少年プリズン

まさみ

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百七十六話

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 ひどい顔だ。
 鏡に映る顔に眉をひそめる。頬の腫れはまだひかない、マオにしつこくぶたれたせいだ。あの野郎ひとがおとなしくしてたらつけあがりやがって、と心の中で毒づき蛇口を捻る。
 とりあえず冷やすのが先決だ。わざわざ怪我診てもらいに医務室に行くのは面倒くさい。それにこの程度の怪我東京プリズンじゃ怪我のうちに入らない、のこのこ医務室に行ったら白い目で見られる。
 廊下を歩いてて因縁ふっかけられるのには慣れっこだ。凱は俺のことを目の敵にしてるし、凱の子分だって俺にたびたびちょっかいかけてくる。
 廊下で足ひっかけられたり食堂で肘ぶつけらたりは日常茶飯事で、いくら俺が短気で喧嘩っ早いとはいえこの一年と半年でだいぶ自制心と忍耐力が培われた。
 凱のいやがらせをいちいち真に受けてちゃきりがない。実際中国系が大多数を占める東棟で、最大派閥のボスに逆らうのは命を捨てるも同然だ。しかも毎回大人数で絡んできやがって、堪忍袋の緒がぶちぎれた俺がとびかかっていこうが返り討ちにあうのは明らか。
 凱やその取り巻き連中に囲まれるたびに喧嘩してたら体が保たないのが現状だ。
 本音を言や、そりゃぶちのめしたい。凱やその取り巻き連中、ついさっき連続十回も平手打ち食らわせたマオとそれを笑いながら見ていたユエをおもいきりぶちのめしたい。そんな気分爽快な体験をしてみたいもんだが、それこそ自分から凱を敵に回すようなもんだ。
 いちばん賢いのは無視、無視、とにかく無視あるのみ。
 「………なっさけねえ」
 じっと鏡を凝視し、頬が真っ赤に腫れた間抜けヅラに苦く呟く。どんなにそれらしい御託を並べようが負け犬の遠吠えでただの強がりにしか聞こえないのはやっぱり凱が怖いからだ。タジマに対して感じるのとはまた別の恐怖と脅威。嫌われるのも殴られるのも慣れてる、東京プリズンに来る前だって俺を取り巻く境遇に変化はなかった。池袋のチームにいたころだって俺はのけ者だったし、もっと過去に遡れば近所のガキどもの遊びに混ぜてもらえなかった記憶がある。

 『こっちくるなよ半半』
 『母ちゃんが言ってたぜ、おまえの母ちゃんはインバイだって』
 『父ちゃんは中国人で、お前と母ちゃんおいて出てちまったろくでもないオトコだって』
 『中国人は中国人と遊べよ』
 『台湾人の陣地に入ってくるなよなー』 

