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百四十一話
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「な、な、なんだよいきなり!?」
突然の闖入者に泡を食い、尻であとじさりながら少年が喚く。
「今は俺の番だろうが、これから思う存分楽しもうって時に何勝手に入ってきてんだよ!?」
床に転がった注射器をちらりと一瞥したサムライがベッドに横たわっている僕に視線を投げる。はだけたシャツからあられもなく素肌を覗かせ、右腕の袖を肘までめくりあげられ、行為を中断された為にズボンを腿に絡めた自分の醜態に気付かされた僕はサムライの視線を避けて俯き、素早くズボンを引き上げて生白い肌を隠す。
こんな姿、彼にだけは見られたくなかった。
半年前の僕なら別に何も思わなかっただろう、裸に剥かれて犯されているところをサムライに目撃されたからとて羞恥心をかきたてられたりはしなかったはずだ。それなのに今は屈辱で頬が熱くなるのをおさえられない、羞恥で体が火照るのがおさえられない。
下唇を噛み、紅潮した顔を俯けた僕から正面の少年へと視線を戻したサムライが無言で箸を進める。箸の先端が少年の鼻の頭にめりこんで「ひっ」と悲鳴がもれる。
箸から逃れて尻であとじさりながら、物言わぬサムライの剣幕に飲まれて怯えきった少年は媚びへつらう笑みを浮かべる。
「わ、わかった、こうしよう!3Pでどうだ?タマ重くて待ちきれねえなら一緒にやれば問題なしだ、だろ」
さも名案を思いついたといわんばかりの饒舌さでまくしたてた少年が欲望にぎらついた目で僕とサムライとを見比べる。
「俺も一度試してみたかったんだよ、複数プレイ。どうだ、悪くねえ提案だろ?俺が上の口でたのしんでるあいだはお前が下の口でたのしんであの眼鏡をイカせてや、」
「聞くに堪えん。今すぐその下劣な口を閉ざせ」
サムライの声は霜が張りそうに冷えていた。
眼光の圧力を増して少年を追い詰めたサムライが箸を握る手に尋常ならざる力をこめたのが白く強張った手首からわかる。
「俺はサムライだ。箸一本でお前の息の根を止められる」
サムライは決して実力を誇張してるわけではない。その証拠に小揺るぎもせず少年の顔面に突きつけられた箸には極限まで先鋭化した殺意が凝縮されている。全身に殺意を気迫とを漲らせたサムライが隙のない動作で歩を詰める。衣擦れの音さえたてない静けさで、優雅ともいえる足捌きで徐徐に少年と距離を詰めてゆく。サムライに追い詰められる一方の劣勢に回った少年が壁にもたれて立ち上がり、その喉元に箸の切っ先がつきつけられる。
「去れ」
憤怒を滾らせた双眸。
「…………っ、」
サムライに威圧され二歩三歩あとずさった少年が何かを踏み付けてはでに転倒する。両手で宙を掻き毟りながら後ろ向きに倒れた少年が背中から扉に激突、背中で扉をぶち破るかたちで廊下に転がり出る。偶然の事故、受け身もとれずに床で背中を強打した激痛にうめく少年の前で静かに扉が閉ざされてゆく。
何かを叫ぼうと大口あけた少年の顔が消え、轟音をたてて扉が閉じた。完全に。
最前まで少年がいた地点に視線をやれば缶詰が転がっていた。昨日、鉄格子の隙間からロンによこされた缶詰だ。
「僕はまたロンに助けられたのか」
缶詰に蹴躓き、何が何だかわからぬまま廊下へと放り出された少年の動転ぶりを思い出し、呟く。スッと腕をさげ、ポケットに箸を納めたサムライがこちらに向かってくる。大股に歩み寄ってくるサムライをぼんやりと眺めていると廊下で言い争う声が聞こえてくる。
「なんだよあれ、聞いてねえぞ!?なんで俺が済んでないのに次の客いれるんだよ!」
「しかたねえだろ、箸つきつけられて脅されたんだよ!あいつの噂知らねえのか、東棟のサムライだよ。仙台の名門道場の跡取り息子でてめえの親含めた十二人を伝家の宝刀で斬り殺しちまった……」
「は、マジで?」
「マジだよ、いくら俺が看守だからってそんな囚人怖くて止められねえよ!言うこと聞くしかねえだろが!」
看守と囚人の押し問答に耳を傾けながら目はサムライの一挙一動を追っている。サムライから目を逸らせない―……放せない。そういえば、こうしてちゃんと彼の目を見るのは何日ぶりだろう?ずいぶん久しぶりのような気がする。売春班配属になってからずっと彼と目を合わせるのに気後れしていた、目を合わせた瞬間に僕の体内に沈殿した汚い澱まで見透かされてしまうような強迫観念に襲われていたから。
ベッドの傍らでサムライが立ち止まる。
今や、密室に完全に二人きりだ。扉には鍵がかかっている。逃げ出したくても逃げられない、と苦渋を噛み締めてその連想に笑いたくなる。
『逃げる』?だれから?
