少年プリズン

まさみ

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百六十二話

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 東西南北四つの棟に君臨するトップにはそれぞれ異名がある。 
 東棟の王様、北棟の皇帝、西棟の道化、南棟の隠者。
 この異名は四人それぞれの性格やら人柄やらに由来している。現ブラックワーク覇者のレイジが「最強」の称号を有する「王様」で、それに続くのがロシア人至上主義の恐怖政治を敷く誇大妄想狂の「皇帝」サーシャ。「西棟の道化」より「図書室のヌシ」のあだ名のほうが通りがよくて親しみやすいヨンイルは暇な一日図書室にこもって漫画を読み耽ってる趣味人。レイジとヨンイルには読書という共通の趣味があり、お互いあけっぴろげな性格してるから四天王の中じゃいちばん気安く話せるし仲もいいとは本人談。

 じゃあ、南棟の隠者は?……知るか。

 「隠者」というくらいだから表にでるのが好きじゃない恥ずかしがり屋なんだろうと勝手に予測してるが、四天王の中じゃ目立たない最下位にあたるせいか今まで気にしたこともなかった。噂によると「素手で五人殴り殺せる鉄の拳の持ち主」らしいが所詮は噂、どこまで本気かわかりゃしない。
 何故今「隠者」のことを思い出したかというと、廊下を歩いてる途中にふとホセの顔が脳裏に浮かんだからだ。
 まったく変な奴だった。初対面の俺にもなれなれしく話しかけて握手なんか求めてきて……南棟の人間は皆ああなんだろうか?ラテン系の囚人が多い南棟の雰囲気はおおらかで開放的。初対面の人間にああも積極的に友情の押し売りができるノリのよさはラテンの血が流れる人間の特徴だろう、と結論付ければ自然とまだ見ぬ南の隠者へと思いが飛ぶ。レイジとサムライが順当に勝ち進めばおいおい西南北のトップと当たるんだろうが……そこまで考えて憂鬱になり、ため息をつく。

 話を戻す。

 なぜ強制労働免除特権が与えられる娯楽班上位者でもなんでもないただの囚人の俺が、地下停留場からバスが出払っちまった午前中に廊下をぶらついてるかというと売春班休業状態でしばらく体が空いてるからだ。
 ブラックワークペア戦の結果がでるまで売春夫の処遇は保留。性欲処理が目的で売春夫を買いにきた客は全部まとめて面倒みてやるとレイジが宣言し、その噂が東西南北全棟隅々まで行き渡る頃には売春通りには人っ子一人看守一匹いなくなった。
 王様の影響力は偉大だ。
 レイジはああ言ったが、売春夫が抱けないからレイジを抱こうと他棟から出張してくる命知らずはまずいない。だれだって豹と添い寝としたくはないだろう、キスする演技で喉笛噛みちぎられるかもしれないのに。レイジの強さが身に染みてる東棟の連中に至っては王様の半径1メートル以内に近付くのだって尻込みしていやがるありさまだ。
 レイジの貞操は東京プリズン末代まで安泰だろう、と思いたいがもし100人抜き達成しなければ俺と鍵屋崎だけでなくレイジまで売春班に落とされるのは不可避の処分。サムライは手首の腱を切られた上に処理班に回されることを考えれば俺たち四人は最悪の運命共同体といえる。
 つまり……
 「喧嘩してる場合じゃねえだろ」
 そう、この一言に尽きる。
 渡り廊下を渡りきり、図書室の扉を開ける。中はがらんとしていた。三階まで吹き抜けの開放的な構造で各階には整然と書架が並び、閲覧用のテーブルが等間隔に配置されてる。図書室が本格的に賑わいだすのは強制労働を終えた囚人たちがやってくる夕方で、大半の囚人が出払っちまった真昼間は訪ねる物好きとていないのだろう。ごく一部の例外を除いては。
 看守が暇そうにしてるカウンター前を足早に通過、軽快に階段を上る。売春班が休止に追いこまれて晴れて自由の身になれたのは願ったり叶ったりだが、そうすると今度はなにもやることがなくなる。東京プリズンにきてから一年半、ごく限られた自由時間以外に好き勝手に振る舞える余暇がなかったせいかせっかく暇になっても何をしていいかわからない。

