少年プリズン

まさみ

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百五十一話

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 手が追いかけてくる。

 逃げても逃げても追いかけてくる手、手、手。
 粘液質の汗で不快に湿った手が、乾燥してがさついた手が、不健康に静脈が浮いた手が。手といってもさまざまだ、ひとつとして同じ手はない。僕の体に触れる手のひとつひとつ、一本一本に特徴がある。背中を腰を胸を腹を臀部を下肢を、体の裏表隅々に触手の執拗さで絡みつき束縛し隙あらば奈落の淵に引きずり込もうとする無数の手。これは夢だとわかっている。睡眠中でも頭の一部は常に冴えていて醒めた理性が働いてるが、生々しい身体感覚を伴う悪夢を体験するとこれが現実なのか妄想なのか、正気と狂気の境界線が曖昧に滲み出して混乱してわからなくなる。
 息を切らし、必死に逃げる。足首に巻き付き引き戻そうとする手を蹴散らし、後ろから肘を掴んだ手を邪険に振り払い、首を締めようとする手を激しくかぶりを振って追い払う。左右の肩にかかった手が強引に僕を足止めして振り向かせようとする、いやだ、振り向きたくない絶対に。二度と振り返りなどするものか、せっかく逃げ出してきたのに這い上がってきたのに今振り向いてしまったらまた地獄に逆戻りじゃないか。

 地獄。思い出したくもない。

 肩に乗った手を乱暴に振り落としてさらに加速して逃げ続ける、一心不乱にひたむきにどこまでもどこまでも逃げ続ける。
 夢の中でも息が苦しいのは何故だろう、得体の知れない恐怖に追い立てられ心臓が早鐘を打つのは何故だろう。重力が増したように密度の濃い空気が四肢に纏わりつき真綿で締めるような緩慢さで徐徐に自由を奪ってゆく。
 足が重たい、体が重たくて上手く走れない。交互に足を繰り出すだけでも強烈な眩暈に襲われて嘔吐しそうになる、駄目だ限界だ。

 酸欠の苦しみに喘ぎ、速度を落とすと同時に背後から殺到してきたのは無数の手。腕に注射針の痕を残し、黄褐色に変色した薬物依存者の手が後頭部を鷲掴みにしてむらなく日焼けした逞しい手で羽交い絞めにされて白くふやけた不健康な手が太腿を這いまわる。手の持ち主の顔は振り向かないとわからないが振り向くことができない、否、振り向きたくない絶対に。振り向いたら後悔してしまう、僕が忘れようと自己暗示をかけて封印してる出来事を一気に思い出して発狂してしまう。
 誰が自分を犯した男の顔を再び見たいものか。
 一本、二本、三本……しめて三十四本、十七人分の手がそれ自体体から独立した生物のように自在に伸縮して追いかけてくる。今や完全に絡めとられて身動きができずぶざまに地に倒れ伏す、後頭部を押さえ込んだ手、背中を圧迫する手、左右の膝を割って太腿をまさぐる手。「やめろ」と声を限りに叫ぼうとして開けた口腔にも容赦なく指を突っ込まれ、唾液を塗りこまれるように粘膜をまさぐられ揉み解される。一本二本三本……そんなに入るわけがない、にもかかわらず涙目でむせ返った僕の口腔では無理矢理突っこまれた三本の指が淫靡に蠢いている。顎が外れそうになるまで口を開けて三本の指を飲み込めば喉の奥をまさぐる指の感触に強烈な嘔吐感がこみあげてくる、舌をつねり歯の窪みを辿る指の陰湿さに耐えている間もほかの手は止まることなく、シャツの背中にもぐりこんだ手が肩甲骨を撫で、ズボンの後ろもぐりこんだ手が臀部をまさぐり、ズボンの前にもぐりこんだ手が絶対他人に触れられたくない場所に侵入してくる。

