少年プリズン

まさみ

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百五話

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 「犯人はロンだ」
 ふてくされた顔を窓枠にのせたレイジが断言する。
 「なんでだよ、俺アイツに恨まれるようなことなんかしたか?こんな羞恥プレイの辱めを受けてそれ見たことかざまあみろと鼻で笑われるような真似を!!」
 レイジが拳を振り回して断固抗議するたびに頭の斜め上で結わえた髪の一房がじゃじゃ馬の尻尾のようにはげしく跳ねる。それを見た中庭の囚人がさらに笑いのツボを刺激されて呼吸困難に陥る。腹を抱えて地面で七転八倒し、もはや収拾つかなくなった中庭の惨状を忌々しげに睨み、レイジが哀れっぽく頭を抱える。
 大袈裟な演技で悲嘆に暮れるレイジを中庭から見上げ、本人も忘れてるらしい事実を指摘する。
 「毎晩のように貞操の危機に直面していれば熟睡中の同房者に復讐したくなる心理も頷ける」
 「毎晩じゃねえよ、週に二・三回だ」
 結構な頻度じゃないか。
 はじかれたように顔を上げたレイジが自身の名誉に賭けて反論したのにあきれる。僕はロンの友人でもないし彼に親近感を抱いてるわけでもないが週に二・三度の頻度で貞操の危機に陥ってるロンの境遇には同情する。
 「なあラッシ―、見てよこの頭。ひでーと思わない?」
 窓枠にしがみついたレイジが転落せんばかりに身を乗り出しなれなれしく五十嵐に声をかける。横の五十嵐を見れば最前の厳しい表情は払拭され、おどけたような笑顔に戻っていた。自分の頭を指さしたレイジが半泣きの声で共感を求めてきたのに気安く返事をかえす。
 「しょげるな、意外と似合ってるぜ。あとラッシ―と呼ぶな」
 「なんで?五十嵐さんでラッシ―じゃん」
 「相変わらずきみのネーミングセンスは最悪だな。パブロ・ピカソの無意味に長い本名といい勝負だ」
 反省の色など少しもなくきょとんとしてるレイジに閉口する。レイジ限定で「キーストア」という呼称に馴染んだ現在では執拗に訂正する気も起きないが、『鍵屋』崎だからキーストア、などという短絡的で安直な連想の産物としかおもえないセンスの悪いあだ名で呼ばれるのはすさまじく気分が悪い。
 「こちとらくさっても看守だ、ちゃんとさん付けしねーと独居房にぶちこむぞ」
 「うへえ、職権濫用だ。看守がそういうことしていいわけ?」 
 「看守だからいいんだよ」
 上空を横断する渡り廊下と20メートル下方の中庭で気負いなく軽口を叩き合うレイジと五十嵐の姿にあ然とする。東京プリズンの非人道性の象徴として日常怖れられている「独居房」のことを承知で冗談にしている五十嵐にも驚いたが、もっと意外だったのはレイジの「職権濫用」発言だ。もし囚人の冗談を解さない狭量で激しやすい性質の看守が相手だったらレイジはこの一言で最低右腕を折られるか、最悪独居房行きが決定していただろう。
 が、五十嵐はレイジの無礼な発言にも腹を立てることなく、手のかかる子供を見守る教師のように苦笑していた。
 看守らしからぬ人間くさい笑顔だった。
 「なおちゃーん!」
 名前を呼ばれて反射的に顔を上げれば窓を開け放たれた渡り廊下からヨンイルが身を乗り出していた。ゴーグルをひったくろうと左右から攻めてくるレイジの手を軽業師の芸当でかわしながらぶんぶんと手を振っている。断っておくが、ぼくはヨンイルに手を振られるような親密な間柄でもなければちゃん付けで呼ばれるような気色悪い関係でもない。
 「ちゃん付けはやめろ。僕は男だ」
 「見ればわかること口にすな。べつにええやん、男にちゃん付けしても。鉄腕アトムちゃん、とかはおかしいけど」
 「また手塚治虫か?きみは漫画関連の比喩しか使えないのか、語彙に乏しい男だな」
