少年プリズン

まさみ

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百六十六話

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 ひとりになりたい。
 
 なにもかも全部忘れてしまいたい。ここじゃないどこかへ行きたい。ここじゃなければどこでもいい、寝ても覚めても何をしていても付き纏う罪悪感から逃れられるならどこでもいい。
 現実逃避。
 ひとりになりたい。誰もいないところに行きたい。夢の中、毎晩違う男に犯される悪夢を追体験させられるなら眠りさえ救いにならない。逃げ場などない。誰も助けてなどくれない。もがいてももがいても堕ちてゆくだけ、足掻いても足掻いても希望など見えない。喉が嗄れるまで泣き叫んでも懇願の声はむなしく虚空に吸い込まれるだけ。忘却は救いだ。眠りは癒しだ。でも僕の頭の一部は睡眠時にも明晰に冴えていて、目を閉じて眠りに身を委ねても、完全には意識を無意識に明け渡すことができない理性の監視下にある。  醒めた夢の中、僕は夢だと自覚していながらも自分の身の上に起こる出来事に抗うことができず、また、これから何が起こるか重々承知していながら過去を捻じ曲げる力すら持たない。
 「眠る」という行為は「夢を見る」という行為に直結している。寝れば必ず夢を見るとは限らないが売春班での生き地獄を体験してからかなりの頻度で悪夢を見るようになったのは確実で、夢の内容は決まって過去の反復だ。
 何故人が繰り返し過去の夢を見るのか、それも根強いトラウマの原因となった忌まわしい体験ばかりを反復させられるのかは心理学的見地から説明できる。
 心身に深い傷を残す耐えがたい出来事に直面した場合、脳に備わっている自己防衛機能が働いてその事実は一時的に「無かった」ことにされる。あまりに辛い体験を許容することを脳が拒否すれば、人は表面的には以前となんら変わりなく振る舞うことができる。だがしかし強烈な苦痛を伴う体験が容易に消え去るわけもなく、実際は水面下に抑圧されてるに過ぎない。そして無意識の水面下に抑圧された記憶を夢の中で繰り返すことにより耐性がつき、おぞましい記憶を追体験しても平静を失わなくなって初めてトラウマを克服できるのだ。
 理論はわかってる。
 夜毎悪夢を見せる脳の仕組みも十分に理解しているのに、それでもやはり耐えられそうにない。トラウマを克服するために必要なことだとわかっていても、僕が生き延びるために必須な試練だとしてもやはり許容できない。
 眠るのが怖い。
 消灯時間が過ぎてもうだいぶ経つにもかかわらず僕は眠れなかった。「眠る」という行為に対する潜在的恐怖が体の芯に根を張って眼球を乾かせている。暗闇に耳を澄ます。隣のベッドから規則正しい寝息が聞こえてくる。サムライはよく眠っているようだ。
 緩慢な動作で毛布をどけ、上体を起こす。床に足をおろしてスニーカーを履く。サムライの安眠を妨げぬよう足音をひそめて床を横切る。ノブを回し、押す。ゆっくりと鉄扉が開き、わずかな隙間から肌寒い夜気が忍びこんでくる。廊下に出て、音がしないよう慎重に扉を閉じる。
 とにかく今はひとりになりたかった。
 頭の中を整理する時間が欲しかった。
 深夜ひとりで出歩くのは危険だという自覚はあるが、それより何より狭苦しい房の中、息詰まる闇から逃れたくて蛍光灯が照らす廊下にさまよいでた。自暴自棄にもなっていた。消灯時間が過ぎてからひとりでふらついて、身に危険が及んだからとてそれがなんだ?リンチもレイプも怖くない、僕の身にはもう最悪なことが起きたんだからこれ以上最悪なことなど起こるはずがない。物陰にひきずりこまれて強姦されるくらいどうってことない、売春班ではもっと酷い目に遭い、口にだすのも汚らわしいおぞましい行為を強制されていたのだから。
 行くあてはない。
 とにかく少しでも早く、できるだけ遠くに行きたかった。もう房には帰りたくなかった。房に帰れば手紙がある、ベッドの下に目につかないよう放りこんである手紙が。またあの手紙が目に触れるようなことがあれば今度こそ自分がどうなるかわからない、手のつけられない恐慌をきたして僕のことを純粋に心配してるサムライにまで当り散らしてしまうかもしれない。そんなぶざまな真似はしたくない、絶対に。サムライはなにも知らないのだから、なにも関係ない彼を僕の身勝手で振りまわすのは理不尽だ。

