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八十一話
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東京プリズンにきて四ヶ月が経った。
四ヶ月での目に見える変化といえば少し日に焼けたこと、少し背が伸びたことくらいだ。
身長に比例して増えるはずの体重は減った。
心境の変化として挙げられるのはここでの生活に馴染み、外のことをあまり思い出さなくなった点だ。
強制労働中は頭を空白にし、シャベルの上げ下げだけに集中する。
雑念を散らし、頭をからっぽにし、シャベルを握る手元に意識を傾けてひたすら単調な作業に没頭すれば時間はあっというまに過ぎて強制労働が終了する。夕食後の自由時間は決まって図書室から借りてきた本を読んで過ごす。ベッドに腰掛けて読書する僕の隣でサムライは大抵読経か写経かそれでもなくば木刀を磨いている。会話はあまりしない。口を開くのは大抵僕の方で、その内容も「読経の声がうるさくて読書に集中できない」「トーンを下げろ」という一辺倒の抗議に尽きる。
サムライは寡黙な男だ。
サムライと一緒にいるのは気楽でいい、互いの存在が重荷にならない。使い道もないのに一日も手入れを欠かさず、飴色の艶がでるまで丹念に木刀を磨いているサムライの横顔を開いた本越しにちらりと盗み見ればいつも気難しい顔をしている。眉間に不本意な皺を刻んだ仏頂面は誇り高い武士というより傘張りに精を出す食いつめ浪人に近い。房の床に写経に用いた半紙が散らばっている状況にも慣れた。至極真面目な顔で筆をとり、一字一句写経にとりくむサムライの顔を見るともなく眺めているとふと疑問になる。
『なえ』とはなんだ?
背筋を凛と伸ばして床に端坐したサムライの肩越し、べッド下の薄暗がりを凝視する。サムライがベッドの下に秘匿している小箱、その中に保管されている古い手紙。かすれて薄れた記述の中、唯一読み取ることができたのは「芽吹かない苗」という一文。先日サムライがうなされながら口にしたのも「苗」だった。奇妙な符号の一致。この事実が示唆するものはなんだろう?手紙に記述された「苗」とサムライが寝言で呟いた「苗」は同じものなのか?そう考えるのが妥当だろう。苗……植物の苗。わからないのは何故サムライがそれほど苗にこだわるのかという点だ。サムライに盆栽の趣味があるかどうかは知らないが、十八歳という実年齢が偽証としかおもえない老けた未成年なら般若心境の写経と読経のほかに年寄りくさい趣味があってもおかしくはない。
サムライは外においてきた盆栽に心を残してる?
外になんら未練がないように見えるこの男が盆栽ごときに?
「なにを見ている」
訝しげに声をかけられ、本から顔を上げる。木刀を拭う手を止めたサムライが不審げな目をしている。いつのまにか本から心が離れ、サムライの過去に思い馳せていた自分に気付き、ひどくばつの悪い思いを味わう。
「手に墨がついてるからあとで洗ったほうがいいぞ」
わざとらしく見えないよう、余裕ぶって本のページをめくりながら指摘する。右手に目をやったサムライが「言われずとも心得ている」と返し、墨で手を汚しつつも精魂こめて写経に取り組む。その真剣な目、俗離れした雰囲気にかける言葉を失い、仕方なく本に戻る。
が、漫然と活字を追っていても一向に内容が頭に入ってこない。僕には珍しい、いや、珍しいどころではない……異常事態だ。
視線が活字を上滑りしていく感覚、集中力の低下。脳裏によみがえるのは先日の光景。
裸電球の明かりもない暗闇の中、僕の手を握って離さないサムライ。僕よりひとまわり大きい骨ばった手の感触、すがるように手首を掴んでくる節くれだった指。眉間に寄った苦悩の皺、一文字に引き結ばれた唇、そしてー……
『なえ』
