少年プリズン

まさみ

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九十七話

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 豊島区池袋台湾系スラム。
 俺が生まれ育ったところはそう呼ばれた。もちろんそう呼んでるのは日本人で、俺にしてみれば地元を「スラム」と名指しされるのは気に入らない。事実だけど。実際治安の悪い地区だった。女は娼婦、男は賭博師か呑んだくれか当たり屋かヤク中か……まあ似たりよったりの屑ばかりだ。
 俺の周りじゃ娼婦の母親の稼ぎで食ってる台湾人の家庭は少なくなかった、両親ちゃんとそろってるのが逆に珍しいくらいだ。これにはワケがあって、女は大抵十代で身ごもってガキを産んで母親になる計算だが十代で父親になる現実にびびった男がガキが産まれるまえに女を捨てて逃げちまうケースが多いのだ。
 男だってなにも好き好んで十代の親父になろうと人生設計を立てたわけじゃない、避妊を怠った報いとして女の腹にあらたな生命が宿っちまっただけ。でも自分の種にはちがいない、いや、中には違うケースもあるかもしれないが自分のガキである可能性は全否定できないわけだ。
 ご利用は計画的に、妊娠は偶発的に。
 まだおぎゃあと産声をあげてないにしてもガキ殺すには忍びないと躊躇して、というよりは中絶費用を出し渋ってずるずる日が経つうちに堕ろせる時期はとっくに過ぎて、現実に首を絞められた男がヤケ起こして失踪する頃にはでかい腹を抱えて放り出された女には不憫な私生児を産み育てるしか道がなくなる。
 女がてっとりばやく稼ぐためには体を売るのがいちばん、ただでさえガキと自分のふたりぶんの生活費を女手ひとつで稼ぎ出さなきゃいけないのだ、手段を選んでなどいられない。
 体がいちばん高く売れるなら売ってやろうではないか、そんなわけで俺のまわりじゃ十代二十代の若い身空で子持ちの娼婦は珍しくなかった。

 事実俺のお袋がそうだった、二十代で俺というコブつきの娼婦。 

 親父の顔は知らない。俺が物心ついた頃には家にいなかった。
 泥酔したお袋の昔話によると、俺の親父はまだなにも知らないウブな小娘だったお袋をもてあそんで孕ませた挙句に捨てた極悪人で、俺が産まれた二週間後に女をつくって出奔し以来音沙汰なし。三度の飯より賭け事が好きな駄目人間の典型で俺が産まれたときも賭け仲間と麻雀に興じてたそうだ。

 俺の名前は親父がつけた。ロン。語源は麻雀の役名だ。

 俺がおぎゃあと産声をあげたちょうどその時、とんとん拍子で牌が上がった親父が「ロン!」と叫んだ。
 それがそのまま名前になった。
 漢字で「龍」と書くから字面だけは格好いいが、由来をたずねられたら正直答えにくい。まさか麻雀の役名だとは言えない。
 お袋は俺も俺の名前も嫌っていた。
 俺はお袋を捨てた男の種で、俺の名前はお袋を捨てた男が付けたものだから。
 俺が親父に関して知ってるのはその程度だ。
 三度の飯より賭け事が好きな女たらしのダメ男で、中国人。三度の飯より賭け事が好きなのも女たらしなのも個人の自由で素質だが最後のひとつがまずかった。中国人。よりにもよって。
 もしこれが韓国人だったら事情はだいぶ違ってただろう。
 俺はおなじ台湾人からつまはじきにされることなく、疎外されてひねくれることなく、今よりマシな今があったかもしれない。でも中国人。節操なしのお袋に種を仕込んだのはよりにもよって中国人だった、台湾と中国がはでに喧嘩してばかげた数の死傷者をだしたのはついこないだだってのに。
 乳くりあうなら乳くりあうでほとぼりが冷めた頃にやってほしいものだ、お互い仇同士、犬猿の仲の台湾人と中国人を両親にもつ俺の身にもなって欲しい。
 お袋が俺を産んだ理由はいまいちわからない。
 自分が寝た男が親の仇の中国人だと気付いたころには堕ろせる時期を過ぎてたか、それともガキを産んで男に逃げられてから真相が判明したかどちらかだろう。お袋は仕方なく、いやいや俺を育てた。憎い中国人の血が半分流れた俺を、本当にいやいや。
 謝謝お袋、殺さないでくれて。それだけは感謝してる。
 いつだったかこんなことがあった。
 あれはまだ俺がお袋と一つ屋根の下で暮らしてたガキの頃だ。たぶん11歳かそこら。
 季節は11月、スーイーユエの終わり。
 天気は曇天。
 陰鬱な曇り空の下を俺は急ぎ足で歩いていた。
 吐く息が白く溶ける。空気は肺を刺すように冷たい。
 すれ違うやつすれ違うやつ皆この世のおわりのような顔をしているのは刻一日と師走が近付いてるからだ、年の暮れになると借金の催促が活発になるのはどこも変わらない。
 くたびれたコートに手をつっこんだ初老の男がドブに小銭がおちてないかと目を皿にし、穴の開いた革靴を踵で履いた浮浪者が路上に散った外れ馬券の中に万馬券が混ざっていやしないかと両の手に紙片をすくっている。
 不景気ヅラの大人を避け、巧みにかわし、足を速める。
 腕の中じゃガサガサと紙袋が鳴っている。紙袋の中を覗きこむ。中に入ってるのはそこの屋台で買ってきた肉粽(ロウズォン)、台湾のちまき。俺の好物。ちょっと外出したついでに屋台に寄って夕飯を仕入れてきたのだ。紙袋の口を指でちょいと寛げ、たちのぼる湯気で顔を溶かす。
 食欲をそそる匂いが鼻孔を突き、口の中に唾液がわく。
 紙袋に片手をつっこみ笹の葉を巻かれた肉粽を一個掴む。
 大口あけて放りこもうとして、思いとどまる。お袋はこと行儀に厳しかった、食事中に肘をつくな箸はちゃんと持てなどなど。食べ歩きをしてるところなど目撃されたら……どうせすぐ食べるからと紙袋ではなくジャンパーの懐に肉粽を戻す。
 やっぱり帰ってから食べよう。
 べつにお袋が怖いからじゃない、家の中なら腰を落ち着けて食えるからだ。
 見慣れたアパートが視界に入った。
 急き立てられるように鉄筋製の階段を駆け上がり俺の家がある階に到着。ペンキが剥落し、鈍色の地金を覗かせたみすぼらしい合板のドアには表札も番号札もなにもない。

