少年プリズン

まさみ

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百六十四話

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 夢を見てるんじゃないだろうか。
 今僕の手の中には一通の手紙がある。何の変哲もない白い無地の封筒で厚みはないが、こうして手に持って指を触れているとさまざまな感情がこみあげてくる。
 まだ夢を見てるようだ。
 一体何度信じられないと繰り返して自分の正気を疑っただろう、現実逃避の延長の妄想の産物ではないかと訝しんで自己を戒めて手紙の存在を否定しにかかったことだろう。でも何度否定しても手の中には依然として手紙があり幻覚のように消え失せたりはしない。
 この手紙を受け取った時からずっと胸の動悸がおさまらない。鼓膜に響くのは心臓の鼓動と唾を嚥下する音だけ、思考停止状態に陥った頭に浮上するのは懐かしい思い出。まだ僕が「お兄ちゃん」と呼ばれていた頃の、「お兄ちゃん」と呼ばれる資格を有していた頃の記憶。恵に懐かれることが嬉しくて恵に慕われることが誇りで、それだけが僕の、鍵屋崎直に付随する「天才」以外の価値だと信じて疑わなかった頃の些末な記憶の断片。今でも鮮明に思い出せる恵の笑顔に被さるのは五十嵐の優しげな声。
 『お前宛だ』
 そう言って五十嵐に手渡されたのは一通の手紙。おもわず手を出して受け取ってから、僕宛に手紙がきたという事実に驚愕して立ち竦む。驚きのあまり言葉を失った僕を見て五十嵐は微笑ましげに続けた。
 『この前書いた手紙の返事だ。ちゃんと妹に届いたんだよ、よかったな』
 そうだ、確かに僕は数日前恵に手紙を書いて五十嵐に投函を頼んだ。僕から手紙を預かった五十嵐は「任せておけ」と「責任もって届けるから安心しろ」と力強く請け負ってくれた。五十嵐は言葉通りちゃんと義務を果たしてくれた、責任をまっとうしてくれた。放心状態から容易に立ち返ることができず、二階からは死角になった書架の影で手紙を握り締めたまま凝固してる僕を何と思ったか、五十嵐は頬を掻きながら言った。
 『……悪かったな』 
 『?』
 後ろめたげな謝罪に反応して緩やかに顔を上げる。巨大な書架に凭れた五十嵐が、僕の視線に糾弾されるのを恐れたか敢えて目を伏せて吶々と呟く。
 『こないだ住所を渡しに言った時、邪険に閉め出されて「なんだよ」って腹立てちまって……後から知ったんだ、お前が売春班勤務になったって。あの時はちっとも知らなくて、お前の気持ちも知らずに悪いことしちまった。罪滅ぼしっちゃなんだけど一日も早くこれ届けたくてな、ほんとは視聴覚ホールで皆と一緒に渡さなきゃいけねえから内緒だぜ』
 すまなそうに伏し目がちで語る五十嵐を見上げ、手の中の手紙を見下ろす。メモは既に破り捨てて存在しないが恵が入院してる病院の住所は完璧に暗記してる。手紙を書くのに何の問題も発生しなかった。便箋は以前レイジから貰った残りを使用したし、鉛筆でも読みやすいよう字は大きく丁寧に書くよう心がけたつもりだ。恵はまだ11歳だから出来るだけ難しい漢字はひらがなに直し、平易で簡潔な文面になるよう工夫した。
 届くだけで十分だったのだ。五十嵐に手紙を渡した時点で僕は大いに満足していたのだ。
 この上返事を期待するのは虫がよすぎると自戒していた。僕は恵の実の両親を殺害し、恵から家族を奪った張本人なのだから殺したいほど憎まれこそすれ一方的な手紙に返事などくるわけがないと、両親を殺害して刑務所に服役中の兄から手紙がきたところで迷惑でしかないと、せっかく出した手紙も封を破かれることなく目を通されることなく破棄されても仕方ないと諦観していたのだ。
 でも現実に、返事が届いたのだ。
 この半年間僕が心から待ち望んでいた手紙が、何より大事な妹からの手紙が。
 心の底ではだれよりなにより見捨てられることを恐れていた最愛の家族からの手紙が。
 『よかったな』
 五十嵐の声が鼓膜に染みた。

