少年プリズン

まさみ

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百六十三話

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 「レイジとサムライさー、なんかあったのかな」
 「はい?」
 パソコンキーの上を舞っていた指が止まり、液晶画面を埋めた0と1の数字の羅列が青白い光を纏ってぼんやり浮かび上がる。
 僕には全く意味不明な数字の羅列がビバリーにとっちゃ世界の秘密を暴く鍵にひとしい神聖かつ重要な意味を帯びるんだろう。パソコンの免疫機構を完膚なきまでに破壊しちゃう悪性ウィルスを世界中にばらまき、最重要機密として厳重管理されてた政府のデータベースに鼻歌まじりに侵入した経歴をもつ稀代の天才ハッカーは刑務所にいる分には朗らかで気さくで実に接しやすい人間だ。
 「レイジとサムライ様子おかしかったじゃん。ほら、食堂でさ。いつもは一緒に食事とってるのに今日なんか目も合わせないでお互いのこと無視してさ、鍵屋崎とロンがひやひやしてんの」
 「たまには別々に食事とりたい気分だったんじゃないすか」
 「いや、もっと雰囲気険悪だったよ」
 ベッドに胡座をかき、踵と踵を擦り合わせて天井を見上げる。配管剥き出しの天井に投影するのはペア戦開幕から一夜明けた今朝、食堂での出来事。
 僕とビバリーが指定席にしてる見晴らしのよい二階席からは一階の大パノラマがよく見渡せる。
 端から端へずらりとテーブルが並んだ景観は幾何学美さえ感じさせる壮大さだが、通路にごったがえす空きっ腹の囚人が腕づく力づくで互いの飯をぶんどった挙句、「俺のマッシュポテト返せ!」「はん、そのコンソメスープ鼻から呑んだら返してやるよ!」と意地汚く罵り合ってるとあっちゃ戦場の光景にしか見えない。のんびりしてると蹴りがとぶパンチがとぶ頭突きが来る、他人より一品でも多くおかずを死守すべく体を張り命を賭け、床に寝転がって取っ組み合いを演じる連中を見下ろしながらご飯を食べるのが僕の日課。
 で。レイジとサムライは大抵一緒に食事をとってるんだけど、あいつらが指定席にしてるテーブルがちょうど眼下にあたるんで観察にはもってこい。

 レイジは朝から不機嫌だった。

 いつもへらへら笑ってるレイジには珍しく気難しいツラでマッシュポテトをかきまぜていたが、ふと顔を上げたロンの視線につられて通路を振り返り、不快げに眉をしかめる。
 サムライがいた。隣には鍵屋崎もいる。
 レイジはぷいとそっぽを向き、大股に接近してくるサムライを無視。サムライも同様で、レイジが陣取ったテーブルのそばで歩調を緩める気配もなければ一瞥くれる素振りもない徹底無視の構えを貫き通す。憮然とフォークをくわえ、不作法に頬杖ついたレイジの背後を素通りしたサムライが単調な歩幅で遠ざかってゆくのをはらはらしながら見送るロン。サムライに遅れること数歩、トレイを抱えて立ち竦だ鍵屋崎が嘆かわしげにかぶりを振る。
 『なあロン知ってるか?』
 唐突にレイジが話しはじめる。
 『なにをだよ』
 サムライとレイジを見比べて気もそぞろな隣のロンが答える。
 『武士の条件。頑固で強情で意地っ張りで仏頂面。この四つをクリアしないとホンモノの武士にはなれなんだとさ。うちの棟のサムライ気取りは完璧に条件満たしてるからさぞかし頼もしい武士なんだろうな、「帯刀」のファミリーネームにも名前負けしない』
 食堂中に響き渡るとはいえないまでもサムライのもとにはしっかり届く大きさの声でレイジが言う。
 『俺の手助け拒んで斬った張った演じるつもりらしい目立ちたがり屋だからな、みっちゃんは。一度リングに上がって味しめちゃったのかね?スカした面して意外と自己顕示欲旺盛だったんだな、長い付き合いになるけど全然知らなかったぜ』
 椅子の後ろ脚に体重をかけて揺らすレイジの全身から発散されてるのは腹の底で燻る不満が昇華した陽炎のオーラ。長い足をテーブルに放り、椅子を軋らせながら嘲笑する王様に周囲のガキどもがざざっと距離をとる。

