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百五十二話
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医務室は深夜でも開いている。
いや、開いてなかったとしても無理矢理にでもこじ開けるつもりだ。
サムライに肩を貸して夜気がひんやりと身に染みる廊下を歩く。幾つかの角を曲がってひたすら歩けば渡り廊下に到達、そこから中央棟へと向かい医務室に直行する。消灯時間を過ぎて出歩いてるのを看守に見咎められればどんな罰を受けるかわからないがそれどころじゃない、今はサムライの手首の治療が最優先事項だ。蛍光灯が心もなく照らす廊下には歩調をあわせる僕らの他に人影もなく閑散としている。こうして肩を貸していてもサムライの呼吸が浅く乱れ、額にはおびただしい脂汗が浮きだしているのがわかる。
医務室の扉が見えてきた。
「急患だ、応急処置を頼む!!」
嵐のようなノックを降らせて、扉に体当たりするように医務室に雪崩こむ。白い衝立で仕切られたベッドの手前は診療スペースとなっており、消毒液や包帯などがきちんと整頓された戸棚に面してステンレスの机が置かれていた。そして、机の前の革張りの椅子には首から聴診器をさげた医師が腰掛けて何事かと大きく目を見張って深夜の闖入者を凝視している。
「どうしたのかねこんな時間に」
「手首を捻ったみたいなんだ、早急に処置を頼む」
サムライに口を開く暇を与えずに早口に用件を告げる。革張りの椅子の対面、患者が腰掛ける用の椅子にサムライを座らせ、未だ事態が飲み込めずに面食らっている医師に語気荒く詰め寄れば僕の剣幕に圧倒された医師が迅速に動き出す。慎重にサムライの手首を取り様子を見てからしかめつらしく診断を下す。
「ふむ。どうやら手首を捻ったみたいだ」
頭に血が昇った。
「だからそう言ってるじゃないか!!」
「落ち着け鍵屋崎……、」
「落ち着いてなどいられるか君はなんでそんな冷静なんだ!?右手が使えなくなったら困るだろう箸が握れなくなる、箸が握れないということは食事できなくなる、それに筆、筆が握れなければ写経できなくなる!いや違う、もっと大事なことがあるだろう、そうだ刀……」
刀。
明日はペア戦だ。
「付き添いは外に出ていてもらえるかね」
完全に気が動転した僕を扱いかねた医師が遠慮がちに、しかし有無を言わさずに申し出る。対面式に腰掛けたサムライの手に氷水で冷やしたタオルを当てながら迷惑そうに眉をひそめて振り返る。
「嫌だ、貴様は医者として信用できない。僕が以前医務室を訪ねた時なんて診断を下したか忘れたとは言わせない、特に別状はないと右手に包帯だけ巻いて追い返したじゃないか。何が別状ないだ右手にヒビが入ってたんだぞこの耄碌した藪医者め。藪医者の語源を知ってるか?そうか知らないか、なら無知な貴様の為に特別に教えてやる。藪医者の語源は諸説あるが『野巫医者』を語源とし、『藪』は当て字とする説が有力とされる。野巫は田舎の巫医とも言われ、呪術で治療する田舎の医師のこと。あやしい呪術で治療することから「いい加減な医者」、たった一つの呪術しかできなかったことから下手な医者といった意味で野巫医者という言葉が生まれたとされ……」
「落ち着きたまえ」
「離せ!」
肩に置かれた手を激情のままに振り払えば次はもっと強く肩を掴まれる。そして気付く、誰が僕の肩を掴んでるんだ?サムライと医師は目の前にいる、じゃあ僕の背後に立っているのは?ぽかんと口を開けた医師と唇を一文字に引き結んで痛みを堪えるサムライ、対照的な二人の視線の先を振り返れば意外な人物がいた。
安田だ。
「何故ここに……、」
安田の顔を見た瞬間、急速に膨れ上がった疑問が一時的に興奮を駆逐した。数日前売春通りで見た時と殆ど同じ格好をしているように思えるのは安田が陰鬱に沈んだダーク系のスーツしか身につけないからだ。銀縁眼鏡の奥、剃刀のような知性を帯びた双眸を鋭く細めた安田が放心状態の僕の腕を引っ張って強制的に医務室の外へと連れ出す。
逆らう気は起きなかった。
されるがままに腕を引かれて医務室から外に出される間際に振り返ればサムライが手首の治療を受けているところだった。右手首に巻かれたタオルの冷たさが骨身に染みるのか僅かに顔をしかめている。その横顔を深い悔恨とともに胸に刻みこんで廊下に出れば背後で扉が閉ざされる。
深夜、人気のない廊下に閉め出されて途方に暮れて立ち竦む僕の隣には安田がいた。何が起きたのか正確には理解しないまま、僕の頭を冷やすために廊下に連れ出したのだろう安田が訝しげに顔を覗きこんでくる。
「いい加減手を離してくれませんか」
「すまない」
指摘され、初めて僕の腕を握ったままでいたことに思い当たったらしい安田がよそよそしく手を放す。安田に掴まれた腕をさすりながら白くペンキを塗られた医務室の扉を見つめる。中で何が行われているかは殆ど物音が聞こえないため窺い知れない。サムライの手首は大丈夫なのか?あの藪医者はちゃんと治療してくれるのか?深夜の急患のため医務室はいつでも開放されているがあくまで形だけ、肝心の医師が役に立たなければ話にならない。信用?できるはずがない、半年前僕の右手に包帯だけ巻いて「別状はない」と追い返した老人だぞ。何が別状ないだ、右手の骨にひびが入っていて完治に二ヶ月費やしたじゃないか。今度またいい加減な診断を下したらただじゃおかない、僕は東京プリズンによくいる何でも腕力で解決できると思い込んでいる野蛮人ではないから暴力的な手段には訴えないがあの藪医者を床に正座させて傍らに分厚い医学書を積んで医学の基礎の基礎から復習させ性根を叩き直すくらいのことはやる。
