ありげに断言してたじゃないか。
ロンはレイジの説得に失敗したのではないか、やはり彼みたいな適当な人間にまかせるんじゃなかったと疑念と後悔が綯い交ぜになった複雑な感情にとらわれかけたとき。
「待たせたな!」
息せききって通路に駆け込んできたロンが、僕の顔を見て開口一番そう告げた。
「遅かったじゃないか、なにをしてたんだ」
「無茶いうな、レイジをなだめるのに手間食ったんだよ」
膝に手を置き、全力疾走で乱れた呼吸を整えながらロンが弁解する。ロンの後ろから悠々と登場したのはレイジだ。なるほど、通路に現れたレイジを見れば説得に時間がかかったのも頷ける。ポケットに手を突っ込んだふてくされたポーズといい憮然とそっぽを向いた顔といい、無敵の王様というより拗ねた子供みたいだ。ちらりと僕の方を向いたレイジがポケットから片手を抜く。
「よ、キーストア」
僕より位置が近くて、当然視界に入ってるはずのサムライは無視だった。軽く片手を挙げて僕に挨拶したレイジが、サムライと目を合わせるのを避けてるのは一目瞭然。サムライなどまるでそこにいないかのように無関心に扱って良心の呵責も罪悪感もないらしい。対するサムライもサムライで、レイジがやってきても目を開けようともしない。まるでレイジの顔など見たくないと宣言するかのように憮然と黙り込み、堅苦しく腕を組んでいる。
「おまえらなあ、いい加減にしろよ」
最初に沈黙に耐えきれなくなったのはロンだった。おなじくらい頑固なサムライとレイジをほとほとあきれたように見比べ、ぶっきらぼうに顎をしゃくる。
「あと一時間で試合始まっちまうんだぜ、とっとと握手して仲直りしちまえよ。いい年した男がいつまでもガキみたく拗ねてんじゃねーよ、大人げない」
「大人げなくて結構。こんな胸糞悪い男と手を組むくらいなら焼けたトタン屋根の上で悪魔とダンスしたほうがマシだ」
皮肉げな笑顔のレイジがポケットから手を抜こうともしない無礼な態度で吐き捨て、一気に雲行きが怪しくなる。不穏な気配が漂い始めた通路の中央、ロンの傍らに立ったレイジが先に謝罪を述べる気配はない。愚民を見下す暴君の如く傲慢な目つきに反発を覚え、無意識に一歩を踏み出した僕の背後で気配が動く。
「同感だ」
壁からゆっくりと背を起こし、腕組みをほどく。中間に僕を挟んでレイジと対峙し、目を開く。脂にぱさついた前髪の奥、近寄りがたく剣呑な印象の一重瞼の双眸には強靭な信念と拒絶の意志。
「捻挫は完治した。お前の手など借りる必要はない。話は済んだ、行くぞ鍵屋崎」
「ちょっと待て、かってに話を終了させるな!」
猛禽めいた双眸で眼光鋭くレイジを一瞥、包帯がとれた右手に木刀を掴んで背を翻したサムライを小走りに追いかける。サムライを制止しようと虚空に手を伸ばしかけ、
「こっちの台詞だよ」
憎憎しげな台詞に通路の半ばでサムライが立ち止まる。虚空に伸ばした手を引っ込め、振り向く。ロンを背に従えて廊下の真ん中に仁王立ちしたレイジがへらへら笑いながら続ける。
「おまえが仲直りしたがってるって聞いていやいや出向いてきてやったのに何だよその態度は、かわいげねえ。王様がしたてにでりゃつけあがりやがって、調子のるのも大概にしろ」
「だれがそんなことを言った?」
サムライの目つきが険悪になり、ロンが気まずげにそっぽを向く。
「……おまえの手など借りずともひとりで鍵屋崎を守る」
今一度自身の決意を確かめるように目を閉じ、また開く。木刀の柄をしっかりと握り締め、毅然と顔を上げる。サムライの声には揺るぎない信念がこめられていて、どれほど語彙を搾って言葉を尽くしても彼を翻意させるのは不可能に思えた。
頑なに説得を拒む横顔に胸かきたてられる。
何故こうも頑なにレイジを拒絶する?何故こうも頑なにひとりで戦おうとする?