 台湾人でもあり、中国人でもあり、そのどちらでもない俺にとってはどこも針のむしろだった。ガキの頃は石投げられてはやしたてられたらすぐカッとして殴りかかってたけど、殴られたら殴り返し蹴られたら蹴り返し、最後は決まってボロボロになるのをくりかえしてるうちにだんだん阿呆らしくなってきた。
 上等だ、くだらない連中のご機嫌とりしてお情けで仲間にいれもらうくらいなら潔くひとりを選ぶ。
 だいたい俺は一緒に遊ぶダチいなくてべそべそ泣くようなしみったれた感傷は持ち合わせちゃない。理不尽さに腹は立つが、まあこんなもんだろうとガキの時分からなげやりになってた。
 現状凱にびびってると認めるのは癪だが、事実なんだから仕方ない。
 レイジは凱より強く、凱は俺より強い。東京プリズンではなにより「強さ」が物を言う。強けりゃ他を圧倒できる、強ければ生き残れる、強ければ皆の尊敬と畏怖を集める。弱者は絶対に強者に逆らえず、強者には弱者を虐げる権利が与えられてる。ここだけの話、凱や凱の取り巻き連中にいやがらせされるたび想像の中で鬱憤を晴らしてきた。我ながら消極的なストレス発散法だとおもうが、頭の中で考えてることを実践したら俺は確実に殺される。顔の形がわからなくなるまで殴る蹴るされ唾と痰を吐きかけられ、「あばよ半半」と凱に嘲笑されるに決まってる。
 「……ぶん殴りてーなあ、おもいっっっきり」
 正直な願望を口にし、水にぬらした手を頬にあてがう。ひんやりして気持ちいい。
 あの凱を、東棟最大の中国系派閥のボスで食堂の中央席を我が物顔で陣取って威張り散らしてる猿山のボスを子分三百人の眼前で殴り飛ばしてやったらスカッとするだろうに。できもしない想像を膨らませて偽りの爽快感に酔ってるさなか、背後で扉が開く音で現実に引き戻される。
 慌てて蛇口を締め、そそくさと手を下ろす。鏡にレイジが映ってた。自由時間を利用して図書室に行ってきたらしく、小脇に本を抱えている。
 「ったく、ヨンイルのやろう頭くるぜ!」
 憤然と歩み入ったレイジの背後で扉が閉じる。自分のベッドに腰を下ろし、傍らに本を投げて不満をぶちまける。
 「なんで俺が読んでる漫画の結末ばらすんだよ、ジョーが真っ白に燃え尽きるなんて序盤でバラすなよ!なんだよ力石死ぬってそんなのアリかよ、あーもうマジで腹立つ!!図書室で目につく所にネタバレ厳禁の貼り紙してネタバレ一回につき一週間図書室出入り禁止の罰とか……」
 「大人げねえ」
 察するに、俺とおなじ被害にあったんだろう。言ってることにゃ同感だが、東京プリズン最強と恐れられる東棟の王様が「俺のジョーを返せ、力石を返せ!」と駄々こねるガキみたいに喚いてるのはかなりみっともない。王様の威厳大暴落だ……まあ最初からそんなもんなかったという説もあるが。
 ないもんが落ちようないか、とひとり勝手に納得して自分のベッドに取って返せば背中に視線を感じる。なんだと思って振り向けばベッドにひっくり返ったレイジが何か言いたげにじっとこっちを見てた。 
 「なんだよ」
 じろじろ見られるのは落ち着かない。言いたいことあんならはっきり言いやがれ、野郎同士目と目で通じ合っても気色悪いだけだ。喧嘩腰で睨みつければ、反動をつけて起きあがったレイジがすたすたとこっちにやってくる。
 ちょうど俺の正面にしゃがみこんだレイジが上目遣いに表情を探ってくる。やばい。レイジに覗きこまれるのを避けて意識的に顔を背ければ、俺が顔をそらした方角に素早く回りこむ。
 気配も感じさせずに移動するなんてゴキブリみたいなやつだ。
 「やっぱり」
 心配そうに顔を曇らせ、レイジが呟く。
 「飯食ってるとき、ずっとそっぽむいてたから『俺なんかやったかな』ってひやひやしてたけど……どうしたんだよその顔」
 舌打ち。気付かれちまったか。
 俺に関することだけ察しが良いレイジをごまかし通すのが無理な話だったのだ。食事中ずっとそっぽ向いてた努力がこれで水の泡だ。自分じゃそれなりに上手くいったと満足してた芝居をはなから見ぬかれてたばつの悪さに不機嫌に黙りこくれば、表情に険を漂わせたレイジがずいと身を乗り出してくる。
 「言えよ」
 吐息のかかる距離にレイジの顔があるのが鬱陶しくて、手で払いながら言い訳する。
 「べつに、いつものことだよ。ちょっとそのへん歩いてたら凱の子分にとっつかまって何発か食らったんだ。騒ぐほどの怪我じゃねえ、冷やしときゃ治る」