 で、やることなくなった時に訪ねるのは図書室だ。

 暇潰しには漫画が最適、なんて言うと鍵屋崎に睨まれそうだが読む方の日本語は得意じゃない俺には漫画くらいしか読めないんだから仕方ないだろ。漫画なら絵を追ってりゃ自然と内容が飲み込めるし俺みたいな馬鹿でも読める、とか言ったら今度は某道化に怒られるだろうか?  
 一段飛ばしで階段を上がり、二階に到着。漫画の書架を目指して進む。今この状況で呑気に漫画なんか読んでていいのかよ、と自分にツッコミたいのは山々だがひとりでぐだぐだ悩んでても仕方ない。囚人にも気晴らしは必要なのだ、とそれらしく言い訳した……
 その時だ。
 「だからな、ブラックジャックとDrキリコの関係には好敵手という言葉がふさわしいと思うんや」
 「『好敵手』には語弊がある。ブラックジャックは人を生かす医者でキリコは人を殺す医者だ。両者とも『人を救いたい』という思いは共通してるが手段が相容れなければその価値観もまた相容れない。必然彼らは互いを唾棄し、互いが医療に賭ける信念を否定せざるをえない。それならまだ『天敵』のほうが二人の関係を的確に正確に表してるんじゃないか?」
 「読みが浅いな。お前はブラックジャックの何を見てたんや、お互い相容れないからこその好敵手やろ。ええか、ブラックジャックはキリコのことを忌み嫌っとるけど半面抗いがたい魅力も感じとる。キリコにもおなじことが言える。二人とも心のどっかでは相手の言い分も最もやと、一面じゃ真理を突いてると重々承知してるんや。でもそれを認めてもうたら自分が今まで信じてきたもんやコツコツ積み上げてきたもんが一瞬で瓦解する。せやからブラックジャックはキリコを、キリコはブラックジャックを認めるわけにはいかへんのや。心の底では抗いがたい魅力と共感を覚えとっても表にだすわけにいかん究極の友情、これを好敵手といわずして何と言う?」
 「君の読解力のなさには絶望を通り越して疲労さえ覚えるな。いいか、いちから説明するぞ。まずDrキリコ初登場シーンから引用……」
 「鍵屋崎?」
 いた。一面漫画で占められた書架に凭れ掛かり、喧喧諤諤の議論を繰り広げていたのは声から予想したとおり鍵屋崎だった。腕組みをほどいて俺を振り返った鍵屋崎の顔に「しまった」という表情が浮かぶ。
 「……これはその、誤解だ」
 「いや、まだ何も言ってないけど」
 「君が妙な誤解をする前に言っておくが僕は漫画なんて低俗な書物にはさっぱり興味がない、今ここにいるのはそう、偶然だ。本を探しに二階にやってきてたまたま漫画の棚の前を通りかかっただけだ。君と同じく暇を持て余した挙句に良い機会だし手塚治虫の著作に目を通そうなんて不純な動機でこの僕が図書室に足を運ぶわけないじゃないか、見損なわないでくれないか」
 眼鏡のブリッジを押し上げるのは動揺してる証拠だ。現場を押さえられてもなお偶然の通行人を装うつもりらしい鍵屋崎に「いやもうバレバレだから」と教えてやりたくなったがこれ以上追い詰めるのも可哀想だし見て見ぬフリをしてやる。
 ……いい奴だな俺。
 「えーと、お前は」
 鍵屋崎の正面、書架に凭れ掛かっていたのは針金のような短髪とゴーグルが特徴的なガキ。
 「思い出した、アトムもといロン」
 「もといってなんだよ」
 西の道化、ヨンイルだ。
 ヨンイルはしょっちゅう図書室に入り浸ってるから遭遇率は高いが、俺の顔と名前を知ってたのにはびっくりした。まあヨンイルとこうやって言葉を交わすのは初めてだがこれまでレイジの肩越しに顔見たり何だりしたし、何より四天王の中じゃダントツに話しやすい部類だから不自然な間を空けることなくタメ口で返せたのだが。
 腕組みして書架に凭れたヨンイルが笑顔を浮かべる。
 「ちょうどええ、お前も混ざるか。本日の討論、テーマはブラックジャックとDrキリコの関係性について。二人の間に友情は成立するかどうか。俺はする派でなおちゃんはしない派」