焦燥に揉まれ、廊下の壁に凭れて所在なげに立っていれば横顔に視線を感じる。反射的に顔を上げればずっと僕の横顔を見ていたらしい安田と目が合い、お互い非常に気まずい思いをする。
どちからからともなく顔を伏せる。サムライの治療が終わるのをただひたすら待つ苦痛な時間。
「何があったんだ?」
そう聞いてきたのは安田だった。沈黙の重圧に耐えかねたか、無意識にスーツのポケットを探っているのは喫煙者の癖だろう。安田の方は見ず、蛍光灯の影が落ちた廊下に視線を放りながら返事を返す。
「あなたには関係ありません」
これでも自制心を総動員して応したつもりだが安田は気に入らなかったようだ。胸ポケットにかけた手をおろし、レンズの奥の目を僅かに細め、医務室のドアと僕の横顔とを見比べながら慎重に口を開く。
「………見たところ彼は手首を捻挫していたようだが、ペア戦開幕は明日だろう」
「はい」
「彼はレイジと組んで出場するんだったな」
「はい」
「それは」
そこで言葉を切った安田が、僕の顔色を窺うように低い声で念を押す。
「まずいんじゃないか?」
「わかってる」
そうだわかっている、誰よりもよくわかっている。ペア戦開幕は明日、今は深夜だからあと数時間しかない。それなのに僕の不注意でサムライは怪我をした、他でもない効き手に、刀を握る大事な右手に。僕は馬鹿だ、売春班から足を洗ってもう数日が経つのに未だに悪夢から抜け出せずに幻覚を見てサムライにまで迷惑をかける始末だ。東京プリズンに惠がいるわけないじゃないか、惠は今仙台の小児精神病棟に入院してるんだ。仙台から東京までどれくらいの距離があると思ってる?惠は超能力者じゃない、超能力なんて非科学的な現象は断じて認めない。だから瞬間移動はありえない、深夜、闇の帳が落ちた鏡の中に見出した妹の幻は自己嫌悪の産物で現実にはありえないことなのだ。
とりとめないことを考えて気を散らそうとするが駄目だ、どうしても意識が背後の扉へと向いてしまう、強力な磁力でもって引きつけられてしまう。思考が支離滅裂でまとまらない、頭と心が完全に分離して自分でも何を言ってるかわからずにますます混乱してくる。サムライの様子が気になる、手首の具合はどうだ?もし彼が手首を捻挫して明日のペア戦に出場できなくなったら僕のせいだ、僕はまた彼に迷惑をかけてしまう、足手まといになってしまう……
「顔色が悪い」
「よくなりようがない」
隣に凭れかかった安田に指摘され、苛立ちをぶつけるように切り返す。天井と床が平行にのびた廊下に立ち尽くしてただ待つしかないのは精神的拷問にひとしい。白々と輝く蛍光灯の光を浴びながら立っていれば安田がまた声をかけてくる。
「痩せたんじゃないか」
「……少し体重は戻りました」
なんなんだ一体、僕はとてもじゃないが安田の世間話に付き合えるような精神状態じゃないというのに。それとも安田は沈黙に耐えられず、特別親しくもない他人にスキンシップを求めてくるような傍迷惑なタイプの人間なのか?だとしたらこの男に対する評価を大幅に下方修正しなければならない。舌打ちしたい気分で返事をするが口にした内容自体はまったくの嘘でもない。売春班の業務が休止されてから一週間で3キロ近く減った体重が多少は戻ったのだ。食べ物を口にいれても直後に吐かなくなったし大分マシになったと思う。
「……そうか。君は少し痩せすぎだ、もっと食べたほうがいい。育ち盛りなんだから」
「じゃあ食堂のメニューを改善してください、少なくとも人間の舌に合うように」
「考えておく」
「中華をメニューにくわえたらどうですか。この刑務所で最も多くの人口を占めているのは中国系の囚人ですし」
「考えておく」
「口だけなら何とでも言える」
はっきりそれとわかるように冷笑する。言動の端々がひどく攻撃的になっている自覚はあるが自重する気は微塵もない、こうして安田と二人きり、誰にも邪魔されずに会話できる機会などもう永遠に訪れないかもしれない。それならば婉曲に腹の探り合いなどせず直裁に核心に触れるべきだ。
銀縁眼鏡のブリッジを押さえ、反感に波立つ心を何とかしずめようと努力しながら口を開く。
「僕からも質問させてください。何故今まで売春班を、いや、ブラックワークの存在そのものを放置してきたんですか」
安田は東京プリズンの副所長の地位にある若きエリートだ。いかに彼が無力とはいえ、その気になれば売春班などどうにでもできたはずだ。看守の恨みや囚人の不満を買うのは避けられない事態だろうが、もし本気で売春班の現状を、ひいてはブラックワークの制度自体を憂慮していたのなら多数派の賛同を得なくても副所長権限で廃止なり休止なりに追い込む強行手段にでることも厭わないはずだ。
それともこの男は、おのれの下で働く看守や何百何千という囚人の非難の矢面に立つのが怖くて今まで手をこまねいて静観してきたというのか?
