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百五十八話
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馬鹿げてる。信じられない。
まさしく「瞬殺」の形容がふさわしい試合内容だった。金網の向こう、リング中央に立ったレイジがロンと軽口を叩いて笑っている。その顔だけ見ればとても今しがた蹴りの一撃で脳震盪を起こさせて挑戦者を再起不能にしたブラックワーク王者とはおもえない。ポケットに手を入れたままのふざけきった態度で、裂帛の奇声を発して突っ込んできた少年を瞬殺したレイジを怪物でも見るように眺めているとロンを挟んだホセが感心した口ぶりで言う。
「いやはや、レイジくんは相変わらずお強い。肉眼で把握できましたか?蹴りが入る瞬間を」
「……いや」
正直に答えざるをえない。優雅に長い足が弧を描いて少年の左側頭部に吸い込まれた瞬間に生じた鈍い音で蹴りが炸裂したとわかったが、楕円の軌道を描いた足がこめかみを直撃する電光石火の一刹那は肉眼で把握することさえ難しかった。
「レイジくんは格闘の、いや、戦闘のプロです」
「だれがいつてめえのクイーンになったんだよ、え?」「キングの相棒つったらクイーンて相場が決まってるだろ、不思議の国のアリス読んだことねえか」「ねえよ」と金網越しに和気藹々と口喧嘩を繰り広げるロンとレイジとをなまぬるい笑顔で見守りながらホセが流暢に解説する。
「武器を使用しても強いが何も身につけてないときは自分の体をも凶器にすることができる。それこそが彼が最強にして最凶のブラックワーク覇者と恐れられる所以です。いやはや、吾輩ひやひやしてしまいました。レイジくんがうっかり力加減を間違えて挑戦者の少年を殺してしまうのではないかと密かに気を揉んでいたのですが杞憂でした、収監以来無敵無敗の栄えある戦績を誇る王者がそんな愚かな過ちを犯すはずありませんよね考えてみれば。吾輩うっかりです」
反省してるのかしてないのか、殊勝な口ぶりとは裏腹にホセの頬は緩んでいた。得体の知れない男だ。レイジの怪物じみた強さの一端を見せ付けられた僕はとても呑気に解説を聞くどころではないのに。
「勝者レイジ!挑戦者再起不能につきレイジ・サムライペアの勝利!!」
試合終了を告げるゴングが高らかに鳴り響き、脳に衝撃を受けて昏倒した少年が担架で運び出されてゆく。意識を失い金網の外へと運び出された少年へと浴びせかけられるのは罵声と野次、「3分弱でレイジに負けるなんて西棟の面汚しだ」「5分はねばって男気見せてみろくそったれ」「恥さらしの負け犬が」……手のひらを返したように態度を豹変させた西棟の囚人が忌々しげに叫んでいる。
娯楽班の試合にルールなどあってないようなものだが、大前提としてペア戦出場者はいつでも自由に相棒と交替することができる。劣勢に回ったり負傷した場合には後に控えてる相棒と交替してリングに上がってもらえばいいわけだが、その場合には必ず入り口に戻って手と手を打ち合わせて合図しなければならない。蹴りの一撃で屠られた少年は王者の実力を舐めきり慢心するあまり、このルール以前の大前提さえろくに踏まえてなかったようだ。入り口に戻る間もなく、相棒にバトンタッチすることもできずに倒れてしまえばその時点で敗北が決定する。
バトンタッチが間に合わず、出番を失ったペアの片割れが担架に乗せられた少年を呆然と立ち尽くして見送っている。
「試合続行ですね。次は何分で片がつくか予想しません?」
うきうきと―少なくとも僕にはそう聞こえた―ホセが提案する。レイジとの口喧嘩を止めたロンが不審げに眉をひそめる。不謹慎な、と咎めているようにも見えた。