僕はサムライから逃げようとしてたのか、元友人だった男から。馬鹿な、みじめに逃げ隠れする必要などありはしない。相手がサムライだからといって何も怖じることはない、いつもどおりにすればいいんだ、いつもどおりに。この六日間やってきたのと同じことだ。相手が顔見知りの人間だからといってためらうことなど何もない、僕はもう体も心も汚れきってしまったんだから。
先客を追い払ったもののこれからどうしたらいいか皆目見当がつかず、所在なげに立ち竦んでいるサムライを見上げ、事務的に聞く。
「騎上位がいいか、正常位がいいか?」
サムライの目に驚きの波紋が広がり、そして、低い声を絞りだす。
「………悪い冗談だ」
「冗談ではない。現実だ」
ベッドに上体を起こし、片膝を立てる。まだ体が熱い、さっきの少年に抱かれた余熱が残っている。シャワーを使用できないのが辛い、体に付着した他人の体液を洗い流せないのが不快でしょうがない。生理的嫌悪に顔をしかめた僕の傍ら、サムライは目に痛ましげな光を湛えて立ち尽くしていた。
やめろ、そんな目で僕を見るな。
そんな抗議が喉元まで出かけ、ぐっと飲み込む。他人に同情されるのはごめんだ、プライドの高い僕には耐えられない。サムライから、今まで友人だと思っていた男に同情される屈辱を味わうくらいなら、私情に振り回されることなく早急に仕事を済ましてしまったほうがいい。
「むこうを向いててくれないか」
「何故だ」
サムライの目を見ないように顔を伏せ、指示する。察しの悪いサムライに苛立ち、刺々しい口調で補足する。
「服を脱ぐんだ。……このままじゃやりにくいだろう、お互いに」
『お互いに』の部分を強調したのは当てこすりだ。吐き捨てるように皮肉を投げ付ければサムライが一瞬だけ傷ついた顔をする。だが、それは刹那にも満たない一瞬の出来事なので僕の罪悪感が見せた目の錯覚かもしれない。僕の指示に従ったサムライがベッドに腰掛けて壁の方を向く。こんな時だというのに背筋は凛々しく伸びていて、おそろしく姿勢がよくて、武士の矜持あふるる毅然とした背中におもわず見とれてしまいそうになる。
サムライの背中から視線を引きはがし、上着の裾に手をかける。さっきの客は行為を急くあまり上着まで脱がせなかったが、もしサムライが本気で僕を買いに来たのなら上も下も全部脱いだほうがいい。一糸まとわぬ生まれたままの姿になり、今の僕を、身も心も汚れて変わり果てて彼の友人には相応しくなくなった僕を見せつけてやるべきだ。
サムライを失望させるのはいやだった。
でも、こうなってしまった以上仕方ない。
何を、どこで間違えたんだろう。どうしてこんなことになったのだろう。東京プリズンにきてからずっと繰り返してきた答えのない問いが重苦しく胸にのしかかる。何故サムライは僕を買いに来たんだろう。サムライは売春など嫌悪する潔癖な男だと思っていたのに、違ったのか?買いかぶりすぎていたのか?なるほど、男なら人並の性欲があっても何もおかしくない。いくらサムライが清廉潔白な男に見えても性欲までは否定できない、性欲は人間の根源欲求のひとつ、子孫を増やすために備わっている原初的な本能だ。いや、そんなのは詭弁だ。動物は快楽原則に忠実な生き物で、人間も動物であるかぎりは快楽の呪縛から逃れられない。いやなことを何もかも忘れさせるほどの強烈な快楽を伴うからこそ人は太古の昔から性行為に溺れてその副産物として子孫を増やし世界中に散らばり繁栄してきたのだ。
これまで禁欲生活を送っていたサムライに遂に限界が訪れ、売春班の囚人を買いに来たからといって、彼との友人関係を一方的に解消した僕に責める資格などありはしない。
