少年プリズン

まさみ

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百七十四話

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 次のペア戦まであと三日。
 日々は平穏に過ぎていた。少なくとも表面上は。
 イエローワークの強制労働に就いていたころは朝五時に起床、点呼をとり終えたら即食堂に行き朝食をとり、その足で地下に降りてバスに乗り込むハードな日々の繰り返しに辟易したが、半年に一度の部署代えで売春班就労が決定してからはイエローワークに戻りたいと心の底から願う毎日だった。
 どんな最低の仕事でも売春班に比べれば遥かにマシだ、まだ救いがある。
 売春班から抜け出すためならドブさらいでも便所掃除でもなんでもやる、それがだめならいっそ処理班に回してくれと仕事場のベッドで頭を抱えて思い詰めていた。
 今の僕は自由だ。
 僕を含めた売春夫の処遇はまだ決まってない。100人抜きの結果がでるまで、期間限定で処分が保留されたどっちつかずの現状だ。レイジ・サムライペアが途中で負けるか100人抜きを達成して勝利の栄冠を手にするか、どちらにしろ白黒決着がつかないと売春は再開できない。
 売春班が休止され、本来なら「自由になれた」と手放しで喜べるはずが気分は滅入ってゆくばかりだ。苛立ちと不満が澱のように鬱積し、胸裏が陰鬱に淀んでいる。
 こんなのは所詮束の間の安息、パンドラの箱の底の仮初の希望にすぎない。
 サムライとレイジは強い。だがしかし、ささいな行き違いから関係をこじらせた今の二人が果たして力を合わせてぺア戦100人抜きを成し遂げられるだろうか?チームワーク最悪の状態で、ふたりの連携が見込めない不利な状況下で、意固地に交代を拒んでリングに上がりつづければ遠からず限界がくる。互いの不足と不得手を補う目的のペアが正常に機能してるとは今の状況ではとても言えず、関係は悪化する一方だ。
 敵はこれからますます強くなる。サムライにしろレイジにしろひとりで戦うのは荷が重すぎる。100人抜き達成にはふたりの助け合いが必須なのに、肝心のふたりが呼吸を合わせる努力もせず、このまま相棒の危機にも無視と無関心を決めこむのならー……
 「……集団心中する気はないぞ」  
 惰性で本のページをめくりながら呟く。酷薄な台詞だが、嘘偽らざる本心である。自殺も心中もお断りだ、何故僕が自ら死を選ばなければいけない?自殺などプライドがない人間がすることだ、敗北を認めた人間の逃避手段だ。僕は死なない、絶対に死なない。自殺も心中も全力で否定する。
 が、もし仮に、仮にレイジかサムライのどちらかが敗北したらその時点で僕ら四人の運命は決定する。僕とレイジとロンは売春班に堕とされてタジマの玩具にされる、サムライは両手の腱を切られて処理班に回される。まさか安田が本気でサムライの腱を切るとは思えないが、他の看守はどうだかわからない。サムライが両手をさしだした売春通りには看守も多数居合せていたし、この生意気な申し出に反感を抱いた看守、たとえばタジマなら確実にサムライの腱を切断するだろう。

 僕ら四人はもうひき返せないところまできている。
 言うなれば運命共同体だ。

 誰か一人でもつまずけばその瞬間にすべてが瓦解する危うい均衡の上に全員が立っている。実際に戦うのはレイジとサムライで、僕とロンは試合風景を金網越しに見守るしかない無力で非力な立場だが、当のサムライとレイジに軋轢が生じた現状では100人抜き達成の見込みは極めて低い。
