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八十五話
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強制労働が終了した。
帰途につくバスの車内、吊り革に掴まりながら考えを整理する。ロンの語るサムライ、安田の語るサムライ。両者が知るサムライと僕が知るサムライとの開き。隔たり。埋まらない溝。とくに重要なのは安田の証言だ、東京少年刑務所副署長の安田は東京プリズンに来たばかりの頃のサムライを知っている。
サムライは医務室に運ばれる最中も頑として手紙をはなさなかった。
その事実が物語るものは?
たとえば僕なら、誰から来た手紙なら左腕を折られても手放さずにいられるだろう。左腕を折られて殴られ蹴られても懐にかばい、守り通すことができるだろう。答えはすぐにでた。ただひとりの妹、かけがえのない家族、最愛の異性ー恵。仮に恵から来た手紙なら僕はなにがあろうが絶対に守り通す、それこそ殴られ蹴られた末に左腕を折られても他人に渡したりはしない。恵の手紙が看守の手に渡るなんて我慢できない、まるで恵が汚されたみたいじゃないか。
サムライもか?
大人数の看守に取り囲まれてもなお孤塁を死守したのは手紙を渡すのがいやだったから?野蛮な連中に手紙を奪われて最愛の人の面影まで汚されてしまうのを恐れたから?
そうまでして最愛の人の面影を守り貫きたかったのか?
骨折の激痛に意識朦朧となりながら、担架で医務室に運ばれる途中も強く手紙を握り締めて離さなかったのは、最愛の人の面影を胸に抱いていたかったから?
『芽吹かない苗』
手紙の筆跡を思い出す。ひどく乱れて読み取りにくい字だった、筆跡から推理した差出人の心境はおだやかとは言えない。余程精神的に追いつめられて錯乱しているか、もしくは初等教育すら満足に受けられない環境で育った無教養な人間と見て間違いはないだろう。ほとんど漢字が使われてないことから鑑みるに後者の可能性が高い。ひらがなばかりのたどたどしい筆跡から性別を特定することはできないが、「し」とおぼしき字の曲線や控えめなハネからは女性的な印象を受けた。
女性。サムライの身近な女性?
あの堅物に、恋愛に毛ほども関心がないように見える男に女性の影だって?まさか。笑い出したい気持ちを打ち消したのは安田の言葉。
『きみはまるでサムライに手紙を託した人物に嫉妬してるようだ』
嫉妬?馬鹿な。嫉妬の二字は両方とも女偏を含んでいることからもわかるとおり女性に顕著な情動だ。僕は男だ。なぜサムライに手紙を書いた人物に嫉妬しなければならない、わけがわからない。安田の言うことは意味不明だ。僕がこうして色んな人物に接触してサムライの身辺調査を試みているのは一重に観察記録の為、手紙の暗号を解読しようとしているのはサムライの過去を暴いて立場の優劣をはっきりさせたいからだ。サムライは全部ではないが、僕の過去の一部を知ってる。僕が両親を刺殺したのは最愛の妹を守るためだという動機の核さえ薄々勘付いている。
それなのに、僕がなにも知らないのは不公平ではないか。
なにも知らされてないのは不公平じゃないか。
サムライと同じ房になって、朝夕毎日顔をつきあわせるようになってはや四ヶ月が経過する。苛酷な環境に順応するだけで精一杯だった四ヶ月だが、その四ヶ月の密度は非常に濃い。ともすると、僕が外の世界で過ごした十五年より余程密度の濃い四ヶ月だった。東京プリズンに来てからいろいろなことがあった。大部分は思い出したくもない不愉快なことだらけだが、決して忘れられないことも幾つかある。
恵。
リュウホウ。
外に残してきた者、先に逝ってしまった者。もう取り返しがつかないことやもの、そしてひと。
否、忘れられないのではない。絶対に忘れてはいけないと自戒しているのだ。
