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百二十五話
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微熱をおびたように体が気だるい。
下半身には澱のように倦怠感が沈殿してる。指一本動かすのも億劫だ。全身の間接が軋み、寝返りを打って姿勢を入れ替えるのも骨が折れる。起き上がらなければ、と脳が運動神経に指令を発してるのに体がちっとも言うことをきかない。
余力を振り絞って瞼を持ち上げる。
配管むきだしの見慣れた天井が裸電球を消した闇に沈んでいる。どうやらおきているらしい。意識は辛うじて覚醒してるが頭の芯に靄がかかってるように現実感が希薄だ。シーツに手をつき、体を起こそうとした途端下肢に激痛が走る。痛い。身を二つに折って耐えて激痛の波をやり過ごせば少しラクになる。額に浮かんだ脂汗を手の甲で拭いみっともなく乱れた呼吸を整える。起きなければ、起きていなければ。休憩時間はもうすぐ終わりだ、早く行かなければ。ブラックワーク二班の業務は強制労働終了後が本番だ、これからますます忙しくなる。早く仕事場に戻って待機してなければ。次の客が来るまでにシャワーを浴びておきたい。
『次の客』?
泡がはじけるような自然さで意識の水面に浮かんできた言葉に自嘲の笑みをおさえきれない。次の客、か。まだ三日、たった三日だというのに僕はずいぶん売春班に馴染んでしまったじゃないか。
最初の日は立てなかった。
それでもなんとか粉々になったプライドをかき集めて壁にすがって足を運んだ、一歩一歩慎重に鈍重に。一歩足を踏み出すごとに全身に耐え難い激痛が走って目が眩んだ、いっそ気を失えたらどんなにラクだろうと途中何度も意識を手放しかけた。赤ん坊のように危なっかしい足取りでそれでも一歩一歩足を運んだ、何度も蹴躓きそうになりながら体勢を立て直し歯を食いしばり。
でも、限界は訪れた。
中央棟から東棟に帰る渡り廊下の入り口でとうとう膝をついた。もう一歩も歩けない状態だった。壁に手を突いてうずくまっていたら背後から声をかけられた。振り返れば若い看守がいた、見るからに人がよさそうな顔をした看守は僕が頼んでもないのにお節介を焼いて肩を貸してくれた。途中「大丈夫かい」と不器用に気遣いながら僕をひきずって房へと連れ帰ってくれた親切な看守の名前は聞き忘れた、それどころじゃなかったからだ。それから倒れこむようにベッドに崩れ落ちて昏々と眠り続けた。
すぐに明日が来た。目覚めたことを後悔する一日が繰り返された。
詳細は語りたくない。なにも言いたくない。記憶喪失になれたらどんなにいいだろう、ここ三日間の記憶が欠落してたらどんなに心も体も軽くなって救われるだろう。悪夢のような現実を生きてるのか現実のように生々しい悪夢を見てるのか僕自身区別がつかない。もしこれが夢だとしたらいつ終わるんだろう、目覚めるんだろう。そうだ、僕はきっと風邪をひいて40.2度位の高熱に浮かされてるんだ、だからこんな荒唐無稽な悪夢を見てるんだ。だからこんなに体が熱いんだ、悪寒が走るんだ、間接が軋むんだ。きっと次に瞼を開けたら頭上から惠が覗きこんでるはずだ、「おにいちゃんだいじょうぶ」と心配そうに声をかけてくれるはずだ。惠は優しい子だから僕が悪夢にうなされてる間中ずっと手を握り締めて励ましてくれてたに決まってる、次に瞼を開ければ惠は笑ってくれる、安心したように笑ってくれる。
惠が笑ってくれるだけで僕は救われる。
これは悪い夢だ、悪い夢だ。夢はいつか覚めるんだ、続くわけがないんだ。夢にしてはやけに生々しい身体感覚を伴ってるけど……そういうこともある。さあ目を開けるんだ、目を開ければ夢は終わる、僕は自室のベッドで寝ていて傍らには恵がいる。風邪をひいて寝込んだ僕を心配してけなげに寄り添ってくれてる。鍵屋崎優と由佳利夫妻はどうしてるだろう?書斎にいるのだろうか。そうだ、執筆中の論文について聞きたいことがあったんだ。書斎の扉を開けよう、懐かしい木目調の樫の扉。この向こうに両親がいる、血は繋がってないけど十五年間僕を養育して膨大な知識を授けてくれた戸籍上の両親が。
両親。僕は彼らのことをなんて呼んでいたっけ。
まさか「鍵屋崎優」「由佳利」と呼んでたわけがない、書類上はれっきとした親子なんだから。父と母?違う。思い出せ、思い出すんだ。僕は鍵屋崎夫妻のことをなんて呼んでいた?パソコンのキーを叩いてた父を振り向かせるとき、本棚を整理してた母を振り向かせるとき……
思い出した。
『父さん、母さん』
父さん、母さん。なんて嘘っぽい響きだろう。彼らは何も親らしいことをしてくれなかったじゃないか、笑わせる。でも、こう呼ぶしかない。第三者に説明するときはフルネームでも「父」「母」表記でもかまわない、しかし本人と対峙した時にはこう呼びかけるしかない。
父さん、母さん。ずいぶんひさしぶりに口にした。正確には半年ぶりか?何故だろう、ひどく懐かしい。
……都合のいい感傷だ。鍵屋崎優と由佳利を殺したのは僕なのに、今頃になって「懐かしい」だなんて。「父さん」「母さん」だなんて図々しいにも程がある。僕は自分の選択を後悔してない、惠を守るにはあの時ああするより他になかった。鍵屋崎優と由佳利を殺したことについて何の罪悪感も持ってない、あれは僕が選択して行動した結果なのだから。
なら、受け止めるしかないだろう。
でも、僕が両親を殺してまで守り通そうとした惠ももういない。失ってしまった。僕にはだれもいなくなった、だれも。
一体僕は何を守ろうとしたんだろう。
こんな痛い思いをしてまで、屈辱を噛み締めてまで、何を守り通そうとしたんだろう。
コンコンと扉がノックされる。
「!」
反射的に上体を起こし、毛布をたくしあげる。刹那、下肢に激痛が走る。
「……入っていいぞ」
