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八十九話
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食堂の二階席からは人間関係がよく見渡せる。
仲間がいなくて食堂の片隅でひとりで食事をとっている奴、人と馴れ合うのがいやで自ら進んで片隅の席を確保する奴、中央の席を陣取ってわあわあぎゃあぎゃあ騒いでいるのは東棟最大の勢力を誇る中国系派閥、凱が仕切るグループだろう。行儀悪く机に肘をつき足を乗せ、フォークや匙を勢いよく振り上げながら哄笑している。たぶん食事の席にふさわしくない猥談でもしてるんだろう、上座の椅子に反り返った凱は取り巻き連中におだてられて上機嫌だが仲間の五割は追従で笑ってるにすぎない。かわいそうな裸の王様。
裸の王様に見切りをつけ、本物の王様をさがして食堂全体に目を馳せる。毎度毎度蜂の巣を突いたような騒ぎの食堂、耳を聾する喧騒に混ざるのは旺盛にものを咀嚼する音、下品に汁を啜る音、かちゃかちゃと食器が触れ合う耳障りな金属音に野太い笑い声。さまざまに音域の異なる雑音が混沌と混じり合い吹き抜けの食堂は活況を呈していた。
茶髪の王様は猥雑な食堂の右から五列目、左から十五列目にいた。
隣にいるのは言うまでもなくロンだ。今日の献立は洋食、マッシュポテトとコンソメスープとハム三切れ、それにパン一切れという育ち盛りの身には不満たらたらな粗食。コンソメスープにパンを漬けて食べてるレイジに隣のロンはちょっと呆れ顔。ロンは食事中も机に肘をつかない、よくは知らないけどママが相当行儀に厳しい人だったんだろう。レイジがテーブルに肘をつくたび小姑みたいに口うるさく注意している、あ、今も叩かれた。テーブルに肘をついただらしない姿勢でマッシュポテトを口に運ぼうとしたレイジがロンに肘をはたかれてバランスを崩す。上体ごと突っ伏したレイジが「フォーク持ってるときに叩くなよあぶねーな、鼻の穴がつながるとこだったろ!?」と抗議するのをひややかに眺め、「面白そうだな。ぜひやってみせてくれ」と言う。
毎度見飽きた、つまんない夫婦漫才だ。
ロンとレイジの向かいにはサムライが座っている。しゃんと背筋を正して椅子に腰掛け、味覚がないような顔で一口大にちぎったパンを咀嚼している。
そんなかんじで、食堂はいつもどおりにぎやかだった。本日の強制労働から五体満足で生きて帰ってこれた囚人が先を争うようにアルミの食器をたいらげてゆくのをブタの食事風景でも眺めるように見下ろしつつ、「あれ?」と呟く。
レイジ、ロン、サムライ。
おかしい、ひとりいない。
「鍵屋崎はどこに行ったんだろうね」
今しもハムにフォークを刺そうとしていたビバリーが声につられて顔を上げ、その拍子にコンソメスープの器に肘をぶつける。
「あああああああああああああアッ、リョウさんなんてコトを!?」
「僕なんもしてないじゃん、自分でかってに落としたんでしょ」
ひどい責任転嫁だ。
憤慨してビバリーを振り返れば、当の本人は悲壮な顔をコンソメスープのこぼれたトレイを見下ろしていた。
「僕のハムがコンソメハムになってしまった!」
だんだんと拳でテーブルを叩きながら無念に泣くビバリー、その肩をつついてもう一度聞く。
「あれ見てよ」
眼下に顎をしゃくる。僕に促されたビバリーが渋々手摺から身を乗り出して真下を覗きこむ。ちょうど僕らの真下の席を陣取っているレイジ、ロン、サムライの顔が目に入る。
「ひとり欠けてるっしょ」
「ああ、例のメガネくんっすか」
「そう」
ようやくビバリーも気付いたらしい、鍵屋崎の姿がどこにも見当たらないことに。
東京プリズンに来て二ヶ月はだれとも馴れ合わず、食堂の隅っこでひとりで食事をとっていた鍵屋崎。そのガードが緩みかけたのは四ヶ月目に入ってから、サムライから誘ったのかどうかは知らないが、たぶんふたりの関係の変化がもたらした成り行き上の結果だろう。レイジ、ロン、サムライのいつもの食堂メンバーにどこかばつが悪げな顔をした鍵屋崎が含まれるようになったのはごく最近だ。サムライの隣に腰掛け、やっぱりこれも僕なんかとは比べ物にならないくらい正しく箸やフォークを扱って食事をとる。鍵屋崎がロンやレイジと会話してる様子はあんまりなかったが、話し掛けられれば二言三言答えていた。まあ、鍵屋崎と他の囚人の間にまともな会話が成立するとは思えない。それが証拠にたんなる世間話に打てば響くような皮肉と毒舌で応酬されたらしきレイジが苦笑い、ロンに至っては不機嫌きわまりない仏頂面をしていた。
その鍵屋崎の姿が、今日はない。
サムライの隣から消えている。