「……煙草を吸ってもいいか」
「最低5メートルは離れてください」
いや、僕が離れる。安田から5メートルの距離をとればライターを点火する音が聞こえてくる。煙草に点火して深く紫煙を吸い込む。天井に設置された蛍光灯がよわよわしく点滅する中、コンクリートの陰鬱な色彩に溶け込むように廊下に佇んだ安田がうっそりと紫煙を燻らせる。
「……東京プリズンに収監されているのは日本で罪を犯した人間だけではない」
「?」
「囚人で知っている者は少ないだろうが東京プリズンには海外で罪を犯した者が多数収監されている。いずれも日本人に対して罪を犯した者や日本という国家に重大な損害を与えた凶悪犯に限られるがな。中には本国で手におえなくなり、東京プリズンの風評を聞いた海外政府から頼むからこちらで預かってくれと流されてきた者もいる。早い話たらい回し……いや、厄介払いが正確か。近年日本も治安が悪くなったと言われているが海外にはもっと治安が悪化して手がつけられなくなった国が多くある。たとえば第二次ベトナム戦争の戦火が拡大して否応なく戦争に巻き込まれた東南アジア圏の国々、ここ十年は特にフィリピンの治安悪化が著しい。米軍侵略以降、反政府ゲリラとの対立が激化してもう手がつけられない状態だ。たとえば韓国。二十世紀前半に朝鮮韓国が併合され半島統一が実現したのはいいが社会主義と資本主義に二分化した溝を埋めるのは容易ではない。実際朝鮮政府の負債を補填するために韓国は巨額の国費を費やし、結果として深刻な不況に陥り国民の反発を招いた。自分たちが貧しくなったのは朝鮮と併合したからだと考える人間があたらしい世代から出てきたのだ。今では韓国独立、または朝鮮独立をスローガンに掲げて過激なテロ活動に身を投じる人間もいる始末で半島からの亡命者が日本に大挙して渡ってきて都心に一大スラムを作っている」
「知っています。常識です」
「そうか。なら東京プリズンで非常識が常識としてまかりとおるのもわかるな」
「………」
「正直ここの囚人は手におえない。何かのきっかけで不満が爆発したら看守が束になってかかってもその勢いを押しとどめることはできないだろう。売春班を含めたブラックワークの存在がこれまで黙認されてきたのはいみじくも需要と供給が成立していたからだ。もちろん売春夫を買いに来る客の中には看守も含まれるが囚人に比べたら微々たる割合だ。規則に縛られた窮屈な生活の中、ブラックワークは数少ない娯楽として、貴重な息抜きの場として機能して東京プリズンの日常に溶け込んでいるのだ」
「息抜きですか?僕を、僕達を抱くのが」
笑い出したくなる。二の腕を抱いて自嘲の笑みを浮かべた僕をちらりと一瞥して安田が結論する。
「……君たちにはすまないことをしたと思っている。しかし仮に看守の反対を押し切り、囚人の意向を無視してブラックワーク撤廃に乗り出したとしたら多数の死傷者をだす大規模ストライキが起きる可能性がある。刑務所でストライキが発生して死傷者をだすなど、万が一そんな醜聞が外に漏れたら日本政府の恥だ」
「東京プリズンの存在自体が恥です」
間髪いれずに結論を奪えば、指の間に吸いさしの煙草を預けた安田がため息まじりにかぶりを振る。
「……否定できないな」
安田の話を聞いてよくわかった、彼は有能だが保身を第一に考えるエリートの典型だということが。やり場のない苛立ちと怒りがこみあげてきて無造作に片手を突き出す。おもむろに突き出された手を怪訝そうに見下ろす安田に一息に畳み掛ける。
「煙草をくれませんか」
安田の顔に驚きの波紋が広がる。しかし次の瞬間には手の内を見せない表情を取り繕うや、胸ポケットから取り出した新しい煙草を僕に手渡す。
「君は嫌煙家じゃなかったのか」
「ニコチンは精神安定剤になるんでしょう」
安田にライターを借りて点火すれば穂先に赤い光がともる。とにかく今は忌むべき有害毒素、ニコチンの力を借りてでも気の昂ぶりを沈静化させたい。そうでもしないと安田に殴りかかってしまいそうだ。いつだったか、展望台の突端から足をたらしたロンが煙草をくわえていたのを手本にして真似してくわえ……
扉が開いた。
「!」
煙草を口にいれて振り向けば仏頂面のサムライがいた。右手首に包帯を巻いて。
「全治二週間だそうだ」
絶句する。やはり僕を庇って転倒した際に右手首を捻挫していたのだ。全治二週間、ということは明日の試合、いや、その後の試合にも影響がでるではないか。また僕はサムライに迷惑をかけしてしまった、そもそも平和主義者のサムライがペア戦出場を決意したのは僕を売春班から助け出すのが動機なのにこともあろうにその僕が……
怒っているのだろうか、見た目はいつもと変わらない仏頂面のサムライがひとりで歩き出そうとするのに有無を言わさず肩を貸す。そうして歩き出そうとして、ふと脳裏に疑問が過ぎる。
「何故医務室に?」
安田を振り返り質問する。何故こんな深夜に、人目を盗むように医務室を訪ねてたのか?一見したところ怪我をしてるふうでもなし、安田が医務室を訪ねた動機がわからなくて率直に聞けば壁によりかかった安田がポケットから錠剤のシートをとりだす。
