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百三話
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今日は散々だった。
東京プリズンに来てから散々じゃなかった日があるかと問われれば否だが、今日はとくに散々だった。僕は仏滅も大安も、なんら科学的根拠のない迷信じみたこじつけは一切信じない主義だがもし厄日というものが実在するなら今日は間違いなくその日だ。
まずは朝。
普段の僕なら犯すはずもない失態を犯してしまったことに目覚めた直後に気付いた。大音量の起床ベルに促されてベッドに上体を起こし、寝る前枕元に置いた眼鏡を手探りでかける。眼鏡を求めて枕元にのばした手が固い物に触れた。何だろう。半覚醒の頭で不審がりつつ眼鏡をかけ、視界を明瞭にする。
本があった。表紙を開き、僕の片手を挟んだ状態で枕元に広げてあった。
昨夜の記憶が高速再生される。昨夜僕は消灯後に隠れてこっそり本を読もうとしていた、東京プリズンの就寝時刻は夜九時と厳重に定められているがこの規則を従順に遵守してる囚人はごく一部、もとい皆無。夜九時といえば宵の口、たとえ半日に及ぶ強制労働で心身ともに疲弊していても目が冴えて眠れない囚人は数多い。
否、正確には皆寝るのが惜しいのだ。
一旦眠りに落ちてしまえば日中の疲弊も伴って泥のように熟睡してしまうだろう、次に目を開けたら朝、そして始まるのは昨日とおなじ単調な今日、味気ない食事と過酷な強制労働、先の見えない生活の延長。
刑務所の囚人は自由に飢えている。自分が自由に使える時間を一分一秒たりとも無駄に浪費せず重宝し、各々の娯楽に当てているのだ。消灯時間が過ぎても実状に変化ない、巡回の看守が囚人が寝付いてるかどうか確認し、納得して去った直後からある者は毛布に隠れて猥褻な雑誌を読み耽りある者は裸電球を灯して同房の囚人と賭けポーカーをし、夜明けが近くなり睡魔に負けた瞼が重く垂れ下がってくるまで辛抱強く起きているのだ。
僕も例外ではない。
ごく限られた自由時間しか認可されてない囚人が趣味に徹することができる時間帯は消灯後の深夜と相場が決まっている。自由時間では読みきれなかった本を消灯時間後も毛布に隠れて読み耽るのは今や僕の日常と化している。裸電球の照度を絞り、睡魔に瞼がふさがれるまで活字を追い、きりがいいところで栞を挟んで就寝する。それが東京プリズンに来てから自然発生した僕の一日の終わりの儀式だ。
が、僕が所属しているのはブラックワークは例外として東京プリズンに存在する三つの部署の中で最も過酷なイエローワーク。炎天下の砂漠で来る日も来る日も井戸を掘り続ける重労働で精神的にも肉体的にも最も消耗がはげしく、過去には一日最高三十人の死者をだしたこともあるらしい非人道的な部署だ。日射病にかかって倒れることも砂漠に生き埋めにされることもなく、無事一日を切り抜けることができた囚人の多くは心身ともに疲労が頂点に達しており、房に帰り着いたその足でベッドに倒れこんで仮死状態と見紛う深い眠りに落ちる。
くりかえし言うが僕は体力に自信がない。知力ならだれにも劣らない自信があるが体力は平均以下、そんな僕がイエローワーク終了後に図書室と房とを往復して一日一冊のペースで本を消化するのは大変だ。それでも一日一冊のペースで本を読破するのは難しくなかった、外では一日平均二冊本を読んでいたのだ、数量的には減ったのだからその点は問題ない。
問題なのは睡魔だ。
以前の僕なら寝る前に読もうとした本を表紙を開いた状態で放置するような醜態を露呈するはずがなかった。しかし実際、昨夜の僕はこの本を読もうとして表紙を開いた瞬間に眠りに落ちたのだ。
ありえない。一生の不覚だ。
眠りに落ちた瞬間の記憶はないが、事実、動かし難い証拠として枕元に本が存在している以上否定しようがない。そして僕が昨夜寝る前に読もうと楽しみにしていた本は……