 まったく、連中ときたら天才の手を煩わせるばかりだ。
 凡人は凡人らしく天才の助言に従って素直に仲直りしてしまえばいいものを、サムライときたら何をそんなに意地を張ってるんだ?理解に苦しむ。まあ、凡人には凡人の些末かつ低劣な苦悩や葛藤があるのだろうが、彼らの頭では考えれば考えるだけ時間の無駄だ。入り口はあっても出口がない迷宮の中をさまようのは不毛な行為と言えよう。  
 やはり忠告すべきだろうか。
 もっと簡潔かつ平易な言葉でないと伝わりにくいというなら、僕の現在の気持ちそのままに「レイジと仲直りしろ。見苦しい」と切り出すべきだろうか。「サムライのくせに潔くない」「自分を殺して謝罪の言葉ひとつ言えないなんて度量の狭い男だ」「見損なった」……どれも本心だが、本人の顔を見て直接口にするのはためらわれる。
 いかに僕が毒舌家といえど、僕のために、ひいては売春夫全員のために生死を賭した戦いに挑んでるサムライに
 「まったく偏屈で頑迷な男だな、一度その脳味噌を解剖して何色をしてるか確認したい。全体に灰色なら石化してる証拠だ。エルキュール・ポワロと違って灰色の脳細胞を自慢できないな、きみの場合頭だけでなく脳まで石化が進んでる証だ。石橋を叩いて渡るとは心配性の人間を揶揄した諺だが、君の石頭は叩いても割れなくて結構なことだ」 
 などと言えるわけがない。これでも一応遠慮して、自制心を総動員して毒舌と失言を控えているのだ。
 ……ああ、だからストレスがたまるのかもしれない。
 僕としたことが、何故今までこんな初歩的なことに思い至らなかったのだろう。鬱屈の原因は自己嫌悪と劣等感だと分析していたが、辛辣で的を射た毒舌を避け、口当たり柔らかい言葉ばかりを並べ立てる消化不良かもしれない。
 くそ、何故僕がこんなくだらないことを憂慮しなければならない?他人の喧嘩に口出しするのは小姑の役目で天才の義務じゃない、お節介なロンに任せておけばいいじゃないか。もう勝手にしろ、友人とはいえ年上の尻拭いなどごめんだ。冗談じゃない、自分の尻くらい自分で拭け……違う、何を言ってるんだ僕は、いつのまにこんな下品で下劣な悪態を覚えたんだ?最悪だ、たった半年で東京プリズンの環境に感化、否、汚染されてしまったなんて……
 「―最悪だ。こんな汚い言葉口にしたら恵に嫌われる」
 いや、もう手遅れだが。
 恵、恵への手紙は無事届いただろうか?このまえのペア戦の翌日に投函したのだとしたらもうそろそろ着いてる頃だ。正確には恵本人への手紙ではなく担当医への手紙だが……恵との繋がりが回復するなら、再生へのきっかけが掴めるのなら、それがどんなにか細い糸であっても放したくない。縋りたい。 
 恵は元気にしてるだろうか?精神病院の白い部屋で膝を抱えて寂しがってはいないだろうか?食事はちゃんととっているだろうか?夜はよく眠れているだろうか?看護婦や医者とは仲良くやっているだろうか……
 恵が夢遊病を発症してたなんて知らなかった。眠れない夜は、恵も蛍光灯が寂しくともる廊下をふらついていたのだろうか?現実を映さない虚ろな目を虚空に据え、ひたひたと…… 

 『おにいちゃんは嘘つきで汚い最低の人間だ』

 「!」
 ハッと物思いから覚めてみれば、すでに房の中は暗くなっていた。膝に本を広げたまま、ずいぶん長い間ぼんやりしてたらしい。ほとんど内容が頭に入ってこなかった。視線が活字を上滑りする感覚がもどかしくなり、乱暴に本を閉じる。本に八当たりするのは馬鹿げてる、八当たりすべきはそう、サムライだ。しかし本人が今ここにいないのだからどうしようもない。