「具合でも悪いんすかねえ」
「まさか。今日も普通に仕事してたよ」
温室と砂漠、持ち場は違えどイエローワークの同僚の証言だ。バスに乗り込むときにちらっと見かけたけど鍵屋崎が体調を崩してる様子はなかった。まあ、陰鬱に打ち沈んだ顔をしてたけど。
「喧嘩かな」
「じゃないスかねえ。原因はなんでしょうね、レイジさんと違って相棒の寝込み襲ったりはしないだろうし」
話題にされたレイジがくしゅんとくしゃみして唾をとばし、自分のトレイを両手で庇ったロンが「汚えな」と眉をしかめる。
「しっ」
唇にひとさし指をあてる。右から左へ、口にチャックする真似をしたビバリーと顔を並べてそろそろと下を覗きこむ。さっきからロンの様子がおかしい、ちらちらと落ち着きなく後ろを振り返っている。ロンの視線を追えば、黴臭く湿った食堂の隅っこに鍵屋崎がいた。ひとりでほそぼそと食事をとってるらしい。
後ろ髪をひかれるように鍵屋崎を振り返っていたロンがくるりと正面に向き直る。
「原因はなんだ」
サムライは無言。アルミの椀を手にとり、音もなくスープを啜る。無視されてカチンときたロンが語気を強める。
「お前らの喧嘩に俺が口出しする義理ねーけどサムライともあろう者が大人げねえ、柄にもなく意地張ってんなよ。今日地下駐車場で顔合わせた時からアイツの様子おかしかったぜ。ぜんぜん元気ねえし、毒舌にいつものキレがなかった」
毒舌を元気のバロメーターにされるなんて鍵屋崎も人徳がないなあ。
「昨日、なんかあったのか」
「……………………………」
「たぶん原因は十中八九鍵屋崎だと思うけど、お前もお前だ。一方的にシカトなんかしてないで腹割って話し合えよ」
「……………………………」
「聞いてんのかよ」
「やめとけってロン」
立ち上がりかけたロンを肘を掴んで押さえ、レイジが笑う。
「ほら、日本の諺にあるだろ。人の喧嘩に首つっこむやつは馬に蹴られて死んじまえって」
「『人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死んでしまえ』だ」
それまで沈黙していたサムライがぼそりと呟く。サムライが一言発したのを皮切りに、レイジが興味津々身を乗り出す。
「で、実際どうなの?一体全体なにが原因で熟年離婚の危機に瀕した中年夫婦みたいな会話もない、目も合わせない倦怠期が訪れたわけ」
頬杖ついたレイジが愉快げに探りを入れてくるのをひややかに一瞥、箸を操る手を止めずに短く答える。
「俺の手紙をかってに読んだ」
レイジとロンが顔を見合わせる。
「……………………………それは、また」
「許せねえな」
やれやれと首を振りながら嘆声を発するレイジ、ロンもまた眉をひそめる。サムライはそれきり目も上げずにパンを齧っていたが、真相を聞いた今もなお鍵屋崎のことが気になるらしいロンはちらちら後ろを振り向いていた。ロンがよそ見したすきに脇へと忍びこんだのはレイジの手。ロンの死角を突いてハムを盗もうとしていた手が邪険にはたき落とされる。しつこく侵入してくる手をレイジの方を見もせずにはたき落としながらロンが言う。
「やっぱ俺行ってくる」
「放っとけって」
席を立ち上がりかけたロンをあきれた声でレイジが制す。
「ひとりにさせてやれよ、キーストアってもともとひとりを好むタチじゃん。サムライのことがなくてもひとりで飯食いたい日ぐらいあるって」
「けど………」
「ひとの尻拭いばっかしてると過労死にするぜ、ロン」
「そこがいいところなんだけど」と付け足して惚気るのも忘れないレイジ。ちゃっかりしてる。躊躇しながらも腰をおろしたロンの皿にフォークをのばし、ハムを刺そうとした手がおもいきりはたき落とされる。赤く腫れた手の甲をさすりながら「ケチ」と口をとがらせるレイジに「俺を餓死させる気か?」と噛み付くロン、言い争いを始めたふたりの正面、先に食事を終えたサムライが席を立つ。
トレイを持ってテーブルとテーブルの間の通路を歩き、カウンターへむかう。床に寝転り取っ組み合いの喧嘩を始めた囚人を巧みに避け、宙を飛び交うフォークとアルミ皿の嵐の中を泰然自若と進む。
カウンターにトレイを返却したサムライがぐるりと通路を迂回し、食堂を後にしようとしかけー
ちょうど、鍵屋崎の背後にさしかかる。
その時だ、偶然のイタズラが発生したのは。
カチャン。
今しもトレイを持って背後を通り過ぎた囚人がわざと鍵屋崎にぶつかる。そんなに強くぶつかったわけではないが、食事中、油断してたところに不意打ちを食らったために鍵屋崎はフォークを落としてしまった。鍵屋崎にぶつかった囚人はにやにや笑いながら足早に通りすぎ、あとには姿勢を崩した鍵屋崎と床に転がったフォークだけが取り残された。
