少年プリズン

まさみ

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百一話

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 東京プリズン名物強制労働開始。
 東京プリズンの日常として溶け込んでいる光景の一つに挙げられるのが各房から食堂をめざす民族大移動、二つ目が地下駐車場のバス停に長蛇の列を作る囚人の大群だ。
大挙してバスに乗り込んだ囚人が運ばれる目的地は部署によってちがうが俺たちイエローワーク担当の囚人がバスに収容されて運ばれるのは灼熱の太陽が照りつけるだだっ広い砂漠。二十一世紀初頭の大地震で地殻変動が起きた結果生じたとされる足立区と同面積の大砂漠だ。
 この砂漠もエリア別にこまかく分けられているが、それよりわかりやすい区別が開墾組と温室組だ。前者、開墾組の仕事はその名のとおり明けても暮れても不毛の砂漠を耕す辛い肉体労働で大半の囚人は日射病にかかってくたばっちまうが、それでも手を休めることは許されない。少しでも手を抜いたら容赦ない体罰が待っている。警棒でめった打ちされのがいやなら手の豆がつぶれるのも覚悟で鍬やシャベルを振り続けなければならないのだ。
 後者、温室組は百八十度対照的。温暖で快適な気候が人工的に保たれたビニールハウス内で暇な一日トマトやメロンに水やってりゃいいラクな仕事で担当看守に気に入られりゃイチゴのご褒美にも預かれる特別待遇だ。温室組に回されるのは愛想のよさを売りにして看守に取り入ってる囚人ばかり、俺たち要領が悪い憎まれ組は物欲しげに指をくわえてビニールハウスでいちごをしゃぶってる連中を羨むしかない境遇だ。
 ここでもやっぱり俺は報われない。
 「点呼終了、作業開始!」
 タジマのかけ声を合図に蜘蛛の子を散らすように囚人が分散してゆく。それぞれの持ち場へ駆けてゆく囚人たちに混ざり俺も素早く移動する。伊達に一年半イエローワークで勤め上げてない、最後尾の囚人は「ちんたら走ってんじゃねえこのノロマ」と看守に尻を蹴り上げられ、背中に警棒を浴びて泣きを見るのがお約束。
 砂を蹴散らし、脇にシャベルを手挟み、班の連中に紛れて持ち場につく。
 長年おなじ面子で作業を続けているのだからそれなりに息は合っている、連携プレイはお手の物。まず斜面を踵ですべって穴の底に到達した囚人がシャベルを地面に突き立て、シャベルに一抱えの砂を掘る。そしてシャベルで掘った砂を肩越しに投げ、地面の上へ放る。穴の周縁に小山を築いた砂を右から左へと手分けしてリヤカーに積んだ囚人が額に汗して砂漠を何往復もする。際限ない不毛なくりかえしが強制労働が終了する夕方までえんえんと続くのだからたまらない、たとえ暦上は冬がこようが12月に入ろうが関係なく日射病でぶっ倒れる囚人がいるのはそのせいだ。
 もっとも、ながくイエローワークに従事してりゃ作業のコツは飲み込めてくる。この場合のコツってのは看守にバレずに適度に手を抜くコツのことだ。看守はそのへん忘れてるみたいだが囚人だって血も涙もある人間だ。朝から夕方までろくすっぽ休憩もとらずにぶっ通しで穴掘りしてたらさすがに一日三桁の死者がでるだろう。イエローワークの死者が一日平均十人……今までの最高人数は一日三十人らしいが……で済んでるのは、俺たち囚人が利口だからだ。看守の目を盗んで手を休め、気心の知れた仲間と雑談するくらいの余裕は月日が経過すれば自然とでてくるのだ。
 「明日はいよいよ部署替え発表だな」
 「これでやっとイエローワークとおさらばできると思うと嬉しくて泣けてくるね」
 「まだ決まってねえだろ。おまえは無理だよ、看守に目えつけられてるからな」
 「なんでだよ」
 「この前影で煙草吸ってんの見られてたぞ」
 「マジで?」
 「神様どうかブルーワークに昇格できますように!」
 「馬鹿かお前、レッドワークぬかして一足とびにブルーワークに出世なんて看守に賄賂でもおくらねえかぎり無理だ」
 「前例があるだろ」
 「東棟のサムライのこと言ってんならお生憎様。アイツは長年イエローワークで真面目に勤め上げた功労賞でブルーワークに昇格したんだよ、異例の大出世ってイエローワークじゃ今でも語り草になってる。お前はどうだ、サムライの真似できるか?」
 「ブルーワークとは言わねえからレッドワークに昇格できねえかな。産廃扱うレッドワークだってイエローワークよかマシだよ、このままじゃお天道様に焼き殺されちまう」
 「聞いたか?東京プリズンに原子力発電所建てるって噂」
