少年プリズン

まさみ

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百十九話

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 子供の頃の話だ。
 僕は本を読むのが好きな子供だった。海綿が水を吸収するように僕の脳細胞は活字に変換された知識を吸収していった、新陳代謝が活発な脳細胞が知識に飢えて乾いてるのを知覚したから僕は異常に枝葉の伸びが速いシナプスを萎れさせないためにも本を読まなければいけなかった。本の内容が難解であれば難解であるほど知的好奇心が刺激されて充足が得られた、物心ついた時にはもう父の書斎に入り浸って本棚の端から端へと本を制覇してゆくのが日課になっていた。
 その日も僕は父の書斎に居た。
 父は大学で教鞭を執っていて不在だった。母は家にいたかもしれないが気配はなかった。惠はまだ赤ん坊で眠ってばかりいたし広い家の中はしずかだった。しずけさに満ちた家の中でも最も静謐な場所が父の書斎だった。父の書斎に入り浸り本に目を通していた僕が異変に気付いたのは本棚の下段に手を伸ばしたときだった。
 百科事典のように分厚い本が整然と並んだ一角に何か、薄平べったい四角形の板が挟まっている。興味を覚え、本を手前に引く。本と本とに挟まれるかたちで人知れず隠されていたのは一枚のレコード。相当古い物らしく埃を被って色褪せたレコードを膝にのせ、しげしげと見つめる。本棚に本以外の物があるなんて新鮮な驚きだ。あの堅物が、頑迷で偏屈なことで有名な鍵屋崎優が思春期の少年のように人目を忍んでこっそり隠し持っていたレコードの正体が気になりラベルに目を落とせば洒落た英題が印刷されていた。
 『ホテルカリフォルニア』 
 レコードなんて前世紀の遺物だ、とだれかが言った。僕が産まれた頃にはすでに絶滅しかけてたんじゃないかと思うが生産数が少なければ少ないで希少価値が釣り上がるのが世の習いだ。過ぎ去りし二十世紀を懐古したい向きに需要があることは漠然と理解できたが父がレコードを所有しているという事実はひどく意外だった。鍵屋崎優は自己中心的で冷淡でおよそ父性愛とも寛容精神とも相容れない精神構造の持ち主なのに、そんな男がこんな古いレコードを大事に所有してたなんて、家族の目にもふれない本棚の奥にひっそり隠し持ってたなんて知られざる一面を垣間見た気がした。
 知られざる、人間らしい一面を。
 レコードがあるなら再生するための装置もあるはずだと推理して書斎を捜し回り、見つけたのは十分後。白い布をかけられて沈黙していた装置の上に慎重にレコードを置く。勿論僕はレコードを聞いたこともないし従って扱い方も知らないが、何をどこに置いてどうすればいいかおおよその見当をつけることぐらいはできる。円形の溝にレコードを置いて蓋を閉め、ただじっと待てばいいだけだ。
 やがて流れ出したのは僕が聴いたこともない英語の歌詞。
 芳醇な男性歌手の声が紡ぎだすのはひどく謎めいた、それでいて忘れ難い余韻を残す不思議な歌。好悪の感情が沸き起こるより早く僕を魅了したのはその旋律だ、ユーモレスクな哀愁とほろ苦いペーソスとが溶け合ったノスタルジックな―……
 聴いたのは一回だけだ。
 レコードが終了すると同時にすぐに本棚に戻した。父の私物にさわったことが知られたら面倒なことになると打算的に考えた上で迅速に行動したわけだが本当はうしろめたかったのだ、その頃はまだ生物学上の父だと信じて疑わなかった鍵屋崎優の秘密を覗き見たようで。
 それ以来レコードにふれたことはなかった。
 だから、僕が歌える歌はひとつだけだ。
 「…………」
 鼻歌を止める。
 円周率の暗唱よりは生産的かとも思ったがそうでもなかったようだ。鼻歌を止めてから、ふと、生まれてはじめて鼻歌を唄ったことに気付く。ここ半年間の心境の変化に発作的に笑い出したくなる。僕はいつから暇潰しに鼻歌を口ずさむような俗っぽい人間になったんだ?堕落したものだ。自嘲的な気分で天井を仰げば幾何学的に入り組んだ配管が目に入った。配管むきだしの殺風景な天井から壁に沿って視線を下降させる。
 シャワー。便器。パイプベッド。
 それだけ。あとはなにもない。シャワーがあるだけマシだというのは掛け値なしの本音だがだからといって僕がおかれた状況が改善されたわけではない、否、それどころか事態は悪化する一方だ。このままこうしていれば遠からず客が訪ねてくるだろう、強制労働から引き揚げてきた囚人がブラックワーク二班通称売春班に足を運んでくるだろう。性欲処理が目的で、女の代わりに男を抱きに。