そして、足もとに放置されたフォークを無表情に見下ろすサムライ。
その時初めてサムライに気付いたのだろう、振り向いた鍵屋崎、その顔が強張る。眼鏡越しの双眸に宿ったのは複雑な色。罪悪感、怯惰。だけじゃない、もっと違うなにか―
サムライは手ぶらだった。
ちょっと腰を屈めてフォークを拾おうと思えば拾えたはずなのに、そうしなかった。
スッとフォークを跨ぎ、通り過ぎる。何事もなかったように、鍵屋崎のことなど最初から見えなかったように。
サムライとすれちがいざま、鍵屋崎の顔が悲痛に歪むのがわかった。だがそれはすぐに常と同じ無表情に変わり、椅子から腰を浮かせてフォークを拾う。サムライは一度も振り向かなかった。きびきびした大股で食堂をあとにしたサムライを見送り、笑う。
「近づきかけた距離がまた開いた」
「十歩進んで十五歩さがってる感じですねえ」
ビバリーがうまいことを言う、座布団一枚。鍵屋崎を見れば妙に深刻な面持ちでじっと手中のフォークを見つめていた。
「自分の目でも刺す気スかね」
まさか。
ビバリーを笑おうとして振り向きかけた視界の端、サムライに遅れること数十秒、食事を終えた鍵屋崎がカウンターへ行ってトレイを返却する。食堂を去りかけた鍵屋崎、その姿が完全に視界から消える前にトレイを持って腰を上げる。
「じゃ、お先にビバリー」
「……リョウさん。やけに嬉しそうっスけど、またよからぬこと考えてるんじゃないでしょうね」
図星だ。鈍感に見えてビバリーは意外と鋭い。
心の中で舌を出し、表面上は「そんなこと全然ないって」と主張する笑顔を湛える。ビバリーに別れを告げて軽快に階段を降りる。速攻でトレイを返却、小走りに鍵屋崎を追いかける。
いた。
廊下の途中、ちょうど人通りのないところでとぼとぼ歩いてる鍵屋崎に追いつけた。
さて、なんて声をかけよう。もちろん決まってる。
「サムライと喧嘩?」
鍵屋崎の背中が反応する。
「…………またきみか。人のゴシップを嗅ぎまわるしか娯楽がないのか」
うんざりと振り返った鍵屋崎にスキップしながら近づけば本人はあとじさる。これじゃ一向に距離が縮まらない。仕方なし、危害をくわえるつもりはないと両手を振って主張する。
「なにもしないよ、ほら、なにも持ってないでしょ?なにかしたくてもできないよ、ね」
「ポケットの薬は?」
「僕とキスできる距離に近づかなければ大丈夫さ」
三歩距離を隔てて止まる。
「……何か用か?」
僕と口をきくのも煩わしいとばかりぞんざいな口調で鍵屋崎が促す。気乗りしない様子の鍵屋崎を上目遣いに見上げ、ささやく。
「メガネくんが東京プリズンに来て四ヶ月。ということは、サムライと一緒の房になってもう四ヶ月も経つというわけだ」
『もう』の部分を強調してやれば、鍵屋崎の眉間の皺がさらに深まる。
予想通りの反応に気をよくしながら、内心はおくびにも出さず包囲網を狭める。
「この四ヶ月、檻の中で生活してみてどうだった?感想を聞きたいね。外とココじゃ何もかもが違うでしょ、どっちが快適かなんて聞くまでもないけどさ……」
「要領を得ない問いは愚問だ。主旨はなんだ?」
「この四ヶ月でサムライについて何かわかった?」
「………………」
痛い所を突かれた、といわんばかりに鍵屋崎が押し黙る。わかりやすいなあと苦笑する。
「そのぶんじゃサムライの本名も知らないよね」
優越感の滲んだ口調で念を押せば、反応はひどく新鮮だった。
「知っているのか!?」
僕の口調から何かを汲み取ったのだろう、肩に掴みかからんばかりの勢いで鍵屋崎がキスできる間合いに踏み込んでくる。僕がサムライの本名を知っていると匂わせただけでこれだ、我を忘れて敵の間合いに踏み込んでしまう無防備さ。
これがコイツの弱点、サムライが鍵屋崎の弱点だ。
「なぜ僕が知らないことをきみが、きみなんかが知ってるんだ?」
押し殺した声で詰問する鍵屋崎を煙に巻くような笑みを浮かべ、背後の壁にもたれかかる。
「『なんか』って失礼だね。前も言ったとおり、僕は看守にコネがあるんだ。一介の囚人が知らないようなゴクヒ情報だって全部メロウトークの延長線上で耳に流れこんでくる」
物欲しげにこちらを見つめている鍵屋崎にすりよるように接近、耳朶にささやく。
「教えてあげようか」
鍵屋崎はすぐには頷かなかった。
僕に借りを作ることに葛藤があったんだろう、いや、たんにプライドが許さなかっただけか。自分がいちばん知りたいことをひとに教えてもらうなんて冗談じゃない、そんなみっともない真似ができるかという強い意志が眼鏡越しの双眸に宿っていた。
でも、本心は偽れない。
「タイトウ ミツグ」
『ミツグ』。
