少年プリズン

まさみ

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九十九話

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 頬に水滴が落ちていた。
 「………………」
 緩慢な動作で頬を擦る。手の甲がぬれていた。涙じゃない、水だ。どこから落ちてきたのだろうと視線を上げればベッドの上空、俺の顔の真上を通る配管の破れ目から水が滴っていた。それで合点した、あんな夢を見たわけを。頬に落ちた冷たい水が、11の冬にスラムの路地裏で頬に吹き付けてきたひとひらの雪と重なったのだ。
 頬を擦り、毛布を蹴って上体を起こす。
 房の中は薄暗かった。隣の房との境の壁に耳をつけてみたが隣人が起き出してる気配はない、壁越しに聞こえてくるのは豪快な鼾と規則的な寝息、それに混ざる衣擦れの音。行儀悪く毛布を蹴りどけて寝返りを打ってるらしく、腕やら頭やらがベッドの背格子にぶつかるゴチンゴチンという金属音が耳障りに響く。
 俺もひとのことを言えた立場じゃないが隣の房のやつは相当に寝相が悪い、しかも鼾が大きくて近所迷惑だ。おかげで毎朝レイジよりさきに叩き起こされる。
 ちらりと隣のベッドに目をやればレイジは毛布を蹴りどけて気持良さそうに寝息をたてていた。
 口元がしあわせそうに緩んでいるのはいい夢を見ているからだろうか?悪夢にうなされるのが日常化した東京プリズンの囚人の中で連日連夜熟睡できるなんてレイジは神経が図太すぎる、さすがは王様だ。
 俺たち下々の民がつまらない罪悪感や娑婆への未練をずるずる夢の中までひきずってうんうんうなされている間も夢の中では金貨に埋もれ、世界中の美女を腕の中に侍らして高笑いしてるんだろう。
 むかつくな。
 レイジのベッドが面した壁向こうの囚人は、俺のベッドが面した壁向こうの囚人より行儀がいいらしく夜中に絶叫をあげて飛び起きたり寝相の悪さが祟って壁を蹴りつけたりはしない。
 だからレイジも思う存分熟睡できるわけだが、これはちょっと不公平だ。基本的に東京プリズンの囚人は収監された初日に左右どちらかのベッドを割り当てられるわけだがベッドを移るのは囚人間での自由裁量となる。
 ベッドを替えたいときは同房の囚人と話し合って合意を得るか力づくで奪うかの二択しかない。
 俺も一度ならずレイジに抗議した、ベッドを変わってほしいと。俺のベッドが面した側の囚人にはとことん悩まされている、歯軋りに鼾に壁を蹴り付ける音。たぶん俺とおなじで育ちが悪いのだろう、おとなしく毛布にくるまって寝てる試しがない。分厚い壁を透視するのは無理でも毛布をはだけて爆睡してる醜態が目に浮かぶ。
 一方「ベッドを変わってくれ、むしろ変われ」と強硬に主張した俺にレイジが返した言葉はあっけらかんとしたものだった。
 「一緒に寝りゃいいじゃん」
 言うと思った。
 レイジときたら「おまえを迎え入れる準備はいつでも整ってるぜ」といわんばかりにベッドに片肘ついて横たわった姿勢で毛布を持ち上げてにやにやしていた。
 冗談か本気かわかりゃしねえ。いや、本気だったら嫌だが、すごく。
 とりあえずレイジに鉄拳をお見舞いして黙らせて俺は自分のベッドに戻った、レイジに背中を向け、壁の方を向いて毛布にくるまって。消灯後しばらくは「寝相の悪さなら気にしねーぞ。蹴落とされるのも愛だ、愛」とかなんとかレイジがほざいていたが寝言は寝てから言えってコトで完全無視、寝たふりを決めこんだ。
 もう一晩経ったのか。
 寝起きでぼんやりした頭でベッドから抜け出し、素足で床を踏む。
 ひんやりした感覚が足裏からはいのぼってきて二の腕が鳥肌立つ。ベッド下に蹴りこんであるスニーカーに踵をつっこむのももどかしい、数メートル先の洗面台に行くのにわざわざ靴を履く必要はない。