二度と同じ過ちを犯さないために、同じ末路を辿らないために、いつでも何をしていても頭の片隅に留めておかなければいけないこと。シャベルで穴を掘ってるときも房で本を読んでいるときも毛布にくるまって寝るときも絶対に忘失してはいけない、忘却してはいけない。
何故ならそれは、僕が僕であるために必要不可欠な部分だから。
自意識を支える骨子だから。
サムライの手紙。自己の存在の基盤となるもの、自分を自分たらしめる必要不可欠な要素、大切な記憶のかけら。なにも持たずに東京プリズンに来た僕が自己を保つためには脳裏に留めた恵の面影にすがるしかない、たとえばサムライのように外から持ち込んだ手紙を媒介にして外界に思い馳せることもできない。もちろんそんなみっともない真似はこちらからお断りだ、万一そんな情けない姿をひとに見られたら僕のプライドは瓦解する。
大切なものは頭の中にだけあればいい。今までずっとそう思ってきた、自らに言い聞かせてきた。
頭の中がいちばん安全な隠し場所だ、外から開けようと思っても絶対に開けることができない頑丈な金庫。恵の顔は今でも鮮明に思い出せる、そのしぐさのひとつひとつ、ピアノを弾く横顔まであざやかに呼び起こすことができる。この素晴らしい頭脳と記憶力があれば他の物などいらない、たとえ何も持たず、何も得ずにここで死んでゆくのだとしてもかまわないと思っていた。
サムライの手紙を見るまでは。
サムライの手紙の存在を知り、無性におそろしくなった。怖くなった。闇を恐れる子供のように漠然とした、正体を掴めない恐怖。だから手紙を書いた、恵に忘れられるのが怖くなったから。サムライに手紙を書いた人物は今でもきっとサムライのこと覚えている、サムライの帰りを待ちわびている。
僕はどうなんだ?
誰かに想われてる証拠なんて何も、どこにもない。時間の経過とともに劣化してゆくだろう妹の面影にすがるしか術がない。決して成就することのない、一方的な執着。サムライのように想い想われる関係に比べて何てむなしく、みっともないんだろう。
たとえ実物じゃなくても、泡沫のように消えることを前提にした幻でも、恵にそばにいてほしい。恵の存在を近くに感じていたい。独りよがりな願望、みじめすぎる祈り。
記憶は無限ではない。限界がある。
記憶は必然的に色褪せるものだ。新しい経験を積めば古い情報は削除される、その繰り返し。
証拠がなければ、形あるものでなければ。
僕もいつかは恵のことを忘れてしまうんじゃないか?
……嫌だ、考えたくない。恵を忘れるなんて冗談じゃない、恵を忘れてしまうくらいなら記憶喪失になって自分の名前ごと忘れたほうがマシだ。どうせ僕の名前など本質を現すには値しない語呂合わせの産物なのだから、だから自分で名前をつけた。薄暗がりの房でサムライに名を問われたとき、一呼吸の逡巡の末に嘘をついた。
カギヤザキ ナオ。
直。直す。修正する、改める。遺伝子に手を加えて具合の悪いところを改めた人工の天才。
こちらのほうがよっぽど僕に相応しい記号だ、見事に本質を現している。直と書いてスグルと読ませるセンスの悪い名前はもう忘れた、世間体を重んじた戸籍上の親が「これは正真正銘鍵屋崎譲の孫であり、鍵屋崎優の長男である」と証明するためにだけ用いた借り物の名前に未練はない。
サムライの本名は何と言うんだろう。
『貢』
手紙に散見された字。平仮名ばかりの文章の中、その字だけがやけに目立った。ミツグ、もしくはコウ。僕の知らないサムライの象徴、僕の知らないサムライの―
サムライには下の名前を親しく呼んでくれる人がいたんだろうか。
僕にはそんな人間、だれもいなかった。
振動。
「!」