いくらレイジとサムライといえどペア戦50組100人抜きを一晩で達成できるわけがなく、試合は何週かかけて行われる予定だ。一晩に消化される試合数は決まっておらず必然サムライとレイジの体力が保つまでのスタミナ勝負となる。
瞬殺された西棟ペアに続いてリングに上がったのは浅黒い肌の少年。
「おや、うちの棟の人間ですね。おなじ棟のよしみで応援しないわけにはいきません。レイジくんの健闘を応援したいのは山々ですが今回は失礼して寝返らせていただきます」
「いちいち断んなくていいよ……」
「吾輩律儀なのでね。では失礼して、がんばれー負けるなー南」
のほほんと声援を送るホセにロンはあきれ顔。僕もおなじような表情をしてることだろうと予想する。「南!南!南!」とラテンのリズムの合唱が沸き起こり金網のフェンスにしがみついた南棟の囚人が陽気にタップを踏み出す。南棟の人間にはアフリカ系やラテン系が多いと聞いたがなるほど、それならこのノリの良さも頷ける。騒がしいのが苦手な僕には迷惑千万な話だが。
「いいね、サンバもフラメンコも嫌いじゃねえぜ。で、次に踊ってくるのはおまえ?」
リング中央に仁王立ちしたレイジが不敵な笑みで挑戦者を迎える。レイジと対峙した少年は頭頂部をきれいに剃りあげたスキンヘッドの黒人だった。
「王様を相手にダンスできるなんざ光栄だぜ。スラムで磨いたストリートダンスの実力見せてやる」
「さて、それはどうかな」
棘つきのナックル、という物騒な防具を拳に嵌めた少年の宣戦布告にレイジはひょいと肩を竦める。
「俺のダンスは速すぎて見えねーぜ」
次の瞬間、レイジが動いた。
ゴングが鳴るとほぼ同時に抜群の瞬発力でその場から消失したレイジが次に現れたのは少年の眼前、慌てた少年が間一髪とびのいた時にはこめかみを掠めるように高い蹴りが繰り出されてる。途中で蹴りの軌道が変化、少年の後頭部へと弧を描いて吸い込まれていく。
「蝿が止まりそうなダンスだな」
頭を低めてレイジの蹴りを回避した少年が嘲笑、レイジのわき腹めがけてナックル装備のこぶしを突き出す。隣でロンが息を呑む。
「のろい」
その呟きはなぜか、騒音にかき消されることなく僕の元まで届いた。レイジの口角が嘲るように吊りあがり、褐色の手が無造作に虚空に突き出される。
「「!」」
目を疑った。
獲物を狙う猛禽の爪の如き貫手が勝利を確信した少年の鳩尾をこれ以上なく的確に抉る。信じられないことに、ナックル装備の凶悪なこぶしがレイジのわき腹にめりこむよりも速く、それより後に繰り出された貫手が挑戦者の急所を抉っていたのだ。
鳩尾にこぶしを食らった少年がぐらりと体勢を崩し、一瞬勝敗が決したかに見えたが、先刻の西棟の少年ほど彼は愚かでも弱くもなかったようだ。歯を食いしばり、足腰に重心を移して何とか踏みとどまるや、鳩尾を腕で庇って相棒が待つ入り口に引き返そうとする。
「!まずい、」
金網を掴んだロンが焦燥に駆られて口走るのと、スッと虚空に伸びたレイジの手が少年の襟首をとらえるのは同時だった。襟首を掴み、今しも逃げ帰ろうとした少年を引き戻したレイジが寛容に微笑む。
「蜂のはばたきと同じ速度でこぶしを繰り出せるようになってから出直して来い。そしたらリングの上でもベッドの上でも腰振りダンスに付き合ってやるよ」
少年の体が宙に舞った。比喩でもなんでもなくそのままの意味で。
レイジの腕の一振りで軽々宙に薙ぎ飛ばされた少年の体が背中から金網に激突し肺から大量の空気が吐き出される。金網に背中を預けてずり落ちた少年がはげしく咳き込む、その頭上に不吉な影がさす。肺が押しつぶされたような衝撃に苦悶しつつ、脂汗でしとどに顔面をぬらした少年が仰いだ先にはレイジがいた。
そして、レイジが笑いながら一歩を踏み出し……
「こ、降参だ!」