 「へえ、アトムが手塚キャラやってすぐわかったんや?成長したななおちゃん」
 墓穴を掘った。
 まんまとヨンイルにのせられた自分の愚かさを呪いながら唇を噛めば、ひょいと窓枠に腰掛けたヨンイルが宙を足で蹴りながら「そうそう」と話題を変える。
 「お前今ブラックジャック何巻まで進んだ?せっかくなおちゃんのために十巻まで取りおきしてるんや、はよとりにこないと他の囚人にもってかれてまうでー手塚は人気高いんやから」
 なんてことをしてくれたんだ。
 ヨンイルが脳天から発したすっとんきょうな声は大勢の囚人が散った中庭に余す所なく響き渡った。「ブラックジャックを借りたのか?」「あの眼鏡が?」「漫画なんか低脳の読物だって馬鹿にして取り澄ましてたあの眼鏡が?」失笑をはらんだ低いどよめきが鼓膜に押し寄せてきて気が動転する。
 ようやく笑いの発作がおさまり二足歩行が可能になった囚人が不審げなまなざしで頭上のヨンイルと僕とを見比べる。渡り廊下と中庭とをせわしく往復する好奇の視線に耐えかね、今や中庭に居合わせた囚人全員にこともあろうに図書室から漫画を借りた事実が発覚した僕は、努めて平静を装い反撃に転じる。
 「誤解を招く発言は取り消してくれ、きみのような右脳でしか本が読めない凡人と僕を同枠で括るな。だれが漫画なんて速効性の視覚的刺激だけがウリの低俗な書物を借りてまで読むというんだ、わざわざ取りおきなどしてくれずとも結構だ。いいか、僕の愛読書を挙げよう。オーストリアの神経病学者、精神分析の創始者ジークムント・フロイトの「夢判断」だ。フロイトは知ってるか?」
 「風呂糸?」
 「だろうと思った。いいか、一回しか説明しないからよく聞け。ジークムント・フロイト(1856‐1939)オーストリア・ハンガリー二重帝国に属していたモラビア地方の小都市フライベルク (現チェコのプシーボル) にユダヤ商人の息子として生まれる。4歳のとき一家をあげてウィーンに移住。1881年ウィーン大学医学部を卒業。最も興味を抱いたのは神経疾患である。85年、神経病理学の講師の資格を取得。85‐86 年、約 5 ヵ月間、パリの高名な神経病学者 J.M.シャルコー のもとに留学し催眠を研究するかたわらヒステリーの問題に関心を寄せ著作を執筆……」
  「ブラックジャックの本名は?」
  「間 黒男」
 しまった、0.2秒で即答してしまった。
 淘淘と流れる解説をさえぎられ、またもや墓穴を掘った敗北感に打ちのめされてコンクリートに膝をつく。屈辱だ、天才ともあろう者がなんたる失態。地面に膝を屈して自分の愚かさとヨンイルの姑息な手口を呪っていると頭上から朗らかな笑い声がふってきた。
 「もう隠さんでええて、ジブンは手塚治虫大先生大好きです、ブラックジャックだけでなし他の本も読破する勢いですって白状してまえば?」
 「違う、断じて違う。前言撤回を要求する」
 「頑固やな」
 「格好つけたい年頃なんだよ」
 体の脇で拳を握り締めて立ち上がった僕をあきれたように盗み見ながらヨンイルとレイジがこそこそ耳打ちする。さっきまで喧喧轟々喧嘩していたくせにもう仲直りしたのか?変わり身が早すぎてついていけない。宙にぶらさげた足を揺らしながらすべてを見透したようにヨンイルが笑う、残照に照り映える横顔、勝ち誇った微笑。
 「素直に吐いてまえばラクになる。今度手塚キャラで好きなタイプ教えっこしよう、ちなみに俺の理想はやけっぱりのマリアのマリアちゃんや」
 「俺は和登さん。いいよな和登さんボーイッシュで……一人称「ボク」だぜ、「ボク」。しばかれたいってゆーか、」 
 「誤解だ!!」
 意気投合して好みのタイプを話し合っているヨンイルとレイジを一直線に睨み、逡巡。どうにかこの場を切り抜けようと頭を高速回転させ苦肉の策を思い付く。大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせ冷静に反論する。
