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百二十六話
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食堂のパフォーマンスには度肝を抜かれた。
普段は手下をぞろぞろひきつれてがに股でいばりちらしてる裸の王様・凱が完全に出遅れたのもむべなるかな、レイジとサムライの行動は迅速だった。見事に呼吸の合った連携プレイで瞬く間に四人を倒したんだ、格の違いを見せ付けたってかんじ。レイジが椅子を蹴って床を走り抜けた一瞬で食堂が戦場に変貌した。食堂中の視線がレイジを追っていた、注がれていた。全員食事を一時中断し、手に食器を抱え、ほげっとフォークをくわえた間抜け面を並べて。
東棟の王様の異名は伊達じゃない。レイジがテーブルに立ち上がった瞬間、アルミ皿とフォークが飛び交う喧騒の戦場は華やかな舞台へと変貌して血塗られたフォークを片手にさげたレイジへと脚光が注がれた。一身に脚光を浴びたレイジ、しなやかに引き締まった全身から放たれていたのは食堂中を飲みこみ目が合った人間をひとり残らず意のままに従わせてしまうすさまじい威圧感。
レイジは強い。怖いくらい、強い。
でも、危うい。今のレイジには余裕がない。今のレイジなら食堂で宣言したことを実行するだろう、そう信じさせるだけの説得力の重みが一語一句にあった。まあこの期におよんでロンを買いに行くバカはいないだろう、からかい半分でロンに手をだしてレイジに殺されちゃあ割があわない。どっちにしろ今のレイジは危険すぎる、フォークで失明させられるのがいやならへたに近付かないほうがいい。
ポケットに手をつっこんで廊下を歩きながらこっそりと決意する。僕は今出張サービスを終えて房に帰る途中。いつもは房で客をとってるんだけどそうするとビバリーがひどく肩身狭そうなんで最近はこっちから客の所に出向いてやってる。僕はべつにビバリーに声を聞かれてもかまわないんだけどね、接客スマイルで客を見送って顔を真っ赤にしたビバリーからかうの面白いし。
まあ、僕は趣味と実益を兼ねてるからいいんだけど鍵屋崎みたいに上から命令されて売春を強要されるのはつらいだろう。いや、つらいなんてもんじゃない。鍵屋崎のことだからろくに女も抱いたことないだろうに刑務所に入って半年で売春班にまわされて何人もの男を相手にするよう強いられてるんだ、ここの連中なんか看守も囚人も屑ぞろいのサドばかり、ろくに前戯もせず、ならしもぬらしもせずにいきなり突っこんでくるようなバカばかりだし陸に上がったばかりの人魚姫よろしく歩くのだってつらいはずだ。
べつに鍵屋崎を心配してるんじゃない、改めて言うまでもないけど僕は鍵屋崎が嫌いだ。大嫌いだ。
それはそうなんだけど売春経験なら僕のほうが遥かに長いし、人生の酸いも甘いも噛み分けてきた娼夫の先輩として鍵屋崎が今現在おかれた境遇には顔をしかめずにいられない。好きでもない人間と毎日のようにセックスしなきゃなんないなんて、ありとあらゆる体位とテクを仕込まれて実践しなきゃなんないなんて普通の人間には耐えられない。鍵屋崎の場合そういう方面に淡白そうだし……マスターベーションもしたことなさげな潔癖症には生き地獄の日々だろう。神経がまいっちゃうのも時間の問題だ。
「つまんないな」
口に出してぼやく。僕は鍵屋崎のことが嫌いだからあいつが売春班にまわされて本来なら万歳ってかんじなんだけどすっきりしないのはなんでだろう。歯応えがないというか手応えがないというか……あっけなさすぎで拍子抜けした感が否めない。かってきわまりないいじめっこの理屈だけどアイツにはもうちょっと頑張ってほしかった。
なんて、今頃は僕の足の下でせっせと客をとっているのだろう鍵屋崎の行く末を憂いながら東棟へと帰る渡り廊下に足をむけようとして立ち止まる。物音。なんだろう?ちょっと興味を引かれてエレベーターができてからは使われてない階段へと足をむける。僕が今中央棟にいるのは図書室で営業してたからだ、本棚の影にかくれてヤるのってなかなかスリリングだね。癖になりそう。で、物音が聞こえてきた階段ってのは中央棟地下一階へと降りる用に設けられた物だ。目をつけたガキを物陰にひっぱりこんでヤキ入れたりケツ剥いたり、東京プリズンの囚人はとかくお行儀がよろしくないことで有名だから今度もまたその手の行為が行われてるのかなと好奇心からひょいと踊り場を覗きこんで……
目を見開いた。
中央棟地下一階、通称売春通りへと降りる階段の踊り場にいたのが僕のよく知る人物だったからだ。いや、よく知る人物なんて他人行儀には呼べない。たった今「絶対に近付かないでおこう」と最重要警戒態勢に入った奴だから。
レイジ。
いますぐ回れ右するのが賢い選択。もちろん頭じゃわかってるけど好奇心に負けた。レイジがなんでこんなところにいるのか、こんな人目のとどかない場所でなにをしてるのか気にならないわけがない。白馬の王子様気取ってロンを救出しにきたなら格好いいんだけどね、と含み笑いしながらこっちに背中をむけてるレイジに目を凝らし、レイジと対峙するかたちで壁際に追いつめられてる囚人に気付く。
「?」
蛍光灯が割れた薄暗い踊り場、轢かれた蛙のような不恰好なポーズで壁にへばりついてる囚人の顔は知らない。中央棟にいるってことはほかの棟のやつかもしれない。なんで売春班の仕事場が中央棟に在るのかって言えば全棟の連中が平等に買いに来るからだ、売春班は来る者拒まずで顔見知りでも赤の他人でも一度客に指名されたら文句言わずに受け入れなきゃなんないのだ。
おおかたレイジに詰め寄られてる囚人も売春班に用があるんだろう。蛍光灯の破片が散乱した荒廃した踊り場、人目を避けるようにふたり息をひそめたレイジと囚人とを壁に隠れて見てるうちに胸騒ぎがしだす。
なんだか様子がおかしいぞ?