恐怖に心臓を掴まれた少年が顔面蒼白となり、片手を腹に回し、もう片手を挙げて降参の意思を表明する。素直に敗北を認めた少年にブーイングが降り注ぐ中、レイジには彼に手を貸して立ち上がらせる余裕さえあった。優しい王様だ。
「圧倒的だ」
「ええ、圧倒的なまでに強い。試合所要時間一分五十秒というところです」
呆然と呟けば即座にホセに同意される。
「今日の試合はすべて五分以内に片がつくでしょうね」
その通りになった。
レイジの強さは圧倒的だった。次から次へとレイジに挑んでは秒殺されある者は昏倒し担架で運び出され、またある者はそうなる前に自ら降参を表明し、入り口に逃げ帰り相棒と後退する暇さえなく尻尾を巻いてリングから降りてゆく。レイジの快進撃は続く。ある時は目にも止まらぬ蹴りで、またある時は的確に急所を突いたこぶしでリングに上がる囚人にとどめを刺してゆく。蝶のように舞い蜂のように刺すという形容があるが、レイジの動きは俊敏かつ獰猛すぎて「蝶のように」という優雅な比喩はそぐわない。
「まさしく豹のように、か」
そう、まるで獲物を狙う豹のように獰猛に俊敏に、一気に相手との距離を詰めて屠ってゆく。金網にしがみつき、固唾を飲んで試合風景に見入ってるロンの横顔から入り口にたたずむサムライへと視線を転じる。
僕の心配は杞憂だったようだ。このぶんでは、少なくとも今日の試合ではサムライの出番はない。
一組あたり五分も要さない短時間で片を付けてゆくレイジをサムライは無表情に見守っていた。自然、その右手首に視線が吸い寄せられる。木刀を振るうことがなければ捻挫した手首をこれ以上痛めることもない。
『お前を他の男に抱かせぬために刀を振るうことに一片の恥もなければ悔いもない』
サムライはああ言ったが、僕を守るためにサムライが右手を犠牲にするのはいやだ。
まったく僕は馬鹿だ。自分がする側になって、初めて同情と心配の違いがわかるなんて。
無言で試合風景を観察するサムライから遠ざかることもできなければ近づくこともできない微妙な距離でその横顔を見つめていれば僕の鬱屈と葛藤を和らげるようにホセが言う。
「吾輩のワイフが言ってました。女がいちばん強くなるのは子供を守るときで、男がいちばん強くなるのは女を、心にこれと決めた人を守るときだと」
おもわずホセを振り返れば、黒縁眼鏡の奥の目で柔和に微笑まれる。
「吾輩のワイフは素晴らしい女性です。彼女の言うことに間違いはない、吾輩も大いに賛成です。レイジくんが最強でいられるのは常にそばにロンくんがいるから、そして彼の場合は君がいるからです」
「……今日が初対面のくせに随分と知ったふうな口を利くじゃないか」
「お気に障ったのなら失敬。でも彼らを見てれば自ずとわかるでしょう?」
本当に変な男だ。
再びリングへと向き直れば十試合目が終わったところだった。余力を残して逃げ帰る暇もなく、相棒と交替する余裕も与えられずにリングに沈んだ少年を見下ろすレイジはいまだ余裕の笑みを浮かべていたが、ここまでの十試合、サムライと交替して休憩を挟むことなく戦ってきたせいでさすがに息が切れてきたらしい。少しだけ疲労が滲んだ顔で試合終了を告げるゴングに背を向けるや、サムライが待つ入り口へと大股に引き返してくる。
「独壇場だな」
回れ右で戻ってきたレイジを迎え、開口一番サムライが言った。
「俺ばっか目立って悔しいだろ。せっかくの晴れ舞台だ、おまえにも出番をやるよ」
額に汗を浮かべたレイジが前髪をかきあげて笑う。サムライと交替して休憩を入れる気だ。レイジは知らないのだ、サムライが利き手を捻挫してることを。
「?どうしたんだよ鍵屋崎」
懸念が顔に出たらしくロンが不審げに訊いてくる。次の試合開始まで若干の猶予がある。レイジのあまりの強さに恐れをなし、どちらが先にリングに上るか小声で言い争う挑戦者ペアを一瞥してこちら側の入り口に視線を戻せば今まさにサムライと交替しようとレイジが片手を挙げ、
「待て!」