 気持ち悪いやめてくれ頼む放してくれもう解放してくれ。

 気も狂いそうになりながら、口に指を突っこまれているため声には出せず懇願する。体の裏表至る所に手が侵入してくる、既に僕の体で他人の手に犯されてない場所などどこにもない。体の内側も外側も熱くて熱くてどうにかなってしまいそうだ、理性が蒸発して体の奥底で燻っていた淫蕩な熱をかきたてられ全身の細胞が溶解しそうに火照りだす。
 『妹の名前を呼べば許してやるぞ』
 唐突に、声が聞こえた。
 それまで僕の耳には何も聞こえてなかったが、ひょっとしたらずっと前から聞こえてたのかもしれない。ただ逃げるのに必死で聞こえてなかっただけで。手で目隠しされてるせいで視界が塞がれて何も見えない、目の前にあるのはどこまでも続く暗闇だ。
 『さあ言えよ』
 命令調の声で強制され、体を硬直させ拒絶する。誰が言うか。惠は僕の妹、この世でいちばん大事な人間なんだ。僕はもう二度と惠の名前を呼ばない、幼い妹に泣いて助けを求めるなんてみっともない真似はしない、そんな醜態を晒すのはごめんだ。
 惠にはいつまでも綺麗でいて欲しい。汚したくはない。
 『言えよ』
 『!』
 僕の体を覆い尽くしていたおびただしい手が一斉に蠢きだす。指という指が体の先端の敏感な部分を刺激する、愛撫は次第に激しくなり擦りむけるほどに肌を摩擦する痛みを伴うようになる。熱に苛まれた体の芯が鈍く疼きだして腰が萎えそうになる。いつまで続くんだろうこの拷問は。早く終わって欲しいとそればかりを気も狂わんばかりに一心に念じるが愛撫ははげしくなる一方で、体が心を裏切って反応しだすのを自分の意志ではどうすることもできない。

 反応?

 馬鹿な、僕は不感症なのに何に反応するというんだ。それともあの一週間で、売春を強要されていたあの一週間で倒錯した快楽の味を覚えこまされてしまったのか?まさかそんな、そんな馬鹿なことあるはずない。これは夢だ、悪い夢だ、今すぐに目を開けて目覚めなければ。こんなのは嘘だ全部嘘だ、僕が感じてるなんて欲情してるなんて絶対に嘘だ、男に無理矢理犯されて反応してるなんてあるわけない。
 『言えよ』
 前と後ろとをはげしく責め立てられて喉がひきつる。言いたくない、言いたくない。でも言わなければこの拷問は終わらない、延延と苦痛が長引くだけだ。ただ一言言ってしまえばラクになる、長い悪夢から解放されて現実に浮上することができる。
 めぐ、み。
 『そんなんじゃ聞こえねえよ。もっと大きくはっきりと、』 
 めぐみ。
 『男にヤられながら妹の名前呼ぶなんて変態だな』
 めぐみ。
 『本当はずっと妹とヤりたかったんだろう。妹のひらたい胸を揉んでかわいく窪んだヘソを舐めてまだ毛も生えてない股に突っ込んで喘がせたかったんだろう。はは、残念だったな!妹ヤるまえに男にヤられちまったら世話ねえな。妹独り占めしたくて堅物の両親殺したくせに目論見外れてがっかりだろ。まあ諦めろ、一度東京プリズンにきちまったんなら腹括って俺のご機嫌とりに徹すんのが吉だ。そうそう、そうやって素直に股開いて腰振って言うこと聞いてりゃいい。なあ、男に抱かれんのは癖になるだろ?なんだ、泣いてんのか。もうイッちまいそうってか。まだ駄目だ、俺がイくまでイかせられねえな。もうちょっとそのまま我慢してろよ。不感症のくせに不能じゃねえなんて都合いいカラダだな、本当に』
 めぐみめぐみ。
 『ああ、やっぱりだ……妹の名前呼ばせると締まりよくなるな。興奮してんのかよ近親相姦の変態が』
 めぐ、み、めぐ、
 助けてくれ誰か助けてくれもう嫌だ体も心も壊れてしまうばらばらになってしまう、今すぐに舌を切り落としたいもう惠の名前なんか呼ばないようにこれ以上汚して貶めないように。誰か僕を殺してくれ今すぐに殺して息の根を止めてくれ、まだプライドが残ってるうちに理性が残ってるうちに僕が鍵屋崎直でいられるうちに殺してくれ。
 リュウホウすまない、僕は自殺する勇気もない。自分で自分を殺すことさえできない臆病者の小心者で今から他人の手を汚そうとしている、でももうどうしようもない、こんな毎日が続くなら死んだほうがマシとしか思えない。君の最期を目に焼き付けた手前死んだほうがマシなんて軽軽しく口にしたくないのにでもどうしてもその結論に行き着いてしまう、何故だ、いつから僕はこんな惰弱で見下げ果てた人間に成り下がったんだ?最悪だ、もう本当にこんな自分には愛想が尽きた。ぼくは選ばれて生まれてきた人間のはずなのに、この刑務所のだれより賢く知力に優れた天才のはずなのにこれじゃまるで飼い殺しにされる運命に生まれついた鎖つきの家畜じゃないか。
 このまま懲役を終えるまで刑務所で飼い殺しにされるくらいなら本当に殺されたほうがマシだ。
 体を這いまわる手に拡散しかけた理性をかき集め、這いずるように前に進みながら口の中で名前を呼ぶ。僕がこの刑務所で唯一信頼できる男の名を、生まれて初めて友人と認めて心を許した男の名を。
 そして頼む。
 手で目隠しされた暗闇に溺れてもがきながら、こちらに背中を向けて佇んだ男の幻影に。