 ぺたぺたと床を歩いて洗面台に接近、蛇口を捻る。錆びた蛇口から勢いよく水が迸る。跳ねた飛沫が顔にあたり、急速に頭が覚醒してゆく。
 両手で水を受け、顔を洗う。顔面に叩きつけるように両手の水を受ける、針で刺すように冷たい水が瞼を叩き、背筋がしゃっきり伸びる。
 洗顔時の水が骨身に染みるように冷たくなった。東京プリズンに冬が来た証拠だ。
 東京プリズンには季節がない。季節感がないのではない、そもそも四季が存在しないのだ。春夏秋冬、七夕にクリスマスに正月に……娑婆の人間が浮かれ騒ぐ四季折々の行事も存在しない。
 当たり前だ、ここは刑務所だ。
 しかも入ったら二度と出られないという悪名高い東京少年刑務所、通称東京プリズン。
 ここを出てゆくには死体になるか懲役を終えるかのどちらかしかないが、前者はともかく後者の条件をクリアするのは困難だ。半年か一年か、ぎりぎり二・三年の懲役刑なら五体満足で出所することも不可能ではないだろうがそれ以上となると絶望的。
 どちらにせよ二十歳になって少年法が適用されなくなった受刑者は郊外にある一般の刑務所に移送される手筈だが、東京プリズンで生きて二十歳を迎えられる囚人はごく一部。十代で東京プリズンに入所した囚人の六割は事故か自殺かリンチか、もしくは風邪をこじらせた肺炎などの不摂生が祟った病気で死ぬ。もっとも風邪が悪化して肺炎を併発するまえに手を打てば死ぬ可能性は万に一つもないのだが、その「万に一つ」が東京プリズンでは「百に一つぐらい」の割とよくある出来事として認知されてる。
 囚人に対する適切な処置が行われなかった結果だ。風邪をひこうが肺炎になろうが強制労働を休ませてくれない鬼看守が班の担当だった場合は確実に死ぬだろう、たとえばタジマのように。
 砂漠のど真ん中に聳えたつコンクリートの要塞には木一本、花一本植わってない。
 桜が咲いたから春、雪が降ったから冬、と視覚的に四季の変化を感じることもできない。当たり前だ、ここは都心から何十キロと離れた荒野だ。花が咲くわけもなければ雪が降るわけもない不毛の砂漠なのだ。
 自分が入所した日から壁にしるしをつけてるような几帳面な囚人なら今が何月何日か、自分が入所してから何ヶ月…ひょっとしたら何年…が経過したのか正確に把握してるのだろうが、俺にはさっぱりわからない。
 俺がこのくそったれた監獄に放り込まれてくそったれたレイジと同房になってから最低でも一年半は経過してると思うが、まだそんなに経ってないかもしれない。東京プリズンの毎日ときたら無味乾燥で単調で、一日一日が似たりよったりの最悪と災厄の連続だから月日の感覚が狂ってくるのだ。
 東京プリズンは時間の流れる速さが違うのだ、娑婆とは。
 ざっと顔を洗い、シャツの裾を掴んで顔を拭う。シャツの裾で顔を拭きながら片手で蛇口を締め、水を止める。水流の音が止み、夜明けの静寂が満ちる。今がいちばん静かな時間だ、起床ベルで叩き起こされるまでにはまだ余裕がある。いつのまにか壁向こうの鼾も止んでいた。
 上着の裾で顔の水滴を拭ってる最中、亀裂の入った鏡にぼんやりと顔が映る。
 薄暗がりの房を映しこんだ鏡の中からこっちをジッと見返しているのは喧嘩腰のガキだ。険のあるつり目、癇の強そうな薄い口元、生意気に尖った顎。もともと癖の強い髪の毛がはねっかえりの気性をあらわすように頭の上で跳ね回っている。重力に逆らってぴんと跳ねた前髪を一房掴み、ごしごしと撫でつける。無駄だった、乱暴に撫で付けたそばから天を突くように跳ね上がってしまう。二度くりかえしてあきらめる、寝癖なんかどうでもいい。こんな環境で身だしなみに気を遣ってもあまり意味はない。