いつのまにかバスが停止していた。前方のドアが開き、囚人の大群が一斉に移動する。吊り革をはなし、囚人の列に紛れてステップを降り、アスファルトの地面を踏む。踝まで埋まる砂にはない磐石の安定感が心強い。混雑した車内から解放された囚人が夕食までのわずかな時間を各自の娯楽にあてようとエレベーター目指して歩いてゆく。次から次へと到着しては各部署から回収してきた囚人を吐き出して回送のランプを灯すバスを見送り、アスファルトの地面に引かれた白線の内側を歩く。ロンと安田に事情聴取を試みたが「芽吹かない苗」の謎を解く手がかりは掴めなかった。今日はもうあきらめ、明日に望みをつなぐしかない。
―「ふざけんな!」―
コンクリートの巨大空間に響き渡る怒声。
エレベーターへと流れていた群れから物見高い野次馬が抜けてゆく。また喧嘩だろうか?珍しくもない。強制労働を終えて帰ってきた直後によく喧嘩を始める体力が残存してるものだとあきれる。わざわざ見物する価値もないだろう低レベルな喧嘩にちがいな―
「ふざけてなどいない」
……いやに聞き覚えのある声だ。急いで方向転換する。
アスファルトのコンコース、その中央で対峙しているのは二人の男。
楕円を描いた直径5メートルの白線の内側で睨み合った男のうち、片方は知らない顔だ。東洋系の黄色人種特有の顔立ちだが、髪の毛は金髪。派手な容姿をなおさら下品に見せているのは目つきの卑しさと唾液の泡を噴いた口元。体の脇で拳を固め、今にもとびかからんばかりに少年がガンをとばしている相手は―
サムライ。
「サムライが喧嘩?」
ありえない。喧嘩を買いもしなければ売りもしないサムライが、何がどうしてこんな事に?
僕と同じことを考えていたのだろう野次馬がざわつく。周囲のざわめきとは無縁に、サムライはうっそりと佇んでいる。
「なあ、もう一度考えてみな。お前にだって悪い話じゃねえだろ」
身振り手振りをまじえ、熱っぽく翻意を促す少年を冷たく見据えたままサムライは微動だにしない。
「知ってるんだぜ、東棟で二番目に強い奴がだれか……お前だろサムライ。何を隠そうレイジの次に有名人だ、いまさらしらばっくれようたって無駄だ。小耳に齧った話じゃこれまで何遍もブラックワークにスカウトされたけど誘いを蹴り続けてるらしいじゃねえか。わかんねえな、ブラックワークで勝利すりゃなんでも手に入るんだぜ?酒もタバコも薬も、しかもブラックワーク上位になりゃ強制労働免除が約束される特権階級昇格で―」
「興味がない」
「そう言わずにさあ」
つれない反応にもめげることなく、なおもねばる少年。
「人斬り御免のサムライがブラックワークに参戦するいい機会だろ、ペア戦開幕は」
ペア戦開幕?
なんのことだ、初耳だ。ペア戦というからには二人で組んで出場するのだろうが、ブラックワークの試合風景を観戦したことがない僕には今いちぴんとこない。東京プリズン最大の娯楽、東西南北各棟を代表する腕自慢による無差別格闘技戦の存在はレイジの口から聞いたが僕は一度も試合会場に足を運んだことがない。
試合会場はここ、広大な面積を有したコンコースだ。
ブラックワークの試合日は週末。週末の深夜だけ、このだだっ広いコンコースには金網で仕切られただけの立見席が設けられ各棟の囚人に開放されるらしい。消灯時間は夜九時と義務付けられている東京プリズンだが、ブラックワークの試合日に限っては看守の目を盗んで房を抜け出すのが黙認されている。非公式ながら殆ど上層部公認と言っていい東京プリズンの名物行事なのだ、日頃押さえつけられてストレスをためている囚人のガス抜きという点でも週末の深夜だけは無礼講が許される。
僕はといえば週末の夜は寝ている。当たり前だ、イエローワークの肉体労働で疲労しているのだ。囚人と囚人が血を流してどちらか一方が再起不能になるまで戦う野蛮な催しになど興味がない。
ブラックワークの存在は知っていても試合を観戦したことは皆無、その為僕にとってのブラックワークとは奇妙に非現実的な、そう、たとえば東京プリズンの囚人全員が共有している妄想の類ではないかという感想を持っていた。実際目にしたことがなければ日頃抑圧されてる囚人に娯楽を饗するために選ばれた少年たちが死ぬ気で戦う、という危険な遊戯の存在など信じられるわけがない。