 「「マジかよ!?」」
 「地方で断られた原発がまわりまわってこの砂漠に建つかもしれねえんだと。レッドワークに昇格したら原発でつかわれるんじゃねえの?ぞっとしないね」
 「だったらイエローワークのがまだマシかあ……」
 諦観のため息に溺れる班の連中を横目にひたすらシャベルを振るう。班の連中が砂に突き立てたシャベルによりかかって無駄口叩いてる間も俺は黙々と穴掘りに励んでいた、台中混血で嫌われ者の半半に自分から話し掛けてくるような物好きはこの班にはいないからだ。
 作業がはかどることこの上ない。くそったれ。
 額から滴った汗が目尻に流れ込み視界がぼやける。シャベルを砂に突き立て、手の甲で瞼を拭う。掘っても掘ってもきりがねえ、水なんか一滴も沸いてきやしねえのに馬鹿げてる。辟易した俺の頭上からなにかが投げ落とされる。ドサドサと音をたてて横の地面に落下したのは乾いた砂が刃先にこびりついたシャベルが二本。
 「新しいのに替えて来い」
 穴の縁からこっちを覗きこんでいたガキが偉そうに顎をしゃくる。看守に命令されるのは慣れてるが同年代のガキに命令されるのは腹が立つ。さすがにムッとして何か言い返そうとしたが、ガキの背後、いやらしい薄笑いを浮かべて俺の反応を観察してる班のメンバーが目に入ってぐっと思いとどまる。挑発に乗ったら負けだ。醜態をさらすのはごめんだ。シャベルを二本両脇に抱え、砂まみれになりながら斜面をよじのぼる。踝まで砂に埋まりながらなんとか地上に這い上がり、鼻白んだガキどもを睥睨し、せいぜいふてぶてしく笑ってやる。
 「頭が悪いな中国人は。いやがらせに慣れてる俺がこの程度でべそかくと思ったか?そのへんにおいときゃいいものをわざわざ穴の底にシャベルを二本投げ落として手間かけさせてくれたのは腹立つがそれだけだ」
 両脇に抱えたシャベルにちらりと目をやり、啖呵をきる。
 「凱の後ろ盾がなけりゃ群れるしか能がない腰抜けのくせにいい気になるなよ、朋友(パンヤオ)」
 「!な……、」
 予想通り、頭に血がのぼりやすいタチのガキふたりが拳を握り固めて気色ばむのを最前列のガキが「待て」と制止。片手を挙げて息巻く仲間ふたりを押しとどめたガキが軽蔑の入り混じった冷笑を浮かべて向き直る。
 「誰がパンヤオだって?かってに友達扱いして馴れ馴れしく呼びかけるんじゃねえよ、気持わりい」
 予想どおりの反応に会心の笑みが浮かぶ。
 「だろ?俺もそう思って『わざと』言ってやったんだ。不愉快になってくれてなによりだ」
 それまで余裕ぶって仲間を制していたガキの顔が憤怒で朱に染まる。虚勢が綻んだガキから踵を返して走り去る。後ろからとびかかってくるかと警戒したが相手もそこまで短慮じゃなかったようだ、念のため十五メートル走ってからちらりと振り返れば憎々しげに唾を吐き捨てたガキが仲間を引き連れて去ってゆくところだった。少し離れたところに看守がいた。警棒で肩を叩きながらやる気なさそうにあくびしてるが騒ぎが起これば目に入らない距離じゃない、看守の目がなければよってたかって袋叩きにされてた俺は人知れず安堵の息を吐く。
 両脇に抱えたシャベルを引きずり、物置小屋めざして歩いてる途中、何人もの囚人とすれ違う。前後ふたりがかりで砂を積載したリヤカーを引いてるやつ、俺と同様パシリ扱いされてる不満を前面に押し出した仏頂面も居れば、同じ境遇でもびくびくと気弱に周囲を窺ってる新米もいる。
 パシリならパシリで、もっと堂々としやがれってんだ。
 ……自分で言ってて情けなくなってきた。俺が班の連中に雑用を言いつけられても表立って逆らわないのは奴らが怖いからじゃない、揉め事を避けたいからだ。イエローワークの仕事場で揉め事を起こせば訓練された犬の嗅覚でタジマが嗅ぎつけてくる、初日から俺を目の敵にしてるタジマのことだ、俺の言い分なんかはなから尊重せずに一方的に体罰を下すに決まってる。最悪独居房行きも免れないのは半年前の一件で確認済みだ。看守の目が届かないところで売られた喧嘩なら誰に遠慮することなく買ってやるが、看守が一部始終目撃してる前で次から次へと問題を起こすほど俺は馬鹿じゃない。そんなことをしても寿命を縮めて懲役を長くするだけだ。
 シャベルを引きずって小走りに駆けてる途中、視界の隅を見覚えのある顔がかすめた。
 俺が立ち止まったのはイエローワーク六班の仕事場。仕事内容は俺の班と変わらない、穴の底で砂を掘る連中と砂を運ぶ連中が手分けして作業してる中、俺の目にとまったのは他の連中から少し離れた場所でシャベルを抱えてる……

