少年プリズン

まさみ

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百三十四話

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 売春班に配属されて六日目。
 もうすぐ一週間が経とうとしている。東棟には寝に帰るだけの日々が続く。サムライとは一言も言葉を交わしてない。僕が朝早く房を出て夜遅く帰ってくる頃には大抵先に寝ていて会話をしなくてすむのは気楽だが一抹の胸の痛みは何だろう。感傷?馬鹿な。夕食をとりに与えられる休憩時間も極力サムライと顔を合わせるのを避けて房に寄らないようにしてるのは彼に何を話していいかわからないからだ。
 『引いたか?』
 『僕は不感症だから多少ひどくしてもかまわないんだそうだ』
 耳に蘇る自虐的な台詞、格子窓から射しこんだ明かりに浮かび上がるのは驚愕に目を見開いたサムライの顔。蛍光灯の光に暴かれた手首にはロープで強く縛られた鬱血痕。
 サムライは潔癖な人間だ、男に抱かれた僕を軽蔑するだろう。
 毎日毎夜男に抱かれて貪るように陵辱されて体中に行為のはげしさを留めた痣を作って帰ってきた僕を忌避しないわけがない、毎晩のように同性に抱かれて身も心も汚れきった僕に生理的嫌悪を抱かないわけがない。

 彼と目を合わせるのが怖かった。最初の日からずっと、初めて犯された日からずっと。

 僕はもう堕ちてゆくしかない。堕ちるところまで堕ちて汚れきるしかない、それしか生き残る術はなく生き延びる術もない。体が軋んで悲鳴をあげても心が軋んで壊れそうでもサムライに頼るわけにはいかない、友人に弱味を見せるわけにはいかない、この痛みを共有させるわけにはいかない。これは僕一人で耐えなければいけないことだ、僕一人で耐えて処理しなければいけないことだ。惠の兄として精一杯の虚勢を張って一握りのプライドを防波堤にして、何人何十人の客に抱かれても犯されても殴られても口に出せないような卑猥で最低な行為を強いられたとしても僕が鍵屋崎直であるかぎり、かつては日本を背負って立つエリートとして将来を嘱望された選ばれた人間であるかぎり、そうあるように望まれて設計された人工の天才であるかぎり弱音なんか吐いてはいけない、狂ったように泣き叫んでみっともない醜態など晒してはいけない、何よりそんな情けない姿を初めて出来た友人に見せたくない。見られたくない。

 『こんな辛い目に遭うなら生まれてこなけりゃよかった』
 『畜生、恨むぜお袋。だれも産んでくれなんて頼んじゃねえのに』

 僕は『作られた人間』だから、ああいう台詞は本当に嫌いだ。唾棄すべき甘え、自分が今の境遇に陥った原因を他者に責任転嫁して罪から逃れようとする惰弱さ。彼らは何故ここにきた?砂漠の涯てにあるこの東京プリズンに収監された?答えは一つ、法律に背いて犯罪を犯したからだ。彼らがこうなった原因は全部彼ら自身にある、親に責任転嫁して自らの罪に目を背けるのは不毛な自己欺瞞にしか思えない。しかし、僕らは確かに罪を犯し法律に背いた咎で東京少年刑務所に収監されたが個人の性的嗜好を無視して強制的日常的に売春させらてる現状は極めて不条理で理解に苦しむ。僕は男に犯されるためにここに来たのか?毎日毎晩強制的に客をとらされ性行為を強いられあらゆる体位を仕込まれ、女性の代用品として性の玩具にされるために東京プリズンに連れて来られたのか?
 違う。絶対に違う。
 『生まれてこなけりゃよかった』 
 『産んでくれなんて頼んじゃない』
 通気口から聞こえてきた泣き言には即座に毒舌で応酬した僕が、同じことを一度も思わなかったといえば嘘になる。犬のように四つん這いの姿勢をとらされ背後から犯されてるときも、壁に手をつかされて腰を抱かれてはげしく突き上げられてるときも何度もその言葉が脳裏をかすめた。でも認めるわけにはいかない、それが事実だと認めるわけにはいかない。生まれてこなければよかった?そんな非生産的かつ悲観的な繰り言は全否定する、その言葉を認めて受け入れてしまえば僕は生きる意義と意味を見失ってしまう、これまで僕の人生に関わってきた人間を、惠を、サムライを、最愛の妹と誠実な友人まで否定してしまうことになる。

