少年プリズン

まさみ

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八十八話

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 現在、房にサムライは不在。
 サムライの行動範囲は謎に包まれている。強制労働終了後は大抵房で読経しているか写経しているかそれでなければ木刀の手入れをしているしかない無趣味な男だが、僕に無断で房を留守にすることも多い。最近はとくにそうだ。サムライがわざわざ他の房に足を運ぶほど親しくしている友人はいそうにないが、かと言って他に行く所も思い浮かばない。
 東京プリズンに友人がいない僕は、強制労働終了後の自由時間は図書室から借りてきた本をしずかに読んで過ごす。サムライがいてもいなくてもそれは変わらない、僕は他人に煩わされることなく趣味の読書に費やせる時間を貴重に思う。
 だが、この日は別だ。
 後ろ手に閉めた扉に施錠し、廊下に人通りがないことを確かめてから用心してその場を離れる。サムライのベッドに接近、床に片ひざをつく。ベッドに片手をつき、片手をベッドの下にさしいれる。手前に積まれた半紙や硯、木刀などの私物を崩さないよう注意して奥へと手をさしこんで暗闇を探る。
 指先に箱の輪郭。
 殆ど体積のない小箱を五指に掴み、唾を飲み込む。
 古ぼけた裸電球が殺風景な房の内観を白々と照らし出す。無表情なコンクリートの壁に四囲をふさがれた息苦しい空間、左右の壁際に配置されたのは背格子に錆びの浮いたパイプベッド。それ以外には特筆すべき調度品もない。
 主が不在のベッドの傍らに両膝をつき、改めて小箱を見下ろす。
 何の変哲もない和紙の小箱。この中にサムライの秘密を解く鍵がある、過去を暴く手がかりがある。現在サムライは房を留守にしている、箱を開けるなら今しかない。絶好のチャンスだ。
 捜査は難航している、さまざまな人物に事情聴取を試みたが一向に進展がない。現時点で入手した有力な手がかりといえば三つ、箱の中の手紙はサムライが外から持ち込んだ私物であること。東京プリズンに来た初日の身体検査で没収されかけてもサムライは頑として手紙を離さず、その代償に左腕を折られたということ。
 そして、サムライが寝言で呟いた『なえ』とはサムライの大事な女性ではないかという疑惑。
 収穫は皆無ではないが、これだけの材料で捜査を続けるのは心許ない。僕が欲しいのは決定的な証言、謎の霧に包まれたサムライの過去を白日の下にひきずり出すような決定的な証拠なのだ。
 すべての発端は手紙だった。僕がゴキブリに怯えて箱をひっくり返し、偶然存在を知ってしまった手紙……いや、訂正しよう。僕はゴキブリに怯えてなどいない、あんな下等な害虫に怯えるわけがないじゃないか。ただ驚いただけだ。とにかく、僕がゴキブリに驚いてひっくり返してしまった小箱には古い手紙が入っていた。最初サムライ宛に来た手紙かと思ったが事実は違った、あの手紙はサムライが東京プリズンに収監されてから届いたものではなくサムライが外から持ち込んだものだった。
 サムライが左腕と引き換えても守りたかった大事な手紙。
 サムライが左腕と引き換えても守りたかった大事な女性?
 それは誰だ、現在どこでどうしている?サムライの無事を祈り、一途に帰りを待ち続けているのだろうか。『なえ』とは誰だ、僕は誰の代用品にされたんだ?
 サムライは『なえ』を愛しているのか?
 ……僕には恋愛感情がわからない。脳の仕組みは理解できる、恋愛をしているときに脳から分泌されるのは快感物質のエンドルフィンだ。つまり恋愛中の人間が幸福な気分になるのは脳内麻薬の効果、覚醒剤を注入したときに訪れる恍惚感とおなじ一種の中毒症状と定義していい。
 理屈はわかる、仕組みは理解できる。が、体験したことは一度もない。
 僕は今まで人を好きになった経験がない、異性に恋愛感情を抱いたことがない。否、そればかりか恵以外の人間に親近感を抱いたことがない。戸籍上の両親に家族の愛情を感じたことは一度もない、最も彼らとて僕に愛情を持っていたわけではないだろう。将来自分たちの研究を継がせるために遺伝子段階から設計した優秀な作品を誇る気持ちはあってもそれ以上の愛着はないのが日常の態度からよくわかった。
