少年プリズン

まさみ

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百三十八話

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 イエローワークに戻りたい。

 今更こんなこと言っても遅い、次の部署替えまで半年もある。俺はタジマに目をつけられてブラックワークに回されてきた、言うなれば左遷された身だ。主任看守のタジマには人事を取り仕切る権限があって、タジマに目の敵にされてる俺がイエローワークに戻るには土下座でもなんでもしてご機嫌をとるしかない。
 冗談じゃねえ、奴に土下座なんかこっちから願い下げだ。
 なんで俺がタジマのご機嫌伺いしなけりゃならない、考えただけで反吐が出る。タジマに頭を下げるのだけはいやだ、絶対に。殴られても殺されてもそれだけはいやだ、俺にあんなことをさせた人間に、俺にあんなことをさせてにやけながら見ていた人間に土下座して詫び入れたりなんかしたら俺は自分を殺したくなる、殺しても殺しても殺し足りなくなる。タジマに謝る理由なんかない、絶対に。あいつに謝らなきゃいけねえことなんか何もない、あいつに喧嘩を売ったことに関してはなんにも後悔してない。
 でも、俺がタジマに喧嘩を売ったことで泣く泣く客をとらされてる他の連中まで巻き込むことになるなんて迂闊だった。じわじわ真綿で首を締められてるような圧迫感。俺がこうやって意地を張り続けることで他の連中にまで迷惑かかってる事実から逃れたくても逃れられない。
 正直、きつい。いつまでこの状態が続くんだろう。
 一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月……半年間ずっと?まさか、保つわけがない。こうしてる今だって一歩も仕事場から出ることができずに閉塞感と孤独感におしつぶされそうで何とか崖っぷちに踏みとどまってるのに、この状態が半年も続いたら頭がおかしくなってしまう。でも俺はまだマシだ。鍵屋崎や他の連中に比べたらはるかにマシだ、男に犯されてないのだから。
 本当に辛いのは、こたえるのは、鍵屋崎が日に日に弱ってくのがわかるのに何もできずにじっと耳をふさいでることしかできない現状だ。あいつの声が聞けるうちはいい、まだ声を出すだけの元気が残ってる証拠だから。でもそろそろ限界だ、鍵屋崎は相当切羽詰ってる。

 売春班は一週間が峠だ、と聞いた。

 それまで普通に女を抱いてきた男が抱かれる側になって、物みたいにひどい抱かれ方をされて体を壊して、プライドをずたずたにされて生き延びられるかどうかは一週間の峠を越えれるかどうかに賭かってる。もうすぐその一週間がきてしまう、期限が切れてしまう。鍵屋崎が峠を越えられるかはあいつ自身に賭かってる。何度どん底に突き落とされてもなお這い上がってくる気力を残してるか、這い上がろうとする意地を見せるかは個人の資質に拠るところが大きいが今の鍵屋崎じゃ正直わからない。
 あいつには誰も味方がいない。
 鍵屋崎は他人に弱味を見せるのいやさに全部ひとりで抱え込もうとしてる、そんなの絶対に無理なのに。
 俺も鍵屋崎も一体なにをやってるんだ?生まれてくるのを後悔するために刑務所に入ったわけじゃないのにこんな生き地獄が続けばそうなってしまう、罪を償うためでも贖うためでもなく、女に飢えた男のおもちゃにされてひどく抱かれて日に日に衰弱してってそれで死んじまうなんてあんまりじゃないか。 
 イエローワークに戻りたい。
 また炎天下の砂漠で砂まみれになって穴を掘りたい、砂を含んだスニーカーに足をとられながらシャベルを上げ下げして、目に流れこんだ汗で視界が見えなくなって陽炎みたいに歪んで、それでも必死に穴を掘り続けてどんどん太陽が遠くなって青空が狭くなって、でもまだあそこには希望があった。地下水脈があるって言葉は嘘じゃなかった、本当だったんだ。俺がオアシスを掘り当てて井戸ができて看守も囚人も肩抱き合って喜んでた、空には虹だって架った。