よってペア戦開幕の情報は今、はじめて知った。
「お前だって一生ブルーワークの便所掃除やってるつもりはねえだろ?便所ブラシを木刀に持ち替えて殺るんだよ、戦うんだよ!てめえの親父と仲間をばっさばっさ切り倒したときみたいにさあ、そしたらあっというまに西の道化と南の隠者、北の皇帝を追い抜いてレイジとガチンコ。ペア戦は二対二で戦うのがルールだけど覇者のレイジは別格、ダブルの挑戦者VS王様の決定戦もOKだって上から許可がでたんだよ!」
「マジかよおい」「きっついねえ」「さすがの王様も勝てる見込みねえんじゃないか」「馬鹿言え、あのレイジだぞ?監視塔の一件聞いてねえのか」「サーシャとその取り巻き連中をほとんどひとりでやっつけたってアレだろ」「十人こようが百人こようが笑いながら片付けちまうさ」
興奮、期待。騒然とする野次馬。いまいち状況が飲み込めずに取り残された気分の僕の視線の先でサムライが沈黙を破る。
「無益な殺生は好まない。相棒なら他をあたれ」
「マジかよ!?ブラックワークで上り詰めりゃなんでも望むがまま、マスかくのに飽きたら生身の女よか出来のいいダッチワイフが股おっぴろげて待ってる。お前だって収監されてからこっちずいぶんとご無沙汰だろ、すかしたふりすんなよ。刑務所にぶちこまれて望まざる禁欲生活送ってる男なら女が欲しいに決まってる、たとえアソコがゴム製のおにんぎょさんでもな」
しつこく食い下がる少年を針の眼光で威圧、サムライが言う。
「生憎と、お前ほど女に飢えてない」
奇声。
僕の目の前、狂ったようなおたけびを上げ、一直線にサムライにつっかかってゆく金髪の少年。憤怒と羞恥に顔を赤らめた醜い形相にも増して凶悪なのは、その拳に装備した棘つきのナックル。
拳の破壊力を何倍にも増大する凶悪な武器……殴られたらひとたまりもない。
「サムラ、」
おもわず名を呼んで一歩を踏み出し、止まる。
足が流れ、腰が流れ、腕が流れる。
流れる水のようになめらかな身ごなしで少年の脇をかすめたサムライ、スローモーションのようなシーンの連続。
烏の濡れ羽色の黒髪が泳ぎ、揺れ、乱れる。
乱れた前髪の間からあらわれたのは一陣の矢の如く的を射抜く双眸―……
正真正銘の侍の眼光。
眼前からサムライの姿が消失したことに狼狽する少年、衣擦れ音もなく背後にまわりこんだ気配を察する間もなく首の後ろの急所に手刀が叩き込まれる。
流れるような動作に魅了され、言葉を失う。
僕だけではない。その場に居合わせた全員が、瞬き三つする間に決着がついたサムライの戦いを見守っていた全員がもはや声もなくサムライの一挙手一投足に魅了されていた。極限まで贅を殺ぎ落とし、実戦用として極めることで芸術にまで昇華した体捌きには、もしこの男が真剣を握っていたらと仮定するだに背筋を寒くさせるキレがある。
アスファルトに膝をつき、がくんと屑折れる少年。水平の手刀をしずかにおろし、白目を剥いて昏倒した少年を見下ろし、声には出さずにサムライがなにかを呟く。
何を言ってるんだろう。
かすかな、本当にかすかな唇の動きに目を凝らす。
『お』
『れ』
『が』
『ほ』
『し』
『い』
『お』
『ん』
『な』
『は』
「………おれがほしい女はここにいない?」
サムライの独白。
アスファルトの地面にうつ伏せた少年を見下ろし。無表情に、しかし、とても哀しげに。
僕が見たこともない男の顔で。
帰途につくバスの車内、吊り革に掴まりながら考えを整理する。ロンの語るサムライ、安田の語るサムライ。両者が知るサムライと僕が知るサムライとの開き。隔たり。埋まらない溝。とくに重要なのは安田の証言だ、東京少年刑務所副署長の安田は東京プリズンに来たばかりの頃のサムライを知っている。
サムライは医務室に運ばれる最中も頑として手紙をはなさなかった。
その事実が物語るものは?