 いや、抱きに来るんじゃない。犯しに来るんだ。
 僕がこの部屋に軟禁されてから何分、何時間が経過したのだろう?正確にはわからない。もう随分経ったような気がする、ぐずぐずしてる暇はないというのに……窓がないから日の傾きで時間帯を知ることもできない。廊下で見張ってる看守に時間を聞いたところで親切に教えてくれるかどうか。
 考えろ、考えるんだ。このままでいいはずがない。
 『いやに決まってるだろう』
 『だから?僕の快不快なんて問題じゃない。たとえ不感症の僕が他人にさらわれるのを極度に嫌がろうが許してくれるはずがない、ここの連中がきみみたいな紳士ばかりだと安穏と信じてるほど僕は楽観主義者じゃない』
 あんなのは詭弁だ。本当はちっとも心の整理なんかついてない、ただそう思い込もうとしていただけだ、廊下で醜態をさらした囚人の二の舞になって泣き叫んで取り乱すくらいなら諦観したふりをした方がラクだとまだ体面が保てると自己暗示をかけて。僕は天才なんだ、天才なんだ。なりふりかまわず看守の同情を乞うて自己保身に走るような去勢された犬のようにみじめな真似はしたくない、絶対に。
 でも、どうすればいい?どうすればこの絶体絶命危機的状況を打破することができる?思考が空転し答えに詰まる。堂堂巡りの自問自答に嫌気がさし比例して徒労感が募る。
 僕は不感症だ。
 僕は潔癖症だ。
 人肌にふれるのもふれられるのも気持が悪い吐きそうだ想像しただけで気が遠くなる、それなのにこれから男に抱かれようとしてる犯されようとしてる。体温が気持ち悪い触感が気持ち悪いねばりけある液体が気持悪い汗に唾液に涙に血、人体の老廃物すべてが気持ち悪い。それでも初めての時は我慢できた。いや、我慢できたというのは語弊がある。惰性といえども彼女と関係を続けていたのは事実なのだから。だが回を重ねるごとに不快感が増していって四回目に誘惑された時にそれが頂点に達してはげしく拒絶してしまったのだ。
 人肌の体温があんなに気持ち悪いものだとは思わなかった。
 彼女は実に三回かけてそれを教えてくれた。
 異性とのセックスを体験してはじめて自分の欠陥を気付かされた僕は結果として潔癖症まで悪化させた。恐怖、とはまた違う。純粋に単純に不快なのだ、耐え難いほどに。何にふれたかわからない不潔な手で体をまさぐられるのも何を食べたかわからない唇でキスされるのも熱い粘膜に包まれるのもすべて。
 異性とのセックスでさえあんなに耐え難かったのに、同性と、それも強制的に性行為に及ばなければいけないなんて冗談じゃない。耐えられそうにない。そんなことが起きたら僕の精神は崩壊してしまう、これまでサムライがいてくれたから、サムライがそばにいてくれたから危うい均衡で維持してられた精神が粉々に砕け散ってしまう。
 いやだ。 
 せっかく希望が見えてきたのに。
 『……届けてやろうか?』
 『同僚の暴走止められなかった罪滅ぼしで住所は調べてやる。こんな仕事長く続けてりゃ警察関係者に知り合いもできるしそのツテ使えばなんとかなるだろ、規則違反になるがデータベースにアクセスしてもいいし。囚人が外に手紙だすときゃ看守が房を回って回収する決まりだしな、俺が直接房をたずねるからそん時にでも渡してくれ』
 五十嵐がせっかく約束してくれたのに、ああ言ってくれたのに。惠に手紙を届けることができるかもしれないと、関係を回復するきっかけが掴めるかもしれないと思っていたのに。惠とつながりを持てれば今の気持ちを伝えることができる、今でも惠のことを大事に思っていると、今でも惠がいちばん大事だと、迷惑かもしれないけど伝えることができる。許してくれなんて都合がいいことは言えない、僕は惠の両親を殺したのだから。
 戸籍上の両親ではなく、実の両親を。
 惠から両親を奪ったのは僕だ。家庭を奪ったのは僕だ。それだけじゃない、僕は惠から「兄」まで奪ったのだ。無邪気に僕のことを慕ってくれた惠から、全面的信頼を寄せてくれた惠から「兄」という唯一の身内まで奪ってしまったのだ。
 いまさら許してくれなんて言えない、そんなおこがましいこと言えるわけがない。でもせめて僕のことを覚えておいてほしい、心の隅にとどめておいてほしい。見捨てないでほしい、忘れないでほしい。
 