レイジが驚いたようにこちらを向く。金網から離れ、二人のもとへと駆け寄る。
「どうしたんだよキーストア、おまえが声荒げるなんて珍し……ははーん、サムライのこと心配してんだな?憎いね、アツアツだねお二人さん。たった半年でどこまで仲良くなったんだよ羨ましいなオイ、俺なんか今だにロンに冷たくされてお預け食らってんだぜ」
「ゲスな詮索をするな」
「てめえなんか一生お預けだ」
「ロンまさか昨夜の約束忘れたわけじゃ、」
「……100人抜き達成しなかったら一生って意味だよ」
僕の態度をいぶかしんだロンがレイジのもとへと小走りに駆け寄ってくる。「100人抜きしたらいいんだな、本当にいいんだよな」とくどいほどに念を押して顔を近づけてくるレイジの額を片手で押し戻しつつ「顔寄せんなよ」とぼやいてるロン。痴話喧嘩をよそにサムライに向き直れば本人は平然とした顔をしていたが、木刀を片手に預け、無意識に右手を庇ってるのが痛いほどわかる。
「サムライ、」
「言いたいことは心得てる」
断固とした態度でサムライが顎を引く。頑固に信念を貫く眼光に射抜かれ、僕がどれほど言葉を尽くしてもサムライを翻意させるのは不可能だと悟る。かくなるうえはレイジに真実を話すしかない、昨夜起きた出来事を包み隠さず。そう決意して口を開きかけた僕の肩に手を置き、半ば強引に下がらせたサムライが立ち替わり前に出る。
「俺が征く」
「頼んだぜサムライ」
レイジとサムライの手が高く打ち合わされ、小気味よく乾いた音が鳴る。僕は指一本動かすことができず、木刀を下げてリングへと赴くサムライの孤高な背を見送るしかない。サムライの無事を祈るしかない自分の無力が歯痒い、レイジに真実を告げることができない優柔不断さに自己嫌悪が募る。武士の矜持を重んじるサムライは自分の弱みを他人に見せて気遣われることを恥と定義してる。僕に対してもそうなのだから、同じ目的の為に共同戦線を組んだレイジに対しては尚一層。
そして、孤高の武士が出陣した。
まさしく「瞬殺」の形容がふさわしい試合内容だった。金網の向こう、リング中央に立ったレイジがロンと軽口を叩いて笑っている。その顔だけ見ればとても今しがた蹴りの一撃で脳震盪を起こさせて挑戦者を再起不能にしたブラックワーク王者とはおもえない。ポケットに手を入れたままのふざけきった態度で、裂帛の奇声を発して突っ込んできた少年を瞬殺したレイジを怪物でも見るように眺めているとロンを挟んだホセが感心した口ぶりで言う。
「いやはや、レイジくんは相変わらずお強い。肉眼で把握できましたか?蹴りが入る瞬間を」
「……いや」
正直に答えざるをえない。優雅に長い足が弧を描いて少年の左側頭部に吸い込まれた瞬間に生じた鈍い音で蹴りが炸裂したとわかったが、楕円の軌道を描いた足がこめかみを直撃する電光石火の一刹那は肉眼で把握することさえ難しかった。
「レイジくんは格闘の、いや、戦闘のプロです」
「だれがいつてめえのクイーンになったんだよ、え?」「キングの相棒つったらクイーンて相場が決まってるだろ、不思議の国のアリス読んだことねえか」「ねえよ」と金網越しに和気藹々と口喧嘩を繰り広げるロンとレイジとをなまぬるい笑顔で見守りながらホセが流暢に解説する。
「武器を使用しても強いが何も身につけてないときは自分の体をも凶器にすることができる。それこそが彼が最強にして最凶のブラックワーク覇者と恐れられる所以です。いやはや、吾輩ひやひやしてしまいました。レイジくんがうっかり力加減を間違えて挑戦者の少年を殺してしまうのではないかと密かに気を揉んでいたのですが杞憂でした、収監以来無敵無敗の栄えある戦績を誇る王者がそんな愚かな過ちを犯すはずありませんよね考えてみれば。吾輩うっかりです」