 鍵屋崎だ。

 物置小屋へ行くみちのりに六班の持ち場があるから必ずこの地点を通過しなければらず、必然的に俺と鍵屋崎の遭遇率は高い。以前も何度か鍵屋崎のツラを見かけたがアイツが班の連中と和気藹々とくっちゃべってた試しがない、いつだってひとりぽつんと輪から外れて孤独にシャベルを上げ下げしてる。本人はてんで気にしてないんだろうが、傍から眺めてて気持いい光景じゃない。鍵屋崎に同情を覚えたわけじゃないが、アイツを村八分にしてる連中への反感も手伝って何度か助けてやったことがある。
 が、さっぱり感謝された試しがない。たぶん鍵屋崎の辞書には「謝謝」、日本語の「ありがとう」が記載されてないんだろう。
 と、シャベルを引きずってちんたら歩いていた鍵屋崎の前方で不穏な動き。鍵屋崎とおなじ班の連中が横顔に陰険な笑みをちらつかせて互いに耳打ち、中のひとりが鍵屋崎の進行方向に片足を突き出し待ち構える。
 野郎、ひっかけて転ばす気だ。
 反射神経の鈍さは筋金入りの鍵屋崎のことだ、自分をつまずかせようという意地の悪い策略にも気付くことなく、まんまと嵌まってしまうに決まってる。
 「おい、……」
 非難の声をあげかけた俺の前で、予想外の事態が発生した。
 「!」

