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百四十七話
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「抱かないのか」
数分後。
ベッドに起き上がった僕の視線の先ではサムライが所在なげにうろついていた。一人の時はやけに広々と閑散に感じられた仕事場もサムライがすぐそばにいると狭苦しい空間に変貌するがそれは決して居心地悪いことはでなく、逆に心休まることだと気付いた。
僕はといえば泣き顔を見られたのが気恥ずかしく、サムライはサムライで青臭い台詞を吐いたのが面映いのか、ベッドを離れてからの数分間はお互いの顔を正視する勇気がなくて敢えて視線を逸らして思い思いの事をしながら気まずく沈黙していた。
胸塞ぐ圧迫感を伴う沈黙に痺れを切らして口を開いた僕を振り向いたサムライがぎょっとする。何をそんなに驚くことがあるんだろう。
サムライの驚愕ぶりを疑問に思いながら抑揚なく言葉を続ける。
「べつに構わないぞ、どうせ初めての客じゃない。今日まで17人相手してきたんだ。やり方はそれなりに心得てるつもりだし暴れて抵抗して君の手を煩わせたりしない。僕を物か玩具としてしか扱ってこなかった粗野で愚鈍な連中と違って君ならそう酷くしないだろし、」
「な……、」
僕の名前を呼ぼうとしたのか意図を推し量ろうとしたのか、何事か口にしかけて中途で絶句したサムライが咳払いして威儀を正す。
「……俺に男色の趣味はない」
「古い言葉を使うな」
堅苦しく拒否したサムライに失笑を誘われる。「男色」なんて今はもう廃れて久しい言葉だ。誤解しないでほしいが僕だって別に積極的にサムライと寝たいわけじゃない、不感症の僕はあらゆるセックスに快感を感じないように出来ている為性行為は苦痛でしかないのだ。しかしここまで来て何もしないでサムライを追い返すのも気が引ける、既に上着は脱いで前準備は整ってる。僕は完璧主義者だから一度やり始めたことを中断するのを是としない、どうせ今日までの一週間で看守も囚人も含めて十七人もの男を相手にして様々なセックスを試みてきたのだ。性欲の捌け口にされるのは慣れてるしサムライならそう酷くされることもないだろうと楽観視してる。
しかし、サムライはそっぽを向いたまま不機嫌そうに押し黙り、ベッドに腰掛けた僕を見もしない。
「ここに来たのだからてっきりそのつもりだと身構えていたのだがな」
サムライへの警戒を解き、ため息をつく。どうやらサムライは本当にその気がないらしい。安堵、というよりは拍子抜けに近い気分で枕元に畳んで置いた上着を手に取って袖に腕を通す。体に負担がかからないから性行為をしないで済むのは大歓迎だがこれでまたサムライに借りを返せなくなるのかと思えば忸怩たるものがある。まあ、体で借りを返そうなどという娼婦の発想自体がこの一週間で身も心も売春班に馴染んでしまった証かもしれないと自嘲的な気分に浸りながら上着に袖を通して裾を引き下げれば耳朶にぶっきらぼうな呟きが触れる。
「……自分を粗末にするな」
反射的に顔を上げ、サムライを注視する。
こちらに背を向けて佇んだサムライの横顔が心なし赤く染まっていた。赤面した横顔を見るともなく眺めながら「もしかして」と下世話な想像を巡らす。もしかしてサムライはあまり女性経験がないんじゃないか?そう仮定すれば僕への態度がぎこちなく不自然だったのも頷けるし道理で愛撫に慣れてないはずだ。まあ異性を相手にする場合と同性を相手にする場合じゃ根本的に違うし一概に断言できないが、この奥手で不器用で酷く純粋な一面を併せ持つ男にそう多く女性経験があるとは思えない。さっき肩に手をかけて押し倒された時は過去サムライの恋人だったという「なえ」を連想してしまったが故人と肉体関係があったかどうかも冷静に分析すれば一抹の疑問が残る。
……何を考えてるんだ、僕は。
無意識に考え巡らしていた下品な想像に辟易する。東京プリズンに収監されてからの半年で大分頭が汚染されてしまったらしい、人の女性関係なんてどうもでもいいじゃないか。ましてや相手はサムライだ、僕の友人だ。友人の女性経験の有無について詮索するなんて唾棄すべき最低の行為だと自戒して吹っ切れば視線の先でサムライの顔が厳しく引き締まる。
何か、不可視の異変を知覚したサムライが俊敏に顔を上げて虚空の一点を凝視する。
『準備はいいか、サムライ』
通気口からの声に不意をつかれた。
聞き覚えのある声……レイジの声だ。レイジの声には一度聞いたら癖になるような甘く掠れた依存性があるから聞き間違えるはずがない。通気口を介した声がすぐそばで聞こえる、ということはレイジは隣の部屋、つまりロンの仕事場にいるのだ。サムライとの会話に夢中になり過ぎて注意力散漫になっていたが、途中、ロンの部屋からうるさい物音が聞こえてきた気がする。ろう城を破られたのか降参して扉を開けたのかはわからないが現に今レイジがいることから考えると漸くロンのもとにも希望の光が射しこんだのだろう。
希望の光?