 たとえ彼がそれを許してくれても、彼の優しさに甘えるようなことはしたくない。
 彼の寛大さに付けこんで自分の弱さを肯定するような卑劣な真似はしたくないのだ、絶対に。

 蛍光灯が冷え冷えと輝く廊下をなにかに取り憑かれたようにひたすら歩く。糸で繰られてるように足を交互させて廊下を進む。頭の中から現実感が抜け落ちて感覚が鈍化してる。
 『さわらないで。おにいちゃん汚い』
 『だって男の人とセックスしたんでしょう。気持ち悪い、考えられない。そんなの惠のおにいちゃんじゃない。惠のおにいちゃんはそんなことしない』
 『おにいちゃんはいつだって惠を庇って守ってくれるの。お父さんに怒られたときもお母さんに怒られたときも学校でいじめられたときもいつだって慰めてくれた。惠は悪くないって言ってくれた。惠をいじめるやつはぼくがどんな手を使っても懲らしめてやるって』
 『おにいちゃんは嘘つきで汚い最低の人間だ』
 容赦ない糾弾の言葉が胸を抉る。数日前、鏡の中に現れた恵の幻覚が僕を指弾して言い放った言葉の数々が足を鈍らせて歩調を落とす。そうだ、僕はいつだって恵がいちばん大事で恵のことをいちばんに考えてきた。恵を守るためなら何だってした。他人を傷つけても僕自身が傷ついても恵が笑ってくれるならそれでよかった、それ以上はなにも望まなかった。
 どこで間違えたんだろう。
 僕がいない家族の肖像。三人仲良く手をつないだ親子の絵。
 僕がいなくても鍵屋崎優と由佳利さえいれば恵はそれで満足だったのだ。それ以上はなにも望んでいなかったのだ。僕にとっては恵ただ一人が大事な家族でかけがえのない人間だったが、恵にとっての僕はいてもいなくてもどうでもいい程度の存在だったのだ。いや、いてもいなくてもどうでもいいのではなくいっそいないほうがいい人間、そう、生まれてこなかったほうがよかった人間なのだ。
 僕は自分が生まれてこなかったほうがよかった人間だとは思いたくない。
 今すぐに死んだほうがマシな人間だとも思いたくない。 
 でもそう思っているのがこの世に僕一人なら、ただ一人生き残った家族にさえそう思われてないのだとしたらただの道化じゃないか。
 この世で僕以外のだれも僕の存在を肯定してないなら、僕が生きてることを快く思ってないなら……
 僕は何故生きてるんだ?
 なんの為に、だれの為に、生きてるんだ。
 どれだけ知能が優れていても知能指数が高くても、頭脳にしか価値がないなら脳だけ摘出してホルマリン漬けにしておけばいい。「天才」としての付加価値しか重要視されないなら「鍵屋崎直」の人格はもとより不要……馬鹿らしい、なにを考えてるんだ。こんな思考は無意味だ、いつまでたっても答えなどでるわけない……くそ、最悪だ。自己憐憫に浸るのもいい加減にしろ。自分がしたことを考えれば当たり前の仕打ちじゃないか、恵が描いた絵に自分がいなかったからって何だ?だれが自分の両親を殺した人間を好き好んで描きたがるというんだ、自業自得じゃないか。たかが一枚の絵にショックを受けて夢遊病者のように深夜徘徊して……