たとえば僕なら、誰から来た手紙なら左腕を折られても手放さずにいられるだろう。左腕を折られて殴られ蹴られても懐にかばい、守り通すことができるだろう。答えはすぐにでた。ただひとりの妹、かけがえのない家族、最愛の異性ー恵。仮に恵から来た手紙なら僕はなにがあろうが絶対に守り通す、それこそ殴られ蹴られた末に左腕を折られても他人に渡したりはしない。恵の手紙が看守の手に渡るなんて我慢できない、まるで恵が汚されたみたいじゃないか。
サムライもか?
大人数の看守に取り囲まれてもなお孤塁を死守したのは手紙を渡すのがいやだったから?野蛮な連中に手紙を奪われて最愛の人の面影まで汚されてしまうのを恐れたから?
そうまでして最愛の人の面影を守り貫きたかったのか?
骨折の激痛に意識朦朧となりながら、担架で医務室に運ばれる途中も強く手紙を握り締めて離さなかったのは、最愛の人の面影を胸に抱いていたかったから?
『芽吹かない苗』
手紙の筆跡を思い出す。ひどく乱れて読み取りにくい字だった、筆跡から推理した差出人の心境はおだやかとは言えない。余程精神的に追いつめられて錯乱しているか、もしくは初等教育すら満足に受けられない環境で育った無教養な人間と見て間違いはないだろう。ほとんど漢字が使われてないことから鑑みるに後者の可能性が高い。ひらがなばかりのたどたどしい筆跡から性別を特定することはできないが、「し」とおぼしき字の曲線や控えめなハネからは女性的な印象を受けた。
女性。サムライの身近な女性?
あの堅物に、恋愛に毛ほども関心がないように見える男に女性の影だって?まさか。笑い出したい気持ちを打ち消したのは安田の言葉。
『きみはまるでサムライに手紙を託した人物に嫉妬してるようだ』
嫉妬?馬鹿な。嫉妬の二字は両方とも女偏を含んでいることからもわかるとおり女性に顕著な情動だ。僕は男だ。なぜサムライに手紙を書いた人物に嫉妬しなければならない、わけがわからない。安田の言うことは意味不明だ。僕がこうして色んな人物に接触してサムライの身辺調査を試みているのは一重に観察記録の為、手紙の暗号を解読しようとしているのはサムライの過去を暴いて立場の優劣をはっきりさせたいからだ。サムライは全部ではないが、僕の過去の一部を知ってる。僕が両親を刺殺したのは最愛の妹を守るためだという動機の核さえ薄々勘付いている。
それなのに、僕がなにも知らないのは不公平ではないか。
なにも知らされてないのは不公平じゃないか。
サムライと同じ房になって、朝夕毎日顔をつきあわせるようになってはや四ヶ月が経過する。苛酷な環境に順応するだけで精一杯だった四ヶ月だが、その四ヶ月の密度は非常に濃い。ともすると、僕が外の世界で過ごした十五年より余程密度の濃い四ヶ月だった。東京プリズンに来てからいろいろなことがあった。大部分は思い出したくもない不愉快なことだらけだが、決して忘れられないことも幾つかある。
恵。
リュウホウ。
外に残してきた者、先に逝ってしまった者。もう取り返しがつかないことやもの、そしてひと。
否、忘れられないのではない。絶対に忘れてはいけないと自戒しているのだ。
二度と同じ過ちを犯さないために、同じ末路を辿らないために、いつでも何をしていても頭の片隅に留めておかなければいけないこと。シャベルで穴を掘ってるときも房で本を読んでいるときも毛布にくるまって寝るときも絶対に忘失してはいけない、忘却してはいけない。
何故ならそれは、僕が僕であるために必要不可欠な部分だから。
自意識を支える骨子だから。
サムライの手紙。自己の存在の基盤となるもの、自分を自分たらしめる必要不可欠な要素、大切な記憶のかけら。なにも持たずに東京プリズンに来た僕が自己を保つためには脳裏に留めた恵の面影にすがるしかない、たとえばサムライのように外から持ち込んだ手紙を媒介にして外界に思い馳せることもできない。もちろんそんなみっともない真似はこちらからお断りだ、万一そんな情けない姿をひとに見られたら僕のプライドは瓦解する。