馬鹿な、僕は希望なんか信じてないはずなのに。そんな幻想はとっくに見限ったはずなのに、サムライの顔を見た途端心が揺らぎだしてるのを否定できない。サムライに押し倒され、至近距離で顔を覗き込まれて説得され、「たすけてくれ」の一言を口にした途端にまた根拠のない希望を抱き始めてるなんて。
でも、今の僕は自分の変わり身の早さを笑えない。目の前で希望が現実になりかけているから、サムライと顔を合わせ、一週間ぶりにまともに言葉を交わしてから全てが劇的に変化した。惠が収容された病院の住所を記したメモと手紙をなくして全ての希望を失い、ついさっきまで精神崩壊寸前まで追い詰められていたのに目の前のこの男に、今、一心に通気口を覗きこんでる男の顔を見た途端に奇妙な安堵感を覚えて全てが何とかなりそうな気がしてきたのだ。
ベッドから腰をあげ、複雑な心境で背に歩み寄れば僕の接近に気付いているのかいないのかサムライがよく透る声を張り上げた。
「こちらは問題ない。そちらはどうだ」
『首尾は上々だ。そろそろいくか』
「心得た」
なにを心得たんだ?
レイジと会話するサムライの背後で歩みを止めれば意外なことが起きる。サムライがおもむろに、全く無造作に上着を脱いだのだ。現れたのはよく引き締まった上半身、鞭のような強靭さを感じさせるストイックな裸身を眺め、少し距離をおいて尋ねる。
「気が変わったのか?」
「馬鹿なことを言うな」
気が変わって僕を抱く気になったのか、と身構えながら聞けばうろんげに一蹴された。馬鹿?なにが馬鹿なんだ、今この状況から順当に考えれば当然その解答に帰結するじゃないか。性行為に及ぶ気が毛頭ないなら何故上着を脱いだんだ、君は露出狂かと声を荒げかけた僕の胸に投げ付けられたのはまだぬくもりが残る上着。
「顔を覆っていろ」
「?どういうことだ、まるでこれから火事でも起こるみたいな」
持て余し気味に上着を抱いた僕を振り返り際何かを言おうと口を開きかけたサムライの背後、壁の高い位置に設けられた通気口から大量の煙が噴出したのは次の瞬間だった。
「!?」
気密性の高い瓶から栓を抜く時のような破裂音が連鎖した通気口から大量に沸いて出てきたのは……膨大な量の白煙。鉄格子の隙間から流れ出てきた白煙に何事かと目を見張った僕を力強い腕が抱きすくめてそのまま扉の方へと疾駆する。
「火事だー!」
狂乱の幕開けは王様の一声だった。
「火事!?」
「マジかよ、火元はどこだ!?」
「すげえ煙だ、げほごほっ、目、目に染みる……」
「おい早くここ開けろよ燻り殺す気かよ!!」
「腹上死ならともかく焼死なんて冗談じゃねえ、おい看守聞いてんのか異常事態発生だ、とっととドア開けやがれ!」
通気口から通気口、房から房へと恐慌が伝染して波紋のように動揺が広まってゆく。そうだ、売春通りの仕事場は全部通気口の内側でひとつに繋がっている。先日ロンが通気口から缶詰をよこしてきたように鉄格子には手首を入れられるだけの隙間がある、もし鉄格子の隙間から何か、煙の源となる物を投げ入れたとしたら当然通気口の内部で破裂したそれは全ての房に大量の煙を撒き散らして、事情を知らない大半の者たちはレイジの一声で火事が発生したと誤解する。
そして、一連の流れから予想される合理的展開は。
爆発するかの如き勢いでぶち破られたドアから転がり出てきたのは上半身裸に下半身裸、ともすれば大事な部分を服で隠しただけの全裸の売春夫や囚人たち。中には幾人かの看守も含まれる。火事発生の急報を受け、消火器を担いで駆けつけてきた看守の目に映ったのは一斉にぶち破られたドアと売春通りの廊下に溢れ出る難民、もとい行為を中断して着のみ着のままで転げ出てきた客と売春夫。鼻から口から煙を吸ってはげしく咳き込んでる囚人たちを押しのけ、各ドアから溢れ出た煙が濛々とたちこめた廊下を走りつつ看守が呟く。
「おい待て、様子がおかしいぞ。煙は出てるがどこにも火なんて……ぎゃっ!?」
消火器をぶらさげてドアのひとつを覗きこんでいた看守が廊下を転がってきた何かを踏んづけて派手にひっくり返る。一面にばらまかれ、廊下の傾斜を雪崩れてきたそれは大量の缶詰。不運にも缶詰の上に乗ってバランスを崩して倒れる看守、それにに巻き込まれて連鎖的に転倒したのは後続の同僚たち。
「なんだよこれ、どっからこんな缶詰が……」
「気をつけろ、滑るぞ!」
「滑ってから言っても遅いんだよ!」
次々に廊下を転がってくる缶詰に足をとられ、ドミノ倒しの如く倒れてく看守の手から消火器が放り出される。売春夫と客全員で埋め尽くされた廊下は今や悲鳴と罵声が飛び交う混乱の坩堝と化し、何が起きたのか誰も完全には理解せぬまま噂だけが錯綜している。
「火事だ、早く逃げねえと黒こげになるぞ!」
「エレベーターに急ぐんだ、詰め込むだけ詰め込んじまえっ」
「馬鹿いえ積載オーバーだよ、階段使ったほうがなんぼかマシだ!」
階段に向かう流れとエレベーターに直行する流れと二手に分かれたが、方向が違う両者が千々に入り乱れたせいで混乱はますます増すばかり。開放されたドアから廊下へと漂いだした煙は既に厚い層となって天井を覆い視界を塞いでいたが、混乱の中、僕が人ごみに流されずに済んだのはサムライがずっと腕を支えててくれたからだ。