上着の裾に手をかけたまま、放心状態で思考に沈んでいたら通気口から喘ぎ声が聞こえてきて、自分がおかれた状況と立場を一瞬で思い出す。何をやってるんだ僕は、何をためらうことがある?今まで何人もの客の前で服を脱いできたじゃないか、脱がされてきたじゃないか。顔見知りの人間がそばにいるからといって、手を伸ばせばすぐに届く距離に腰掛けてるからといって躊躇することはない。
決心し、上着を脱ぎ、上半身裸になる。
脱いだ上着を神経質に畳み、眼鏡を外し、枕元に置く。下も脱ごうかどうしようか迷ったが、サムライの反応を見てからでも遅くないだろう。
第一、僕の上半身を見たサムライが抱く気をなくす可能性も否定できない。
「いいぞ」
サムライがゆるやかに振り向き、そして。
その目が、大きく見開かれた。
僕はもともと色が白いほうだ。
いや、生白いといったほうがいい。筋肉に乏しい脆弱な細腕は劣等感の種だったが、この前来た客には褒められた。
『お前、男のくせに色白いから縄の痕が映えるんだよな』
嬉嬉として僕の手首を縛りながらそう言ったのは例の看守だった。あの時の痣はまだ消えてない、手首にくっきりと残っている。
そして、上半身。
酷い有り様だった。鎖骨にも胸板にも腹にも腰にも至る所に発疹によく似た赤い斑点が散らばっている。中に混じる大小の青痣は腹部を殴られた痕だ。青痣だけではない、経過した日数によって黄褐色に変色しているものも少なからずある。痣の上に痣が重なり、もとは白い筈の肌がまだらにむしばまれ腐敗し始めた果実の表皮のような惨状を呈している。
抱き心地の悪い薄い体だ。
痣だらけで醜い体だ。
行為を終え、這うように洗面台に行って鏡に体を映すたびに生理的嫌悪で吐きそうになった。体の内側からも外側からも腐り始めて醜くおぞましい本性を晒し始めているのだぞと容赦ない事実をつきつけられるようで。
「萎えたか?」
完全に沈黙したサムライを卑屈に仰ぎ、聞く。止まらない、言葉が止まらない。洪水のように後から後から押し寄せてきて理性を押し流そうとする。だめだ、冷静になれ、冷静に―
ベッドの背格子に上体を預け、片手で額を支え、俯き加減に言う。
「気持ち悪いだろうこんな体」
サムライは答えない。何も言わない。と、ふいにベッドが軋み、頭上に影がさす。つられたように顔を上げれば正面にサムライがいた。ベッドに膝を乗せ、正面に移動してきたサムライが無言の内に僕の肩に手をかける。
サムライの手は熱かった。血が、燃えているみたいに。
「無理に抱かなくていいんだぞ」
サムライがらしくもなく緊張しているのがわかったから、僕は言った。こんな体を見て興奮するのは虐待性愛者の変態だけで、ごくノーマルな嗜好の男なら扇情的な気分になろうはうずもない。何も無理して僕を抱くことはないのだ、本当に。
「……無理などしてない」
一呼吸おいてサムライが答え、肩に置いた手に力がこもり、自然と押し倒される格好になる。背中にベッドの感触、二人分の体重にスプリングが軋む。
すぐそばにサムライの顔がある。
天井の裸電球を背にし、僕を組み伏せるかたちでベッドに手をついたサムライの目には僕が見たこともない複雑な色があった。悲哀、慙愧、苦痛、悔恨……痛ましげな双眸に思い詰めた光を湛えたサムライが不器用に、本当に不器用に僕の首筋に触れる。愛撫、という呼び方さえ相応しくない拙さで。
熱をおびたてのひらが首筋をやさしく包みこむ。ちょうど初日につけられた痣があった部分、今ではもう肌に馴染んで消えてしまった痣が見えるようにそこばかりを撫でる。
「怪我はもう治ったのか」
「?」
「ガーゼをしていただろう」
「ああ、あれは……」
