少年プリズン

まさみ

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百二話

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 「うわっ!」
 頭上に降り注ぐ大量の水、水、水。
 シャベルを突き刺した地面から懇々と湧き出した水流がやがて噴水となり、上から下へ流れ落ちる滝となって燦々と日光を弾く。この突発的事態に俺と鍵屋崎はただただぽかんとしていた。地から湧き出たばかりの水は泥で濁っていたが、高く高く高度を上昇させて吹き上がるうちに不純物がろ過され無色透明となり、清く澄んだ流れとなる。
 頭上に降り注ぐ水が頭髪といわず顔面といわず脳天からつま先までびしょぬれにし、乾燥した地面を黒く染めて浸透してゆくさまを絶句して見守っていると遠くから歓声が聞こえてくる。爆発的な歓声だ。青空に透明な膜を張って降り注ぐ滝の向こう、押し合いへし合いながら穴の縁に押しかけたのは各々作業を放棄してはるばる馳せ参じてきた物見高い囚人たち。
 穴の縁に四肢をついてこちらを覗きこんだ囚人たちは満面に喜色を湛えていた。
 東京プリズンでついぞ見たことのない表情。
 希望。
 「水だ!」
 「水が沸いてる!」
 「すげえ、水だ!ホンモノの水だ!!」
 興奮した囚人が看守の制止を振り切り、転げるように先を競って急勾配の斜面をすべりおりてくる。蒙蒙と砂埃の煙幕を蹴立てて穴の底に駆け下りた囚人が天に両手を突き上げ、宿願叶って雨乞いの儀式に成功した原住民みたいに野蛮に踊り狂う。 
 「夢じゃねえよな、水だよな!?」
 「本当に地下水脈あったんだ、井戸沸いたんだ、夢じゃねえよな!?」
 「つめてえ、気持いい―」
 全身に水を浴びて狂喜乱舞する囚人の中には看守と肩を抱き合って涙してる奴もいる。上着を脱ぎ捨て上半身裸で水を浴びるやつ、ちょうどいい機会だとフケのわいた頭をとどまることなく水が噴出する源に突っ込んで洗い出すやつとさまざまだ。盛大に頭皮をかきむしり気持良さそうに身悶える囚人をよそに、偶発的事故で水源を掘り当てた俺と鍵屋崎だけがわけもわからず取り残されていた。
 無数の水滴を撒き散らし、絶え間なく顔面を叩く水に目を凝らし、透明な膜が張った青空を仰げば虹が架かっていた。
 燦然と輝く綺麗な虹。東京プリズン収監以来、虹を目にするのはこれが初めてだ。
 両手に水をひとすくいし、口を付け、下品に喉を鳴らして飲み下す。
 「好吃!」
 美味い。口を湿らし喉を潤し食道を下る水。喉越し爽やかな清涼感が全身の細胞に染み渡り活気と生気が漲る。湿りけをおびた口を手の甲で拭い、懲りずにさしだした両手にあふれんばかりに水を受ける。なみなみと張られた水面がきらめく陽射しを反射して小さな虹を宿す。
 ふと隣を見れば鍵屋崎が見よう見まねで水をすくい、口を付けて啜っていた。
 「まずい。鉄分が多すぎる」
 「じゃあ飲むな」