苗字よりは下の名前に鍵屋崎は反応した。眼鏡の奥の目が驚いたように見開かれる。
「貢いだ刀を帯びると書いて帯刀 貢。すごくサムライらしい名前でしょ?最初聞いたとき笑っちゃったよ。……ああ、そのぶんじゃ本当に知らなかったんだ。ひどいねサムライも、一緒の房になって四ヶ月も経つのに自分の名前ひとつ教えてなかったんだね。ま、それはお互い様か。きみもサムライのまえじゃ嘘の名前で通してるんでしょ?親からもらった名前を偽って平然としてるようなやつに本名打ち明けたくないよね、だれだって」
『ミツグ』の名前を出したときから鍵屋崎の様子が変わった。
それまで半信半疑だったのに今ではすっかり僕の言うコトを信用してるらしい。
僕の言い分を真実だと認めた鍵屋崎が声をひそめて言う。
「………きみは何を、どこまで知ってるんだ?」
「全部さ」
両手を広げる。
「きみが知らないことは全部知ってる、僕のパトロンに仙台出身の看守がいて全部彼から聞いたんだ。サムライと同郷の看守が教えてくれたんだ、信憑性ばっちりっしょ?地元じゃ有名な事件らしいからね」
鍵屋崎の肩になれなれしく手をかける。普段の鍵屋崎ならこの時点で潔癖な拒絶反応を示して手を振り落としてるところだが、今日は違う。肩に乗った手を振り払うのも忘れ、呆然と僕の顔を見つめている。
眼鏡のレンズに僕の顔が映る。いびつな笑みを浮かべた詐欺師の顔。
「知りたくない?サムライがなんで父親を含む門下生十二人を斬殺したのか、過去に何があったのか」
鍵屋崎は何も言わなかった。
でも、僕の言ってることは十分に理解できたらしく、瞳には隠しきれない興奮の色があった。
「もし知りたければ今夜下水道に来てよ」
「下水道?」
鸚鵡返しに反駁した鍵屋崎に足もとの床……正確には、床の下に広がる巨大空間を見下ろして説明してやる。
「地下駐車場のマンホールを一つずらして開けておくからそっから下水道に降りてきて。知ってるでしょ?ブルーワークの仕事場さ。時間は……そうだね、消灯から一時間後。房に時計がなくてもだいたいわかるっしょ、最初に見回りにきた看守の靴音が遠ざかってから。東京プリズンの深夜巡回は計三回、一巡目が22時、二巡目が午前0時、三巡目が午前3時。時計代わりになるし覚えといて損ないよ」
「下水道である必要性は?」
「人目を憚って。これでも一応プラシバシーには配慮してるんだ、メガネくんだってサムライの身の上話を興味本位の野次馬連中に盗み聞かれたくないでしょ。下水道なら監視カメラもないし、へたに記録される怖れもないから安全」
納得したのかしてないのか、真剣な顔で考えこむ鍵屋崎からスキップしてとびすさる。
「来る来ないは自由だけどこの機を逃したら一生サムライの昔話を聞くチャンスはない。きみはサムライのことをなにも知らずにやつと顔を突き合せて暮らしてくしかない、ずうっとね」
くどいほどに念を押しぱたぱたと廊下を去る。20メートルほど走って振り返れば鍵屋崎はまだ同じ場所に突っ立っていた。満足し、角を曲がる。路地の陰に隠れた耳に低い声が響く。
「首尾は?」
「上々」
人さし指と親指で丸を作り、蛍光灯の光も届かない路地の奥に笑顔を向ける。
路地の奥、暗がりに潜む影が一体、二体、三体……計五体。中のひとり、この場の主導権を握っているらしき先頭の影が歩み出る。
何度も脱色をくりかえして傷んだ金髪、ネズミのように卑しい目つきの少年が半信半疑で訪ねる。
「本当にうまくいくのか」
「僕に任せてって。鍵屋崎を餌にすればサムライは絶対来るよ、アイツ『いい奴』だからさ」
東京プリズンにおける『いい奴』は褒め言葉じゃない、ただの蔑称だ。
「痴話喧嘩の最中だって相棒を人質にとられれば見捨てられないっしょ。サムライが来たらあとはお好きなように、メガネくんを盾に脅すなり何なりしてブラックワークペア戦出場の約束を取り付ければいい」
「で、あのメガネは来んのか」
「絶対に」
断言する。
「鍵屋崎はサムライのことが知りたくて知りたくてたまらないんだ、クールな顔してたって心の中はぐちゃぐちゃさ。サムライがなんで、どうして実の父親を含む十二人もの人間を殺したのか?事件の真相がどうしても知りたくて矢も盾もいられないのが本音さ」
だから、鍵屋崎は絶対に来る。
自ら罠にとびこみに。
最も、本命のサムライが鍵屋崎の不在に気付いて下水道に来るまで少し時間がかかるだろう。それまでは―
「アイツ、好きにしていいよ」
ズボンのポケットに手を突っ込み、喉を鳴らして笑う。僕の言葉がなにをさしてるか直感したのだろう、路地にたむろっていた金髪と仲間の口から濁った笑い声が漏れる。
鍵屋崎はまだ東京プリズンの本当の怖さを知らない。