 図書室からの帰り道のことは殆ど覚えていない。
 不条理な夢の中を漂っているように現実感が抜け落ちて頭が朦朧として思考が正常に働かなかった。自分の足が足じゃないような、自分の手が手じゃないような奇妙な浮遊感が付いて回ってちゃんと床を踏んで歩いてる気がしなかった。途中何人かの看守か囚人とすれ違った気がするがよく覚えてない。図書室を出る時、ロンがやけに嬉しそうな顔をしていたのが印象に残った。自分のことでもないのに何故ああも単純に喜べるのか理解できない。ふらふらしながら房に帰り着き、片方のベッドに腰掛けたところまでは記憶にある。
 それからしばらくぼんやりと虚空を見つめていた。
 しばらく、と言っても実際には数時間は経過していたのだろう。我に返ったのは強制労働を終えた囚人が廊下にごったがえしはじめた頃だ。ショック冷めやらぬ放心状態がどれ位続いたのか正確な時間はわからないが、いつまでこうしてても埒が明かない。夕食が始まる前に封を開けて中身を改めようと深呼吸する。

 無理だった。
 どうしても出来なかった。

 くりかえし深呼吸して心を落ち着けようとしたのに、いざとなると指が震えてどうしても封が破けなかった。どうしたんだ一体、しっかりしろ鍵屋崎直。天才のくせに情けないぞ。そう自分を叱咤し、何度目を閉じて暗示をかけたことだろう。大丈夫だ、何も恐れることはない。僕は今日までさまざまなことを体験して多少は打たれ強くなったんだから、もう何が起きても傷つかないほどに心が麻痺してしまったんだから仮に手紙にどんなことが書いてあっても、どんなに厳しい糾弾の言葉や激しい断罪の言葉が連ねられていても逃げずに正視できるはずだ、受け止めきれるはずだ。
 恵に拒絶されるのは怖い。でも、読みたい。
 僕には恵の思いを、哀しみと孤独を受けとめる義務がある。今ここで逃げるのは許されない。たとえ手紙に何が書いてあったとしても冒頭から文末まで全部目を通して恵の気持ちを真摯に受け止めなければ兄失格だ。いや、この期に及んで一抹の期待に縋っていたのも否定できない。もしかしてひょっとしたら、恵は僕のことを許してくれたんじゃないか?許してくれたからこうして返事をくれたんじゃないか?まさか。僕は戸籍上の両親を殺して最愛の妹を精神病院送りにした人間だぞ、そんな人間が世間からはおろか遺族から許されるわけがないじゃないか。どこまで図々しいんだ僕は、ありもしない幻想に性懲りなく縋ってる現状には吐き気さえおぼえる。
 でもこうして返事をくれたということは、少なくとも恵は僕からの手紙を無視しなかったということで。
 ちゃんと読んでくれたということで。