手塚治虫著、ブラックジャック八巻。
くれぐれも誤解しないでほしいが、漫画しか読まないような単細胞の怠け者と一緒にされてはたまらない。僕は左脳と右脳とバランス良く活性化させて本を読み活字を消化する、漫画なんて低俗かつ下等な書物、右脳しか使わない凡人が好む退廃した娯楽の産物になどこれまで一切まったく関心がなかったし事実漫画も漫画を好む人種も軽蔑していたのだ。
東京プリズンに収監されるまでは。
二ヶ月前、ヨンイルと名乗る西棟の囚人から無理矢理強引に百八十度僕の意向を無視して押し付けられたのがブラックジャック一巻だった。最初僕は固辞した、手塚治虫だか何だか知らないがそんな奇抜なペンネームの、それも没後百年以上になる二十世紀の人間がしるした漫画など興味はないし読んだところでなにも得るものはないと強固に主張したがヨンイルは強引だった。仕方なく不承不承、僕はブラックジャック一巻を借りる手続きをした。気は進まなかったが図書室私語厳禁の規則に違反してヨンイルと押し問答を繰り広げるのも大人げないと賢明な判断を下しただけで他意はなかった、これっぽっちも。
それなのに何故か二ヵ月後の現在、僕の手元にはブラックジャック八巻がある。
……動かし難い証拠がある以上認めざるをえないだろう。ああそうだ、僕はまんまとヨンイルの策略に嵌められた。僕を漫画などという低俗かつ下等な書物に耽溺させて自分とおなじ凡人の地平まで堕落させようという悪魔の如く狡猾なヨンイルの思惑に誘導されて。
内心忸怩たるものがないではないが、実際面白いのだから仕方ない。
否、ただ「面白い」では語弊がある。「素晴らしく面白い」のだ。一巻を読み終えた時の感動は今でも鮮明に思い出せる、世間にこんな面白い本があったのか、死について生について命についてそれらを内包する現代医学について、極論すれば人という種について、人類の永遠の命題にこんな斬新な観点から挑んだ書物があったのかと蒙を啓かれた。
以後、僕は人目を盗んで足繁く図書室に通っては手塚治虫著の漫画を借り続けた。一巻、二巻、三巻、四巻、五巻、六巻、七巻……そして八巻目。一度借りた本は最低でも三回読み返すのが僕の流儀だ。昨夜もその流儀に則って三回目の再読に入ろうとしたのだが、表紙を開いた瞬間睡魔に襲われて挫折した。
しかし、天才は一度こうと決めことをとりやめたりはしない。
二ヶ月前の一件を契機に、僕はサムライと一緒に食事をとるようになった。サムライと同席するということは必然的にロンやレイジと同じ机になるわけだが、今日は故あってひとりで食事をとりたいと固辞した。サムライは特に異論を唱えることなく「心得た」と承諾してくれた。その方面ではサムライは非常に淡白な人間だ、なぜひとりで食事をとりたいのか不審に思ったとしても口には出さず、個人の意向を尊重してくれる。
サムライは多分、一応、認めたくはないが、僕の友人……なのだろう。
曖昧な表現を採用せざるをえないのは東京プリズン入所から半年が経過した現在でも、主観的にはともかく、客観的には僕とサムライが友人関係に映るという確信がもてないからだ。
確かに下水道の一件から僕らは一緒に食事をとるようになったし、お互い無言でいることが多かった自由時間も他愛ない雑談をするようになった。でも、目に見える変化といえばそれくらいで「他に何が変わったのか」と問われれば答えに詰まる。
何かは確実に変わったのだが、その「何か」は日常水面下に潜んでいて可視の範囲に浮かんでこないのだ。
だから他人から見た僕とサムライは以前とおなじ、特別親密な間柄になったわけでもなければ距離が縮まったわけでもなく、無表情な人間がふたり、同じ空間と時間を共有し、それでも互いに無関心に違うことをしてるように映るのだろう。
ただ、サムライの存在を煩わしいと思わなくなったのは事実だ。