 「殺してくれ、サムライ」


 その瞬間目が覚めた。
 一瞬自分がどこにいるかわからなくなる。寝返りを打つ度に筋肉痛になる固いベッド、上を見上げれば配管むきだしの殺風景な天井がすぐそこまで迫っている。
 僕が日常寝起きしてる房、寝心地の悪いパイプベッドの上。
 瞼を開けると同時に反射的に上体を起こし、今にも倒れそうな体をベッドの背格子に凭せ掛けて呼吸を整える。気付けば全身にびっしょりと汗をかいていた。冷や汗だ。汗で湿った囚人服が皮膚に密着して気持ち悪い。薄く汗が浮いた鎖骨に目を落とし、無意識な動作で上着の裾に手をもぐりこませる。悪夢の中、体中を這い回った手の感触がまだ生々しく残っているようだ。下肢を割って太腿をなでる手の感触も臀部をなぶる手の感触も、現実に体験したことだけにとても夢とは思えない鮮明さで感覚的に再現されている。
 僕が寝てるあいだ、だれかが体を触ってたんじゃないか?
 そんな錯覚に囚われてはじかれたように房を見渡すが怪しい人影はない。当たり前だ、消灯時間が過ぎたら内側からの施錠が義務付けられているのだ。合鍵でも持ってるなら別だが、鍵開けの技術も持たない囚人が容易に忍び込めるはずがない。寝起きの緩慢さで首を巡らして隣のベッドに視線を放る。サムライは寝ているようだ。寝言は聞かれなかったらしい、とまずはそのことに深く安堵する。
 今は何時だろう。
 正確な時間はわからないが、おそらくは深夜に近いらしく暗闇の濃度が増している。一度目が覚めたら当分寝られそうにない。いや、本音を言えばもう寝たくない。
 寝るのが怖いのだ。
 以前の僕が見る悪夢の内容は大抵決まっていた。戸籍上の両親、鍵屋崎優と由佳利を刺殺して惠に糾弾される夢。リュウホウの自殺を食い止められず、天井からぶらさがった首吊り死体を前に無力に立ち尽くす夢。でも今は違う。最近僕が見るのは「手」に追われる夢だ。売春班で売春を強要されてた一週間で僕の精神力は相当に磨り減っていたようだ、それこそ誰より何より大事な惠の存在を頭の隅に追いやってしまうほどにあの一週間で見た地獄が体に染み付いて頭の中心を占めている。