大切なものは頭の中にだけあればいい。今までずっとそう思ってきた、自らに言い聞かせてきた。
頭の中がいちばん安全な隠し場所だ、外から開けようと思っても絶対に開けることができない頑丈な金庫。恵の顔は今でも鮮明に思い出せる、そのしぐさのひとつひとつ、ピアノを弾く横顔まであざやかに呼び起こすことができる。この素晴らしい頭脳と記憶力があれば他の物などいらない、たとえ何も持たず、何も得ずにここで死んでゆくのだとしてもかまわないと思っていた。
サムライの手紙を見るまでは。
サムライの手紙の存在を知り、無性におそろしくなった。怖くなった。闇を恐れる子供のように漠然とした、正体を掴めない恐怖。だから手紙を書いた、恵に忘れられるのが怖くなったから。サムライに手紙を書いた人物は今でもきっとサムライのこと覚えている、サムライの帰りを待ちわびている。
僕はどうなんだ?
誰かに想われてる証拠なんて何も、どこにもない。時間の経過とともに劣化してゆくだろう妹の面影にすがるしか術がない。決して成就することのない、一方的な執着。サムライのように想い想われる関係に比べて何てむなしく、みっともないんだろう。
たとえ実物じゃなくても、泡沫のように消えることを前提にした幻でも、恵にそばにいてほしい。恵の存在を近くに感じていたい。独りよがりな願望、みじめすぎる祈り。
記憶は無限ではない。限界がある。
記憶は必然的に色褪せるものだ。新しい経験を積めば古い情報は削除される、その繰り返し。
証拠がなければ、形あるものでなければ。
僕もいつかは恵のことを忘れてしまうんじゃないか?
……嫌だ、考えたくない。恵を忘れるなんて冗談じゃない、恵を忘れてしまうくらいなら記憶喪失になって自分の名前ごと忘れたほうがマシだ。どうせ僕の名前など本質を現すには値しない語呂合わせの産物なのだから、だから自分で名前をつけた。薄暗がりの房でサムライに名を問われたとき、一呼吸の逡巡の末に嘘をついた。
カギヤザキ ナオ。
直。直す。修正する、改める。遺伝子に手を加えて具合の悪いところを改めた人工の天才。
こちらのほうがよっぽど僕に相応しい記号だ、見事に本質を現している。直と書いてスグルと読ませるセンスの悪い名前はもう忘れた、世間体を重んじた戸籍上の親が「これは正真正銘鍵屋崎譲の孫であり、鍵屋崎優の長男である」と証明するためにだけ用いた借り物の名前に未練はない。
サムライの本名は何と言うんだろう。
『貢』
手紙に散見された字。平仮名ばかりの文章の中、その字だけがやけに目立った。ミツグ、もしくはコウ。僕の知らないサムライの象徴、僕の知らないサムライの―
サムライには下の名前を親しく呼んでくれる人がいたんだろうか。
僕にはそんな人間、だれもいなかった。
振動。
「!」
いつのまにかバスが停止していた。前方のドアが開き、囚人の大群が一斉に移動する。吊り革をはなし、囚人の列に紛れてステップを降り、アスファルトの地面を踏む。踝まで埋まる砂にはない磐石の安定感が心強い。混雑した車内から解放された囚人が夕食までのわずかな時間を各自の娯楽にあてようとエレベーター目指して歩いてゆく。次から次へと到着しては各部署から回収してきた囚人を吐き出して回送のランプを灯すバスを見送り、アスファルトの地面に引かれた白線の内側を歩く。ロンと安田に事情聴取を試みたが「芽吹かない苗」の謎を解く手がかりは掴めなかった。今日はもうあきらめ、明日に望みをつなぐしかない。
―「ふざけんな!」―
コンクリートの巨大空間に響き渡る怒声。