 言葉に反し、鍵屋崎は二度三度と水をすくっては夢中で口を付けていた。両手に汲んだ水に口を付け、美味そうに喉を鳴らして飲み下す。隣で喉仏が上下するさまを眺めながら俺も何度となく水を飲む。
 周囲では上半身裸の囚人が発狂したように咆哮して踊りまくってる。
 狂乱の坩堝と化した穴の底で遠い青空と中央に架かった虹を見上げながら、ぽつりと呟く。
 「無駄じゃなかったんだ」
 今までずっと思ってた、井戸なんか沸くもんかと、水なんか沸くもんかと。
 俺たちがやってることは無駄だと、無意味だと。 
 でも実際に水が沸いた。班の連中から村八分にされてる俺が、台湾と中国の汚らしい混血と馬鹿にされて唾を吐きかけられてるこの俺が掘り当てたんだ。そりゃ大部分は偶然の産物だけど、それでも俺が掘り当てたことには変わりない。
 今までやってきたことが、一年半かけてイエローワークでやってきたことがやっと報われたんだ。
 報われないことだらけの俺の人生だって、たまには当たり目をだす。
 「パンドラの箱を開けたな」
 振り向く。たった今沸いたばかりのオアシスの水で喉を潤しおえた鍵屋崎が手の甲で口を拭い、遠い目をして呟く。
 「パンドラの箱とはギリシア神話に登場する、神々によって作られ人類の災いとして地上に送り込まれた女性パンドラが開けた箱のことだ。壺とする説もある。プロメテウスが天界から火を盗んで人類に与えた事に怒ったゼウスは人類に災いをもたらすために「女性」を作るよう神々に命令した。ヘパイストスは泥から彼女の形をつくり、パンドラは神々から様々な贈り物を与えられた。アフロディテからは美を、アポロンからは音楽の才能と治療の才能を、と言った具合に。そして神々は最後に彼女に決して開けてはいけないと言い含めて箱を持たせ、さらに好奇心を与えてプロメテウスの元へ送り込んだ。そしてある日パンドラはついに好奇心に負けて箱を開いてしまう。するとそこから様々な災いが飛び出し、パンドラは慌ててその箱を閉めるが、既に一つを除いて全て飛び去った後だった」
 メガネのレンズに付着した水滴を神経質に親指で弾き、綺麗に拭い去ってから鼻梁にかける。
 水にぬれて額にはりついた前髪を鬱陶しげにかきあげながら、鍵屋崎が俺を見る。
 一抹の猜疑心を宿した翳りある目。
 「最後に残った一つが『希望』だ。以来、人間がさまざまな苦難に見舞われても生き抜くことができたのは希望を失わずにいられたからしい」
 いくら頭が悪い俺でも鍵屋崎が言わんとしてることは漠然と察しがついた。
 絶望の中に紛れ込んでいた一粒の希望を掴んだとき、人間はどうなる?
 不毛の砂漠に水が沸いたように、懇々と沸いた水が乾いた砂を潤して地に浸透してゆくように。
 水が生命の糧となるように、希望が生命の糧となるなら、俺たちだってもうしばらくは生きていけるんじゃないか?
 周りの囚人が馬鹿みたいに奇声を発して踊り狂ってるのは水が沸いたのが単純に嬉しいからだけじゃない、自分たちが汗水たらしてやってきたことが決して無駄じゃないと今この瞬間に立証されたから、絶望しかないと思い込んでた不毛の砂漠で砂の底の底に埋もれてた希望を発見したから。
 
