少年プリズン

まさみ

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百五十六話

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 サムライは信じられない頑固者だ。
 もう半年の付き合いになるがこんなに頑固な男だとは思わなかった。確かにサムライは初心貫徹の信念に基づき一度手をつけたことは最後までやり遂げる武士の鑑だが今この場に限っていえばその強情さは痩せ我慢に分類せざるをえない。
 ペア戦当日、もう間もなく試合が始まるというのに辞退を表明する気などこれっぽっちもないらしい。
 サムライと共に地下停留場におり、金網のフェンス付近に待機してるあいだも再三翻意を促したのに本人ときたら耳を貸そうともしない。「大丈夫だ」の一点張りで僕の忠告など聞き入れようともしない態度に腹を立てて「大丈夫なわけがないだろう」と食い下がれば「それでも大丈夫だ」と突っぱねられる。
 何がそれでもだ、日本人のくせに正しい日本語を使えないなんて最低だ。いちから文法を学び直してこい。
 僕は知っている。囚人服の袖に隠れたサムライの右手首に真新しい包帯が巻かれていることを。そして、その包帯の下が倍ほどにも腫れ上がってることを。昨夜サムライは僕を庇って捻挫した、刀を握る大事な右手を捻挫してしまった。昨日の今日で痛くないはずがない、痛みも腫れもさらに激しく悪化してるはずだ。この上木刀を振るって手首を酷使すればどんな後遺症が残るかもわからない、そんな無茶はやめさせたい絶対に。試合が始まって後戻りできなくなるまえにサムライを翻意させなければ、試合を辞退するよう説き伏せなければと苛立ってると視界の片隅に見覚えある顔が過ぎる。
 「!」
 反射的に顔を上げる。
 フェンスの金網に凭れ掛かるように立った視線の先、コンクリートで囲まれた広大な地下空間へと繋がる通路の一本から出てきたのはロンだ。隣にいるのは見知らぬ男。年は二十二、三歳に見えるが二十歳を迎えた囚人は郊外の刑務所に移送される決まりだから風貌が大人びてるだけだろう。時代遅れの七三分けが外見年齢を老けさせているのだろうか。ラテン系の血が色濃く流れてるらしく浅黒い肌と彫り深い顔だちをしたその中でセンスを度外視した垢抜けない黒縁眼鏡が浮いてる。
 一目でわかる。伊達だ。
 そう判断し、次の瞬間疑問が浮かぶ。東京プリズンに来たばかりの頃に身をもって痛感したがここでは眼鏡さえ凶器になる。事実僕以外に眼鏡をかけてる囚人を見かけたことがない。あの囚人は何故眼鏡を、それも視力補助の用を足さない伊達眼鏡なんかを酔狂にかけているんだ?違和感を感じ、黒縁眼鏡をかけた囚人を目で追っていたら僕に気付いたロンが小走りにこちらへ駆け寄ってくる。
 そして、人ごみに跳ね返された。
 「なんだよ、またこれかよ!」とロンが喚いてるのが遠く聞こえる。小柄な彼では押し合いへし合い、少しでも見晴らしのよい場所を確保しようと蠢く人ごみを突っ切るのは不可能だろう。いくつもの頭の彼方、フェンスに群がる囚人の垣根越しにロンが地団駄踏んでいた。コンクリートの地面を蹴りつけて悔しがるロンの肩を叩き、隣の男が何かを囁く。顔に疑問符を浮かべて首を傾げたロンをその場に置いて小走りに駆け出した男が近くにいた囚人に一声かける。

