少年プリズン

まさみ

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九十四話

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 「天才って天然で敵を作る才能のことでしょう」
 下水道の天井に澄んだボーイソプラノが反響する。
 歌うような抑揚で揶揄したリョウを振り向く余裕はない、耳の中で響くのは強まる一方の鼓動の音。頭蓋裏で鳴り響く心臓の鼓動がすべての雑音を打ち消し、体の中に静寂が満ちる。かじかみ凍えた手が小刻みに震える。吐く息が白く昇華して大気に溶けてゆく。それでも少年の首筋、脈打つ頚動脈の上に正確にフォークの先端を擬して身動ぎしない。
 形勢逆転。
 この機を逃す手はない。仲間を人質にとられたユアン達は完全に静止している。これまで嬲られ放題無抵抗に徹していた僕がこの期に及んで反撃に転じるとは全くの予想外だったのだろう、モルモットに指を噛まれたような、否、一息に踏み潰せば容易に息の根を止めることができた蟻に噛まれたような忌々しげな顔をしている。
 憤怒の形相でこちらを凝視するユアンらを威嚇するようにフォークの先端を進める。
 僕に羽交い絞めにされて息を止めた少年の首筋、弾性のある皮膚にフォークの先端が食い込む。
 「もう一度言う。足をどけろ」
 顎を振って命令。
 仲間を人質にとられた少年が不承不承サムライの右手から足をどける。泥にまみれたサムライの右手からユアンらの顔へと高圧的な視線を転じる。視線の圧力に気圧されたユアンらが示し合わせたように一歩下がる。 
 「顔を上げろサムライ」
 今だ地面に両手をついたままのサムライに言葉少なく命じる。
 「こんな奴ら、きみが頭を下げる価値もない」
 吐き捨てるように言った僕にサムライが反応する。地面に密着して折り曲げられていた肘が起ち上がり、完全に伏せられていた上体がゆっくりと起き上がる。緩慢な動作で起き上がったサムライ、ユアンらに蹴られ小突き回されていたせいでその顔は泥濘にまみれていた。頬の泥汚れを拭う素振りもなく、毅然と顎を起こしたサムライと目が合う。
 僕はサムライから目を逸らさなかった。
 逸らせなかったのではない、逸らさなかったのだ。自分の意志で。
 以前の僕ならきっとサムライと目が合った段階でよそよそしく視線を外していただろう。鋭く透徹した眼光に本心を見抜かれるのをおそれ、むなしく空転する思考を読まれるのをおそれて。僕はサムライの目が怖かった。自分にも他人にもなんら恥じることのない真っ直ぐな双眸、真っ直ぐすぎて怖いほどの目。
 揺るぎない目。
 サムライと僕は余りに違いすぎる、価値観は相容れない、生育歴とて何ら共通点はない。僕は心のどこかでサムライに引け目を感じていた。この男のことがわからなかった、わからないことが怖かった。理解できない者に対する純粋な恐怖、自分と別個の人間に対する警戒と忌避。
 でも今は、サムライの目をまっすぐに見ることができる。
 逃げずに見つめかえすことができる。
 「無駄だよ」
 人も空間も超越し、一対一でサムライと対峙していた僕を現実に戻したのはリョウのしらけた指摘。目線を横に移動。ユアンらを背後に従えたリョウが腰に手をついてせせら笑っている。
 「冷静になりなよメガネくん、そんなことしても無駄だよ。きみはひとり、僕らは五人。人質とったところで勝ち目はない。でしょ」
 「勝算はある」
 フォークの先端に圧力をくわえる。柔らかな皮膚が破け、薄く血が滲む。
 「もし彼がきみらにとってどうでもいい人間なら見捨てることもできるだろう、しかしこの場の主導権を握ってるのはリョウ、きみではない。そこにいるユアンだ。先刻ユアンがサムライのもとへ赴くときこの少年は『気をつけろ』と声をかけ、ユアンはそれに『心配するな』と返した。どこにでも見られる仲間内の会話、親愛の情のこもるやりとりだな。もしユアンが僕に人質にとられた少年を薄情に切り捨てたとしよう、自分を心配して注意を促してくれた彼を他の仲間の前で見捨てるとしよう」
 ちらりと目を上げ、ユアンのそばにはべっている少年ふたりを意味深に見比べる。