「?」
「……何でもない」
脱力状態でベッドに体を横たえ、無造作に投げた四肢をぐったり弛緩させる。そっと目を閉じる。もう疲れた。どうでもいい。サムライが相手ならひどくされることもないだろう、と安心して警戒を解く。答えのない自問自答はやめた。何故こんなことになったのか、などという繰り言は「生まれてこなければよかった」という発言にも増してみっともなく、みじめさを増長させるだけだ。サムライとこんなことになる日がくるなんて思わなかった。でも、もうどうでもいい。僕の体で彼が満足してくれるならそれに越したことはない、どうせ僕はこの生き地獄から抜け出せないのだからもう何もかもどうでもいい。
考えるのに疲れた。思考が働かない。
思考停止状態の頭で、サムライの肩越しに天井を見上げる。配管むきだしの殺風景な天井に意識を飛ばそうとしたが、その度に僕を現実に引き戻すのは稚拙な愛撫。稚拙……本当に下手だ。いや、下手という言葉はひどいかもしれない。サムライはおそらくあまり女性経験がないのだろう、それとも相手が僕だから緊張してるのだろうか?ぎこちなく誠実な愛撫が緩慢に熱を煽り、体の芯が鈍く疼きだす。僕は不感症だから快感に溺れたりはしないが、もしそうなら下肢から這い上がってくる熱の正体は何だ?ひょっとして僕が不感症だというのは強力な自己暗示の産物で、実際はそうじゃないのか?
朦朧と霞がかった頭に泡沫のように浮かんでは弾ける疑問符。ふいに違和感を感じ薄目を開ける。水面下から見上げたように視界がぼやけている。眼鏡を外してるせいでサムライの顔がよく見えない、こんな至近距離にいるのに。歪む視界の中、サムライをさがす。いた。僕の目の前にいる。僕の上に覆い被さり、脈をとるように首筋に手を置いて沈黙してる。まだ服は脱いでないようだ。ずいぶんと前戯が長い。首筋を包んだ手が熱く火照っている。サムライは体温が高いんだな、とどうでもいいことを実感しながら天井を見上げ―
顔に水滴が落ちた。
「……?」
おかしい、水道は止められてるはずなのに、現状ではシャワーも使用できないはずなのに何故水が?配管の破れ目から水滴が落ちたのだろうかと訝しんだがそうでもないらしい。顔に付着した水滴を手で拭い、ぬれた指先を顔に近付けてみれば思い出すのはイエローワークの記憶。
ロンと一緒に穴を掘った。水が噴出した。虹が架った。あの虹は綺麗だった、今でも鮮明に覚えている。
ロンは本当に喜んでいた、脇目もふらずに両手で水をすくって飲んでいた。その隣で僕も飢えたように水を飲んだ、あの時は「鉄分が多くて不味すぎる」と不満をこぼしたが本当は美味しかった、僕がこれまでに飲んだどのミネラルウォ―ターよりも美味しくて。
懐かしい。何故今、こんなことを思い出すんだろう。
何故今、いまさらになって、イエローワークに戻りたいなんて思うんだろう。
もうどうにもならないのに、後戻りできないところまできてしまったのに、ひとりでは這い上がることさえできない底の底まで落ちてしまったのに。
諦観とともに目を閉じればどこからかサムライの声が聞こえてきた。耳に心地よく響く低い声。
「すまん」
語尾が震えていた。目を開ける。また顔に水滴が落ちた。これは―……涙だ。だれかが泣いている、僕の上に覆い被さっただれかが涙をこぼしている。でも、眼鏡をしてないせいでその誰かの顔がよく見えない。いや、見えなくてもわかる。泣いているのはサムライだ。でも僕にはサムライが泣いてる顔が上手く想像できない、彼が泣いてるところなんて想像できない。眼鏡を外した状態でぼんやりと見えるのは深く深くうなだれたサムライの姿だけだ。
何で泣くんだ?