 「手塚治虫はサムライ、そう、サムライに頼まれて図書室から借りてきたんだ。彼がブラックジャックを読みたいと希望したから図書室に行くついでに借りてきてやっただけだ、僕は毎日のように図書室に通っているからな、他棟の人間に顔が知られたサムライが図書室に出没して騒ぎを大きくするより無難だろう?」
 平板な声を意識して、なおかつ中庭にたむろった囚人全員に聞こえるように明朗に声を張り上げて主張すればレイジとヨンイルが怪訝そうに顔を見合わせる。
 「へえ、サムライがねえ」
 「サムライならブラックジャックよか日だまりの樹とか新撰組好みそうなもんやけどな」
 今だ疑念を捨てきれない口調で曖昧に意見交換するふたりを見比べ最大の危機が去ったことを悟る。何とか無事この場は切り抜けた、危地は脱した。僕が漫画を読んでるなんて、わざわざ図書室から借りてまで漫画などという低俗な書物に熱中して自由時間はおろか消灯後も食事中も手放せないなんて絶対知られてはならないのだ、天才のプライドに賭けて。
 僕自身の名誉を守る為にサムライの名前をだしたところで良心は傷まない。彼には尊い犠牲になってもらおう。
 自己欺瞞、もとい賢明な判断を下して安堵した僕はふと違和感を感じて渡り廊下を振り仰ぐ。現在ヨンイルとレイジがいるのは中央棟と東棟をつなぐ渡り廊下だ。おかしいではないか?何故図書室のヌシを自認するヨンイルが東棟へと至る渡り廊下の途中にいるのだ、自分の棟に帰るというなら話はわかるが西棟は全く逆方向だ。それにサムライから聞いた話では隣接した棟同士を結ぶ渡り廊下は封鎖されて久しいという、隣接する棟同士の仲が険悪でたびたび抗争が起きたのが原因らしいが、それが本当だとすれば西棟のヨンイルが東棟へ行くのはまずいんじゃないか?
 「ヨンイル、質問だ。きみは何故東棟に行こうとしてる?」
 「本の取り立てや」
 「本の取り立て?」 
 耳慣れない言葉に面食らった僕をゴーグル越しに愉快げに見下ろし、ひとさし指を立てて説明する。
 「東棟の人間が図書室からユニコ借りたまま延滞してるんや、二週間ほど。図書室のヌシとしてほうっとけん事態や、せやから俺がじきじきに出向いてきたんや、ジブンの城うっちゃってな。えーと、リョウって知っとるか?赤毛の」
 知ってるもなにも、彼にはつい二ヶ月前もひどい目に遭わされた。
 「ユニコ誘拐したんはアイツや。で、今から武力行使も辞さん覚悟でユニコ取り返しにいくんや」
 「命が惜しくないのか?他棟の人間が東棟に足を踏み入れるのは自殺行為じゃ……」
 「アホ」
 窓枠に尻をのせたヨンイルが頬杖してにっこりほほえむ。
 「立ち入り禁止ちゅーてもそんなの囚人がかってに怖がってるだけで規則で決められとるわけやない、実際中央棟の渡り廊下経由すれば四つの棟どれにでも行くことできるんや。肝心なのは自力で行って帰ってくる実力と覚悟あるかの一点だけや、ジブンひとりの力で生きて帰ってくる覚悟あるなら四つの棟自由に行き来してええんやで?だれも文句なんか言わん」
 ヨンイルが大袈裟に両手をひろげ、当惑が深まる。 
 ヨンイルとは一体何者なんだろう。
 ブラックワークの覇者、連戦連勝の戦績を誇る東東の王様の肩をなれなれしく抱いてじゃれあい、今もこうしてなんら気負いなく、警戒心など一片たりとも持たずに東棟へ立ち入ろうとしている。
 そして、ヨンイルを見つめる五十嵐の視線にこめられた氷点下の殺意。
 「じゃ、そろそろ失礼するわ。夕飯はじまるまでにユニコの身柄確保せんとな」
 「ほなサイナラ」と肩越しに片手を振って廊下を遠ざかってゆくヨンイルを見送り、髪を結わえていたゴムを抜いたレイジが明るい藁束のような茶髪を素早く襟足で結わえる。窓ガラスに映った顔を確認し「よし」と満足げに首肯。
