少年プリズン

まさみ

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百十七話

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 後ろ手に扉を閉めて部屋を見渡す。
 コンクリート壁むきだしの殺風景な部屋。錆びた配管が幾何学的に入り組んだ天井とところどころに染みが生じ亀裂が入った壁、地震が来たら真っ先に潰れてしまいそうな危惧すら抱かせる。真っ裸の状態で壁が崩れて生き埋めになるのはぞっとしない。壁際にはパイプベッドが一脚、サイズは俺が普段使用してる物と同寸大だがマットレスが破けて綿がはみだしてないだけ寝心地はよさそうに見える。最も使用目的を考えればとてもじゃないが気軽に腰掛けてみる気になれない。扉によりかかったまま壁際のベッドから視線を転じれば最奥の壁に鏡。
 洗面台だ。
 殆ど俺の房と変わらぬ位置に洗面台と便器があることに妙に懐かしい既視感を覚える。見知った場所に見知った物があるという心強い感覚はすぐに安心感に変わり、少し警戒を緩める。肩の力を抜いて部屋の真ん中へと歩み出る。右手の壁際に配置されたベッドと正面に設えられた洗面台、さて左手には何があるのだろうと視線をやれば壁にシャワーが括り付けられていた。仕切りの衝立もカーテンもなく、むきだしの壁にシャワーが設置されていたのだ。そのまんま。プライバシーもへったくれもないが贅沢は言ってられない、ブラックワーク二班はひっきりなしに客が訪れることで有名な重労働なのだ。さっさと手際よく客をさばいて体を洗い終えて次に備えるのが肝心。性欲持て余したガキどもを身一つで相手にするのだから効率重視で仕事に徹しなければ神経が参ってしまう。
 シャワーに歩み寄り、見上げる。
 「男に見られながらシャワー浴びるなんてぞっとしねえけどな」
 そんな特殊趣味はない。床に設けられた排水口を覗きこめば空虚な闇がよどんでいた。排水口の闇に心まで吸い取られるまえに逃げるようにその場を後にする。他に座る場所もなし、仕方なくベッドに腰掛ける。シャワー以外は俺の房とそっくり同じ内観と同で配置の部屋だ、ただ一つ重大な違いを挙げるならここは一人部屋だということ。
 そうだ。
 「レイジいないんだっけ」
 口にしてから、口にした内容があんまり馬鹿らしくて失笑する。いまさら「レイジいないんだっけ」もない、昨晩レイジを廊下に閉め出したのは俺じゃないか。あれからレイジは帰ってこなかった、大方朝になるまで廊下をふらついてたか適当なねぐらを見つけて夜を明かしたのだろう。消灯時間過ぎたら定期的に見回りが行われるから後者の可能性の方が高いが……コンクリートで塗り固められた天井を仰ぎながらつらつらレイジのことを考える。考え続ける。絶好したはずなのに絶好されたはずなのに、あいつのことが頭から離れない。頭の中心に図々しく居座って心の中心にでんと胡座をかいて目を閉じて「消えろ」と念じても一向に消えてくれない。
 くそ、離れろ、消えろよ。出てくるなよもう、一人にしてくれよ。
 あいつがいなくなってせいせいしてるのに、目の前から消えてくれて万歳でもしたい気分なのになんでこんなむしゃくしゃするんだ?胸が重苦しくふさがって息もろくにできないような有り様なんだ、アイツの名前が呑みこみ損ねた魚の小骨のように喉にひっかかってるせいか?ばかばかしい。あんな奴どうなろうが知ったこっちゃない、俺に閉め出されて風邪ひいたからってそれが何だ?いい気味だ、ちょくちょくひとの寝こみ襲って安眠妨害しやがってちっとは頭を冷やせ。
 気配を感じ取れるほど近くにいる時はうざくてうざくて仕方なかったのに、本当に辟易してたのに、うんざりさせられたのに。 
 常より広い房で、ひとつきりのベッドの上でぽつんと膝を抱えた今になって底抜けに馬鹿で明るいアイツの存在に救われてたことに気付くなんて皮肉だ。
 ブラックワークの業務開始は他部署の囚人が強制労働を終えて引き揚げてきてからだ。