「レイジの仕業か?」
「ああ」
サムライの上着で鼻と口を覆ってるせいで声がこもってしまったが意味は正確に伝わったようだ。階段とエレベーター目指し、押し合い圧し合いして先を争う人の流れに楔を打つように廊下の真ん中に立ち竦んだサムライの肩越しに見覚えある顔を発見する。
「どうした」
僕の視線を追ったサムライが不審げに眉をひそめる。僕が食い入るように見つめていたのは足もと一面にぶちまかれた缶詰に立ち往生する上半身裸の看守。おそらく今日もまた売春夫を買いにきてたのだろう。僕に先客が来てたから違う売春夫を買っていつもの手順で全裸にしてロープで縛って……
「―あの男か」
冷えた声がした。
ロープの痕も生々しい手首を庇った反応で全てを悟ったらしいサムライが殺気が先鋭化した猛禽の双眸で例の看守を凝視してる。瞬きもせず、真剣の切れ味の目で看守を見つめるサムライに短く答える。
「ああ」
刹那、残像だけ残してサムライの姿が消失した。
次にサムライが現れたのは缶詰に足をとられて二進も三進も行かずに立ち往生してる看守の眼前。
サムライの拳が風切る唸りをあげて宙に弧を描き、悲鳴をあげる間もなく看守の顔が大きく仰け反った。サムライが拳を振るうところを初めて見た、と呑気に驚いた僕を正気に戻したのは続く鈍い音。
一発、二発、三発。
「な、なんひゃよいきなひ……おひぇがなにしひゃってんひゃ!」
「覚えがないか」
サムライに殴られ、顔面を鼻血の朱に染めた看守が腰砕けにあとじさりながら喚き散らすのを摺り足で追い詰める。三歩まで近付いて、サムライの双眸が剣呑に細まる。看守のズボン、そのポケットから垂れ落ちてるのは紛れもないロープ。あのロープにも見覚えがある、容赦なく手首に食い込んで苦痛を与えてくる固い縄目の感触を忘れようにも忘れられない。
普段は抑制が利いてる殺気が理性の枷から解き放たれ、それ自体が不可視の刀の如き凄まじい威圧感を伴ってサムライの全身から放射される。
「覚えがないなら思い知らせるまでだ」
サムライが間合いに踏み込んできて、恐怖が最高潮に達した看守がそばに転がってた消火器をかん高い奇声とともに振り上げる。脳天から耳の痛くなる奇声を発して立ち向かってきた看守からあとじさったサムライの前髪を力任せに振り下ろされた消火器の風圧が舞い上げる、長く伸びた前髪の下から覗いたのは冷え切った双眸。
「看守に逆らっひゃら殺されひぇも文句ねえひゃ」
喉から息が漏れるような間抜けな発声は歯が何本か折れているためだろう。血まみれの顔で醜く笑った看守がサムライの頭蓋骨を陥没させようと両手に抱えた消火器を振り下ろし、
白い煙が噴出した。
ドアから流れてきた煙ではない、これは……消火器の煙だ。サムライに間一髪かわされたせいで的を逸した消火器が床を穿ち、その衝撃で栓が抜けて勢いよく煙が噴出したのだ。煙をおもいきり吸い込んではげしくむせ返る看守の眼前、厚い煙幕越しに幽鬼めいた影が揺らめく。優雅な足捌きとともに煙の筋を引いて現れ出でた男が右手に握り締めていたのは……
何の変哲もない、ただの箸。
しかし、それを握っているのがサムライとなれば話は別だ。箸はただの食事道具ではなく十分人を殺傷できる凶器になる。
「外道が」
口にするのも汚らわしいと吐き捨てたサムライに怯え、壁を背にしてあとじさった男のポケットからロープがこぼれおちる。ポケットから垂れて床にひきずられたロープを一瞥、その先端を無造作に掴んで拾い上げたサムライが手首を撓らせて一気にポケットから引き抜き、目にも止まらぬ速さで看守の足もとへと投げる。気が動転し、一刻も早くサムライから逃げることしか頭になかった看守の足にロープが絡まって縺れさせ、結果的にひっくり返る。売春夫を縛るために持参したロープに文字通り足をとられるかたちになった看守が顔面蒼白で上方を仰げば、サムライが無表情に箸を振り上げたところだった。
「鍵屋崎の手首の分は爪一枚で勘弁してやる」
視界が真っ白になるまで煙がたちこめた廊下に濁った絶叫が響き渡った。
一瞬、いや、瞬き一回にも満たない一刹那の早業で何が起きたのか肉眼で見定めることは不可能だったが、床に落ちた血まみれの爪と赤い肉が露出した右手中指、そして爪が剥がれた中指をおさえて悶絶する看守とを見れば何が起きたか察しがついた。爪と肉の間に箸をさしいれて一息に引き剥がしたサムライが何の感慨もなく腕を振りかぶれば、箸の先端に付着した血痕が散り、鮮やかなまだら模様を廊下に描く。
「やるねサムライ」
場違いな口笛に振り向けば両手一杯に缶詰を抱えたレイジがいた。それで腑に落ちた、廊下に缶詰を転がして看守を足止めしていたのは彼自身だった。今だ苦悶に身を捩る看守に背を向けて戻ってきたサムライが嘆かわしげに周囲を見渡す。
「お前はやりすぎだ。どう収拾つけるつもりだ」
「ここまで騒ぎになるとはな。さすがプロの作品は威力がちがうね、ぼや騒ぎ程度でよかったのに……ヨンイルの野郎」
後半は口の中で呟くだけに留めたレイジの横に目を向ければブラックジャックを胸に抱いたロンがいた。逃げるときに忘れず持ってきたのだろう、感心だ。