「勘弁してくれよ……」
よわよわしい声に首をのばす。踊り場の壁を背中にした囚人が気弱そうな上目遣いでレイジを盗み見る。
「俺は手っ取り早くヌキにきただけなんだ、こんなとこで足止めくらってる時間はねえんだ。とっとと解放してくれ」
「だめだ」
闇を震わせて響いたのは低い声……レイジの声だ。甘くかすれた独特の響きがある、聞いてると癖になる声。
「気持ちはわかるけど行かせられねえな。もうちょっと付き合えよ」
「なんでだよ。つーかおまえだれだ、どこの棟の人間だ?正義の味方気取りで俺のジャマして何様のつもりだよ」
「王様のつもりだ」
どうやらレイジと対峙してる囚人は東棟の王様の顔をしらないらしい。東棟でレイジの顔を知らないやつはいないけど他の棟ならままありえる事態だ。他の棟の、それも末端の囚人が知ってるのは王様の名前と噂ぐらいだろう。
『東のトップはイカレてる』
『完全にイカレてる』
『べらぼうに強くてべらぼうにキレイな顔してるけどやることなすことめちゃくちゃだ』
『一度キレたら手がつけられない』
『いっつもへらへら笑っててどこに本心があるのかわかんねえ気持ち悪いやつ』
全部真実だ。
「ばかにしてんのか?」
「いや?真実を言ったまでだぜ」
顔を険しくした囚人にもレイジは動じない、掴み所のない笑顔でへらへら笑ってる。瓢瓢とした態度が癪に障ったのだろうか、「頭おかしい人間の無駄話に付き合ってられるか」と悪態をついた囚人が強引にレイジを押しのけて階下に降りようとするのを肩を掴んで引き止める。。
「気が短いなあ。もうちょっとお話しようぜ、な」
「うぜえんだよ」
きっと振り返ったレイジの手をぶち、かん高い音が鳴る。邪険に払いのけられた手を引き、赤く腫れた甲をさすりながらレイジはにやにやと笑っている。狂気の欠片を瞳に沈めたきなくさい笑顔。手をぶたれたことなんて全然気にしてないよ、というフレンドリーな演技で肩をすくめたレイジが軽快な大股で相手に歩み寄る。獲物をしとめにかかる豹を彷彿とさせるしなやかで隙のない歩行動作。ポケットに手をひっかけただらしない姿勢で長い足を踏み出す。三歩、二歩、一歩。
レイジが立ち止まる。
「お前がずっと粘ってた扉さ」
「?」
レイジはポケットから手を抜いてさえいない。何も行動を起こしてない。にも関わらず、踊り場は既にレイジの独壇場と化していた。口元に淡い微笑を漂わせ、精悍さと甘さとを黄金率で混ぜ合わせた魅力的な双眸を細め、少し媚びるように首を傾げてみせる。
「そんなにご執心なわけ?ほかにも売春夫はたくさんいて扉はずらっと左右に並んでるのにあそこから動かなかったじゃねえか」
「見てたのか?」
「なんだこいつ」と警戒した囚人があとじさり壁に衝突、鈍い音が生じる。壁と衝突した囚人の横に手をつき、前傾姿勢をとる。レイジが上体を屈めると色素の薄い前髪がさらりと額を流れ、長い睫毛に縁取られた完璧な造作の双眸を隠す。
「見てたよ、ずっと。『出て来い、出てこねえとぶち破るぞ』ってずいぶん威勢良く叫んでたじゃんか、どんどんドア蹴りながらさ。おかしくない?手っ取りばやくヌキにきたんなら他の奴でもいいだろう、三日間飲まず食わずでひきこもってるような頑固者にこだわる理由なんかねーじゃんか」
『三日間飲まず食わずでひきこもってるような頑固者』
ロンのことだ。ははん、読めてきたぞ。壁に身をひそめて踊り場のやりとりに聞き耳たてる。壁に片手をついて斜に構えて傾げて相手の反応を探るレイジ、相手がどうでるか楽しんでる風をよそおっているが実際そこまで余裕はないだろう。レイジの眼光に射竦められた囚人が唾を嚥下する、レイジに引けをとらないように虚勢を張って言い返す。
「俺のかってだろう。客にも好みがあるんだ、俺は強情なガキが好きなんだよ。三日間飲まず食わずでたてこもってるなんて根性あるじゃんか、さすがタジマご推薦のことだきゃある」
『タジマ』の名前にレイジの眼光がスッと鋭くなる。
「顔は知らねえけどタジマがああもこだわってんだ、ぜひともお相手願いたいね。三日間なにも食ってねえんならちょうどいい、俺の飴玉しゃぶらせてやるよ。俺の飴玉は喉につまっちまうほどでけえからさぞかし食いでがあるだろうさ」
ひひ、と野卑な笑い声をもらす囚人に相対したレイジの目の温度が急速に下がってゆく。口元に漂うのは低温の微笑、透徹したガラスを模した薄茶の目がいたずらっぽく輝く。
「俺が相手してやるよ」
耳を疑った。囚人もきょとんとしてる。予想外の展開に「え?え?」と仰け反り距離を詰めてきたレイジから反射的に逃れようとして、壁際に追い詰めらて身動きできず、逃れる場所がどこにもないと悟る。なに、なんだこの展開?壁に隠れて息をつめレイジの動向を見守る、壁を背中にした囚人の頭上に片肘置き、上から覗き込むように顔を近付けたレイジがほほえむ。
背筋にぞくっとくる淫らな笑顔。
「俺じゃ不満か」
「不満もなにもおれは売春班の娼夫買いに来たんだぜ、なんでどこのだれかもわかんねえおまえなんかと」
「不満なのか」
「いや……」
物欲しげに喉を鳴らし、頬を上気させた囚人がなめるようにレイジを流し見る。レイジに誘惑されて拒む奴は実際そんなにいないだろう、男だろうが女だろうが関係ない。いや、その手の趣味がない男なら拒絶できるかもしれないけど見わたすかぎり男っきゃいないむさ苦しい環境に頭のてっぺんまでどっぷり染まった囚人の大半はそんな理性を持たない。いつもは表情を崩してることが多いからわかんないけど真顔になったレイジは文句つけようがない美形だ。明るい藁束のような茶髪は天然物、東洋と西洋の混血の産物の肌はなめらかな褐色でしなやかな張りがあり四肢は過不足なく引き締まってる、僕みたいなちびのやせっぽちからすりゃため息をつきたくなるくらい見栄えのする長身で敏捷な豹のように美しい筋肉が肢体に映えている。
そして顔。
ロンと一緒にいる時とはまるで別人、とまでは言えないけど、少なくともロンとじゃれあってるときはこんな淫らで挑発的な笑顔を見せたりはしてなかったはずだ。ロンをからかってるときのレイジは本当にたのしそうにはしゃいでて笑顔に裏がないように見えたのに、今のレイジは笑顔に裏があることを隠そうともしてない。
表情と本心がまるで重なってない、両者が完全に分離した笑顔。
「売春班なんか買うなよ、へんな病気伝染されるかもしれねえじゃんか。その点俺は安全だ、ここんとこ清潔に健全に身の周りを保ってたからな。なんなら生でもいいぜ?売春班のガキは後処理面倒だからコンドームしろしろうるせえだろ、俺はそんな固いこと言わねえよ、女相手なら避妊必須だけど男相手なら生のが気持いいよな」
(へえレイジちゃんと避妊してるんだ意外だなあえらいなあ)とか全然関係ないことを考えて全力で現実逃避してたけど目の前で繰り広げられてる光景はなんかもうすごいことになってる、え、なにこれ?レイジなにやってんの?いちおーあんなんでも収容人数千人の東棟の代表でぼくらの王様なのに王様が一般庶民、それも他棟の人間なんか堂々誘惑しちゃっていいわけ?