 虹。綺麗だったなあ。

 「……砂漠に戻りたい」
 声にだして言ってみる。叶わない願いだとわかっていながら、口にだしたら現実になるんじゃないか、そんな淡い期待をこめてくり返す。
 「また水が呑みたい。炎天下で穴を掘りたい。頭から砂をぶっかけられて蟻地獄に落ちたい」
 もうこんな生活はいやだ、イエローワークのほうがずっとマシだった。イエローワークで一年と半年かけて希望を掘り当てたらその次の日にはブラックワーク転属になって、どん底に突き落とされて、それからずっとどん底のまんまだ。蟻地獄の急斜面を助走して一気に加速してよじのぼろうとしてずり落ちたり、そんな馬鹿やってた頃がたまらなく懐かしい。
 夢なら早く覚めてくれ。イエローワークに戻させてくれ。
 売春班の連中がそれぞれの棟に寝に帰り、周囲の房がもぬけの殻になり、物音が絶えた深夜。裸電球を消した闇にひとりきり、毛布にくるまり、床の真ん中で膝を抱えこむ。
 起きてても腹が減るだけだから寝たほうが賢いと頭じゃわかってるんだが目が冴えて眠れない。また砂漠で働きたい、虹が見たい、水が飲みたい。俺が掘り当てた井戸で水浴びしたい。井戸、俺が掘り当てた井戸は今どうなってるんだろう。ちゃんと用水路が引かれて今頃は畑でも耕されてるかもしれない。それとも……枯れた?まさか、考えたくない。希望が枯れることなんかあってたまるか、あれは俺の希望なんだ、こうやって暗闇で膝を抱えて無力を噛み締めてるしかない俺のただひとつの希望なんだ。
 パンドラの箱?知るか。
 何度絶望したってどん底に突き落とされたって希望を抱いちゃいけない決まりはない、紛い物だろうがなんだろうが知ったことか、頑固に信じ続けてれば偽物の希望だっていつか本物になる。なあそうだろう?

 俺も鍵屋崎も頑張ってるんだから、報われないはずがないよな。レイジ。

 毛布にくるまっていても肌寒い。体の芯から冷えてくる。ベッドで寝れば少しはマシなんだろうがどうしても近寄る気がしない、扉のすぐ近くだと安心して眠れる気がしないのだ。いつだれが入ってくるか戦々恐々として、足音ひとつにびくついて跳ね起きるのはぞっとしない。だからこの六日間というもの俺はずっと床で寝てる。東京プリズンにきてレイジと同房になってからはベッドに寝てたけどガキの頃はそんな贅沢許されてなかった、お袋に厄介者扱いされて部屋の隅っこに追いやられてた昔に戻っただけだ、身に染みてくる床の冷たさと固さを我慢して目を閉じてた頃に戻っただけだ。まあ、俺が暮らしてたアパートの床は板で、こっちはコンクリートだからより固くて冷たくて骨身にこたえるのは事実だが……明日は筋肉痛だな。
 どれくらい経ったんだろう。
 毛布を羽織ってうとうとまどろんでいたら遠くから靴音が聞こえてきた。薄く瞼を持ち上げる。目に映るのは闇。唯一の光源の裸電球を消してるせいで何がどこにあるのかもわからない、圧迫感で息苦しくなるほどの完全な闇だ。眠い目を擦り、闇を手探りして扉の方へと這い進む。空耳じゃない、現実に靴音が近付いてくる。こんな時間に誰だ?朦朧と霞がかった頭で扉を見つめ、