 「ちょっと待て、そんなくだらない議論に参加表明した覚えはないぞ」
 「またまた、さっきまでえらい乗り気やったのに。ブラックジャックは患者を救うことに命賭けとるクールでダーティーなふりして中身は熱い医者だからキリコみたいなド外道許せるわけないて熱弁……」
 「人の意見を捏造するな。僕はただ『ブラックジャックは人間を肯定してる、人間という種の根源的生命力に信頼をおきいかなる難解な手術にも最善を尽くし患者を救おうと努力する。そんな彼が安楽死という対極の手段をとるDrキリコを好敵手などという狭義の呼称で括るわけがない』と……」
 そこで鍵屋崎がハッと言葉を切り、よそよそしく眼鏡の位置を直す。俺の眼差しも大分生ぬるくなってたようだ。照れ隠しだろうか、咳払いでごまかした鍵屋崎が鋭い目で睨んでくる。
 「何故君がここにいるんだ?普段本を読まない人種が図書室に来るなんて心境の変化でも起きたのか」
 「ただの暇潰しだよ。昼間やることないし」
 そういえば、と向かいのヨンイルに目をやって思い出す。売春通りで発生したぼや騒ぎはレイジが通気口に投げこんだ煙玉が原因だがそれを細工した職人は一人しか思い浮かばない。
 「……西の道化」
 若干緊張して呼びかける。書架から適当に抜き取った漫画をぱらぱらめくってたヨンイルが顔に疑問符を浮かべてこっちを見る。ゴーグルに隠れてるせいで目の表情までは読めないが、懲役二百年の西のトップに見つめられてると思えば背中に冷や汗が流れる。
 「レイジに煙玉渡したの、おまえだな」
 「ああ」
 「なんだそんなことか」と速攻興味をなくしたヨンイルが手元の本へと視線を戻す。
 「レイジに耳打ちされたからパパッと渡してやったんや。ぼや騒ぎ程度の威力なら大した材料要らんしな、お前がケツ掘られる前に出来あがってよかったわホンマ。あと一日完成遅れてたらレイジに殺されてたかもわからん」
 悪びれたふうもなく飄々と笑うヨンイルに確信する。こいつは間違いなくレイジの同類だ。
 ……しかしそうすると俺の命の恩人、いや貞操の恩人は巡り巡ってヨンイルということになるのか。こいつがいなけりゃぼや騒ぎのどさくさに紛れて脱出することも不可能だったし感謝しなけりゃ罰が当たるかもしれない、と自戒した俺の横で鍵屋崎がぽかんとしてる。
 「……君が西の道化だったのか!?」
 「「は?」」
 なにをいまさら。……いや、本当にいまさらだ。
 「まさか気付いてなかったのかよ?」
 「まさか気付いてなかったんか?」
 「語尾だけ変えて同じことを言うんじゃない、くどい。……いや、誤解するなよ。まさかこの僕が真実に気付いてないわけないじゃないか。彼が西のトップだということは薄々勘付いていたが確信が持てずに答えを保留していただけだ。確たる証拠もないのに彼が西のトップだと断定するのは早計かつ短慮というものだろう。信頼できる結論を下すにはまず説得力ある証拠を揃えなければ机上の空論で終わってしまうからな」
 落ち着きなく眼鏡のブリッジに触れ、いつもの冷静さを欠いて弁解する鍵屋崎からはプライドの防波堤を築こうと必死な様子が伝わってくる。表面だけは平静を装い、なおかつ動揺をあらわにした口調と仕草とで「最初からおかしいと思ってたんだ。思えば初対面時、レイジにあれ程気軽に声をかけられる存在は同格のトップしかいないと……」と後出しの推理をまくしたてる鍵屋崎にこらえきれずヨンイルが吹き出す。
 「あははははは、かわいいなあなおちゃんは」
 「侮辱してるのか?」
 「馬鹿に馬鹿にされるほど不愉快なことはない」と吐き捨てた鍵屋崎が不満げに腕を組む。忌々しげにヨンイルを睨む横顔が仄かに上気していた。
 「レイジにも君にもトップにふさわしい威厳や風格が微塵もない。もっと広い層に認知されたいのなら日常の態度から矯正して然るべきじゃないか。上に立つ者にはそれ相応の資格というものがあるだろう」