彼と顔を合わせるのは一週間ぶりだ。
ロンは目が合った瞬間気まずい顔をした。たぶん僕も同じような表情をしてるだろう。無理もない、この一週間壁一枚を挟んでみっともない声を聞かれてたのだ。正直こうしてまた彼と顔を合わせる日がくるとは思わなかった。イエローワークにいた頃とはこの一週間余りで何もかもが激変してしまったのだ、こうしてロンと再び顔を合わせ、いちばん最初に何を言えばいいか……
『謝謝』
「あん?」
ロンが怪訝そうに顔を上げる。眼鏡のブリッジを押し上げるふりでそっぽを向き、無愛想に付け足す。
「台湾中国の混血で物心ついた時から台湾語を日常会話として使ってきた君に質問だ。前述したのは台湾語で感謝の言葉だが、ネイティブな発音はこれで正しいか聞きたい」
突拍子もない質問に当惑を隠せないロンだが、僕の機嫌を損ねてはまずいと彼なりに気を遣いながら慎重に答える。
「……正しいもなにも、俺以上に正確な発音だよ」
「そうだろう。君は育ちが悪いせいかスラングでだいぶ崩れてるからな」
面と向かって「育ちが悪い」と言われてムッとしたロンが何か言おうと口を開きかけたのに素早く背を翻し、やや早口で弁解する。
「それだけだ。僕はただアクセントの位置が知りたかっただけだ、他意はないから気にするな」
「素直じゃないなあキーストア」
振り向く。いつのまにか僕の横に並んだレイジが「お前の考えてることはお見通しだ」といわんばかりに意味ありげに微笑んでる。
「……不可解だな。僕はただ自分の語学力に正確さを求めたかっただけだ」
眼鏡のブリッジを押さえて吐き捨てる。背後でロンがきょとんとしてる。
全く彼は頭が悪い、僕が礼を言ったのにも気付かないなんて。
一週間ぶりにレイジとロンと顔を合わせ他愛ない話をしていたが今はそんな状況でもない、いや、状況は悪化する一方だ。廊下を逃げ惑う人ごみに揉まれながらサムライとはぐれることがないよう彼の背中を視界に納めてれば再び片腕を掴まれる。
「離れるなよ」
「わかってる」
サムライの上着で顔を押さえて煙を避けながら階段めざして進む、僕らの背後では懲りもせずにレイジとロンが言い争ってる。
「お前このために缶詰持ってきたのかよ!?」
「足止めくらいにゃなると思ってな」
「今度もうちょっとマシなもん持ってこいよ、缶きりなきゃ開かねえだろ缶詰なんてよ」
「缶きりなくしたのか?」
「………ちょっと、色々あって」
「それよかすげえだろ、俺の射撃の腕。あんな狭い隙間からタジマの額一撃で撃ち抜いたんだぜ、褒めてくれよ」
「俺の牌でな」
「房にいっぱいあったから使わせてもらったぜ。……て、あれ?ひょっとして気付いてねえ?」
「?何だよ、まだ何か俺に隠してんのかよ。だったら吐け、残さず吐いちまえ」
「いや、あの時牌すりかえたの気付いてないのかなーって……ほら、コーラさしいれるときポケットから拝借して」
「イカサマだったのか!?」
「手癖悪いって言ったろ。だいたい麻雀牌が何個あると思ってんだ、一発で図案当てられるわきゃねえじゃん。お前単純すぎ、騙すの簡単すぎ。なんで今の今まで気付かないわけ?それともマジで信じてたの、必ず助けに来てくれるって」
「この……!」
手の甲に血管を浮かせてレイジの襟首を掴んだロンが最大限の自制心を発揮して振り上げかけた拳をおさめ、憮然と吐き捨てる。
「……覚えてろ、無事この場を切り抜けたら徹底的にイカサマ仕込んでやるからな。あの程度で調子乗られちゃ博打じゃ負けなしの俺のプライドが許さない、麻雀のやり方ってやつを基本から叩き込んでやる。徹夜で付き合えよ」
「徹夜で付き合うさ」
相変わらず仲がいいのか悪いのかわからない。最も、それは僕とサムライにも言えるが。
「どうだかな」
心の中を見抜かれたような台詞にハッとして顔を上げれば、僕の腕を掴んだサムライが微動だにせず正面の虚空を見つめている。
「この場を無事切り抜けられるかわからない」
サムライの視線につられて僕とロン、レイジの全員が正面に向き直る。たった今エレベーターの扉が左右に引き込まれ、中から悠然と降り立った人物がいる。三つ揃いのスーツを隙無く着こなし、若々しい黒髪をオールバックに撫で付けた男の年齢は推定三十代前半。銀縁眼鏡がよく似合う知的な風貌はエリートの理想形だ。
よく磨きぬかれた革靴で廊下を叩き、濛々と煙がたなびく中を悠然と歩みだした男は背後に数名の看守を引き連れていた。屈強な看守を従え、廊下の半ばまで辿り着いた男がレンズ越しの目を鋭く光らせて周囲を睥睨すれば、あれだけうるさかった廊下がしんと静まり返る。
たった一瞥で混沌を静寂に塗り替えたのは、場違いなスーツ姿で現れた男が全身から発する威圧感のなせる技だ。
冷水を浴びせられたように正気に戻った囚人と看守が廊下の両端にへばりつき、固唾を呑んで動向を見守る中、廊下の中央で立ち止まった安田がゆっくりとあたりを見回す。開け放たれた鉄扉から今だ漏れて来る煙で白く煙った廊下の天井、廊下一面に散乱した缶詰と消火器、何が何だかわからぬまま殆ど裸同然で逃げ出してきた看守と囚人……