 僕をひとりにしないでくれ。
 頼むから、ひとりにしないでくれ。

 これ以上遠くに行ってほしくない、これ以上離れていってほしくない。体と体が離れるのは仕方ない、両親を殺害した僕が刑務所に収監されるのは避けられない事態だった。でもそのことで惠をひとりぼっちにしてしまうなんて、精神を病んだ惠が仙台の小児精神病棟にいれられてしまうなんて不測の事態だった。惠には叔母夫婦がついていてくれるから大丈夫だと心のどこかで高を括って安心していたのに。 
 彼らのことを、戸籍上の両親以上に信頼していたのに。
 いくらサムライと親しくなっても心の中心にはまだ惠がいる。心の中心は惠が占めている。惠に手紙が出せるかもしれないとわかったときは本当に嬉しかった、たとえ返事がこなくても惠との関係性を回復できるだけで生きる気力がわいてきた、希望が持てた。 
 それなのに、なんでこんなことになったんだ?
 なんで僕はこんな所にいるんだ?シャワーとベッドと洗面台があるだけの部屋に軟禁状態で押しこめられてなにもかもに絶望して頭を抱えているんだ?こんなことをしてる場合じゃないのに、僕は一刻も早く恵に手紙を書かなければいけないのに、サムライのところに帰られなければいけないのに。
 サムライが待ってる房へ。
 『戻って来い』
 声がすぐ近くで聞こえた。
 『待っているぞ』
 サムライの声はじかに頭の中で響いた。切羽詰ったような響きの声、だれでもないだれかに祈るような切実な。
 「戻るんだ」
 胸の空洞に吸い込まれそうによわよわしい声にしかならなかったが、くりかえし呟く。決意を確認するために、決心が鈍らないように、鼓膜を震わせるかすかな呟きが萎みかけた心に生気を注ぎこんでくれることを願い。
 「戻るんだ。戻る。戻る」
 惠のところに。
 「戻る。戻る。戻る」
 サムライのところに。  
 僕は惠に伝えたいことがある、サムライに言いたいことがある。こんなひえびえした房で膝を抱えてなにもかもに絶望したフリをしてる時間はない、僕はまだ死ねない、体はもちろん心だって死なせるわけにはいかないんだ。
 心が死んだらサムライにあわせる顔がなくなる。心が死んだら惠のことさえわからなくなってしまう。
 冗談じゃない。
 「……この程度のことで僕が折れると思ったら大間違いだ」
 しっかりと目を見開き、部屋の全容を見渡す。洗面台、シャワー、ベッド、便器、そして扉の配置を非常な集中力で頭に叩き込む。時間はあまりない、僕が目を閉じて考えに耽っているあいだにかなり過ぎた。もうすぐだ、もうすぐ強制労働から引き揚げてきた第一陣がここに来てしまう。ふと壁を仰ぐ。ロンは眠っているのだろうか?寝不足な顔つきをしてたから無理もない。彼が眠っていてくれるなら有り難い、これから僕がしようとしていることを知られずにすむ。
 ベッドから起き上がり、素足にスニーカーを履く。床に降り立ち部屋を見回す。物音は絶えて聞こえない。ひんやりと無機質な静寂が支配する部屋を渡り、中腰の姿勢で屈んで鉄扉と向き合い―
 その瞬間だ、悲痛な悲鳴が耳を貫いたのは。
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