 東京プリズンに「希望」があるなんて、俺だって今この瞬間にはじめて知った。

 「本当にそうだろうか」
 「?」
 意味深な呟きにぐっしょり濡れそぼった髪をかきあげる。
 頭を振って水滴を散らしながら改めて鍵屋崎を見れば、見てるこっちが不安になるような思い詰めた顔をしていた。 
 「箱の底にあるのは本当に希望なのか?」
 空には虹が架かってるのに。
 水は懇々と沸いて枯れることがないのに。
 なんで鍵屋崎は、こんな暗いまなざしをしてるんだ?まるでこの水が泥水で、希望が紛い物で、箱の底に残ってたのが希望じゃなくて、もっと他の―……
 ゆるゆると顔を上げた鍵屋崎が、ひとの心の奥底まで見透かすような、ぞっとする眼差しをむけてくる。
 「箱の底にあるのは希望を偽装した絶望じゃないか?」
 鍵屋崎の台詞を「考えすぎだ」と鼻で笑い、手ですくって水を飲む。
 こんなに水が美味いものだったなんて初めて知った。
 

                              +



 歓声は止まない。
 イエローワークの砂漠に水が沸くなんて東京プリズン始まって以来の椿事らしく、今日ばかりは無礼講、喜び勇んだ囚人がシャベルを投げ捨てて我先にと今や小規模の泉と化した穴底の噴水へと殺到しても看守は目くじらをたてない。看守自身驚いてるのだろう、不毛の砂漠に水が湧き出たことに。他でもない、囚人を指揮してポーズで地図を広げてる看守自身がいちばん地下水脈の存在を信じてなかったのだ。自分たちがやってることが無駄じゃない、骨折り損のくたびれもうけじゃなかったんだと立証された囚人が喜色に頬を紅潮させてお互い肩を叩き合ってる。中には看守を交えて円陣を組んでる奴もいる、きっと囚人を虐待したりない人望厚い看守だったんだろう、「よかったなあ、よかったなあ」「お前らのやってたこと無駄じゃなかったんだなあ」と塩辛い涙と鼻水を垂れ流してもらい泣きしている。
 泣きっ面の大人と泣きっ面の囚人が、頭から水を被って全身びしょぬれになるのにも頓着せず、これまでの苦労を遠い日の思い出話にすりかえ、気安く肩を叩きあってる現場をそっと後にする。
 俺にはまだやることがある。 
 思案げな面持ちで噴水のそばに立ち尽くす濡れ鼠の鍵屋崎を残し、斜面をよじのぼる。斜面を八分目まで上って背後を振り返りまだ虹が出てるのを確認する。東京プリズンで初めて目撃した虹だ、瞼を閉じてもいつでも思い出せるように鮮明に目に焼き付けとく。貧乏人根性丸出しで虹を凝視し、燦然たる七色の輝きを網膜に転写してからパッと背中を翻す。一気に加速して急斜面をよじのぼり、六班の持ち場へと駆け戻る。
 「砂漠にオアシス誕生」の一報は稲妻の如く六班にももたらされたのだろう、ちんたら穴掘ってる場合じゃねえと血相かえた囚人と途中何度もすれ違う。
 「あっちの大穴に水わいたってよ!」
 「マジで!?本当に地下水脈なんてあったんだ、デマじゃねえだろうなそれ!」
 「デマじゃねえよ、ちゃんとこの目で確かめてきたんだ!お前も早く来い、ついでに頭洗っちまおう!」
 「すげえ、本当に地下水脈なんてあったんだ!すげえすげえ!」
 貧困な語彙を総ざらいし、全身打ち震えるような喜びと驚きを表現する囚人と何人もすれ違い鼻高々になる。疾風の勢いで俺のよこを走り抜けてく囚人の首ねっこ掴まえて「俺が掘り当てたんだぜ」と手当たり次第に吹聴したい気分だがみっともないから我慢する。それでも適当なやつの首ねっこをとらえかけた指を引き戻すのに最大限の自制心を発揮した。
 最高に気分がいい。
 盆と正月がいっぺんに来たような、という比喩が正しいかどうかわからないがとにかく爆発したような浮かれ騒ぎっぷりで、先を競うように噴水そそりたつ狂乱の坩堝へと身を投じてゆく囚人を尻目に六班の持ち場に到着。先刻鍵屋崎と口論してた地点に腰を屈める。
 あった。砂の上に放置されてたのは柄がとれかけたシャベルが二本。
 本来俺に課せられた仕事はコイツを物置小屋に運び新しいのと取り替えてくることだった。偶然井戸を掘り当てた喜びと驚きですっかり忘れかけてたが、シャベルの交換を忘れて持ち場に戻って班の連中に嫌味を言われ、せっかくのいい気分を台無しにされてはたまらない。
 赤錆の浮いたシャベルを脇に抱え、プレハブ造りの物置小屋に急行する。
 砂に足跡の窪みを残して物置小屋に到着、シャベルのせいで両手がふさがってるから行儀悪く戸を蹴り開ける。引き戸の隙間に片足をもぐりこませて中に入れば埃っぽい空気が充満していた。中は薄暗い。物置小屋には窓が一つあるだけ、天井近くに位置する小さな窓だけで採光はよくない。
 中古のシャベルを手近の壁にたてかけ、そばに転がってた新品のシャベルを脇に手挟む。これを持ってけば俺の用事は完了、班の連中から嫌味を言われることもないだろう。天井近くの窓から射した陽射しが大気中に埃を浮かび上がらせるなか、シャベルさえ確保すりゃこんな辛気臭いところに用はねえと踵を返しかけ……

