少年プリズン

まさみ

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百二十七話

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 腹が減った。
 起き上がろうとして体に力が入らないことに愕然とする。そんなバカな、嘘だろう。宙に手をのばしてもがくように空気をむしりとる。大気に溺れる。頭上に翳した手がやけに遠かった。意識が朦朧としてるせいで距離感が狂ってるのかもしれない、天井中央の蛍光灯の光を遮るように掌をかざせば五指の隙間から黄色い光が射してくる。肉の薄い掌、静脈を青白く透かして降り注いだ光が眩しくて目を細める。ぼやけた蛍光灯の明かりが涙腺に染みて目が痛かった。腕をおろしてベッドに手をつき、のろのろと上体を起こす。
 篭城三日目。
 ……のはずだが確証はない。栄養不足のせいで頭の回転が鈍くなってる、覚醒してる時間より睡眠時間のほうが長いからたんに寝ぼけてるだけかもしれないがそれにはちゃんとわけがある。眠りさえすれば空腹を忘れられる、いやなことは全部忘れられる、今自分がおかれた最悪の状況も少しの間だけ忘れられているのだ。昨日のことも今日のことも明日のことも気にせず、何も考えずに眠るのはいちばん安易で手っ取り早い現実逃避の手段だ。これからさきのことをつらつら考えて悲観するのは凄まじく精神力を消耗する、一旦眠りの世界に逃げ込んでしまえば苦痛しか生まない現実にも目を背けていられる、隣り合わせの地獄が浅い眠りの中に生々しい音声とともに土足で踏み込んできても一過性の夢だと思えばまだ救いがあるのだ。
 それだけじゃない。
 眠りさえすればこれ以上空腹を意識せずにすむ、体力を温存しておける。たとえ胃酸過多で胃に穴が開きそうでも食い物の夢ばかり見て滝のようにヨダレをたらしても今現在の俺にとって眠りは唯一の救いだ。
 「…………」
 かぶりを振り、眠気を払拭。床に脱いだスニーカーに踵をもぐりこませる。二本の足で立とうとしてちょっとよろけてベッドの背格子を掴む、一瞬立ち眩みにおそわれて視界が歪んだ。おかしい、胃袋は軽いのに頭は重たい。眩暈をこらえて片手で頭を支え、奥歯を食いしめて足腰を踏ん張る。
 空腹感なんて生易しいもんじゃない、ここ三日間、寝ても覚めてもじわりじわりと胃袋を締め付けてきた空腹感は今や飢餓感に達している。
 片手で背格子を掴んで眩暈が去るのを待ちながらもう一方の手を腹に回す。しっかりしろ、胃袋。三日間なにも食ってないくらいでなんだ、水だけじゃ不満なのかよこの根性なし。ガキの頃を思い出せ、お袋がいつもの癇癪起こして飯抜かれたことだって一度や二度じゃないだろう、この位でへこたれるな。服の上からぺたんこの腹を抱いてどやしつける。そのままの姿勢で萎えそうな足をひきずって洗面台に向かう。たった5メートルばかりの距離がはてしなく遠く長かった、途中で膝を屈してばたりと倒れてしまいそうだった。東京プリズンを脱走して砂漠を越える途中で餓死、ならまだ格好がつくが男に体売るのいやさに必死で抵抗してたてこもって餓死なんて情けなさすぎる。
 『ざまあみろ、俺に逆らったのが仇になったな』
 それみたことかと哄笑するタジマの憎たらしい面が脳裏に浮かび上がり体の奥底で熾火が燻り始める。冗談じゃねえ、俺はお前に逆らったことを後悔なんかしてねえ……少なくとも今はまだ。はげしくかぶりを振って得意満面なタジマの顔を振り払い、力強く歯噛みして前を向く。ここで死んだらいい笑い者だ、ミイラ化した俺の死体を片付けにきた連中に「ざまあねえな」とせせら笑われて唾吐きかけられるみじめな死に様はお断りだ、俺はなにがあってもどんな手を使っても生き延びてやる。