 「!」
 夢から覚めた。

 ここはどこだろう。
 目の前には見慣れた扉がある。両開きの巨大な扉……そうか、図書室の前だ。いつのまにか渡り廊下をわたり中央棟までやってきてしまったことに愕然とする。歩くのに夢中で全然気付かなかった、これじゃ本当に夢遊病者じゃないか。一瞬自分の正気を疑ったが、すぐに平静さを取り戻す。
 たぶん僕はまったく無意識に自分がいちばん行きたいところに来てしまったのだろう。暇さえあれば図書室に通ってたせいで自然と足が向いてしまったのだ。習慣とは怖い。
 今は深夜だ。押して試すまでもなく図書室は閉鎖されてるだろう。時間外立ち入り禁止の規則を破ってまで図書室に足を踏み入れるほど短慮でも愚かでもない僕はおとなしく引き返すことにする。少し頭を冷やすつもりがずいぶんと遠出してしまった、これ以上廊下をうろついてたら風邪をひいてしまう……
 そう判断して身を翻しかけた、刹那。
 「おい、あれうちの棟の親殺しじゃねえか?」
 驚いて振り向けば、中央棟地下一階へと降りる階段から一人の少年が顔を覗かせていた。少年の仲間らしい数人が階段を駆け上がり、騒々しくとびだしてくる。
 「本当だ」
 「なんでこんな時間にうろついてんだ」
 「さあな、図書室に用じゃねえか。しょっちゅう本読んで歩いてるネクラメガネだしな」 
 「こんな夜更けに読書かよ、物好きだねえ」
 「いや、待てよ。案外俺らに犯されにでてきたんじゃねえか」
 見覚えある顔だと思ったら、食堂の中央席を占領してる凱の取り巻き達だった。いやな予感がした。面倒なことになるまえに逃げようと踵を返すより凱の取り巻きたちに押し倒されるほうが早かった。
 「消灯時間過ぎて外うろついてたらヤられちまっても文句言えねえな!」
 「自業自得だな」
 「犯してくださいって言ってるようなもんだぜ」
 まずい。
 背中に馬乗られて床にうつ伏せた僕の周囲を取り囲んだ少年たちがにやにやと笑みを浮かべてる。これから何されるか容易に予想がついたが、性欲を持て余した低脳ども相手に弱みを見せるのが嫌で虚勢を張る。
 「君たちこそ、なんでこんな時間にこんなところにいるんだ?」
 「打ち合わせだよ」
 「打ち合わせ?」
 僕の後頭部を片手でおさえこんだ少年が耳元でささやく。
 「ペア戦の班割り決めてたんだよ。だれとだれが相棒になるかを、な。看守が定期的に見まわりにくる房じゃ大人数で集まれねえし話に集中できねえし、エレベーターできてから使われてない中央棟の階段なら落ち着いて話せるだろうって……ですよね、凱さん?」
 唾をとばしてまくしたてていた少年の視線につられて振り向けば、今しも階段を上りきり廊下に歩を踏み出したのは大柄な男。少年、という表現がふさわしくない屈強な体躯と獰猛かつ厳しい面構えで鋼の筋肉を縒り合わせた背中から周囲を威圧する剣呑なオーラを振りまいている。
 東棟最大の中国系派閥のボス、凱だった。
 「ようメガネ。いい格好だな」
 威圧的に腰に手をあて、大股に歩いてきた凱が廊下に組み敷かれた僕を見下ろして挑発的に笑う。周囲にたむろっていた仲間を手荒く押しのけ、僕の鼻先に仁王立ちした凱が優勢を優位するかの如くゆったりと腕を組む。手を背中で一本にまとめられてるせいか、鼻梁にずり落ちた眼鏡の位置を直すこともできない。両手が使えない不便さに舌打ちしながら凱を睨みつける。
 「……話は聞いた。君たちもペア戦に出場するのか?」
 「おおともよ。べつに驚くことじゃねえだろ?レイジがぶちあげたペア戦50組100人抜きは来る者拒まずの無差別格闘技、東西南北全棟の囚人参加自由。あのケツの軽い王様気取りをつぶしにかかるにはこれ以上ない絶好の機会じゃねえか」