動揺のあまりずれたこと考えてた僕の目の前では洒落にならない事態が進行しつつある。ひっそりとしずかな階段の踊り場、蛍光灯が割られてるせいで闇の帳がおちて視界は暗く、階上からさしこむ蛍光灯の明かりが一条、斜めに闇を裂いてるほかは光源もない。その明かりもレイジの背後斜め上を遮断してるせいで表情はすっぽり闇に隠れてる。が、生々しい衣擦れの音や生唾を嚥下する音が耳朶にとどき否が応にも想像力がふくらむ。
壁から身を乗り出し、暗闇に目を凝らす。なにが行われてるのか見極めようと好奇心に突き動かされて精一杯首をのばせば暗闇に慣れた目がとらえたのは一つに重なった二つの影。踊り場の底、壁際に追いつめられ身動き封じられた囚人に覆い被さっているのはレイジ。さかりのついた蛇のように相手の脇腹にすべらした手をズボンの内腿にもぐらす。いまさらだけどおそろしく手馴れている、いったい何十何百人の女の服を脱がせてくればこんな人体の性感帯をおさえた愛撫ができるんだろう。ガキの肩に手をかけ、野性味あふれる中に魔性の媚を宿したまなざしのレイジが犬歯を剥く。微笑。なんで今笑うんだ?なにを考えてるんだよぼくらの王様は、本当に本気でヤるつもりなのか。
ロンのために自分が身代わりに?ちょっとまてよ。
暗闇で光る豹の目。どこか鬼気迫る形相で笑んだレイジが顎を傾け、淫猥に舌なめずりしてガキの耳朶を口に含もうと―
「はーいそこまで」
パンパンとやる気ない拍手で打ち止め。
ぎょっとして振り向けば階上には意外な人物がいた。いつのまに現れたのだろうか、まるで気配を感じなかった。大きなサイズのゴーグルで目を覆った15.6歳の少年だ。針金のようにツンツンした剛毛の短髪が特徴的な少年が一身に注目を浴びてズイとゴーグルを押し上げる。少年と青年の狭間、稚気と凄味とを均等に配分した双眸が印象的な精悍な顔だちをしている。
やばい。
少年に見つかるのを避けて奥へと移動する。図書室の常連で彼の顔を知らないものはいない、漫画王の異名をとる西棟のヨンイルだ。
「レイジぃ。それ誘惑ちゃうて脅迫や」
「なんでだよ」
体の脇に腕をたらしたヨンイルがくく、と愉快げに喉を鳴らし、鼻白んだレイジが抗議する。今まさにご馳走にありつこうとして意地悪な調教師にとりあげられたような拗ねた表情。
「耳たぶ噛みちぎろうとしてたやろ」
「!?」
無造作に顎をしゃくられたガキが顔面蒼白で耳朶を覆い、レイジがさも心外そうに反論する。
「どこのマイクタイソンだよ、しねえよそんなこと」
「どうだか。ついでに言わせてもらえばそのネタ百年ばかり古い」
「余計なお世話だ」
前戯に水をさされてすっかり興醒めしたのだろう、いや、ひょっとしたら今頃になってレイジがただ者じゃないと気付いたのかもしれない。後者だとしたら鈍感すぎるガキが階上のヨンイルと正面のレイジとを見比べて悲鳴をあげる。
「ヨンイルさん、だれっスかコイツ!?」
ごく自然にヨンイルに「さん」付けして敬語つかってるってことはコイツ西棟の人間か。それでわかった、ヨンイルが助けに入ったわけが。腐っても自分の棟の人間だ、むざむざ耳朶食いちぎられてのたうちまわるところを見殺しするに忍びなかったんだろう。蛍光灯の光を浴びて仁王立ちしたヨンイルがほとほとあきれたような顔をする。
「おまえ鈍いなー。レイジで王様言うたら心当たりあるやろ」
「!!」
「なんでうちの棟の人間はこんな鈍感ぞろいなんやろ」と首を傾げながらのヨンイルの指摘にはじかれたように振り向けば、ポケットから片手を抜いたレイジが王様にはふさわしくないなれなれしさで挨拶する。
「たしかに俺の名前はレイジで東棟の王様だけど気にするこたねえよ。さ、続きしようぜ」
「じょ、冗談じゃねえ!!東棟のトップなんか相手したら耳たぶ何個食いちぎられてもたりねえよ!」
フレンドリーな物腰で歩み寄ってきたレイジから跳んで逃れたガキが死に物狂いに階段を駆け上がる。途中何度も段に蹴つまずきはでに転びながら半死半生這い上がったガキが後ろも振り返らずに廊下を走り去ってゆく。それを見送り、ヨンイルが階段を降りはじめる。東棟の王様が待ち構えているとわかってるのにまったく気負ってないのはさすが、
さすが、二千人を殺した懲役二百年の大量殺戮班だ。
「お前最近おかしいで」
硬い靴音を響かせながら中腹まで階段を降りてゆっくりと立ち止まる。
「同房の相方いなくなってこたえとるんか?すぐそこの仕事場に会いに行ったればええやん」
「扉封鎖してとじこもってんだよ。三日間」
苦々しげに吐き捨てたレイジにヨンイルが口笛を吹く。
「根性あるやん。ああ、おまえの相方って四ヶ月前にブラックジャックの五巻と六巻読みにきた目つき悪いガキか。思い出したわ。そうか、あいつならそんくらいやりそうや。根性据わったええ目してたもん」
「笑い事じゃねえよこっちは」
「助けに行けば?」
「簡単に言うなよ」
「喧嘩でもしたんか」
「…………………」
「図星や」