鉄格子の中の世界が悪意に包囲にされてると知らないでいる。おめでたいね。
仲間がいなくて食堂の片隅でひとりで食事をとっている奴、人と馴れ合うのがいやで自ら進んで片隅の席を確保する奴、中央の席を陣取ってわあわあぎゃあぎゃあ騒いでいるのは東棟最大の勢力を誇る中国系派閥、凱が仕切るグループだろう。行儀悪く机に肘をつき足を乗せ、フォークや匙を勢いよく振り上げながら哄笑している。たぶん食事の席にふさわしくない猥談でもしてるんだろう、上座の椅子に反り返った凱は取り巻き連中におだてられて上機嫌だが仲間の五割は追従で笑ってるにすぎない。かわいそうな裸の王様。
裸の王様に見切りをつけ、本物の王様をさがして食堂全体に目を馳せる。毎度毎度蜂の巣を突いたような騒ぎの食堂、耳を聾する喧騒に混ざるのは旺盛にものを咀嚼する音、下品に汁を啜る音、かちゃかちゃと食器が触れ合う耳障りな金属音に野太い笑い声。さまざまに音域の異なる雑音が混沌と混じり合い吹き抜けの食堂は活況を呈していた。
茶髪の王様は猥雑な食堂の右から五列目、左から十五列目にいた。
隣にいるのは言うまでもなくロンだ。今日の献立は洋食、マッシュポテトとコンソメスープとハム三切れ、それにパン一切れという育ち盛りの身には不満たらたらな粗食。コンソメスープにパンを漬けて食べてるレイジに隣のロンはちょっと呆れ顔。ロンは食事中も机に肘をつかない、よくは知らないけどママが相当行儀に厳しい人だったんだろう。レイジがテーブルに肘をつくたび小姑みたいに口うるさく注意している、あ、今も叩かれた。テーブルに肘をついただらしない姿勢でマッシュポテトを口に運ぼうとしたレイジがロンに肘をはたかれてバランスを崩す。上体ごと突っ伏したレイジが「フォーク持ってるときに叩くなよあぶねーな、鼻の穴がつながるとこだったろ!?」と抗議するのをひややかに眺め、「面白そうだな。ぜひやってみせてくれ」と言う。
毎度見飽きた、つまんない夫婦漫才だ。
ロンとレイジの向かいにはサムライが座っている。しゃんと背筋を正して椅子に腰掛け、味覚がないような顔で一口大にちぎったパンを咀嚼している。
そんなかんじで、食堂はいつもどおりにぎやかだった。本日の強制労働から五体満足で生きて帰ってこれた囚人が先を争うようにアルミの食器をたいらげてゆくのをブタの食事風景でも眺めるように見下ろしつつ、「あれ?」と呟く。
レイジ、ロン、サムライ。
おかしい、ひとりいない。
「鍵屋崎はどこに行ったんだろうね」
今しもハムにフォークを刺そうとしていたビバリーが声につられて顔を上げ、その拍子にコンソメスープの器に肘をぶつける。
「あああああああああああああアッ、リョウさんなんてコトを!?」
「僕なんもしてないじゃん、自分でかってに落としたんでしょ」
ひどい責任転嫁だ。
憤慨してビバリーを振り返れば、当の本人は悲壮な顔をコンソメスープのこぼれたトレイを見下ろしていた。
「僕のハムがコンソメハムになってしまった!」
だんだんと拳でテーブルを叩きながら無念に泣くビバリー、その肩をつついてもう一度聞く。
「あれ見てよ」
眼下に顎をしゃくる。僕に促されたビバリーが渋々手摺から身を乗り出して真下を覗きこむ。ちょうど僕らの真下の席を陣取っているレイジ、ロン、サムライの顔が目に入る。
「ひとり欠けてるっしょ」
「ああ、例のメガネくんっすか」
「そう」
ようやくビバリーも気付いたらしい、鍵屋崎の姿がどこにも見当たらないことに。
東京プリズンに来て二ヶ月はだれとも馴れ合わず、食堂の隅っこでひとりで食事をとっていた鍵屋崎。そのガードが緩みかけたのは四ヶ月目に入ってから、サムライから誘ったのかどうかは知らないが、たぶんふたりの関係の変化がもたらした成り行き上の結果だろう。レイジ、ロン、サムライのいつもの食堂メンバーにどこかばつが悪げな顔をした鍵屋崎が含まれるようになったのはごく最近だ。サムライの隣に腰掛け、やっぱりこれも僕なんかとは比べ物にならないくらい正しく箸やフォークを扱って食事をとる。鍵屋崎がロンやレイジと会話してる様子はあんまりなかったが、話し掛けられれば二言三言答えていた。まあ、鍵屋崎と他の囚人の間にまともな会話が成立するとは思えない。それが証拠にたんなる世間話に打てば響くような皮肉と毒舌で応酬されたらしきレイジが苦笑い、ロンに至っては不機嫌きわまりない仏頂面をしていた。
その鍵屋崎の姿が、今日はない。
サムライの隣から消えている。
「具合でも悪いんすかねえ」
「まさか。今日も普通に仕事してたよ」
温室と砂漠、持ち場は違えどイエローワークの同僚の証言だ。バスに乗り込むときにちらっと見かけたけど鍵屋崎が体調を崩してる様子はなかった。まあ、陰鬱に打ち沈んだ顔をしてたけど。