 嘘はついてない。まあ、だいぶ省略してるが。残虐兄弟に脅されたことは伏せて簡単に説明すれば、表情が漂白されたレイジの顔に薄らと笑みが漂う。
 背筋がぞっとするような酷薄な笑み。
 「そっか、じゃあ殺してくる」
 「は?」
 聞き違いで片付けたかった。だがレイジの目はひどく真剣で、口元は笑ってるのに目が笑ってない笑顔に壮絶な違和感を感じる。
 「前に言ったよな?俺の目のつかないところでお前が痛めつけられるぶんには手だしできねえしどうしようもねって。前言撤回。俺の目のつかないところで殴られて帰ってきたお前が顔腫らしてるの放っとけるか、たとえるならそう、俺がたのしみにとっといた最後の一本のタバコ横取りされたようですっげえ不愉快」
 「どんなたとえだよ。てか俺タバコかよ、一緒にいんの煙たいのかよ」
 「バカちげーよ、理解力ねえな。タバコってのは最高の誉め言葉だよ、吸えば吸うほど癖になってやめられない手放せない……」
 「吸われたことなんかねえよ!変な想像させんな、鳥肌たっちまったじゃねえか!」
 「いや吸ったことあるよ。おまえがぐっすり寝てて気付かなかっただけでさ、ほら、こないだ気付かなかった?目が覚めたら首筋にキスマークが……うおっと」
 「!!この……っ、」
 おもいきり心当たりがある。どうりで寝苦しかったわけだ、朝起きて鏡を見れば首筋がちょっと赤くなってて、その時はとくに不自然に思わず蚊に食われたかと流したのに……いや、気付け俺。今は冬、いくら四季が関係ない砂漠でも蚊がいるわきゃない。
 寝こみ襲われて気付かないなんてさすがに鈍感すぎる。せめて首の痣見た時点でなにされたか気付けよ、と数日前の俺を罵る。
 頭に血が上ってレイジを殴り飛ばそうとしたが、こぶしの軌道を読んだが如く余裕でかわされてしまう。こぶしがはでに空振りした反動でバランスを崩す。ベッドから半分ほど腰がずり落ちたところですかさずにレイジに抱きとめられる。
 何か根本的に違う、納得できねえ。レイジがよけたせいでひっくり返り、レイジに助けられる理不尽が。
 「俺が知らないところでお前がヤられたら仕方ねえって、あれ嘘。お前の顔傷つけたやつ許せるか、一列に並ばせてお尻ぺんぺんしてこなきゃ気がすまねえ。あーもうマジで腹が立つ、なんで俺の許可なく怪我して帰ってくんだよお前は!?」
 言いながら興奮してきたらしく、苛立たしげに喚き散らすレイジはお気に入りのおもちゃを横取りされて頭にきてるガキみたいだ。しかも手元に戻ってきたおもちゃには傷がついてるときた。自分が知らないところで俺が怪我したのがよっぽど気に入らないらしく憤懣をぶちまける。
 「いいか、命令だ。俺の許可なく顔に傷つけるんじゃねえ」
 「ふざけんな、お前の命令なんか聞くか。だいたい顔に怪我したからって嫁入り前の女じゃあるまいし騒ぐほどのもんかよ、おまえくらいキレイな顔してりゃ別かもしんねーけど」
 「おまえも可愛いよ!!」
 逆ギレかよ。しかも男が男に「可愛い」とかしょっぱすぎな状況だなおい。
 「だいたい顔に怪我なんかしたらキスするとき真っ先に目にとびこんでくるじゃん、いや最悪『今口の中切れててキスが染みる』とか拒否られるかもしんねーじゃん!口の中切れてるから舌突っ込むな唾液飲ませるなで俺はいつまでたってもおまえとキスできねっ、」
 「キスキスキスキスうるせーよ、今までさんざん女とやってきたんだからいいじゃんか羨ましい!!俺なんかメイファとやったのが最初で最後でこのまま東京プリズン出れなかったら女の唇の感触忘れて最後に見た女の裸も想像できなくなってヌこうにもヌけなくなるんだぜ!?メイファ抱いた感触右手におもいだして励もうにももう一年半もむかしだし女の裸とかアソコとか毛の生え具合とか忘れちまっ……」
 まてまてまてまて落ち着け俺、ヌこうにもヌけないとか今そんなことどうでもいい、論点がずれてるだろ。そのうち頭が混乱して自分がなに言ってんだかわからなくなる。羞恥に赤面し、とてつもない自己嫌悪に襲われて頭を抱え込めばふと頭上に影がさす。
 おもむろに立ち上がったレイジが、顔の皮膚と一体化した笑みを浮かべ、口を開く。
 「殴ったやつ教えろよ。王様がお仕置きしてやる」
 おだやかに諭すような声音とは裏腹に、笑顔の仮面の奥に混沌と渦巻く狂気と殺意。口調はやさしいのに有無を言わせぬ強制力を秘めた言葉ひとつひとつが暗示のように作用して内耳に響く。
 