 でも、正直わからない。
 僕は何故、生きているのだろう。

 なぜ今もこうして息をしているのだろう、毎朝目を開けてしまうのだろう。朝起きて、起きたことを後悔する。夜眠り、明日がくることに絶望する。不毛な日々の繰り返しが連綿と続く先の見えない生活、終わりの来ない地獄。僕は何故足掻いてるのだろう、足掻き続けてるのだろう。いい加減足掻くのをやめてラクになればいいのに、弱みを見せてしまえば精神的負担が減るのに。

 でも、できない。
 どうしても、できない。

 僕は何故自殺しないのだろう、と時々不思議になる。大抵その問いに絡めとられるときは頭が朦朧としていて、体を這い回る汗ばんだ手の不快さや首筋から胸板へとすべりおちてなぶるようにヘソを責める舌の不快さや強引に広げられた下肢の断続的な痙攣やら、現在進行形で自分の身に起きていることから全力で現実逃避する為の一手段として問いを繰り返しているのだろう。
 自殺の選択肢に思考が辿り着くたびに連想するのはリュウホウの最期だ。
 リュウホウ。僕と同じ日にジープの荷台にのせられて東京プリズンに連れてこられた囚人で、もういない。首を吊って逝ってしまった。
 リュウホウの最期は今でも鮮明に網膜に焼き付いている。
 天井からぶら下がった手ぬぐいに首を突っ込み、だらりと弛緩した四肢を宙にたらし、酸素不足の顔は青黒く変色して膨張し、それでも奇妙に安らかな笑みを湛えて。眠るような表情の安らかさとは対照的に下肢は糞便にまみれていて、嘔吐をもよおさせるほどの強烈な悪臭が死体発見現場となった房にたちこめていて、その死に様には人間の尊厳のかけらもなかった。

 今なら言える。僕はリュウホウに死んでほしくなかった。

 リュウホウが生きているうちに言えばよかった、気付けばよかった。もう遅い。リュウホウはおそらく「生まれてこなければよかった」と思ったまま死んだ、生まれてこなければよかったと思ったまま死んでしまった。僕が死なせてしまったも同然だ。
 『死んだほうがマシだ』と安易に吐き捨てるのは死者への冒涜だ。
 リュウホウの最期が半年が経過した今もなお網膜に鮮明に焼き付いてる僕には、リュウホウの最期を何度も夢に見てその死に顔を何度も瞼の裏側に蘇らせてきた僕には絶対にそんな事言えない。
 自殺は負けたまま死ぬことだ。僕は敗北して死にたくない、『無』に還りたくない。僕は『無』が理解できない、定義も解釈も理解も想像も『無』の本質に触れることはできない、『無』を証明できない。観念も概念も存在しない『無』の世界など想像することができない、想像できないものに無闇に憧れたくない。僕が僕として存在を許されない世界など、僕が僕である意味も意義も剥奪されて『無』という主体のない空虚に統合される世界になど行きたくないし逝きたくない。

 死ぬのはいやだ。  
 でも、生きるのは苦痛だ。

 矛盾した葛藤だとわかっている、でもどうにもならない。自殺は合理的じゃない、自殺はしたくない、自殺はプライドを放棄した人間が最後に選ぶ手段だ。だから僕は死ねない、まだ死ねない。両親を殺害して東京プリズンに送致されてまだたった半年だ、今ここで自殺の誘惑に心負けてしまったら僕はみじめな敗残者で世間の笑い者じゃないか。僕の懲役は八十年でまだ一年も経ってないのに弱音を吐いてどうするんだ。惠にだって言いたいことがあるのに、伝えたいことが山ほどあるのに、自分の本当の気持なんか何ひとつ伝えることができずこのまま誤解を解くこともできず永遠に惠と訣別するのはいやだ。
 僕は毎日、死ぬ気で生きている。
 いや、死んだ気で生きていると表現したほうが正確かもしれない。売春班に配属されてからの僕は生ける屍のように男に抱かれてる。毎日少しずつ心が壊死してゆくのがわかる、精神力がすりへって生気が吸い取られてゆくのがわかる。でもどうすることもできない、僕にできるのは唯一つ、この現状を受け入れて適応して順応することだけだ。徐徐に、徐徐にでいいから体を慣らして心を鍛えてゆくんだ。それしかここで生き残る術はない、生き延びる道はない。
 大丈夫だ、僕はまだ大丈夫だ。
 サムライがいなくても大丈夫、彼に頼らなくても大丈夫だ。
 誰にも心を許さず独りで生きていた以前の状態に戻っただけだ、何を気に病んで罪悪感に苛まれる必要があるんだ?