 その瞬間に目が覚めた。だれかが無理矢理扉をこじ開けようとしている。

 鉄と鉄が擦れ合う耳障りな金属音、がちゃがちゃと錠が鳴る音、壊れそうに揺れて傾ぐ扉。だれかが体当たりで扉をぶち破ろうとしてる重たく鈍い衝突音が断続的に響き闇を震わし鼓膜を叩く、ドンドンドンドンガンガンガン、誰かが、顔の見えない誰かが躍起になって扉を殴る蹴るしてる。誰だ?わからない、自分の手もどこにあるかわからない暗闇じゃ何も見えない。わかるのは音、視覚が閉ざされた暗闇の中、獣じみて荒い息遣いと狂ったように扉を連打する音、音、音。拳を振り上げ振り下ろす一連の動作に取り憑かれた何者かが扉の向こうで粘ってる、扉が開くのを今か今かと待ち構えてる。
 最初のうちはドンドンドンと聞こえてた音が今じゃ間隔が狭まってドドドドドとひと繋がりに聞こえる、俺の心臓の動悸も比例して早くなる。開けろ開けろここを開けろと扉の向こうの誰かが訴えてる、凄まじい剣幕で一心不乱に扉を殴り付けてる。
 戦慄が走る。
 暗闇で視界が利かない現実がさらに恐怖心を煽る、乱暴なノック音は一向に止まないばかりかどんどん激しさを増して高圧的になる一方だ。本当に扉をぶち破ってしまいそうな勢いで扉を乱打していたノック音がふいに止み、耳が痛くなるような静寂が降り積もる。
 行ったのか?諦めたのか?
 安堵よりも不審が募り、膝這いに床を這っておそるおそる扉に近寄る。
 その時だ。ガチャガチャと金属音が響き、力づくでこじ開けられた扉の隙間から誰かが顔を突っこんでくる。廊下の明かりを背にして仁王立ちしたその人物は―
 タジマ。
 「よく眠れてるか」
 廊下の蛍光灯を背にしたタジマの顔にはどす黒い影が落ちていた。 
 『何の用だ』と問いただそうとして、声が出ないことに愕然とした。なんで肝心なときに声がでないんだ?これじゃまるで俺がタジマに怯えてるみたいじゃんか、タジマにびびりまくって声を失ってるみたいじゃんか。
 「あはは、眠れてるわけねえよなあ。今ので起きちまったもんな、そいつあ悪かったなせっかくの眠りを邪魔して」
 全然悪かったなんて思ってない口調でうそぶいたタジマの哄笑が殷殷と響き渡る。タジマの笑い声が引き金になりようやく金縛りが解けて自由に動けるようになった。
 「……何のつもりだよ」
 「怒るなよ、暇してると思って世間話しに来てやったんじゃねえか。今日で篭城六日目か。居心地はどうだ?シャワーの使い心地は……おっと、今は使えないんだっけか」
 「ふざけるなよ、お前が止めたんだろうが」
 こめかみの血管が熱く脈打ち、キレる寸前で右拳を握り締める。元はといえば全部コイツのせいで俺はこんな目に遭ってるんだ、鍵屋崎は苦しんでるんだ。くわえ煙草のタジマが大袈裟に仰け反って哄笑するのを睨み付けてるうちに腸煮えくり返るような憎悪が全身に滾り、扉の隙間から顔を突っこんで爆笑してるタジマの顔面に力一杯毛布を叩き付け、吠える。
 「耳腐る豚の鳴き真似はいい加減にしろ、汚えヨダレと唾たらして笑ってねえで耳の穴かっぽじってよおく聞け!!お前に喧嘩売ったのはこの俺だ、他の連中は関係ない。俺が気に食わないなら扉ぶち破るなんなりして直接俺の襟首ひっ掴んでみろよ、シャワー止めたり水止めたり陰険な嫌がらせしてんじゃねえよ!」
 「効果覿面だな」
 顔面から毛布を払いのけたタジマがぞっとするほど陰惨な笑みを浮かべる。
 「お前にゃこっちのがこたえると思ったんだよ、お節介でお人よしな半半のロン。自分が苦しむより他人が苦しむの見聞きするのが数倍数十倍こたえるだろうが、それがオトモダチの親殺しだったら苦しみも格別だなあ。で、どうだ?この六日間壁一枚挟んでずっと鍵屋崎の喘ぎ声聞いてた感想は。いい声で鳴くだろう、アイツ。鍵屋崎の喘ぎ声聞きながら何回ヌイたんだ?なんだよその目は、腹立てたのか?ダチの喘ぐ姿想像してヌイたからっていまさら恥ずかしがるこたねえさ。ま、声だけで残念だったな。俺は本人を頂いたぜ」