「喧嘩かな」
「じゃないスかねえ。原因はなんでしょうね、レイジさんと違って相棒の寝込み襲ったりはしないだろうし」
話題にされたレイジがくしゅんとくしゃみして唾をとばし、自分のトレイを両手で庇ったロンが「汚えな」と眉をしかめる。
「しっ」
唇にひとさし指をあてる。右から左へ、口にチャックする真似をしたビバリーと顔を並べてそろそろと下を覗きこむ。さっきからロンの様子がおかしい、ちらちらと落ち着きなく後ろを振り返っている。ロンの視線を追えば、黴臭く湿った食堂の隅っこに鍵屋崎がいた。ひとりでほそぼそと食事をとってるらしい。
後ろ髪をひかれるように鍵屋崎を振り返っていたロンがくるりと正面に向き直る。
「原因はなんだ」
サムライは無言。アルミの椀を手にとり、音もなくスープを啜る。無視されてカチンときたロンが語気を強める。
「お前らの喧嘩に俺が口出しする義理ねーけどサムライともあろう者が大人げねえ、柄にもなく意地張ってんなよ。今日地下駐車場で顔合わせた時からアイツの様子おかしかったぜ。ぜんぜん元気ねえし、毒舌にいつものキレがなかった」
毒舌を元気のバロメーターにされるなんて鍵屋崎も人徳がないなあ。
「昨日、なんかあったのか」
「……………………………」
「たぶん原因は十中八九鍵屋崎だと思うけど、お前もお前だ。一方的にシカトなんかしてないで腹割って話し合えよ」
「……………………………」
「聞いてんのかよ」
「やめとけってロン」
立ち上がりかけたロンを肘を掴んで押さえ、レイジが笑う。
「ほら、日本の諺にあるだろ。人の喧嘩に首つっこむやつは馬に蹴られて死んじまえって」
「『人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死んでしまえ』だ」
それまで沈黙していたサムライがぼそりと呟く。サムライが一言発したのを皮切りに、レイジが興味津々身を乗り出す。
「で、実際どうなの?一体全体なにが原因で熟年離婚の危機に瀕した中年夫婦みたいな会話もない、目も合わせない倦怠期が訪れたわけ」
頬杖ついたレイジが愉快げに探りを入れてくるのをひややかに一瞥、箸を操る手を止めずに短く答える。
「俺の手紙をかってに読んだ」
レイジとロンが顔を見合わせる。
「……………………………それは、また」
「許せねえな」
やれやれと首を振りながら嘆声を発するレイジ、ロンもまた眉をひそめる。サムライはそれきり目も上げずにパンを齧っていたが、真相を聞いた今もなお鍵屋崎のことが気になるらしいロンはちらちら後ろを振り向いていた。ロンがよそ見したすきに脇へと忍びこんだのはレイジの手。ロンの死角を突いてハムを盗もうとしていた手が邪険にはたき落とされる。しつこく侵入してくる手をレイジの方を見もせずにはたき落としながらロンが言う。
「やっぱ俺行ってくる」
「放っとけって」
席を立ち上がりかけたロンをあきれた声でレイジが制す。
「ひとりにさせてやれよ、キーストアってもともとひとりを好むタチじゃん。サムライのことがなくてもひとりで飯食いたい日ぐらいあるって」
「けど………」
「ひとの尻拭いばっかしてると過労死にするぜ、ロン」
「そこがいいところなんだけど」と付け足して惚気るのも忘れないレイジ。ちゃっかりしてる。躊躇しながらも腰をおろしたロンの皿にフォークをのばし、ハムを刺そうとした手がおもいきりはたき落とされる。赤く腫れた手の甲をさすりながら「ケチ」と口をとがらせるレイジに「俺を餓死させる気か?」と噛み付くロン、言い争いを始めたふたりの正面、先に食事を終えたサムライが席を立つ。
トレイを持ってテーブルとテーブルの間の通路を歩き、カウンターへむかう。床に寝転り取っ組み合いの喧嘩を始めた囚人を巧みに避け、宙を飛び交うフォークとアルミ皿の嵐の中を泰然自若と進む。
カウンターにトレイを返却したサムライがぐるりと通路を迂回し、食堂を後にしようとしかけー
ちょうど、鍵屋崎の背後にさしかかる。
その時だ、偶然のイタズラが発生したのは。
カチャン。
今しもトレイを持って背後を通り過ぎた囚人がわざと鍵屋崎にぶつかる。そんなに強くぶつかったわけではないが、食事中、油断してたところに不意打ちを食らったために鍵屋崎はフォークを落としてしまった。鍵屋崎にぶつかった囚人はにやにや笑いながら足早に通りすぎ、あとには姿勢を崩した鍵屋崎と床に転がったフォークだけが取り残された。
そして、足もとに放置されたフォークを無表情に見下ろすサムライ。
その時初めてサムライに気付いたのだろう、振り向いた鍵屋崎、その顔が強張る。眼鏡越しの双眸に宿ったのは複雑な色。罪悪感、怯惰。だけじゃない、もっと違うなにか―