顔をしかめ、平静な声音で入室を許可する。扉が開き廊下の明かりが射しこむ。素早く扉を閉めた痩せた影……サムライだ。手に何かを抱えている。トレイだ。今日も僕のために食事を持ってきてくれたんだろう。
余計なことを。舌打ちしたくなる。
「気分はどうだ」
「優れない」
簡潔に答えたのは彼との会話を避けようと意図したからじゃない、口を開くのが億劫だったからだ。毛布をどかして姿勢を起こし、少しでもラクなようにベッドの背格子にもたれる。背骨に溶けた鉛を流しこまれたように間接がぎこちなく強張ってる。大股に歩いて房の真ん中に進み出たサムライがトレイを片手に持ったまま器用に裸電球を点ける。明るい光が房に満ち、眩さに目を細める。
「……寝てたのか?」
「……ああ」
口数少なく尋ねられ、口数少なく返す。会話は弾まない。居心地悪い沈黙ばかりが存在感を増して膨れ上がってゆく。
正直、彼に何を言えばいいかわからなかった。
「対等になりたい」だとか「一方的に依存するのはいやだ」とかえらそうに言っておいて結局僕は自分の身ひとつ守り抜けなかったじゃないか、サムライがいなければ何もできない無力な人間だと証明してしまったようなものじゃないか。いくら頭がよくてもこのザマだ、こんな情けない僕を見られたくない。見ないで欲しい。
「食事だ」
顔を背けた僕の枕元にサムライがトレイを置く。アルミ皿に一山盛られたマッシュポテトに澄んだコンソメスープ、付け合せにブロッコリーとアスパラガスの温野菜にパンといういちじるしく栄養状態が偏ったメニューだ。
「……食欲がない」
「無理にでも食べろ、体が保たない」
そっけなくトレイを突き返そうとした僕にいつになく強引にサムライが迫る。サムライの眼光に気圧されて不承不承トレイを受け取る。毛布を被せた膝の上にトレイを置いてフォークをとる。が、どうしても食欲がわかない。無理にでもつめこまなければ体が保たないと頭では理解してるが手が動かない、強引に飲み下しても胃が受け付けないのだ。
「……あとで食べる」
ため息まじりにフォークを置いて言い訳がましく呟けばサムライが咎めるような目で睨んできた。
「嘘をつくな」
「嘘じゃない、本当に食欲がないんだ」
本当だ。この三日間というもの何を食べても味気ない、味覚が麻痺したように料理の味がわからなくなってしまってる。味噌汁は泥水のようにぬるくてサラダのレタスは口の中でぱさぱさかさばって焼き魚は小骨ばかりが喉にひっかかる。何を食べても美味しいと感じない、もともと僕は料理に執着がない人間だったがここ三日間は異常だ。目を閉じて口に入れて飲み下したとしても完全に消化される前に吐き出してしまう悪循環で不快な胸焼けが消えない。
原因はわかってる。口の中に物を詰める感覚に喉が圧迫され、床に跪かされて強いられたおぞましい行為を思い出してしまうからだ。
かぶりを振って不快な連想を払拭し、サムライの手にトレイを押し付ける。だめだ、また気持が悪くなってきた。こんなんじゃろくに食事もできない、早く体が慣れて欲しい。顔面蒼白で押し黙った僕を心配そうな面持ちで見下ろすサムライの視線が苦痛だ。
「反吐が出る」
吐き捨てるように呟いた僕にサムライがまともに返す。
「洗面台に行け」
「君のことだ」
ベッドに上体を起こしてサムライに向き直る。
「だれがわざわざ食事を持ってきてくれなんて頼んだ?食欲がでたら自分で食堂に行く、こんなことしてくれなくていい。食事の手助けが必要な乳幼児じゃないんだから余計なことをしないでくれ、不愉快だ。君は福祉介護士か、看護士か?違うだろう、そうじゃない。僕は病気でも何でもないんだから病人扱いするのはやめてくれ。そうやって同情されるのは不愉快なんだ、見下されているようで」
「同情してるんじゃない、心配してるんだ」
「同じ事だろうそれは、どう違うんだ?僕はひとに同情されなければいけないような人間じゃない、なんでこの僕が、IQ180の知能指数の持ち主でこの刑務所のだれより高い知力の持ち主の僕が同情されなければならない?僕は自分のことをちっとも可哀相なんて思ってない、他人からも可哀相だなんて思われたくないし絶対に思わせない。だれが哀れんでくれなんて頼んだ?哀れんでくれたら苦痛が軽減されるのか?僕は人から哀れまれなければいけないような情けない人間じゃない、みっともない人間じゃない。プライドを売り払った利子で同情を買うような真似は死んでもごめんだ」
たとえあの房でどんな目に遭ったとしても、どんなに屈辱的な行為を強いられて正視に耐えない醜態をさらしたとしてもサムライの前でだけはプライドを死守したい、虚勢を貫きたい、対等でいさせてほしい。サムライに同情されるのはいやだ、こんな目で見られるのは不愉快だ。
消え入りたい。
「なんで君はそんなに鈍感なんだ?最後まで言わなければわからないのか」
「わからない」
察しの悪いサムライに苛立ちと歯痒さが募る。こんなこと言いたくない、こんなみっともない台詞吐きたくない。激情にかられて我を忘れるなんて僕らしくない、僕はいつでも冷静沈着で理性的な人間だったはずだ、こんな風に取り乱したりはしないんだ。これじゃまるで八つ当たりだ、頭ではわかってる、理性ではわかってるんだ。それなのに舌が止まらない、サムライの顔を見ているとやりきれなくなって暴力的な衝動に突き動かされて酷い事を言わずにはいられなくなる、傷付けたくてたまらなくなる。
自分がされたことを他人に仕返して満足するなんて卑劣な人間がすることだ。
自分が傷付けられたから身近な人間を傷付けていいなんて思い上がるのは愚かな事だ。僕がされたことはサムライに関係ない、この男は関係ない。彼は僕のことを心配してるんだ、そんなことわかってる、わからないはずがない。この半年間ずっとサムライに付き合って来たんだ、彼がどれほど無口で不器用で優しい男かわからないはずないじゃないか。
それなのに、なんでこんなに苛立つんだ?