なにがおかしいのかくく、とヨンイルが笑いレイジがますます不機嫌になる。腕組みして開き直り踊り場の壁によりかかる。そのまま虚空に視線を泳がせて何事か考えに耽っていたレイジがふいに真顔になってヨンイルを仰ぐ。
「……俺の寝顔むかつく?」
「あん?」
「寝顔むかつくって言われたんだけど。その、相方に」
「あー。むかつくかもしれんな、がーっと大口あけてなんの悩みもなさそーな顔してるしな。お前の口からたれたヨダレで枕元においてたリボンの騎士の単行本びしょぬれや、弁償しろやコラ」
「それはとにかく」
「ごまかすな。それが行く当てなく廊下うろついとったところ房に泊めてやった恩人に対する言い草か?凍死しなかったのはだれのおかげや?」
さりげなく話題をすりかえようとしたレイジにヨンイルが声を尖らせて待ったをかける。てゆーかレイジ、ヨンイルの房に泊めてもらったのか。四日前の深夜、消灯時間が過ぎてさて寝ようと毛布にもぐりこみかけたときに足音がして格子窓を覗けばレイジがはでにくしゃみしながら遠ざかってくところで「こりずにロンの寝込み襲って閉めだされたんだろうなあ」と思ってたけど。
「……俺の顔見るとアイツへそ曲げるんだよ」
「だから見舞いに行かんかったんか。あきれたな、とんだ腑抜けの王様や」
口角を吊り上げたヨンイルにあからさまに馬鹿にされたレイジがむっとして腕組みをほどく。ヨンイルの襟首を掴んでなにか言い返そうと歩を階段にむけかけ、
「会いに行ったれ。可哀相やろ」
きっぱり断言したヨンイルの顔からは完全に笑みが消えていた。
「ええか?お前の相方のー……なんやったっけ。まあええわ、仮にアトムとしとこう」
「ロンだ」
「アトムもといロンは四ヶ月前に図書室に来た時ごっつ熱中してブラックジャック読んでたんや。手塚治虫好きなやつには悪いやつはおらん。今頃おまえに言うたことしたこと後悔してるんちゃう、ひとりぼっちで。もう今すぐ会いにいったれ、図書室のヌシの指令や、おなじ手塚ファンとして頼む」
「西の道化として命令するのがいちばん効果なくね?」
「おまえ俺のダチやろ。ダチを上から見下ろすような言い方したくない」
自分がさらりと口にした意外すぎる台詞に虚をつかれたように立ち竦んだレイジにしてやったりと笑いかけ、ヨンイルが腕をふりかぶる。下向きの放物線を描いてレイジの手にとびこんだのはブラックジャックの単行本。
「暇してるやろしさしいれ持ってったれ」
「………」
なんとも複雑な面持ちで手の中の本を見下ろしていたレイジが顔を上げまっすぐにヨンイルを見つめる。力強い眼光。
「用意してほしい物があるんだ」
「なんや」
階段をのぼってヨンイルの一段下に移動したレイジが耳打ちする。ふんふんと頷きながら聞いていたヨンイルが「了解」とあっさり請け負う。何を言ってるのか聞き取れなくてもどかしい。壁を掴んで身をのりだした僕の視線の先、片手を挙げてレイジに別れを告げたヨンイルがこっちの方に歩き出す。
「さて、まだ用が残っとるんや。おまえの棟の赤毛いつ行っても留守でユニコの在り処わからん、今日という今日こそはケツの穴に指つっこんで奥歯ガタガタ言わせたる覚悟でユニコの身柄確保するでー」
やっべ、こっちにくる!あわてて顔をひっこめて廊下の奥に退散、壁にむかって背中を丸めてうずくまりヨンイルが通り過ぎるのをひたすら待つ。まさかユニコを延滞してる張本人が壁の行き止まりで頭抱えてるなんて露知らずやる気満々、目に闘志を燃やして東棟へと続く渡り廊下へと足をむけかけたヨンイルを間延びした声が呼び止める。
「おーい!」
「?」
東棟へと続く渡り廊下、その半ばで振り返ったヨンイルを追って階段を駆け上がったレイジが膝に手をついて息を整える。食堂で大乱闘を演じた時だって息一つ乱さなかったのに今はどうだろう。おもいきり全力疾走した後のように何かを吹っ切った顔をしている。大きく深呼吸し、膝から手を放す。まっすぐ姿勢を起こし、頭上にブラックジャックを掲げて叫ぶ。
「感謝するぜ、西の」
廊下の半ばで立ち止まったヨンイルがニヒルに笑う。
「どういたしまして、東の」
肩越しに手を振って廊下を遠ざかってゆくヨンイルを物陰から見送って長々と息を吐く。危なかった、まっすぐ房に帰ってたらケツの穴に指つっこまれて奥歯ガタガタいわされるところだった。ヨンイルがあきらめてすごすご自分の棟に帰るまで灯台下暮らし、図書室でマンガでも読んで時間潰してようと踵を返しかけてレイジを振り返れば忽然と姿を消していた。
「やれやれ、変わり身の早い王様だね」
レイジが何を企んでるか知らないけどこれからまた一波乱あるだろう。まあ見てな、僕の予感はあたるんだ。
普段は手下をぞろぞろひきつれてがに股でいばりちらしてる裸の王様・凱が完全に出遅れたのもむべなるかな、レイジとサムライの行動は迅速だった。見事に呼吸の合った連携プレイで瞬く間に四人を倒したんだ、格の違いを見せ付けたってかんじ。レイジが椅子を蹴って床を走り抜けた一瞬で食堂が戦場に変貌した。食堂中の視線がレイジを追っていた、注がれていた。全員食事を一時中断し、手に食器を抱え、ほげっとフォークをくわえた間抜け面を並べて。