そして、満を持してエレベーターから降り立った一団と奇しくも対峙する形で停止を余儀なくされた僕達。
「端的に聞く。誰の仕業だ」
先刻サムライに向けて発射され、からになった消火器を靴の先端で軽く転がし、無表情に呟いたのは……
安田。
東京少年刑務所の副所長の地位にある男だ。
数分後。
ベッドに起き上がった僕の視線の先ではサムライが所在なげにうろついていた。一人の時はやけに広々と閑散に感じられた仕事場もサムライがすぐそばにいると狭苦しい空間に変貌するがそれは決して居心地悪いことはでなく、逆に心休まることだと気付いた。
僕はといえば泣き顔を見られたのが気恥ずかしく、サムライはサムライで青臭い台詞を吐いたのが面映いのか、ベッドを離れてからの数分間はお互いの顔を正視する勇気がなくて敢えて視線を逸らして思い思いの事をしながら気まずく沈黙していた。
胸塞ぐ圧迫感を伴う沈黙に痺れを切らして口を開いた僕を振り向いたサムライがぎょっとする。何をそんなに驚くことがあるんだろう。
サムライの驚愕ぶりを疑問に思いながら抑揚なく言葉を続ける。
「べつに構わないぞ、どうせ初めての客じゃない。今日まで17人相手してきたんだ。やり方はそれなりに心得てるつもりだし暴れて抵抗して君の手を煩わせたりしない。僕を物か玩具としてしか扱ってこなかった粗野で愚鈍な連中と違って君ならそう酷くしないだろし、」
「な……、」
僕の名前を呼ぼうとしたのか意図を推し量ろうとしたのか、何事か口にしかけて中途で絶句したサムライが咳払いして威儀を正す。
「……俺に男色の趣味はない」
「古い言葉を使うな」
堅苦しく拒否したサムライに失笑を誘われる。「男色」なんて今はもう廃れて久しい言葉だ。誤解しないでほしいが僕だって別に積極的にサムライと寝たいわけじゃない、不感症の僕はあらゆるセックスに快感を感じないように出来ている為性行為は苦痛でしかないのだ。しかしここまで来て何もしないでサムライを追い返すのも気が引ける、既に上着は脱いで前準備は整ってる。僕は完璧主義者だから一度やり始めたことを中断するのを是としない、どうせ今日までの一週間で看守も囚人も含めて十七人もの男を相手にして様々なセックスを試みてきたのだ。性欲の捌け口にされるのは慣れてるしサムライならそう酷くされることもないだろうと楽観視してる。
しかし、サムライはそっぽを向いたまま不機嫌そうに押し黙り、ベッドに腰掛けた僕を見もしない。
「ここに来たのだからてっきりそのつもりだと身構えていたのだがな」
サムライへの警戒を解き、ため息をつく。どうやらサムライは本当にその気がないらしい。安堵、というよりは拍子抜けに近い気分で枕元に畳んで置いた上着を手に取って袖に腕を通す。体に負担がかからないから性行為をしないで済むのは大歓迎だがこれでまたサムライに借りを返せなくなるのかと思えば忸怩たるものがある。まあ、体で借りを返そうなどという娼婦の発想自体がこの一週間で身も心も売春班に馴染んでしまった証かもしれないと自嘲的な気分に浸りながら上着に袖を通して裾を引き下げれば耳朶にぶっきらぼうな呟きが触れる。
「……自分を粗末にするな」
反射的に顔を上げ、サムライを注視する。
こちらに背を向けて佇んだサムライの横顔が心なし赤く染まっていた。赤面した横顔を見るともなく眺めながら「もしかして」と下世話な想像を巡らす。もしかしてサムライはあまり女性経験がないんじゃないか?そう仮定すれば僕への態度がぎこちなく不自然だったのも頷けるし道理で愛撫に慣れてないはずだ。まあ異性を相手にする場合と同性を相手にする場合じゃ根本的に違うし一概に断言できないが、この奥手で不器用で酷く純粋な一面を併せ持つ男にそう多く女性経験があるとは思えない。さっき肩に手をかけて押し倒された時は過去サムライの恋人だったという「なえ」を連想してしまったが故人と肉体関係があったかどうかも冷静に分析すれば一抹の疑問が残る。
……何を考えてるんだ、僕は。
無意識に考え巡らしていた下品な想像に辟易する。東京プリズンに収監されてからの半年で大分頭が汚染されてしまったらしい、人の女性関係なんてどうもでもいいじゃないか。ましてや相手はサムライだ、僕の友人だ。友人の女性経験の有無について詮索するなんて唾棄すべき最低の行為だと自戒して吹っ切れば視線の先でサムライの顔が厳しく引き締まる。
何か、不可視の異変を知覚したサムライが俊敏に顔を上げて虚空の一点を凝視する。
『準備はいいか、サムライ』
通気口からの声に不意をつかれた。
聞き覚えのある声……レイジの声だ。レイジの声には一度聞いたら癖になるような甘く掠れた依存性があるから聞き間違えるはずがない。通気口を介した声がすぐそばで聞こえる、ということはレイジは隣の部屋、つまりロンの仕事場にいるのだ。サムライとの会話に夢中になり過ぎて注意力散漫になっていたが、途中、ロンの部屋からうるさい物音が聞こえてきた気がする。ろう城を破られたのか降参して扉を開けたのかはわからないが現に今レイジがいることから考えると漸くロンのもとにも希望の光が射しこんだのだろう。
希望の光?