「睡眠薬だ。最近よく眠れなくてここの医師に処方してもらってる」
安田にも不眠症の気があるなんて初耳だ。言われてみれば顔色が冴えず、目の下には薄く隈が浮いている。
「……囚人には睡眠薬なんて処方してくれませんよね」
自然、皮肉が口をついてでる。
「眠れないのか」
「よく眠れていたら今頃こんなところにいません」
「確かに」
それきり黙りこんだ安田に背中を向け、サムライの肩を支えて歩き出す。サムライのほうが僕より背が高いから歩調があわずに苦労するが、ここで倒れるわけにはいかない。肩に回されたサムライの腕、そのぬくもりと重みを感じながら歩を運ぶ。安田はもう何も声をかけてこなかった。背中に注がれる安田の視線を意識しながら逃げるように廊下を曲がれば東棟へと通じる渡り廊下がのびている。
「げほっがほっ」
壁に阻まれて安田の姿が消えると同時に、深く深く上体を折ってはげしく咳き込む。よかった、なんとか安田の目の届かないところまで我慢することができた。慣れないことはするもんじゃない、煙草、即ちニコチンに代表される有害毒素が濃縮された煙を吸引したせいで頭がくらくらする。最悪だ、これでもう三年は確実に寿命が縮まった。安田を筆頭に世にはびこる喫煙者は消極的な自殺志願者としか思えない、何故こんな不味いだけの、煙を吸い込めば苦しいだけの煙草をひっきりなしに吸えるんだ?
「大丈夫か?」
「大丈夫だ」
即座に煙草を投げ捨て涙目でむせ返れば、僕の肩によりかかったサムライに逆に心配される。情けない、なにをやってるんだ僕は。サムライをひきずるようにして途方もなく長い渡り廊下を歩きだせばニコチンの副作用で眩暈までしてくる。
「僕の心配より自分の心配をしろ、手首を捻ったんなら明日のペア戦は欠場したほうがいい」
「そういうわけにはいかない」
「無理をしたら二度と手が使えなくなるかもしれない」
「駄目だ」
「頑固だな君は、たまには僕の言うことを聞け。天才の言うことに間違いはない、絶対だ。IQ180の頭脳に賭けて」
渡り廊下の半ばでおもむろにサムライが立ち止まる。
サムライを背負って廊下を歩いていた僕も必然的に立ち止まる格好になる。すぐそばにサムライの顔があり、浅い息遣いが聞こえてくる。右手首の腫れと痛みは悪化する一方らしく、包帯を巻いた手を庇い、僕の肩にもたれかかるようにして何とか二本足で立つ姿は痛々しげで見るに耐えない。右手首の激痛を堪え、意地でも明日の試合に出ると主張するサムライを叱責しようと口を開きかけた僕をひたと見据えたのは強い信念を宿した眼光。
「俺はもう、他の男にお前を抱かせたくない」
窓の外には濃度を増した闇が淀んでいる。
息苦しいまでの質量で押し寄せてくる闇の中、蛍光灯に照らされ白々と浮上した渡り廊下の中央でサムライと向き合い、その眼光に魅入られる。肩にかかる重みも腕と腕が触れたところから生まれる心安らぐぬくもりも、息遣いの乱れがまざまざとわかる距離にある生真面目な顔も。
顔が近すぎるせいか、心臓の鼓動と鼓動が溶け合うほどに体が接してるせいか、緊張する必要など微塵もないにもかかわらず掌がしっとりと汗ばんでくる。目を逸らすことなど許されないまっすぐな眼光に魅入られ、口を開く。
「僕も、他の男には抱かれたくない」
しっかりした声で本音を言えば、サムライが心底から安堵したように体を弛緩させて僕の肩に体重を預けてくる。肩にかかる重みが急に増したせいでよろめきつつも、何とか均衡を維持してサムライと二人分の体重を支えれば小さい声が聞こえてくる。
「……なら問題はない、明日のペア戦には出場する。右手を捻ったぐらいどうということはない」
僕を安心させるように柔和に呟くサムライの体を背負いなおし、東棟へと帰り道を急ぐ途中、ほんの数秒前に自分が口にした台詞がいちるじく文法を違えていたことに気付く。
他の男には抱かれたくない?それじゃまるで、サムライになら抱かれてもいいみたいじゃないか。多大なる誤解を招く発言を悔い、羞恥に顔を火照らせてサムライを見上げる。
「誤解するなよ、他の男にはもちろん君にも抱かれたくない。さっきのはその、日本語の文法を間違えただけだ。IQ180の天才たるこの僕がこうして自らの間違いを認めたのは誤謬を指摘される前に訂正しておこうと謙虚に思い直したからで他意はないぞ、これっぽっちも」
「無論だ。俺に男色の趣味はない」
「僕にも同性愛嗜好はない。ついでに言わせてもらうが君の文法は破綻してる、紛らわしいことこの上ない」
僕より大分背が高いサムライをひきずるようにして渡り廊下を歩きながら俄かに不安になる。
僕に同性愛嗜好はない……はずだ。
いや、開いてなかったとしても無理矢理にでもこじ開けるつもりだ。