「……あきれたな。鈍感な上に無神経と来たか」
なんで僕は言葉を続けてるんだ?膝を抱えて毛布にくるまり、表情をさえぎるように片手を額に置く。額がしっとりぬれているのは寝汗をかいたからだろうか。頭を抱えこむようにして俯く。僕はどうかしてる、サムライを傷付けたくてたまらない。僕の枕元で所在なげに立ち尽くしてるこの男を言葉の刃でめちゃくちゃに傷付けたい衝動が抑制できない、この男に悪意の塊をぶつけたい。
「じゃあ説明してやる。君は強いからわからないだろう、刀を持っていてもいなくても強いから共感できないだろう。僕は非力を言い訳にしたくない、非力ならその分知力で補えばいいと高を括ってたんだ。視力が低下すれば聴力が発達するように欠落は補うことができる、僕は無力だけど無能じゃない、君の力を借りなくても、君に頼ってばかりいなくても自分の身くらい守りぬけると思ってたんだ」
ずっとサムライと対等になりたかった。
非力を知力で補うことによってサムライに依存する一方の釣りあわない関係を清算したかったんだ。たとえサムライがそれでいいと言っても、「生き残るために俺を頼れ」と言ってくれたとしてもそれじゃ嫌だ、納得できない。
だって、友人はどちらかがどちらかに拠って立つものじゃないだろう。
どちらか一方が相手に執着する関係を友情とは呼ばない、ただの依存だ。
僕はサムライに必要とされかった、対等な人間になりたかった。
依って存在する。『依存』。
等しく対になる。『対等』。
僕はこれまでサムライに支えられてきた、サムライがいたからこの半年間をなんとか生き延びられた。でもそれじゃだめなんだ、庇護される存在に甘んじてるかぎり僕はサムライの友人にはなれない、僕は僕として必要とされたいんだ、僕の力をサムライに認めさせたいんだ。
惠に必要とされたように、もう一度だれかに、目の前のこの男に必要とされたかった。
だれかに頼ってもらいたかった。だれかにすがってもらえるような人間になりたかった。
笑わせる。自分の身ひとつ守れなかったくせに、惠の面影やサムライにすがってばかりいる惰弱な人間のくせに。あの時だって逃げるばかりでなにもできなかったくせに、洗面台に追い詰められ身動きできずにされるがままになってたくせに。背中を押さえ込まれてろくに抵抗もできなかった、せめて声はあげないように奥歯を噛み締めたのに想像を絶する激痛に貫かれて悲鳴を撒き散らしたじゃないか、嗚咽をもらしたじゃないか、惠の名前を呼んだじゃないか。
「まだ言わせるのか、わからないのか。他人に同情されるならまだいい、彼らの同情は一過性の情動だ、自分より不幸な境遇の他者を見ることで同情を裏返した優越感にひたっているんだろうと心理解剖して納得できる、でも君はちがう」
「どうちがうんだ」
哀しくなるほど落ち着いた声音でサムライが促し、僕の理性を繋ぎとめていた細い糸が切れた。
「友人だからだ!」
言いたくなかった、こんなこと。でも遅い、口にだしてしまった。
「……自分が友人だと思ってた人間に同情されるのがどれだけみじめかわかるか」
片手で顔を覆う。なんでこんなことを言わせるんだ、こんなこと言いたくなかった。僕がサムライのことを友人だと思っていて、妹以外にはじめて心を許した他人で、彼と対等になりたいとそればかりを考えていたなんて。シーツに覆われた膝に拳をおろし、俯き加減に口を開く。
「……出てけ」
「鍵屋崎」
「頼む、独りにしてくれ」
これ以上サムライの顔を見ていたら殴ってしまいそうだ。決して目を合わせずに呟いた僕の意を汲んでサムライが房を出て行く。行く先はたずねなかった。そんな心理状態でもなかった。背格子に手をそえてスニーカーを履く。そろそろ夕食をとるために与えられた休憩時間が終了する、中央棟地下一階の仕事場に戻らなければ。これから待ち受けてる長い長い拷問を思い浮かべると吐き気がせりあがってくる。踵を返して房を出ようとしてふと鏡が目に入る。奥の壁に嵌め込まれた洗面台の鏡だ。
吸い寄せられるように洗面台に歩み寄り、両側の縁に手をつく。あの時と同じ格好だ。鏡に映ってるのは酷く憔悴した少年だ、眼鏡越しの目は陰惨に荒みきっている。首に貼ったガーゼを一息に剥がせば露出したのはあざやかな痣。くっきりと痕が残ったそれは唇で強く吸われた名残り、三日経ってもまだ消えない。
『今度は隠せないだろう』
「馬鹿だな、ガーゼを貼っておけばわからないだろう」
嘲るように笑おうとして鏡の中の顔が醜く崩れる。自分でもわかってる、これは気休めの応急処置にすぎないと。いつまでも隠しとおせるわけがない、現に会話中サムライの視線を首筋に感じた。『どうしたんだ』と聞かれた時は『転んだんだ』と嘘をつくつもりだが転んで首筋を擦りむく人間はあまりいないと思う。
鏡の中の顔を睨みつける。鏡の中の顔が変化する、裸の背中に覆い被さるのは下半身を露出した少年、洗面台にしがみついて苦鳴をもらしているのは……僕だ。額に汗を浮かべ目尻に涙をため頬を上気させ、酸素を欲するように喉を反り返らせた次の瞬間には振り落とされないよう必死の形相で洗面台にしがみつく。汗にぬれて額に貼り付いた前髪、苦痛を訴えるように眉間に刻まれた深い皺、熱に潤んだ目の焦点は朦朧としてる。
鎖骨の上から首筋にかけて点々と散った赤い斑模様は……
「違う」
お前はだれだ?