 その瞬間、劇的な変化が起きた。

 振り返った囚人が息を飲んであとじさり、その背中が周囲の囚人にぶつかる。衝突された衝撃に振り返った囚人が怒号をあげかけ、これもまた男と目が合って言葉を飲み込む。自分と関わり合いになるのを避けるようサッと左右に分かれた囚人に丁寧に会釈、振り返ってロンを手招くや悠然と歩き出す。あぜんとしたロンをひきつれ、野次馬の垣根を割って最前列に踊り出た男が満足げに呟く。
 「試合開始まであと五分というところですか。いい場所がとれました」
 「鍵屋崎!」
 名を呼ばれて視線を落とせば息を切らしたロンがいた。髪の毛と服が乱れているのは早くも塞がりかけた垣根を根性と瞬発力で突破してきたからだろう。
 「おや、こちらロンくんのお友達ですか」
 腰の低い敬語で尋ねられて感心する。敬語を使える囚人が僕以外に東京プリズンにいたなんて、と驚きを隠せず目を見張った僕へと片手をさしだして男が自己紹介する。
 「吾輩ホセと言います。南棟の人間なので日頃顔を合わせる機会もないですが今日は無礼講、東棟の王様レイジくんが100人抜きの初陣を切るめでたい日ですしこれを機にぜひお近づきに……」
 吾輩?
 「猫か」
 「?人間だろ」
 低く呟けばロンが「何言ってるんだこいつ」と怪訝な顔をする。名刺でも渡されそうな腰の低さで、握手を求めてさしだされた手を無視してロンを睨む。
 「君は本を読まない人種だったな。ひとり言に介入して無教養を露呈するなんて恥ずかしい人間だ」 
 理由はわからないが侮辱されたのはピンときたんだろう、「なんだよやる気か?」と気色ばんだロンを無視してホセに向き直る。
 「手は洗ったか?衛生面で不安な人間とは握手しない主義なんだ、この手はさげてくれると嬉しい」
 「一応トイレで洗ってきましたが」
 「何回だ」
 「三回ほど」
 「今すぐこの手をおろせ」
 僕の率直な物言いにも気分を害すことなく、恐縮したようにホセが手を引っ込める。ロンよりは心が広く寛容な精神の持ち主らしい。
 「君の友達か?」
 「ちがう」
 「ええそうです。ついさっきそこの通路で迷っていた所を親切にも道案内してくれまして友達になって五分弱というところでしょうか」
 話が噛み合わない。奇人変人狂人の巣窟と揶揄される東京プリズンでホセはどれにあてはまるだろう、と考えていたらいよいよ歓声が高まり雰囲気が盛り上がる。
 まずい。試合開始まであと一二分しかない、ロンたちと無駄話してる時間などない。ついさっきまでそこにいたサムライをさがして視線を巡らせば少し離れたところにいた。準備万端、金網のフェンスに穿たれた矩形の入り口で木刀の握りを確かめている。
 「おい鍵屋崎、」と呼びかけてきたロンに背中で指示する。
 「レイジはあそこだ。試合前に応援の言葉でもかけてやれ、彼が先鋒らしいから」
 猛獣を囲いこむ檻を連想させる巨大なフェンスをぐるりと半周した地点にレイジがいた。ペア戦には彼が先鋒として出場するらしいが、試合開始時刻が直前まで迫っているのにまだフェンスの内側に入ってないのは途中ではぐれたロンを待っていたからだろう。
 一度フェンスの内側に足を踏み入ればリタイアするか再起不能になるまで、もしくはペアを組んだ相手と交替するまで外には出られない決まりになっている。レイジのもとへと駆けてゆくロンを目の端で見送り、矩形の入り口にたたずむサムライのもとへと歩み寄る。
 「サムライ」
 声をかける。
 サムライがゆるやかに顔を上げる。木刀は本来利き手じゃないはずの左手に持ち替えられてる。袖の下に隠された右手首を一瞥、取り返しがつかなくなるまえに説得しなければと決断する。
 「辞退しろ」
 「しない」
 「欠場しろ」
 「しない」
 「―子供か君は、本当は痛いくせに意地を張って!もう君を担いで医務室に運ぶのはこりごりだ、少しは身長差と体重差を考慮してくれ。昨夜廊下で共倒れしそうになったのを忘れたのか」
 「肩を貸してくれなど頼んだ覚えはない」
 ……それはそうだ。
 サムライは僕を頼りなどしなかった、決して。僕が勝手にサムライに肩を貸して、長い長い廊下を歩いてサムライを房へと連れ帰ったのだ。サムライはいつもそうだ。僕には「自分を頼れ」なんて偉そうなことを言ったくせに自分は絶対に僕を頼ったりしない。
 僕はサムライに頼ってほしいのに。
 ……いや、僕にこんなことを言う資格はない。忘れたのか鍵屋崎直、サムライがペア戦出場を決めた理由と動機を。全部お前の為だ、お前を売春班から救い出す為だ。サムライは今夜これから僕の為に刀を取ろうとしてる、刀を取って人を倒そうとしてる。
 「……やっぱりやめたほうがいい。試合には出るな」
 「繰り言は聞き飽きた」
 「君が翻意するまで何度でも言う。100人抜きなんて無茶だ、不可能だ。冷静に考えてみろ、こちらは2人で敵は100人だ。実力で勝っていても数量で圧倒されたら勝ち目はない。仮に今夜の試合では勝利しても来週来来週そのまた来週も延延試合が控えてるんだ。もし君の右手がだめになったら、」