 『東京プリズンで生き残るにゃ王様にすりよるのがいちばんだ』
 『いじめられりゃ王様が仇とってくれる』

 二重の哄笑が内耳で渦巻き、悪魔の誘惑を突っぱねようとはげしくかぶりを振る。
 腰に手を置いた尊大なポーズで立ってるあいだもレイジは寛大に微笑んでいた。凱なんか到底及ばない格の違いと自信とが内から滲み出す笑みに、俺の胸に反発が湧き上がる。
 「―余計なことすんな」
 ベッドを軋ませ、荒荒しく立ちあがる。手を伸ばせば届く距離にいたレイジの胸ぐらを掴み、自分の方へと引き寄せる。レイジは抵抗することなく俺にされるがままになっていた。余裕の表れだろうか、気に食わねえ。胸に燻る反感が見せた錯覚かもしれないが、レイジの笑顔には俺を無性に苛立たせるざらりとした不快感が見え隠れするのだ。
 胸ぐらを掴む手に力をこめ、まっすぐにレイジの目を覗きこむ。
 「自分のケツは自分で拭くのが俺の流儀だ、他人にケツ拭かせて『ご苦労だった』言えるようになったら人間おしまいだ。弱くて腰抜けの俺の代わりに仇とってくれてありがとうなんて死んでも言うか、関係ないやつがしゃしゃりでてくんな。殴られて怪我したのはお前か?ちがう。口ん中切ったのは?ちがう、全部俺だ。痛いのも腹立てたのも仕返しするのも全部俺、俺じゃなきゃだめなんだよ」
 凱やその取り巻き連中だけどんだけ汚い手を使おうが知ったことか、レイジに泣きつくぐらいなら俺一人で仕返しにいってボコボコにされたほうがマシだ、まだ自分に誇れる。
 たしかに俺は弱い。レイジとも凱とも比較にならないくらい弱い。弱くて弱くて、なんで俺はこんなに弱いんだろうと自己嫌悪に押し潰されて眠れない夜もある。
 それなりに場数を踏んでそこそこ喧嘩が強くなっても東京プリズンにゃ上には上がいて「そこそこ」なんて自慢にもなりゃしない。大人数に囲まれて勝ち目がなくて、何を言われてもされても大人しくしてるのが利口だってわかっちゃいる。だから俺はぎりぎりまで耐える。頭を小突き回される屈辱に拳を握り締め、半半と侮蔑される恥辱に頬を染め、じっと俯いて唇をきつく噛み締めて俺を取り囲んだ連中に殴りかかりたい衝動を必死に押し殺してる。
 でも時々我慢がきかなくなって手を出しちまうこともあって、大抵相手は四・五人とかだからかなうわけなくて容赦なく殴る蹴るされる。
 正直言って、めちゃくちゃ悔しい。情けない。ボロ雑巾になってとぼとぼ廊下を引き返す途中、好奇の眼差しと嘲笑とにさらされてそのへんの囚人を手当たりかまわずぶん殴りたくなることもある。
 けど、俺に売られた喧嘩をレイジが横から掠め取るのは反則だ。
 売られた喧嘩を転売するような卑怯な真似はしたくない、絶対に。あと何ヶ月何年かかるかわからないがもっと強くなって力をつけて、凱の取り巻き連中が何人何十人かかってこようが鼻歌まじりに返り討ちにしてやる。幸か不幸か時間だけはたっぷりある。
 そしていつかいつの日か、凱のクソ憎たらしいツラに渾身の一発をお見舞いしてやる。