 「それを見た仲間はどうする?当然ユアンから離反するだろうな。平然と仲間を見捨てるようなリーダーに付いていくはずがない、今僕の腕の中にいる少年を見捨てるということはいつ自分たちもそうされるかわからないからだ。ユアン、今きみは葛藤している。きみは人質の存在を無視してサムライに土下座を続けさせることもできる、しかしその選択をした場合残る仲間全員の人望を失い自分の身が危うくなる。だからユアン、きみは嫌でも僕の命令に従わなければいけない。仲間に袋叩きされるのがいやならな。以上が自己保身を最優先した合理的帰結だ、異議があるなら聞くが?」
 解説の要所に交渉相手の名前を挿入したのは心理的効果を狙うためだ、交渉時に相手の名前を連呼するのは軽い催眠をかけ自分の有利な方向へと話を導く初歩的な心理の罠だ。
 僕の作戦は功を奏したようだ、根が単純な性質らしいユアンの逡巡は長くは続かなかった。僕の得々とした解説で自分たちまで見捨てられるのではないかという疑惑にかられた両隣の少年が不安げな面持ちでユアンに猜疑のまなざしをむけてきたからだ。
 絶体絶命の窮地に立たされたユアンがとる行動はひとつしかない。
 ユアンが舌打ちして顎をしゃくり、少年ふたりを引き下がらせる。
 ユアンたちが十分にサムライから離れるのを見計らい、小さく息を吐く。念のためにフォークを持ってきてよかった。自衛の手段には心許ないがないよりはマシだろう、フォークや本でも的確に急所を突けば人を殺せるとレイジは豪語していた。彼の軽口を全面的に信用するわけではないが、フォークを頚動脈につきつければ脅しにはなる。今日食堂で洋食が出たときから考えていた、僕は昨日サムライと喧嘩して信頼を失った、今後は自分で自分の身を守るしかない。
 そう決意した僕は、食後ひそかにフォークをポケットに隠してトレイを戻した。食堂を出たあとにリョウに声をかけらたのは想定外の出来事だったがその夜には早速フォークが役に立ったわけだ。
 サムライが助けに来たのは予想外だったが。まったくこの男は、僕が認めた男は、いつでも僕の予想を裏切ってくれる。
 「話は終わったな」
 片腕で人質の首を締め、もう片方の手でフォークを首筋に擬し、一歩一歩慎重にあとじさる。サムライを見る。僕の目を見て勘付いたサムライが静かに立ち上がり、足を踏み出す。下水道の床に点在する水溜りをはね散らかし、泥にまみれた囚人服姿で僕のもとへと近づいてくる。
 一歩一歩、着実に。
 「『僕達』は帰らせてもらう」
 なす術なく下水道に立ち尽くしたユアンらを最後にぐるりと見渡して威圧する。人質をとられて手も足も出ないユアンが悔しげに歯軋りし、傍らのリョウがつまらなさそうに鼻を鳴らす。おもちゃを不当に取り上げられた子供のように口を尖らしたふくれ面。
 「せっかく面白くなってきたのに」
 一歩、一歩。サムライがこちらに歩いてくる。澱みない足取りで、衣擦れの音もなく。耳に聞こえるのは荒い息遣い、サムライの歩みを見守る僕自身の息遣いと僕の腕の中で浅く呼吸している少年の息の音。それに被さるのは水滴がコンクリートの地面を叩く単調な旋律。
 もう少し、もう少しだ。もう少しでサムライが僕のところへ―
 僕の目の前まで来たサムライの顔色が豹変、何かを叫ぶ。
 「あぶない!!」
 「?」
 衝撃、水音。
 おもいきりサムライに突き飛ばされ、ぶざまに床に転げる。目が回る。地面に倒れたはずみにメガネがずれて視界が曇る。片手を地面につき上体を起こし、メガネを直す。
 今まで僕の腕の中にいた少年とサムライがはげしくもつれあっていた。
 めまぐるしく上下逆転するサムライと少年、少年が右手に握り締めている刃物に目が止まる。ナイフ。鰐の歯に似た獰猛な形状のサバイバルナイフ。サムライの接近を今か今かと待っていたせいで人質から注意がそれていた、油断していた。彼が懐からサバイバルナイフをだしたことにも気付かなかった。転倒した拍子にフォークは手から落ちて水路に没した、ふたたび反撃の手段を失った僕のもとへユアンたちが疾駆してくる。
 「馬鹿にしやがって!!」
 「人質とるなんて上等な真似してくれんじゃねえか、クソメガネ!」
 「そんなにゴキブリ喉に詰めて窒息死してえのかよ、いいぜやってやる、今度はまるまる肥えたドブネズミ捕まえてきてやっからありがたくいただけよ!」
 一塊となって突進してくるユアンたち、地面を転げ回るサムライと少年、ひとり腕を組んで高見の見物を決め込むリョウ。少年の下敷きになったサムライが顔に拳を受ける。鈍い音の連続、殴られるサムライ、サムライの胴に跨った少年が嬉嬉として哄笑する。
 僕は無力なのか?