馬鹿な、僕は希望なんか信じてないはずなのに。そんな幻想はとっくに見限ったはずなのに、サムライの顔を見た途端心が揺らぎだしてるのを否定できない。サムライに押し倒され、至近距離で顔を覗き込まれて説得され、「たすけてくれ」の一言を口にした途端にまた根拠のない希望を抱き始めてるなんて。
でも、今の僕は自分の変わり身の早さを笑えない。目の前で希望が現実になりかけているから、サムライと顔を合わせ、一週間ぶりにまともに言葉を交わしてから全てが劇的に変化した。惠が収容された病院の住所を記したメモと手紙をなくして全ての希望を失い、ついさっきまで精神崩壊寸前まで追い詰められていたのに目の前のこの男に、今、一心に通気口を覗きこんでる男の顔を見た途端に奇妙な安堵感を覚えて全てが何とかなりそうな気がしてきたのだ。
ベッドから腰をあげ、複雑な心境で背に歩み寄れば僕の接近に気付いているのかいないのかサムライがよく透る声を張り上げた。
「こちらは問題ない。そちらはどうだ」
『首尾は上々だ。そろそろいくか』
「心得た」
なにを心得たんだ?
レイジと会話するサムライの背後で歩みを止めれば意外なことが起きる。サムライがおもむろに、全く無造作に上着を脱いだのだ。現れたのはよく引き締まった上半身、鞭のような強靭さを感じさせるストイックな裸身を眺め、少し距離をおいて尋ねる。
「気が変わったのか?」
「馬鹿なことを言うな」
気が変わって僕を抱く気になったのか、と身構えながら聞けばうろんげに一蹴された。馬鹿?なにが馬鹿なんだ、今この状況から順当に考えれば当然その解答に帰結するじゃないか。性行為に及ぶ気が毛頭ないなら何故上着を脱いだんだ、君は露出狂かと声を荒げかけた僕の胸に投げ付けられたのはまだぬくもりが残る上着。
「顔を覆っていろ」
「?どういうことだ、まるでこれから火事でも起こるみたいな」
持て余し気味に上着を抱いた僕を振り返り際何かを言おうと口を開きかけたサムライの背後、壁の高い位置に設けられた通気口から大量の煙が噴出したのは次の瞬間だった。
「!?」
気密性の高い瓶から栓を抜く時のような破裂音が連鎖した通気口から大量に沸いて出てきたのは……膨大な量の白煙。鉄格子の隙間から流れ出てきた白煙に何事かと目を見張った僕を力強い腕が抱きすくめてそのまま扉の方へと疾駆する。
「火事だー!」
狂乱の幕開けは王様の一声だった。
「火事!?」
「マジかよ、火元はどこだ!?」
「すげえ煙だ、げほごほっ、目、目に染みる……」
「おい早くここ開けろよ燻り殺す気かよ!!」
「腹上死ならともかく焼死なんて冗談じゃねえ、おい看守聞いてんのか異常事態発生だ、とっととドア開けやがれ!」
通気口から通気口、房から房へと恐慌が伝染して波紋のように動揺が広まってゆく。そうだ、売春通りの仕事場は全部通気口の内側でひとつに繋がっている。先日ロンが通気口から缶詰をよこしてきたように鉄格子には手首を入れられるだけの隙間がある、もし鉄格子の隙間から何か、煙の源となる物を投げ入れたとしたら当然通気口の内部で破裂したそれは全ての房に大量の煙を撒き散らして、事情を知らない大半の者たちはレイジの一声で火事が発生したと誤解する。
そして、一連の流れから予想される合理的展開は。
爆発するかの如き勢いでぶち破られたドアから転がり出てきたのは上半身裸に下半身裸、ともすれば大事な部分を服で隠しただけの全裸の売春夫や囚人たち。中には幾人かの看守も含まれる。火事発生の急報を受け、消火器を担いで駆けつけてきた看守の目に映ったのは一斉にぶち破られたドアと売春通りの廊下に溢れ出る難民、もとい行為を中断して着のみ着のままで転げ出てきた客と売春夫。鼻から口から煙を吸ってはげしく咳き込んでる囚人たちを押しのけ、各ドアから溢れ出た煙が濛々とたちこめた廊下を走りつつ看守が呟く。
「おい待て、様子がおかしいぞ。煙は出てるがどこにも火なんて……ぎゃっ!?」
消火器をぶらさげてドアのひとつを覗きこんでいた看守が廊下を転がってきた何かを踏んづけて派手にひっくり返る。一面にばらまかれ、廊下の傾斜を雪崩れてきたそれは大量の缶詰。不運にも缶詰の上に乗ってバランスを崩して倒れる看守、それにに巻き込まれて連鎖的に転倒したのは後続の同僚たち。
「なんだよこれ、どっからこんな缶詰が……」
「気をつけろ、滑るぞ!」
「滑ってから言っても遅いんだよ!」
次々に廊下を転がってくる缶詰に足をとられ、ドミノ倒しの如く倒れてく看守の手から消火器が放り出される。売春夫と客全員で埋め尽くされた廊下は今や悲鳴と罵声が飛び交う混乱の坩堝と化し、何が起きたのか誰も完全には理解せぬまま噂だけが錯綜している。
「火事だ、早く逃げねえと黒こげになるぞ!」
「エレベーターに急ぐんだ、詰め込むだけ詰め込んじまえっ」
「馬鹿いえ積載オーバーだよ、階段使ったほうがなんぼかマシだ!」
階段に向かう流れとエレベーターに直行する流れと二手に分かれたが、方向が違う両者が千々に入り乱れたせいで混乱はますます増すばかり。開放されたドアから廊下へと漂いだした煙は既に厚い層となって天井を覆い視界を塞いでいたが、混乱の中、僕が人ごみに流されずに済んだのはサムライがずっと腕を支えててくれたからだ。
「レイジの仕業か?」
「ああ」