反省してるのかしてないのか、殊勝な口ぶりとは裏腹にホセの頬は緩んでいた。得体の知れない男だ。レイジの怪物じみた強さの一端を見せ付けられた僕はとても呑気に解説を聞くどころではないのに。
「勝者レイジ!挑戦者再起不能につきレイジ・サムライペアの勝利!!」
試合終了を告げるゴングが高らかに鳴り響き、脳に衝撃を受けて昏倒した少年が担架で運び出されてゆく。意識を失い金網の外へと運び出された少年へと浴びせかけられるのは罵声と野次、「3分弱でレイジに負けるなんて西棟の面汚しだ」「5分はねばって男気見せてみろくそったれ」「恥さらしの負け犬が」……手のひらを返したように態度を豹変させた西棟の囚人が忌々しげに叫んでいる。
娯楽班の試合にルールなどあってないようなものだが、大前提としてペア戦出場者はいつでも自由に相棒と交替することができる。劣勢に回ったり負傷した場合には後に控えてる相棒と交替してリングに上がってもらえばいいわけだが、その場合には必ず入り口に戻って手と手を打ち合わせて合図しなければならない。蹴りの一撃で屠られた少年は王者の実力を舐めきり慢心するあまり、このルール以前の大前提さえろくに踏まえてなかったようだ。入り口に戻る間もなく、相棒にバトンタッチすることもできずに倒れてしまえばその時点で敗北が決定する。
バトンタッチが間に合わず、出番を失ったペアの片割れが担架に乗せられた少年を呆然と立ち尽くして見送っている。
「試合続行ですね。次は何分で片がつくか予想しません?」
うきうきと―少なくとも僕にはそう聞こえた―ホセが提案する。レイジとの口喧嘩を止めたロンが不審げに眉をひそめる。不謹慎な、と咎めているようにも見えた。
いくらレイジとサムライといえどペア戦50組100人抜きを一晩で達成できるわけがなく、試合は何週かかけて行われる予定だ。一晩に消化される試合数は決まっておらず必然サムライとレイジの体力が保つまでのスタミナ勝負となる。
瞬殺された西棟ペアに続いてリングに上がったのは浅黒い肌の少年。
「おや、うちの棟の人間ですね。おなじ棟のよしみで応援しないわけにはいきません。レイジくんの健闘を応援したいのは山々ですが今回は失礼して寝返らせていただきます」
「いちいち断んなくていいよ……」
「吾輩律儀なのでね。では失礼して、がんばれー負けるなー南」
のほほんと声援を送るホセにロンはあきれ顔。僕もおなじような表情をしてることだろうと予想する。「南!南!南!」とラテンのリズムの合唱が沸き起こり金網のフェンスにしがみついた南棟の囚人が陽気にタップを踏み出す。南棟の人間にはアフリカ系やラテン系が多いと聞いたがなるほど、それならこのノリの良さも頷ける。騒がしいのが苦手な僕には迷惑千万な話だが。
「いいね、サンバもフラメンコも嫌いじゃねえぜ。で、次に踊ってくるのはおまえ?」
リング中央に仁王立ちしたレイジが不敵な笑みで挑戦者を迎える。レイジと対峙した少年は頭頂部をきれいに剃りあげたスキンヘッドの黒人だった。
「王様を相手にダンスできるなんざ光栄だぜ。スラムで磨いたストリートダンスの実力見せてやる」
「さて、それはどうかな」
棘つきのナックル、という物騒な防具を拳に嵌めた少年の宣戦布告にレイジはひょいと肩を竦める。
「俺のダンスは速すぎて見えねーぜ」
次の瞬間、レイジが動いた。
ゴングが鳴るとほぼ同時に抜群の瞬発力でその場から消失したレイジが次に現れたのは少年の眼前、慌てた少年が間一髪とびのいた時にはこめかみを掠めるように高い蹴りが繰り出されてる。途中で蹴りの軌道が変化、少年の後頭部へと弧を描いて吸い込まれていく。
「蝿が止まりそうなダンスだな」
頭を低めてレイジの蹴りを回避した少年が嘲笑、レイジのわき腹めがけてナックル装備のこぶしを突き出す。隣でロンが息を呑む。
「のろい」
その呟きはなぜか、騒音にかき消されることなく僕の元まで届いた。レイジの口角が嘲るように吊りあがり、褐色の手が無造作に虚空に突き出される。