 廊下が賑わってきた。強制労働から引き上げてきた囚人が群れてるらしい。サムライももうすぐ房に帰ってくるだろう。ブラックワーク娯楽班の出場者には強制労働免除の特権が与えられるが、それはあくまで上位者のみの厚遇で、サムライみたいに実力はあるが実績がないペア戦初出場者にはあてはまらない。
 サムライは週末のみリングに立ち、平日は通常どおりブルーワークの労働に就いている。 
 サムライがいない間、東棟と中央棟の図書室とを往復し、自分以外だれもいないがらんとした房で読書に耽っていたがどうにも集中できない。静か過ぎるとかえって落ち着かないものだ。ため息をつき、本の表紙を見下ろす。無念かつ不本意だが、三回目の再読はあきらめるしかない。二回ではこの僕の旺盛な知識欲がが充足したとはとても言いがたいが……
 ベッドから腰を上げ、本を小脇に抱えてドアに歩く。
 夕食が始まるまえに本を返してこよう。そして新しい本を借りてこよう。次はなにを借りようか、漫画にするか小説にするかノンフィクションにするか専門書にするか……火の鳥はまだ乱世編の下巻までしか読み進めてなかった。未来編のロックは人間の哀切と孤独を感じさせる業深いキャラクターでとくに「戦争だけはいやだ」と叫ぶシーンは傑作…… 
 「―!?っ、」
 どの本を借りようか、から脱線した思考を巡らせながら廊下を歩いていたら突然視界が暗くなる。何が起きたのか一瞬わからなかった。背後から目隠しされたのだ、と気付いたのは闇越しに命令されたからだ。
 「叫ぶなよ。叫んだら殺すぞ」
 背中を突き飛ばされ、バランスを崩す。倒れかけたのを壁に片手をついて前傾姿勢を維持、ことなきをえる。なんなんだ一体?当惑した頭では状況把握が追いつかない、まずとりあえず手を払うのが先決だ。このままじゃ何も見えない、どこに連れてかれるのかもわからない。
 「この手を離せ低脳、眼鏡のレンズに指紋がつくだろう」
 目隠しした手を掴み、顔から引き剥がそうともがいてる間じゅう僕の抵抗を嘲笑する声が渦巻いていた。ひとりじゃない。二人、三人、四人……四人か。四人も囚人がいれば目立つだろうに誰も何も言ってこないのは何故だ?すれちがう通行人の足音やしゃべり声、気配がないのは……
 物陰に連れこまれたからか。
 落ち着け、冷静になれ。取り乱したら相手の思うつぼだ。深呼吸して冷静に、頭を冷却して状況把握に努めなければ。目隠しされた手の内側の暗闇で目を閉じる。敵は四人、敵と断定したのは僕に悪意を持ってるのが耳に渦巻く嘲笑から伝わってきたから。僕に悪意を持ってる人間……真っ先に思い浮かぶのはタジマだが、今僕を取り囲んでるのは四人の少年。この中にタジマがいないのは明白。
 と、いうことは……
 「群れなければ吼えることもできない凱の飼い犬が何の用だ?僕は図書室に本を返しに行くという大事な用があるんだ、このまえの続きなら後にしてくれないか」
 笑い声がぴたりと止む。
 目隠しが取り除かれ、視界が晴れる。レンズにべったりと指紋が付着していた。即座に眼鏡をとり、上着の裾で丁寧に拭う。綺麗に指紋を拭ってから眼鏡をかけ、あたりを見まわす。
 推理が的中した。
 肩をそびやかせて僕を取り囲んでいたのは、この前、中央棟の廊下で出くわした凱の取り巻きが四人。僕に犬の真似をさせ、手を叩きながらはしゃいで見ていた頭の悪そうな四人だ。
 「もう一度言ってみろよめがね、だれが群れなきゃ吼えることできねえ犬だ?」