 さわらぬ王に祟りなし。賢い選択だ。

 サムライは無言でマッシュポテトを咀嚼していた。レイジの声が耳に入ってないはずないが、にもかかわらず冷静な表情は崩さない。幼稚ないやがらせなどまるで相手にしない大人な対応に反発したレイジが口角を吊り上げる。
 『童貞のくせに』
 ……ちょっと王様、世の中には言っていいことと悪いことがあるよ?
 『ロンもそう思うだろ?ぜってー童貞だってアイツ。で、口癖が「自分不器用ですから……」に決まり。一度も女抱いたことないんじゃ融通利かないのも道理だな。写経が趣味のくせに自分の筆おろしはまだなんて恥ずかし、』
 『いい加減にしろレ、』  
 『ゲスが』
 食堂に冷気が吹き渡った。
 レイジの襟首を掴んで説教しようとしたロンがそのままの姿勢でぎこちなく固まり、上品にコンソメスープを啜っていた鍵屋崎が椀を持ったまま硬直する。周囲の席のガキどもが冷気にあてられて凍った中、重苦しい沈黙を物ともせずパンをちぎりながらサムライが続ける。
 『お前のように品性下劣な男の戯言などまともに取り合うのも嘆かわしい。お前が外で何人何十人何百人女を抱いてきたか知らんがお前にもてあそばれ捨てられた哀れな女達には同情を禁じえんな』
 『童貞のひがみか?そっからさきは最低五人以上女抱いてから取り合ってやるよ……おっと悪い、お前もう一生娑婆に出られないんだっけ。じゃあ一生童貞で決まりだな、可哀想なみっちゃん』
 『お前もだろうレイジ。刑務所の中でこそそうやって威張り散らしてられるがひとたび外に出たら誰もお前など見向きもせん。お前のような言動すべてが卑しく下賎な男の肌を好くのはせいぜい……』
 無表情に口の中のものを咀嚼しながら、言う。
 『蚊だな』
 ……それから先のことは正直思い出したくない。
 とりあえずこれだけは言える。王様とサムライの喧嘩に僕たちを巻き込むのはやめてほしい、気まずさを通り越して雰囲気が悪化して食事も喉を通らなくなる。いつフォークが翻りしな凶器に代わるかもしれない殺伐とした環境でご飯食べるのはごめんだ、消化に悪いじゃないか。
 「昨日、なんかあったのかな」
 「昨日のペア戦スか?」
 「それっきゃ考えられないでしょ、一昨日まで普通に食事してたのに」
 「リョウさんペア戦観に行ったんでしょう、ふたりの喧嘩の原因心あたりないスか」
 痛いところを突かれて黙り込む。あまり蒸し返されたくない話題だけど、ビバリーが目で尋ねてくるから仕方ない。
 「……行ったけど観れなかったんだ、試合」
 「?何故っスか」
 頭の位置に手を翳して水平移動させる。
 「背が足りなくて」
 ビバリーの顔に同情と理解が半々に交わる納得の色が浮かぶ……納得されるのもそれはそれで不愉快だけどさ。僕がペア戦見物に行った時はもう前の方は埋まってて、遥か後方からじゃどんだけつま先だって背伸びしても照明を眩く照り返す金網のてっぺんしか見えなかった。
 ちびで悪かったね、畜生。 
 「まあ観れなくてもべつに悔しくないもんね、一試合五分もかけずにレイジの圧勝だったって言うし観てもつまんなかったよあっけなさすぎて。だから全然悔しくないもんね、本番はこれからだし本番に間に合えば問題ないし」
 「正直になりましょうよリョウさん……」
 「失礼だね、僕ほど欲望に正直に生きてる人間東京プリズンにいないよ」
 むくれた僕を何とも形容しがたい複雑な眼差しで眺めながらため息ついたビバリーが人さし指をキーに着地させる。終了の合図。明かりが消えたパソコンを床に膝をついてベッドの下に隠したビバリーが凝った腰に後ろ手をあてて伸びをする。
 「さて、夕食まであと五分。気分転換がてらちょいと展望台までお散歩しませんか」
 「インドア派のビバリーがどうしたの珍しい」
 「コンクリートの穴ぐらに閉じこもってちゃ体に悪いでしょう。たまには新鮮な空気吸わなきゃ」
 ずっと床に座りこんでパソコンに熱中してたせいで筋肉痛がこたえてるらしい。腰に両手をあてて立ち上がったビバリーを目で追いながら少し逡巡する。散歩か、悪くない。東京プリズンは周りを何もない砂漠に囲まれた辺鄙で殺風景なところだけど、西の地平線に沈む夕日の絶景はそうそう捨てたもんじゃない。目の保養がてら砂漠の彼方に沈む夕日の絶景を見物してくるか、とビバリーに付き合って腰を上げる。
 いくら僕がチビでも空一面を染める夕日なら誰に邪魔されることなく眺めることができるだろうしね。