 『お前の気持ちが風に乗って大事な人のもとに届くように祈れ』
 『手紙は届かない。だが、想いは届くかもしれない』
 
 いつだったかサムライは言った。願えば叶うと、信じれば報われると。
 僕はサムライを信じていいのか?サムライの言葉を額面通りにとって希望を持っていいのだろうか?
 僕が五十嵐に託した手紙は無事恵のもとに届けられ数日を経て返事が返ってきた。その事実だけでも身に余る幸運なのに、これ以上の幸福など夢見ていいのだろうか。夢見ることが許されるのだろうか。
 「………よし」
 小さく呟き、何度目かで封に手をかける。一息に封を破こうとした指が怖気づき、やはり不可能だと思い知らされる結果になる。馬鹿な。なにが不可能なんだ、まだ封を破いてもないくせに。これじゃ中の手紙に目を通すまで何時間何日かかるかわからない。
 しっかりしろ、お前は天才だろう鍵屋崎直。恐れるものなどなにもない、怖がる必要などどこにもない。優れた知力を持ってすれば世に克服できないことなどないはずだ―
 扉が開いた。
 「……鍵屋崎?」
 「!」
 突然呼びかけられ、動揺の余り手紙を取り落としそうになり慌てる。床に落ちかけた手を寸前ですくいあげて長々と安堵の息を吐く。ベッドから腰を浮かした僕をうろんげに眺めているのはたった今房に帰ってきたサムライだ。
 ……気まずい。   
 「……ノックくらいしろ。デリカシーがない人間は最低だ、ここは君一人の居住空間じゃないんだぞ。最低限プライバシーには配慮してもらいたいな」
 醜態を晒したことが気恥ずかしく、気忙しく眼鏡のブリッジを押し上げてごまかせば大股に床を横切ったサムライにあきれたように指摘される。
 「鍵がかかってないのにプライバシーもなにもないだろう」
 ……忘れていた。注意され、初めて鍵をかけ忘れていたことに気付く。施錠が習慣化して久しいはずなのに今日の僕は本当にどうかしている。不用心にも鍵をかけずにベッドに座りこんでいた僕を眺めるサムライの目にも気のせいか不審の色がある。
 「どうかしたのか?」
 「……どうもしてないが」
 「相変わらずお前の嘘はわかりやすい」
 失笑されてムッとする。この頃サムライは僕と二人で居る時だけごくたまに笑顔を見せるようになったが、こんな風に失笑することはないだろう。僕のことを何でも見通されてるようで心が落ち着かなくなる。
 心許なく目を伏せれば自然と手の中の手紙に目が吸い寄せられる。僕の視線につられて手の中を覗きこんだサムライが怪訝そうに眉をひそめる。
 「その手紙は?」  
 何と言おうか一呼吸迷い、結局真実を口にする。
 「五十嵐に渡された。その、恵の、妹からだそうだ」
 たどたどしくつまずきながら告げればサムライの顔にかすかな驚きが浮かぶ。驚きの波紋はすぐに沈静化し、変わってサムライの顔に浮かんだのは若々しい笑顔。
 「そうか。よかったな」
 失笑でもなければ冷笑でもない、あたたかな感情が流れこんでくるような誠実な微笑み。気のせいか頬が熱くなり、サムライの顔をずっと見ていられなくなる。
 また沈黙が落ちた。
 「……読まないのか?」
 「今から読もうと思っていたところだ」
 即座に言い返すが、封筒にかけた手はそのまま硬直してしまい指も動かない。サムライの視線を過剰の意識しつつ瞠目、深呼吸。心臓の鼓動がうるさいくらいに高鳴り、口の中が異常に乾く。
 手紙を右手に握り締めたまま腰を上げ、憤然とした大股で扉に向かう。物問いたげな眼差しで背中を見送るサムライの方は見ず、早口に言う。
 「分厚いコンクリートで密閉されてるせいかここは空気が悪い。新鮮な酸素を吸ってくる」
 ノブを回し廊下に出る。乱暴に鉄扉を閉じ、背中に注がれる視線を遮る。そのまま数歩歩む、と見せかけて壁に凭れかかって廊下にしゃがみこむ。 
 なにをやってるんだ僕は?
 廊下の端で力尽きたように屈みこんだ僕へと注がれるのは通行人の好奇の眼差し。見世物じゃないぞ、くそ。そう抗議したいのは山々だがいちいち通行人にかまってる精神的余裕がない。とりあえず廊下にでて頭を冷やそうと適当に理由をこじつけて出てきたのはいいが時間稼ぎにも限界がある。冷たい壁に背中を預け、俯く。
 