サムライに肩を貸して夜気がひんやりと身に染みる廊下を歩く。幾つかの角を曲がってひたすら歩けば渡り廊下に到達、そこから中央棟へと向かい医務室に直行する。消灯時間を過ぎて出歩いてるのを看守に見咎められればどんな罰を受けるかわからないがそれどころじゃない、今はサムライの手首の治療が最優先事項だ。蛍光灯が心もなく照らす廊下には歩調をあわせる僕らの他に人影もなく閑散としている。こうして肩を貸していてもサムライの呼吸が浅く乱れ、額にはおびただしい脂汗が浮きだしているのがわかる。
医務室の扉が見えてきた。
「急患だ、応急処置を頼む!!」
嵐のようなノックを降らせて、扉に体当たりするように医務室に雪崩こむ。白い衝立で仕切られたベッドの手前は診療スペースとなっており、消毒液や包帯などがきちんと整頓された戸棚に面してステンレスの机が置かれていた。そして、机の前の革張りの椅子には首から聴診器をさげた医師が腰掛けて何事かと大きく目を見張って深夜の闖入者を凝視している。
「どうしたのかねこんな時間に」
「手首を捻ったみたいなんだ、早急に処置を頼む」
サムライに口を開く暇を与えずに早口に用件を告げる。革張りの椅子の対面、患者が腰掛ける用の椅子にサムライを座らせ、未だ事態が飲み込めずに面食らっている医師に語気荒く詰め寄れば僕の剣幕に圧倒された医師が迅速に動き出す。慎重にサムライの手首を取り様子を見てからしかめつらしく診断を下す。
「ふむ。どうやら手首を捻ったみたいだ」
頭に血が昇った。
「だからそう言ってるじゃないか!!」
「落ち着け鍵屋崎……、」
「落ち着いてなどいられるか君はなんでそんな冷静なんだ!?右手が使えなくなったら困るだろう箸が握れなくなる、箸が握れないということは食事できなくなる、それに筆、筆が握れなければ写経できなくなる!いや違う、もっと大事なことがあるだろう、そうだ刀……」
刀。
明日はペア戦だ。
「付き添いは外に出ていてもらえるかね」
完全に気が動転した僕を扱いかねた医師が遠慮がちに、しかし有無を言わさずに申し出る。対面式に腰掛けたサムライの手に氷水で冷やしたタオルを当てながら迷惑そうに眉をひそめて振り返る。
「嫌だ、貴様は医者として信用できない。僕が以前医務室を訪ねた時なんて診断を下したか忘れたとは言わせない、特に別状はないと右手に包帯だけ巻いて追い返したじゃないか。何が別状ないだ右手にヒビが入ってたんだぞこの耄碌した藪医者め。藪医者の語源を知ってるか?そうか知らないか、なら無知な貴様の為に特別に教えてやる。藪医者の語源は諸説あるが『野巫医者』を語源とし、『藪』は当て字とする説が有力とされる。野巫は田舎の巫医とも言われ、呪術で治療する田舎の医師のこと。あやしい呪術で治療することから「いい加減な医者」、たった一つの呪術しかできなかったことから下手な医者といった意味で野巫医者という言葉が生まれたとされ……」
「落ち着きたまえ」
「離せ!」
肩に置かれた手を激情のままに振り払えば次はもっと強く肩を掴まれる。そして気付く、誰が僕の肩を掴んでるんだ?サムライと医師は目の前にいる、じゃあ僕の背後に立っているのは?ぽかんと口を開けた医師と唇を一文字に引き結んで痛みを堪えるサムライ、対照的な二人の視線の先を振り返れば意外な人物がいた。
安田だ。
「何故ここに……、」
安田の顔を見た瞬間、急速に膨れ上がった疑問が一時的に興奮を駆逐した。数日前売春通りで見た時と殆ど同じ格好をしているように思えるのは安田が陰鬱に沈んだダーク系のスーツしか身につけないからだ。銀縁眼鏡の奥、剃刀のような知性を帯びた双眸を鋭く細めた安田が放心状態の僕の腕を引っ張って強制的に医務室の外へと連れ出す。
逆らう気は起きなかった。
されるがままに腕を引かれて医務室から外に出される間際に振り返ればサムライが手首の治療を受けているところだった。右手首に巻かれたタオルの冷たさが骨身に染みるのか僅かに顔をしかめている。その横顔を深い悔恨とともに胸に刻みこんで廊下に出れば背後で扉が閉ざされる。
深夜、人気のない廊下に閉め出されて途方に暮れて立ち竦む僕の隣には安田がいた。何が起きたのか正確には理解しないまま、僕の頭を冷やすために廊下に連れ出したのだろう安田が訝しげに顔を覗きこんでくる。
「いい加減手を離してくれませんか」
「すまない」
指摘され、初めて僕の腕を握ったままでいたことに思い当たったらしい安田がよそよそしく手を放す。安田に掴まれた腕をさすりながら白くペンキを塗られた医務室の扉を見つめる。中で何が行われているかは殆ど物音が聞こえないため窺い知れない。サムライの手首は大丈夫なのか?あの藪医者はちゃんと治療してくれるのか?深夜の急患のため医務室はいつでも開放されているがあくまで形だけ、肝心の医師が役に立たなければ話にならない。信用?できるはずがない、半年前僕の右手に包帯だけ巻いて「別状はない」と追い返した老人だぞ。何が別状ないだ、右手の骨にひびが入っていて完治に二ヶ月費やしたじゃないか。今度またいい加減な診断を下したらただじゃおかない、僕は東京プリズンによくいる何でも腕力で解決できると思い込んでいる野蛮人ではないから暴力的な手段には訴えないがあの藪医者を床に正座させて傍らに分厚い医学書を積んで医学の基礎の基礎から復習させ性根を叩き直すくらいのことはやる。
