少年プリズン

まさみ

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百三十二話

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 「また来てやるよ」
 鉄扉が閉じる音を聞きながら額の上で腕を交差させる。
 鼻歌まじりの足音が遠ざかってから上体を起こす。床には上着と下着が散らばっている。自分で脱ぐ場合は枕元にきちんと畳んで衣類を置くのだが客に脱がされる場合そんな暇ない、一刻も早く行為に及びたいと急いた客に毟り取られるように服を脱がされてベッドに押し倒されたら衣類をかき集める余裕などなくなる。
 上体を起こすにも細心の注意を払わなければ。行為を終えた直後は体の中が熱い、腸に熱を放たれて体内温度が上昇している。今の客はコンドームを着用しなかったから早急な洗浄の必要がある。しかしコンドームの着用を射精の瞬間まで断固拒否した点を除けばそんなにひどい客でもなかった、僕がこれまでに接してきた客の中ではやさしい方だ。

 勘違いしないで欲しいが、この場合の「やさしい」は「殴らない」と同義だ。

 売春班に人権を認めてない連中の中には売春班が少しでも反抗すれば嵐のような暴力を振るう輩がいる、また純粋に快楽が目的で暴力を行使する嗜虐的な性的傾向の客も少なからず含まれる。もともとここは刑務所なのだ、暴力と犯罪の温床で生きてきた社会の落伍者が一堂に収容された環境で他人に苦痛を与えることを至上の快楽とするサディストがいない方がおかしい。ノーマルな性的嗜好をもつ外の女性相手には実現不可能な歪んだ性的空想も刑務所の中という巨大な密室、弱肉強食の力関係に支配された特殊な環境下では実現することができる。刑務所の中でおきたことは外部に隠蔽されて闇から闇へと葬り去られるのが暗黙の掟だ。刑務所で何が起きても闇から闇へ葬り去られ個人の秘密が漏洩しないという大前提があるからこそ売春班を買いに来た客は人間の尊厳を蹂躙するような真似ができるのだ、看守も囚人も関係なく。その筆頭がタジマだ。
 
 早くシャワーを浴びなければ。

 気だるい体に鞭打ち、床に素足をおろす。裸足の足裏にむきだしのコンクリートの感触。足をひきずるようにシャワーの下に立ち、コックを捻る。ちょうどいい温度に保たれた温水が慈雨のように頭上に降り注ぎ生気がよみがえる。濛々とたちこめる水蒸気に視界が覆われて何も見えなくなる。そうだ、眼鏡をとるのを忘れていた。眼鏡をかけたままシャワーを浴びた失態に気付いた僕は慌てて外そうとして弦に触れ、もう手遅れだと指をおろす。
 眼鏡のレンズは水蒸気で曇って何も見えない。こっちのほうがいい。
 いちばん最初の客は例外として、以降客と行為に及ぶ時は眼鏡を外すようにしている。行為のはげしさで眼鏡が壊れてはたまらない、また、腕がぶつかったり弾いてしまったりなどの事故が起きないように大事をとり枕元ではなく洗面台の縁に弦を畳んで乗せている。眼鏡を外すには他にも理由がある。
 僕を抱いてる客の顔を見たくなかったのだ。
 誰が自分をむさぼるように抱いてる男の顔を見たいものか、肉食動物の意地汚さで涎を垂らして呼吸を喘がせて性欲で目をぎらつかせてうごめく相手の顔をじっくり観察したいものか。眼鏡さえ外していれば客の顔を見ずにすむ、僕を陵辱して悦に入ってる顔を見ずにすむ。
 だが、今の客の場合服を脱がされた直後にベッドに押し倒されたせいで眼鏡を外す暇がなかった。仰向けに寝転がった姿勢の僕はベッドに手足を投げ出したまま客の頭越しの天井ばかり見つめていた。無機質で幾何学的な配管むきだしの寒々しい天井……
 シャワーのホースを手に取り、足の指の間から首周りに至るまで丁寧に洗い流す。体に付着した汗やその他の粘液をくまなく洗い流して肌を擦る。どんなに洗い流しても落ちることない汚れが体内に澱のように沈殿してる。僕を内側からむしばんで腐らせてゆく汚れ。洗っても洗っても落ちることがないのは体の痣。発疹のような赤い痣が全身の広範囲に散らばっている、シャワーに上気した肌に鮮明に浮かび上がるそれは何かの烙印のようだ。