 目を細め、鏡を見て、顔の隅々まで観察する。

 顔の造作はお袋に似ているが生き写しというほどじゃない。男と女では輪郭の鋭さが違う。それに表情、媚と艶、色香匂い立つしぐさ。お袋は俺を折檻するときはそりゃおっかない顔をしてたけど、腕を絡めた客を寝台に引き込むときは夜行性の食虫花のように艶然と笑っていた。いつも眉間に皺を寄せたしかめ面をしてる俺とは雲泥の差、ガキの頃からよく言われたが俺には致命的に愛想がないのだそうだ。もう少し愛想があればお袋が連れてきた客の機嫌をとることもできたし、にこにこ愛嬌をふりまいて客に取り入り、小遣いや駄菓子をせしめることもできたんだろう。
 俺にはできなかった。
 酔っ払ったお袋がどこの馬の骨ともわからない客を連れこみ、五歳になるかならないかの息子の前で気前よく服を脱ぎだしたときも、目立たないように部屋の隅っこに行って膝を抱えてることしかできなかった。何かに怒ってるみたいな、この上なく腹を立ててるみたいな、およそ子供らしくない頑固な仏頂面をして。
 『かわいげのない子』
 無茶を言う。目の前で実の母親が服を脱ぎだしてるのに、見知らぬ男に乳房を揉まれて息を上擦らせているのに笑えるわけがない。今こうして鏡の中の自分と向き合い、素朴な感慨を噛みしめる。メガネを外した鍵屋崎でも俺を女と見間違えるのはむずかしいだろう、ご覧の通り正真正銘、どこからどう見ても俺は男だ。服を脱いでみせるまでもなくわかりきったことだ。髪は短いし目は鋭いし体の輪郭は直線的、踝や肘は尖っている。
 お袋が風邪ひいて商売にならないからと手っ取り早く俺で間に合わせようとした客の気持ちがわからない。女の方がいいに決まってるのに。もっとも俺の隣で寝てるレイジは女でも男でもとっかえひっかえおかまいなし、体の相性がよけりゃ性別にはこだわらないと無節操に吹聴してはばからないが。

 次第に青みはじめた大気が夜明けの訪れを知らせる。

 暗闇の帳が降りた房の中、壁に固定された鏡を覗きこみ、自嘲的に呟く。
 「かわいげねえツラ。殴りたくなるのもわかる」
 それにしても古い夢を見た。流しの縁にもたれかかり、さんざんだった11の冬を回想する。11月に雪が降るなんて異常気象もいいところだ、きっと百年前の人間がガンガン暖房と冷房をかけた悪影響だな。実際都心の天候はガタガタでつい二ヶ月前も新宿近辺が集中豪雨に見舞われたそうだ、俺もイエローワークの穴掘り中に「やけに風がなまぬるいな」と感じてはいたがあれが悪天候の前兆だったのだ。
 今は何月だろう。季節は冬だ、水の温度が氷点下まで下がっているし。が、正確な月日となるとお手上げだ。たぶん11月の下旬だろうとは思うが……
 洗面台にもたれかかり、物思いに沈んでいた俺を現実に引き戻したのは「う~ん……」という声。隣のベッドに目をやればレイジが毛布をはだけて大の字に寝転がっていた。寝相が悪い。なにげなく首元に視線を移し、喉仏の上で波打ってる金鎖に目を細める。
 レイジの奴、寝るときも十字架外さないのか。クリスチャンかよこいつ。
 首に金鎖を絡めて熟睡してるレイジに歩み寄り、ベッドの背格子を掴んで間の抜けた寝顔を覗きこむ。たのしい夢を見てるらしく、しあわせそうに緩んだ口の端からヨダレをたらしている。コイツに惚れてる女が見たら百年の恋も醒めそうだ、レイジに惚れてない俺は特等席でコイツの間抜け面を堪能できて気分がいいが。
 まあ、寛大な心の持ち主なら「母性本能をくすぐられるわ」という好意的な見方もできなくはないだろうが。
 俺に観察されてるとも知らず、毛布を片足で蹴りどけて寝返りを打ったレイジが何かを呟く。寝言?なんて言ってるんだろう。単純な好奇心からレイジの口元に耳を近付け、不明瞭にくぐもった寝言を聞き取る。
 「だめだって杏奈、おれ耳よえーんだよ……レイチェル、もっと寄れよ、遠慮すんなって。しばらく会わない間に痩せたんじゃねえか?え、俺のことが心配で?大丈夫、胸まで痩せてないよ……You are greatest!One and only.あ、わりい、オンリーは嘘。ヘソ曲げんなよシンディ、愛してるからさ……」
 にやけ面のレイジが次から次へと女の名前を挙げ、吹けば飛びそうに薄っぺらい口説き文句をつらねてゆく。丸めたつま先で悩ましげにシーツを蹴り、体の前に両腕をまわし、架空の女を抱きしめて口付けする動作をくりかえす。 
 「OH,もちろん忘れてないよシェリファ!褐色の女豹を忘れるものか、シヴァ神のご加護を授かったあのエキゾチックで情熱的な一夜を……カーマストラの深淵にふれた……謝謝弥的好意、我愛弥。あはは、足の小指なめるの相変わらずうまいなあソーニャは……今度ボルシチ作ってよ、うんと辛い奴……辛いといえばキムチだよ、スヨンが漬けたキムチまた食いてえ…」
 コイツ、何人愛人がいるんだ?
 寝ぼけたレイジが甘ったるい声で挙げ連ねる女の名前を指折り数えるのにもいい加減飽き、頃合を見て立ち上がる。レイジの夢の中で酒池肉林、人種・国籍不問な乱交パーティーが繰り広げられているのは嫌というほど理解できた。これ以上レイジの愛人自慢を聞いてるのは阿呆らしい、やれやれと首を振りながら腰を上げかけ。