サムライは手ぶらだった。
ちょっと腰を屈めてフォークを拾おうと思えば拾えたはずなのに、そうしなかった。
スッとフォークを跨ぎ、通り過ぎる。何事もなかったように、鍵屋崎のことなど最初から見えなかったように。
サムライとすれちがいざま、鍵屋崎の顔が悲痛に歪むのがわかった。だがそれはすぐに常と同じ無表情に変わり、椅子から腰を浮かせてフォークを拾う。サムライは一度も振り向かなかった。きびきびした大股で食堂をあとにしたサムライを見送り、笑う。
「近づきかけた距離がまた開いた」
「十歩進んで十五歩さがってる感じですねえ」
ビバリーがうまいことを言う、座布団一枚。鍵屋崎を見れば妙に深刻な面持ちでじっと手中のフォークを見つめていた。
「自分の目でも刺す気スかね」
まさか。
ビバリーを笑おうとして振り向きかけた視界の端、サムライに遅れること数十秒、食事を終えた鍵屋崎がカウンターへ行ってトレイを返却する。食堂を去りかけた鍵屋崎、その姿が完全に視界から消える前にトレイを持って腰を上げる。
「じゃ、お先にビバリー」
「……リョウさん。やけに嬉しそうっスけど、またよからぬこと考えてるんじゃないでしょうね」
図星だ。鈍感に見えてビバリーは意外と鋭い。
心の中で舌を出し、表面上は「そんなこと全然ないって」と主張する笑顔を湛える。ビバリーに別れを告げて軽快に階段を降りる。速攻でトレイを返却、小走りに鍵屋崎を追いかける。
いた。
廊下の途中、ちょうど人通りのないところでとぼとぼ歩いてる鍵屋崎に追いつけた。
さて、なんて声をかけよう。もちろん決まってる。
「サムライと喧嘩?」
鍵屋崎の背中が反応する。
「…………またきみか。人のゴシップを嗅ぎまわるしか娯楽がないのか」
うんざりと振り返った鍵屋崎にスキップしながら近づけば本人はあとじさる。これじゃ一向に距離が縮まらない。仕方なし、危害をくわえるつもりはないと両手を振って主張する。
「なにもしないよ、ほら、なにも持ってないでしょ?なにかしたくてもできないよ、ね」
「ポケットの薬は?」
「僕とキスできる距離に近づかなければ大丈夫さ」
三歩距離を隔てて止まる。
「……何か用か?」
僕と口をきくのも煩わしいとばかりぞんざいな口調で鍵屋崎が促す。気乗りしない様子の鍵屋崎を上目遣いに見上げ、ささやく。
「メガネくんが東京プリズンに来て四ヶ月。ということは、サムライと一緒の房になってもう四ヶ月も経つというわけだ」
『もう』の部分を強調してやれば、鍵屋崎の眉間の皺がさらに深まる。
予想通りの反応に気をよくしながら、内心はおくびにも出さず包囲網を狭める。
「この四ヶ月、檻の中で生活してみてどうだった?感想を聞きたいね。外とココじゃ何もかもが違うでしょ、どっちが快適かなんて聞くまでもないけどさ……」
「要領を得ない問いは愚問だ。主旨はなんだ?」
「この四ヶ月でサムライについて何かわかった?」
「………………」
痛い所を突かれた、といわんばかりに鍵屋崎が押し黙る。わかりやすいなあと苦笑する。
「そのぶんじゃサムライの本名も知らないよね」
優越感の滲んだ口調で念を押せば、反応はひどく新鮮だった。
「知っているのか!?」
僕の口調から何かを汲み取ったのだろう、肩に掴みかからんばかりの勢いで鍵屋崎がキスできる間合いに踏み込んでくる。僕がサムライの本名を知っていると匂わせただけでこれだ、我を忘れて敵の間合いに踏み込んでしまう無防備さ。
これがコイツの弱点、サムライが鍵屋崎の弱点だ。
「なぜ僕が知らないことをきみが、きみなんかが知ってるんだ?」
押し殺した声で詰問する鍵屋崎を煙に巻くような笑みを浮かべ、背後の壁にもたれかかる。
「『なんか』って失礼だね。前も言ったとおり、僕は看守にコネがあるんだ。一介の囚人が知らないようなゴクヒ情報だって全部メロウトークの延長線上で耳に流れこんでくる」
物欲しげにこちらを見つめている鍵屋崎にすりよるように接近、耳朶にささやく。
「教えてあげようか」
鍵屋崎はすぐには頷かなかった。
僕に借りを作ることに葛藤があったんだろう、いや、たんにプライドが許さなかっただけか。自分がいちばん知りたいことをひとに教えてもらうなんて冗談じゃない、そんなみっともない真似ができるかという強い意志が眼鏡越しの双眸に宿っていた。
でも、本心は偽れない。
「タイトウ ミツグ」
『ミツグ』。
苗字よりは下の名前に鍵屋崎は反応した。眼鏡の奥の目が驚いたように見開かれる。