 頭が真っ白になった。 

 「―鍵屋崎をヤったのか?」
 気付いたらタジマの襟首を掴んでいた。
 俺に襟首締められてもタジマはにやにやと笑ってる、笑ってやがる。そして言う、悪びれた風もなく得意げに。
 「ああ、ヤってきたぜ。ずっと隣にいたくせに気付かなかったのか?そうか、耳ふさいでて聞こえなかったのか。そりゃもったいねえことしたな、喘ぎ声聞けなくて。知ってっか?あいつ不感症のくせに耳朶噛まれると感じるんだぜ、おかしいだろ。淫売みたいに濡れた声で鳴いてたぜ。いや、アレは泣いてたのか?どっちでもいいか、どっちでもおなじだ。傑作なのはな、」
 そこでとっておきの内緒話を打ち明けるように顔を寄せ、淫猥に舌なめずりしてタジマが囁く。
 「ヤってる最中に妹の名前を『呼ばせた』んだ。最初の日に妹の名前呼んだって噂で聞いて試してみたら効果絶大だった。ただ呼ばせるだけじゃつまんねえからいろいろ体位変えて立たせたり跨らせたり……男にヤられてると思いたくねえなら妹とヤってると思い込めって耳元で吹き込んでよ。まあヤるのとヤられるのじゃ全然ちがうしな、妹ヤってると思い込めってのも無理あるがな。妹の名前呼びながらイッたんじゃ近親相姦疑われても仕方ね、」
 手首に衝撃、震動。
 タジマの顔面めがけて叩き込もうとした拳が扉の表面に激突する。俺の拳を予期して素早く首をひっこめたタジマが破れ鐘のような濁声で哄笑してる。目も眩むような憎悪が視界を赤く染める、眼球の毛細血管が破裂しそうだ。拳の痺れも忘れ、犬歯で突き破りそうに唇を噛み締めた俺を見下してタジマが嘯く。
 「怒るなよ、真実言ってるだけだろ。お前ら売春班の連中はそろいもそろって腰抜けのタマなしぞろいだ、女抱くよか男に抱かれるほうがお似合いだ。男にヤられながらめそめそべそかいてガキの名前やら女の名前やら呼んで恥ずかしくねえのかよ?めいふぁーめいふぁー、りんりんーりんりんー。鍵屋崎に至っては妹の名前ときた、めぐみーめぐみー、めめ、めぐみー。はは、みっともねえったらありゃしねえ」
 「……みっともなくねえ」
 「あん?」
 自分でもぞっとするくらい低い声だった。 
 「何がみっともないんだよ、男に抱かれて子供の名前や女の名前呼んで何が悪いんだよ?なにも恥ずかしくねえよ、みっともなくねえよ。自分がいちばん辛くてしんどい時にいちばん大事な人間の名前呼んで何が悪いんだ、心と体がばらばらになって砕け散りそうな時に現実に繋ぎとめてくれる人間にすがって何が悪いんだ。悪くねえよ何も、」

 『名前はメイファだと記憶してる。漢字で梅の花と書いてメイファか』
 『ああ……俺がつけたんだ』
 照れたような呟き。

 『凛々……今会いに行くから、抱きに行くからな……』
 扉の隙間から見た光景。
 宙を掻き毟るように、血まみれの腕に愛しいだれかをかき抱く仕草。

 「ああそうだよ、てめえが必死に考えてつけたガキの名前呼んで何が悪いんだ、いい名前じゃねえかよ梅の花でメイファ!梅の花みてえな女の子になってほしくて親父がつけたんだよ、願いがこもったいい名前じゃんかよ、どっかの博打打がつけた麻雀の役名よかよっぽどマシだ、他人にも自分にも誇れる立派な名前だよ、もしそいつが俺の親父だったら全然恥ずかしくなんかない、絶対見損なったりしない!なあ教えてくれよタジマ、ヤられながら女の名前呼んで何が悪いんだよ?そいつのことが本当に好きだって証拠じゃねえか、マジで愛してるって証拠じゃねえか。俺がその女だったら絶対に見損なったりしねえよ、そんなに愛されて嬉しく思うよ。鍵屋崎だってそうだ、犯されながら妹の名前呼んだからってちっとも恥ずかしくなんかない、あいつにはもう妹しかいないんだ、妹っきゃすがれる奴がいないんだよ、今までずっと妹の幸せをいちばんに考えて尽くしてきたんだよ、報われなくても尽くして尽くして尽くしてきたんだよ、俺みたいに見返りなんか期待しないで本当に純粋に妹の為だけに頑張ってきたんだよ!だからこれからも妹に尽くすことでしか生きられないんだよ、意固地にそう思いこんで見てるこっちが痛くなるくらい全部ひとりで抱えこんでんだよ!!」
 俺は本来こんなこと言えた立場じゃない、偉そうに知ったかぶりして鍵屋崎の心境を、発狂して鏡に突っ込んだ奴や外にガキをおいてきた奴の心境を代弁できる立場じゃない。俺は腰抜けの裏切り者だ、現在進行形で鍵屋崎や他の連中を見殺しにしてる最低の卑怯者だ。
 でも、目の前で仲間を侮辱されて黙って見過ごせるわけがない。 
 「みっともなくて恥ずかしくて情けないのはお前だろう、タジマ」
 俺の剣幕に呑まれてあとじさったタジマが不審げな顔をする。
 「わかってんだよもう、お前が弱い者いじめっきゃできないクズだってことは。ネタは割れてんだよ、素直に白状しちまえよ。囚人いじめてストレス発散か?風俗の女に笑われて売春班のガキで憂さ晴らしか?それっきゃ生き甲斐がないなんて寂しい中年だな、どうせお前にゃ自分のこと愛してくれる女もガキもいないんだろ、何があっても一生守ってやるって心に誓った大事な人間なんかひとりもいないんだろ。だから羨ましいんだろ、いざって時にガキの名前や女の名前呼べる奴が」
 図星をさされたらしくタジマの顔色が豹変する。憤怒で赤黒く充血したタジマの顔を挑戦的に見上げ、笑う。
 「俺でよかったら何回でもあんたの名前呼んでやるよ、タジマさん。ああ、でもその前に―……」
 今の俺はレイジみたいに笑えてるだろうか?奴みたいに、おもわずくびり殺したくなるようなふてぶてしい笑みを浮かべてるだろうか?
 だったら合格だ。
 「早漏癖直してきたら相手してやるよ、糞野郎」
 合格。
 タジマの顔色が豹変した。赤黒く充血していた顔からサッと血の気がおりて蒼白になる。こわばった表情のタジマが口角を痙攣させて口にくわえてた煙草をもぎ取り、そして。
 扉の隙間にかけていた俺の手に、じゅっと押し付けた。
 「!!!!!」
 熱、あついあついあつあつい、煙草の先端を押し付けられた手の甲から煙が立ち昇って白く揺らめきながら天井に、熱、やめ、洒落になら、肉の焦げる異臭が鼻孔の粘膜を突いて吐きそうになる、不覚にも涙がこみあげ、煙草の先端が肉を抉るように圧力を増して捻じ込まれて手から煙が上がる、最悪だ、また自分の肉が焦げてく匂いを嗅がされるなんて……