 「愛してるぜロン」

 不意打ちだった。
 背格子にかけた手がすべり、危うく尻餅をつきかける。前屈みにたたらを踏み、毒気をぬかれてレイジの寝顔を覗きこむ。寝たふりした確信犯かと疑ったが至近距離でじっくり観察してみて本当に寝入ってるらしいと結論を下す。中腰の姿勢でレイジの口の上にてのひらを翳し、規則正しく呼吸しているのを確かめる。囚人服の胸が深く上下していることからも熟睡してるのは一目瞭然なのにあんまりタイミングがよかったからタヌキ寝入りじゃないかと本気で疑ってしまった。 
 「……………………」
 やり場のない怒りに泣けてきた。
 レイジはすやすやと眠っている、何の悩みもなさそうな能天気なツラをして大の字に手足を投げ出してる。気だるげに寝返り打ったレイジの首、緩んだ襟刳りから覗いた鎖骨の窪みにそってすべりおちた金鎖が清流のせせらぎに似た涼やかな音をたてる。
 まだ女にだって「愛してる」なんて言われたことないのに、初めて「愛してる」と説かれた相手が同房の受刑者なんてしょっぱすぎる。しかも男。しかも寝言。
 あんまりにもみじめな自分の境遇にやりきれなくなった俺の脳裏でふと名案が閃く。胸が透く意趣返しを思いついた俺は嬉々としてそれを実行に移す。レイジの枕元に屈みこみ、髪を結わえておくゴムを手に取る。指にひっかけたゴムを楕円に伸ばし、伸縮性を確認。レイジを起こさぬよう細心の注意を払い、腕を振るう。 
 よし、できた。
 「………………」 
 出来栄えに満足した俺の前でレイジが「うう~ん……」と唸り、ゆっくりと瞼を持ち上げる。寝ぼけまなこをしばたたき、焦点を失った顔で起き上がったレイジが傍らに突っ立ってる俺に気付く。
 「はやいじゃん。先に起きてたのか」
 「ああ」
 極力レイジから目を逸らし、顔を直視しないよう気をつけながら答える。素っ気ない返事を別段不自然がることなくベッドから抜け出たレイジが二の腕を抱いて身を竦める。
 「さみ………もう12月?」
 「知るか。俺に聞くな」
 「俺フィリピン生まれだから寒さこたえるんだよ、女の柔肌であたためてもらいたい」とかなんとかほざいてるレイジから不自然な角度で顔を背けたまま唇を引き結んでいると大音量のベルが廊下に鳴り響く。起床を告げるベルだ。けたたましいベルに叩き起こされた囚人が「るっせえよ!」「鼓膜が割れる……」と、ある者は中指を立て、ある者は耳を塞いで扉を開け放つ。連鎖反応で開け放たれた扉から先を競うように廊下にあふれだした囚人が一塊の流れとなり大挙して食堂の方角へ行進してゆく。
 「飯の時間だ、先いくぞ」
 レイジを房に捨て置き、ボロがでる前にドアを開けようとした俺の背中を呑気な声が追ってくる。
 「12月か、どうりで冷え込むはずだ。部署替えの時期だもんな」
 「もうそんな時期か?」
 ノブに手をかけた姿勢で反射的に振り返り、レイジの顔を直視してしまう。やばい、慌てて下を向く。
 「なに言ってんだお前、ボケすぎだろ。明日発表されるって聞いてなかったのか」
 ベッドに腰掛けたレイジはあきれ顔だ。そういえばちらりと小耳にはさんだ気もするがイエローワークの穴掘りに精をだしていて詳細は聞き逃していた、穴掘りの片手間に噂話に興じるような間柄の友人が班にいない俺は黙々とシャベルを振るうしかないのだ。
 東京プリズンでは半年に一度部署替えが行われる。 