サムライの上着で鼻と口を覆ってるせいで声がこもってしまったが意味は正確に伝わったようだ。階段とエレベーター目指し、押し合い圧し合いして先を争う人の流れに楔を打つように廊下の真ん中に立ち竦んだサムライの肩越しに見覚えある顔を発見する。
「どうした」
僕の視線を追ったサムライが不審げに眉をひそめる。僕が食い入るように見つめていたのは足もと一面にぶちまかれた缶詰に立ち往生する上半身裸の看守。おそらく今日もまた売春夫を買いにきてたのだろう。僕に先客が来てたから違う売春夫を買っていつもの手順で全裸にしてロープで縛って……
「―あの男か」
冷えた声がした。
ロープの痕も生々しい手首を庇った反応で全てを悟ったらしいサムライが殺気が先鋭化した猛禽の双眸で例の看守を凝視してる。瞬きもせず、真剣の切れ味の目で看守を見つめるサムライに短く答える。
「ああ」
刹那、残像だけ残してサムライの姿が消失した。
次にサムライが現れたのは缶詰に足をとられて二進も三進も行かずに立ち往生してる看守の眼前。
サムライの拳が風切る唸りをあげて宙に弧を描き、悲鳴をあげる間もなく看守の顔が大きく仰け反った。サムライが拳を振るうところを初めて見た、と呑気に驚いた僕を正気に戻したのは続く鈍い音。
一発、二発、三発。
「な、なんひゃよいきなひ……おひぇがなにしひゃってんひゃ!」
「覚えがないか」
サムライに殴られ、顔面を鼻血の朱に染めた看守が腰砕けにあとじさりながら喚き散らすのを摺り足で追い詰める。三歩まで近付いて、サムライの双眸が剣呑に細まる。看守のズボン、そのポケットから垂れ落ちてるのは紛れもないロープ。あのロープにも見覚えがある、容赦なく手首に食い込んで苦痛を与えてくる固い縄目の感触を忘れようにも忘れられない。
普段は抑制が利いてる殺気が理性の枷から解き放たれ、それ自体が不可視の刀の如き凄まじい威圧感を伴ってサムライの全身から放射される。
「覚えがないなら思い知らせるまでだ」
サムライが間合いに踏み込んできて、恐怖が最高潮に達した看守がそばに転がってた消火器をかん高い奇声とともに振り上げる。脳天から耳の痛くなる奇声を発して立ち向かってきた看守からあとじさったサムライの前髪を力任せに振り下ろされた消火器の風圧が舞い上げる、長く伸びた前髪の下から覗いたのは冷え切った双眸。
「看守に逆らっひゃら殺されひぇも文句ねえひゃ」
喉から息が漏れるような間抜けな発声は歯が何本か折れているためだろう。血まみれの顔で醜く笑った看守がサムライの頭蓋骨を陥没させようと両手に抱えた消火器を振り下ろし、
白い煙が噴出した。
ドアから流れてきた煙ではない、これは……消火器の煙だ。サムライに間一髪かわされたせいで的を逸した消火器が床を穿ち、その衝撃で栓が抜けて勢いよく煙が噴出したのだ。煙をおもいきり吸い込んではげしくむせ返る看守の眼前、厚い煙幕越しに幽鬼めいた影が揺らめく。優雅な足捌きとともに煙の筋を引いて現れ出でた男が右手に握り締めていたのは……
何の変哲もない、ただの箸。
しかし、それを握っているのがサムライとなれば話は別だ。箸はただの食事道具ではなく十分人を殺傷できる凶器になる。
「外道が」
口にするのも汚らわしいと吐き捨てたサムライに怯え、壁を背にしてあとじさった男のポケットからロープがこぼれおちる。ポケットから垂れて床にひきずられたロープを一瞥、その先端を無造作に掴んで拾い上げたサムライが手首を撓らせて一気にポケットから引き抜き、目にも止まらぬ速さで看守の足もとへと投げる。気が動転し、一刻も早くサムライから逃げることしか頭になかった看守の足にロープが絡まって縺れさせ、結果的にひっくり返る。売春夫を縛るために持参したロープに文字通り足をとられるかたちになった看守が顔面蒼白で上方を仰げば、サムライが無表情に箸を振り上げたところだった。
「鍵屋崎の手首の分は爪一枚で勘弁してやる」
視界が真っ白になるまで煙がたちこめた廊下に濁った絶叫が響き渡った。
一瞬、いや、瞬き一回にも満たない一刹那の早業で何が起きたのか肉眼で見定めることは不可能だったが、床に落ちた血まみれの爪と赤い肉が露出した右手中指、そして爪が剥がれた中指をおさえて悶絶する看守とを見れば何が起きたか察しがついた。爪と肉の間に箸をさしいれて一息に引き剥がしたサムライが何の感慨もなく腕を振りかぶれば、箸の先端に付着した血痕が散り、鮮やかなまだら模様を廊下に描く。
「やるねサムライ」
場違いな口笛に振り向けば両手一杯に缶詰を抱えたレイジがいた。それで腑に落ちた、廊下に缶詰を転がして看守を足止めしていたのは彼自身だった。今だ苦悶に身を捩る看守に背を向けて戻ってきたサムライが嘆かわしげに周囲を見渡す。
「お前はやりすぎだ。どう収拾つけるつもりだ」
「ここまで騒ぎになるとはな。さすがプロの作品は威力がちがうね、ぼや騒ぎ程度でよかったのに……ヨンイルの野郎」
後半は口の中で呟くだけに留めたレイジの横に目を向ければブラックジャックを胸に抱いたロンがいた。逃げるときに忘れず持ってきたのだろう、感心だ。
彼と顔を合わせるのは一週間ぶりだ。