 いつまでも無力で、サムライに守られるばかりなのか?
 違う、そうじゃない、僕は天才だ。僕がサムライを助けることもできるはずだ、自分が対等になりたい男を助けることができるはずだ、サムライを助けて対等になることができるはずなんだ。地面に手をつき、膝をのばし、起き上がる。足がもつれて転びそうになる、地面が苔でぬめっている。膝に手をつき体勢を立て直し、3メートル後方で揉みあっているサムライと少年のもとへ馳せる。
 サムライに馬乗りになり、今まさに何度目かわからぬ鉄拳を振り下ろそうとしていた少年を後ろから引きはがす。血がこびりついた拳を振り回して仰向けにひっくりかえった少年が僕を認めざまに「この野郎!」と罵倒を吐く。襟首を掴まれ押し倒される、背中から地面に叩きつけられ収縮した肺から空気の塊が押し出される。
 手荒く投げとばされた衝撃で歯茎から出血、口の中に血が満ちる。
 できればこんな下品な手は使いたくなかった。
 「お高く取り澄ました可愛げねえツラ潰してやるよ!」
 勝利の快哉をあげながらナイフを振りかざした少年、その右目に狙い定めて唾を吐く。湿った音がした。血が混ざった唾に右瞼をふさがれた少年が狼狽、赤い唾を拭き取ろうと拳を引き寄せる。
 この瞬間を待っていた。
 「!?ぐあっ、」 
 くぐもった苦鳴をもらした少年の手からナイフが吹っ飛び、あっけなく水路に没する。仰向けに寝た姿勢から勢いよく片足を振り上げ、無防備な腹部に蹴りを入れたのだ。正確に、胃袋の上から。胃袋を蹴られて滝のような反吐を戻す少年から方向転換、よろばいながら走る先には木刀が転がっている。僕がなにをしようとしてるか勘付いたのだろう、すぐそこまで迫っていたユアンが「させるな、追え!」と命じ残る仲間をけしかけてくる。
 ひとり、ふたり……ユアンをいれて三人。残るひとりは杜寫物にまみれてうずくまり戦闘不能の状態、サムライから完全に注意がそれた。ユアンたちを十分にひきつけたことを振り返りざま確認し、同時に視界の隅で影が動くのを把握。ゆらりと起き上がった長身痩躯の影は壁に片手をつき、思案げな面持ちで壁に設置された鉄パイプの配管を見下ろす。
 なにを考えているんだ?