突然の闖入者に泡を食い、尻であとじさりながら少年が喚く。
「今は俺の番だろうが、これから思う存分楽しもうって時に何勝手に入ってきてんだよ!?」
床に転がった注射器をちらりと一瞥したサムライがベッドに横たわっている僕に視線を投げる。はだけたシャツからあられもなく素肌を覗かせ、右腕の袖を肘までめくりあげられ、行為を中断された為にズボンを腿に絡めた自分の醜態に気付かされた僕はサムライの視線を避けて俯き、素早くズボンを引き上げて生白い肌を隠す。
こんな姿、彼にだけは見られたくなかった。
半年前の僕なら別に何も思わなかっただろう、裸に剥かれて犯されているところをサムライに目撃されたからとて羞恥心をかきたてられたりはしなかったはずだ。それなのに今は屈辱で頬が熱くなるのをおさえられない、羞恥で体が火照るのがおさえられない。
下唇を噛み、紅潮した顔を俯けた僕から正面の少年へと視線を戻したサムライが無言で箸を進める。箸の先端が少年の鼻の頭にめりこんで「ひっ」と悲鳴がもれる。
箸から逃れて尻であとじさりながら、物言わぬサムライの剣幕に飲まれて怯えきった少年は媚びへつらう笑みを浮かべる。
「わ、わかった、こうしよう!3Pでどうだ?タマ重くて待ちきれねえなら一緒にやれば問題なしだ、だろ」
さも名案を思いついたといわんばかりの饒舌さでまくしたてた少年が欲望にぎらついた目で僕とサムライとを見比べる。
「俺も一度試してみたかったんだよ、複数プレイ。どうだ、悪くねえ提案だろ?俺が上の口でたのしんでるあいだはお前が下の口でたのしんであの眼鏡をイカせてや、」
「聞くに堪えん。今すぐその下劣な口を閉ざせ」
サムライの声は霜が張りそうに冷えていた。
眼光の圧力を増して少年を追い詰めたサムライが箸を握る手に尋常ならざる力をこめたのが白く強張った手首からわかる。
「俺はサムライだ。箸一本でお前の息の根を止められる」
サムライは決して実力を誇張してるわけではない。その証拠に小揺るぎもせず少年の顔面に突きつけられた箸には極限まで先鋭化した殺意が凝縮されている。全身に殺意を気迫とを漲らせたサムライが隙のない動作で歩を詰める。衣擦れの音さえたてない静けさで、優雅ともいえる足捌きで徐徐に少年と距離を詰めてゆく。サムライに追い詰められる一方の劣勢に回った少年が壁にもたれて立ち上がり、その喉元に箸の切っ先がつきつけられる。
「去れ」
憤怒を滾らせた双眸。
「…………っ、」
サムライに威圧され二歩三歩あとずさった少年が何かを踏み付けてはでに転倒する。両手で宙を掻き毟りながら後ろ向きに倒れた少年が背中から扉に激突、背中で扉をぶち破るかたちで廊下に転がり出る。偶然の事故、受け身もとれずに床で背中を強打した激痛にうめく少年の前で静かに扉が閉ざされてゆく。
何かを叫ぼうと大口あけた少年の顔が消え、轟音をたてて扉が閉じた。完全に。
最前まで少年がいた地点に視線をやれば缶詰が転がっていた。昨日、鉄格子の隙間からロンによこされた缶詰だ。
「僕はまたロンに助けられたのか」
缶詰に蹴躓き、何が何だかわからぬまま廊下へと放り出された少年の動転ぶりを思い出し、呟く。スッと腕をさげ、ポケットに箸を納めたサムライがこちらに向かってくる。大股に歩み寄ってくるサムライをぼんやりと眺めていると廊下で言い争う声が聞こえてくる。
「なんだよあれ、聞いてねえぞ!?なんで俺が済んでないのに次の客いれるんだよ!」
「しかたねえだろ、箸つきつけられて脅されたんだよ!あいつの噂知らねえのか、東棟のサムライだよ。仙台の名門道場の跡取り息子でてめえの親含めた十二人を伝家の宝刀で斬り殺しちまった……」
「は、マジで?」
「マジだよ、いくら俺が看守だからってそんな囚人怖くて止められねえよ!言うこと聞くしかねえだろが!」
看守と囚人の押し問答に耳を傾けながら目はサムライの一挙一動を追っている。サムライから目を逸らせない―……放せない。そういえば、こうしてちゃんと彼の目を見るのは何日ぶりだろう?ずいぶん久しぶりのような気がする。売春班配属になってからずっと彼と目を合わせるのに気後れしていた、目を合わせた瞬間に僕の体内に沈殿した汚い澱まで見透かされてしまうような強迫観念に襲われていたから。
ベッドの傍らでサムライが立ち止まる。
今や、密室に完全に二人きりだ。扉には鍵がかかっている。逃げ出したくても逃げられない、と苦渋を噛み締めてその連想に笑いたくなる。
『逃げる』?だれから?