「これは僕じゃない、僕はこんな醜態を晒したりしてない。こんなふうにあがいたりしてない、もがき苦しんだりしてない。こんなの僕じゃない、こんな僕は否定する、これは捏造だ虚偽だ虚構だ妄想だ非現実だ」
熱に溺れて頭が真っ白になって揺さぶられるままになって、
「違う、そんなわけない。これは別人だ、僕によく似た他人」
無我夢中で虚空をかきむしって喉がすりへるまで叫んで喚いて泣いて喘いで、
声にだして惠を呼んで、声にださずにサムライを呼んで。
「―っ!!」
名伏し難い衝動にかられて拳を振り上げる、鏡の中の顔を打ち砕こうと怒りに任せて拳を振り下ろし―
軽いノックが響いた。
鏡を打ち砕こうとした拳が寸前で止まる。正気に戻って振り返る。ノックは止まない、断続的に続いてる。だれだろうと訝りながら足をひきずって扉を開ければ五十嵐がいた。
「どうしたんだ、顔色悪いぞ」
「ただの貧血です。何か用ですか?」
戸惑ったように僕を見つめていた鍵屋崎が作り笑顔を浮かべて右手を掲げる。五十嵐の右手に握られていたのは一枚のメモ。まさか。
「妹の住所だ」
言葉をなくして立ち尽くした僕の手にむりやりメモを握らせて五十嵐が言う。震える指でメモを開けばそこには確かに病院の住所が殴り書きされていた。雑な字に目を凝らして硬直した僕に気付いてないのか照れくさそうに鼻の頭をこすりながら五十嵐が続ける。
「データベースに入院記録が保管されてたからそんなに手間かかんなくてラッキーだった。加害者が未成年だった場合、肉親に対する身辺調査が収監後三年間は施行されるのが決まりでな。お前の妹が現在どこに入院してるかもその報告書から……どうした?」
「……ご苦労さまでした」
頭を下げたのは五十嵐に感謝を表したからじゃない、むしろのその逆だ。僕は今自分が浮かべてる表情を五十嵐に見られたくなかった、覗かれたくなかった。五十嵐に会釈して逃げるように扉の内側に駆け込む、背後でバタンとドアが閉じる。後ろ手に施錠して五十嵐が追って来ないようにしてから足早にベッドに戻り腰掛ける。ドンドンドンと鼓膜を打つノック音、ぽつねんと廊下に取り残された五十嵐が「おい、どうしたんだ」とヤケ気味に鉄扉を叩くのを無視し、小刻みに震える指でメモを広げる。
そこに記入されているのは惠が入院してる病院の住所。
僕と惠とを繋ぐ、たった一枚のメモ。
「なんで今頃」
手の中でぐしゃりとメモがつぶれる。力をこめてメモを握り締める。
「なんで今頃来るんだ」
僕が心待ちにしてたメモだ。これで惠に手紙が書ける、今の気持ちを伝えることができる。
あと三日早ければ素直に喜ぶことができたのに、五十嵐に感謝することができたのに、心の底から「ありがとう」が言えたのに。
三日。
この三日間でなにもかもが変わってしまった。
僕はこの三日間で五人の客をとった。看守が二人、囚人が三人。初日は一人、二日目は三人。初日は余りの激痛に途中で失神して以降客をとれなかった。二日目は三人。そのうち一人は看守で昼間にやって来た。今度はなんとか最後まで意識を持ちこたえることができたがそれがよかったのかどうかわからない。二人目の客は口ですませた、喉に異物が詰まって何度も吐きそうになったがシャワーで杜寫物を洗い流すのは今強いられてる行為よりさらにみじめだと言い聞かせてこらえた。三人目の客とはベッドの上で。この囚人は早漏だった、たぶん五分も保たなかったと思う。本人はひどく情けない顔をしていたが僕は行為が長引かなくて心底安堵した。
そして今日、三日目。昼間にやって来たのはタジマだった。何をされたかは言いたくない。絶対に言いたくない。
でも、これで終わりじゃない。これからまた行かなければならない、それが売春班の仕事だから。あと何人相手にすれば一日が終わるんだろう。ひとり?ふたり?口だけで満足してくれるならラクなのに。正直もう限界だ、体も心も壊れそうだ。
こんな人間が惠の兄?
こんな人間が恵に手紙を書く?
上の空でメモを開きながら「今日は口だけですめばいい」と、そればかりを切実に祈ってるような見下げ果てた人間に、堕ちるところまで堕ちてしまった人間に惠の兄を名乗る資格があるのか?
「………」
跡片もなくメモを握り潰しかけ、思いとどまる。こんな物僕にはもう必要ないはずなのにどうしても捨てることができない、握り潰すことができない。くしゃくしゃに丸めかけたメモを丁寧にのばしててのひらに包む。包みこむ。
僕がこんなことを言うのは卑怯だ。
惠から両親を奪った僕が、彼らを殺した張本人がいまさらこんなこと言うのは卑怯だ。
でも、止まらない。メモを握り締めたこぶしを祈りを捧げるように額にあてがい、呟く。
「父さん、母さん……」
惠を守るために僕がしたことは間違ってたのか?
父さんと母さんを、鍵屋崎優と由佳利を殺したことは間違ってたのか?