エレベーターへと流れていた群れから物見高い野次馬が抜けてゆく。また喧嘩だろうか?珍しくもない。強制労働を終えて帰ってきた直後によく喧嘩を始める体力が残存してるものだとあきれる。わざわざ見物する価値もないだろう低レベルな喧嘩にちがいな―
「ふざけてなどいない」
……いやに聞き覚えのある声だ。急いで方向転換する。
アスファルトのコンコース、その中央で対峙しているのは二人の男。
楕円を描いた直径5メートルの白線の内側で睨み合った男のうち、片方は知らない顔だ。東洋系の黄色人種特有の顔立ちだが、髪の毛は金髪。派手な容姿をなおさら下品に見せているのは目つきの卑しさと唾液の泡を噴いた口元。体の脇で拳を固め、今にもとびかからんばかりに少年がガンをとばしている相手は―
サムライ。
「サムライが喧嘩?」
ありえない。喧嘩を買いもしなければ売りもしないサムライが、何がどうしてこんな事に?
僕と同じことを考えていたのだろう野次馬がざわつく。周囲のざわめきとは無縁に、サムライはうっそりと佇んでいる。
「なあ、もう一度考えてみな。お前にだって悪い話じゃねえだろ」
身振り手振りをまじえ、熱っぽく翻意を促す少年を冷たく見据えたままサムライは微動だにしない。
「知ってるんだぜ、東棟で二番目に強い奴がだれか……お前だろサムライ。何を隠そうレイジの次に有名人だ、いまさらしらばっくれようたって無駄だ。小耳に齧った話じゃこれまで何遍もブラックワークにスカウトされたけど誘いを蹴り続けてるらしいじゃねえか。わかんねえな、ブラックワークで勝利すりゃなんでも手に入るんだぜ?酒もタバコも薬も、しかもブラックワーク上位になりゃ強制労働免除が約束される特権階級昇格で―」
「興味がない」
「そう言わずにさあ」
つれない反応にもめげることなく、なおもねばる少年。
「人斬り御免のサムライがブラックワークに参戦するいい機会だろ、ペア戦開幕は」
ペア戦開幕?
なんのことだ、初耳だ。ペア戦というからには二人で組んで出場するのだろうが、ブラックワークの試合風景を観戦したことがない僕には今いちぴんとこない。東京プリズン最大の娯楽、東西南北各棟を代表する腕自慢による無差別格闘技戦の存在はレイジの口から聞いたが僕は一度も試合会場に足を運んだことがない。
試合会場はここ、広大な面積を有したコンコースだ。
ブラックワークの試合日は週末。週末の深夜だけ、このだだっ広いコンコースには金網で仕切られただけの立見席が設けられ各棟の囚人に開放されるらしい。消灯時間は夜九時と義務付けられている東京プリズンだが、ブラックワークの試合日に限っては看守の目を盗んで房を抜け出すのが黙認されている。非公式ながら殆ど上層部公認と言っていい東京プリズンの名物行事なのだ、日頃押さえつけられてストレスをためている囚人のガス抜きという点でも週末の深夜だけは無礼講が許される。
僕はといえば週末の夜は寝ている。当たり前だ、イエローワークの肉体労働で疲労しているのだ。囚人と囚人が血を流してどちらか一方が再起不能になるまで戦う野蛮な催しになど興味がない。
ブラックワークの存在は知っていても試合を観戦したことは皆無、その為僕にとってのブラックワークとは奇妙に非現実的な、そう、たとえば東京プリズンの囚人全員が共有している妄想の類ではないかという感想を持っていた。実際目にしたことがなければ日頃抑圧されてる囚人に娯楽を饗するために選ばれた少年たちが死ぬ気で戦う、という危険な遊戯の存在など信じられるわけがない。
よってペア戦開幕の情報は今、はじめて知った。
「お前だって一生ブルーワークの便所掃除やってるつもりはねえだろ?便所ブラシを木刀に持ち替えて殺るんだよ、戦うんだよ!てめえの親父と仲間をばっさばっさ切り倒したときみたいにさあ、そしたらあっというまに西の道化と南の隠者、北の皇帝を追い抜いてレイジとガチンコ。ペア戦は二対二で戦うのがルールだけど覇者のレイジは別格、ダブルの挑戦者VS王様の決定戦もOKだって上から許可がでたんだよ!」