 展望台には先客がいた。
 三々五々、好き勝手に展望台に散らばって残照を浴びてるのは夕食開始までのほんのわずかな時間、西の地平線に没する夕日を見にやってきた物好きな囚人だろう。目も潰れそうな茜色の光に満たされた西空に手庇をかざせば、折から吹いた砂漠の風が髪をかきまぜて頬を撫でてゆく。
 東棟の展望台は夕日を見るには絶好の穴場だ。
 日中の暑気が拭い去られた頃に展望台に出た僕の目に真っ先にとびこんできたのはコンクリートの突端に腰掛けた人影。逆光で黒く塗りつぶされた背中に目を凝らし、ビバリーが叫ぶ。
 「ロンさんだ。おーい!」
 いつかと同じように展望台の突端から足をぶらさげていたのはロンだった。親しげに手を振りながらロンのもとに駈け付けたビバリーが暮れなずむ空を仰ぎ、橙色に燃える残照の眩さに目を細める。
 「うわー綺麗っスねえー。ロンさんも夕日見物に?」
 「そんなとこ」
 「なんか機嫌いいね」
 格好つけて黄昏てるロンの声がどこか弾んでることに気付く。気まぐれに宙を蹴る足からも上機嫌な様子が伝わってくる。
 「何かいいことでもあったの」
 「知ってるか?台湾語で手紙のこと何て言うか。『信』って言うんだ、信じれば叶うの『信』」
 ?わけがわからない。不審げに眉をひそめてビバリーと顔を見合わせてるあいだじゅうロンは鼻歌まじりに宙を蹴っていた。へたくそな鼻歌だった、レイジの音痴が伝染したのだろうか。
 「!そうだ」
 気分よさげな鼻歌が途切れる。コンクリートの地面に手をついて向き直ったロンが一転真面目くさった顔でビバリーを見上げる。
 「おまえビバリーヒルズ出身だよな」
 「ええ、その通りっス。僕は生まれも育ちも生粋のビバリーヒルズっ子で5歳でベンツ転がして10歳で株転がしに目覚めたアメリカンバブルの申し子っス」
 「ビバリーヒルズはアメリカの中にある」
 「……いや、勿論そりゃそうっスよ?アメリカの地名っスよ?まさかロンさんビバリーヒルズが国名だとでも思ってたんスか今の今まで」
 「殴るぞ、いや突き落とすぞ。いくら俺が馬鹿でもそんくらい知ってる、確認しただけだっつの。生まれも育ちもアメリカなら『ストレンジ・フルーツ』って聞いたことないか?レイジがよく口ずさんでる」
 「知ってるも何も我らがレディ・ディーことビリー・ホリディーの名曲じゃないスか!」
 まったく話についてけない僕を尻目にロンの隣に腰掛けたビバリーが驚く。ビバリーがひょうきんに唇を尖らせて奏ではじめたのは情感たっぷりな鼻歌。夕暮れ、過ぎ去りし日々への郷愁をかきたてる甘い旋律が風にさらわれて展望台を吹き渡る。
 なんだか無性にママが懐かしくなって泣きそうになった。
 目尻に滲んだ涙がビバリーとロンにバレないよう慌てて袖で拭けば、コンクリートの突端から漫才めいたやりとりが聞こえてくる。
 「……と、まあこんな感じっス」
 「……ちょっと待て、全然違うじゃんか!?」