 『また』?
 前にもこれとおなじことがあったのか?

 『面白いでしょうその子。声あげないのよ』  
 熱と痛みに頭が痺れて気が遠くなる。寝起きのお袋の寝ぼけた声。そうだ、思い出した。俺がガキの頃、いつもみたいにお袋が客を連れこんで寝室に消えてベッドの軋む音が聞こえて、その日たまたま外に出されてなかった俺はまだお袋の仕事がよくわかってなかったら不安になって毛布をひきずって後を追っかけてった。そしたら情事の真っ最中で居場所がなくてどうしようか迷った挙句に部屋の隅っこで蹲ってることにした。
 どれくらい経ったんだろう。情事を終えて一服してた客がこっちに気付いた。柄の悪い男だった。情事の一部始終を見張られてたと勘違いして気分を害したんだろう、『目つきの悪いガキだな』とかなんとか声を荒げながら大股にこっちにやってきていきなりシャツをめくりあげられた、ひやりとした外気の感触まで覚えてる、腹にこぼれ落ちた煙草の灰の熱さが生々しい皮膚感覚を伴って蘇ってくる。
 そして、脇腹にじゅっと煙草を押し付けた。
 熱かった、なんてもんじゃない。脂っぽい異臭が鼻孔にたちこめて、それは俺の皮膚が焦げてく匂いで、そう知覚した途端に胃袋がぎゅっと縮んで猛烈な吐き気がこみあげてきた。それでも必死に奥歯を噛んで悲鳴を殺した、悲鳴をあげたらもっと酷くされると身に染み付いてたから死ぬ気で声を殺した、殺し続けた。
 十秒は経ってなかったと思うが、俺には永遠にひとしかった。ようやく溜飲をさげたらしく、煙草の先端が離れてゆく。声は死ぬ気で殺したけど頬はべとべとに濡れてて、塩辛い涙と鼻水と汗とがごっちゃになって喉を流れ落ちてまた戻しそうになった。シャツがはだけた脇腹からはまだ煙と異臭とが立ちのぼっていて赤い火脹れができていた。
 『可愛げないでしょうその子。泣かないのよ』
 のろのろと顔を上げる。寝台に横たわったお袋が白い喉を仰け反らせて笑っていた。指一本動かしもせず、止めもせず、腹を庇って床でのたうちまわってる俺をただ笑いながら見ていた。 