 売春班に配属されて五日が経ち、大分体も慣れてきた。

 最初の激痛をやり過ごしてさえしまえばあとは何とか耐えることができる、腰を掴まれ揺さぶられても耳朶を噛まれても声を殺すことができるようになった。客の反感を買わず殴られないようにするためには受動態でいることだ、決して逆らったりせず従順に従うフリをすることだ。たとえどんな無茶な注文をされて無理な要求をされたとしても拒否してはいけない、受け入れるんだ、許容するんだ。許容して適応して順応するんだ、それしかここで生き延びる術はない。無抵抗で受動態で従順に抱かれていれば客だって機嫌を損ねたりしない、暴力で応酬されることもない。何をされても無抵抗に徹していれば勝手に射精して満足して帰ってくれる。  
 客に抱かれてる間は感覚が麻痺したような無反応に徹する。
 以前ロンに『不感症は便利だな』と揶揄されたがそれは事実なのだ、一面では。性的快感を一切感じないように出来ている僕はどんなに乱暴に抱かれても、また、反対にどんなにやさしく愛撫されたとしても甘い性感に溺れることはない。客の機嫌を損なわないよう快感に喘ぐ演技はできるが自ら進んでしたいようなものではない、自分を抱きに来た同性に媚を売るなんて虫唾が走る。

 だが、快感に喘ぐ演技で首を傾げることによって間近で客の顔を直視するような忌まわしい事態を避けれるのは有り難い。

 熱に冒されてる間は意識が朦朧としている。頭は理性的に冷めているのに体は熱く火照っていて、その温度差が生み出した靄が頭の芯に纏わりついて今行われてることの現実感が薄れてゆく。以前、幼少期から実父に性的虐待を受けてきた女性の症例を心理学の本で読んだことがある。その女性はあまりに過酷で辛い現実から逃避するために、父親に犯されてる間は一種の幽体離脱状態になって意識を隔離する術を身に付けたという。意識の一部を切り離した彼女は部屋の上空に浮遊した状態で、父親に陵辱されてる自分の姿をまるで他人事のように観察してたという。

 僕には何故、彼女がそんな不思議な体験をしたかわかる。

 たとえば幼少期の記憶を思い出すとき、ひとは記憶の中の自分と視点を共有してるわけではないと気付くだろう。過去のある一場面を回想するときは必ず「自分を見ているだれかの視線」に同調する。記憶の中の自分の視点ではなく、第三者の視点で自分を見下ろしてるような錯覚と距離感を生じさせる原因は脳の処理過程にある。ふとした折に過去の記憶を呼び出す際、過去の自分から今の自分という変化を経た過程に齟齬が生じる。人は常に変化して進化して成長しつづける生き物だ、記憶の中の自分は既に過去にしか存在することができない虚構であり現在を生きる自分はこうしてる今も刻一日、刻一瞬と活発な新陳代謝をして変わり続けている。
 辛い出来事を客観的に分析するのはその出来事が一種の虚構だと、今の自分には関係ない出来事だと自己暗示をかける為の手段だ。実父から日常的に虐待を受けていた彼女は過酷な体験を許容するために自動的に意識を乖離させる擬似幽体離脱ともいえる症状を呈した、そうしなければ到底自分の身に現在進行形で起きていることを受け止めきれなかったから、生き延びられなかったから。
 今現在、僕の身に起きていることにも同じことが言える。