 目を伏せる。
 サムライの顔を直視できず、足元のコンクリートに視線を落とす。
 「……『なえ』に申し訳ない」
 ごく小さい声で呟く。胸にこみあげてきた苦汁を言葉に乗せて吐露するように激しく畳み掛ける。
 「前にも言ったろう。君の右手は人を守るためにある、大事な人間を守るためにあると。僕なんかの為に使っていいはずがない、壊していいはずがない。そんなこと許されるわけがない」
 そうだ、こんな最低の人間の為に、両親を殺害して妹を精神病院送りにし、世間はおろか刑務所の中という狭い社会でも唾を吐きかけられ忌み嫌われる見下げ果てた人間を守る為に刀を振るっていいはずがない。僕が地獄に落ちたのはタジマの策略だがこれまでしてきたことを考えれば自業自得だ。
 惠にしたこと。両親にしたこと。
 僕にはサムライに守られる価値がない。
 サムライの右手はかつて愛した女性の為に在り、これからもずっと彼女の為にだけ在りつづけるのだろう。
 「……僕は売春班に戻る。あと半年だ、我慢できる。僕の懲役は八十年だから半年なんてあっというまだ、」
 嫌だ、戻りたくない。今でも夢に見る、肉の快楽を貪り体の裏表を這いまわる手の感触を。
 「あっというまに決まってる。君と出会ってからの半年があっというまだったように売春班での日々もいつかきっと終わる。今ここで君が戦う必要も義務もない、半年経てば解放されるんだから」
 嘘だ、半年過ぎて解放される保証などどこにもない。売春班に残留する可能性だってあるじゃないか。僕はタジマに目をつけられて売春班に回されてきたのだからイエローワークに戻れるわけがないのにまだみじめたらしく期待してるのか?あきれたな、本当に。
 「だから、」
 「直」
 突然、手を握られる。いつのまにか背後に回っていたサムライが優しく僕の手を取り木刀を握らせる。
 何の真似だ?
 肩越しにサムライを仰ぐも本人は無言。手に手を添えて僕を導いて柄を握らせたサムライが生真面目に教え諭す。
 「木刀を握る時はこうして上の方に右手を添え、下方は左手でしっかり固定する」
 僕よりひとまわり大きく骨ばった手が男性的な包容力と力強さでもって両手に被せられ柄の握りを調整する。一体何のつもりだサムライは、もうすぐ試合が始まるというのに木刀の握り方など教授して。困惑が苛立ちに変わる寸前、耳に吹き込まれたのは低い声。
 「このとき、重要になるのは左手だ。右手は添えるだけでいい」
 「!」
 虚を衝かれて手元を見下ろす。確かにサムライの指摘どおり、右手を鍔の根元に添え左手でしっかり柄を握った正眼の構えになっている。
 「木刀を握る時に重要なのは左手で、右手に怪我をしていてもさほど支障はないということか」
 僕の手を解放して木刀を抜き取ったサムライが首肯する。
 「でも不便だろう?」
 「不便だが不利ではない。お前を他の男に抱かせぬために刀を振るうことに一片の恥もなければ悔いもない。いや、むしろ……」
 木刀の切っ先をコンクリートの地面におろし、瞑想に耽るかの如く瞼を落とす。衣擦れの音さえたてない静かな挙措でゆるやかに腕を振り上げて木刀を構える、正眼に構え直した木刀が指したのは高く巡らされた金網のフェンスの向こう。
 檻の中の檻、今だ無人の闘技場を鋭い眼光で見据え、断言。 
 「それが、俺の誇りだ」
 「かーっこいいねえサムライは。惚れそうだ」
 野次るような口笛に振り向けばレイジがこちらに歩いてきたところだ。隣にはロンがいる。僕とサムライの目の届かない場所で何を話してたかは知るよしもないが、ポケットに指をひっかけたレイジには試合直前だというのに緊張の色などかけらもない。いつもどおり、いや、いつも以上に余裕綽々の物腰で人を食った笑みを浮かべたレイジがちらりと金網のフェンスに流し目を送る。
 いや、正確には金網のフェンスの向こう側、対岸の入り口で今か今かとその時を待ち構えている対戦者ふたりを。
 「でもま、残念だったなサムライ。キーストアにいいとこ見せたい気持ちはわかるけどお前の出番はねえよ、今日は俺ひとりで楽勝だ」
 無駄に大きい声が聞こえたのか、金網を隔てた対岸に控えていた二人組が険悪な形相になる。
 サムライから聞いたのだが、ペア戦といっても二人一緒に戦うわけではないらしい。一辺8メートルの正方形は一対一でやりあうには広くもなく狭くもなく適しているが、二人同時、対戦組も含めて四人同時にリングに上るとかなり小狭になり自由に動ける範囲が制限されるため試合に向かない。そこでペア戦では原則として、事前に先鋒と後鋒を決めて一対一で闘うルールが採用された。交替は自由。早い話、自分が劣勢に追い込まれて負けそうになったり怪我をしたら後に控えてる相棒にバトンタッチしてリングに上ってもらえばいいわけだ。 
 実力ある相棒と組めば腰抜けでも勝てる根拠がそこにある。戦況を挽回し自分の仇をとってくれる心強い相棒がいる限りペア戦出場者には常に逃げ道が開かれているのだ。