 「何が違うんだかわかりませんがロンさんがこんな古い歌知ってるなんて驚きっスー。いや、結構ダークなんすよ歌詞の内容は。『黄昏の丘の上 木の枝に何かがぶら下がってる それはリンチで殺された黒人の死体 木の枝に吊られて揺れるそのさまはまるで奇妙な果実のよう』って……」
 ……ちょっと待て。僕の涙返して。
 真相を知って絶句したのは僕だけじゃないようで、開いた口が塞がらない状態のロンがとってつけたように咳払いする。「あいつちゃんと意味わかって歌ってたのかよ」とぼやきながら続けて問い掛ける。
 「『びこーずあらふじゅのきーみー』は?」
 「……すいません、おそらく英語だろうと名推理するしかないんスが発音最悪なせいで今のが英語かはたまた魔法の絨毯を呼び出す呪文かモーレツに不安になってきました」
 「……ロン。きみちょっと、その発音はひどすぎる。立ちくらみ覚えたよマジで」
 「うるさい黙れ、これでも忠実に再現してんだよ」
 「わかったわかりました!訳せるまで付き合いますから僕の襟首を掴まないでくださいっス!」
 なんだかんだ言いつつ面倒見がいいビバリーがロンの熱意に負け、もろ手を挙げて降参する。それからしばらくロンと額を突き合わせ、ふむふむと頷きながら注意深く耳を澄ましていたビバリーの顔がぱっと輝く。
 「『Because I laugh, do not kill me』?」
 「それだ!!」
 我が意を得たりとロンが膝を打つ。おいおい待てったら待て、十二回に及ぶ熱心な反復の末に意思疎通が成立したロンは無邪気に喜んでるけど君それさっきの発音から再構成できたのが奇跡に近い英文だよ?
 あきれ果てて口もきけない僕をよそに、ようやく意味を汲み取ることができた英文を簡潔に訳すビバリー。
 「『笑うから殺さないでください』」
 「え?」

 「『笑うから殺さないで』って意味っスよ、それ」

 ……なにこの後味悪い沈黙。
 地雷を踏んだあとの静けさがたちこめる中、不自然な笑顔で硬直したまま動けずにいるロンの傍らに座りこんだビバリーが「え?え??僕なにかまずいこと言いましたか言っちゃいましたか!?」と身振り手振りをまじえて焦る。潤んだ目で助けを求められても背後で黙って見てただけの僕にはどうしようもなく、「リョウさん何とか言って、なんすかこの僕が悪者みたいないやーな雰囲気は!?僕悪くないっスよね、ロンさんのクソがつくほど下手な英語噛み砕いて訳してあげたのにあんまりっスこの仕打ちは!!」と膝にすがりついてくるビバリーの頭をよしよしと撫でてやるしかない。
 茜色の残照が萎み、展望台の上に夜の帳が落ちてくる。
 空に押し寄せた夕闇に影を呑まれながら、コンクリートの突端から足をたらしたロンが呆然と呟く。
 「……寝言にしちゃ物騒すぎるぜ」
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