 「凱を倒すのは俺だ。王様は虫食いベッドの王座にふんぞりかえってな」 
 
 乱暴に胸ぐらを突き放す。俯き加減の顔に視線を感じる。お節介な申し出を蹴られて拗ねたのだろうか、俺に背中を翻したレイジが洗面台へと歩いてゆく。囚人服の背中から視線をひっぺがし、所在なくベッドに腰を下ろす。謝るつもりはない、俺は悪くない、思ったことを言ったまでだ。だいたい押し付けがましいんだよあいつ、頼んでもないのにかってに気を利かせてしゃしゃりでて……少しは懲りろ。
 言い訳がましく心の中で呟けば、小気味よく蛇口を捻る音と水が流れる音が聞こえてくる。蛇口が締まる。長い足を交互に繰り出してこっちに戻ってきたレイジが唐突にしゃがみこみ、俺の目の位置に顔を持ってくる。
 頬がひやりとした。
 「!つめて、」
 ひんやりと心地よい手が頬を包んでる。手の向こうにはレイジがいた。俺の頬を冷やすためにわざわざ手をぬらしてきたのだと、その時に漸く気付いた。いつもなら「さわるな」「気色悪い」と払いのけてるところなのに、褐色の手が触れた瞬間に頬の熱と一緒に抵抗の意志も消えていった。
 払うに払えず動くに動けず、仕方なくベッドに腰掛け、床に片膝ついたレイジの顔を覗きこむ。伏し目がちに顔を俯け、長く優雅な睫毛の影を頬に落としたレイジは俺が知らない男のようだ。
 廃墟の迷子のように寂しげで、途方に暮れた眼差し。
 「ロン、初めて会ったとき俺に言われた言葉覚えてる?」
 「きまってんだろ」
 また脈絡なくずいぶん古い話を持ち出してくる。もう一年と半年前になるか、東京プリズンに来た初日にこの房に案内されレイジと引き合わされたときのことは鮮明に覚えてる。初対面の衝撃が強すぎたのだ。耳にはピアスがじゃらじゃら、上半身は裸でベッドに寝転がってるときちゃ新入りがびびるのも当たり前だ。
 ベッドに寝転がったレイジがつまらなそうに俺を見て、また本へと顔を戻しがてら言った台詞を思い出す。
 
 『なんで怒ってんの?』

 「……つか初対面の挨拶がそれってどうなんだよ、失礼すぎだろ」
 「バカだなおまえ、初対面の人間に『はじめまして』『こんにちは』なんてお行儀よく挨拶するやつ東京プリズンにいるわきゃねえだろ。で、お前が返した言葉覚えてるか」
 俺の頬に手をあてたまま、口元に笑みを上らせてレイジが言う。これもすぐ思い出した。
 「『地顔だ』」
 「『もったいねえ、笑えばかわいいのに』」
 指に熱が伝わり、レイジの手全体がぬるくなる。気のせいか頬の腫れがひいてきたようだ。それでもレイジは俺の頬を抱いた手を退けず、一年と半年前とおなじ台詞を睦言の甘さでささやく。
 今振りかえれば初対面の男にむかって「かわいい」とか頭に蛆がわいてるとしか思えないイカレ具合だ。入所初日で、ブラックワークの存在もなにも知らなかった新入りの俺は目の前にいるのが東京プリズン最強の男だとは露知らず、「からかわれてる」とカチンときて敵意むきだしでガンをとばした。
 レイジもおなじ光景、おなじやりとりを回想してるらしい。
 何がそんなに可笑しいのか、くく、と喉を鳴らして笑い声をもらす。ふたたび正面を向いた顔には、俺が今まで見た中でいちばん優しい笑み。
 いとおしむような懐かしむような深い眼差し。