 まさか刑務所に来て男に抱かれることになるとは思わなかった。しかも、それがこんなに苦痛なことだとは。

 心地よいシャワーに打たれながら、倒れるようにコンクリートの壁にもたれる。
 シャワーにぬれそぼって一面黒く変色した壁に額を預け、呟く。
 「疲れた……」
 疲れた。本当に、疲れた。
 一日でいいからゆっくりと眠りたい。安眠したい、熟睡したい。売春班のことなど忘れて、コンドームを補給しなければなんて憂慮せずにぐっすり眠りたい。夢なんか見なくていい、暗闇でいい。泥のような眠りの中で何も気に病むことなく体を休ませたい、羊水の安息に浸かりたい。
 そして、惠を抱きしめたい。
 精神に異常をきたした僕が何もない虚空に見た幻でも構わない。惠のそばにいきたい、惠に会いたい、惠を抱きしめて安心したい。
 身を庇うように二の腕を抱き、正面の壁に額を押し付ける。
 惠を抱きしめることができるなら他になにもいらない、惠を抱きしめることによって僕自身抱きしめられたい。もう疲れた、二本の足で立つのだって限界なんだ。だれかに支えて欲しい、だれか―
 「………最悪だな。僕はいつから臆面なく人の助けをあてにするような惰弱な人間に成り下がったんだ」
 ついさっきサムライに別れを告げてきたくせに、サムライの好意を無にするような振る舞いをしたくせに。
 思い遣りが重荷だと跳ね付けたくせに未練があるのか?あきれたな。僕はサムライに弱味を見せたくない、こんな情けない姿、人に見せられない姿に成り果てた僕を知られたくない。矜持がなくなったら僕は鍵屋崎 直ではなくなる、僕を僕たらしめてるのは今はもうこの継ぎ接ぎだらけのプライドしかない。
 弱味を見せることに抵抗がなくなれば精神的負担も減るだろう、と頭ではわかっている。だれかに依存するのはラクだ、庇護されるのはラクだ。自分の無力に免罪符を与えられる、自分の非力に言い訳できる。でも認めたくない、僕が無力で非力な人間だと認めたくない。なんで僕が、IQ180の知能指数の持ち主で、この刑務所に収容されてる囚人の中で誰より頭がよくて物を知ってるこの僕が自分の無力に甘んじることが許される?弱いことを言い訳にしたくない、弱いことを誇りたくない。僕は今でもまだ惠の兄でいたい、惠に頼ってもらえる強い兄でいたい。

 惠を失望させたくない。
 サムライを失望させたくない。

 僕は卑劣な人間だ。 
 サムライを哀しませるより失望させるほうが嫌だった。僕が生まれて初めて妹以外に認めた人間に今のこの姿を見せて失望されたら僕は立ち直れない。服を脱いで生まれたままの姿を晒してサムライに失望されるのが怖かった、僕自身服を脱いだ体を洗面台の鏡に映すたびに圧倒的な生理的嫌悪に襲われて吐き気がこみあげてきた。
 自分でさえ正視できない姿が、友人といえど所詮は赤の他人に正視できるはずもない。受け入れられるはずもない。いや、服を脱がなくても同じだ。売春班で客をとらされつづけるかぎり服の下の痣は消えることがないのだから。
 サムライを失望させるくらいなら、このさき八つ当たりしてしまうくらいなら、友人関係を解消したほうがずっとマシだ。





 無。
 虚無。






 ……意識が途絶えていた。
 どうやら壁によりかかったままうとうとしてたらしい。シャワーを出しっぱなしにして寝たら風邪をひく、と見当違いな危機感にかられコックを捻って湯を止めようと手を伸ばす。いつ次の客がやってくるかわからない、早く用意しておかなければ。どうせすぐ脱ぐのだとしても服は着ておきたい、まあ客にしてみれば全裸のほうが都合良いかもしれないが。
 突然、シャワーが止まった。
 「?」
 コックを捻る直前だった。まだ手を触れてもいない。何故予告なく止まったんだろう、断水だろうか?まいったな、シャワーを浴びれないとなると色々支障がでる。前髪から水滴を滴らせながら沈黙したシャワーを仰ぎ、考える。
 いや、断水にしては様子がおかしい。現に断水ならすぐに修理に駆け付けてくるはずの看守が一向にやって来ないではないか。ということは故意に止められた?…まさか。ある可能性に気付き、眼鏡をとって通気口の奥を見つめる。
 シャワーを浴びれなければ確かに支障はでる。しかし命に別状はない、ただ一人を除いて。水道水を止められ、水の補給を断たれたことにより深刻な危機に瀕する人間は売春班でただ一人。
 ロンだ。
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