 だが、僕らには逃げ場がない。
 僕とロンに、サムライとレイジに逃げ場はない。逃げ道はとうに閉ざされている。ここは東京プリズン、東京の中心に広がる砂漠のど真ん中にある少年刑務所。一度入ったら二度と出られない、リンチやレイプが日常化して暴力と薬物が蔓延する史上最低の刑務所。東京プリズンに送致された時点で戸籍は抹消され社会的に抹殺されたにひとしく過酷な強制労働では毎日のように死者がでる。
 逃げ場など常にない。
 生きたければ戦うしかなく、生き延びたければ戦い続けるしかない。
 それならばせめて、僕もサムライと共に戦おう。無力ゆえに何もできなくても、非力ゆえに力では抗えなくても、僕を救うためにいざ戦いに赴こうとしているサムライの背中に自己を投影して戦い続けよう、抗い続けよう。
 それこそが、一度地獄を見た僕が生き延びる唯一の道だ。
 
 膝の屈伸運動を終えたレイジが「よし」と立ち上がり、木刀を左手に預けたサムライが虚空に目を据える。僕の隣に立ち、不安げな眼差しでレイジの一挙手一投足を見守りながらロンが同意を求めてくる。
 「あいつら、勝つよな」
 「ああ」
 「勝てるよな」
 「僕が断言する」
 いまだ疑念を拭いきれないロンの目を覗きこみ、力強く言い聞かせる。
 「天才と天才が認めた凡人を信じろ」 
 僕の語尾に被さるように鳴り響いたのは金属質のゴング。連続して鳴らされるゴングから生じた音の波紋が大気に浸透して緊張感が頂点に達し、弾ける。地鳴りめいて耳を聾する轟音の正体は広大な面積を有するコンクリートの地下空間を見渡すかぎり埋めた大観衆の足踏み。日頃抑圧され、澱のように鬱憤をためこんでる囚人も週末の夜になればそのすべてを声援と野次に変えてぶちまけ、弱肉強食を至上の掟とする動物の本能全開で囚人と囚人が情け容赦なく殺し合う血なまぐさい出し物に熱狂する。
 そして、一際高らかにゴングが響き。
 『主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください』
 シャツの内側に潜った金鎖を手繰り、十字架に口づけたレイジが唄うように詩篇の一節を口ずさんで歩き出す。
 金網の向こうへ、正方形のリングへ……彼の戦いの場へと。
 『Amen』
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