「貢いだ刀を帯びると書いて帯刀 貢。すごくサムライらしい名前でしょ?最初聞いたとき笑っちゃったよ。……ああ、そのぶんじゃ本当に知らなかったんだ。ひどいねサムライも、一緒の房になって四ヶ月も経つのに自分の名前ひとつ教えてなかったんだね。ま、それはお互い様か。きみもサムライのまえじゃ嘘の名前で通してるんでしょ?親からもらった名前を偽って平然としてるようなやつに本名打ち明けたくないよね、だれだって」
『ミツグ』の名前を出したときから鍵屋崎の様子が変わった。
それまで半信半疑だったのに今ではすっかり僕の言うコトを信用してるらしい。
僕の言い分を真実だと認めた鍵屋崎が声をひそめて言う。
「………きみは何を、どこまで知ってるんだ?」
「全部さ」
両手を広げる。
「きみが知らないことは全部知ってる、僕のパトロンに仙台出身の看守がいて全部彼から聞いたんだ。サムライと同郷の看守が教えてくれたんだ、信憑性ばっちりっしょ?地元じゃ有名な事件らしいからね」
鍵屋崎の肩になれなれしく手をかける。普段の鍵屋崎ならこの時点で潔癖な拒絶反応を示して手を振り落としてるところだが、今日は違う。肩に乗った手を振り払うのも忘れ、呆然と僕の顔を見つめている。
眼鏡のレンズに僕の顔が映る。いびつな笑みを浮かべた詐欺師の顔。
「知りたくない?サムライがなんで父親を含む門下生十二人を斬殺したのか、過去に何があったのか」
鍵屋崎は何も言わなかった。
でも、僕の言ってることは十分に理解できたらしく、瞳には隠しきれない興奮の色があった。
「もし知りたければ今夜下水道に来てよ」
「下水道?」
鸚鵡返しに反駁した鍵屋崎に足もとの床……正確には、床の下に広がる巨大空間を見下ろして説明してやる。
「地下駐車場のマンホールを一つずらして開けておくからそっから下水道に降りてきて。知ってるでしょ?ブルーワークの仕事場さ。時間は……そうだね、消灯から一時間後。房に時計がなくてもだいたいわかるっしょ、最初に見回りにきた看守の靴音が遠ざかってから。東京プリズンの深夜巡回は計三回、一巡目が22時、二巡目が午前0時、三巡目が午前3時。時計代わりになるし覚えといて損ないよ」
「下水道である必要性は?」
「人目を憚って。これでも一応プラシバシーには配慮してるんだ、メガネくんだってサムライの身の上話を興味本位の野次馬連中に盗み聞かれたくないでしょ。下水道なら監視カメラもないし、へたに記録される怖れもないから安全」
納得したのかしてないのか、真剣な顔で考えこむ鍵屋崎からスキップしてとびすさる。
「来る来ないは自由だけどこの機を逃したら一生サムライの昔話を聞くチャンスはない。きみはサムライのことをなにも知らずにやつと顔を突き合せて暮らしてくしかない、ずうっとね」
くどいほどに念を押しぱたぱたと廊下を去る。20メートルほど走って振り返れば鍵屋崎はまだ同じ場所に突っ立っていた。満足し、角を曲がる。路地の陰に隠れた耳に低い声が響く。
「首尾は?」
「上々」
人さし指と親指で丸を作り、蛍光灯の光も届かない路地の奥に笑顔を向ける。
路地の奥、暗がりに潜む影が一体、二体、三体……計五体。中のひとり、この場の主導権を握っているらしき先頭の影が歩み出る。
何度も脱色をくりかえして傷んだ金髪、ネズミのように卑しい目つきの少年が半信半疑で訪ねる。
「本当にうまくいくのか」
「僕に任せてって。鍵屋崎を餌にすればサムライは絶対来るよ、アイツ『いい奴』だからさ」
東京プリズンにおける『いい奴』は褒め言葉じゃない、ただの蔑称だ。
「痴話喧嘩の最中だって相棒を人質にとられれば見捨てられないっしょ。サムライが来たらあとはお好きなように、メガネくんを盾に脅すなり何なりしてブラックワークペア戦出場の約束を取り付ければいい」
「で、あのメガネは来んのか」
「絶対に」
断言する。
「鍵屋崎はサムライのことが知りたくて知りたくてたまらないんだ、クールな顔してたって心の中はぐちゃぐちゃさ。サムライがなんで、どうして実の父親を含む十二人もの人間を殺したのか?事件の真相がどうしても知りたくて矢も盾もいられないのが本音さ」
だから、鍵屋崎は絶対に来る。
自ら罠にとびこみに。
最も、本命のサムライが鍵屋崎の不在に気付いて下水道に来るまで少し時間がかかるだろう。それまでは―
「アイツ、好きにしていいよ」
ズボンのポケットに手を突っ込み、喉を鳴らして笑う。僕の言葉がなにをさしてるか直感したのだろう、路地にたむろっていた金髪と仲間の口から濁った笑い声が漏れる。
鍵屋崎はまだ東京プリズンの本当の怖さを知らない。
鉄格子の中の世界が悪意に包囲にされてると知らないでいる。おめでたいね。
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