 「鍵屋崎」 
 「!」
 通気口からの声にはじかれたように顔を上げる。ロンだ。
 「やけにしずかだけど今なにしてるんだ?」
 篭城五日目で大分退屈してるのかもしれない。レイジとは一昨日和解したらしいがそういえば今日は彼の姿を見ていない。ロンの話し相手になる義務はないし頭の悪い人間との会話は疲れるだけだが、凪のように客が絶え、僕も少し暇を持て余していたから返事を返す。
 「本を読んでいた」
 「なんて本?」
 「トルーマン・カポーティ『冷血』」
 「どんな話?」
 「アメリカの中西部の町で農場主一家4人が惨殺される事件が発生、その犯人が殺人を犯すまでの過程から捜査状況、逮捕時の様子、裁判の経過から絞首台に消えるまでを綿密に綴ったノンフィクション文学の傑作だ」
 ロンにもわかりやすく要約したつもりなのだが彼の理解力の低さは僕の予想をはるかに超えていたようで、通気口から応答が返ってくるまでに3ページほど読み進めることができた。
 「……悪趣味だな。刑務所でんな本読むなよ」
 「優れた本はどこで読んでも面白い」
 実際読書は精神安定剤になる。客を待つ間の焦燥や不安を紛らわすための重要なアイテムとして図書室から借りてきた本は重宝している。危険物の持ち込みは不可と規則で定められてる仕事場にも無害だと見なされる小物、たとえば本などなら持ち込んでいいのだ。外出時間などには口うるさい看守もその点は寛容に見逃してくれる。
 「……面白い?」
 僕が本腰入れて読書に集中し、会話が途切れて寂しくなったのか、さして乗り気でもない口調でロンが聞いてくる。正直読書を邪魔されて鬱陶しかったが退屈を極めて話し相手を求めてるらしいロンを無視するのも大人げないので上の空で答える。
 「ああ。冴えに冴え渡る冷徹な筆致で綴られる事件発生までの過程と登場人物の心理を綿密に解剖しながらも余分な感情移入はさせない一定の距離感、第三者的に突き放した作者の視点が興味深い」
 「……おまえの説明聞くと面白くなさそうだな」
 「失礼だな。普段本を読まない人間に言われたくない」
 「今読んでるよ」
 「何の本だ」
 「ブラックジャック。こないだレイジが持ってきてくれた」
 「マンガか」
 「面白いよなブラックジャック」
 「何故なれなれしく同意を求めるんだ」
 「だってお前ブラックジャック好きだろう」
 「……ちょっと待て、だれに聞いた?」
 聞き捨てならない台詞に本の表紙を閉じ、膝からどかして腰を上げる。じっとしてることができずに通気口の下に歩み寄る。
 「レイジから。図書カードにお前の名前載ってたって……素直に白状しちまえよ」
 「白状するも何も事実無根だ。僕がマンガなんて稚拙な絵と吹き出しで構成された子供騙しの書物を読むわけがないじゃないか、誤解を招くような発言はやめてくれ。図書カードに記入されてた名前は……そうサムライ、サムライが僕の名前を騙ったんだ。ブラックジャックに熱中してるのは僕じゃない、サムライの方だ。ただ自分の名前でマンガを借りるのは恥ずかしいから僕の名前を貸してくれと頼まれて嫌々不承不承渋々、」
 「仲いいんだな」
 「なんだって?」
 「サムライに名前貸してやったんだろ。仲いいな」
 墓穴を掘った。
 失言を悔いて押し黙れば通気口からくっくっくっと奇声がもれてくる。しゃっくりの発作にでも襲われたかといぶかしめば奇声の正体はロンの笑い声だった。
 「……まったく不愉快な人間だな。読書の邪魔だからその不気味な笑い声は即刻やめてくれないか、癇にさわる」
 「お前は……」
 「なんだ?」
 「意外といい奴だな」
 眉をひそめる。
 「……昨日のことを言ってるなら誤解もいい所だ。君を庇ったつもりなど微塵もない、僕は僕がしたいように行動しただけだ」
 言葉に嘘はない。僕は別にロンを庇ったわけではない。ただ、四面楚歌の状況で非難の矢面に立たされて、この壁の向こうでそれでも俯かずに轟々たる非難に立ち向かってるのだろうロンを思い浮かべ反射的に口が動いたのだ。まあ、ロンに借りを返したかったのは否定しない。彼にはイエローワークの強制労働中頼んでもないのに助けてもらったし、借りはちゃんと返しておかないと気持が悪い。僕は完璧主義者だから貸し借りはきちんと清算しておきたいのだ。
 憤然とベッドに戻り、栞を挟んだページを開けばまた懲りずにロンが話しかけてきた。
 「俺さ、前に言ったよな。しんどくなったらサムライを頼れって」
 「………」
 「頼れよ」
 「断る」
 「断るなよ」
 「他人の世話にはならない」
 深いため息。
 『真地了(まじめすぎ)』
 『幼稚(ガキっぽいぞ)』
 「!?んだよ本当のことだろう、ひとりで意地張ってかってに自分追い込んでるくせに何でもないフリしてんじゃねえよ、見てるこっちが痛いんだよ!!いや正確には見てるわけじゃねーけど、通気口から声から聞いてるだけだけどさ!声だけでもしんどいのわかんだよ!」
 本から顔も上げずに台湾語で返せば短気なロンが何やら吠えているのが聞こえてきたが馬鹿を相手にして不毛な口論に終始する愚は犯したくないから無視する。僕がしんどいだって?余計なお世話だ、ロンに心配されるほど僕はおちぶれてない。こうやって平常心で読書できるのが僕が正気を保っている何よりの証拠じゃないか。ロンのお節介はもう病気の域だが今は他人のことより自分のことを心配するべきだ、と最もな忠告をしようと眼鏡のブリッジを押し上げー 