「マジかよおい」「きっついねえ」「さすがの王様も勝てる見込みねえんじゃないか」「馬鹿言え、あのレイジだぞ?監視塔の一件聞いてねえのか」「サーシャとその取り巻き連中をほとんどひとりでやっつけたってアレだろ」「十人こようが百人こようが笑いながら片付けちまうさ」
興奮、期待。騒然とする野次馬。いまいち状況が飲み込めずに取り残された気分の僕の視線の先でサムライが沈黙を破る。
「無益な殺生は好まない。相棒なら他をあたれ」
「マジかよ!?ブラックワークで上り詰めりゃなんでも望むがまま、マスかくのに飽きたら生身の女よか出来のいいダッチワイフが股おっぴろげて待ってる。お前だって収監されてからこっちずいぶんとご無沙汰だろ、すかしたふりすんなよ。刑務所にぶちこまれて望まざる禁欲生活送ってる男なら女が欲しいに決まってる、たとえアソコがゴム製のおにんぎょさんでもな」
しつこく食い下がる少年を針の眼光で威圧、サムライが言う。
「生憎と、お前ほど女に飢えてない」
奇声。
僕の目の前、狂ったようなおたけびを上げ、一直線にサムライにつっかかってゆく金髪の少年。憤怒と羞恥に顔を赤らめた醜い形相にも増して凶悪なのは、その拳に装備した棘つきのナックル。
拳の破壊力を何倍にも増大する凶悪な武器……殴られたらひとたまりもない。
「サムラ、」
おもわず名を呼んで一歩を踏み出し、止まる。
足が流れ、腰が流れ、腕が流れる。
流れる水のようになめらかな身ごなしで少年の脇をかすめたサムライ、スローモーションのようなシーンの連続。
烏の濡れ羽色の黒髪が泳ぎ、揺れ、乱れる。
乱れた前髪の間からあらわれたのは一陣の矢の如く的を射抜く双眸―……
正真正銘の侍の眼光。
眼前からサムライの姿が消失したことに狼狽する少年、衣擦れ音もなく背後にまわりこんだ気配を察する間もなく首の後ろの急所に手刀が叩き込まれる。
流れるような動作に魅了され、言葉を失う。
僕だけではない。その場に居合わせた全員が、瞬き三つする間に決着がついたサムライの戦いを見守っていた全員がもはや声もなくサムライの一挙手一投足に魅了されていた。極限まで贅を殺ぎ落とし、実戦用として極めることで芸術にまで昇華した体捌きには、もしこの男が真剣を握っていたらと仮定するだに背筋を寒くさせるキレがある。
アスファルトに膝をつき、がくんと屑折れる少年。水平の手刀をしずかにおろし、白目を剥いて昏倒した少年を見下ろし、声には出さずにサムライがなにかを呟く。
何を言ってるんだろう。
かすかな、本当にかすかな唇の動きに目を凝らす。
『お』
『れ』
『が』
『ほ』
『し』
『い』
『お』
『ん』
『な』
『は』
「………おれがほしい女はここにいない?」
サムライの独白。
アスファルトの地面にうつ伏せた少年を見下ろし。無表情に、しかし、とても哀しげに。
僕が見たこともない男の顔で。
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それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
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しかし彼は政務に追われ、いまだ妃すら迎えられていなかった。
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そう悩んでいたある日、セシリオは学舎の隅で見つけてしまった。
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