僕はサムライから逃げようとしてたのか、元友人だった男から。馬鹿な、みじめに逃げ隠れする必要などありはしない。相手がサムライだからといって何も怖じることはない、いつもどおりにすればいいんだ、いつもどおりに。この六日間やってきたのと同じことだ。相手が顔見知りの人間だからといってためらうことなど何もない、僕はもう体も心も汚れきってしまったんだから。
先客を追い払ったもののこれからどうしたらいいか皆目見当がつかず、所在なげに立ち竦んでいるサムライを見上げ、事務的に聞く。
「騎上位がいいか、正常位がいいか?」
サムライの目に驚きの波紋が広がり、そして、低い声を絞りだす。
「………悪い冗談だ」
「冗談ではない。現実だ」
ベッドに上体を起こし、片膝を立てる。まだ体が熱い、さっきの少年に抱かれた余熱が残っている。シャワーを使用できないのが辛い、体に付着した他人の体液を洗い流せないのが不快でしょうがない。生理的嫌悪に顔をしかめた僕の傍ら、サムライは目に痛ましげな光を湛えて立ち尽くしていた。
やめろ、そんな目で僕を見るな。
そんな抗議が喉元まで出かけ、ぐっと飲み込む。他人に同情されるのはごめんだ、プライドの高い僕には耐えられない。サムライから、今まで友人だと思っていた男に同情される屈辱を味わうくらいなら、私情に振り回されることなく早急に仕事を済ましてしまったほうがいい。
「むこうを向いててくれないか」
「何故だ」
サムライの目を見ないように顔を伏せ、指示する。察しの悪いサムライに苛立ち、刺々しい口調で補足する。
「服を脱ぐんだ。……このままじゃやりにくいだろう、お互いに」
『お互いに』の部分を強調したのは当てこすりだ。吐き捨てるように皮肉を投げ付ければサムライが一瞬だけ傷ついた顔をする。だが、それは刹那にも満たない一瞬の出来事なので僕の罪悪感が見せた目の錯覚かもしれない。僕の指示に従ったサムライがベッドに腰掛けて壁の方を向く。こんな時だというのに背筋は凛々しく伸びていて、おそろしく姿勢がよくて、武士の矜持あふるる毅然とした背中におもわず見とれてしまいそうになる。
サムライの背中から視線を引きはがし、上着の裾に手をかける。さっきの客は行為を急くあまり上着まで脱がせなかったが、もしサムライが本気で僕を買いに来たのなら上も下も全部脱いだほうがいい。一糸まとわぬ生まれたままの姿になり、今の僕を、身も心も汚れて変わり果てて彼の友人には相応しくなくなった僕を見せつけてやるべきだ。
サムライを失望させるのはいやだった。
でも、こうなってしまった以上仕方ない。
何を、どこで間違えたんだろう。どうしてこんなことになったのだろう。東京プリズンにきてからずっと繰り返してきた答えのない問いが重苦しく胸にのしかかる。何故サムライは僕を買いに来たんだろう。サムライは売春など嫌悪する潔癖な男だと思っていたのに、違ったのか?買いかぶりすぎていたのか?なるほど、男なら人並の性欲があっても何もおかしくない。いくらサムライが清廉潔白な男に見えても性欲までは否定できない、性欲は人間の根源欲求のひとつ、子孫を増やすために備わっている原初的な本能だ。いや、そんなのは詭弁だ。動物は快楽原則に忠実な生き物で、人間も動物であるかぎりは快楽の呪縛から逃れられない。いやなことを何もかも忘れさせるほどの強烈な快楽を伴うからこそ人は太古の昔から性行為に溺れてその副産物として子孫を増やし世界中に散らばり繁栄してきたのだ。
これまで禁欲生活を送っていたサムライに遂に限界が訪れ、売春班の囚人を買いに来たからといって、彼との友人関係を一方的に解消した僕に責める資格などありはしない。