 その瞬間だった、ガラスが割れ砕ける不吉な騒音が耳をつんざいたのは。

 「なんだ?」
 通気口からロンの不安な声、周囲の房のざわめき。廊下に殺到する複数の足音、連鎖的に扉が開く音。何が起きたんだろう?どうやら緊急事態が発生したらしいと扉に駆け付けて開け放てば、僕の目の前を数人の看守が走り抜けてゆくところだった。
 「ついに出たか、自殺者が!」
 「ガキが頭から鏡に突っこんだらしいぜ」
 「顔なんか血まみれで鏡の破片が刺さりまくってるらしいぜ」
 「うわあ、ご自慢のツラが二目と見れなくなっちゃ客足遠のいて商売あがったりだな」
 「顔がつぶれちゃあ客も萎えるよな」
 「勃つもんも勃たなくなるさ」
 嫌な予感に駆られて廊下にとびだせば、異変を察して廊下にさまよいでてきた売春夫や上半身裸のあられもない姿の客で現場は既にごった返していた。着の身着のままの風体で行為を中断して野次馬にわいてきた客と売春婦、その注目を一身に浴びて担架で運び出されてきたのは見覚えある囚人。六日前、身体検査が行われた医務室で喉を振り絞るように恋人の名前を連呼していた……

 『おいまてよ聞いてくれよ!うそだよな、俺が売春班なんて冗談だよな?だって俺娑婆に彼女いるんだぜ、凛々って言ってさ、すっごいスタイルがいい美人で今でもけなげに俺の帰り待ってくれてるんだぜ?なのになんで男なんかに抱かれなきゃいけねえんだよこんなのってねえよ、凛々にあわす顔ねえよ!!』

 必死の形相でタジマの膝にしがみつき、なりふりかまわず情けを乞うていた囚人の顔が、目の前、顔面をしとどに血に染めて担架で運び出された少年に重なる。
 宙を掻き毟るような動作で腕を上下させ、息も絶え絶えに何かを呟く少年。
 「凛々……今会いに行くから、抱きに行くからな……」
 鏡の破片で切った頭からも出血してるらしい、意識朦朧と忘我の境地をさまよいながらも恋人の名を呼び続ける少年の姿が担架に乗せられて遠ざかってゆく。男に犯されている最中も恋人の面影を抱き、それだけを支えに今日まで生きてきた少年を見送り、振り向く。
 たった今少年が運び出された部屋からトランクス一丁の姿でふらりと出てきた客が「何があったんだ」と看守に警棒をつきつけられ、おどおどしながら弁解する。
 「知んねーよ、さあこれから本番って時にいきなり叫び声あげて鏡につっこんでったんだ。最初から頭おかしかったんじゃねえの、アイツ。なんかさ、鏡の中に女の幻覚見たらしくて……『凛々!』て絶叫して頭からつっこんでったんだ。本当だよ、嘘じゃねえよ。もうさ、幻覚でもいいから女抱きたかったんじゃねえの?そんくらい飢えてたんだよ。ハハハハ、俺じゃ不満なのかって話だよな。売春班の連中は皆男にヤられたほうがイイように仕込まれてんのに、」
 脂下がった顔と下卑た笑い声。ああ、この顔は知ってる、僕を組み敷いて今から思う存分犯そうと性欲に猛った今日まで十数人という客たちの―
 