 最悪だ。
 なんで今、こんなことを思い出すんだろう。
 こんな最悪の記憶、一生忘れてたほうがマシだった。
 「―っ、あ、」
 反射的に手をひっこめようとしたがタジマががっちりと手首を掴んでるせいでそれさえできない、額に滲んだ脂汗が目に流れこんで陽炎のように視界がぼやける、胸が悪くなるような異臭が鼻腔の粘膜を刺激して吐き気に襲われる。悲鳴を噛み殺すのもそろそろ限界だ、手に穴が開いてしまいそうだ。肉が破けるまえに何とかしようと、タジマに掴まれてないほうの手で床を探る。手が何か、固くひんやりした金属を握り締める。
 それが何か確かめる暇もなく、俺の手を掴んでるタジマめがけて思いきり投げた。 
 「!!ぎゃあっ」
 タジマの顔が大きく仰け反った。俺が向こう見ずに投げたブツは銀色の弧を描いて額に命中してタジマの撃退に成功した。手首を掴んでた指がぱっと離れ、反射的に引っ込めて思いきり扉を閉じ、一分の隙なくベッドで封鎖してタジマの侵入を防ぐ。ベッドに背中をもたせてずり落ちれば半狂乱のタジマが廊下で騒ぐ声が聞こえてくる。
 「はは、ざまあみろ」
 手の甲がひりひりする。水で冷やそうとして、水道が止められてることに舌打ちする。腰をおろし、そばに転がってた缶詰を拾い上げて手の甲に押し当てる。金属のひんやりした感触がじんわり染みる。缶詰を放し、手の甲に吐息を吹きかける。唾液で消毒しようとしてちょっと舐めてみたらひどく染みて、舌先には苦い味が残った。
 灰の味だ。
 「……煙草は吸うもんで、食べるもんじゃねえな」
 味蕾で実感する。舌で溶け始めた灰を苦い唾と一緒に吐き捨て、ベッドによりかかって足を投げ出す。真っ暗闇の天井を仰ぎ、そのまま痛みが引くまでじっとしてる。
 「この野郎!!」
 ドンドンと誰かが扉を殴ってる。タジマだ。激怒したタジマがめちゃくちゃに拳を振るって何かを叫んでいる、はは、いい気味だ。
 「ふざけやがって、缶切りなんて投げやがって!!コルク抜きになってるほうが刺さったらどうするんだ!!」
 そうだ、あの缶きりは反対側が螺旋状のコルク抜きになってて……缶きり?
 「!!」
 ばっと背中を翻し、ベッドを押しのけて扉にしがみつく。片目だけ覗く隙間を押し開けてタジマの姿を捜せばもう廊下の遥かに遠ざかっていて、その足もとには缶きりが転がっていた。腹立ち紛れにタジマが蹴り飛ばして行ったのだろう、もう手が届かない廊下の彼方にまで遠ざかった缶きりを目で追って息を飲む。
 「よく聞けロン!!」
 癇癪を起こしたタジマが獣の声で咆哮して缶きりを蹴りとばす。廊下の奥へと蹴飛ばされ、遂には視界から消えてしまった缶きりからタジマに目を転じれば、額を押さえた手の間から血が流れて顔が朱に染まっていた。 
 「今夜が最後のチャンスだったんだ、わざわざこうして足運んでやったのは最後の改心を迫る為だ。明日で一週間、一週間だ。俺は一週間も待たされたんだ。今ここで観念して出てくればお咎めなしにしてやろうと思ってたんだ、明日から客とって今までの分挽回すれば独居房送りは勘弁してやろうと思ってたんだ。それを!お前は!この俺にむかって缶きりなんか投げ付けて何もかもを台無しにしやがったんだ、いいか、この借りは高くつくぜ」
 タジマの指を染めて滴り落ちた血が床に血痕を残してゆく。 
 「お前は懲役終えるまで永遠に売春班だ。今決定した」
 血まみれの顔でタジマが笑い、高らかに哄笑しながら去ってゆく。頭から血を流しすぎておかしくなってるのかもしれない。扉を閉じ、ベッドで塞ぐ。今缶きりを探しに廊下に出てけばタジマの思う壺だ、奴のことだ、廊下の先で待ち構えてるに違いない。いや、これも俺をおびき出す為の作戦かもしれない。今のこのこ出てくのは危険すぎる、命を捨てにいくようなもんだ―……
 俺は馬鹿だ。
 あたり一面に缶詰がごろごろしてるのに、とっさに掴んだのが缶きりなんて運が悪すぎるにもほどがある。
 「缶きりなくてどうやって缶詰食うんだよ……」
 頭を抱えこんで悲嘆に暮れる。
 ……俺もブラックジャックのメスが欲しい。
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