背中越しに感じる体温と気配に免疫ができた、とでも言えばいいのだろうか。サムライの存在が日常に溶け込んで、僕の生活の一部となって、僕に不可欠な人間になって、接触の嫌悪も解消されて。
「居心地がいい」と言えば語弊があるが、サムライのそばにいるとリンチやレイプを警戒して始終張り詰めてる神経が緩むのも事実だ。
それが「居心地がいい」ということなら、否定できない。
話が脱線したが、僕は今日ひとりで朝食をとった。
昨日読み損ねたブラックジャック八巻を膝に広げ、食事の片手間にページをめくりながら。
もし食事中漫画を読んでいるところをレイジに目撃されたりしたら「キーストアってば口ではいやがってたくせに今じゃすっかり手塚ファン?」とかなんとかチェシャ猫のような笑顔でからかわれるに決まってる、だから今日は、今日だけは彼らから離れたテーブルで食事をとっていたのにロンにはしっかり見られていた。
それを知ったのはイエローワークの強制労働中で、ロンとふたりで井戸掘りの任に就かされたとき本人の口から証言を得たのだ。レイジと違ってひとの嫌がることはしないロンのことだ、まさか僕が、IQ180の天才たるこの僕が食事中に漫画を読んでいたと他の囚人に暴露したりはしないだろうが……確信はない。
しかし、ロンから言質をとらないうちに第二の災難に見舞われた。
砂漠に井戸が沸いたのだ。
結構なことだ、と他人事のように言わないでほしい。他の囚人にとってはなるほど結構なことだろう、無駄で無意味だと身の上を悲観していた長年の苦労が報われたのだから。しかし生憎とイエローワークに配属されてから半年、生来の体力の無さと宝の持ち腐れと化した知能指数が災いして砂漠での井戸掘りに労働の喜びを見出せずにいた僕には文字通り降って沸いた災難でしかない。
「すげえ、水だ!」「ほんとに沸いた!」「うめー」と上半身裸で狂喜乱舞する囚人たちをよそに、間断なく水が降り注ぐ穴の底で頭髪といわず服といわず全身びしょぬれになった僕は閉口した。確かに水が飲みたいと言ったが、その二十秒後に現実になるとは……運命の皮肉なのか偶然の悪戯なのかは知らないが、試しに飲んでみた水には鉄分が多く含有されすぎていた。まあ、衛生面では全く信用ならない東京プリズンの水道水よりマシだろうが。
そして強制労働終了後。
水を吸って不快に湿ったスニーカーが足を踏み出すたびにぬれた音をたてる。本来なら房に直帰して夕食開始まで待機してる時間帯だが、ぐっしょりぬれたスニーカーを乾かさないことには不快指数が上昇する一方で我慢できない。分厚いコンクリート壁で四方を密閉された房は通気性に優れてるとはいえず、明日の強制労働に支障がでないよう取り急ぎスニーカーを乾かすためには風がとおるところ、屋外にでなければ。
展望台だ。
以前僕の天敵―クロゴキブリ、学名Periplaneta fuliginosa ゴキブリ科―が房に出没し、危急の措置として展望台に一時避難したことがある。だから展望台への行き方は頭に入ってる、入り組んだ路地も階段の位置も完璧に記憶している。
途中何人かの囚人とすれちがい、階段の踊り場に到着。
ガラスが除去された素通しの窓枠を跨ぎ、展望台に降り立つ。折から吹いた風がしっとり湿った髪をかきまぜ、黄昏の空へと還ってゆく。眩く乱反射する残照に目を細め、展望台の先端に歩む。昼から夜への過渡期、夕方特有のなまぬるい風が生渇きの上着の裾をはためかせる。展望台の先端でスニーカーを脱ぎ、裸足になる。裸足の足裏にコンクリートのざらついた質感を知覚、少しでも気を抜けば踵まで砂に埋まってしまう砂漠とは対極の水平面の安定感。
スニーカーの踵を揃え、縦方向に置く。一寸の狂いもない完璧な角度に満足する。腕組みして踵を揃えて脱ぎ置いたスニーカーを見下ろしていたら空から吹いた強風が前髪を舞い上げ、よろめく。
その拍子に踵がスニーカーに接触、瞬く間に一足が落下。
「……………」
展望台の先端に四肢をついた間抜けな姿勢で地上を覗きこむ。僕の手をむなしくすりぬけていったスニーカーは展望台の真下の地面に物寂しく転がっていた。