 気付いたら、渾身の力をこめて廊下の壁を殴っていた。

 「………」
 あれだけ騒がしかった野次馬がしずまり、喧騒が止む。自己顕示欲むきだしの身振り手振りをまじえて自己弁明していた客も、廊下に残された血痕と鏡の破片とを後始末してた看守も、口々に勝手な憶測を述べていた野次馬連中も重苦しく押し黙って僕を凝視する。
 「黙れ、低脳」 
 そうだ黙れ、貴様ら全員黙れ、黙ってろ。お前らに何がわかる、僕達の何がわかる、うわ言のように恋人の名前を呟きながら担架で運ばれていった彼の何がわかる。何もわからないくせに、わかろうともしないくせに勝手なことを言うな。僕達が男に抱かれて喜んでるわけないじゃないか、いや、他の人間は知らないが少なくとも僕は喜んでなどいない、体を這い回る手も手首に食い込む縄も首筋を這う舌も強引に射精させられる屈辱も塩辛くて生臭い物を無理矢理口に突っ込まれて吐きそうになってそれでも死ぬ気で続けなけりゃいけない地獄もなにもかも、
 「何もわからないくせに、知ったふうな口をきくな」
 呆然とした看守と囚人を廊下に残して扉を閉める。鉄扉に背中を押し付け、深く深く深呼吸して俯く。他人のことで取り乱すなんて僕らしくもない、まったく僕らしくない。でもどうしようもなかった、感情が抑制できなかった。おもいきり壁を殴った手が痛い、リョウを殴った時よりずっとずっと痛い。

 僕は不感症だが、心まで不感症になったつもりはない。

 固い壁を殴ればちゃんと痛いと感じる、手が砕けそうな衝撃に脳髄が痺れる。本を読んで面白いと感じる、漫画を読んで不覚にも面白いと感じ、その事に戸惑って隠そうとする。
 人は常に感情と感覚に左右されて生きてる。
 殴られたら体も心も痛いし、取り替えのきく玩具のように粗末に扱われたら自尊心が傷つく。でもいちばん怖いのは、そういう風に扱われるうちに自分がそう扱われても仕方ない人間だと思えてきてしまうことだ。
 ゆっくり、ゆっくりと、心が死に始めている。
 もう限界かもしれない、どうやら僕は自分がそうありたいと願っていたほどに強い人間じゃなかったようだ。ずっとずっと惠の兄にふさわしい人間になりたくて努力してきたのに、惠に認めてもらいたくて足掻き続けてきたのに、遂にはその努力も報われずにこんな所で終わろうとしている。
 ぶざまだな、鍵屋崎直。
 『俺さ、前に言ったよな。しんどくなったらサムライを頼れって』
 ロンの声が脳裏に響く。そうだ、たしか以前そんなことを言われた記憶がある。あの時は鼻で笑い飛ばした台詞が今は笑い飛ばすことができない、狂気に浸食されかけて自分を見失いかけた今は無視することができない。僕だってそうしたい、サムライに頼れるものならとっくにそうしてる。でもできない、できないんだ。僕は天才だから、不可能を可能にすることができる人間だからどんな過酷な苦境だって独りで耐え抜けるはずなんだ。僕はこれまでそう信じてきたしこれからもずっとそう信じ続ける、だれかによりかかってはだめだ、惠を守る為には他人によりかかってなどいられない、たとえそれが戸籍上の両親でもよりかかることができなかったんだから―

 「いつまで客待たせんだよ」

 横柄な声に反応してゆるやかに顔を上げればいつのまに来ていたのだろう、ベッドに看守が腰掛けていた。直感した、客だ。前にも一度僕を買いにきたことがあるからすぐわかった。おそらくは僕が廊下に出ている間に入れ違いに入室したのだろう、苛立たしげな様子で立ち上がった看守が犬でも呼ぶみたいに僕を手招く。
 足をひきずるように看守のもとへ向かう。徐徐に縮まりつつある距離。目の前で看守がポケットからとりだしたのは……ロープ。何をされるかはわかっていた、以前にもされたことがある。だが売春夫に拒否権はない、逆らったらもっと酷い事をされる。無駄な労力は使いたくないと諦念に至り、看守に命じられて上着の裾に手をかける。上着を脱ぎ、ズボンを脱ぎ、下着を脱ぎ、完全に裸になる。
 全裸の僕を手招きしてすぐそばに呼び寄せた看守が手の中のロープを扱きながら命じる。
 「手を出せ」
 命令どおりに手首をそろえてさしだせば早速縄をかけられる。ちょうど縄目の鬱血痕に添って手際よくロープが巻かれてゆく過程をぼんやり観察しながらついさっき、意識の表層に上らせた考えを反芻する。

 さっき僕は、死んだほうがマシなことなどこの世にあまりないと言った。
 だが、今のこの状態を「死んだほうがマシだ」以外に説明する言葉がない。
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