わからない。もう何もわからない。なんで僕が苦しいのかもわからない。
それでもメモは捨てられない。
手の中に残された唯一の希望だから、僕を生かす唯一の理由だから、頼むから、もうしばらくはこうして縋らせてほしい。
下半身には澱のように倦怠感が沈殿してる。指一本動かすのも億劫だ。全身の間接が軋み、寝返りを打って姿勢を入れ替えるのも骨が折れる。起き上がらなければ、と脳が運動神経に指令を発してるのに体がちっとも言うことをきかない。
余力を振り絞って瞼を持ち上げる。
配管むきだしの見慣れた天井が裸電球を消した闇に沈んでいる。どうやらおきているらしい。意識は辛うじて覚醒してるが頭の芯に靄がかかってるように現実感が希薄だ。シーツに手をつき、体を起こそうとした途端下肢に激痛が走る。痛い。身を二つに折って耐えて激痛の波をやり過ごせば少しラクになる。額に浮かんだ脂汗を手の甲で拭いみっともなく乱れた呼吸を整える。起きなければ、起きていなければ。休憩時間はもうすぐ終わりだ、早く行かなければ。ブラックワーク二班の業務は強制労働終了後が本番だ、これからますます忙しくなる。早く仕事場に戻って待機してなければ。次の客が来るまでにシャワーを浴びておきたい。
『次の客』?
泡がはじけるような自然さで意識の水面に浮かんできた言葉に自嘲の笑みをおさえきれない。次の客、か。まだ三日、たった三日だというのに僕はずいぶん売春班に馴染んでしまったじゃないか。
最初の日は立てなかった。
それでもなんとか粉々になったプライドをかき集めて壁にすがって足を運んだ、一歩一歩慎重に鈍重に。一歩足を踏み出すごとに全身に耐え難い激痛が走って目が眩んだ、いっそ気を失えたらどんなにラクだろうと途中何度も意識を手放しかけた。赤ん坊のように危なっかしい足取りでそれでも一歩一歩足を運んだ、何度も蹴躓きそうになりながら体勢を立て直し歯を食いしばり。
でも、限界は訪れた。
中央棟から東棟に帰る渡り廊下の入り口でとうとう膝をついた。もう一歩も歩けない状態だった。壁に手を突いてうずくまっていたら背後から声をかけられた。振り返れば若い看守がいた、見るからに人がよさそうな顔をした看守は僕が頼んでもないのにお節介を焼いて肩を貸してくれた。途中「大丈夫かい」と不器用に気遣いながら僕をひきずって房へと連れ帰ってくれた親切な看守の名前は聞き忘れた、それどころじゃなかったからだ。それから倒れこむようにベッドに崩れ落ちて昏々と眠り続けた。
すぐに明日が来た。目覚めたことを後悔する一日が繰り返された。
詳細は語りたくない。なにも言いたくない。記憶喪失になれたらどんなにいいだろう、ここ三日間の記憶が欠落してたらどんなに心も体も軽くなって救われるだろう。悪夢のような現実を生きてるのか現実のように生々しい悪夢を見てるのか僕自身区別がつかない。もしこれが夢だとしたらいつ終わるんだろう、目覚めるんだろう。そうだ、僕はきっと風邪をひいて40.2度位の高熱に浮かされてるんだ、だからこんな荒唐無稽な悪夢を見てるんだ。だからこんなに体が熱いんだ、悪寒が走るんだ、間接が軋むんだ。きっと次に瞼を開けたら頭上から惠が覗きこんでるはずだ、「おにいちゃんだいじょうぶ」と心配そうに声をかけてくれるはずだ。惠は優しい子だから僕が悪夢にうなされてる間中ずっと手を握り締めて励ましてくれてたに決まってる、次に瞼を開ければ惠は笑ってくれる、安心したように笑ってくれる。
惠が笑ってくれるだけで僕は救われる。
これは悪い夢だ、悪い夢だ。夢はいつか覚めるんだ、続くわけがないんだ。夢にしてはやけに生々しい身体感覚を伴ってるけど……そういうこともある。さあ目を開けるんだ、目を開ければ夢は終わる、僕は自室のベッドで寝ていて傍らには恵がいる。風邪をひいて寝込んだ僕を心配してけなげに寄り添ってくれてる。鍵屋崎優と由佳利夫妻はどうしてるだろう?書斎にいるのだろうか。そうだ、執筆中の論文について聞きたいことがあったんだ。書斎の扉を開けよう、懐かしい木目調の樫の扉。この向こうに両親がいる、血は繋がってないけど十五年間僕を養育して膨大な知識を授けてくれた戸籍上の両親が。
両親。僕は彼らのことをなんて呼んでいたっけ。
まさか「鍵屋崎優」「由佳利」と呼んでたわけがない、書類上はれっきとした親子なんだから。父と母?違う。思い出せ、思い出すんだ。僕は鍵屋崎夫妻のことをなんて呼んでいた?パソコンのキーを叩いてた父を振り向かせるとき、本棚を整理してた母を振り向かせるとき……
思い出した。
『父さん、母さん』
父さん、母さん。なんて嘘っぽい響きだろう。彼らは何も親らしいことをしてくれなかったじゃないか、笑わせる。でも、こう呼ぶしかない。第三者に説明するときはフルネームでも「父」「母」表記でもかまわない、しかし本人と対峙した時にはこう呼びかけるしかない。
父さん、母さん。ずいぶんひさしぶりに口にした。正確には半年ぶりか?何故だろう、ひどく懐かしい。
……都合のいい感傷だ。鍵屋崎優と由佳利を殺したのは僕なのに、今頃になって「懐かしい」だなんて。「父さん」「母さん」だなんて図々しいにも程がある。僕は自分の選択を後悔してない、惠を守るにはあの時ああするより他になかった。鍵屋崎優と由佳利を殺したことについて何の罪悪感も持ってない、あれは僕が選択して行動した結果なのだから。
なら、受け止めるしかないだろう。
でも、僕が両親を殺してまで守り通そうとした惠ももういない。失ってしまった。僕にはだれもいなくなった、だれも。
一体僕は何を守ろうとしたんだろう。
こんな痛い思いをしてまで、屈辱を噛み締めてまで、何を守り通そうとしたんだろう。
コンコンと扉がノックされる。
「!」
反射的に上体を起こし、毛布をたくしあげる。刹那、下肢に激痛が走る。
「……入っていいぞ」