焦燥に揉まれ、廊下の壁に凭れて所在なげに立っていれば横顔に視線を感じる。反射的に顔を上げればずっと僕の横顔を見ていたらしい安田と目が合い、お互い非常に気まずい思いをする。
どちからからともなく顔を伏せる。サムライの治療が終わるのをただひたすら待つ苦痛な時間。
「何があったんだ?」
そう聞いてきたのは安田だった。沈黙の重圧に耐えかねたか、無意識にスーツのポケットを探っているのは喫煙者の癖だろう。安田の方は見ず、蛍光灯の影が落ちた廊下に視線を放りながら返事を返す。
「あなたには関係ありません」
これでも自制心を総動員して応したつもりだが安田は気に入らなかったようだ。胸ポケットにかけた手をおろし、レンズの奥の目を僅かに細め、医務室のドアと僕の横顔とを見比べながら慎重に口を開く。
「………見たところ彼は手首を捻挫していたようだが、ペア戦開幕は明日だろう」
「はい」
「彼はレイジと組んで出場するんだったな」
「はい」
「それは」
そこで言葉を切った安田が、僕の顔色を窺うように低い声で念を押す。
「まずいんじゃないか?」
「わかってる」
そうだわかっている、誰よりもよくわかっている。ペア戦開幕は明日、今は深夜だからあと数時間しかない。それなのに僕の不注意でサムライは怪我をした、他でもない効き手に、刀を握る大事な右手に。僕は馬鹿だ、売春班から足を洗ってもう数日が経つのに未だに悪夢から抜け出せずに幻覚を見てサムライにまで迷惑をかける始末だ。東京プリズンに惠がいるわけないじゃないか、惠は今仙台の小児精神病棟に入院してるんだ。仙台から東京までどれくらいの距離があると思ってる?惠は超能力者じゃない、超能力なんて非科学的な現象は断じて認めない。だから瞬間移動はありえない、深夜、闇の帳が落ちた鏡の中に見出した妹の幻は自己嫌悪の産物で現実にはありえないことなのだ。
とりとめないことを考えて気を散らそうとするが駄目だ、どうしても意識が背後の扉へと向いてしまう、強力な磁力でもって引きつけられてしまう。思考が支離滅裂でまとまらない、頭と心が完全に分離して自分でも何を言ってるかわからずにますます混乱してくる。サムライの様子が気になる、手首の具合はどうだ?もし彼が手首を捻挫して明日のペア戦に出場できなくなったら僕のせいだ、僕はまた彼に迷惑をかけてしまう、足手まといになってしまう……
「顔色が悪い」
「よくなりようがない」
隣に凭れかかった安田に指摘され、苛立ちをぶつけるように切り返す。天井と床が平行にのびた廊下に立ち尽くしてただ待つしかないのは精神的拷問にひとしい。白々と輝く蛍光灯の光を浴びながら立っていれば安田がまた声をかけてくる。
「痩せたんじゃないか」
「……少し体重は戻りました」
なんなんだ一体、僕はとてもじゃないが安田の世間話に付き合えるような精神状態じゃないというのに。それとも安田は沈黙に耐えられず、特別親しくもない他人にスキンシップを求めてくるような傍迷惑なタイプの人間なのか?だとしたらこの男に対する評価を大幅に下方修正しなければならない。舌打ちしたい気分で返事をするが口にした内容自体はまったくの嘘でもない。売春班の業務が休止されてから一週間で3キロ近く減った体重が多少は戻ったのだ。食べ物を口にいれても直後に吐かなくなったし大分マシになったと思う。
「……そうか。君は少し痩せすぎだ、もっと食べたほうがいい。育ち盛りなんだから」
「じゃあ食堂のメニューを改善してください、少なくとも人間の舌に合うように」
「考えておく」
「中華をメニューにくわえたらどうですか。この刑務所で最も多くの人口を占めているのは中国系の囚人ですし」
「考えておく」
「口だけなら何とでも言える」
はっきりそれとわかるように冷笑する。言動の端々がひどく攻撃的になっている自覚はあるが自重する気は微塵もない、こうして安田と二人きり、誰にも邪魔されずに会話できる機会などもう永遠に訪れないかもしれない。それならば婉曲に腹の探り合いなどせず直裁に核心に触れるべきだ。
銀縁眼鏡のブリッジを押さえ、反感に波立つ心を何とかしずめようと努力しながら口を開く。
「僕からも質問させてください。何故今まで売春班を、いや、ブラックワークの存在そのものを放置してきたんですか」
安田は東京プリズンの副所長の地位にある若きエリートだ。いかに彼が無力とはいえ、その気になれば売春班などどうにでもできたはずだ。看守の恨みや囚人の不満を買うのは避けられない事態だろうが、もし本気で売春班の現状を、ひいてはブラックワークの制度自体を憂慮していたのなら多数派の賛同を得なくても副所長権限で廃止なり休止なりに追い込む強行手段にでることも厭わないはずだ。
それともこの男は、おのれの下で働く看守や何百何千という囚人の非難の矢面に立つのが怖くて今まで手をこまねいて静観してきたというのか?