サムライが強いことは知ってる、刀を握れば無敵なこともよく知ってる。だが一人で意固地に戦い続けるのはいくらなんでも無茶だ、このままではペア戦の本質を見失ってしまう。
「僕の意志はどうなる?」
これ以上傍観者の立場に徹するのに耐えきれず、サムライを詰る。
「僕の意志は無視か。僕の意見は無視か。いったい何度おなじことを言わせればわかる、レイジと手を組まなければ100人抜きなど絶対に不可能だ。きみがいくら強くても人間なら体力に限界がある、交代せず全試合に出場するなど無茶だ」
今度は右手の捻挫じゃすまないかもしれない。これからますます敵は強くなる、ひょっとしたら命に関わる重傷を負うかもしれない。サムライが怪我するのも死ぬのもいやだ、これ以上僕のせいで迷惑をかけたくない、傷ついてほしくない。
彼を痛め付けたくない。
気付いたら大股にサムライに詰め寄っていた。無言で壁際に立ち竦むサムライの眼前、俯き加減の顔は伸びた前髪に隠れてよく見えない。今彼がどんな表情を浮かべてるかは想像するしかない。叱責された子供のように悲痛な顔か、他人の意見などには惑わされない不敵な武士の面構えか……いや、おそらくは常とおなじ無表情だろう。
こんなに言ってもまだわからないのか、ここまで言わなければわからないのか。
やりきれない想いが募り、胸が痛くなる。決して届かない距離に手を伸ばし、決して聞こえない距離に声を届かせようとしてみても結局サムライの心の内に踏みこむのは不可能だ。サムライは決して自らの心の内に他人を踏みこませず弱みを見せようとしない。僕を庇って手首を痛めた時も「大丈夫だ」と額に汗を浮かべてやせ我慢して、僕を心配させないよう虚勢を張ってたじゃないか。
彼が育った環境では「弱みを見せるのは恥だ」と徹底して叩きこまれたのだろう。
だからサムライはひとりで耐えようとする、戦おうとする。それが武士として正しい姿だから、身に染みついた生き方だから。
でも、
「僕が君を頼ったように君がレイジを頼ってなにが悪いんだ!?」
通路の壁と天井に絶叫が反響した。
前髪に隠れたサムライの顔をまっすぐ睨み付ける。君はあの時言ったじゃないか。二人分の体重に軋むベッドの上で、僕の上に覆い被さるようにして、熱い涙を滴らせて。頼むから自分を頼ってくれ、今頼ってくれなければ友人でいる資格がないと。じゃあ君はどうなんだ、本当は辛いくせにひとりで無理をして全部抱え込んで平気な顔をして……
「何故君が他人を頼っちゃいけない道理がある?相互扶助の精神で社会は成立してる。これまでさんざん頼られてきたんだからもう十分だろう、そろそろ頼る側に回ったらどうだ」
何故気付かない、無理をしてる君を見るのがいちばん辛いと。
本音と建前とに齟齬が生じ、矛盾の葛藤が胸裏を苛む。サムライは黙って僕の叱責に耐えていた。野犬に情けをかけて剣先が鈍り、井戸端までひきずられて冷水を浴びせ掛けられたときもこうしてただ耐えていたのだろう。不満ひとつ漏らさず弱音ひとつ吐かず、すべては自分の至らなさが原因だと己の未熟さを噛み締めて。
「もしここに苗がいたら、」
僕の言葉を聞いてるのかいないのか、無反応に顔を伏せたサムライを見てるうちに無性にやりきれなくなり、名伏しがたい衝動が突き上げてくる。苗、過去にサムライが愛した女性。いつもサムライの隣にいた女性、周囲の人間への甘えが禁じられた環境でただひとりサムライに優しく接してくれた女性。
僕の言葉はサムライに届かないのか?
苗のようには、サムライの心を溶かすことができないのか?
サムライの心の内に入れるのは結局のところ苗だけで、後にも先にもそれは変わらなくて、僕は永遠に部外者で。
苗がそうしたようには、サムライを安心させることも助けることもできなくて。
「……もしここに苗がいたら哀しむ。きみが無茶をして自分を痛め付けることを苗は望まない」
無意味な仮定だ。苗はもういないのだから。
だが言わずにはいられなかった、幼い頃からずっとサムライを見てきた苗なら僕とおなじように、いや、僕以上にサムライを心配したはずだ。苗なら頑なな心をときほぐすことができただろうか、もう無茶をしなくていいと、辛いときは無理せず人を頼ればいいと優しく教え諭すことができただろうか。
生憎僕は苗ほど優しくない。だからこうして、血を吐くようにサムライを詰るしかない。
沈黙の帳が落ちた通路で、ロンは固唾を飲み、レイジは醒めた目でこちらの様子を窺っていた。
やがてサムライが緩慢な動作で顔を起こす。
烏の濡れ羽色の前髪が揺れ、涼やかに額を流れ、その隙間から覗いたのは透徹した眼差し。
「鍵屋崎。苗はもういないんだ」
庭の桜はもう咲かない、とでもいうかのような淡々とした口ぶりだった。
「俺が殺したも同然だ。苗を追い詰めたのは俺だ。俺とおなじ重荷を背負わせたから苗は……、」
「……どういうことだ?」
自分とおなじ重荷を負わせたとはどういう意味だ?困惑した僕に鋭い一瞥をくれ、サムライが歩き出す。地下停留場へと続く出入り口に歩を向けたサムライを追いかけた視界に長身が割って入る。
「なるほどね。わかったよ」
サムライのすぐ背後に歩み出たレイジがしたり顔で頷き、サムライが怪訝そうに振り向く。