 睡眠薬が欲しい。

 睡眠薬を服用すれば悪夢に悩まされることなく熟睡できる。そんなことを考えながら床に足をおろしてスニーカーを履く。汗にまみれた顔が気持ち悪い、一刻も早く顔が洗いたい、水が飲みたい。体中の水分が蒸発して喉がからからに渇いている。夢遊病者のようにふらつきながら洗面台に行き、蛇口を捻る。両手で水を受けて顔を洗い、水をすくって飲む。衛生面で不安が残る東京プリズンの水道水を飲むことにもう抵抗もなくなった。蛇口を締めて顔を上げ、正面の鏡をまともに覗きこめば酷く憔悴した自分の顔が映る。眼鏡をしてないせいで鏡に映った顔がぼやけている。そういえば眼鏡をはずした自分の顔をちゃんと見たことがない。日常生活に支障がでるほど視力が悪いため、裸眼で鏡と向き合った自分の目鼻立ちを正確に把握することができないのだ。写真を撮る時は必ず眼鏡をかけているから、写真でさえ自分の素顔を見たことがないという事実にいまさらながら直面する。
 「………」
 ふと眼鏡をはずした自分の顔が見てみたくなり、わずかに身を乗り出して鏡に目を凝らす。馬鹿げてる、視力が悪いんだから土台不可能なのに。しかしこの至近距離で鏡の中の顔が判然としないというのも悔しい、鏡に引き込まれれるように身を乗り出して目を細めた僕の眼前で前ぶれなく異変が起きる。
 あろうことか鏡が歪み、水面の波紋に飲み込まれるように僕の顔がかき消え、立ちかわり現れたのは小柄な少女。
 いつもだれかに詫びてるようなおどおどした表情、人の機嫌の良し悪しに敏感な小動物めいた目。知っている。いや、知っているも何も忘れるわけがない。誰がこの世でいちばん大事な、たった一人の妹の顔を見忘れるというんだ。
 みつあみに結った髪を肩にたらし、俯き加減に立ち尽くしたその少女の名前は―……惠。
 僕の心の支え。最愛の妹。自分の身を犠牲にしても守りたい対象。
 「めぐ、み?」
 声が震えた。自分の目に映るものが信じられない。覚めながら夢を見ているのだろうか?―いや、どうでもいい。こうして惠と会えただけで十分だ。鏡の中に立ち尽くす惠へと誘われるように手を伸ばす。緊張に震える指先がもう少しで鏡の表面に触れようとしたその時だ、鈴を鳴らすような声が響いたのだ。
 『汚い』
 おそるおそる鏡の表面に触れようとした指が止まる。
 惠がゆるやかに顔を上げる。その目にあったのは冷ややかな軽蔑の色、僕が触れることを頑なに拒む断罪の意志。
 『さわらないで。おにいちゃん汚い』
 「汚い?」
 『汚いじゃない、だって男の人とセックスしたんでしょう。気持ち悪い、考えられない。そんなの惠のおにいちゃんじゃない。惠のおにいちゃんはそんなことしない』
 『おにいちゃんはいつだって惠を庇って守ってくれるの。お父さんに怒られたときもお母さんに怒られたときも学校でいじめられたときもいつだって慰めてくれた。惠は悪くないって言ってくれた。惠をいじめるやつはぼくがどんな手を使っても懲らしめてやるって』
 「そうだ、そのとおりだ。僕は惠を守る、死ぬまで守り続ける。それが僕の生きる意味だ」
 『うそ。刑務所の中でどうやって恵を守るのよ。惠は今精神病院の白い部屋に閉じ込められてるのよ、おにいちゃん全然守れてないじゃない。おにいちゃんのうそつき』
 「ちがう」
 『おにいちゃんは嘘つきで汚い最低の人間だ』
 「ちがうそうじゃない聞いてくれ、」
 『今だって嘘をついてる。大事なお友達にも嘘をつき続けてる』
 「頼むやめてくれ、それ以上言うな」
 『お兄ちゃんがお父さんとお母さんを殺したなんて嘘よ』
 「嘘じゃない、致命傷を与えたのは僕だ。今でも鮮明に覚えている、父さんの、鍵屋崎優の右胸にナイフを刺して引き抜く感触を。手を濡らした血液の生温い温度と赤さを」
 『最初にナイフを取ったのはお兄ちゃんじゃないでしょう』
 「僕が殺したんだ」
 『嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき』
 惠の唇が動く。うそつきうそつきうそつき…連綿と囁かれるのは断罪の言葉、無邪気にさえずるような呪詛。声の軽やかさとは裏腹に惠の顔には何の感情も浮かんでない。陶器の人形めいた固さの無表情で呪詛を吐き続ける惠から逃れたい一心で頭を抱えこみ話題を変える。
 「知ってるか惠?心臓は胸の中央やや左側にあり、全身に血液を送り出すポンプの役割をしている。隔壁と呼ばれる筋肉の板で左右に分けられてて、それぞれの側がさらに弁を境に上部の心房と下部の心室に分かれている。要するに右心房・右心室・左心房・左心室の4部屋に分かれている。まず左右の心房が収縮し血液が心室に押し出される。次に心室が収縮し心室にあった血液が動脈を通って全身あるいは 肺に押し出される。心臓はこの収縮サイクルを繰り返す。肺で酸素を得た血液は肺静脈から左心房に入り、左心室から大動脈を通って全身に送り出され……」
 『……嘘つき嘘つき嘘つき』
 「だから人を確実に殺したいときは心臓を刺せばいいんだ深く深く手に体重をかけて。僕は医学書で読んだ通りに実践した、そして鍵屋崎優と由佳利は失血性ショックで死んだ。僕が得た知識は正しかったと証明されたんだ、彼ら二人の死によって。はは、僕は天才だろう?当たり前だ、そうなるように設計されて生まれてきたんだから。だから認めてくれ恵、僕がしたことを認めてくれ。全部恵を守るためにしたことなんだ、あの場はああするより仕方なかった。鍵屋崎由佳利まで殺したくはなかったがやむをえない、一部始終を目撃してたんだから」
 『嘘つき嘘つき嘘つき』 
 ―「仕方ないだろう!!」―
 そうだ仕方ない、惠を守るためにはやむをえない処置だった。僕が犠牲になることで惠の将来に傷がつかずにすむなら喜んで罪を被る、鍵屋崎優と由佳利にとどめをさす。だって惠は僕が生きる理由の全てで、僕が生きる意味で……
 そして惠が、鏡の中の少女が決定的な一言を放つ。まだ塞がってもいない傷口を抉る残酷な台詞を。