 「やっぱこっちのが決まってる。だろ、ラッシ―とキーストア」
 「五十嵐さんと呼べ」
 鋭い眼光でヨンイルの後ろ姿を見送っていた五十嵐が一転、柔和な苦笑を浮かべる。襟足で髪を一つに結わえたレイジが「ったくロンにも困ったもんだよな、夢の中じゃあんなに素直だったのによ」とぶつくさ零しながら廊下を去ってゆくのを一瞥、声に反応して五十嵐に向き直る。
 「そうだ、思い出した。お前サムライと同房だよな」
 「?それが何か」
 「渡したいもんがあるんだ、ちょっと待ってろ……あ、俺がいない間審判任せる」
 かってに任されても困る。
 そう抗議しようとした僕に背をむけて五十嵐が走り出す。ひとり中庭に取り残された僕は茜色の空を見上げて途方に暮れていたが、「はやくボールよこせ!」とどやされて我に返る。中庭に引かれた白線の陣地の内側、矩形のコートに散らばっていた少年のひとりが居丈高に両手を突き出して「ボールをよこせ」と催促する。腰を屈め、ぎこちない動作でボールを拾い上げる。ずっしり重たいボールの手応えをてのひらに感じ、投げる。
 試合再開。
 成り行きで仕方なく審判代理を務めることになった僕は、他にすることもなく体の脇に腕をたらしてコートの外側に立ち尽くしていた。
 べつに五十嵐の言葉を遵守する義務はない、途中何度も審判の役目を放棄して房に帰ろうとしたが五十嵐が「渡したい」と言った物が気になる。五十嵐はサムライのことをよく知っているようだし、ふたりの関係が気にならないと言ったら嘘になる。ただ眺めているだけ、ゲームに参加しろと強制されないなら、ほんの数分間審判の真似事をするくらいいいだろうと寛容な気分になる。
 東京プリズンに来た当初はリョウに「ここで待ってろ」と強く念を押されたそばから踵を返そうとしてたのに、僕もずいぶんと心が広くなったものだ。
 自分の変化に戸惑いながら漫然とゲームを眺めていたら、ボールを抱えて中庭を走り回っていた囚人とボールを奪おうとしていた囚人の間で小競り合いが発生、かまびすしく怒号が飛び交い不穏な空気が漂いはじめる。
 「おい審判代理、今のトラベリングだよな!?」
 すさまじい剣幕でこちらを振り向いた少年が唾をとばして食ってかかるのに目を細める。
 「よくわからないが、きみがトラベリングだと思うならトラベリングじゃないか」
 互いに襟首を掴み合い、今まさに取っ組み合いの喧嘩にもつれこもうとしていた険悪な形相の囚人ふたりがあ然とする。
 「見てなかったのかよ審判!」
 「つかえねえなオイ!!」
 互いの襟首を突き放し、憤然たる大股でこちらに歩み寄ってきた囚人が僕の顔面に唾をとばして抗議する。ふたりがかりで胸ぐらを掴まれ品のない罵声を浴びせられて閉口する。
 上着の胸ぐらを掴まれた不自由な体勢から眼鏡を外し、レンズに付着した唾を神経質に服で拭う。
 「第三者に意見を求めるまえに少しは自分の頭で考えたらどうだ?だいたい僕はこんな野蛮な球技さっぱり関心がない、大人数で一つのボールを奪いあって発情期の犬みたいにみっともなく息をきらしてかけずりまわって無駄にカロリーを消費してなにが楽しいのか理解に苦しむ。はっきり言って滑稽だ、大変滑稽だ。きみたちはマゾヒストか、自分の肉体を虐めに虐めぬいて極限状況に追いこむことで背徳的な快感をおぼえる倒錯した性癖の持ち主なのか?なぜ過酷な強制労働を終えたあとに肉体を酷使するような真似をするのか、その非効率的な心理を教えて欲しいな」
 「審判に意見求めてなにが悪いってんだよ!?」
 「僕は代理にすぎない。文句なら五十嵐に言え」
 「バスケのルール知ってんのかよお前!!」
 「興味がない」
 無尽蔵の知識欲を満たすために幼少期から医学書を読みあさってきた僕もさすがにバスケットのルールブックに目を通したことはないし、またその必要も感じなかった。自慢じゃないが生まれてこのかたバスケットボールなんて野蛮なスポーツはしたことがない。