「……煙草を吸ってもいいか」
「最低5メートルは離れてください」
いや、僕が離れる。安田から5メートルの距離をとればライターを点火する音が聞こえてくる。煙草に点火して深く紫煙を吸い込む。天井に設置された蛍光灯がよわよわしく点滅する中、コンクリートの陰鬱な色彩に溶け込むように廊下に佇んだ安田がうっそりと紫煙を燻らせる。
「……東京プリズンに収監されているのは日本で罪を犯した人間だけではない」
「?」
「囚人で知っている者は少ないだろうが東京プリズンには海外で罪を犯した者が多数収監されている。いずれも日本人に対して罪を犯した者や日本という国家に重大な損害を与えた凶悪犯に限られるがな。中には本国で手におえなくなり、東京プリズンの風評を聞いた海外政府から頼むからこちらで預かってくれと流されてきた者もいる。早い話たらい回し……いや、厄介払いが正確か。近年日本も治安が悪くなったと言われているが海外にはもっと治安が悪化して手がつけられなくなった国が多くある。たとえば第二次ベトナム戦争の戦火が拡大して否応なく戦争に巻き込まれた東南アジア圏の国々、ここ十年は特にフィリピンの治安悪化が著しい。米軍侵略以降、反政府ゲリラとの対立が激化してもう手がつけられない状態だ。たとえば韓国。二十世紀前半に朝鮮韓国が併合され半島統一が実現したのはいいが社会主義と資本主義に二分化した溝を埋めるのは容易ではない。実際朝鮮政府の負債を補填するために韓国は巨額の国費を費やし、結果として深刻な不況に陥り国民の反発を招いた。自分たちが貧しくなったのは朝鮮と併合したからだと考える人間があたらしい世代から出てきたのだ。今では韓国独立、または朝鮮独立をスローガンに掲げて過激なテロ活動に身を投じる人間もいる始末で半島からの亡命者が日本に大挙して渡ってきて都心に一大スラムを作っている」
「知っています。常識です」
「そうか。なら東京プリズンで非常識が常識としてまかりとおるのもわかるな」
「………」
「正直ここの囚人は手におえない。何かのきっかけで不満が爆発したら看守が束になってかかってもその勢いを押しとどめることはできないだろう。売春班を含めたブラックワークの存在がこれまで黙認されてきたのはいみじくも需要と供給が成立していたからだ。もちろん売春夫を買いに来る客の中には看守も含まれるが囚人に比べたら微々たる割合だ。規則に縛られた窮屈な生活の中、ブラックワークは数少ない娯楽として、貴重な息抜きの場として機能して東京プリズンの日常に溶け込んでいるのだ」
「息抜きですか?僕を、僕達を抱くのが」
笑い出したくなる。二の腕を抱いて自嘲の笑みを浮かべた僕をちらりと一瞥して安田が結論する。
「……君たちにはすまないことをしたと思っている。しかし仮に看守の反対を押し切り、囚人の意向を無視してブラックワーク撤廃に乗り出したとしたら多数の死傷者をだす大規模ストライキが起きる可能性がある。刑務所でストライキが発生して死傷者をだすなど、万が一そんな醜聞が外に漏れたら日本政府の恥だ」
「東京プリズンの存在自体が恥です」
間髪いれずに結論を奪えば、指の間に吸いさしの煙草を預けた安田がため息まじりにかぶりを振る。
「……否定できないな」
安田の話を聞いてよくわかった、彼は有能だが保身を第一に考えるエリートの典型だということが。やり場のない苛立ちと怒りがこみあげてきて無造作に片手を突き出す。おもむろに突き出された手を怪訝そうに見下ろす安田に一息に畳み掛ける。
「煙草をくれませんか」
安田の顔に驚きの波紋が広がる。しかし次の瞬間には手の内を見せない表情を取り繕うや、胸ポケットから取り出した新しい煙草を僕に手渡す。
「君は嫌煙家じゃなかったのか」
「ニコチンは精神安定剤になるんでしょう」
安田にライターを借りて点火すれば穂先に赤い光がともる。とにかく今は忌むべき有害毒素、ニコチンの力を借りてでも気の昂ぶりを沈静化させたい。そうでもしないと安田に殴りかかってしまいそうだ。いつだったか、展望台の突端から足をたらしたロンが煙草をくわえていたのを手本にして真似してくわえ……
扉が開いた。
「!」
煙草を口にいれて振り向けば仏頂面のサムライがいた。右手首に包帯を巻いて。
「全治二週間だそうだ」
絶句する。やはり僕を庇って転倒した際に右手首を捻挫していたのだ。全治二週間、ということは明日の試合、いや、その後の試合にも影響がでるではないか。また僕はサムライに迷惑をかけしてしまった、そもそも平和主義者のサムライがペア戦出場を決意したのは僕を売春班から助け出すのが動機なのにこともあろうにその僕が……
怒っているのだろうか、見た目はいつもと変わらない仏頂面のサムライがひとりで歩き出そうとするのに有無を言わさず肩を貸す。そうして歩き出そうとして、ふと脳裏に疑問が過ぎる。
「何故医務室に?」