 思考は中断された、背中に重量がのしかかってきたのだ。地面を蹴ってとびかかってきた少年ふたりに背中から押し倒され、木刀まであと50センチという至近距離で派手に転倒。コンクリートの地面を滑る摩擦熱で囚人服の袖が破ける。
 「お前が考えてることなんか全部お見通しだ、サムライを助太刀しようったって無駄だ!」
 「刀がなきゃサムライなんておそるるにたりねえよ、普通よりちょっと喧嘩が強いだけの老け顔だ、四人がかりなら楽勝だぜ!」
 耳元で声、哄笑。鼓膜が割れそうだ。僕の背中の上で歓声をあげる彼らは気付かない、僕の右腕が動くこと、まだ完全には押さえ込まれていないこと。ぎりぎりまで腕をのばす。肘の関節が外れそうだ。奥歯を食いしばり、脱臼も覚悟の上でさらに距離を稼ぐ。
 のばした指先が木刀の柄に触れた。
 しっかりと柄を掴み、絶叫。
 「サムライ!」
 サムライの名前を呼ぶ。喉が裂けそうな渾身の叫びに本人は素早く反応、ぎょっとした少年の一人が僕の行動を関知、木刀の投擲を阻止しようと派手に殴りかかってくる。
 顔面を叩く風圧にロンのアドバイスが閃く。
 『利き手を怪我したら仕事にさわるから左腕でかばうんだよ、常識だ』
 咄嗟の判断で左腕を眼前にかざし拳を受ける。左腕に鈍い衝撃、震動。左腕の下をくぐらせ、右手首を撓らせる。
 下水道の天井に大きな放物線を描く木刀。
 放物線の終点にはサムライがいた、壁に設置された鉄パイプの配管によりかかるようにして立っている。
 僕が投擲した木刀は、サムライの手に届かなかった。
 サムライの手中を外れ、その横、配管と配管の接合部を直撃する。その衝撃でもとから緩んでいたのだろうボルトは脆くも弾け飛び、地面を点々と転がり水路へと落下。配管の接合がとけ、噴水の如く水が噴出する。勢いよく噴き出した水がサムライの顔といわず手といわずぬらしてゆくのをぽかんと眺めていたユアンたちが顔を下品に歪めて爆笑する。
 「ぎゃははははははは、馬鹿じゃねえかコイツ、見事に的はずしてやがる!!」
 「ぜんぜん見当違いの場所に投げやがって!」
 「ノ―コンもいいところだな!」
 腹を抱えて笑い転げる少年たち、ふたりがかりで組み伏せられた僕の口元に自然と笑みがこぼれる。
 敗北を自覚した自嘲の笑みではない、絶望から来る自暴自棄の笑みではない。
 勝利を確信した、不敵な笑み。
 「的外れ?違う、『大当たり』だ」
 円周率を五千桁暗記してる僕の計算が狂うはずないだろう、低脳どもめ。
 ボルトの弾けた鉄パイプをたやすく壁から引きはがすサムライ。測ったように手のひらにおさまる直径、一振りの武器―……木刀より硬度と殺傷力に長じた、金属の刀。
 唾をとばして笑い転げていたユアンたちの顔が瞬時に強張る。鈍感な彼らにもようやくわかったのだろう、サムライがより強力な武器を手にしたという現実が。

 サムライが目を瞑る。
 流麗な動作で腕を振り上げ、鉄パイプを正眼に構える。
 ふたたび開かれたその目に漲っていたのは、今まさに獲物を狩ろうという猛禽の闘志。
 僕は見た。
 精神統一が頂点に達したサムライの背中から立ち昇る青白い闘志、凍傷を負いそうな危惧すら孕んだ氷点下の殺気。
 
 「参る」
 残像。
 刹那よりなお速く、電光よりもなお苛烈に。苔ぬめる地面を軽々と跳躍、俊敏な身ごなしでユアンらに猛進。
 一瞬だった。
 「流れる水のような」という形容が、必ずしもなめらかな、しずかな流ればかりを意味するとは限らない。水は周囲の環境に応じて変幻自在に形を変えるものだ、上流では岩をも砕くほど猛々しく怒り荒ぶる激流になりなにもかもを容赦なく打ち砕く。  
 その骨までも、微塵に。
 サムライの右手がかき消えた、と思ったのは錯覚だった。かき消えたと錯覚した右手が最寄りの少年の顎下に出現し、その骨を打ち砕いたからだ。少年の顎を破砕した鉄パイプが弧を描いて正面に舞い戻り、サムライまであと二歩の距離に迫っていた別の少年の鳩尾を強打。反吐を戻して蹲った少年の死角から別の少年が飛び出すが、サムライの後頭部を狙った拳は水平に寝かされた鉄パイプと衝突して鈍い音を生じさせただけ、手首の骨が砕ける激痛に膝を屈した少年の鳩尾をこれも鉄パイプで強打。急所を突かれた少年がどさりと突っ伏すのを横目に最後のひとり、ユアンと対峙する。
 「ま、待てよ……」
 おもねるような愛想笑いを浮かべ、ユアンがよわよわしく訴える。
 「おおおおおお、俺を殺す気か?ま、さかな。怒るわけねえよな、サムライが。お前が本気で怒ったところなんか見たことねえよ。冗談だろ?」
 「…………」
 腰砕けに後退しかけたユアンの鼻先に鉄パイプが擬される。
 「土下座させたことなら謝る、調子に乗りすぎたことも認める……メ、ガネにやったことも謝るよ。でも、俺のせいじゃないぜ?メガネを人質にしてお前おびきだそうって入れ知恵したのはリョウなんだから恨むんならリョウを恨めよ」
 両手を挙げて降参宣言したユアンからすいと安全圏のリョウへと目を移す。リョウはおどけたふうに肩を竦めた。
 「きみだって乗り気だったじゃん、『親殺しの口とケツでかわるがわる楽しんだって他の連中に自慢してやる』ってさ」
 「!ばっ……、」
 『馬鹿言うな』と噛み付こうとしたユアンの頭上に影がさす。
 袈裟斬り。
 右肩から左脇へ抜けた刀筋には全く澱みがなく、糸が切れたようにユアンが膝を付いたのは何故だか最初はわからなかった。それほどサムライの動きは速かったのだ、肉眼では追いつけないほどに。
 「案ずるな。峰打ちだ」
 水溜りを盛大に跳ね散らかして屑折れたユアンの周りには、サムライに斬られて戦闘不能に陥った少年たちが死屍累々と倒れていた。
 終わった、のか?