上着の裾に手をかけたまま、放心状態で思考に沈んでいたら通気口から喘ぎ声が聞こえてきて、自分がおかれた状況と立場を一瞬で思い出す。何をやってるんだ僕は、何をためらうことがある?今まで何人もの客の前で服を脱いできたじゃないか、脱がされてきたじゃないか。顔見知りの人間がそばにいるからといって、手を伸ばせばすぐに届く距離に腰掛けてるからといって躊躇することはない。
決心し、上着を脱ぎ、上半身裸になる。
脱いだ上着を神経質に畳み、眼鏡を外し、枕元に置く。下も脱ごうかどうしようか迷ったが、サムライの反応を見てからでも遅くないだろう。
第一、僕の上半身を見たサムライが抱く気をなくす可能性も否定できない。
「いいぞ」
サムライがゆるやかに振り向き、そして。
その目が、大きく見開かれた。
僕はもともと色が白いほうだ。
いや、生白いといったほうがいい。筋肉に乏しい脆弱な細腕は劣等感の種だったが、この前来た客には褒められた。
『お前、男のくせに色白いから縄の痕が映えるんだよな』
嬉嬉として僕の手首を縛りながらそう言ったのは例の看守だった。あの時の痣はまだ消えてない、手首にくっきりと残っている。
そして、上半身。
酷い有り様だった。鎖骨にも胸板にも腹にも腰にも至る所に発疹によく似た赤い斑点が散らばっている。中に混じる大小の青痣は腹部を殴られた痕だ。青痣だけではない、経過した日数によって黄褐色に変色しているものも少なからずある。痣の上に痣が重なり、もとは白い筈の肌がまだらにむしばまれ腐敗し始めた果実の表皮のような惨状を呈している。
抱き心地の悪い薄い体だ。
痣だらけで醜い体だ。
行為を終え、這うように洗面台に行って鏡に体を映すたびに生理的嫌悪で吐きそうになった。体の内側からも外側からも腐り始めて醜くおぞましい本性を晒し始めているのだぞと容赦ない事実をつきつけられるようで。
「萎えたか?」
完全に沈黙したサムライを卑屈に仰ぎ、聞く。止まらない、言葉が止まらない。洪水のように後から後から押し寄せてきて理性を押し流そうとする。だめだ、冷静になれ、冷静に―
ベッドの背格子に上体を預け、片手で額を支え、俯き加減に言う。
「気持ち悪いだろうこんな体」
サムライは答えない。何も言わない。と、ふいにベッドが軋み、頭上に影がさす。つられたように顔を上げれば正面にサムライがいた。ベッドに膝を乗せ、正面に移動してきたサムライが無言の内に僕の肩に手をかける。
サムライの手は熱かった。血が、燃えているみたいに。
「無理に抱かなくていいんだぞ」
サムライがらしくもなく緊張しているのがわかったから、僕は言った。こんな体を見て興奮するのは虐待性愛者の変態だけで、ごくノーマルな嗜好の男なら扇情的な気分になろうはうずもない。何も無理して僕を抱くことはないのだ、本当に。
「……無理などしてない」
一呼吸おいてサムライが答え、肩に置いた手に力がこもり、自然と押し倒される格好になる。背中にベッドの感触、二人分の体重にスプリングが軋む。
すぐそばにサムライの顔がある。
天井の裸電球を背にし、僕を組み伏せるかたちでベッドに手をついたサムライの目には僕が見たこともない複雑な色があった。悲哀、慙愧、苦痛、悔恨……痛ましげな双眸に思い詰めた光を湛えたサムライが不器用に、本当に不器用に僕の首筋に触れる。愛撫、という呼び方さえ相応しくない拙さで。
熱をおびたてのひらが首筋をやさしく包みこむ。ちょうど初日につけられた痣があった部分、今ではもう肌に馴染んで消えてしまった痣が見えるようにそこばかりを撫でる。
「怪我はもう治ったのか」
「?」
「ガーゼをしていただろう」
「ああ、あれは……」
「?」
「……何でもない」