 レイジが売春班撤廃の条件に掲げたペア戦50組100人抜きは東西南北すべての棟の囚人の出場許可されている。レイジが東棟のトップだろうが関係ない、いや、東棟に凱を筆頭にレイジを蹴落として下克上を企む野心家がごろごろしているのだ。棟対棟というより個人戦の様相が強いのには、レイジが属する東棟からもかなりの人数がペア戦にエントリーしてる裏事情がある。
 凱はレイジを目の敵にしてる。ペア戦に出場し、東西南北の大観衆の前で決着をつけ、レイジに代わる新たなトップとして君臨するつもりなのだろう。
 「……身のほど知らずだな」
 「あん?」
 口元に嘲笑が浮かぶのをおさえられない。
 「身のほど知らずだと言ったんだ。リングに上る前に忠告しておくが、君たちは自分の実力を過信すぎじゃないか?君たち群れるしか能のない低能どもがレイジと対戦したところでかなうわけがない。レイジだけじゃない、サムライだってそうだ。君たちはわからないのか?レイジとサムライは凄まじく強い、勝敗などリングに上る前から決まっているようなものだろう。大観衆の前で恥をかきたくないなら大人しく金網の外で観戦してろ。躾がなってない動物園の猿にはフェンスを揺さぶって騒ぐのがお似合いだ」
 嫌味でもなんでもなく、ただありのままを指摘しただけだというのに一気に雰囲気が険悪になった。
 「!!」
 脇腹にめりこむスニーカーのつま先。
 腕組みして僕を見下ろしていた凱が無造作に蹴りを入れ、臓腑がねじれる激痛に目の前が赤く眩む。痛い。背中で手を一本にまとめられてるせいでひりひりする鳩尾を庇うこともできず、反吐を戻す勢いではげしく咳き込みながら顎を上げれば、周囲を取り囲んだ凱の取り巻き連中が手を叩いて爆笑していた。
 ああ、本当に猿みたいだ。
 その連想に苦笑しかけ、髪の毛を掴んで頭を持ち上げられる。僕の髪の毛を掴んで強引に顔を上げさせた凱が邪悪にほくそ笑む。
 「ダチのサムライに頼まれて偵察に来たのか?」 
 「誤解するなよ。僕はただ眠れなくて気分転換の散歩に出かけただけだ。僕が偵察などしなくてもサムライとレイジは絶対に勝つ」
 「右手を怪我してても?」
 「そうだ」
 「ちっ、強情だな」
 荒く舌打ちして僕の髪を突き放し、鼻梁にずり落ちていた眼鏡を奪い取る。眼鏡を奪われた瞬間、視界が曇った。凱の腕が大きく弧を描き、眼鏡が遠方に放り投げられる。
 カチャン。ごく軽い落下音がした。
 なんてことをするんだ、この男は。眼鏡がなければ日常生活に支障がでる、なにより本が読めないじゃないか。そう抗議しようと口を開きかけ、おもむろに命じられる。
 「拾え」
 「………」
 「床に手をついて四つんばいになって拾って来い」
 周囲の人垣から悪意滴る嘲笑がこぼれる。背中を押さえ込んでいた少年がどき、両手が解放される。膝に体重をかけて押さえこまれていたため手首が痺れて感覚がなくなっていた。
 逆らう、という発想ははなからなかった。
 数と腕力では圧倒的に凱たちに利がある。僕が逆らったところで体に無駄な痣を増やすだけだ。それならば無抵抗に徹し、彼らが飽きるまでこのくだらないお遊びに付き合ってやるのが無難だろう。
 心に空洞が開いたようになにも感じなかった。
 嘲笑に取り巻かれ、孤立無援の状態で冷たい廊下に座りこんだ現状でも屈辱感とか敗北感とか一切の感情が沸いてこなかった。恵の絵を見てからずっと心が麻痺している。大切な思い出と一緒に喜怒哀楽をどこかに置いてきてしまったみたいに。  
 恵の思い出。
 なにより大事な、最愛の妹。
 『おにいちゃん』
 『おにいちゃん、かけ算教えて。七の段苦手なの』
 『おにいちゃんはすごいね、なんでもできて。わからないことなんかなにもなくて』
 『恵もおにいちゃんみたいになりたい。頭がよくなればお父さんとお母さんに誉めてもらえる、こっちを見てもらえるでしょう』