顔をしかめ、平静な声音で入室を許可する。扉が開き廊下の明かりが射しこむ。素早く扉を閉めた痩せた影……サムライだ。手に何かを抱えている。トレイだ。今日も僕のために食事を持ってきてくれたんだろう。
余計なことを。舌打ちしたくなる。
「気分はどうだ」
「優れない」
簡潔に答えたのは彼との会話を避けようと意図したからじゃない、口を開くのが億劫だったからだ。毛布をどかして姿勢を起こし、少しでもラクなようにベッドの背格子にもたれる。背骨に溶けた鉛を流しこまれたように間接がぎこちなく強張ってる。大股に歩いて房の真ん中に進み出たサムライがトレイを片手に持ったまま器用に裸電球を点ける。明るい光が房に満ち、眩さに目を細める。
「……寝てたのか?」
「……ああ」
口数少なく尋ねられ、口数少なく返す。会話は弾まない。居心地悪い沈黙ばかりが存在感を増して膨れ上がってゆく。
正直、彼に何を言えばいいかわからなかった。
「対等になりたい」だとか「一方的に依存するのはいやだ」とかえらそうに言っておいて結局僕は自分の身ひとつ守り抜けなかったじゃないか、サムライがいなければ何もできない無力な人間だと証明してしまったようなものじゃないか。いくら頭がよくてもこのザマだ、こんな情けない僕を見られたくない。見ないで欲しい。
「食事だ」
顔を背けた僕の枕元にサムライがトレイを置く。アルミ皿に一山盛られたマッシュポテトに澄んだコンソメスープ、付け合せにブロッコリーとアスパラガスの温野菜にパンといういちじるしく栄養状態が偏ったメニューだ。
「……食欲がない」
「無理にでも食べろ、体が保たない」
そっけなくトレイを突き返そうとした僕にいつになく強引にサムライが迫る。サムライの眼光に気圧されて不承不承トレイを受け取る。毛布を被せた膝の上にトレイを置いてフォークをとる。が、どうしても食欲がわかない。無理にでもつめこまなければ体が保たないと頭では理解してるが手が動かない、強引に飲み下しても胃が受け付けないのだ。
「……あとで食べる」
ため息まじりにフォークを置いて言い訳がましく呟けばサムライが咎めるような目で睨んできた。
「嘘をつくな」
「嘘じゃない、本当に食欲がないんだ」
本当だ。この三日間というもの何を食べても味気ない、味覚が麻痺したように料理の味がわからなくなってしまってる。味噌汁は泥水のようにぬるくてサラダのレタスは口の中でぱさぱさかさばって焼き魚は小骨ばかりが喉にひっかかる。何を食べても美味しいと感じない、もともと僕は料理に執着がない人間だったがここ三日間は異常だ。目を閉じて口に入れて飲み下したとしても完全に消化される前に吐き出してしまう悪循環で不快な胸焼けが消えない。
原因はわかってる。口の中に物を詰める感覚に喉が圧迫され、床に跪かされて強いられたおぞましい行為を思い出してしまうからだ。
かぶりを振って不快な連想を払拭し、サムライの手にトレイを押し付ける。だめだ、また気持が悪くなってきた。こんなんじゃろくに食事もできない、早く体が慣れて欲しい。顔面蒼白で押し黙った僕を心配そうな面持ちで見下ろすサムライの視線が苦痛だ。
「反吐が出る」
吐き捨てるように呟いた僕にサムライがまともに返す。
「洗面台に行け」
「君のことだ」
ベッドに上体を起こしてサムライに向き直る。
「だれがわざわざ食事を持ってきてくれなんて頼んだ?食欲がでたら自分で食堂に行く、こんなことしてくれなくていい。食事の手助けが必要な乳幼児じゃないんだから余計なことをしないでくれ、不愉快だ。君は福祉介護士か、看護士か?違うだろう、そうじゃない。僕は病気でも何でもないんだから病人扱いするのはやめてくれ。そうやって同情されるのは不愉快なんだ、見下されているようで」
「同情してるんじゃない、心配してるんだ」
「同じ事だろうそれは、どう違うんだ?僕はひとに同情されなければいけないような人間じゃない、なんでこの僕が、IQ180の知能指数の持ち主でこの刑務所のだれより高い知力の持ち主の僕が同情されなければならない?僕は自分のことをちっとも可哀相なんて思ってない、他人からも可哀相だなんて思われたくないし絶対に思わせない。だれが哀れんでくれなんて頼んだ?哀れんでくれたら苦痛が軽減されるのか?僕は人から哀れまれなければいけないような情けない人間じゃない、みっともない人間じゃない。プライドを売り払った利子で同情を買うような真似は死んでもごめんだ」
たとえあの房でどんな目に遭ったとしても、どんなに屈辱的な行為を強いられて正視に耐えない醜態をさらしたとしてもサムライの前でだけはプライドを死守したい、虚勢を貫きたい、対等でいさせてほしい。サムライに同情されるのはいやだ、こんな目で見られるのは不愉快だ。
消え入りたい。
「なんで君はそんなに鈍感なんだ?最後まで言わなければわからないのか」
「わからない」
察しの悪いサムライに苛立ちと歯痒さが募る。こんなこと言いたくない、こんなみっともない台詞吐きたくない。激情にかられて我を忘れるなんて僕らしくない、僕はいつでも冷静沈着で理性的な人間だったはずだ、こんな風に取り乱したりはしないんだ。これじゃまるで八つ当たりだ、頭ではわかってる、理性ではわかってるんだ。それなのに舌が止まらない、サムライの顔を見ているとやりきれなくなって暴力的な衝動に突き動かされて酷い事を言わずにはいられなくなる、傷付けたくてたまらなくなる。
自分がされたことを他人に仕返して満足するなんて卑劣な人間がすることだ。
自分が傷付けられたから身近な人間を傷付けていいなんて思い上がるのは愚かな事だ。僕がされたことはサムライに関係ない、この男は関係ない。彼は僕のことを心配してるんだ、そんなことわかってる、わからないはずがない。この半年間ずっとサムライに付き合って来たんだ、彼がどれほど無口で不器用で優しい男かわからないはずないじゃないか。
それなのに、なんでこんなに苛立つんだ?