 東京プリズンに収監された囚人は来た翌日からランダムに各部署に振り分けられ強制労働に従事する規則だが、半年ごとに行われる部署替えでそれまで自分が就いていた仕事から違う部署へと移動させられる可能性もあるのだ。たとえばイエローワークからブルーワーク、ブルーワークからレッドワークというようにそれまで馴染んだ仕事と手を切ってあたらしい仕事をいちから覚えなおさなければいけないのは骨だが、砂漠での無意味な穴掘りに代表されるもっとも過酷なイエローワークから解放され、他部署への転属が決まった囚人がもろ手をあげて喝采している光景がこの時期よく見られる。イエローワークでの働きを認められ、看守への態度が品行方性で覚えめでたい囚人は晴れてレッドワークに昇格。反対にブルーワークでの働きぶりが芳しくなかったり看守に反抗的な態度をとって顰蹙を買った囚人はレッド―ワークに、レッドワークからお払い箱にされた連中はイエローワークへと回されてくる。
 ブルーワークはレッドワークよりマシ、レッドワークはイエローワークよりマシだというのが東京プリズンの囚人間における共通認識だ。水質管理や便所掃除、浄水施設での廃水ろ過行程にたずさわるブルーワークの仕事がいちばん軽くて安全、街から大量に運搬されてきた危険物や産業廃棄物を加熱処理するレッドワークは次点。殺人的な太陽の下、酷暑の砂漠で沸きもしない井戸を来る日も来る日も掘らされ続けるイエローワークが精神的にも肉体的にもいちばんきつくてしんどいというのが囚人間の総意だ。
 俺も同感。
 完全に日が昇りきる前のこの時間帯は氷点下まで冷えこんでいる砂漠も一旦太陽がでてしまえば12月だろうが冬だろうが関係ない。気温は太陽の高度に比例して上昇し続けるのが常で、暦上の冬はとくにこの寒暖差がはげしいのだ。
 「喜べロン、今度の部署替えで晴れてイエローワークとおさらばできるかもしれねえぜ」
 「どうかな」
 俺を喜ばそうと水をむけたのに冴えない反応を示され、レイジが鼻白む。
 「タジマに目の敵にされてる俺がイエローワークとすっぱり縁切れるとは思えねえ」
 タジマ。イエローワークの主任看守で俺の天敵。
 「弱音吐くなって。信じて努力すりゃ報われるよ、きっと」
 「報われたことなんかねえよ」
 今朝見た夢を思い出す。お袋の肩に毛布をかけようとして突き飛ばされた俺。耳に残る「大嫌い」の響き。鉄扉にもたれかかり、頭を振って感傷を払拭。心配そうに俺を見つめているレイジを挑発的に睨み、皮肉を言う。
 「お前には関係ないだろ?ブラックワーク首位を維持しつづけるかぎり王様の椅子が約束されてるんだから」
 「ちげえねえ」
 ベッドに後ろ手をつき、長い足を床に放ったレイジが声をたてて笑う。ついうっかりその頭に目をやりそうになり、自制心を振り絞って顔を背ける。これ以上レイジと一緒にいるのはまずい、無理。とってつけたようにノブを握り、背中でレイジに別れを告げる。
 「先行くぜ、席とっとく」
 「頼んだ」
 ひらひらと片手を振り、さわやかな笑顔で俺を送り出したレイジの姿が鉄扉の内側に消えるのを確認し、その場で壁に手をつく。背後で音荒く鉄扉が閉じ、鈍い震動が壁と鼓膜を震わせる。片手を壁に付いて体を支えようとしたが駄目だ、限界だ。膝から下が砕けるように壁際にうずくまり、顔を伏せ…
 「ぶはっ!!!」
 おもいっきり吹き出した。
 壁に片手を付き膝を屈めた姿勢で顔を伏せ、腹筋を痙攣させ、涙が出るまで笑う。笑いの発作をこらえようと唇を噛み締めようとして失敗、震える拳を壁に打ち付けて爆笑する俺をすれちがう通行人が奇異の目で見る。
 思う存分気が済むまで笑って笑って笑い続け、遂には息切れを起こし、壁に肩を預けるようにして廊下にへたりこんだ俺のそばを「ついにイカレたか、半半?」「レイジと同房じゃあ長く保たないと思ったんだよな」と揶揄しながら近隣の房の囚人が通り過ぎてゆく。
 かまうもんか、言いたい奴は言ってろ。
 東京プリズンに来て以来、こんなに笑うのは久しぶりだ。
 これからさき笑える保証がないなら今この瞬間に一生分笑い納めといて損はねえ。
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