 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』

 「…………」
 くだらない。なにもかもがくだらない。
 床に両手をつき、膝をつく。目がよく見えないせいで距離感と方向感覚が狂ったが、目を凝らして廊下を見渡して7メートル先に眼鏡を発見した。ズボンの膝で床をこすりながら眼鏡の落下地点に接近する最中、壁と天井に反響して頭上に降り注いでいたのは野次と嘲笑。
 「あはははははっはははっ、犬だ、犬がいるぞ!」
 「もっと高く尻上げて頭下げろよ」
 「尻上げるのは得意だろうが、さんざん売春班でやってきたことだろう」
 「ズボンで床拭きゃ雑巾いらなくて一石二鳥だ」
 騒がしく罵声が飛び交う中、手をついた床からじんわり伝わってくる冷気が体中に行き渡って肌が粟立つ。寒い。体の芯まで冷えそうだ、心まで凍えてしまいそうだ。かすむ目を凝らして廊下を見渡し、眼鏡までの距離を割り出す。膝をついて手をついて這い進む途中、進路を妨害するように何度も背中や肩を蹴られた。肩や背中ならまだいい、中には無防備な腹部に蹴りを入れてくる者もいて鳩尾を抉る衝撃に肘が砕けそうになった。
 こんな連中相手にするだけ馬鹿だ、無視するに限る。五指を広げた手を床に置く、ズボンの膝で床を擦って前に進む。時間はひどくゆっくりと流れた。肘を蹴られて四つん這いの体勢を崩しかけ、寸手のところで立て直す。汚れた靴裏を頬に押しつけられて口の中まで泥が入りこむ。
 行儀が悪いとは思ったが、唾と一緒に泥を吐き捨て前に進む。ようやく眼鏡の落下地点に辿りついたことに安堵し、手を伸ばしかけー
 「くわえて持って来い」
 手が止まる。
 振り向く。ぼんやり滲んだ視界に映ったのは下劣な笑みを湛えた凱を真ん中にした少年たち。全員が凱とよく似たにやにや笑いを浮かべて突拍子もない命令に躊躇する僕の反応を楽しんでいる。
 まったく陰険な連中だ。
 なぶるような視線を四囲から注がれて辟易する。僕が次にどうでるかと、生唾飲み下して待ち構えてる連中のほうは見ずに吐き捨てる。
 「持っていけばいいんだろう」
 衆人環視の中、眼鏡をくわえて持って行くぐらいどうということはない。売春班ではもっと汚い物もくわえさせられたのだから。眼鏡をかけてないせいで、陰湿な笑みを全開にした取り巻き連中の顔がよく見えない現状に感謝しつつ、上体を突っ伏した姿勢から不自由に顎を傾げる。
 眼鏡の弦を食み、口にくわえる。
 手を使わず眼鏡をくわえるのは意外と難しいんだな、と妙な所に感心する。
 「絶対に手は使うなよ。使っていいのは口だけだ。そう、上手いじゃねえか。誰に仕込まれたんだその芸は」
 売春班に決まってるだろう、と口がきけるものなら言い返したかったがいかんせん弦をくわえていて自由に動かない。眼鏡の弦を口に含めば無機質な金属の味がした。
 なにをしてるんだろうな、僕は。
 両親を殺し、恵を精神病院送りにし、刑務所に送られ。刑務所の中の狭い社会でさえ自分の親を手にかけた人間の屑として扱われ迫害され異端視されて。 