 絶対にタジマの思い通りになんかなってやるもんか。

 青息吐息、一歩ずつ慎重に足を運んで洗面台に辿り着く。洗面台の縁に上体を預けて焦れた手つきで上に向けた蛇口を捻る。勢いよくあふれだしたのは大量の水、透明な軌跡を描いて洗面台の底を満たして排水口の暗渠へ吸い込まれてゆく水を両手で受けるのもまどろこっしく蛇口にかぶりつく。蛇口にしゃぶりついて夢中で水を飲み干す、俺の足もと、床の遥か下の水道管から汲み上げられた水が唇を湿らし喉を潤し全身の細胞の隅々まで染み渡る。蛇口からあふれた水が口の端を滴りぬれた筋をひいて首筋へと流れる、それでも俺は止めない、まだ止めない、まだ足りない。胃袋を水で一杯にするまでは、胃袋を水で満たして空腹をごまかすまでは。
 手の甲で口を拭いながら蛇口を締める。滝のような流れが次第に弱まり、点々と水滴を落として収束する。あんまり夢中でしゃぶりついてたもんだから上着の胸が水を吸って湿っていた、ぬれたシャツが薄い胸板にはりついて気持悪い。襟首に指をひっかけ、軽く揺すりながら房を見渡す。
 この三日間ですっかり見慣れてしまった房だがさっぱり愛着がわかないのは何故だろう。決まってる、ここには忌まわしい思い出しかないからだ。周囲の房から昼夜問わず響き渡るのは喘ぎ声と罵声と呪詛と悪態、壁向こうで何がおこなわれてるか、どんなおぞましい行為が繰り広げられてるか強いて想像しないようにしてきたが通気口から漏れてくる生々しい音声が無関心を気取るのを阻む、隣部屋で行われてることを無視するなと、耳を塞ぎ目を塞ぎ俺だけ安全圏に逃れた気になるのは許さないぞと脅しをかけてくるのだ。

 強迫観念、焦燥、罪悪感、自己嫌悪。

 さっき俺は眠りだけが唯一の救いだと言ったが夢の中でも本当に救われたわけじゃない。お前は腰抜けだ、卑怯者だ、売春班の仲間が今頃どんな目に遭ってるか知ってるくせに知らん振りを決め込んでる、自分さえ助かればそれでいいと保身に逃げた最低の人間だ、ほら聞こえるだろう通気口から降ってくる喘ぎ声が、痛くて痛くて死に物狂いで泣き叫ぶ声が。なんで助けに行かないんだ?自分の身がかわいいから?他の連中はみんな泣く泣く客をとらされて生き地獄を味わってるのにお前はそれでいいと思ってるのか?頭の裏側でだれかがずっとささやいてる、俺の心の裏側の後ろ暗い部分を的確に突きまくってる。
 夢の中でずっと聞こえてたその声が俺自身の声だと気付くのは寝汗をびっしょりかいて飛び起きてからだ。俺を容赦なく責め立てる良心の声に耳をふさぐことはできない、なぜならその声は耳の内側から発せられ直接鼓膜に響いているから。いや、鼓膜じゃない、心か?ちょうど心臓のあたり、魚の小骨を飲んだように息苦しい圧迫感にふさがれた喉から胸のあたりにかけて声が響くのだ。
 