 サムライは人を愛したことがあるのだろうか。
 僕は恵が好きだ。ただしそれはあくまで家族として、妹としてだ。性愛の対象として見ることはできない、絶対に。
 サムライは違うのか?過去、本気でひとを愛したことがあるのか?
 「……………」
 『なえ』。サムライに愛された女性。
 僕と間違われた女性。
 箱の蓋に手をかけようとして、ためらい、ひっこめる。その動作を何度くりかえしたことだろう。手を上げ、また下ろす。そのくりかえし。すぐに済んでしまうことなのに、いざとなれば決心が鈍る。 
 僕は知りたいのか?
 知りたくないのか?
 サムライの過去を、サムライが愛した女性のことを知りたくないのか?
 自分の行動を不審に思いつつ、大きく深呼吸して箱の蓋に手をかける。そして、3センチほど持ち上げてみる。
 箱の下の隙間にちらりと白い物が覗いた途端、心臓が強く鼓動を打ち、おもわず手を離す。
 再び箱に蓋が被さる。
 「………なにをやってるんだ僕は」
 どうして手が言うことを聞かない、手がうまく動かないんだ?耳の中で心臓の鼓動が響く、頭蓋が割れそうに大きな鼓動の音。痺れたように指が動かない、命令に従わない。末端の神経系統が麻痺してしまったように指が小刻みに震えている。
 コンクリートの床から這い上がってきた冷気が膝から体中へと広がってゆく。
 箱を凝視する。
 微動だにせず、ただそこに在る箱。この箱を開ければすべての謎が解ける、すべての謎を解く鍵が見つかる。
 なのに、どうして開けることができない?
 頭蓋裏の鼓動を圧して耳に響くのはいつかのサムライの声。
 『俺が守りたいから守った。お前が気に病むことはない』
 そうだ、僕が頼んだわけじゃない。にも関わらず、サムライは僕を守ってくれた。お節介にも、足手まといの僕を。
 『鍵屋崎、寝ているのか』
 リュウホウに死なれて僕が精神的に参っていたとき、サムライは何をした?僕の寝言を聴かないよう配慮して房を空けた、頼んでもいないのに、自らの意思でそう決めて実行した。 
 それなのに、僕は今、何をしている?
 サムライに無断で箱を開けて手紙を読もうとしている。あの時、僕がうなされている時、サムライは僕の寝言を盗み聞きしたくないがために房を後にした。僕がそれを知られるのを嫌がるだろうと直感し、何も言わずに房を後にしたのだ。
 それなのに僕は今、箱を開けようとしている。 
 サムライは僕の秘密を秘密のままでいさせようと不器用なりに配慮してくれた、僕は僕の意志でサムライの秘密を暴こうとしている。
 違う。
 これは違う、違う。なにが違うのかうまく言葉にできないが、僕がしようとしていることは間違っている。
 図書室の階段を降りるまではどんな手を使ってもサムライの過去を暴こうと思っていた、たとえサムライの手紙を盗み見るような卑劣な真似をしても自己の探究心を満足させるのが最優先だと。
 箱を目の前にして、蓋に手をかけようとして、思い出した。
 サムライは僕の寝言を盗み聞きするのが嫌で、消灯時間が来るまで寒い廊下をさまよっていた。僕をひとりにさせてくれた、秘密を守ってくれた。僕はサムライに借りがある。それは僕が頼んだわけじゃない、命令したわけでもない。
 でも、借りは借りだ。
 サムライに借りを作ったままでいるのはプライドの危機だが、借りを仇で返して膨らませるのはもっと嫌だ。
 僕はサムライと対等になりたいのに、こんなことをしたら一生対等になれなくなってしまう。
 「………」
 長い長い逡巡だった。
 体感時間では半日にも等しかった。しずかに蓋をおろし、両の手を下ろす。気付くと全身に汗をかいていた。粘液質の不快な汗。
 これでいいんだ。
 箱など開けなくても、物証に頼らずとも必ず真相を突き止めてやる。自分の力で、足で、この頭脳で。
 天才に不可能ない。僕はきっとサムライの謎を解いて、サムライと対等になることができる。
 深く深く深呼吸して箱をもとに戻そうとした僕の背後でカチャリと音がし、扉が開く。
 「そこでなにをしている」
 そうだ、サムライはリョウから合鍵を渡されていた。施錠しても無駄だったのだ。