 鍵屋崎が、足を跨いだのだ。

 ひょいと、なんでもないことのように。見てるこっちがあ然とするくらい自然な動作で、自分をひっかけて転ばそうと待ち構えていた足を軽快に跨ぎ越す。以前の鍵屋崎からは考えられないことだ。  
 我知らず口笛を吹いてしまった。
 「?」
 口笛を聞き咎めた鍵屋崎が怪訝な顔で振り向き、俺と目が合う。その後頭部に風切る唸りをあげて振り下ろされるのはシャベル。
 「!あぶなっ、」
 今度こそ大声をあげてしまった。
 「調子にのるんじゃねえ!」
 鍵屋崎に余裕で罠を回避され逆上したガキが、無防備な後頭部めがけて横薙ぎにシャベルを振る。
 鍵屋崎の頭蓋骨を陥没させようと全力で薙ぎ払われたシャベルの刃が頭髪をかすめ、残像を穿つ。紙一量の差で頭を屈めて横薙ぎの一撃をかわした鍵屋崎がシャベルの自重に耐えかねて前傾姿勢でよろばいでたガキをひややかに見下し、メガネのブリッジを軽く押し上げる。
 怜悧な知性を宿した切れ長の双眸には、軽蔑よりも同情が勝った辛辣な色があった。
 「進歩がないな」
 学習能力のないモルモットか細胞分裂に失敗した微生物でも哀れむような、数段上からひとを見下した、さめきった口調だった。 
 気付いたら拍手していた。
 拍手に反応した鍵屋崎が眼鏡越しに訝しげなまなざしをむけてくる。「クソメガネが」「調子にのんなよ」と吠え面かいてすごすご退散してくガキどもから鍵屋崎へと顔を戻し、パチパチとやる気なさげに打ち鳴らしていた手を体の脇にたらす。
 緩慢な拍手が止み、俺と鍵屋崎だけがふたり向き合って取り残された。
 「成長したな」
 「順応しただけだ」
 「どう違うんだよ」
 「ひとに聞く前に辞書をひく習慣を身につけたらどうだ?きみたち凡人の知能レベルにあわせて平易な言葉を選択するのは意外と骨が折れるんだ、IQ90~100前後の凡人とIQ180の僕が会話を成り立たせるのはな」
 環境に順応しても口の悪さは改善されなかったようだ。毒舌は健在。
 「『やられるまえによけろ』と助言してくれたのはたしかきみだったように記憶してるが」
 「俺の助けはもういらないな」
 「助けてくれと頼んだ覚えはないぞ」
 鍵屋崎の意趣返しにぐっと押し黙る。悔しいが事実だ。鍵屋崎は一度も俺に「助けてくれ」なんて言ってない、いつだって俺が世話を焼いて助けてやってただけで本人から感謝されもしなければ喜ばれもしない、どころかしまいには迷惑がられる始末だ。ふてくされたようにだまりこんだ俺をしげしげとながめていた鍵屋崎がやがて感慨深げに呟く。
 「今後は他人のことより自分のことを気にしたらどうだ?食堂の再現はしたくないだろう」
 「見てたのか。だったら何かするか言うかしろよ」
 「なんとかしてほしかったのか?僕に相互扶助の精神を発揮して友人でも何でもない他人の窮地を救えと?」
 「~おまえと話してると腸煮えくり返ってくるな」
 「事実を言ったまでだ」
 鍵屋崎はしれっとしたツラをしてる。自分の言ってることが正論だと信じて疑わない度し難い頑固者特有の態度。コイツに見返りを期待するほうが間違ってるという自覚はあるが、これまでいろいろ助けてやったのに恩を仇で返された気分だ。畜生。平然と取り澄ましたツラの鍵屋崎の襟首を掴んで一発見舞ってやろうかと身を乗り出した俺の背後で怒声が炸裂する。
 「そこの囚人、まだ日も高いうちからサボりたあいい度胸だな!そんなに暇なら新しい仕事をやる、ついてこい」
 砂を蹴散らして走ってきた看守が俺と鍵屋崎に唾をとばして怒声を浴びせかける。しまった。後悔したが今更遅い。鍵屋崎の襟首を掴んでいた五指をゆるめ、意味なく開閉して引っ込める。胸ぐらの皺を几帳面な手つきで直している鍵屋崎の顔からは何の感情も汲み取れない。
 看守の警棒で尻を叩かれ、鍵屋崎と肩を並べて強制連行された先には直径10メートルはあろうかという巨大な穴があった。
 「ここがおまえらの仕事場だ」
 腰に手をついた看守が横柄に顎をしゃくり、斜面を下るよう命じる。
 「俺たちふたりで掘るのかよ!?」
 無茶な命令に語尾を跳ね上げて抗議。
 「不満か?」
 「いや……、」
 「不満なのか?」
 「………掘るよ。掘りゃいいんだろ」
 見せ付けるように警棒を振り、かさねて促す看守に逆らう気力が萎える。憤懣やるかたない顔つきをしてるだろう俺とは対照的に斜面をすべりおりる鍵屋崎はすずしい顔をしていた。シャベルを脇に抱え、二条の筋を付けながら斜面を下って穴の底に到達。