 「君だ、膿んだニキビが醜い顔をさらに醜くしてる品性下劣な少年。今もこうして四人で僕を取り囲んで、多勢に無勢で牽制してるつもりか?それともなにか、恐喝するときも用を足すときも単独行動ができない社会不適合者の集まりなのか?友人が多くて結構なことだな。誰も彼も似たり寄ったりの愚劣な低脳同士気が合うだろう、だれの脳味噌がいちばん皺が少ないか頭蓋骨を開けて競争してみたらどうだ。ひとつ忠告だが脳味噌を扱うときは気をつけろよ、つるつるとなめらかすぎて手を滑らせてしまう危険性がある」
 サムライの前で毒舌を控えてた反動か、気付いたら一息に罵詈雑言をぶちまけていた。
 すっきりした。
 喉を圧迫。片手で襟首を掴まれ背中を壁に叩きつけられる。僕を取り囲んだ凱の子分のひとりが憎憎しげに顔を歪める。
 「犬はどっちだよ、床に這いつくばって俺たちの言うなりに眼鏡くわえてもってきた奴がよ」
 眼前で拳が振り上げられる。おもわず目を瞑ったが、予期した衝撃はいつまでたっても訪れない。不審に思いながら薄目を開ければ、僕の目と鼻の先で拳が止まっていた。
 周囲から陰険な嘲笑が沸きあがる。
 「マジにすんな、遊んだけだ。凱さんに言われた用件がすむまでお楽しみはとっとくよ」
 「凱?凱がどうしたんだ」
 喉首を締め上げられても声は平静だった。数は脅威だが、こんな低脳どもおそるるにたりない。万一殴る蹴るの暴行に発展したとしても骨折程度で殺されはしないだろう楽観がある。もうすぐ夕食が始まる、夕食開始のベルが鳴れば囚人の点呼が始まる、点呼が始まるまえに囚人は廊下に並ばなければいけないからそれまでには解放してくれる。
 頭の中で冷静に計算する。敵は四人。体当たりで逃げるのは体格差から不可能。ここは従順なふりで彼らの用件とやらを聞くしかない、まあどうせ聞いたそばから忘れたくなるくだらない用件だとは思うが。
 僕の襟首を掴んだ肥満の少年、ヤンと呼ばれた中国人が仲間に目配せする。
 「三日後のペア戦でオトモダチのサムライがだれと当たるか知ってるか?」
 「いや」 
 「『俺たち』だよ」
 襟首を掴む手に握力をこめ、ヤンが凶悪な笑みを浮かべる。
 「俺とロンチウ、ユエにマオの兄弟、そして凱さんとシャオチン……以上三組だ。運命のイタズラか天の采配か、俺たち東棟中国系派閥の幹部と三組ガチンコするんだ。何が言いてえかわかるか」
 「怖気づいたのか」
 「あん?」
 意識して口角をつりあげ、ひとの神経を逆撫でする笑みを浮かべる。今の僕はきっと殺したいほど憎らしい顔をしてるだろう。
 「サムライとレイジに怖気づいたのなら今からでも遅くない、辞退しろ。きみたちには金網越しの安全圏で語彙に乏しい野次でもとばしてるのがお似合いだ、リングで惨敗して恥をさらすのがいやなら頭を抱えて引っ込んでいろ」
 顔の横を突風が掠め、壁に震動が生じる。
 反射的に閉じた目を開く。頬を掠めた風の正体はヤンの鉄拳。顔の横の壁から引き抜かれた拳をまともに受けていたら、と思うとぞっとする。
 眼鏡が壊れなくてよかった。
 安堵の息を吐いた僕の耳朶にふれたのは、すでにして決定事項を述べるような淡々とした声。
 「辞退するのは俺たちじゃねえ。サムライとレイジだ」
 読めてきた。
 彼らが僕を待ち伏せして物陰に連れこんだ理由が。僕が毎日のように図書室に通ってるのは東棟の囚人なら周知の事実だ、図書室への通り道で待ち伏せすればたやすくつかまえられるだろう。三週目のペア戦を三日後に控えた今日、彼らが僕に声をかけてきた理由はひとつ。
 脅迫。