 体に電流が走った。

 戸口を塞ぐように仁王立ちする大柄な影。胸に輝くのは主任看守の証の金バッジ。
 逆光で黒々とぬりつぶされた体躯がぬっと前に歩み出て、陰湿かつ陰険な性根が透けて見える醜い素顔が暴かれる。
 俺の天敵のタジマだ。
 何でタジマがこんなところにいるんだ?
 疑問が顔にでたのだろう、酒焼けした赤ら顔に酷薄な笑みをたたえたタジマが壁際に追いつめられた俺のもとへ大股に接近。地面に転がったシャベルの山を突き崩しセメントの袋を踏んで白茶けた煙を舞い上がらせ、ふてぶてしいくわえ煙草でこっちに歩いてくる。
 「………」
 壁にへばりついた格好でキッとタジマを睨む。
 「そんな怖い顔すんなよ」
 「何か用か」
 いつものタジマなら俺がタメ口きいた時点で激怒して腰の警棒を振り上げるはずなのに今日は違った。 
 薄暗いプレハブ小屋の中、5メートルが3メートルに、3メートルが1メートルに、1メートルが50センチにと次第に差が縮まってくる。俺のすぐ手前で立ち止まったタジマが道化たしぐさで肩をすくめる。
 「もうすぐ一年半になる長い付き合いだってのにつれねえな、お前をねぎらいにきてやったんじゃねえか。聞いたぜ、井戸掘り当てたって。口ばっか達者な親殺しとふたり、嫌われ者同士協力してほかの連中見返してやったんだろ?よかったじゃねえか、おめでとう」
 言葉とは裏腹にタジマの声には微塵も称賛の色など含まれてなかった。野太い濁声に含まれているのはとことんひとを馬鹿にしたあくどい嘲弄の響き。何考えてんだコイツ?引き戸までの距離を目測で計算し、脱出不可能だと悟る。シャベルを放り出して逃げようにも引き戸はタジマの背後、タジマのよこを走りぬけざまに襟首掴まれて引き戻されるのは目に見えてる。
 腰に手をついたタジマがスッと目を細め、じろじろと俺の上半身をねめつけている。
 粘着質な視線に肌が粟立ち、反射的に二の腕を抱く。頭から水をかぶってびしょぬれになった上着が素肌に張り付いて肌色が透けて見える。肌に密着した上着越しに二の腕から胸板から、糸を吐くようにヘソへと下降した視線に情欲の火照りを感じ屈辱で頬が熱くなる。
 「いい格好だな。脱いで乾かしたらどうだ」
 「……太陽の下で働いてりゃそのうち乾く」
 ぐっと顎を引いて虚勢を張る。タジマの思惑に嵌まってたまるかってんだ、短絡的な変態が考えてることなんてお見通しだ。二の腕を庇うように抱いた俺を不躾に眺めていたタジマが無造作に歩を詰め、胸板が触れ合う距離にまで巨体が迫る。
 喉が異常に乾く。
 ここは密室、逃げ場はない。現在物置小屋にタジマとふたりきり、助けがくる気配もない。
 この状況でタジマが手を出してきたらひとたまりもない。
 殺られるか犯られるか―……究極の二択に足もとが崩れ落ちるような絶望感を味わう俺の目を威圧的に覗きこみ、ヤニくさい歯を剥いてタジマが笑う。
 頬の皺の皺、その一筋一筋に生命あるミミズのように精気が漲った淫猥な笑み。
 「前から聞きたかったんだが」
 俺の胸板をはいまわっていた視線がツとすべりおち、脇腹に集中。反射的に脇腹をおさえた俺の反応に溜飲をさげ、壁に片手をついた前傾姿勢でタジマがささやく。
 「脇腹の煙草のやけどの痕、だれにやられたんだ?」