 「べつになりたくてなったわけじゃないしなあ、西棟に俺より強い奴おらへんかっただけで」
 さらりととんでもないことを言い放ったヨンイルが漫画のページをめくりながら続ける。
 「あ、ちゃうわ訂正。俺より強い奴は他にもごろごろいてる、俺より人殺してる奴がおらんかっただけや。俺がトップになれたのは単純に数でごり押ししたから」
 あっさりおそろしいことを口にしたヨンイルに鍵屋崎の顔が強張る。
 「……何人殺したんだ?」
 「二千人」
 「冗談だろう?」
 「ホンマ」
 「本当だぜ」
 漫画から顔も上げず、謎めいた笑みだけを深めたヨンイル相手に慄然と立ち竦む鍵屋崎に耳打ちする。
 「何を隠そう西の道化は懲役二百年の大量殺戮犯だ」
 べつに鍵屋崎をびびらせようとしたわけじゃない、俺が今述べたのはありのままの真実だ。西の道化は懲役二百年の大量殺戮犯で残りの一生を刑務所で送ることが決定してる。こんなふざけたナリしてるが間接的に殺した人数じゃレイジだってサーシャだって百馬身引き離してダントツトップの凶悪な男だ。さっきまで喧喧諤諤、ブラックジャックとキリコの関係についてああでもないこうでもないと活発に議論してた張本人が西のトップと知って相当動揺してるらしい。眼鏡越しにヨンイルを凝視する目には信じがたいものでも見るかのような驚愕の相があった。
 「……人は見かけによらないというが、本当だな。一体何をどうやって二千人もの大量殺人を犯したんだ?」
 いまだ半信半疑、警戒心を捨てきれない口調で鍵屋崎が言い、ヨンイルがそれに答えて口を開きかけ……
 「鍵屋崎、いるか?」
 階下からの声に邪魔される。
 名指しされた鍵屋崎が率先して反応。書架と書架の間の通路を抜け、手摺越しに下を覗けば一階カウンター横に五十嵐が立っていた。手摺に顔を並べた俺たちを見て五十嵐の顔が綻ぶ。
 「やっぱりここか。サムライの言ったとおりだ」
 「何か用ですか?」
 「とりあえず下りて来い、話はそれからだ」
 手摺に片手を置いた鍵屋崎が怪訝な顔をする。五十嵐に手招きされた鍵屋崎が不審げな様子で階段を降りる。カウンター横で二言三言鍵屋崎と立ち話した五十嵐がちらりとこっちを見る。
 俺たちの目があるところじゃ話せないような用件なんだろうか?鍵屋崎を従えて書架の死角へと引っ込んだ五十嵐の後姿から書架の奥へと目を転じれば、ただひとりそこを動かずにいたヨンイルが面白くもなさそうに漫画を読んでいた。
 「今の五十嵐やろ」
 「ああ」
 もといた場所に引き返しがてら質問に答えれば「やっぱりな」と合点される。その声色に複雑な感情を汲み取り、妙な引っ掛かりを覚える。鍵屋崎を呼び出した相手がタジマなら話はわかる、またぞろよからぬことを企んでるにちがいないと予想がつくからだ。でも五十嵐なら話がちがう、五十嵐は東京プリズンじゃ珍しくよく出来た看守と評判で囚人にも人気がある。鍵屋崎を呼び出したのが五十嵐なら、ヨンイルがこんな奥歯に物の挟まったような言い方をする必要もないだろうに。
 「……五十嵐、好きじゃないのか?」
 探りを入れる声に反感がこもる。東京プリズンの囚人で五十嵐に借りがないやつは少数派だろう。よほどのひねくれ者を除いて皆なにかしら五十嵐には借りがある、タバコやガムやエロ本を調達してもらったり看守に暴行されて足腰立たなくなってるところを肩担いで医務室に連れてってもらったり……俺の場合は麻雀牌だ。東京プリズンじゃ数少ない好感もてる看守に対し、何故ヨンイルはこんなそっけない言い方をするのだろう。
 「あんま嫌われるタイプの看守にゃ見えないけど」
 「ちゃう。嫌われてるのは俺の方や」
 「五十嵐がお前を?なにかの間違いじゃねーか」
 「階段から突き落とされても?」