「……あきれたな。鈍感な上に無神経と来たか」
なんで僕は言葉を続けてるんだ?膝を抱えて毛布にくるまり、表情をさえぎるように片手を額に置く。額がしっとりぬれているのは寝汗をかいたからだろうか。頭を抱えこむようにして俯く。僕はどうかしてる、サムライを傷付けたくてたまらない。僕の枕元で所在なげに立ち尽くしてるこの男を言葉の刃でめちゃくちゃに傷付けたい衝動が抑制できない、この男に悪意の塊をぶつけたい。
「じゃあ説明してやる。君は強いからわからないだろう、刀を持っていてもいなくても強いから共感できないだろう。僕は非力を言い訳にしたくない、非力ならその分知力で補えばいいと高を括ってたんだ。視力が低下すれば聴力が発達するように欠落は補うことができる、僕は無力だけど無能じゃない、君の力を借りなくても、君に頼ってばかりいなくても自分の身くらい守りぬけると思ってたんだ」
ずっとサムライと対等になりたかった。
非力を知力で補うことによってサムライに依存する一方の釣りあわない関係を清算したかったんだ。たとえサムライがそれでいいと言っても、「生き残るために俺を頼れ」と言ってくれたとしてもそれじゃ嫌だ、納得できない。
だって、友人はどちらかがどちらかに拠って立つものじゃないだろう。
どちらか一方が相手に執着する関係を友情とは呼ばない、ただの依存だ。
僕はサムライに必要とされかった、対等な人間になりたかった。
依って存在する。『依存』。
等しく対になる。『対等』。
僕はこれまでサムライに支えられてきた、サムライがいたからこの半年間をなんとか生き延びられた。でもそれじゃだめなんだ、庇護される存在に甘んじてるかぎり僕はサムライの友人にはなれない、僕は僕として必要とされたいんだ、僕の力をサムライに認めさせたいんだ。
惠に必要とされたように、もう一度だれかに、目の前のこの男に必要とされたかった。
だれかに頼ってもらいたかった。だれかにすがってもらえるような人間になりたかった。
笑わせる。自分の身ひとつ守れなかったくせに、惠の面影やサムライにすがってばかりいる惰弱な人間のくせに。あの時だって逃げるばかりでなにもできなかったくせに、洗面台に追い詰められ身動きできずにされるがままになってたくせに。背中を押さえ込まれてろくに抵抗もできなかった、せめて声はあげないように奥歯を噛み締めたのに想像を絶する激痛に貫かれて悲鳴を撒き散らしたじゃないか、嗚咽をもらしたじゃないか、惠の名前を呼んだじゃないか。
「まだ言わせるのか、わからないのか。他人に同情されるならまだいい、彼らの同情は一過性の情動だ、自分より不幸な境遇の他者を見ることで同情を裏返した優越感にひたっているんだろうと心理解剖して納得できる、でも君はちがう」
「どうちがうんだ」
哀しくなるほど落ち着いた声音でサムライが促し、僕の理性を繋ぎとめていた細い糸が切れた。
「友人だからだ!」
言いたくなかった、こんなこと。でも遅い、口にだしてしまった。
「……自分が友人だと思ってた人間に同情されるのがどれだけみじめかわかるか」
片手で顔を覆う。なんでこんなことを言わせるんだ、こんなこと言いたくなかった。僕がサムライのことを友人だと思っていて、妹以外にはじめて心を許した他人で、彼と対等になりたいとそればかりを考えていたなんて。シーツに覆われた膝に拳をおろし、俯き加減に口を開く。
「……出てけ」
「鍵屋崎」
「頼む、独りにしてくれ」
これ以上サムライの顔を見ていたら殴ってしまいそうだ。決して目を合わせずに呟いた僕の意を汲んでサムライが房を出て行く。行く先はたずねなかった。そんな心理状態でもなかった。背格子に手をそえてスニーカーを履く。そろそろ夕食をとるために与えられた休憩時間が終了する、中央棟地下一階の仕事場に戻らなければ。これから待ち受けてる長い長い拷問を思い浮かべると吐き気がせりあがってくる。踵を返して房を出ようとしてふと鏡が目に入る。奥の壁に嵌め込まれた洗面台の鏡だ。
吸い寄せられるように洗面台に歩み寄り、両側の縁に手をつく。あの時と同じ格好だ。鏡に映ってるのは酷く憔悴した少年だ、眼鏡越しの目は陰惨に荒みきっている。首に貼ったガーゼを一息に剥がせば露出したのはあざやかな痣。くっきりと痕が残ったそれは唇で強く吸われた名残り、三日経ってもまだ消えない。
『今度は隠せないだろう』
「馬鹿だな、ガーゼを貼っておけばわからないだろう」
嘲るように笑おうとして鏡の中の顔が醜く崩れる。自分でもわかってる、これは気休めの応急処置にすぎないと。いつまでも隠しとおせるわけがない、現に会話中サムライの視線を首筋に感じた。『どうしたんだ』と聞かれた時は『転んだんだ』と嘘をつくつもりだが転んで首筋を擦りむく人間はあまりいないと思う。
鏡の中の顔を睨みつける。鏡の中の顔が変化する、裸の背中に覆い被さるのは下半身を露出した少年、洗面台にしがみついて苦鳴をもらしているのは……僕だ。額に汗を浮かべ目尻に涙をため頬を上気させ、酸素を欲するように喉を反り返らせた次の瞬間には振り落とされないよう必死の形相で洗面台にしがみつく。汗にぬれて額に貼り付いた前髪、苦痛を訴えるように眉間に刻まれた深い皺、熱に潤んだ目の焦点は朦朧としてる。
鎖骨の上から首筋にかけて点々と散った赤い斑模様は……
「違う」
お前はだれだ?