あの時、サムライはそう発音した。あのサムライが、起きているときも殆ど表情筋を動かさず、必要以上のことはおろか必要以外のことも滅多にしゃべらない男が夢という無意識の領域で苦悶していた。悪夢。サムライは悪夢に苛まれていた、ここの囚人なら珍しくもないことだ。僕も収監当初に比べてだいぶ頻度は減ったがそれでも週に二・三回は悪夢を見る。毎晩のように悪夢にうなされて飛び起きていた頃よりはマシになったが、連日の強制労働で精神的にも肉体的にも消耗して悪夢を見る余裕がなくなっただけだろう。東京プリズンに入所して間もない頃は心身ともに極度の緊張状態が続き、混沌の無意識領域にあっても自我を没することができなかった。四ヶ月が経過して東京プリズンでの生活にも多少慣れてきた現在は緊張も緩み、心身の疲労を回復するための眠りに抵抗なく没入できるようになった。
サムライは強靭な精神力の持ち主だ。それはこの四ヶ月、共に暮らしてみてよくわかった。心身ともに強靭で頑健なサムライが悪夢にうなされるなんて珍しいこともあるものだとあの晩は妙に感心したが、考えれば考えるほどに疑問は募り、好奇心が刺激される。
外の世界になんの未練もないように見えるこの男が唯一心を残しているもの……『なえ』。
手紙にしたためられていた謎の一文……『芽吹かない苗』。
それが、サムライの譲れないものなのだろうか。僕にも増して外界や他者に無関心なこの男が人並みに執着している対象なのだろうか。
ページをめくる手が速まるにつれ知的欲求が向上し、探究心が刺激される。
サムライの過去が知りたい。
『芽吹かない苗』の謎を解き明かしたい。
顔を隠すように広げた本の向こう側ではサムライが熱心に写経に励んでいる。姿勢よく端坐し、右手に筆、左手で半紙を押さえたその姿は垢じみた囚人服を纏っているというのに一種の風格さえある。
サムライと同じ房になって四ヶ月。
四ヶ月も経つというのに僕はサムライのことをなにも知らない。不公平ではないか。
サムライは僕のことを知っている、最愛の妹を外に残してきたことも最愛の妹から拒絶されたことも熟知して許容している。転じて僕はどうだ?もう四ヶ月が経とうとしているというのにサムライについてなにも知らない、サムライは僕にとって依然謎多き存在のままだ。あの日、東京プリズンに来た最初の日に暗がりの房で木刀をつきつけられて以降なにも変わってない。
どうして父親を含む門下生十二人を惨殺したのか?
本当に力量を試したかっただけなのか?
そのすべての謎を解く手がかりが「芽吹かない苗」の一文に秘められている、というのは考えすぎだろうか?―否、僕の予測は正しい。IQ180の天才たるこの僕が立てた予測が間違っているはずがない、サムライの過去を探る手がかりは「芽吹かない苗」の一文にある。
だれから来た手紙なのだろう、あれは。
だいぶ古い手紙だった。端は黄ばんで鉛筆書きの字は薄れて、肉眼では殆ど判別がつかなくなっていた。おそらくは数年前に届いた手紙……サムライが入所して間もない頃に届いた手紙だろう。差出人の候補に挙げられるのはサムライの肉親、または友人?後者の可能性は却下。あの寡黙で偏屈な男に、刑務所に収監されてからも手紙を送ってくるような友人の類がいるとは思えない……僕自身人のことを言えた立場じゃないが。
ということは、最有力候補として挙げられるのはサムライの身内?その可能性が高いのは否定できないが……それでもまだ釈然としないものが残る。とにもかくにも差出人を特定するか「芽吹かない苗」の暗号を解読しないかぎりサムライの過去を暴くのは不可能だ。
――解明してやろうじゃないか。
サムライが寝言で呟くほどに心を残しているもの、サムライの譲れないもの。絶対に突き止めてやる。口元に笑みが浮かぶのが押さえられない。東京プリズンに収監されて四ヶ月、過酷な強制労働にすり削られて休眠していた知的好奇心が疼きだす。サムライは非常に興味深い観察対象だ。見ていて飽きない、次になにをするか予想がつかない。
そのサムライが現時点で唯一人並みに執着する対象―……『なえ』。
面白いじゃないか。久しぶりに、本当に久しぶりに手応えのある研究課題ができた。
「なにを笑ってるんだ」
ハッとした。
おもわず本を取り落としそうになり、慌てて両手を前に出す。ベッドから腰を浮かした姿勢で本を抱え持った僕を見て、サムライが怪訝な顔をする。