「「!」」
目を疑った。
獲物を狙う猛禽の爪の如き貫手が勝利を確信した少年の鳩尾をこれ以上なく的確に抉る。信じられないことに、ナックル装備の凶悪なこぶしがレイジのわき腹にめりこむよりも速く、それより後に繰り出された貫手が挑戦者の急所を抉っていたのだ。
鳩尾にこぶしを食らった少年がぐらりと体勢を崩し、一瞬勝敗が決したかに見えたが、先刻の西棟の少年ほど彼は愚かでも弱くもなかったようだ。歯を食いしばり、足腰に重心を移して何とか踏みとどまるや、鳩尾を腕で庇って相棒が待つ入り口に引き返そうとする。
「!まずい、」
金網を掴んだロンが焦燥に駆られて口走るのと、スッと虚空に伸びたレイジの手が少年の襟首をとらえるのは同時だった。襟首を掴み、今しも逃げ帰ろうとした少年を引き戻したレイジが寛容に微笑む。
「蜂のはばたきと同じ速度でこぶしを繰り出せるようになってから出直して来い。そしたらリングの上でもベッドの上でも腰振りダンスに付き合ってやるよ」
少年の体が宙に舞った。比喩でもなんでもなくそのままの意味で。
レイジの腕の一振りで軽々宙に薙ぎ飛ばされた少年の体が背中から金網に激突し肺から大量の空気が吐き出される。金網に背中を預けてずり落ちた少年がはげしく咳き込む、その頭上に不吉な影がさす。肺が押しつぶされたような衝撃に苦悶しつつ、脂汗でしとどに顔面をぬらした少年が仰いだ先にはレイジがいた。
そして、レイジが笑いながら一歩を踏み出し……
「こ、降参だ!」
恐怖に心臓を掴まれた少年が顔面蒼白となり、片手を腹に回し、もう片手を挙げて降参の意思を表明する。素直に敗北を認めた少年にブーイングが降り注ぐ中、レイジには彼に手を貸して立ち上がらせる余裕さえあった。優しい王様だ。
「圧倒的だ」
「ええ、圧倒的なまでに強い。試合所要時間一分五十秒というところです」
呆然と呟けば即座にホセに同意される。
「今日の試合はすべて五分以内に片がつくでしょうね」
その通りになった。
レイジの強さは圧倒的だった。次から次へとレイジに挑んでは秒殺されある者は昏倒し担架で運び出され、またある者はそうなる前に自ら降参を表明し、入り口に逃げ帰り相棒と後退する暇さえなく尻尾を巻いてリングから降りてゆく。レイジの快進撃は続く。ある時は目にも止まらぬ蹴りで、またある時は的確に急所を突いたこぶしでリングに上がる囚人にとどめを刺してゆく。蝶のように舞い蜂のように刺すという形容があるが、レイジの動きは俊敏かつ獰猛すぎて「蝶のように」という優雅な比喩はそぐわない。
「まさしく豹のように、か」
そう、まるで獲物を狙う豹のように獰猛に俊敏に、一気に相手との距離を詰めて屠ってゆく。金網にしがみつき、固唾を飲んで試合風景に見入ってるロンの横顔から入り口にたたずむサムライへと視線を転じる。
僕の心配は杞憂だったようだ。このぶんでは、少なくとも今日の試合ではサムライの出番はない。
一組あたり五分も要さない短時間で片を付けてゆくレイジをサムライは無表情に見守っていた。自然、その右手首に視線が吸い寄せられる。木刀を振るうことがなければ捻挫した手首をこれ以上痛めることもない。
『お前を他の男に抱かせぬために刀を振るうことに一片の恥もなければ悔いもない』
サムライはああ言ったが、僕を守るためにサムライが右手を犠牲にするのはいやだ。
まったく僕は馬鹿だ。自分がする側になって、初めて同情と心配の違いがわかるなんて。
無言で試合風景を観察するサムライから遠ざかることもできなければ近づくこともできない微妙な距離でその横顔を見つめていれば僕の鬱屈と葛藤を和らげるようにホセが言う。
「吾輩のワイフが言ってました。女がいちばん強くなるのは子供を守るときで、男がいちばん強くなるのは女を、心にこれと決めた人を守るときだと」