安田を振り返り質問する。何故こんな深夜に、人目を盗むように医務室を訪ねてたのか?一見したところ怪我をしてるふうでもなし、安田が医務室を訪ねた動機がわからなくて率直に聞けば壁によりかかった安田がポケットから錠剤のシートをとりだす。
「睡眠薬だ。最近よく眠れなくてここの医師に処方してもらってる」
安田にも不眠症の気があるなんて初耳だ。言われてみれば顔色が冴えず、目の下には薄く隈が浮いている。
「……囚人には睡眠薬なんて処方してくれませんよね」
自然、皮肉が口をついてでる。
「眠れないのか」
「よく眠れていたら今頃こんなところにいません」
「確かに」
それきり黙りこんだ安田に背中を向け、サムライの肩を支えて歩き出す。サムライのほうが僕より背が高いから歩調があわずに苦労するが、ここで倒れるわけにはいかない。肩に回されたサムライの腕、そのぬくもりと重みを感じながら歩を運ぶ。安田はもう何も声をかけてこなかった。背中に注がれる安田の視線を意識しながら逃げるように廊下を曲がれば東棟へと通じる渡り廊下がのびている。
「げほっがほっ」
壁に阻まれて安田の姿が消えると同時に、深く深く上体を折ってはげしく咳き込む。よかった、なんとか安田の目の届かないところまで我慢することができた。慣れないことはするもんじゃない、煙草、即ちニコチンに代表される有害毒素が濃縮された煙を吸引したせいで頭がくらくらする。最悪だ、これでもう三年は確実に寿命が縮まった。安田を筆頭に世にはびこる喫煙者は消極的な自殺志願者としか思えない、何故こんな不味いだけの、煙を吸い込めば苦しいだけの煙草をひっきりなしに吸えるんだ?
「大丈夫か?」
「大丈夫だ」
即座に煙草を投げ捨て涙目でむせ返れば、僕の肩によりかかったサムライに逆に心配される。情けない、なにをやってるんだ僕は。サムライをひきずるようにして途方もなく長い渡り廊下を歩きだせばニコチンの副作用で眩暈までしてくる。
「僕の心配より自分の心配をしろ、手首を捻ったんなら明日のペア戦は欠場したほうがいい」
「そういうわけにはいかない」
「無理をしたら二度と手が使えなくなるかもしれない」
「駄目だ」
「頑固だな君は、たまには僕の言うことを聞け。天才の言うことに間違いはない、絶対だ。IQ180の頭脳に賭けて」
渡り廊下の半ばでおもむろにサムライが立ち止まる。
サムライを背負って廊下を歩いていた僕も必然的に立ち止まる格好になる。すぐそばにサムライの顔があり、浅い息遣いが聞こえてくる。右手首の腫れと痛みは悪化する一方らしく、包帯を巻いた手を庇い、僕の肩にもたれかかるようにして何とか二本足で立つ姿は痛々しげで見るに耐えない。右手首の激痛を堪え、意地でも明日の試合に出ると主張するサムライを叱責しようと口を開きかけた僕をひたと見据えたのは強い信念を宿した眼光。
「俺はもう、他の男にお前を抱かせたくない」
窓の外には濃度を増した闇が淀んでいる。
息苦しいまでの質量で押し寄せてくる闇の中、蛍光灯に照らされ白々と浮上した渡り廊下の中央でサムライと向き合い、その眼光に魅入られる。肩にかかる重みも腕と腕が触れたところから生まれる心安らぐぬくもりも、息遣いの乱れがまざまざとわかる距離にある生真面目な顔も。
顔が近すぎるせいか、心臓の鼓動と鼓動が溶け合うほどに体が接してるせいか、緊張する必要など微塵もないにもかかわらず掌がしっとりと汗ばんでくる。目を逸らすことなど許されないまっすぐな眼光に魅入られ、口を開く。
「僕も、他の男には抱かれたくない」
しっかりした声で本音を言えば、サムライが心底から安堵したように体を弛緩させて僕の肩に体重を預けてくる。肩にかかる重みが急に増したせいでよろめきつつも、何とか均衡を維持してサムライと二人分の体重を支えれば小さい声が聞こえてくる。
「……なら問題はない、明日のペア戦には出場する。右手を捻ったぐらいどうということはない」
僕を安心させるように柔和に呟くサムライの体を背負いなおし、東棟へと帰り道を急ぐ途中、ほんの数秒前に自分が口にした台詞がいちるじく文法を違えていたことに気付く。
他の男には抱かれたくない?それじゃまるで、サムライになら抱かれてもいいみたいじゃないか。多大なる誤解を招く発言を悔い、羞恥に顔を火照らせてサムライを見上げる。
「誤解するなよ、他の男にはもちろん君にも抱かれたくない。さっきのはその、日本語の文法を間違えただけだ。IQ180の天才たるこの僕がこうして自らの間違いを認めたのは誤謬を指摘される前に訂正しておこうと謙虚に思い直したからで他意はないぞ、これっぽっちも」
「無論だ。俺に男色の趣味はない」
「僕にも同性愛嗜好はない。ついでに言わせてもらうが君の文法は破綻してる、紛らわしいことこの上ない」
僕より大分背が高いサムライをひきずるようにして渡り廊下を歩きながら俄かに不安になる。
僕に同性愛嗜好はない……はずだ。
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