ロンは目が合った瞬間気まずい顔をした。たぶん僕も同じような表情をしてるだろう。無理もない、この一週間壁一枚を挟んでみっともない声を聞かれてたのだ。正直こうしてまた彼と顔を合わせる日がくるとは思わなかった。イエローワークにいた頃とはこの一週間余りで何もかもが激変してしまったのだ、こうしてロンと再び顔を合わせ、いちばん最初に何を言えばいいか……
『謝謝』
「あん?」
ロンが怪訝そうに顔を上げる。眼鏡のブリッジを押し上げるふりでそっぽを向き、無愛想に付け足す。
「台湾中国の混血で物心ついた時から台湾語を日常会話として使ってきた君に質問だ。前述したのは台湾語で感謝の言葉だが、ネイティブな発音はこれで正しいか聞きたい」
突拍子もない質問に当惑を隠せないロンだが、僕の機嫌を損ねてはまずいと彼なりに気を遣いながら慎重に答える。
「……正しいもなにも、俺以上に正確な発音だよ」
「そうだろう。君は育ちが悪いせいかスラングでだいぶ崩れてるからな」
面と向かって「育ちが悪い」と言われてムッとしたロンが何か言おうと口を開きかけたのに素早く背を翻し、やや早口で弁解する。
「それだけだ。僕はただアクセントの位置が知りたかっただけだ、他意はないから気にするな」
「素直じゃないなあキーストア」
振り向く。いつのまにか僕の横に並んだレイジが「お前の考えてることはお見通しだ」といわんばかりに意味ありげに微笑んでる。
「……不可解だな。僕はただ自分の語学力に正確さを求めたかっただけだ」
眼鏡のブリッジを押さえて吐き捨てる。背後でロンがきょとんとしてる。
全く彼は頭が悪い、僕が礼を言ったのにも気付かないなんて。
一週間ぶりにレイジとロンと顔を合わせ他愛ない話をしていたが今はそんな状況でもない、いや、状況は悪化する一方だ。廊下を逃げ惑う人ごみに揉まれながらサムライとはぐれることがないよう彼の背中を視界に納めてれば再び片腕を掴まれる。
「離れるなよ」
「わかってる」
サムライの上着で顔を押さえて煙を避けながら階段めざして進む、僕らの背後では懲りもせずにレイジとロンが言い争ってる。
「お前このために缶詰持ってきたのかよ!?」
「足止めくらいにゃなると思ってな」
「今度もうちょっとマシなもん持ってこいよ、缶きりなきゃ開かねえだろ缶詰なんてよ」
「缶きりなくしたのか?」
「………ちょっと、色々あって」
「それよかすげえだろ、俺の射撃の腕。あんな狭い隙間からタジマの額一撃で撃ち抜いたんだぜ、褒めてくれよ」
「俺の牌でな」
「房にいっぱいあったから使わせてもらったぜ。……て、あれ?ひょっとして気付いてねえ?」
「?何だよ、まだ何か俺に隠してんのかよ。だったら吐け、残さず吐いちまえ」
「いや、あの時牌すりかえたの気付いてないのかなーって……ほら、コーラさしいれるときポケットから拝借して」
「イカサマだったのか!?」
「手癖悪いって言ったろ。だいたい麻雀牌が何個あると思ってんだ、一発で図案当てられるわきゃねえじゃん。お前単純すぎ、騙すの簡単すぎ。なんで今の今まで気付かないわけ?それともマジで信じてたの、必ず助けに来てくれるって」
「この……!」
手の甲に血管を浮かせてレイジの襟首を掴んだロンが最大限の自制心を発揮して振り上げかけた拳をおさめ、憮然と吐き捨てる。
「……覚えてろ、無事この場を切り抜けたら徹底的にイカサマ仕込んでやるからな。あの程度で調子乗られちゃ博打じゃ負けなしの俺のプライドが許さない、麻雀のやり方ってやつを基本から叩き込んでやる。徹夜で付き合えよ」
「徹夜で付き合うさ」
相変わらず仲がいいのか悪いのかわからない。最も、それは僕とサムライにも言えるが。
「どうだかな」
心の中を見抜かれたような台詞にハッとして顔を上げれば、僕の腕を掴んだサムライが微動だにせず正面の虚空を見つめている。
「この場を無事切り抜けられるかわからない」
サムライの視線につられて僕とロン、レイジの全員が正面に向き直る。たった今エレベーターの扉が左右に引き込まれ、中から悠然と降り立った人物がいる。三つ揃いのスーツを隙無く着こなし、若々しい黒髪をオールバックに撫で付けた男の年齢は推定三十代前半。銀縁眼鏡がよく似合う知的な風貌はエリートの理想形だ。
よく磨きぬかれた革靴で廊下を叩き、濛々と煙がたなびく中を悠然と歩みだした男は背後に数名の看守を引き連れていた。屈強な看守を従え、廊下の半ばまで辿り着いた男がレンズ越しの目を鋭く光らせて周囲を睥睨すれば、あれだけうるさかった廊下がしんと静まり返る。
たった一瞥で混沌を静寂に塗り替えたのは、場違いなスーツ姿で現れた男が全身から発する威圧感のなせる技だ。
冷水を浴びせられたように正気に戻った囚人と看守が廊下の両端にへばりつき、固唾を呑んで動向を見守る中、廊下の中央で立ち止まった安田がゆっくりとあたりを見回す。開け放たれた鉄扉から今だ漏れて来る煙で白く煙った廊下の天井、廊下一面に散乱した缶詰と消火器、何が何だかわからぬまま殆ど裸同然で逃げ出してきた看守と囚人……
そして、満を持してエレベーターから降り立った一団と奇しくも対峙する形で停止を余儀なくされた僕達。
「端的に聞く。誰の仕業だ」
先刻サムライに向けて発射され、からになった消火器を靴の先端で軽く転がし、無表情に呟いたのは……
安田。
東京少年刑務所の副所長の地位にある男だ。
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