 それまでは外に見張りが付き、房に軟禁状態で過ごす。よくは知らないが囚人の逃亡を防ぐための措置らしい、業務開始までの時間を自由にさせていたら自分の房で自殺未遂を図る奴や売春嫌さに捨て身の脱出を試みる自暴自棄な連中が続出したらしく、結果、二班に配属された囚人は各々に割り振られた仕事場に日中拘束され無為な時間を過ごす羽目になったのだ。
 客が来るまではあと半日もある。 
 悠長に構えて壁にもたれる。このまま刻一刻と時が経過するのを指をくわえて看過してるだけでいいのか、男にヤられるまで何もせずに待ってていいのかという葛藤はあるが、だからといってどうすればいい?身を守る為の武器を持ち込むのは不可能だ、直前施行された身体検査で全部没収される。素手で抵抗するのは無茶だ、俺は体格に恵まれてない。小柄な俺が全力で抵抗したところでかなうわけがない、よしんば生傷だらけになって最初の客を退けたとしても次の客次の客が延延列をなして待ち構えているのだ。そいつら全部を相手どって素手の取っ組み合いを演じるのは不利だろう、どう考えても。
 八方塞がりだ。逃げ場はない。打開策はない。
 不利な状況を好転させる要素なんか一個も転がってない。俺の博打運もいよいよ尽きたようだ。いや、尽きたのは悪運だろうか。足掻いても足掻いても底に落とされるだけで希望の光なんかちっとも見えやしねえ。
 観念して目を閉じれば壁越しに物音。後頭部を壁面にもたせて天井を仰いでいた俺がうろんげに振り向けば「シャワーがあるだけマシだ」という独り言が壁越しに漏れてくる。
 隣は鍵屋崎か。腐れ縁もここまで来るとタチ悪すぎて笑えてくる。
 「よかったな、毎日シャワー浴びれるようになって」
 ベッドに足を投げ出して皮肉を言えば沈黙。壁越しに声が聞こえてきて、はじめて俺と隣部屋だと気付いた鍵屋崎の複雑そうな面持ちが目に浮かぶようだ。失態を悔いるように黙りこんだ鍵屋崎を想像し、少し気分が復調してきた。愉快げな笑みを噛み殺し、声を張り上げて続ける。
 「どうだ、おまえの仕事場」
 「いい部屋だ。気に入った。家具調度の少なさには目を瞑るとしてシャワーと洗面台とトイレが完備されてるのはありがたい」 
 「洗面台とトイレは房にもあるだろ」
 「水の出が悪いんだ」 
 「へえ」
 気のない返事を終止符に会話が途切れる。まずい、と内心焦る。なにも俺が責任を感じることはないのだがこの状況下で沈黙に陥るのは気まずい、ひどく気まずい。いや、実際話し相手がいるだけ救われるのだ。長時間軟禁状態で過ごしてるうちに大半の囚人は貝のように無口になりやがて酷い鬱状態に陥る。抜け殻のようにうつろな目で壁の一点を凝視して訪れる客とてない空白の時間に刻一刻と神経をすり減らし、自閉的に外界と断絶した囚人を俺はこれまで幾人となく見て来たがそいつらの末路は二種類しかない。
 自殺か発狂か。
 極限状況下の精神崩壊を防ぐためには会話を続けるのが手っ取り早い。会話、とにかく会話だ。会話さえしていれば俺はまだ正気でいられる正気を維持してられる正気でいることを自他ともに確認することができる。気を紛らわせるために、現実から目をそらすために、絶望を先送りするために俺は鍵屋崎に話しかける。それこそすがるように必死に。
 「なあ、」
 何て言おう。
 「おまえ、女抱いたことある?」
 何言ってんだ俺。今この状況下でんなこと聞いてどうすんだよおい。
 「………改めて言わせてもらうが、きみは馬鹿だな」
 頭をかきむしって今しがた口をついてでた質問の間抜けぶりを後悔してると鍵屋崎が容赦なく追い討ちをかける。ああそうだ、俺は馬鹿だ。半日後には客がやってきて無理矢理犯られる運命にあるってのによりにもよって娑婆で女抱いたことあるかなんて、場の雰囲気にそぐわないことこの上ない。前髪をかきむしって自分の頭の悪さを呪っていたら背中越しにスプリングが軋む音。どうやら俺の仕事場とは調度の配置が左右対称になってるらしく、鍵屋崎がベッドに腰掛けて壁にもたれると俺と背中越しに対になる格好になる。
 鍵屋崎の声が驚くほどすぐ近くで聞こえたのはそのせいだ。
 「半年前に言ったはずだが?僕は既に経験済みだと」
 ………あ、馬鹿ってそういう意味か。俺の質問にあきれたんじゃなく単純に俺の記憶力の悪さにあきれてたのかと的外れに安心する。