 「『楽しくもないのに笑ってたら、本当に楽しいとき笑えなくなるだろ』」
 
 楽しくもないのに笑えるか。
 俺はそう言いたかったのだ。俺はあの時人生最悪の気分で、手榴弾でガキどもを殺して懲役十八年を言い渡されて東京プリズンに送られて、生きてここをでれるかわからなくておまけに案内された房には笑顔が胸糞悪い上半身裸の変態がいてもうどうにでもなれとヤケになってたのだ。
 だから言ったんだ。ふてくされた態度でそっぽをむいて、あたりまえのことを言わせるなと開き直って。
 その瞬間。鉄壁の笑顔が崩れ、レイジの目がちょっと驚いたように見開かれ、あざやかな表情の変化に一瞬目を奪われた。俺の言葉のどこに驚いたのかわからないが、俺が何の気なしに発した言葉はレイジの何かに触れたのだ。
 たぶん、レイジ自身でさえ気付かなかった何かに。気付かないふりをしてた何かに。
 「……おまえ鈍いくせに時々ぎょっとするようなこと言うよな。そうだよな、普通そうだよな。楽しくもないのに笑える人間いないよな」
 くりかえす独白から底知れぬ悲哀を汲んだのは感傷か?おそろしく不安定かつ物騒なものを抱えこんだ躁気味の口調が変に心をざわつかせ、レイジの笑顔が微妙に変化してゆく。どうしても泣けないから仕方なく笑うような諦観の滲んだ笑顔へ、これしか方法を知らないとでもいうふうな未熟な笑顔へ。
 「おまえにそう言われて、『ああ、こいつなら』って思ったんだよ」
 「なんだよ?」
 手をどかすのも忘れ、身を乗り出すように訊ねる。俺はバカだから今いちわからないが、レイジは今、なにかとても大切なことを言ってる気がする。なにかとても大切なことを俺に聞いてもらいたがってる気がするのだ。
 なら、ちゃんと聞いてやらなきゃバチがあたる。
 まっすぐにレイジを見据え、俺は逃げないから最後までちゃんと言えと無言の圧力をかける。
 かすかな、本当にかすかな指の震えが頬に伝わり、レイジの笑顔が何とも形容しがたい崩れ方をした。

 「こいつと一緒にいりゃ、いつかおもいきり笑えるんじゃないかって」

 『Because I laugh, do not kill me』 
  笑うから殺さないでください。

 ペア戦開幕前夜、悪夢にうなされたレイジが呟いた言葉。
 レイジは一体だれに、笑うから殺さないでと哀願したのだろう。
 頼むからおねがいだから笑うから殺さないでと、死に物狂いに許しを乞うたのだろう。
 「………レイジ、」
 「……………惚れた?」 
 あ?
 レイジが勢い良く顔を上げる。儚く気弱な笑顔から一転、白い歯を覗かせて悪戯に笑う。
 「正直に言えよ、今ちょっとドキドキしたろ?俺に口説かれて雰囲気に流されて『レイジ落ちこんでるみたいだし慰めついでに抱かれてやってもいいかなどうせ百人抜き達成したら抱かれるんだし遅かれ早いかの違いだけだ、よし抱かせてやろう』ってぐらっときたろ!?やった狙い成功、伏し目効果ばっちり!おまえ単純すぎ、しょげたフリして同情引きゃすぐひっかか……、」
 レイジの顔面におもいきり枕をぶつける。
 顔面に枕の直撃を受け、後ろ向きに倒れたレイジの頭上に素早く回りこんで枕の上から蹴りを入れる。
 「俺の貞操はそんな安くねえよ!!」
 頭きた、ちょっとでもほだされかけた俺がバカだった。レイジの言うこと真に受けてマジで心配して恥かいて……くそっ、そんなにおちょくるのが楽しいかよこの性悪が!頬にはまだ指の感触とぬくもりが残ってるのに、さっきまで心地よかったそれが途端に忌々しくなる。
 枕をどかし、床に手をついて上体を起こしたレイジには言葉とは裏腹に反省の色などかけらもない。
 なにがそんなに可笑しいのかさっぱりわからないが、下品な大口あけて涙がでるまで笑い転げる姿は道化じみて滑稽で。
 しなくてもいい無理をしてるみたいで、胸が抉られた。
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