東棟の王様の異名は伊達じゃない。レイジがテーブルに立ち上がった瞬間、アルミ皿とフォークが飛び交う喧騒の戦場は華やかな舞台へと変貌して血塗られたフォークを片手にさげたレイジへと脚光が注がれた。一身に脚光を浴びたレイジ、しなやかに引き締まった全身から放たれていたのは食堂中を飲みこみ目が合った人間をひとり残らず意のままに従わせてしまうすさまじい威圧感。
レイジは強い。怖いくらい、強い。
でも、危うい。今のレイジには余裕がない。今のレイジなら食堂で宣言したことを実行するだろう、そう信じさせるだけの説得力の重みが一語一句にあった。まあこの期におよんでロンを買いに行くバカはいないだろう、からかい半分でロンに手をだしてレイジに殺されちゃあ割があわない。どっちにしろ今のレイジは危険すぎる、フォークで失明させられるのがいやならへたに近付かないほうがいい。
ポケットに手をつっこんで廊下を歩きながらこっそりと決意する。僕は今出張サービスを終えて房に帰る途中。いつもは房で客をとってるんだけどそうするとビバリーがひどく肩身狭そうなんで最近はこっちから客の所に出向いてやってる。僕はべつにビバリーに声を聞かれてもかまわないんだけどね、接客スマイルで客を見送って顔を真っ赤にしたビバリーからかうの面白いし。
まあ、僕は趣味と実益を兼ねてるからいいんだけど鍵屋崎みたいに上から命令されて売春を強要されるのはつらいだろう。いや、つらいなんてもんじゃない。鍵屋崎のことだからろくに女も抱いたことないだろうに刑務所に入って半年で売春班にまわされて何人もの男を相手にするよう強いられてるんだ、ここの連中なんか看守も囚人も屑ぞろいのサドばかり、ろくに前戯もせず、ならしもぬらしもせずにいきなり突っこんでくるようなバカばかりだし陸に上がったばかりの人魚姫よろしく歩くのだってつらいはずだ。
べつに鍵屋崎を心配してるんじゃない、改めて言うまでもないけど僕は鍵屋崎が嫌いだ。大嫌いだ。
それはそうなんだけど売春経験なら僕のほうが遥かに長いし、人生の酸いも甘いも噛み分けてきた娼夫の先輩として鍵屋崎が今現在おかれた境遇には顔をしかめずにいられない。好きでもない人間と毎日のようにセックスしなきゃなんないなんて、ありとあらゆる体位とテクを仕込まれて実践しなきゃなんないなんて普通の人間には耐えられない。鍵屋崎の場合そういう方面に淡白そうだし……マスターベーションもしたことなさげな潔癖症には生き地獄の日々だろう。神経がまいっちゃうのも時間の問題だ。
「つまんないな」
口に出してぼやく。僕は鍵屋崎のことが嫌いだからあいつが売春班にまわされて本来なら万歳ってかんじなんだけどすっきりしないのはなんでだろう。歯応えがないというか手応えがないというか……あっけなさすぎで拍子抜けした感が否めない。かってきわまりないいじめっこの理屈だけどアイツにはもうちょっと頑張ってほしかった。
なんて、今頃は僕の足の下でせっせと客をとっているのだろう鍵屋崎の行く末を憂いながら東棟へと帰る渡り廊下に足をむけようとして立ち止まる。物音。なんだろう?ちょっと興味を引かれてエレベーターができてからは使われてない階段へと足をむける。僕が今中央棟にいるのは図書室で営業してたからだ、本棚の影にかくれてヤるのってなかなかスリリングだね。癖になりそう。で、物音が聞こえてきた階段ってのは中央棟地下一階へと降りる用に設けられた物だ。目をつけたガキを物陰にひっぱりこんでヤキ入れたりケツ剥いたり、東京プリズンの囚人はとかくお行儀がよろしくないことで有名だから今度もまたその手の行為が行われてるのかなと好奇心からひょいと踊り場を覗きこんで……
目を見開いた。
中央棟地下一階、通称売春通りへと降りる階段の踊り場にいたのが僕のよく知る人物だったからだ。いや、よく知る人物なんて他人行儀には呼べない。たった今「絶対に近付かないでおこう」と最重要警戒態勢に入った奴だから。
レイジ。
いますぐ回れ右するのが賢い選択。もちろん頭じゃわかってるけど好奇心に負けた。レイジがなんでこんなところにいるのか、こんな人目のとどかない場所でなにをしてるのか気にならないわけがない。白馬の王子様気取ってロンを救出しにきたなら格好いいんだけどね、と含み笑いしながらこっちに背中をむけてるレイジに目を凝らし、レイジと対峙するかたちで壁際に追いつめられてる囚人に気付く。
「?」
蛍光灯が割れた薄暗い踊り場、轢かれた蛙のような不恰好なポーズで壁にへばりついてる囚人の顔は知らない。中央棟にいるってことはほかの棟のやつかもしれない。なんで売春班の仕事場が中央棟に在るのかって言えば全棟の連中が平等に買いに来るからだ、売春班は来る者拒まずで顔見知りでも赤の他人でも一度客に指名されたら文句言わずに受け入れなきゃなんないのだ。
おおかたレイジに詰め寄られてる囚人も売春班に用があるんだろう。蛍光灯の破片が散乱した荒廃した踊り場、人目を避けるようにふたり息をひそめたレイジと囚人とを壁に隠れて見てるうちに胸騒ぎがしだす。
なんだか様子がおかしいぞ?