 「なあ、オトモダチのお前からも言ってくれよ。今度の試合辞退するようにって。喧嘩嫌いのサムライが100人抜きに挑んだのは売春班からお前助け出すためだろう、だったらお前のかけ声ひとつ、『やめてくれ』のお願いひとつでコロッと言うこときくだろう。右手の怪我が心配だでも僕のために争わないででも何でもいい、適当にでっちあげてサムライをほだしてくれよ」
 「実力でサムライに勝てる見込みがないから彼の知らないところで僕を脅迫、か。雑魚らしく卑劣で姑息な手段だな」
 あまりに短絡的な思考と行動に失笑すれば、怒気と殺気が膨張する。憤怒で朱に染まった顔を並べた少年たちを眼鏡越しに観察、いつ腕や足を振り上げられても対処できるように小脇の本を握り締める。
 雑魚と呼ばれてもヤンは短慮に殴りかかってこようとはしなかった。怒りを理性で御せるぶんだけ凱の取り巻き連中の中ではマシな方だ、たとえそれが短時間しか保たないとはいえ。僕の耳に口を近づけ、吐息がかかる距離でヤンがささやく。
 「念には念を、だ。なるほどサムライはおそろしく強い、先手打っといて損はねえだろう。次のペア戦には俺たち中国人のプライドが賭かってんだ、レイジを蹴落として名実ともに東棟のトップになれるまたとねえチャンスなんだ。卑劣で姑息な手だとわかってるよ。だけどな、お前が脅迫されたとしらねえ連中はそうは思わねえ。お前の泣き落としでサムライが辞退したら『凱さんの強さに恐れをなしたんだな』『腰抜けの日本人め』『いいザマだ』って大笑いするだけだ。よく聞けよ、サムライの勝利なんてだれも、お前ら以外の東棟のだれも望んじゃいねえんだ。引き際見誤ったら針のむしろだぜ」
 「お前ら」にはロンも含まれてるのだろう。レイジとサムライの味方は僕とロンだけ、だがそれがなんだ?他人がどう思うかなんて知ったことか、重要なのは僕がどう思うかだ。
 他の誰でもない、僕がどうしたいかだ。
 「僕以外のだれも望んでない?だからなんだ、百人の凡人が否定しようが一人の天才が肯定するんだ。君たちリングに上がる前から負けている負け犬が吼えようが、勝てる試合に負けるようサムライを説き伏せる気は微塵もない」
 「―調子にのるなよ日本人、したてにでりゃつけあがりやがって」
 ヤンが獰猛に歯軋りし、僕を壁際に追い詰めた三人が間隔を狭めてくる。壁に背中を預けた姿勢から順繰りに少年らを見つめ、こんな連中を「君」と呼ぶこともないだろうと二人称を降格。
 「貴様らには中国人のプライドがないのか?正々堂々リングで勝とうとは思わないのか?中国四千年の歴史と文化が泣くぞ。今ここに老子がいたら中国人の愚かさを嘆くだろうな、貴様らには『道徳教』を読み返して十徳の真髄を学べと……」
 ぽかんとした顔を並べる少年たちに、講釈をたれる気も失せてため息を吐く。
 まさか老子も知らないのではあるまいな、と疑われる反応の鈍さに頭痛をおぼえながら続ける。
 「―言いたいところだが、たかだか三百程度の貧困な語彙しかない貴様らに読書を強制するのは酷だな。比較の基準にはならないが僕の語彙は日本語外も含めて三百万でおよそ一万倍。同格になれとはいわないがせめて百倍には増やせ。そうしたら最後まで話を聞いてやる」
 低脳の話に付き合うのは疲れる。一方的に話を打ち切り、少年たちをどかして廊下に出ようとして……
 後ろから腕を掴まれ、引き戻される。
 「言ってることはさっぱりわかんねえが、俺たちの言うとおりにする気がさらっさらねえってことはわかった」
 「意外と賢いじゃないか」
 「なにか勘違いしてないか天才。俺たちは『お願い』してるんじゃねえ、『命令』してるんだ」