 「よかったな、野郎に犯られるまえに童貞捨てといて」
 「興味がないな。行為中に性的快感を得られなければ男でも女でも大差ない、生物学的身体的特徴は差異はあるだろうがな。異性とのセックスを経験してもわずらわしいだけで何も得る物がなかったんだ、今度も変わらないだろう。きみは?」
 「え?」
 「童貞なのか」
 頭が真っ白になった。
 「ふざけんなよ!」 
 男の沽券に関わる誤解だ。突発的にベッドに立ち上がり拳をにぎりしめて平面の壁を見上げる。クールに無表情な鍵屋崎のようにのっぺりと平坦な壁を憎々しげに歯噛みして睨み、唾をとばして主張する。
 「ここにぶちこまれる一週間前に童貞捨ててるよ。生憎だれかさんと違って育ちが悪いもんでね、スラムの連中はみんな初体験早いんだよ。まわりに同年代の娼婦がうじゃうじゃしてるからな」
 「相手は娼婦なのか?」
 やばい、墓穴を掘った。ベッド上を右往左往してから他に行き場もなく腰をおろす。 
 「娼婦だよ。勘違いすんなよ、金払って相手してもらったんじゃねえ」
 「恋愛感情はあったのか?」
 「……たぶん」
 「たぶん?何だその曖昧な仮定は。きみは『何々であろうか』『何々かもしれない』で恋愛感情を定義付けるのか?」
 「あ、いや、たぶんじゃねーけど」
 ああくそ、なんで不感症の鍵屋崎相手にこんなこと話してたんだよ。とまれ舌、切り落とすぞ。人生最大の汚点をさらけだすつもりかよ。壁面に背中を預け、落ち着きなく貧乏揺すりしながら吶々と語りだす。俺の初恋の思い出ってやつを。
 「……俺が台湾系チームにいた頃の話だ。俺が身を寄せてたチームってのは恐喝・強盗・窃盗・乱闘、なんでもありの武闘派で地元の連中にもおそれられてたんだけどこのチームをシメてた男ってのがとんでもなく自己中な奴でよ、自分が気に入らないことあるとすぐに格下の仲間や女に暴力振るうんだ。よくいるだろ?図体ばっかでかくて中身はてんでガキ。こいつが当時付き合ってた女ってのがもったいないくらいイイ子でさ、年は俺より三つ上の十六歳なんだけど……娼婦だったんだ。名前はメイファ」
 梅花。メイファ。廊下で取り乱した囚人が声を振り絞るように連呼していたガキと同じ名前。舌にのせた名前が呼び水となり当時の記憶がまざまざとよみがえる。
 11でお袋と暮らしたアパートをとびだした俺は当時池袋で幅を利かせてた台湾系チームに身を寄せたが居心地は決してよくなかった。台中混血の俺は中国人から厄介者扱いされ台湾人からも邪魔者扱いされて身の置き所がなかった、おなじチームの仲間にむちゃくちゃないちゃもんつけられて頭に来て殴り倒したことも一度や二度じゃない。何か問題が起これば「半半だから」「中国人の血が混じってる奴は信用できねえ」と聞こえよがしに陰口を叩かれた、同朋からも後ろ指さされて嫌われてる俺とまともに口きいてくれる物好きなんてほんの一握りしかいかなかった。
 その、ほんの一握りの物好きの代表格がメイファだった。
 「メイファは尽くすタイプってか、とにかくすごくやさしくて心配性でみんなの姉貴分的なところがあって。仲間にシカトされて居場所なくした俺が裏路地ほっつき歩いてると真っ先にとんできたよ。まあ、俺があてどなく裏路地ぶらついてるときは大抵仲間と喧嘩して根城にしてる廃工場に顔出しにくい状況だったんだけど」
 「迎えにきてくれたんだな」
 「まあな。でもさ、ひとの心配するより自分の心配しろってかんじで……さっきも言ったけどチームのトップってのがとんでもない癇癪もちで気に入らないことがあるたびメイファに手え上げるんだよ。殴ったり蹴ったりひどい暴れようでメイファはその間じっと我慢してた。何か口答えしたらもっと酷くやられるからって体に青痣作って、」
 目を閉じれば鮮明に思い出す。人けのない路地裏にうずくまり、5メートル先の空き缶に小石を投げて倒す遊戯に寂しく耽っていた俺を迎えに来たメイファ。けっして華やかな顔立ちじゃない、記憶に残りにくい地味な目鼻立ちの中に楚々とした風情があって、瞼の裏に余韻を残すような寂しげな微笑が印象に残った。俺が喧嘩して怪我をした時は『あんまり心配させないでよ』とこぼしながら手際よく包帯を巻いてくれた。