 俺は仲間を見捨てた卑怯者だと。
 鍵屋崎を見捨てた腰抜けだと。

 そうだ、そのとおりだ。開き直るわけじゃないけど俺が鍵屋崎を見殺しにしたのは動かし難い事実だ、だったら認めるしかないじゃないか、受け入れるしかないじゃないか。たとえどんなに事実から目を背けたくても現実を否定したくてもちゃんと証拠がある。
 声だ。
 「あ、ああっ、あっ」
 「!」
 まただ。
 洗面台の縁にしがみつき、その場に膝を屈して声が頭上を通り過ぎるのをひたすら待つ。苦痛と表裏一体の快楽、熱に溺れたガキの喘ぎ声がベッドが律動的に軋む音と一緒に流れてくる。はやく終われ、はやくはやく。一心に願い唇を噛み締める、壁向こうの喘ぎ声を床にしゃがんでやりすごそうとする。
 願いむなしく声は一向に止まない。腰をつかまれて揺さぶられて頂点に追い上げられているのだろう、艶を増して大きくなるばかり。
 「うるせえよ」
 軋り音が鳴るほどに奥歯を噛み締める、強く強く噛み締める。獣じみて生臭い息遣いもベッドが壊れそうに軋む音もしどけなく放り出された踝がシーツを蹴る悩ましげな衣擦れの音も甘くぬれた吐息もうるさい、うるせえ。耳に入ってくるな消えちまえ、もう俺にかまうな、かまわないでくれ。頭を抱えるように背中を丸めてうずくまる、通気口に蓋をしたい、塞いじまいたい。なんで俺は通気口の鉄格子に手が届かないんだ?もうちょっと身長があれば鉄格子を力任せに揺さぶって『黙れ』と吠えることができるのに。
 「あっ、まだだめっ、やめ……」
 「なにがだめだよ、もう準備万端じゃねえか」
 「もう本当に勘弁してくれ、体がもたねえ……」
 「なに言ってんだ、まだ三回しかイッてねえじゃんか。おたのしみはこれからだ」
 「死ぬ、こんなの死ぬ」
 「じゃあ死ね、腹上死しろ。いや、この場合は腹下死か?」
 隣。向かい斜向かいその隣隣隣。延延と連鎖する房という房は内部に設けられた通気口で全部繋がってて声がだだ漏れの状態だ。哀願懇願嘆願、それを鼻で笑う客の悪態罵倒呪詛そして舌打ち。時折聞こえてくる肉と肉がぶつかる鈍い音は粗相をやらかした囚人が折檻されてる音だろうか、客の怒りを買ったガキが床に手をついて泣いて謝って、その謝罪が終わらないそばから口にペニスを含まされて嗚咽だか苦鳴だか判断しがたい苦しげな声でうめいてる。
 いつまで続くんだろう。
 長時間耳をおさえこんでたせいで鼓膜が麻痺し、掲げっぱなしの手首は血液が降りて白く強張ってる。短い休憩時間を終えて帰って来た売春班の面々がまた客をとりはじめてから何分、何時間が経つんだろう。俺はあと何時間この声を聞いてればいいんだろう、あと何時間我慢すればいいんだろう。

 帰りたい。

 本当に唐突に、水面に浮上した泡のようにその言葉が意識の表層で象を結んだ。帰りたい?どこへ?俺が帰る場所なんてどこにもないのに、迎えてくれる人間なんてだれもいないのに。俺が帰ってきたからって喜んでくれる人間なんかだれも、ひとりもいないのに。
 そうだろ、お袋。
 お袋の口から「おかえりなさい」なんて聞いたことがない、ノブに手をかけてがちゃりと捻った拍子に灰皿ぶん投げられたことはあっても笑顔で迎えられたことなんかない。俺はお袋にとって厄介者だった、疫病神だった、自分を捨てて女と行方をくらました憎い男の忘れ形見で俺の顔を見るたびにやり場のない憎しみを懇々と募らせてたはずだ。
 池袋のアパートにはいまさら帰れない。お袋のところには顔を出せない、どうせ拒絶されるのが目に見えてる、なんで帰ってきたのかと白けきった目で侮蔑されるのが目に見えてる。いや、どうせ帰れないんだ。俺の懲役は18年だけど懲役を終える前に東京プリズンで死ぬかもしれない。水しか口にしてない今の状態が続けば遠からず確実に餓死するだろうと断言できる。
 じゃあ、俺はだれのところに帰ればいいんだ?
 答えなんかはなから期待してなかったのに、その支離滅裂な問いに反射的に思い浮かべたのは見慣れた顔。明るい藁束のような茶髪を後ろに流して襟足で一本にまとめ、切れ長の双眸に薄茶の瞳を嵌めこんだ甘い顔だちの男。せっかくの美形を台無しにする品性卑しい薄笑いを浮かべた男の面には腐るほど見覚えがある、東京プリズンに収監されてからのこの一年と半年間ずっと一緒にいた……
 レイジ。
 バカだ。見返りを期待するのはもうやめたはずなのに、俺はまだ心のどこかで期待してる。一縷の希望を捨てきれないでいる。あいつにひどいことを言ったのに、俺のことを心配してくれたあいつにひどい言葉をぶつけて追い払ったのにまだあいつの隣に居場所があると思ってやがる自分が調子よすぎて笑えてくる。自分で自分が帰る場所をつぶしておいて今更なに調子いいこと言ってるんだ、虫がよすぎるにも程がある、自分に反吐が出る。
 もうあいつのことなんか忘れろ、忘れちまえ、覚えてたってなにもいいことなんかない。もう俺の夢に図々しく顔だすな、胸糞悪いツラ見せるな。何も知らないくせに『がんばったな』なんて言うな、俺はそんなこと言ってもらう資格なんかないのに。 
 あの時、鍵屋崎の嗚咽に背中をむけてベッドを扉に押し付けた時点でそんな資格は奪われたのに。
 強く強く耳をふさぎ強く強く目を閉じてレイジのことを忘れようとする、何が何でも忘れようとする。もうこんなみっともない真似やめろ、自分をみじめにするだけだ。レイジが会いにきてくれるわけないのに、またレイジと軽口叩けるかもしれないなんて淡い期待を抱いたぶんだけ報われなかった喪失感は大きいのに。
 こうなったらなにがなんでもレイジへの未練を断ち切ってやると半ばムキになって奴の顔を打ち消そうと努め、