「これは僕じゃない、僕はこんな醜態を晒したりしてない。こんなふうにあがいたりしてない、もがき苦しんだりしてない。こんなの僕じゃない、こんな僕は否定する、これは捏造だ虚偽だ虚構だ妄想だ非現実だ」
熱に溺れて頭が真っ白になって揺さぶられるままになって、
「違う、そんなわけない。これは別人だ、僕によく似た他人」
無我夢中で虚空をかきむしって喉がすりへるまで叫んで喚いて泣いて喘いで、
声にだして惠を呼んで、声にださずにサムライを呼んで。
「―っ!!」
名伏し難い衝動にかられて拳を振り上げる、鏡の中の顔を打ち砕こうと怒りに任せて拳を振り下ろし―
軽いノックが響いた。
鏡を打ち砕こうとした拳が寸前で止まる。正気に戻って振り返る。ノックは止まない、断続的に続いてる。だれだろうと訝りながら足をひきずって扉を開ければ五十嵐がいた。
「どうしたんだ、顔色悪いぞ」
「ただの貧血です。何か用ですか?」
戸惑ったように僕を見つめていた鍵屋崎が作り笑顔を浮かべて右手を掲げる。五十嵐の右手に握られていたのは一枚のメモ。まさか。
「妹の住所だ」
言葉をなくして立ち尽くした僕の手にむりやりメモを握らせて五十嵐が言う。震える指でメモを開けばそこには確かに病院の住所が殴り書きされていた。雑な字に目を凝らして硬直した僕に気付いてないのか照れくさそうに鼻の頭をこすりながら五十嵐が続ける。
「データベースに入院記録が保管されてたからそんなに手間かかんなくてラッキーだった。加害者が未成年だった場合、肉親に対する身辺調査が収監後三年間は施行されるのが決まりでな。お前の妹が現在どこに入院してるかもその報告書から……どうした?」
「……ご苦労さまでした」
頭を下げたのは五十嵐に感謝を表したからじゃない、むしろのその逆だ。僕は今自分が浮かべてる表情を五十嵐に見られたくなかった、覗かれたくなかった。五十嵐に会釈して逃げるように扉の内側に駆け込む、背後でバタンとドアが閉じる。後ろ手に施錠して五十嵐が追って来ないようにしてから足早にベッドに戻り腰掛ける。ドンドンドンと鼓膜を打つノック音、ぽつねんと廊下に取り残された五十嵐が「おい、どうしたんだ」とヤケ気味に鉄扉を叩くのを無視し、小刻みに震える指でメモを広げる。
そこに記入されているのは惠が入院してる病院の住所。
僕と惠とを繋ぐ、たった一枚のメモ。
「なんで今頃」
手の中でぐしゃりとメモがつぶれる。力をこめてメモを握り締める。
「なんで今頃来るんだ」
僕が心待ちにしてたメモだ。これで惠に手紙が書ける、今の気持ちを伝えることができる。
あと三日早ければ素直に喜ぶことができたのに、五十嵐に感謝することができたのに、心の底から「ありがとう」が言えたのに。
三日。
この三日間でなにもかもが変わってしまった。
僕はこの三日間で五人の客をとった。看守が二人、囚人が三人。初日は一人、二日目は三人。初日は余りの激痛に途中で失神して以降客をとれなかった。二日目は三人。そのうち一人は看守で昼間にやって来た。今度はなんとか最後まで意識を持ちこたえることができたがそれがよかったのかどうかわからない。二人目の客は口ですませた、喉に異物が詰まって何度も吐きそうになったがシャワーで杜寫物を洗い流すのは今強いられてる行為よりさらにみじめだと言い聞かせてこらえた。三人目の客とはベッドの上で。この囚人は早漏だった、たぶん五分も保たなかったと思う。本人はひどく情けない顔をしていたが僕は行為が長引かなくて心底安堵した。
そして今日、三日目。昼間にやって来たのはタジマだった。何をされたかは言いたくない。絶対に言いたくない。
でも、これで終わりじゃない。これからまた行かなければならない、それが売春班の仕事だから。あと何人相手にすれば一日が終わるんだろう。ひとり?ふたり?口だけで満足してくれるならラクなのに。正直もう限界だ、体も心も壊れそうだ。
こんな人間が惠の兄?
こんな人間が恵に手紙を書く?
上の空でメモを開きながら「今日は口だけですめばいい」と、そればかりを切実に祈ってるような見下げ果てた人間に、堕ちるところまで堕ちてしまった人間に惠の兄を名乗る資格があるのか?
「………」
跡片もなくメモを握り潰しかけ、思いとどまる。こんな物僕にはもう必要ないはずなのにどうしても捨てることができない、握り潰すことができない。くしゃくしゃに丸めかけたメモを丁寧にのばしててのひらに包む。包みこむ。
僕がこんなことを言うのは卑怯だ。
惠から両親を奪った僕が、彼らを殺した張本人がいまさらこんなこと言うのは卑怯だ。
でも、止まらない。メモを握り締めたこぶしを祈りを捧げるように額にあてがい、呟く。
「父さん、母さん……」
惠を守るために僕がしたことは間違ってたのか?
父さんと母さんを、鍵屋崎優と由佳利を殺したことは間違ってたのか?
わからない。もう何もわからない。なんで僕が苦しいのかもわからない。
それでもメモは捨てられない。
手の中に残された唯一の希望だから、僕を生かす唯一の理由だから、頼むから、もうしばらくはこうして縋らせてほしい。
応援ありがとうございます!
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