僕としたことが、なんて失態だ。
底意地悪い囚人に隠されるまえに拾ってこなければと踵を返しかけ、展望台にもう一足を放置してあったことを思い出す。片方のスニーカーを右手にぶらさげ方向転換、階段を駆け下りて中庭に到着。
黄昏の中庭には強制労働を終えた囚人が三々五々散らばっていた。
肉体労働で疲弊した様子もなくエネルギッシュな歓声をあげ、白線の陣地の内側でバスケットボールを取り合っている。白熱した試合風景を横目にスニーカーの落下地点に急ぐ。あった、あれだ。幸いまだ持ってかれてなかったらしく、砂利まじりの風にくたびれた靴紐をそよがせている。
右手に片方のスニーカーをぶらさげて慎重に落下地点に接近、五歩、四歩、三歩と距離を縮め……
目の前でスニーカーが消失した。
「!」
反射的に顔を上げる。
僕に悪意を持ってる囚人がスニーカーを持ち去ろうとしたのではないかと疑ったが紀憂だった。いや、しかし事態が好転したわけではない。僕自身の過失で転落したスニーカーを所在なげに片手に掲げていたのが見知らぬ看守だったからだ。
アルコールの過剰摂取で黄色く濁った覇気のない目と剃刀であたった形跡のない無精髭、ろくにアイロンをかけた痕跡もない色の抜けた制服。
東京プリズンには二種類の看守がいる。
囚人を虐待する看守と虐待しない看守だ。前者の筆頭がタジマで、生意気な囚人をいたぶるのが生き甲斐だと豪語してはばからない唾棄すべき人間だ。後者の看守はごく少数だが皆無でもない、東京プリズンに送り込まれた囚人の中には貧困や家庭の事情からやむなく犯罪に手を染めた者もいる、経済的にも情緒的にも恵まれない少年期を過ごした囚人に同情的な態度をとる看守もいないわけではないのだ。
目の前の男がどちらか見極めようと、1メートルの距離を維持して仔細に観察する。
櫛を通すのもわずらわしければ整髪料で撫で付けるのも億劫だったのだろう、ちらほらと白髪の混ざり始めた黒髪には根強い癖が付いているが存外顔は若い。第一印象では四十路と錯覚したが、よく見れば頬は精悍に引き締まり、色褪せた制服に包まれた四肢にも無駄な贅肉はない。実年齢は意外と若いかもしれない。
…とすると、あれは若白髪か。
などという呑気な感想は、脳の奥で膨張した違和感に圧倒される。今日が初対面だとばかり思い込んでいたが、以前どこかで見たような気がするのだ。いや、東京プリズン内を我が物顔で練り歩いてる看守の群れの中に一方的に見出したというわけではなく、以前どこかで会ってはっきりと会話を交わした確信さえある。
あれはそう、半年前―
『そのへんにしておけ』
耳によみがえる声。
『お前さん知らねえのか。その小僧はVIPだぜ。丁重に扱わねえと上からお叱りを受ける』
『万一そいつの頭をぶん殴ってみろ。IQ180の超高性能の頭脳がイカレちまったら、お前、どう責任とるつもりなんだよ?』
やる気なさそうな声に付随して浮上するのはさまざまな断片、気だるそうにハンドルを握るくわえ煙草の横顔、眠たそうな半眼。
見覚えがあるはずだ。
半年前、ジープの荷台に僕を乗せてはるばる東京プリズンまで護送してきた運転手じゃないか。
「この刑務所の人材不足は深刻だ」
「?」
声に反応した看守が、今はじめて僕の存在に気付いたといわんばかりにゆるやかに振り向く。半年ぶりの再会だというのに心弾むものがなにもないのは看守と囚人という明確な上下関係故だろうか。警戒を解き、無防備に看守に歩み寄りながら続ける。
「僕を護送してきた運転手が半年後の現在、看守の制服を着てる理由を聞きたいですね」
彼の名前は何だったろう。
不審げなまなざしを僕に注いでる看守の前で立ち止まり、半年前、拘置所の囚人搬送用裏口からジープの荷台に搭乗したときに紹介された名前を思い出そうと目を閉じ―
目を開く。
「五十嵐さん」
僕のスニーカーを片手にぶらさげた間抜けな格好で立ち尽くしている冴えない中年男性の名前は、五十嵐。