 扉が開かれる。

 「!」
 開かれたのは俺の房じゃない、隣の……鍵屋崎の房の扉だ。鍵屋崎の房に客が来たのだ。それまで俺は周囲から押し寄せてくる声の混沌からバリアを築いて身を守るのに精一杯で隣の房でひとりぼっちの鍵屋崎がどうしてるかまで気が回らなかった。存在感を消してたから気付かなかったのかもしれない。鍵屋崎の房に客が来た。その事実が脳細胞に染み渡り、これから待ち受けてる展開を予想して息苦しいほどに動悸が速まる。
 耳を澄ます。通気口から聞こえてきたのはかすかな話し声。鍵屋崎と客が何かを話してるが声が小さくて内容までは聞き取れない。この後の展開を予想して食い入るように通気口の奥の闇を凝視する。
 衣擦れの音。
 自発的に脱いでるのか無理矢理脱がされてるのかわからないが、乱闘の物音が聞こえないことから察するに諦念して自分で脱いでるのだろう。生唾を飲み込み、瞬きも忘れて通気口の闇を見つめる。辟易したような表情で上着を脱いで裸の上半身を晒した鍵屋崎の姿があざやかに脳裏に浮かぶ。男にしておくのが惜しいような白い上半身に散っているのは淫らな行為の痕跡を留めた赤い痣……無数のキスマーク。実際目撃してるわけでもないのに壁越しの光景を肉眼で見るように立体的に想像することができるのは耳が異常に敏感になってるからだ、極限状況下で研ぎ澄まされた聴覚は俺が聞きたくない物音や声まで漏らすことなく拾い上げてしまう。 
 衣擦れの音が二人分重なり、両者裸になり準備万端―

 その時だ、シャワーのコックが捻られたのは。

 「………」
 コンクリートの床を叩く水音、蒙蒙と立ち昇る水蒸気が視界に浮かぶ。それが合図だった。ぴたりと耳をふさいで頭を抱え込む。この三日間、鍵屋崎の房に客が訪れる度にしてきたことだ。壁越しにシャワーが捻られ湯が出しっぱなしにされる。シャワーを出しっぱなしにすれば声は水音にかき消されて俺のもとまで届かないと鍵屋崎は計算してるのだろう。声を消すにはどうすればいいか冷静に計算できる、ということはまだ一握りの理性が鍵屋崎の中に残ってる証拠だ。鍵屋崎の声を聞かずに済むことよりそっちに安堵する。
 でも、頭の片隅に醒めた理性を残したまま行為に挑むのは本人にとっちゃより辛いかもしれない。  
 そんなことを漠然と考えてるうちにコトが始まったようだ。裸足の足裏が床を浸した水溜りを弾く音、頭上から降り注いだ湯が肌を叩く音。今頃どんな体位をとらされどんな行為を強いられてるんだろう?俺にみっともない姿を見せたくないと強情張ってる鍵屋崎のプライドを守る為にも考えないようにしたいが、考えないようにしようとすればするほどそのことばかり考えてしまう。
 固唾を呑んで殺風景な壁を見つめる。今、この壁の向こうで何が行われてるのだろうか。
 知りたい気持ちと知りたくない気持ちがはげしくせめぎあっている。葛藤。思考の悪循環に悪酔いしながら灰色の壁を眺めていたら耳朶を打つノック音。どこから聞こえてくるのだろうと通気口を見上げて音源を辿り、今まさに鍵屋崎が客を相手してる房から聞こえてくるのだと気付く。何の音だ?不審を募らせて壁に歩み寄り、ちょうど音が響いてくる高さに五指を置く。