 これが僕の、恵の望んだことなのだろうか。

 「よし、上出来だ」
 厚みのある手が頭全体を包みこむように往復し、口にぶらさげていた眼鏡をひったくられる。まさかまた放り投げられるつもりじゃと警戒したが、違った。中腰に屈んだ凱が、手ずから眼鏡をかけてくれる。
 レンズを通した視界が拭われるように明瞭になり、同じ目線の高さに凱の顔が浮かんでいた。
 「命令通りにしたぞ。もういいだろう、帰っても」
 肉体的疲労よりも精神的疲労が蓄積されていた。もう毒舌を吐く気力もない。もう何も見たくない、何も聞きたくない、何もしたくない―
 ぐい、と襟首を掴まれた。
 「なに言ってんだ、本番はこれからだぜ」
 本番、か。やっぱりな。なるべく早く済ませてほしいが、凱一人を相手にして解放されるとは思えない。凱の取り巻き連中は一人、二人、三人……合計八人。この数を一度に相手にするのは少しきつい。
 「たぶん僕の意見など聞いてはくれないと思うが」
 「なんだ」
 「僕は不感症だが一応痛覚はあるんだ、こうして君に押さえこまれた現状では性行為は避けられないとしてもなるべく痛い思いはしたくない。君たち全員が早漏なら行為も比較的短時間で済むだろうが確証はない」
 うんざりしながら説明する僕の上に覆い被さった凱が早くもシャツの内側に手を潜らせてきた。裾がはだけられた脇腹に冷気が触れて身が竦む。売春班にいたときにつけられた痣は大部分が消えたが、臍の横脇にはまだ黄褐色の痣が鮮明に残っている。痣を見た凱が萎えてくれないだろうかと淡い期待を抱いたが無駄だった。痣を揉まれるたびに下腹部を襲う鈍い痛みに顔をしかめ、半ば自棄気味に続ける。
 「なら合理的解決として僕の気を失わせてくれないだろうか。出来るだけ穏便な手段を希望したいが、無理なら急所への一撃ですみやかに気を失わせてほしい。電力を押さえたスタンガンが理想だが、誰か持ってないか?」
 気を失ってしまえばこれ以上いやなものを見ずに済む、痛い思いをせずに済む。
 スタンガンで少々火傷を負うくらい我慢しよう、痛みに慣らされた体なら一瞬の電撃くらい耐えることができるだろう。ズボンの内側にすべりこんだ手が太股を這う感覚におぞけをふるいながら、声だけは冷静に提案した僕に返されたのは蔑笑。
 「馬鹿言うなよ、目え覚めてなきゃヤるほうだって楽しくねえだろうが。お前が悲鳴あげて痛がる姿にみんな興奮するんだからサービスしろよ」
 背後に距離を詰めてきた取り巻き連中に肩を掴まれ、後頭部を押さえこまれた前傾姿勢をとらされる。耳朶で熱い吐息が弾ける、だれか、僕の背後に立った顔の見えない誰かが執拗に耳を舐めている。

 もうどうでもいい。

 頭の裏側でだれかが囁く。もうどうでもいい、僕がどうなろうがかまわない。これから凱たちに輪姦されボロボロにされようがべつにかまわない。僕が傷ついても泣いてくれる人間がいないのなら、自分でさえ泣けないのなら力加減を誤って殺されてもかまわない。
 もう、どうなろうとかまわない。
 『おにいちゃんが死ねばよかったのに』
 それが恵の望みなら。
 それで恵が救われるのなら。
 サムライには悪いことをした。僕のせいで迷惑をかけて、僕を庇って怪我を負わせて。
 でも、僕がいなくなればこれ以上迷惑をかけることもなくなるだろう。
 そして僕は、一抹の諦念とともに目を閉じ。
 「何をしている」
 瞼の裏側に恵の顔を思い浮かべたのと、第三者の声が介入してきたのは同時だった。
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