 空が狭い。高い。

 千尋の井戸の底から見上げたように遠ざかった円い空に四囲から砂礫の断崖が迫っている。
 暗く翳った視界の中央、ぽつんと申し訳程度の面積存在する青空を仰ぎ、腹立ち紛れに砂を蹴り上げて毒づく。
 「やってらんねえ、畜生」
 「まったくいい迷惑だな。きみが話しかけてこなければ無関係のぼくまで連帯責任を負うことはなかった」
 あんまり勢いよく蹴り上げたものだから砂粒を顔に被る羽目になった。はでに砂をかぶり、涙目でむせかえる俺の隣で鍵屋崎は事務的に作業を開始する。言葉とは裏腹に自らの境遇を悲観してる様子はない。鍵屋崎にならってシャベルの柄を掴む。こうなりゃやけだ。相棒が無愛想で無口なメガネだろうが知ったこっちゃない、俺は俺の仕事をやるだけだ。
 シャベルの柄を掴み、片足に体重をかけて刃を砂に押し込む。俺の隣で鍵屋崎もおなじようにして砂を掘る。ふたり黙々と作業をつづけるうちに中間にできた砂の山はどんどん高くなる。どれ位過ぎたのだろう、穴底の平面に生じた砂の山の高さが俺の踝から膝、そして脹脛と同じ位になる。さすがに腕が疲れてきた、ここらへんで休憩をいれてもいいだろうと隣の鍵屋崎を窺えばもともと無い体力が底を尽きたらしくぜいぜい息を切らしていた。
 「顔色悪いぜ。休んだほうがよくないか」
 「……きみのような凡人に指摘されなくてもペース配分は考えて作業してる。そろそろ上腕二頭筋と僧房筋中に乳酸が蓄積されてたきた頃だと思ってた」
 シャベルを砂に突き立て、背中を丸めてよりかかった鍵屋崎が酷い顔色をしてるのが気になって声をかける。
 「相変わらず体力ねえな、ちゃんと飯食ったのかよ?自分の膝ばっか見て箸もろくに動いてなかったじゃねえか」
 「見てたのか?」
 鍵屋崎がなぜかぎくりとする。はじかれたように顔をあげた鍵屋崎とまともに目が合い、ばつが悪い思いを味わう。
 「お互い様だろ。おまえだって俺が食堂中這い回るとこ指一本動かさずに見てただろ?」
 「それとこれとは別だ、話が違う。食事中ずっと僕を見てたのか?僕がなにをしてたのか全部知ってるとそう言いたいのか、脅迫か?」
 なにを慌ててるんだ、このメガネは。
 普段の無表情をかなぐり捨てて動揺した鍵屋崎が視線を右へ左へと揺らし「違う、あれには訳があるんだ。本来ならあんな行儀が悪い真似はしたくなかった、しかし僕にも言い分がある。僕の前頭葉は常人の倍新陳代謝が活発でシナプスは日々分岐して増殖してるんだ、当然知識欲はとどまることを知らずに向上し僕は日々あらたな知識を蓄積する必要と義務に迫られる。その結果、知識を蓄積するための最適手段として食事中でも読書を優先せざるをえなくなり……」と延延御託を述べ始める。何だか知らないが焦りまくった鍵屋崎が意味不明な弁解をまくしたてるのを聞き流し、シャベルの柄に顎をのせてため息をつく。
 「鍵屋崎、食いたいもんある?」
 「何?」
 「食堂で食いたいもん。東京プリズンのクソまずい飯に舌が麻痺しちまった今じゃ娑婆の好物の味も満足に思い出せねえけどおまえにも夢にまで見る幻のメニューあるだろ」 
 シャベルにもたれて乱れた呼吸を整えていた鍵屋崎が生真面目な顔でしばし逡巡。
 「H2О」
 唐突に呟く。
 「あん?」
 「水だ」
 メガネをとり、レンズに付着した砂汚れを上着の裾で丁寧に拭い取る。病的に神経質な手つきでレンズをこすって綺麗に砂を拭った鍵屋崎がメガネを日光に翳し、裸眼の目を細める。レンズの縁に反射した日光が鋭くきらめき、俺の顔にまで光線を投じる。