脱力状態でベッドに体を横たえ、無造作に投げた四肢をぐったり弛緩させる。そっと目を閉じる。もう疲れた。どうでもいい。サムライが相手ならひどくされることもないだろう、と安心して警戒を解く。答えのない自問自答はやめた。何故こんなことになったのか、などという繰り言は「生まれてこなければよかった」という発言にも増してみっともなく、みじめさを増長させるだけだ。サムライとこんなことになる日がくるなんて思わなかった。でも、もうどうでもいい。僕の体で彼が満足してくれるならそれに越したことはない、どうせ僕はこの生き地獄から抜け出せないのだからもう何もかもどうでもいい。
考えるのに疲れた。思考が働かない。
思考停止状態の頭で、サムライの肩越しに天井を見上げる。配管むきだしの殺風景な天井に意識を飛ばそうとしたが、その度に僕を現実に引き戻すのは稚拙な愛撫。稚拙……本当に下手だ。いや、下手という言葉はひどいかもしれない。サムライはおそらくあまり女性経験がないのだろう、それとも相手が僕だから緊張してるのだろうか?ぎこちなく誠実な愛撫が緩慢に熱を煽り、体の芯が鈍く疼きだす。僕は不感症だから快感に溺れたりはしないが、もしそうなら下肢から這い上がってくる熱の正体は何だ?ひょっとして僕が不感症だというのは強力な自己暗示の産物で、実際はそうじゃないのか?
朦朧と霞がかった頭に泡沫のように浮かんでは弾ける疑問符。ふいに違和感を感じ薄目を開ける。水面下から見上げたように視界がぼやけている。眼鏡を外してるせいでサムライの顔がよく見えない、こんな至近距離にいるのに。歪む視界の中、サムライをさがす。いた。僕の目の前にいる。僕の上に覆い被さり、脈をとるように首筋に手を置いて沈黙してる。まだ服は脱いでないようだ。ずいぶんと前戯が長い。首筋を包んだ手が熱く火照っている。サムライは体温が高いんだな、とどうでもいいことを実感しながら天井を見上げ―
顔に水滴が落ちた。
「……?」
おかしい、水道は止められてるはずなのに、現状ではシャワーも使用できないはずなのに何故水が?配管の破れ目から水滴が落ちたのだろうかと訝しんだがそうでもないらしい。顔に付着した水滴を手で拭い、ぬれた指先を顔に近付けてみれば思い出すのはイエローワークの記憶。
ロンと一緒に穴を掘った。水が噴出した。虹が架った。あの虹は綺麗だった、今でも鮮明に覚えている。
ロンは本当に喜んでいた、脇目もふらずに両手で水をすくって飲んでいた。その隣で僕も飢えたように水を飲んだ、あの時は「鉄分が多くて不味すぎる」と不満をこぼしたが本当は美味しかった、僕がこれまでに飲んだどのミネラルウォ―ターよりも美味しくて。
懐かしい。何故今、こんなことを思い出すんだろう。
何故今、いまさらになって、イエローワークに戻りたいなんて思うんだろう。
もうどうにもならないのに、後戻りできないところまできてしまったのに、ひとりでは這い上がることさえできない底の底まで落ちてしまったのに。
諦観とともに目を閉じればどこからかサムライの声が聞こえてきた。耳に心地よく響く低い声。
「すまん」
語尾が震えていた。目を開ける。また顔に水滴が落ちた。これは―……涙だ。だれかが泣いている、僕の上に覆い被さっただれかが涙をこぼしている。でも、眼鏡をしてないせいでその誰かの顔がよく見えない。いや、見えなくてもわかる。泣いているのはサムライだ。でも僕にはサムライが泣いてる顔が上手く想像できない、彼が泣いてるところなんて想像できない。眼鏡を外した状態でぼんやりと見えるのは深く深くうなだれたサムライの姿だけだ。
何で泣くんだ?
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