 『カギヤザキ スグルなんか死んじゃえ』

 そうか。僕にはもう、「おにいちゃん」と呼ばれる資格さえないのか。
 「おにいちゃん」と親愛をこめた呼称で呼ばれるのが嬉しかった。惠に懐かれてることが実感できて、たまらなく嬉しくて幸せだった。
 だから、惠のおにいちゃんでなくなった僕などもうどうなってもかまわない。
 無造作に拳を振り上げる、拳が裂けて血にまみれてもかまうものか。もうこれ以上惠の顔を見続けるのは耐えられない、呪詛を聞き続けるのは耐えられない。あんなに惠の顔が見たくて、声が聞きたくて気も狂いそうだったのに今は破壊衝動に突き動かされて高々と拳を振り上げている。 
 ぶざまだな。
 そして、鏡に映った惠めがけ渾身の力をこめて拳を振り下ろし―
 その手首が、後ろから掴まれた。

 「何をしている」
 振り返ればサムライがいた。いつのまに起きたのだろう、全然気付かなかった。
 「離せ!」
 鏡の中に向けられていた憎悪が一気に沸点に達してサムライに転じる。サムライの手を振り払おうとはげしく身を捩って抵抗すればますます強く掴まれて苛立ちが募る、なんで邪魔するんだ、邪魔しないでくれ!理性をかなぐり捨てて鏡めがけて手を振り上げれば背後から抱き竦められ動きを封じられる、それでもなお暴れ続ければ僕を背後から抱きしめたままのサムライともども床に転倒する。
 鈍い物音、衝撃。
 それでも痛みを感じなかったのはサムライがしっかりと僕の体を抱きとめて衝撃を緩和してくれたからだ、サムライを押し倒す格好で床に転倒した僕は即座に起き上がるや、自分の下になった男の襟首を掴んで責め立てる。
 「なんで邪魔するんだ、どうして止め……」
 不自然な箇所で言葉が途切れたのは、僕に組み敷かれたサムライの額に大量の脂汗が滲み出してるのに気付いたからだ。様子がおかしい。床に倒れたサムライを注意してよく眺めれば、転倒した際に変な方向に捻ったらしい手首が赤く腫れているのが目に入る。
 頭に昇っていた血が急速に下降し、四肢の端々の体温が急激に低下してゆく。
 「捻ったのか!?」
 「……たいしたことはない」
 腫れた右手首に左手を添え、大儀そうに起き上がったサムライだが苦痛にしかめた顔を見れば痩せ我慢してるのは一目瞭然だ。
 「たいしたことあるだろう!!」  
 早く医務室に連れて行かなければ、放置しておけば腫れが酷くなる。一刻も早く冷やさなければ……サムライに肩を貸して立ち上がりかけ、ある事を思い出して立ち竦む。

 ペア戦開幕は、明日だ。 
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