 荒い息をつきながら顔を上げる。目の前に鉄パイプをさげたサムライが歩いてくる、背筋をまっすぐにのばして。
 そして、踏み付けられて泥に汚れた顔で、ひどく生真面目に言う。
 「立てるか?」
 「だれにものを言ってるんだ」
 答えず、壁に手をつき立ち上がろうとしたが、途中で膝が砕けた。寒い。全身が鳥肌立っている。全身に水を浴びたせいで下水道の冷気が骨身に染み、膝から下に力が入らない。なんたる失態だ。赤ん坊じゃあるまいし、自力で立つこともできないなんてー……
 顔の前にスッと手がさしだされる。
 古い刀傷のある手の主は無表情なサムライだ。互いの出方を探るように、間を計るように、視線と視線が交錯する。
 『さしのべられた手を取ることはできても握り返すのは無理か』
 そう言ったのは安田だったか。
 当たり前だ、赤の他人の手を握り返すなんて冗談じゃない。垢と汗と老廃物で汚れた皮膚と接触するなど考えただけでもおぞ気が走る、生理的嫌悪に耐えられない。
 でもこれは、サムライの手だ。
 僕が生まれて初めて恵以外に認めた、心の底から対等になりたいと望んだ人間の手だ。
 「………………」
 ためらいがちにサムライとサムライの手とを見比べ、呟く。
 「手に性格がでるというのは本当だな」
 「?」
 あの時、トイレの個室でタジマに愛撫されたときは生理的嫌悪しか感じなかったのに、サムライの手をこうして見つめていても不思議と嫌悪感はわいてこなかった。あの時は侮蔑まじりに思い浮かべた感想が、今は深い実感をともなって許容できる。
 サムライの手。無骨で不器用で力強くて、
 過去、『なえ』を守るためにあった手。
 「…………………」
 血の味がする唾を飲み下し、ためらいがちに手をのばす。この手を掴むことで何が変わるのか、何を変えることができるかはわからない。わからないが、きっと――――――――
 そして、サムライの手を掴みかけた時。
 「……………なんだ、この音は」 
 「音?」
 「聞こえないか」
 地響きに似た重低音、雪崩の前兆のような不吉な唸りが下水道の遥か奥から聞こえてくる。手をつなぐのも忘れ、サムライと顔を見合わせる。サムライも怪訝な顔で下水道の暗闇を振り返る。闇。この闇の奥の奥でいったいなにが――――
 「!!」
 わかった、音の正体が。
 「悠長にしてる場合じゃない、はやく上にのぼれサムライ、はやくしないと死ぬことになるぞ!」
 僕の予想は正しい、その証拠に水路の水かさが増えている。下水道に降りた直後は僕の腰までしかなかった水かさが倍ほどに増えている、馬鹿な、どうして今まで気付かなかったんだ?今日の天気はおかしかった、都心の上空には厚い雲が被さっていた。
 低気圧、通常より高い湿気、異常に早い雲の流れ。これらから導き出される結論は、
 「何事だ?」
 僕に促されるがまま梯子に手をかけたサムライが訝しげに問うのに叫ぶように返す。
 「気付かなかったか!?今日都心には雨が降った、集中豪雨だ、都心に降った雨は雨水管を通じて東京プリズンの浄水施設に集められる仕組みになっている、ということは当然この地点を通過するはずで……」
 僕の解説は耳を聾する爆音にさえぎられた。 
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