 当たり前だ、娼婦の家に目印なんか必要ない。
 表札をだせるのはひとに誇れる商売をしてる人間だけだ。

 片腕に紙袋を預け、片手を郵便受けに突っ込んで蓋の裏側をさぐる。蓋の裏側にセロテープで接着された合鍵をむしりとり、鍵穴にさしこみ、回す。錆びた軋り音をあげたドアの隙間にすばやくつま先をもぐりこませ、肩で押し開ける。
 お袋はいないようだ。
 ほっとした。
 紙袋で両腕がふさがってなかったら盛大に胸を撫で下ろしたかった。俺とお袋が一つ屋根の下にいてなにもおきなかった試しがない、機嫌が悪ければドアを開けた途端に灰皿がとんでくるから玄関に入るときはいつのまにか頭を屈めるのが習慣になってしまった。
 靴を脱ぎ捨て廊下に上がろうとして、背後の物音に気付く。
 だれかがアパートの外廊下を歩いてくる、足音はふたつ。声はひとつ。酒焼けした、あまり品のよくない男の濁声だ。
 いやな予感、は往々にして当たる。
 足音は一直線に俺の家を目指していた。正確には俺の家のドアの前を。足音が止み、ドア越しの濁声が一際大きくなる。
 「きたねえドアだなあ、犬小屋みてえ。本当にここに住んでんのかよ?」
 こいつ馬鹿だ。犬小屋にドアがあるわけねえだろ、どんな比喩だ。
 「小さくても素敵な我が家よ」
 かすれた咳。お袋の声だ。
 「鍵は?」
 「待って、開いてるわ……帰ってきてるのか」
 舌打ち。
 次の瞬間荒々しくドアが開け放たれ、男に肩を抱かれたお袋が膝から下がくずれるように玄関にすわりこみ、はげしく咳き込む。
 紙袋を抱えた廊下に立ち尽くした俺は、11月の寒空の下を露出度の高い服で歩き回ってたらしいお袋に心底あきれる。
 男の気を引いて客を仕事場兼家に引きずりこむためとはいえ、こんな肩むきだしの格好で北風吹きすさぶ中をうろついてたら風邪をひくに決まってる。しどけなく膝を崩して玄関にすわりこんだお袋が、熱っぽく潤んだ色っぽい目で傍らの男を見上げる。
 俺は完全に無視。いつものことだ。
 「ごめんなさい、咳がとまらなくて、少し熱があるみたいで……せっかく家まできてもらって悪いけど、今日のところは帰ってもらえる?この埋め合わせは次に必ず、」
 「ふざけんな!!」
 お袋の弁解は野太い怒号でさえぎられた。
 「帰ってもらえる?」の一言で激怒した男がお袋の二の腕を掴んで強引に立ち上がらせ、無造作に靴を脱ぎ捨て家にあがりこむ。そのまま片腕一本でお袋を奥へと連行しかけた男に紙袋を弾ませて追いすがる。
 「おい、かってに人んちにあがりこむな」
 「ひとんち?お前だれだよ」
 「息子だよ」
 憤然と廊下をのし歩いていた男が唐突に立ち止まり、廊下に尻餅ついたお袋とお袋を助け起こしてる俺とを不躾に見比べる。
 「いわれりゃよく似てるな」
 「でてけ」
 「俺は客だ、母親の客を追い出しにかかるなんて躾のなってねえガキだな」
 「咳してんだろ、熱があるんだよ」
 廊下に膝をついたまま立ち上がる気力もなく、男に片腕をひきずられるがまま抵抗もせずぐったりしてるお袋をかばうように立つ。
 普段粗雑に扱われてるとはいえ一応俺の母親だ、風邪をひいて苦しそうに咳き込んでいるのに無視できない。
 「はなせよ」