僕をこの地獄に送りこんだ張本人だ。
東京プリズンに来てから散々じゃなかった日があるかと問われれば否だが、今日はとくに散々だった。僕は仏滅も大安も、なんら科学的根拠のない迷信じみたこじつけは一切信じない主義だがもし厄日というものが実在するなら今日は間違いなくその日だ。
まずは朝。
普段の僕なら犯すはずもない失態を犯してしまったことに目覚めた直後に気付いた。大音量の起床ベルに促されてベッドに上体を起こし、寝る前枕元に置いた眼鏡を手探りでかける。眼鏡を求めて枕元にのばした手が固い物に触れた。何だろう。半覚醒の頭で不審がりつつ眼鏡をかけ、視界を明瞭にする。
本があった。表紙を開き、僕の片手を挟んだ状態で枕元に広げてあった。
昨夜の記憶が高速再生される。昨夜僕は消灯後に隠れてこっそり本を読もうとしていた、東京プリズンの就寝時刻は夜九時と厳重に定められているがこの規則を従順に遵守してる囚人はごく一部、もとい皆無。夜九時といえば宵の口、たとえ半日に及ぶ強制労働で心身ともに疲弊していても目が冴えて眠れない囚人は数多い。
否、正確には皆寝るのが惜しいのだ。
一旦眠りに落ちてしまえば日中の疲弊も伴って泥のように熟睡してしまうだろう、次に目を開けたら朝、そして始まるのは昨日とおなじ単調な今日、味気ない食事と過酷な強制労働、先の見えない生活の延長。
刑務所の囚人は自由に飢えている。自分が自由に使える時間を一分一秒たりとも無駄に浪費せず重宝し、各々の娯楽に当てているのだ。消灯時間が過ぎても実状に変化ない、巡回の看守が囚人が寝付いてるかどうか確認し、納得して去った直後からある者は毛布に隠れて猥褻な雑誌を読み耽りある者は裸電球を灯して同房の囚人と賭けポーカーをし、夜明けが近くなり睡魔に負けた瞼が重く垂れ下がってくるまで辛抱強く起きているのだ。
僕も例外ではない。
ごく限られた自由時間しか認可されてない囚人が趣味に徹することができる時間帯は消灯後の深夜と相場が決まっている。自由時間では読みきれなかった本を消灯時間後も毛布に隠れて読み耽るのは今や僕の日常と化している。裸電球の照度を絞り、睡魔に瞼がふさがれるまで活字を追い、きりがいいところで栞を挟んで就寝する。それが東京プリズンに来てから自然発生した僕の一日の終わりの儀式だ。
が、僕が所属しているのはブラックワークは例外として東京プリズンに存在する三つの部署の中で最も過酷なイエローワーク。炎天下の砂漠で来る日も来る日も井戸を掘り続ける重労働で精神的にも肉体的にも最も消耗がはげしく、過去には一日最高三十人の死者をだしたこともあるらしい非人道的な部署だ。日射病にかかって倒れることも砂漠に生き埋めにされることもなく、無事一日を切り抜けることができた囚人の多くは心身ともに疲労が頂点に達しており、房に帰り着いたその足でベッドに倒れこんで仮死状態と見紛う深い眠りに落ちる。
くりかえし言うが僕は体力に自信がない。知力ならだれにも劣らない自信があるが体力は平均以下、そんな僕がイエローワーク終了後に図書室と房とを往復して一日一冊のペースで本を消化するのは大変だ。それでも一日一冊のペースで本を読破するのは難しくなかった、外では一日平均二冊本を読んでいたのだ、数量的には減ったのだからその点は問題ない。
問題なのは睡魔だ。
以前の僕なら寝る前に読もうとした本を表紙を開いた状態で放置するような醜態を露呈するはずがなかった。しかし実際、昨夜の僕はこの本を読もうとして表紙を開いた瞬間に眠りに落ちたのだ。
ありえない。一生の不覚だ。
眠りに落ちた瞬間の記憶はないが、事実、動かし難い証拠として枕元に本が存在している以上否定しようがない。そして僕が昨夜寝る前に読もうと楽しみにしていた本は……
手塚治虫著、ブラックジャック八巻。