 なん、だって?

 ヨンイルの三歩手前で立ち止まる。
 悪い冗談か何かの聞き間違いかと思った。だってそんな、にわかに信じられるわけがない。五十嵐が?ヨンイルを?なんで?タジマの間違いじゃないかそれ。でもヨンイルには前言撤回する素振りもなければ冗談にして笑い飛ばす気配もない、手元の漫画に目を落としながらただただつまらなさそうに呟いただけだ。
 「階段のいちばん上から突き落とされたことあるんや、五十嵐に。ドン、て背中突かれてな。びっくりしたわホンマ、そん時漫画読みながら歩いてて油断してたから。打ち所悪けりゃ死んどったわ、いやがらせにしても洒落にならんでアレ」
 「……でもお前、ぴんぴんしてるじゃん」
 「アホ、俺の運動神経舐めるんやない。階段のいちばん上から落ちてもちゃーんと着地決めたわ。ま、まったくの無傷ってワケにもいかんで片足捻ってもうたけどあの場に審査員いたら9.8は鉄板やった。こないだの釜山オリンピック出ればええ線行ったかもしれん」
 頭が混乱してきた。
 乾いた笑みを口元にはりつかせたヨンイルが作り話をしてるようには思えないが、五十嵐がヨンイルを突き落としたというのはもっと信じられない。あの温厚で気さくな五十嵐が何故ヨンイルにそんなことを?一歩間違えば死んでたかもしれない恐ろしい真似を?
 わけがわからないまま、それでも五十嵐が、東京プリズンで唯一囚人の味方をしてくれる看守だと今の今まで疑わずにいた五十嵐がそんなことするわけないと信じたい一心で唾を嚥下してヨンイルに詰め寄れば、単調な靴音が階段を上ってくる。
 鍵屋崎が戻ってきた。
 「何の用だったんだ」
 正直、鍵屋崎が帰ってきて救われた心地がした。雰囲気を変えようとなにげなく問いかければ、鍵屋崎の手に握られてる白い封筒が目にとまる。
 手紙だ。
 「まさかそれ……」
 鍵屋崎は緊張に強張った顔で、眼鏡越しの視線は今だ信じられないものでも見るように手の中の手紙に注がれていて。今気付いたが、手紙を握り締めた指がかすかに震えている。
 「たった今、五十嵐に渡されたんだ」
 呆然と呟いた鍵屋崎の声には、思いも寄らない幸運が自分の身の上に降りかかった事に対する信じがたい驚愕が含まれていた。いや、幸運というより奇跡に近いだろう。辛いことばかりを体験して麻痺してしまった心にはついぞ無縁だった温かな感情が、喜びが、海綿に水が染みこむように乾いた心を潤して胸を満たすまでに何度深呼吸して唾を嚥下したことだろう。
 「妹からの手紙か!?」
 気付いたら図書室だということも忘れて大声をあげていた。
 それでわかった、五十嵐が鍵屋崎の所在を尋ねてわざわざ図書室までやってきたわけが。一刻も早く鍵屋崎を訪ねて手紙を渡したくて、喜ぶ顔が見たくて足をのばしてきたんだろう。
 覚めない夢を見てるような呆然とした表情で、放心状態で立ち竦んだ鍵屋崎の肩を力任せに掴んで揺さぶる。
 「なあしっかりしろよ、それ妹からの手紙なんだろ!お前がこの半年間首を長くして待ち望んでた大事な妹からの手紙なんだろ、やったじゃんか、ちゃんと返事きたじゃねーか!妹がお前のこと忘れてたわけじゃないってこれでわかったろ、ちゃんと証明されただろ!!」
 なんで俺こんな叫んでるんだろう、馬鹿みたいにはしゃいで喜んでるんだろう。自分のことでもないのに、俺には一通も手紙なんかこないのに、なんで鍵屋崎に手紙がきたことがこんな嬉しくて嬉しくてたまらないんだろう。鍵屋崎が妹から見捨てられたわけじゃないってわかって、こいつが今までしてきた苦労が今この瞬間に全部報われた気になって、何だかもう無性に嬉しくてたまらない。
 俺のことでもないのに、俺のこと以上に嬉しくて視界までぼんやり霞んできやがった。
 俺に肩を揺さぶられてる間じゅう、まだ虚脱状態から抜けきってない鍵屋崎は鼻梁にずり落ちた眼鏡を押し上げるのも忘れてぼんやり虚空を見据えていたが、右手に掴んだ手紙だけはしっかり握り締めて絶対に手放そうとしなかった。
 そして、呟く。
 聞き取りにくい小さな声で、プライドとか虚勢とか全部取り払ってただの子供に戻っちまった弱弱しい声で。
 ただ一言。
 『………よかった』 
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