 「うるせえガキだな。おれたちゃもう商談成立してんだ、ガキが首つっこむな。娼婦の仕事は股開くことだ、それで稼いでんだから風邪ひこうが足折ろうが関係ねえだろ、ただ足おっぴろげて寝てりゃいいだけなんだからラクな仕事じゃねえか。ここまできて引き返すなんざごめんだこちとら前金払ってんだよ、払ったぶんはちゃんと元とらせてもらうぜ」
 「調子悪いって言ってんだろ、ヤりたいなら他の女買えよ」
 「いやだね、こんな上玉にお目にかかれる機会なんて滅多にねえ。化粧はちょっと濃いがきつい目元といいお高くとまった鼻といい生意気そうな唇といいモロに俺のタイプなんだよ、これでアソコの具合がよかったら最高だ」
 頭に血がのぼった。
 「手をはなせ!」
 華奢な細腕をひきずっている毛深く逞しい腕におもいきり爪を立てる。これにはたまらず男が悲鳴をあげる。
 ひっかかれた腕に血を滲ませた男が当惑の相から豹変、目に怒りを滾らせた憤怒の形相で腕を振り上げる。
 「このガキ!!!」
 後頭部に衝撃、背中に振動。
 突き飛ばされた、といよりは薙ぎ飛ばされた。
 体格差が歴然としたガキ相手でも容赦する素振りはちっともなかった、おもいきり突き飛ばされた俺は軽々と吹っ飛んで背中から壁に激突した。肋骨が折れそうな衝撃に腹をかばい身を縮める。両腕をすりぬけた紙袋が床に落下、俺の夕飯の肉粽が盛大に廊下に散らばる。
 「客にむかって何様のつもりだ、お前らアバズレ母子んところに金落としにきてやった大事なお客だぜ俺は、言うにことかいて帰れたあ何様だ!?え!!男に股開くしか能のねえ淫乱女の分際で『帰れ』、客に帰れだと?こちとら慈善事業の一環で性病にかかってるかもしれねえ雌犬を買ってやったんだ、ぎゃんぎゃん吠えてる暇があるんならその口開いて俺のモン舐めろ犬なら舐めるの得意だろうが!」
 眼前に影がさす。壁を背にしてずり落ちた俺の前髪を手荒く掴み、無理矢理顔を引き起こす。男の足の下で肉粽がつぶれる。

 俺の肉粽。

 討嫌(タオイエン)。
 嫌になる、だれも彼も。
 俺が乱暴な客に前髪を鷲掴まれて顔面に唾をとばされてるあいだもお袋ははでに咳をしてるし……なんでいつもこうなるんだ、お袋には客を選ぶ目がないのか。引っぱりこむならこむでもうちょっとマシな男つれてこいってんだ。
 歯軋りしてお袋の見る目のなさを呪っていたら顔に舐めるような視線を感じる。視線の粘度が微妙に変化したことに違和感を感じ、顔を上げる。俺の前髪を掴んだ男がしきりに下唇を舐めている、唾液にぬれひかり、淫猥にうごめく下唇にもまして俺を戦慄させたのは目。情欲に火照った目が観察しているのはお袋じゃない―……

 俺だ。

 「親子だけあって顔の造りは似てるなあ、本当に」
 やけに感慨深く、しみじみと呟く。
 その声には単純な感想以外のなにか、とんでもなく不吉なもの、おぞましい企みが含まれていた。面白がるような響きで揶揄され、恐怖と緊張で喉が鳴る。壁に片手をつき、上体を倒し、壁際に追いつめた上から俺を覗きんだ男の視線が顔から四肢、そして下半身へと移動する。
 「おまえでいいぜ」
 「は?」
 なにを言われてるかわからなかった、本当に。
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