「なにがわかったのだ?」
「単純なことさ」
性悪な笑みを顔一杯に広げ、レイジが言う。
「鍵屋崎は死んだ女の代わりだろ?」
………な、
「何を言ってるんだ?」
理解できない。何故僕が苗の代わりなんだ?当惑した僕をよそに、廊下の真ん中でサムライと相対したレイジはにこやかな笑みを絶やさず続ける。
「むかし惚れた女を守り通せなかったから今度こそ鍵屋崎を守り通すってか?ようやくわかったよ、なんでお前がそこまで一人で戦うことにこだわるのか。お前にとっちゃひとりで鍵屋崎を守り通せてこそ意味があるんだよな、自分が守り通せなかった女の代わりに今度こそ助けてやるって、そしたら昔の女も許してくれるんじゃねーかって。けっ、過去と現実混ぜるのもいい加減に……」
渾身の拳はレイジの顔面に達する寸前に食いとめられた。
素早く眼前に手を翳して拳を受けとめたレイジが、サムライの顔を見上げてにやりと笑う。
「図星?」
「………お前になにがわかる」
唇から搾り出された声は、これがあの冷静沈着な男かと疑わせる瘴気に隈取られていた。
乱れた前髪の隙間から覗くのは、憤怒と憎悪とが激しく燃え盛る坩堝の双眸。
「偉そうに俺を語るな。踏みこんでくるな」
「おっかねえなあ、目の色変えちまって。そんなに好きだったんだ?じゃあ残念だったな、好きな女をむざむざ死なせちまった自分の無力を死ぬほど呪ったろ。おなじ間違いはしたくないよなあ」
「黙れ」
レイジは黙らず、この上なく楽しそうな笑顔で続ける。
膿んだ傷口を抉るのが楽しくて楽しくてしょうがないという暗い愉悦に酔った笑顔に、僕の中の何かが蠢く。
「いつもかっこつけてるサムライにそんな過去があったとはね、王様の耳がロバの耳でも届かない秘密はあるってか。いつまでたっても過去の女ふっきれないなんて意外と情けねえなサムライも、まあ童貞捨てさせてもらった相手ならわかるけど死んだ女に操立てても仕方ないじゃん。もし鍵屋崎守り通して惚れた女死なせた罪償おうってんなら虫がよすぎ……、」
「レイジ」
「あ?」
迂闊に振り向いたレイジの横っ面を、おもいきり殴りつける。
レイジの足がもつれ、床に尻餅をつく。
床に尻を落としたレイジがぽかんとして僕を見上げ、全員の視線が僕へと集中する。ロンの顔は驚きに強張り、サムライは目を見開いていた。胸の内側で沸騰する感情をおさえこむように目を閉じて深呼吸し、拳をおろす。
「貴様には反吐がでる。行くぞサムライ、こんな男に謝る必要はない」
膝を崩して床にうずくまったレイジが、茫然自失の体で腫れた頬を押さえ、傍らを足早に通りぬける僕を見送る。おもいきり殴ったせいで手がひりひりした。背後から不意を衝かなければレイジの顔面に拳を決めることは到底不可能だった。甲高い靴音を響かせて出入り口へと赴く途中、通路に取り残されたレイジが何か喚いてるのが聞こえてくる。
「痛っ……おい待てよキーストア!ひとの顔おもいきり殴りやがって、男前が台無しになったらどう責任とってくれんだよ!?娑婆で俺の顔見る日を待ち望んでる世界中の女が泣くだろっ」
くだらない。
レイジの罵倒に背を向けて通路を出る。まだ腹立ちはおさまらない。どうしてもあれ以上レイジの暴言に我慢できなかった、サムライが唇を噛み締めて耐えていたからなおさら。苗のことをなにも知らないレイジに、苗とサムライの間にあったことを何も知らないレイジにしたり顔で口だしする権利などありはしない。サムライを侮辱するだけならまだしも、苗まで侮辱するのは許さない。それはたぶん僕自身を侮辱されるより恵を侮辱されるほうが何倍もつらいのとおなじことで、苗はサムライにとって決して汚したくない思い出、他人に土足で踏み込まれたくない聖域なのだ。
サムライと苗を笑いながら侮辱するような男に、こちらから頭を下げる義理などない。
「……すまん」
その声で我に返る。
僕の傍らで、サムライが木刀を片手に悄然と立ち竦んでいた。
「なぜ謝るんだ。自分に恥じることをしてないなら謝るんじゃない」
眉をひそめてサムライを叱責し、眩い照明を上部に取り付けられ、着々と組み立てられつつあるリングを見つめる。
大丈夫だ。
レイジの協力が期待できなくてもサムライには僕がいる。戦力面では足しにならないが戦略面でこの天才的頭脳を存分に発揮すればサムライを補佐して試合を有利に進めることもできるはずだ。
今からサムライの相棒は、この僕だ。
「サムライ、君一人の力で今日の試合に勝ってレイジを見返してやれ。不可能を可能にするのが天才が天才たる所以だ、僕が加勢して負けるわけがない」
そうだ、もっと早く気付くべきだった。サムライにはこの僕がついてるんだ、東京プリズン最高の頭脳の持ち主が背後に控えてるんだ。
この鍵屋崎直が全幅の信頼を寄せる男が、リングでみじめに惨敗するわけがない。
「しかと心得た」
視界中央、四方から強烈な照明を浴びて晧晧と輝くリングに目を細めたサムライが力強く首肯した。
単身戦いに挑む決意を新たにした、孤高の武士の顔で。
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