「勘弁してくれよ……」
よわよわしい声に首をのばす。踊り場の壁を背中にした囚人が気弱そうな上目遣いでレイジを盗み見る。
「俺は手っ取り早くヌキにきただけなんだ、こんなとこで足止めくらってる時間はねえんだ。とっとと解放してくれ」
「だめだ」
闇を震わせて響いたのは低い声……レイジの声だ。甘くかすれた独特の響きがある、聞いてると癖になる声。
「気持ちはわかるけど行かせられねえな。もうちょっと付き合えよ」
「なんでだよ。つーかおまえだれだ、どこの棟の人間だ?正義の味方気取りで俺のジャマして何様のつもりだよ」
「王様のつもりだ」
どうやらレイジと対峙してる囚人は東棟の王様の顔をしらないらしい。東棟でレイジの顔を知らないやつはいないけど他の棟ならままありえる事態だ。他の棟の、それも末端の囚人が知ってるのは王様の名前と噂ぐらいだろう。
『東のトップはイカレてる』
『完全にイカレてる』
『べらぼうに強くてべらぼうにキレイな顔してるけどやることなすことめちゃくちゃだ』
『一度キレたら手がつけられない』
『いっつもへらへら笑っててどこに本心があるのかわかんねえ気持ち悪いやつ』
全部真実だ。
「ばかにしてんのか?」
「いや?真実を言ったまでだぜ」
顔を険しくした囚人にもレイジは動じない、掴み所のない笑顔でへらへら笑ってる。瓢瓢とした態度が癪に障ったのだろうか、「頭おかしい人間の無駄話に付き合ってられるか」と悪態をついた囚人が強引にレイジを押しのけて階下に降りようとするのを肩を掴んで引き止める。。
「気が短いなあ。もうちょっとお話しようぜ、な」
「うぜえんだよ」
きっと振り返ったレイジの手をぶち、かん高い音が鳴る。邪険に払いのけられた手を引き、赤く腫れた甲をさすりながらレイジはにやにやと笑っている。狂気の欠片を瞳に沈めたきなくさい笑顔。手をぶたれたことなんて全然気にしてないよ、というフレンドリーな演技で肩をすくめたレイジが軽快な大股で相手に歩み寄る。獲物をしとめにかかる豹を彷彿とさせるしなやかで隙のない歩行動作。ポケットに手をひっかけただらしない姿勢で長い足を踏み出す。三歩、二歩、一歩。
レイジが立ち止まる。
「お前がずっと粘ってた扉さ」
「?」
レイジはポケットから手を抜いてさえいない。何も行動を起こしてない。にも関わらず、踊り場は既にレイジの独壇場と化していた。口元に淡い微笑を漂わせ、精悍さと甘さとを黄金率で混ぜ合わせた魅力的な双眸を細め、少し媚びるように首を傾げてみせる。
「そんなにご執心なわけ?ほかにも売春夫はたくさんいて扉はずらっと左右に並んでるのにあそこから動かなかったじゃねえか」
「見てたのか?」
「なんだこいつ」と警戒した囚人があとじさり壁に衝突、鈍い音が生じる。壁と衝突した囚人の横に手をつき、前傾姿勢をとる。レイジが上体を屈めると色素の薄い前髪がさらりと額を流れ、長い睫毛に縁取られた完璧な造作の双眸を隠す。
「見てたよ、ずっと。『出て来い、出てこねえとぶち破るぞ』ってずいぶん威勢良く叫んでたじゃんか、どんどんドア蹴りながらさ。おかしくない?手っ取りばやくヌキにきたんなら他の奴でもいいだろう、三日間飲まず食わずでひきこもってるような頑固者にこだわる理由なんかねーじゃんか」
『三日間飲まず食わずでひきこもってるような頑固者』
ロンのことだ。ははん、読めてきたぞ。壁に身をひそめて踊り場のやりとりに聞き耳たてる。壁に片手をついて斜に構えて傾げて相手の反応を探るレイジ、相手がどうでるか楽しんでる風をよそおっているが実際そこまで余裕はないだろう。レイジの眼光に射竦められた囚人が唾を嚥下する、レイジに引けをとらないように虚勢を張って言い返す。
「俺のかってだろう。客にも好みがあるんだ、俺は強情なガキが好きなんだよ。三日間飲まず食わずでたてこもってるなんて根性あるじゃんか、さすがタジマご推薦のことだきゃある」
『タジマ』の名前にレイジの眼光がスッと鋭くなる。
「顔は知らねえけどタジマがああもこだわってんだ、ぜひともお相手願いたいね。三日間なにも食ってねえんならちょうどいい、俺の飴玉しゃぶらせてやるよ。俺の飴玉は喉につまっちまうほどでけえからさぞかし食いでがあるだろうさ」
ひひ、と野卑な笑い声をもらす囚人に相対したレイジの目の温度が急速に下がってゆく。口元に漂うのは低温の微笑、透徹したガラスを模した薄茶の目がいたずらっぽく輝く。
「俺が相手してやるよ」
耳を疑った。囚人もきょとんとしてる。予想外の展開に「え?え?」と仰け反り距離を詰めてきたレイジから反射的に逃れようとして、壁際に追い詰めらて身動きできず、逃れる場所がどこにもないと悟る。なに、なんだこの展開?壁に隠れて息をつめレイジの動向を見守る、壁を背中にした囚人の頭上に片肘置き、上から覗き込むように顔を近付けたレイジがほほえむ。
背筋にぞくっとくる淫らな笑顔。
「俺じゃ不満か」
「不満もなにもおれは売春班の娼夫買いに来たんだぜ、なんでどこのだれかもわかんねえおまえなんかと」
「不満なのか」
「いや……」
物欲しげに喉を鳴らし、頬を上気させた囚人がなめるようにレイジを流し見る。レイジに誘惑されて拒む奴は実際そんなにいないだろう、男だろうが女だろうが関係ない。いや、その手の趣味がない男なら拒絶できるかもしれないけど見わたすかぎり男っきゃいないむさ苦しい環境に頭のてっぺんまでどっぷり染まった囚人の大半はそんな理性を持たない。いつもは表情を崩してることが多いからわかんないけど真顔になったレイジは文句つけようがない美形だ。明るい藁束のような茶髪は天然物、東洋と西洋の混血の産物の肌はなめらかな褐色でしなやかな張りがあり四肢は過不足なく引き締まってる、僕みたいなちびのやせっぽちからすりゃため息をつきたくなるくらい見栄えのする長身で敏捷な豹のように美しい筋肉が肢体に映えている。
そして顔。
ロンと一緒にいる時とはまるで別人、とまでは言えないけど、少なくともロンとじゃれあってるときはこんな淫らで挑発的な笑顔を見せたりはしてなかったはずだ。ロンをからかってるときのレイジは本当にたのしそうにはしゃいでて笑顔に裏がないように見えたのに、今のレイジは笑顔に裏があることを隠そうともしてない。
表情と本心がまるで重なってない、両者が完全に分離した笑顔。
「売春班なんか買うなよ、へんな病気伝染されるかもしれねえじゃんか。その点俺は安全だ、ここんとこ清潔に健全に身の周りを保ってたからな。なんなら生でもいいぜ?売春班のガキは後処理面倒だからコンドームしろしろうるせえだろ、俺はそんな固いこと言わねえよ、女相手なら避妊必須だけど男相手なら生のが気持いいよな」
(へえレイジちゃんと避妊してるんだ意外だなあえらいなあ)とか全然関係ないことを考えて全力で現実逃避してたけど目の前で繰り広げられてる光景はなんかもうすごいことになってる、え、なにこれ?レイジなにやってんの?いちおーあんなんでも収容人数千人の東棟の代表でぼくらの王様なのに王様が一般庶民、それも他棟の人間なんか堂々誘惑しちゃっていいわけ?