 上から見下す物言いと目つきが気に入らない、低脳の分際で生意気な。
 ……本心が顔に出たのだろうか、嗜虐の笑みを目に覗かせたヤンが力一杯左手首を締め上げてくる。骨が軋む激痛に苦鳴が漏れ、手首の間接が抜けそうになる。
 「お前もサムライおなじにしてやろうか?そしたら右手捻挫した状態で日常生活送るのがどんだけ大変かわかるだろう、箸持つのだって痛えんだから木刀ぶんまわすのがどんなに辛いかわかるだろう」
 唾の根元で木刀を支える右手。
 袖口から覗いた白い包帯。
 「そしたら説得したくもなるだろうさ!自分の身に降りかかって初めてわかることが世の中にゃたくさんあるもんな、実際体験してみるのもわるかねえ。ほら、痛いなら抵抗してみろよ。力づくで腕ほどいてみな。できねえくせにいきがってんじゃねえよ、どんなに頭がよくて口達者でもこうして腕掴まれちまえばただの……」
 どす黒い哄笑が響き渡る中、手首の骨が軋む激痛に視界が灼熱。腕をほどきたい一心で右手を振り上げる。視界の外にあった右手を振り上げた瞬間、ヤンが「しまった」という顔をする。
 「ぎゃっ!?」
 右手に抱えた本でヤンの腕を強打、一気に手首を引きぬく。
 ついに本を凶器にしてしまった。これでレイジの同類に成り下がったか。いや、今のは自己防衛の反射行動だから仕方ないと強引に自分を納得させ、敵が怯んで包囲網が綻んだ隙に廊下に逃げ出す。
 「待ちやがれこのクソ野郎っ、なめた真似しやがって……覚えてろクソが、目にもの見せてやるからな!次のペア戦で勝つのは俺たち中国人だ!!」
 悪態まで語彙が貧困だ。
 少年たちが追ってこないのを確認し、どうにか巻けたみたいだと廊下の壁に凭れ掛かる。小脇に本を抱えていたおかげで助かった、僕に読書の習慣があってよかった。
 本は偉大だ。
 辞書並に厚い本でなければヤンを撃退できたか一抹の不安は残るが、まあ済んだことだ。無事逃げ延びられたのだから……
 待て。本当にこれで終わりか?
 「………あと三日、か」
 次のペア戦まであと三日。先の一件で、凱たちが裏で怪しい動きをしてると判明した。レイジに勝つためには手段を選ばないと宣言した凱がどんな汚い手を使い、どんな卑劣な罠を仕掛けてくるか……
 僕に対しての脅迫だけなら僕が黙っていればコンディションに影響はない。試合が近付くにつれ日増しに集中力を高めてるサムライの耳に入れることもない。余計なことを吹き込んでサムライの集中力を散らすのはいやだ。僕の存在そのものが重荷なのにこれ以上足を引っ張りたくない。
 あと三日。
 三日以内に凱たちは何らかの行動を起こすだろう。サムライを試合に集中させるためには僕だけで、僕の機転と知力で実質東棟を牛耳ってる凱率いる最大勢力に対処しなければ。
 いつまでも守られてばかりじゃ本格的に足手まといだ。
 友人の足枷にしかならない僕なら、僕は僕を軽蔑する。唾棄する、否定する、憎悪する。

 『自分の身に降りかかって初めてわかることが世の中にゃたくさんあるもんな、実際体験してみるのもわるかねえ』  

 「―語彙は貧困なくせに真理をつくじゃないか」
 そのとおりだ。
 自分の身に降りかかって初めてわかることが世の中にはたくさんある。自分の身に降りかかった火の粉は自分で払わなければ。僕の身に降りかかった火の粉を払ったせいでサムライがもう引き返せない場所まできてしまったのだとしたら、今度は僕の番だ。
 火傷してもかまうものか。今度は僕が火の粉を払う番だ。
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