 一緒にやる人間がいなかった、というのが本当のところだが。
 「興味のあるなし聞いてんじゃねえよ、屁理屈こねてんじゃねえよこのッ……」
 激怒した少年が風切る唸りをあげてこぶしを振り上げる。殴られるのは慣れている、目を閉じていればすぐに終わる。
 「なにしてんだ!」
 瞼越しに接近してくる足音。僕の胸ぐらを掴んで今まさに顔を殴ろうとしていた少年が邪険な舌打ちとともに僕を投げ落とす。僕から五十嵐へと非難の矛先を転じた少年らが看守を取り囲んで口々に不平不満を訴える。
 「どこ行ってたんだよ五十嵐さん、こいつ使えねえよ」
 「なんで親殺しに代理頼むんだよ、こいつルールも知らねえじゃん」
 「わーったわーった、悪かったよ。はいゲーム再開、持ち場に戻りやがれ」 
 ぞんざいに片手を振りながら少年らを追い払い審判の定位置に戻った五十嵐に不承不承したがい、ボールを抱えた少年らが各々の陣地へと駆け戻ってゆく。何事もなかったように試合が再開される。膝を払って腰を上げた僕を気遣わしげに覗きこみ、五十嵐が声をかける。
 「大丈夫か?」 
 「だと思います」
 「これ」
 五十嵐が片手にさげていた物を僕の前に突き出す。
 「……木刀に見えますが」
 「中学の修学旅行土産。押入れの中ひっかきまわして持ってきたんだ、これをサムライに渡してくれ。頼まれてたのすっかり忘れてた」
 サムライに木刀を頼まれてた?
 何が何だかわからず困惑した僕の手に無理矢理木刀を預け、五十嵐が満足げに頷く。前に突き出した両手にのせられた木刀を所在なげに見下ろす。サムライが以前有していた木刀と目立った差異はない、何の変哲もない古びた木刀だ。
 用は済んだ。
 五十嵐も戻ってきたことだし、審判代理の役目から解放された僕はそろそろ夕食開始の時刻だし自分の棟に戻ることにする。別れの挨拶をしようかと五十嵐を見上げたら、眩い残照に目を細めて白熱した試合風景を眺めていた。残照を浴びて一気に老けこんだ横顔にかける言葉を失い、黙ってその場を去ることにする。木刀を小脇にさげて立ち去り際、なにげなく五十嵐を振り返り。
 目が合った。刹那、五十嵐が何か思い出したように小走りに駆けてくる。
 木刀の先端を地面にひきずった僕の前で立ち止まった五十嵐はばつが悪そうに視線を揺らし、頬を掻き。
 「言い忘れてた」
 「まだ何か?」
 うんざりした。僕は疲れていた、早く房に帰って休息をとりたかった。つっつけどんに聞き返した僕を痛ましげに見下ろし、五十嵐は言った。
 「手紙のこと。止められなくて悪かった」
 手紙。
 なにを言われてるか一瞬で理解できた。サムライから聞かされたのだ、僕の手紙がタジマに拾われ燃やされたとき一緒にいた看守が止めに入ったことを。五十嵐だったのか、と軽く驚いた僕は努めて表情を消して下を向く。
 「いいんです。どうせ届かなかったんですから、あの手紙は。住所もなかったし」
 それにどうせ。どうせ僕から手紙が届いたところで恵は喜ばないのだから。表情を読まれるが嫌で俯いた僕を物言いたげに見下ろしていた五十嵐が、手のやり場に困って頬を掻きながら遠慮がちに呟く。
 「……届けてやろうか?」
 「え?」
 耳を疑った。
 顔を上げ、眼鏡越しに直視した夕日の眩さに目を細める。朱の残照に輪郭を溶けこませた五十嵐が照れくさそうな早口で続ける。
 「同僚の暴走止められなかった罪滅ぼしで住所は調べてやる。こんな仕事長く続けてりゃ警察関係者に知り合いもできるしそのツテ使えばなんとかなるだろ、規則違反になるがデータベースにアクセスしてもいいし。囚人が外に手紙だすときゃ看守が房を回って回収する決まりだしな、俺が直接房をたずねるからそん時にでも渡してくれ」

 五十嵐は本気なのか?