 ああ、わかった。わかってしまった。

 音の正体に気付いた途端、俺は無力感に打ちしひしがれて深く深く頭を垂れた。壁越しの鍵屋崎に謝罪するように頭を下げた姿勢をとり、やりきれなさに震える拳を顔の横にあてがい、発狂したように咆哮したくなる衝動を血が滲むほどに唇を噛み締めてなんとか封じて。
 鍵屋崎が今、どんな姿勢をとらされてるかわかった。壁に手をついた前傾姿勢をとらされ、後ろからはげしく責め立てられているのだ。そうやって壁に両手をついて屑折れそうな上体を支えながら、力一杯奥歯を噛み締めて悲鳴を殺して迸るシャワーに打たれている。シャワーの奔流に上気した背中を打たせながら無理を強いた姿勢をとり、断続的に突き上げられる反作用で助けを求めるように壁を叩いているのだ。拳で。
 平手にした五指を折り曲げ、やり場のない怒りと無力感を噛み締めながら壁をかきむしる。拳に握り締めた手を体の脇にたらし、震える。たぶん本人も無意識にやってるのだろう、助けを求めてるつもりなんかこれっぽっちもないんだろう。だが俺にはそう聞こえてしまう、俺が奴に対して抱いてる罪悪感を反映した幻聴かもしれないがそう聞こえてしまうんだからどうしようもない。でも、助けを求められたところでどうしようもない。今の俺になにができる、男にヤられるのいやさに駄々こねて閉じこもってる腰抜けになにができる?今すぐにでも壁をぶち抜いて鍵屋崎を助けることができたらどんなにいいか俺だってそう思う、でも無理なんだ、できないんだ。俺はやっぱり自分がかわいくて男にヤられるのは絶対いやで、壁一枚挟んだ隣部屋で鍵屋崎が今どんな酷い目に遇ってても指一本動かせないんだ。  
 何かを訴えるように連続していたノック音が次第に間隔をおき、弱まり、たどたどしくなってゆく。
 壁を叩く音に諦念が滲み始めている。こんなことをしても無駄なのに何をやってるんだろう、という自嘲的な響きもある。俺は金縛りにあったようにその場に硬直して、ノック音がだんだん小さく、よわよわしくなってくのを何もできずに聞いてるしかなかった。
 最後は本当に小さな音だった。壁を震動させて耳朶を打つ力もないほどよわりきったその音はそれまでのどんな音よりも、俺がこの三日間に聞いたどんな絶叫や悲鳴よりも長く長く耳に残り、直接心臓を打った。
 「不好意思」
 『ごめん』
 壁に手をつき頭を下げる。結局俺はこんなことしか言えない、鍵屋崎が辛いのになにもしてやれない。他の連中だってそうだ、毎日のように男に犯されて体を引き裂かれて泣いてるのに俺は卑怯にも知らん振りを決め込んでる。
 壁に額を擦りつけるように頭を下げて、ようやく思い出した。

 イエローワークに居た頃、俺がお呼びじゃないお節介を焼いてたびたび鍵屋崎を助けてやってたのは見返りを期待してたからじゃない。
 ただ、放っとけなかったんだ。
 弱音なんか一度も吐かず、なにもかも全部ひとりで抱えこもうとしてるアイツのことが気になってしょうがなかった。とっさに体を動かす時に打算なんてない、見返りとか報いとかそんなの全部後付けの感情だ、頭で考えるよりはやく体を動かしてアイツを助けちまってからその反動で湧き上がってきた衝動だ。

 「やっぱり最低だ、俺」
 中途半端に首つっこんで、中途半端に助けようとして、その結果がこれだ。
 いちばん辛い時に手をさしのべてやらないような人間がそれまで偽善を積んだ見返りを求めたからって報われるわけがない。 
 ノック音が完全に途絶え、シャワーがとめどなく床を叩く音だけが寒々しい空間に満ちる。壁に拳をおいたまま崩れるように膝を折ってずり落ちれば扉越しに足音が近付いてくる。顔を上げる。まただれか喧嘩を売りに来たのだろうか。それともタジマ?壁に手をついて立ち上がり、よろよろと蛇行しながら扉に歩く。懲りずに喧嘩を売りに来たバカだったら顔面に唾でも痰でも吐いて追い返してやる、タジマだったら……どうしよう。頭突きでもしてやるか。
 飽和した頭でどうでもいいことを考えながら扉の手前で立ち止まり、少しだけベッドをずらして隙間を広げる。斜めに傾いで扉ふさいでるベッドの上に飛び乗り、目を三白眼に据わらせて隙間を覗き―
  
 腰を抜かしそうになった。
 扉の向こうにいたのが、俺が会いたくて会いたくて、でもそんなの叶いっこねえと自棄になってた奴だから。

 俺と目が合ったそいつは少しばつが悪そうにはにかみ笑い、片手を挙げた。
 「よ」
 レイジだった。
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