おもわずホセを振り返れば、黒縁眼鏡の奥の目で柔和に微笑まれる。
「吾輩のワイフは素晴らしい女性です。彼女の言うことに間違いはない、吾輩も大いに賛成です。レイジくんが最強でいられるのは常にそばにロンくんがいるから、そして彼の場合は君がいるからです」
「……今日が初対面のくせに随分と知ったふうな口を利くじゃないか」
「お気に障ったのなら失敬。でも彼らを見てれば自ずとわかるでしょう?」
本当に変な男だ。
再びリングへと向き直れば十試合目が終わったところだった。余力を残して逃げ帰る暇もなく、相棒と交替する余裕も与えられずにリングに沈んだ少年を見下ろすレイジはいまだ余裕の笑みを浮かべていたが、ここまでの十試合、サムライと交替して休憩を挟むことなく戦ってきたせいでさすがに息が切れてきたらしい。少しだけ疲労が滲んだ顔で試合終了を告げるゴングに背を向けるや、サムライが待つ入り口へと大股に引き返してくる。
「独壇場だな」
回れ右で戻ってきたレイジを迎え、開口一番サムライが言った。
「俺ばっか目立って悔しいだろ。せっかくの晴れ舞台だ、おまえにも出番をやるよ」
額に汗を浮かべたレイジが前髪をかきあげて笑う。サムライと交替して休憩を入れる気だ。レイジは知らないのだ、サムライが利き手を捻挫してることを。
「?どうしたんだよ鍵屋崎」
懸念が顔に出たらしくロンが不審げに訊いてくる。次の試合開始まで若干の猶予がある。レイジのあまりの強さに恐れをなし、どちらが先にリングに上るか小声で言い争う挑戦者ペアを一瞥してこちら側の入り口に視線を戻せば今まさにサムライと交替しようとレイジが片手を挙げ、
「待て!」
レイジが驚いたようにこちらを向く。金網から離れ、二人のもとへと駆け寄る。
「どうしたんだよキーストア、おまえが声荒げるなんて珍し……ははーん、サムライのこと心配してんだな?憎いね、アツアツだねお二人さん。たった半年でどこまで仲良くなったんだよ羨ましいなオイ、俺なんか今だにロンに冷たくされてお預け食らってんだぜ」
「ゲスな詮索をするな」
「てめえなんか一生お預けだ」
「ロンまさか昨夜の約束忘れたわけじゃ、」
「……100人抜き達成しなかったら一生って意味だよ」
僕の態度をいぶかしんだロンがレイジのもとへと小走りに駆け寄ってくる。「100人抜きしたらいいんだな、本当にいいんだよな」とくどいほどに念を押して顔を近づけてくるレイジの額を片手で押し戻しつつ「顔寄せんなよ」とぼやいてるロン。痴話喧嘩をよそにサムライに向き直れば本人は平然とした顔をしていたが、木刀を片手に預け、無意識に右手を庇ってるのが痛いほどわかる。
「サムライ、」
「言いたいことは心得てる」
断固とした態度でサムライが顎を引く。頑固に信念を貫く眼光に射抜かれ、僕がどれほど言葉を尽くしてもサムライを翻意させるのは不可能だと悟る。かくなるうえはレイジに真実を話すしかない、昨夜起きた出来事を包み隠さず。そう決意して口を開きかけた僕の肩に手を置き、半ば強引に下がらせたサムライが立ち替わり前に出る。
「俺が征く」
「頼んだぜサムライ」
レイジとサムライの手が高く打ち合わされ、小気味よく乾いた音が鳴る。僕は指一本動かすことができず、木刀を下げてリングへと赴くサムライの孤高な背を見送るしかない。サムライの無事を祈るしかない自分の無力が歯痒い、レイジに真実を告げることができない優柔不断さに自己嫌悪が募る。武士の矜持を重んじるサムライは自分の弱みを他人に見せて気遣われることを恥と定義してる。僕に対してもそうなのだから、同じ目的の為に共同戦線を組んだレイジに対しては尚一層。
そして、孤高の武士が出陣した。
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