 『面白いでしょうその子。声あげないのよ』

 頭が真っ白になった。
 「………、」
 吐き気をもよおさせるタジマの笑顔、分厚い唇にはさんだ煙草、先端には橙色の炎。
 炎。ジジジ、と爆ぜる煙草の火。
 「ずいぶんまえになるがな、お前がイエローワークに来た最初の日に服脱がしたことあるだろ。覚えてるか?」
 「……ああ」
 やっとそれだけ、絞りだすように言う。忘れるわけがない。上半身裸で灼熱の砂漠に立たされて背中を真っ赤に焼かれて、生きながら火に焼かれる地獄の責め苦を忘れるわけがない。
 「あの時気付いたんだ。立たされてるあいだずっと脇腹を手で押さえてたろう?で、なにか隠してるんじゃねえかって警棒で払いのけてみたら案の定だ」
 くつくつと喉の奥でタジマが笑い、背中に冷水を浴びせ掛けられたような戦慄が殺到してくる。唇を噛んで俯いた俺を中腰の姿勢で覗きこんだタジマがアルコール臭い息を吐きかけてきて、たまらず顔を背ける。眉をしかめたのが気に食わなかったのか、顔を背けたのが癇に障ったのか、タジマの片頬が不快げにひきつる。指の間に煙草を預けたタジマがおもむろに腕を振り上げ、
 ジュッ。油に一滴水をたらしたような音が、耳のすぐ下で生じる。
 条件反射で体が強張る。ちょうど耳朶の真下に握り潰された煙草の余熱を感じる。あと2ミリ上にずれていたら俺の耳朶には焦げ穴ができてた。固く閉じていた目をおそるおそる開けば、横手の壁で煙草を揉み消した前傾姿勢でタジマが見下ろしている。
 「煙草の火が怖いか?」
 「………………まさか」
 虚勢で笑う。口角が不自然に痙攣したのがばれなければいいのだが。べつに煙草が怖いわけじゃない、俺だって煙草を吸う。
 怖いのは平然と、声をあげないからと、声を我慢するさまが面白いからとひとの体に煙草を押し付けてくる人間だ。
 タジマのように。だれかのように。
 全身の毛穴が開いて汗が噴き出す。体中の血が蒸発しそうだ、圧倒的恐怖に理性が虫食まれて思考が散らされそうだ。だめだ、出てくるな、思い出したくない。あんなことは思い出したくない、思い出すな―――
 『かわいげないでしょうその子。泣きもしないのよ』
 「冗談だ」
 タジマがパッと離れる。こっちがあ然とするくらいあっけない幕切れだった。が、タジマの顔に浮かんでいるのは冗談にしてはタチが悪すぎ、本気にしてはにやけすぎた、どっちつかずの歪んだ笑み。
 壁際に俺を押さえ込んでいたタジマが大儀そうに上体を引く。背骨が引き抜かれるような脱力感が温水の安堵に変じて体中に染み渡る。
 情けないが、たったあれだけで、煙草の火を押し付けられると勘違いしただけで腰が抜けそうになった。
 壁を背にしてずりおちかけた俺を小馬鹿にするように鼻を鳴らし、指先からこぼれ落ちた吸殻を靴裏で揉み消し、タジマが底抜けに明るい声で話題を変える。
 「明日は新規部署発表だな」
 「?」
 急激な話題転換についていけない。目に疑問符を浮かべてタジマを仰げば、何が楽しいのかわからないがにやにやと笑っていた。
 無意味な砂遊びに熱中するガキのように吸殻に砂を蹴りかけながら、熱に浮かされたように陽気に弾んだ口調でタジマが言う。鼻歌でも歌いだしかねないご機嫌な様子で。
 「喜べロン、一年半コツコツやってきたことが報われるんだ。今までイエローワークで勤め上げてくれてご苦労だったな、おまえがいてくれたおかげで退屈しなかった」
 「どういう、ことだよ」
 まるで俺がイエローワークからいなくなるみたいじゃないか?
 不吉な予感に胸が締め上げられる。イエローワークから解放されて他部署に転属になるというなら話はわかるが、何故タジマが俺の栄転を喜ぶんだ?俺を殴るのが三度の飯より好きなタジマがなぶり甲斐のある獲物をそうやすやすと手放さすはずがないのに。
 「明日のおたのしみだ」
 なれなれしく肩を叩かれ、たたらを踏む。俺の肩を叩いた手をひらひら振り、濁声で哄笑しながらプレハブ小屋をでてゆくタジマ。しわがれ声の余韻が耳に浸透し、俺ひとり取り残された物置小屋に静寂の波紋が満ちる。
 『箱の底にあるのは希望を偽装した絶望じゃないか?』
 今頃になり、鼻で笑い飛ばせない実感を伴って耳裏にこみあげてきた鍵屋崎の台詞に不安がいやます。髪に手をやる。水にぬれそぼった前髪を不器用な手つきで撫で付け、寝癖をなおす。服だってまだ乾いてないのに、水けをたっぷり吸って重たく湿ってるのに、希望を掘り当てたのは今さっきのことなのに。
 
 俺は今日、ようやく報われたばかりなのに。
 東京プリズンにくる前もきてからもろくなことがなかった人生もそんなに捨てたもんじゃないって前向きになれたばかりなのに。
 なんでこんな、嫌な予感がするんだ?

 ふとだれかに呼ばれた気がして天井近くの小窓を振り仰げば、虹はもう消えていた。
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