くれぐれも誤解しないでほしいが、漫画しか読まないような単細胞の怠け者と一緒にされてはたまらない。僕は左脳と右脳とバランス良く活性化させて本を読み活字を消化する、漫画なんて低俗かつ下等な書物、右脳しか使わない凡人が好む退廃した娯楽の産物になどこれまで一切まったく関心がなかったし事実漫画も漫画を好む人種も軽蔑していたのだ。
東京プリズンに収監されるまでは。
二ヶ月前、ヨンイルと名乗る西棟の囚人から無理矢理強引に百八十度僕の意向を無視して押し付けられたのがブラックジャック一巻だった。最初僕は固辞した、手塚治虫だか何だか知らないがそんな奇抜なペンネームの、それも没後百年以上になる二十世紀の人間がしるした漫画など興味はないし読んだところでなにも得るものはないと強固に主張したがヨンイルは強引だった。仕方なく不承不承、僕はブラックジャック一巻を借りる手続きをした。気は進まなかったが図書室私語厳禁の規則に違反してヨンイルと押し問答を繰り広げるのも大人げないと賢明な判断を下しただけで他意はなかった、これっぽっちも。
それなのに何故か二ヵ月後の現在、僕の手元にはブラックジャック八巻がある。
……動かし難い証拠がある以上認めざるをえないだろう。ああそうだ、僕はまんまとヨンイルの策略に嵌められた。僕を漫画などという低俗かつ下等な書物に耽溺させて自分とおなじ凡人の地平まで堕落させようという悪魔の如く狡猾なヨンイルの思惑に誘導されて。
内心忸怩たるものがないではないが、実際面白いのだから仕方ない。
否、ただ「面白い」では語弊がある。「素晴らしく面白い」のだ。一巻を読み終えた時の感動は今でも鮮明に思い出せる、世間にこんな面白い本があったのか、死について生について命についてそれらを内包する現代医学について、極論すれば人という種について、人類の永遠の命題にこんな斬新な観点から挑んだ書物があったのかと蒙を啓かれた。
以後、僕は人目を盗んで足繁く図書室に通っては手塚治虫著の漫画を借り続けた。一巻、二巻、三巻、四巻、五巻、六巻、七巻……そして八巻目。一度借りた本は最低でも三回読み返すのが僕の流儀だ。昨夜もその流儀に則って三回目の再読に入ろうとしたのだが、表紙を開いた瞬間睡魔に襲われて挫折した。
しかし、天才は一度こうと決めことをとりやめたりはしない。
二ヶ月前の一件を契機に、僕はサムライと一緒に食事をとるようになった。サムライと同席するということは必然的にロンやレイジと同じ机になるわけだが、今日は故あってひとりで食事をとりたいと固辞した。サムライは特に異論を唱えることなく「心得た」と承諾してくれた。その方面ではサムライは非常に淡白な人間だ、なぜひとりで食事をとりたいのか不審に思ったとしても口には出さず、個人の意向を尊重してくれる。
サムライは多分、一応、認めたくはないが、僕の友人……なのだろう。
曖昧な表現を採用せざるをえないのは東京プリズン入所から半年が経過した現在でも、主観的にはともかく、客観的には僕とサムライが友人関係に映るという確信がもてないからだ。
確かに下水道の一件から僕らは一緒に食事をとるようになったし、お互い無言でいることが多かった自由時間も他愛ない雑談をするようになった。でも、目に見える変化といえばそれくらいで「他に何が変わったのか」と問われれば答えに詰まる。
何かは確実に変わったのだが、その「何か」は日常水面下に潜んでいて可視の範囲に浮かんでこないのだ。
だから他人から見た僕とサムライは以前とおなじ、特別親密な間柄になったわけでもなければ距離が縮まったわけでもなく、無表情な人間がふたり、同じ空間と時間を共有し、それでも互いに無関心に違うことをしてるように映るのだろう。
ただ、サムライの存在を煩わしいと思わなくなったのは事実だ。
背中越しに感じる体温と気配に免疫ができた、とでも言えばいいのだろうか。サムライの存在が日常に溶け込んで、僕の生活の一部となって、僕に不可欠な人間になって、接触の嫌悪も解消されて。
「居心地がいい」と言えば語弊があるが、サムライのそばにいるとリンチやレイプを警戒して始終張り詰めてる神経が緩むのも事実だ。