 メガネの反射光が落ちた顔をしかめながら熱のともなわない口調で鍵屋崎が説明する。
 「ミネラルウォ―ターが呑みたい。鉄やマンガン、その他微生物などの不純物が混入されてない清涼感ある喉越しのミネラルウォ―ターだ。この刑務所の水道ときたら最悪だ、浄水装置も取り付けられてないで錆びた水道管を通ってきた水がそのまま蛇口からでてくる仕様でてんでなってない、塩素消毒されてるかどうかも疑わしい。18世紀ヨーロッパでは不衛生な水道管が原因でコレラや腸チフスが水系感染したんだぞ、安全性の面から指摘しても東京プリズンの飲料水は不安と断じざるをえない。僕が欲しいのは安全性が保証された飲料水だ、ミネラルウォ―ターが無理ならせめて口に含んでも安心な無色透明な水が呑みたい」 
 手庇をつくってメガネの反射光を避けていた俺はそれを聞いてあ然とする。開いた口がふさがらない。常々変人だとは思ってたがここまで重症とは思わなかった。内面が顔に出たのだろう、メガネをかけ直した鍵屋崎の眼光が俄かに鋭くなる。
 「なんだその顔は」
 「おまえもレイジもなんで食いたいもん聞いてんのに飲みたいもん挙げるんだよ、ひとの話聞けよ」
 揚げ足をとられても鍵屋崎は動じない。「なんだそんなことか」と冷笑めいた表情を閃かせただけだ。これ以上鍵屋崎と話してても腹が立つだけだと賢明な判断を下し、早々に会話を切り上げて作業再開。
 シャベルの刃に片足を乗せ体重をかけ、一気に踏みこむ。
 「だいたい水なんてどこも同じだろ、美味いまずいもありゃしねえ。水道水でじゅうぶんだ」
 俺を真似て作業再開した鍵屋崎がつめたいまなざしを横顔に注いでくる。
 「きみは育ちが悪いからな。井戸水を飲んでも腹を壊さないタイプと見たが図星か?」
 「水飲んで腹壊すほど繊細にできてないんでね、どこかの軟弱な日本人と違って」
 ざくざくと砂を掘りながら憎まれ口を叩けば鍵屋崎が過敏に反応する。
 「前言撤回を要求する。確かに僕はきみより繊細にできてる自覚があるしそれは否定しないが軟弱と決め付けられるのは不愉快だ、だいたいぼくは君より背も高いし骨格も恵まれてる。きみはこの半年で何センチ背が伸びた?イエローワークの初日に見かけたときとたいして変わってないような気がするのはメガネの度が合ってないせいか?」
 遠まわしな嫌味にカチンときて怒鳴り返す。
 「視力は勝ってる!!」
 「知力は圧勝だ」
 「お前に負けてんのは頭と毒舌だけだ」 
 「頭で負けたのは認めるんだな?殊勝じゃないか」
 鍵屋崎の奴ときたら俺の隣で顔もあげずに砂を掘りながらせせら笑いやがった。コイツ、いつのまにこんなひとの神経逆撫でする笑い方覚えやがったんだ?こうなりゃ一発殴ってやらなければ気がすまないとシャベルを勢いよく、おもいきり深々と砂地に突き立てる。全体重を乗せてシャベルの刃を踏みこんで倒れないよう直立させてからむんずと腕をのばして鍵屋崎の胸ぐらを掴み、

 ぴちゃん。

 「……雨?」
 頬に水滴が付着した。
 反射的に空を見上げる。雲ひとつない晴天だ。じゃあこの水はどこから……鍵屋崎と不審な顔を見合わせ、
 次の瞬間、答えは天から与えられた。文字通り。
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