 『おにいちゃん』
 『おにいちゃん、かけ算教えて。七の段苦手なの』
 『おにいちゃんはすごいね、なんでもできて。わからないことなんかなにもなくて』
 『恵もおにいちゃんみたいになりたい。頭がよくなればお父さんとお母さんに誉めてもらえる、こっちを見てもらえるでしょう』

 ―『おにいちゃんが死ねばよかったのに』―

 「……許してくれるのか?」
 僕は許されるのか?
 数日前、鏡の中に見た恵の幻影が脳裏を過ぎる。あれは僕の自己嫌悪の産物で現実には存在しない虚像で、でも一面では真理を言い当てていて。僕は恵を守る為に両親を殺害したが、結局それはただの自己満足に過ぎなかったんじゃないか?恵の為恵の為と口では言い訳しつつ、心の底では自分の存在意義を失うの怖さに凶行に及んだんじゃないか?
 恵を守ることでしか僕は自分の存在意義を実感できない。
 「天才」という付加価値以外の存在意義がないなら、鍵屋崎直という固有名詞を持つ人間はこの世に必要ないんじゃないかという疑問がいまだに心から拭い去れないのだ。
 手の中の手紙を見下ろし、壁に凭れかかるようにして立ちあがる。
 一時的に廊下に逃避してきたはいいが、いつまでもこうしてるわけにはいかない。逃げるのは可能でも逃げ続けるのは不可能だ。扉を開け、房に戻る。サムライを無視して床を横切って自分のベッドに腰掛ける。
 あれほど待ち望んでいた恵からの手紙だが、いざ手にしてみると喜びよりも恐怖が勝っている。
 恵はまだ手紙の中で僕を「おにいちゃん」と呼んでくれているのか?わからない。僕のことを許してくれたのか?わからない。封を破き、この目で確かめるのが怖い。東京プリズンでの過酷な日々の中唯一心の支えとなっていた恵の思い出を壊したくなくて、この世にただ一人の妹に拒絶されたら生きる気力さえ失ってしまうんじゃないかと危惧して今まで逃げ続けてきた恵の本音と向き合うのが怖いのだ。
 「大丈夫だ」
 励ましの声に顔を上げる。
 対岸のベッドに腰掛けたサムライが僕の葛藤さえ包みこむような深い眼差しを注いでいた。
 「お前は強い。大丈夫だ」
 「無責任なことを言うな、大丈夫じゃないかもしれないだろう」
 声が震えた。情けない、サムライの前でこんな醜態を晒して。指の間接が白く強張るほど手紙を握り締めて下を向けば、裸電球もつけない夕闇の房に力強く優しい声が響く。
 「お前が大丈夫じゃなくなったその時は俺がいる。だから大丈夫だ」
 指の震えが止まる。
 「大丈夫だ」なんて何の根拠もない繰り言にあっけなく説得されてしまうなんてどうかしてる、本当にどうかしてる……否、どうかしていてもかまわない。サムライの声を聞いて励まされて、少しだけ心が軽くなったのは事実なのだから。
 不覚にも安心してしまったのは事実なのだから。
 そして、封を破く。心臓が壊れそうに高鳴り、喉が詰まりそうに息苦しくなる。一息に封を破き、逆さにして便箋を取り出す。逆さにした封筒からすべりおちてきた便箋を手にとり、広げる。
 
 長い長い時間が経過した。

 重苦しい沈黙が落ちた房の中に夕闇が押し寄せる。物量的な圧迫さえ感じさせる夕闇に呑まれて正面にいるはずのサムライの顔が見えなくなる。
 「……何が書かれてたんだ?」
 暗闇に沈んで表情がわからないサムライが、様子がおかしい僕を気遣って不器用に声をかけてくる。
 便箋を手に持ったまま、僕は何も返す言葉がなく放心していた。
 そこに書かれていたのが、良い意味でも悪い意味でも僕の予想を裏切る思いがけない内容だったから。
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