 だれかに心配されるのは心地いい。だれかに抱きしめられるのは心地いい。
 ……それはそうと小石投げて空き缶倒す遊びに熱中してるなんて当時からネクラだな、俺。
 「……ここに来る一週間前、てことはまだチームの連中が全員生き残ってた頃だけど。トップが酒呑んで暴れて、耐えきれなくなったメイファが泣きながら工場とびだしたんだ。さすがに放っとけなくて夢中で後追ったら路地裏でしくしく泣いてた。その姿見たらなんか胸がもやもやして、どうにかしてやりたくなって」
 「同情で寝たのか」
 「ちげえよ!!」
 シーツを蹴飛ばして立ち上がり真っ向から否定したが実の所自信がない。メイファに好意を抱いてたのは事実だがそれが恋愛感情というほど輪郭がくっきりはっきりした物だという確証はない、恋愛感情と言うには淡くて苦すぎる。恋心と同情の比率じゃ確かに後者が勝っていたのは否定できないが、でも。逡巡しながら目を伏せ、言い訳がましく呟く。
 「……俺もちょっと、好きになりかけてたんだよ。あんなことがなければ」
 あんなこと。チーム同士の抗争でメンバーが全滅し、追いつめられた俺が手榴弾のピンを抜き東京プリズン送致が決定するまでは。しみじみ感慨にひたっていると無感動な声が水をさす。
 「初体験の感想は」
 「なんてこと聞くんだ」
 「恥ずかしいのか」
 「まさか」
 「言えないのか」
 「放っとけ」
 「今の話は嘘か」
 「なんだと?」
 壁越しに鼻で笑われて気色ばむ。シーツを踏み荒らして立ち上がった俺が睨み付けた壁の向こう、泰然自若としてベッドに腰掛けているのだろう鍵屋崎が淡々と自説を披露する。
 「よくある話をよそおってるが幾つか矛盾があるな。メイファなんてごくありふれた名前で個性がないし、いかにも捏造の産物の気配濃厚じゃないか。さっき廊下で泣き叫んでいた囚人の話をきっかけに即興で作り上げた嘘じゃないか?だいたい十三歳で童貞喪失なんて早すぎる、君らの常識にかなってようがどうか知ったことか。いや、きみが東京プリズンに収監されたのが一年半前なら当時十二歳か?幾ら男女の初体験年齢が平均14.2歳まで低下してる昨今でもわずか十二歳の少年にセックスの手順を一通りこなせるか怪しいところだな。やっぱり嘘だろう、今の話は」
 「嘘だ、嘘にちがいない」といわんばかりの断定的な口調で自信過剰に述べた鍵屋崎、その姿が見えないにも関わらずわなわなと拳が震え出す。なんで不感症の冷血人間にここまでコケにされなきゃなんないんだと沸々と頭に血が昇り、売り言葉に買い言葉で絶叫。
 「反論がないところから察するにやはり嘘、」
 「るっせーな、速かったんだよ悪いかよ!!」
 頭を抱え込みその場にうずくまる。ああ恥ずかしい、言わせるなよ畜生。すさまじい自己嫌悪に苛まれて顔全体を火照らせた俺の耳朶を弾いたのは憎らしいほど余裕な鍵屋崎の声。
 「……早漏か?」
 「……しかたねえだろ、はじめてだったんだよ」
 「気に病むことはない、十代の男性が射精に要する時間は平均五分。君が五分だか三分だか五十秒だか知らないが女性には少々物足りないほど早く達したところで自分の身体的欠陥を疑うことはない、統計学的に見てそれが普通だ。まあ健全で健康な十代の少年なら時に性的衝動に身を任せて恋愛と性欲をすりかえてみるのもいいんじゃないか?僕は全く関心がないが命はセックスで感染した病気だとガイ・べラミイも言ってる」
 「だれだそれ」
 一秒でも早くこの話を切り上げたくて強引に話題を変える。まだ赤味の残る頬を叩いて喝を入れ背後の壁を振り返る。
 「俺が初体験話したんだからお前も話せよ、俺だけ恥かいたんじゃ浮かばれねえ。お相手はひと回り年上の研究員で親父の助手、だっけ」
 「ああ」
 「何回ヤッた?」
 どうせ一回こっきりだろうと高を括って質問すればなんでもない事のような口調で意外すぎる答えを返す。
 「三回」
 俺より多いじゃねえか。
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