動揺のあまりずれたこと考えてた僕の目の前では洒落にならない事態が進行しつつある。ひっそりとしずかな階段の踊り場、蛍光灯が割られてるせいで闇の帳がおちて視界は暗く、階上からさしこむ蛍光灯の明かりが一条、斜めに闇を裂いてるほかは光源もない。その明かりもレイジの背後斜め上を遮断してるせいで表情はすっぽり闇に隠れてる。が、生々しい衣擦れの音や生唾を嚥下する音が耳朶にとどき否が応にも想像力がふくらむ。
壁から身を乗り出し、暗闇に目を凝らす。なにが行われてるのか見極めようと好奇心に突き動かされて精一杯首をのばせば暗闇に慣れた目がとらえたのは一つに重なった二つの影。踊り場の底、壁際に追いつめられ身動き封じられた囚人に覆い被さっているのはレイジ。さかりのついた蛇のように相手の脇腹にすべらした手をズボンの内腿にもぐらす。いまさらだけどおそろしく手馴れている、いったい何十何百人の女の服を脱がせてくればこんな人体の性感帯をおさえた愛撫ができるんだろう。ガキの肩に手をかけ、野性味あふれる中に魔性の媚を宿したまなざしのレイジが犬歯を剥く。微笑。なんで今笑うんだ?なにを考えてるんだよぼくらの王様は、本当に本気でヤるつもりなのか。
ロンのために自分が身代わりに?ちょっとまてよ。
暗闇で光る豹の目。どこか鬼気迫る形相で笑んだレイジが顎を傾け、淫猥に舌なめずりしてガキの耳朶を口に含もうと―
「はーいそこまで」
パンパンとやる気ない拍手で打ち止め。
ぎょっとして振り向けば階上には意外な人物がいた。いつのまに現れたのだろうか、まるで気配を感じなかった。大きなサイズのゴーグルで目を覆った15.6歳の少年だ。針金のようにツンツンした剛毛の短髪が特徴的な少年が一身に注目を浴びてズイとゴーグルを押し上げる。少年と青年の狭間、稚気と凄味とを均等に配分した双眸が印象的な精悍な顔だちをしている。
やばい。
少年に見つかるのを避けて奥へと移動する。図書室の常連で彼の顔を知らないものはいない、漫画王の異名をとる西棟のヨンイルだ。
「レイジぃ。それ誘惑ちゃうて脅迫や」
「なんでだよ」
体の脇に腕をたらしたヨンイルがくく、と愉快げに喉を鳴らし、鼻白んだレイジが抗議する。今まさにご馳走にありつこうとして意地悪な調教師にとりあげられたような拗ねた表情。
「耳たぶ噛みちぎろうとしてたやろ」
「!?」
無造作に顎をしゃくられたガキが顔面蒼白で耳朶を覆い、レイジがさも心外そうに反論する。
「どこのマイクタイソンだよ、しねえよそんなこと」
「どうだか。ついでに言わせてもらえばそのネタ百年ばかり古い」
「余計なお世話だ」
前戯に水をさされてすっかり興醒めしたのだろう、いや、ひょっとしたら今頃になってレイジがただ者じゃないと気付いたのかもしれない。後者だとしたら鈍感すぎるガキが階上のヨンイルと正面のレイジとを見比べて悲鳴をあげる。
「ヨンイルさん、だれっスかコイツ!?」
ごく自然にヨンイルに「さん」付けして敬語つかってるってことはコイツ西棟の人間か。それでわかった、ヨンイルが助けに入ったわけが。腐っても自分の棟の人間だ、むざむざ耳朶食いちぎられてのたうちまわるところを見殺しするに忍びなかったんだろう。蛍光灯の光を浴びて仁王立ちしたヨンイルがほとほとあきれたような顔をする。
「おまえ鈍いなー。レイジで王様言うたら心当たりあるやろ」
「!!」
「なんでうちの棟の人間はこんな鈍感ぞろいなんやろ」と首を傾げながらのヨンイルの指摘にはじかれたように振り向けば、ポケットから片手を抜いたレイジが王様にはふさわしくないなれなれしさで挨拶する。
「たしかに俺の名前はレイジで東棟の王様だけど気にするこたねえよ。さ、続きしようぜ」
「じょ、冗談じゃねえ!!東棟のトップなんか相手したら耳たぶ何個食いちぎられてもたりねえよ!」
フレンドリーな物腰で歩み寄ってきたレイジから跳んで逃れたガキが死に物狂いに階段を駆け上がる。途中何度も段に蹴つまずきはでに転びながら半死半生這い上がったガキが後ろも振り返らずに廊下を走り去ってゆく。それを見送り、ヨンイルが階段を降りはじめる。東棟の王様が待ち構えているとわかってるのにまったく気負ってないのはさすが、
さすが、二千人を殺した懲役二百年の大量殺戮班だ。
「お前最近おかしいで」
硬い靴音を響かせながら中腹まで階段を降りてゆっくりと立ち止まる。
「同房の相方いなくなってこたえとるんか?すぐそこの仕事場に会いに行ったればええやん」
「扉封鎖してとじこもってんだよ。三日間」
苦々しげに吐き捨てたレイジにヨンイルが口笛を吹く。
「根性あるやん。ああ、おまえの相方って四ヶ月前にブラックジャックの五巻と六巻読みにきた目つき悪いガキか。思い出したわ。そうか、あいつならそんくらいやりそうや。根性据わったええ目してたもん」
「笑い事じゃねえよこっちは」
「助けに行けば?」