 疾風。 

 顔のすぐ横のコンクリート壁を穿つ鈍い音。
 振り向きざま頬をかすめた烈風に押され、あとじさった弾みに背後の壁に激突する。
 僕の顔の横に突き立てられていたのは一振りの木刀。
 目の前にはサムライがいた。
 息を呑む。
 額にかぶさった脂じみた前髪の奥で炯炯と輝いているのは血に飢えた猛禽の眼光、極限まで研がれた殺気がひんやりと全身をつつんでいる。 
 憤怒の溶岩流が今にも堰を破り迸り出ようとしているのを鉄面皮でおさえこんだ、迫真の形相。
 「なにをしていた、鍵屋崎」
 サムライの声は低く落ち着いていた。責めるでも詰るでもない、ただ、問うようにささやく声。
 「……………なにも」
 強張った舌を動かし、それだけ言う。サムライの視線が背後に流れる。視線の先に転がっていたのは小箱。
 「あれは俺の私物だ」
 「……………………」
 「ベッドの下にしまっておいたのに何故ここにある」
 「……………………」
 「かってに見ようとしていたのか」
 「違う」
 素早く反論するが、顔を上げた途端、サムライの目とぶつかって後悔する。
 冷たい目。
 これまで僕が見たこともないようなひえびえとした目、口をきく石ころでも眺めているように辛辣な軽蔑の色。
 「妙に思っていたんだ。以前も同じことがあった。ベッドの下を覗けば箱が少しだけ動いた形跡があった。犯人はお前だな」
 「………自意識過剰だな、僕がきみの私物に手をつけるわけがない。竹刀にしても硯にしてもくだらない物ばかりだろう」
 「くだらなくなどない」
 サムライが断言する。その口調に反感をおぼえ、サムライの目を直視する。
 「慧眼だな。たしかにぼくは以前きみがいない間に箱を開けた、中の手紙も読んだぞ」
 『手紙』 
 手紙のことに触れた途端、サムライの顔が苦く歪む。鉄面皮が綻び、目に悲痛な色が宿る。膿んだ傷口を抉られたように痛々しい表情を目に浮かべたサムライを見上げ、唇の端を吊り上げ、せいぜい憎たらしく嘲笑してやる。
 「きみが不用意に房を空けるのが悪い、まさか僕を信用してたのか?かってに人の私物に手をつけるような奴じゃないと?お生憎様だな」
 饒舌にまくしたてる僕をじっと見据えるサムライ、その表情は変わらない。裸電球の明かりを背に、僕の顔の横に木刀を突きつけたまま微動だにしない。何を考えてるかわからない無表情を見上げていると胸の奥で暗い感情が沸騰する。
 「モルモットに人権はない」
 サムライが訝しげな顔をする。
 「僕は自分の好奇心を最優先する、知りたいことはどんな手を使っても突き止める。その事に対して罪悪感など感じない、後悔なんてしない、反省なんて冗談じゃない。なんで僕が凡人に頭を下げなければならない?知りたいことを知ってなにが悪いんだ、きみのことが知りたくて、『なえ』のことが知りたくて手紙を読んでなにが悪いんだ!!」
 『なえ』。
 その名を耳にした途端、サムライの胸の内で激情が沸騰するのがわかった。
 竹刀の切っ先に殺気がみなぎる。顎先に突き付けられた竹刀の切っ先が跳ね上がり、強引に上向かされる。僕の目をまっすぐに覗きこんだサムライが吐き捨てるように言う。
 「最低だな」
 苦々しく唾棄したサムライを睨む。僕の顎に切っ先を固定し、倦んだように呟く。
 「そんなに知りたければ教えてやる。あれは遺書だ」
 「――――え?」
 孤独が人の形をとったような、一切の救いの手を拒絶する孤影。
 木刀を突きつけられていることも忘れ、魅入られたようにサムライを見上げる。
 臓腑を絞るような声で、堪えきれないものを堪えようとして失敗したかのように、サムライは言った。
 僕の知らない男の顔で。
 「なえは俺が殺した女だ」
 コロシタ?
 裸電球を背にしているため、サムライの顔には濃い影が落ちている。濃淡に富んだ影に隈取られたサムライの顔は地獄の幽鬼じみた凄槍な形相に変化していた。
 地獄の業火に灼かれながら幽鬼が叫ぶ、自分を、感情を押し殺した声で。
 「俺がなえを追いつめて首を吊らせたんだ」
     
 『俺の貸した手ぬぐいで首を吊るなよ』

 数ヶ月前、自殺の誘惑に心傾いていた僕にサムライが釘をさしたのは身近な人間に首を吊られるのがいやだったから?
 『なえ』と同じ自殺―――――――――――

 「…………そうか」
 そうだったのか。
 力ない笑みが顔に浮かぶ。薄く笑みを浮かべ、サムライを仰ぎ見る。
 「きみが僕の自殺を止めたのは『なえ』と同じ過ちを犯したくなかったからか」
 サムライは否定も肯定もせず沈黙したまま、眼光鋭く僕の唇の動きを読んでいる。
 そうか。
 結局どこまで行っても、僕は苗の代わりに過ぎなかったのか。
 僕の手を掴んで「なえ」の名を呼んだのがなによりの証拠じゃないか。
 なえとサムライの間になにがあったかは知らない、ふたりがどんな関係だったのかも知らない。
 ただ、僕に言えることはひとつ。
 「自分が殺した女の名を未だに忘れられずに夢で呼ぶなんて、本当に情けない男だ」
 僕が浮かべているのは自嘲の笑みだが、サムライの目にはあからさまな蔑笑に映ったことだろう。その証拠に、木刀が汚れるのを厭うかのように僕の顎先から切っ先をおろしてサムライは吐き捨てた。 
 千本の針を含んだ軽蔑のまなざしをむけて。
 「恥を知れ」
 木刀を脇にさげたサムライが大股に去ってゆく。鉄扉が音荒く閉じ、急いた足音が遠ざかる。サムライはきっと消灯時間まで帰ってこないだろう、もう僕の顔を見るのもいやなはずだ。
 壁に背中を預けて崩れ落ちる。
 『なえ』はもうこの世にいない、首を吊って死んでしまった。
 サムライが後生大事に隠し持っている手紙はなえの形見……遺書だった。
 どうりで手紙にこだわるはずだ。 
 膝を抱え込み、顔を伏せる。
 『俺が欲しい女はここにいない』
 今なら、取り返しがつかないことをしてしまった今ならあの時サムライが言おうとしたことがよくわかる。
 『俺が欲しい女はこの世にいない』
 サムライはそう言いたかったのだ。

 僕と同じように、もう取り返しがつかなくなってしまったあとで。
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