 本気で手紙を届けてくれるのか?
 どうしてそこまでしてくれるんだ?
 
 「本当に、」
 声が震えた。
 緊張で乾いた唇を舌で湿らし、唾を飲み下し、喉をなめらかにする。体の脇で拳を握りしめ、すがるように五十嵐を仰ぐ。
 「本当に届けてくれるんですか?住所を調べてくれるんですか?恵を、妹に手紙を届けてくれるんですか?」
 「そんな念をおさなくても紙飛行機にしてとばしたりしねーよ」
 我を忘れて詰め寄った僕を片手を掲げて制し、五十嵐が苦笑する。その時、茜色の空に直線の軌跡を描いて白い物体が滑空してくる。飛燕のように急傾斜の軌跡を引いて僕と五十嵐の足もとに不時着したのは紙飛行機。ふたり同時に紙飛行機がとんできた方角を振り向けば中庭の中央の監視塔、囚人の監視に飽きて退屈を持て余した看守がふたり、暇潰しに紙飛行機を折ってとばしていた。中腰の姿勢で紙飛行機を手に取り、開く。
 外の恋人に宛てたとおぼしき囚人の手紙だった。
 「………今度注意しとく」
 「…………………」
 五十嵐は手紙を紙飛行機にしてとばしたりしないと約束した。
 タジマのように、僕が妹に宛てた手紙を燃やして灰にしたりはしないと固く誓った。
 なるほど、五十嵐は出来た看守だろう。レイジの軽口にも腹を立てず、囚人からは審判を頼まれ、同僚の暴走を止められなかった罪滅ぼしとして僕の手紙を届けようと善意で申し出てくれた。
 彼を信用していいのだろうか?
 自分の心に従って、一縷の希望にすがってもいいのだろうか? 
 「任せろ」
 五十嵐が力強く頷く。「住所がわかり次第伝えにいくからお前の房教えろ」と言い置き、肩越しに片手を振って夕日の方角に去ってゆく五十嵐をむなしく手をつかねて見送っていた僕の口から意図せぬ声がもれる。
 「あ、」
 五十嵐が怪訝そうに振り向く。
 五十嵐の視線を避け、顔を伏せる。立ち尽くす。
 「…………………………………………………ありがとうございます」
 本当の意味で敬語を使ったのはこれが初めてだ。
 棘のように喉にひっかかっていた言葉が、長い間、本当に長い間僕の胸を塞いでいたため息のような言葉が、みっともなくかすれた声に音を付与されて吐き出された。表情を隠して俯いた僕の姿は五十嵐に頭を下げているようにも見えただろう。5メートルの距離を隔てて対峙した五十嵐がキザに肩を揺らし、面映げに笑う。
 「おうよ。どういたしまして、だ」
 今度こそ本当に五十嵐が去ってゆく。
 西空を染めた太陽が月へと空を明け渡す間際に存在を主張するように燦然と燃え上がり、残照で一面朱に染め抜かれたコンクリートの中庭に放心状態で取り残された僕は、五十嵐の後ろ姿が遠くに去ってから自分が今さっき口にした台詞を反芻する。
 サムライやレイジにはとても聞かせられない言葉だ。
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