それが「居心地がいい」ということなら、否定できない。
話が脱線したが、僕は今日ひとりで朝食をとった。
昨日読み損ねたブラックジャック八巻を膝に広げ、食事の片手間にページをめくりながら。
もし食事中漫画を読んでいるところをレイジに目撃されたりしたら「キーストアってば口ではいやがってたくせに今じゃすっかり手塚ファン?」とかなんとかチェシャ猫のような笑顔でからかわれるに決まってる、だから今日は、今日だけは彼らから離れたテーブルで食事をとっていたのにロンにはしっかり見られていた。
それを知ったのはイエローワークの強制労働中で、ロンとふたりで井戸掘りの任に就かされたとき本人の口から証言を得たのだ。レイジと違ってひとの嫌がることはしないロンのことだ、まさか僕が、IQ180の天才たるこの僕が食事中に漫画を読んでいたと他の囚人に暴露したりはしないだろうが……確信はない。
しかし、ロンから言質をとらないうちに第二の災難に見舞われた。
砂漠に井戸が沸いたのだ。
結構なことだ、と他人事のように言わないでほしい。他の囚人にとってはなるほど結構なことだろう、無駄で無意味だと身の上を悲観していた長年の苦労が報われたのだから。しかし生憎とイエローワークに配属されてから半年、生来の体力の無さと宝の持ち腐れと化した知能指数が災いして砂漠での井戸掘りに労働の喜びを見出せずにいた僕には文字通り降って沸いた災難でしかない。
「すげえ、水だ!」「ほんとに沸いた!」「うめー」と上半身裸で狂喜乱舞する囚人たちをよそに、間断なく水が降り注ぐ穴の底で頭髪といわず服といわず全身びしょぬれになった僕は閉口した。確かに水が飲みたいと言ったが、その二十秒後に現実になるとは……運命の皮肉なのか偶然の悪戯なのかは知らないが、試しに飲んでみた水には鉄分が多く含有されすぎていた。まあ、衛生面では全く信用ならない東京プリズンの水道水よりマシだろうが。
そして強制労働終了後。
水を吸って不快に湿ったスニーカーが足を踏み出すたびにぬれた音をたてる。本来なら房に直帰して夕食開始まで待機してる時間帯だが、ぐっしょりぬれたスニーカーを乾かさないことには不快指数が上昇する一方で我慢できない。分厚いコンクリート壁で四方を密閉された房は通気性に優れてるとはいえず、明日の強制労働に支障がでないよう取り急ぎスニーカーを乾かすためには風がとおるところ、屋外にでなければ。
展望台だ。
以前僕の天敵―クロゴキブリ、学名Periplaneta fuliginosa ゴキブリ科―が房に出没し、危急の措置として展望台に一時避難したことがある。だから展望台への行き方は頭に入ってる、入り組んだ路地も階段の位置も完璧に記憶している。
途中何人かの囚人とすれちがい、階段の踊り場に到着。
ガラスが除去された素通しの窓枠を跨ぎ、展望台に降り立つ。折から吹いた風がしっとり湿った髪をかきまぜ、黄昏の空へと還ってゆく。眩く乱反射する残照に目を細め、展望台の先端に歩む。昼から夜への過渡期、夕方特有のなまぬるい風が生渇きの上着の裾をはためかせる。展望台の先端でスニーカーを脱ぎ、裸足になる。裸足の足裏にコンクリートのざらついた質感を知覚、少しでも気を抜けば踵まで砂に埋まってしまう砂漠とは対極の水平面の安定感。
スニーカーの踵を揃え、縦方向に置く。一寸の狂いもない完璧な角度に満足する。腕組みして踵を揃えて脱ぎ置いたスニーカーを見下ろしていたら空から吹いた強風が前髪を舞い上げ、よろめく。
その拍子に踵がスニーカーに接触、瞬く間に一足が落下。
「……………」
展望台の先端に四肢をついた間抜けな姿勢で地上を覗きこむ。僕の手をむなしくすりぬけていったスニーカーは展望台の真下の地面に物寂しく転がっていた。
僕としたことが、なんて失態だ。