「簡単に言うなよ」
「喧嘩でもしたんか」
「…………………」
「図星や」
なにがおかしいのかくく、とヨンイルが笑いレイジがますます不機嫌になる。腕組みして開き直り踊り場の壁によりかかる。そのまま虚空に視線を泳がせて何事か考えに耽っていたレイジがふいに真顔になってヨンイルを仰ぐ。
「……俺の寝顔むかつく?」
「あん?」
「寝顔むかつくって言われたんだけど。その、相方に」
「あー。むかつくかもしれんな、がーっと大口あけてなんの悩みもなさそーな顔してるしな。お前の口からたれたヨダレで枕元においてたリボンの騎士の単行本びしょぬれや、弁償しろやコラ」
「それはとにかく」
「ごまかすな。それが行く当てなく廊下うろついとったところ房に泊めてやった恩人に対する言い草か?凍死しなかったのはだれのおかげや?」
さりげなく話題をすりかえようとしたレイジにヨンイルが声を尖らせて待ったをかける。てゆーかレイジ、ヨンイルの房に泊めてもらったのか。四日前の深夜、消灯時間が過ぎてさて寝ようと毛布にもぐりこみかけたときに足音がして格子窓を覗けばレイジがはでにくしゃみしながら遠ざかってくところで「こりずにロンの寝込み襲って閉めだされたんだろうなあ」と思ってたけど。
「……俺の顔見るとアイツへそ曲げるんだよ」
「だから見舞いに行かんかったんか。あきれたな、とんだ腑抜けの王様や」
口角を吊り上げたヨンイルにあからさまに馬鹿にされたレイジがむっとして腕組みをほどく。ヨンイルの襟首を掴んでなにか言い返そうと歩を階段にむけかけ、
「会いに行ったれ。可哀相やろ」
きっぱり断言したヨンイルの顔からは完全に笑みが消えていた。
「ええか?お前の相方のー……なんやったっけ。まあええわ、仮にアトムとしとこう」
「ロンだ」
「アトムもといロンは四ヶ月前に図書室に来た時ごっつ熱中してブラックジャック読んでたんや。手塚治虫好きなやつには悪いやつはおらん。今頃おまえに言うたことしたこと後悔してるんちゃう、ひとりぼっちで。もう今すぐ会いにいったれ、図書室のヌシの指令や、おなじ手塚ファンとして頼む」
「西の道化として命令するのがいちばん効果なくね?」
「おまえ俺のダチやろ。ダチを上から見下ろすような言い方したくない」
自分がさらりと口にした意外すぎる台詞に虚をつかれたように立ち竦んだレイジにしてやったりと笑いかけ、ヨンイルが腕をふりかぶる。下向きの放物線を描いてレイジの手にとびこんだのはブラックジャックの単行本。
「暇してるやろしさしいれ持ってったれ」
「………」
なんとも複雑な面持ちで手の中の本を見下ろしていたレイジが顔を上げまっすぐにヨンイルを見つめる。力強い眼光。
「用意してほしい物があるんだ」
「なんや」
階段をのぼってヨンイルの一段下に移動したレイジが耳打ちする。ふんふんと頷きながら聞いていたヨンイルが「了解」とあっさり請け負う。何を言ってるのか聞き取れなくてもどかしい。壁を掴んで身をのりだした僕の視線の先、片手を挙げてレイジに別れを告げたヨンイルがこっちの方に歩き出す。
「さて、まだ用が残っとるんや。おまえの棟の赤毛いつ行っても留守でユニコの在り処わからん、今日という今日こそはケツの穴に指つっこんで奥歯ガタガタ言わせたる覚悟でユニコの身柄確保するでー」
やっべ、こっちにくる!あわてて顔をひっこめて廊下の奥に退散、壁にむかって背中を丸めてうずくまりヨンイルが通り過ぎるのをひたすら待つ。まさかユニコを延滞してる張本人が壁の行き止まりで頭抱えてるなんて露知らずやる気満々、目に闘志を燃やして東棟へと続く渡り廊下へと足をむけかけたヨンイルを間延びした声が呼び止める。
「おーい!」
「?」
東棟へと続く渡り廊下、その半ばで振り返ったヨンイルを追って階段を駆け上がったレイジが膝に手をついて息を整える。食堂で大乱闘を演じた時だって息一つ乱さなかったのに今はどうだろう。おもいきり全力疾走した後のように何かを吹っ切った顔をしている。大きく深呼吸し、膝から手を放す。まっすぐ姿勢を起こし、頭上にブラックジャックを掲げて叫ぶ。
「感謝するぜ、西の」
廊下の半ばで立ち止まったヨンイルがニヒルに笑う。
「どういたしまして、東の」
肩越しに手を振って廊下を遠ざかってゆくヨンイルを物陰から見送って長々と息を吐く。危なかった、まっすぐ房に帰ってたらケツの穴に指つっこまれて奥歯ガタガタいわされるところだった。ヨンイルがあきらめてすごすご自分の棟に帰るまで灯台下暮らし、図書室でマンガでも読んで時間潰してようと踵を返しかけてレイジを振り返れば忽然と姿を消していた。
「やれやれ、変わり身の早い王様だね」
レイジが何を企んでるか知らないけどこれからまた一波乱あるだろう。まあ見てな、僕の予感はあたるんだ。
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