底意地悪い囚人に隠されるまえに拾ってこなければと踵を返しかけ、展望台にもう一足を放置してあったことを思い出す。片方のスニーカーを右手にぶらさげ方向転換、階段を駆け下りて中庭に到着。
黄昏の中庭には強制労働を終えた囚人が三々五々散らばっていた。
肉体労働で疲弊した様子もなくエネルギッシュな歓声をあげ、白線の陣地の内側でバスケットボールを取り合っている。白熱した試合風景を横目にスニーカーの落下地点に急ぐ。あった、あれだ。幸いまだ持ってかれてなかったらしく、砂利まじりの風にくたびれた靴紐をそよがせている。
右手に片方のスニーカーをぶらさげて慎重に落下地点に接近、五歩、四歩、三歩と距離を縮め……
目の前でスニーカーが消失した。
「!」
反射的に顔を上げる。
僕に悪意を持ってる囚人がスニーカーを持ち去ろうとしたのではないかと疑ったが紀憂だった。いや、しかし事態が好転したわけではない。僕自身の過失で転落したスニーカーを所在なげに片手に掲げていたのが見知らぬ看守だったからだ。
アルコールの過剰摂取で黄色く濁った覇気のない目と剃刀であたった形跡のない無精髭、ろくにアイロンをかけた痕跡もない色の抜けた制服。
東京プリズンには二種類の看守がいる。
囚人を虐待する看守と虐待しない看守だ。前者の筆頭がタジマで、生意気な囚人をいたぶるのが生き甲斐だと豪語してはばからない唾棄すべき人間だ。後者の看守はごく少数だが皆無でもない、東京プリズンに送り込まれた囚人の中には貧困や家庭の事情からやむなく犯罪に手を染めた者もいる、経済的にも情緒的にも恵まれない少年期を過ごした囚人に同情的な態度をとる看守もいないわけではないのだ。
目の前の男がどちらか見極めようと、1メートルの距離を維持して仔細に観察する。
櫛を通すのもわずらわしければ整髪料で撫で付けるのも億劫だったのだろう、ちらほらと白髪の混ざり始めた黒髪には根強い癖が付いているが存外顔は若い。第一印象では四十路と錯覚したが、よく見れば頬は精悍に引き締まり、色褪せた制服に包まれた四肢にも無駄な贅肉はない。実年齢は意外と若いかもしれない。
…とすると、あれは若白髪か。
などという呑気な感想は、脳の奥で膨張した違和感に圧倒される。今日が初対面だとばかり思い込んでいたが、以前どこかで見たような気がするのだ。いや、東京プリズン内を我が物顔で練り歩いてる看守の群れの中に一方的に見出したというわけではなく、以前どこかで会ってはっきりと会話を交わした確信さえある。
あれはそう、半年前―
『そのへんにしておけ』
耳によみがえる声。
『お前さん知らねえのか。その小僧はVIPだぜ。丁重に扱わねえと上からお叱りを受ける』
『万一そいつの頭をぶん殴ってみろ。IQ180の超高性能の頭脳がイカレちまったら、お前、どう責任とるつもりなんだよ?』
やる気なさそうな声に付随して浮上するのはさまざまな断片、気だるそうにハンドルを握るくわえ煙草の横顔、眠たそうな半眼。
見覚えがあるはずだ。
半年前、ジープの荷台に僕を乗せてはるばる東京プリズンまで護送してきた運転手じゃないか。
「この刑務所の人材不足は深刻だ」
「?」
声に反応した看守が、今はじめて僕の存在に気付いたといわんばかりにゆるやかに振り向く。半年ぶりの再会だというのに心弾むものがなにもないのは看守と囚人という明確な上下関係故だろうか。警戒を解き、無防備に看守に歩み寄りながら続ける。
「僕を護送してきた運転手が半年後の現在、看守の制服を着てる理由を聞きたいですね」
彼の名前は何だったろう。
不審げなまなざしを僕に注いでる看守の前で立ち止まり、半年前、拘置所の囚人搬送用裏口からジープの荷台に搭乗したときに紹介された名前を思い出そうと目を閉じ―
目を開く。
「五十嵐さん」
僕のスニーカーを片手にぶらさげた間抜けな格好で立ち尽くしている冴えない中年男性の名前は、五十嵐。
僕をこの地獄に送りこんだ張本人だ。
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