「本に面白いことでも書いてあるのか」
純粋な疑問を述べたサムライに動揺を知られるのを恐れ、膝の上で本を立て直して視線をさえぎる。
「ああ。きみのように般若心境を写経するしか能がない男には理解できないかもしれないが、非常に為になる、興味深いことが書かれている」
務めて平静を装い、表情を消し、本を再読するフリをする。本越しに注がれていたサムライの視線がついと逸れ、緩慢に墨を擦る動作が再開される。
「結構なことだ」
本心から述べたのか彼流の嫌味なのか……否、サムライは表情を変えずに嫌味を言えるほど器用ではない。察するに本心から述べた言葉だろう。うまくごまかせたようで安心する。本を読むふりをしてサムライの横顔を見上げ、決意する。
『芽吹かない苗』の謎は、僕が自力で解き明かす。
天才に不可能はない。
調べ物があるときはまず図書室だ。
東京プリズンの図書室は面積が広く、蔵書が豊富だ。古今東西、あらゆるジャンルを網羅した書物が整然と並んだ書架に一分の隙なく収められた光景はいっそ壮観である。人類の知的財産が集積された知識の宝庫、教養の泉。まずは本を手にとり、その重さを確かめる。ずっしりした手応えを感じつつページを開き、インクの匂いを嗅ぐ。そして、活字を読む。
世田谷の実家にいた頃は自室にパソコンがあり、調べ物をしたいときはインターネットを検索するだけでよかった。インターネットで検索すればたちどころに必要な情報が呼び出されて手間と時間が省けるが、確実性を期したいときは本を頼る。僕の戸籍上の父として名前が記載されている鍵屋崎教授は職業柄豊富な蔵書を有していて、論文執筆の折には僕もたびたび彼の自室から本を借りてきてインターネットで検索した項目に関する徹底的な裏づけ作業を行った。骨が折れる作業だったが決して苦ではなかった。本を開けば常に新たな発見があった、一枚一枚ページを繰るたびに鮮度のいい知識が増えてゆく喜びがあった。
電子の網が世界中に張り巡らされ、遠距離近距離問わずほとんどの用件はメール上のやりとりで済んでしまう今の時世にあり、僕がオーソドックスな読書を好むのはそういうわけだ。パソコン上で電子化された書籍を読むこともあったが、手ずから本を読んで得られる充足感にはかなわない。
それに、パソコンで文章を読むのは目が疲れる。
三分の一まで行かずに眼底がハレーションを起こし、いちいちメガネを取って目頭を揉まずにはいられなくなる。……今気付いたが好悪の問題というよりたんに体質に合わないだけかもしれない。
強制労働終了後の自由時間、単身図書室に足を踏み入れる。
三階まで吹き抜けの開放的な天井、整然と並んだ書架にはノンフィクションや伝記などジャンル別に分類札が貼られている。看守が常駐したカウンターの目の前、図書閲覧用の机を陣取って騒いでいるのは品のない囚人たち。東棟の囚人もいるが他の棟の囚人も多多混じっている、東西南北の棟はそれぞれ仲が悪く囚人同士も険悪であると聞いたが監視の目があるせいか表面的には和気藹々とやっている……あくまで表面的には。
声高に雑談に興じる囚人たちの脇を素通りし、一直線に書架に向かう。僕が目指すのは三階、図鑑や事典など学術的な資料が置かれたスペース。階段をのぼり、三階に到着。幸い人けはない、誰にも邪魔されることなく目的の資料をさがすことができそうだ。手摺に手をおき、眼下を覗きこむ。この位置からだとちょうどカウンター前に並んだ閲覧用の机が見渡せる。机に行儀悪く足を乗せ、口々に下卑た冗談をとばす輩に眉をひそめる。
図書室は本を読むところだ。ああいう輩には即刻ここを立ち去れと忠告したい。
これ以上見ていても腹が立つので、踵を返して奥の書架へと歩む。きちんと等間隔に整列した書架の一角、図鑑が並んだスペースで立ち止まり、最上段の右端から順に背表紙を追ってゆく。
あった。
最上段の右から三番目に目的の図鑑を見つけ、手を伸ばして取ろうとした刹那、ずきんと右腕が疼く。
「!」
右腕を押さえ、書架に凭れる。この前シャベルをぶつけられた痣がまだ癒えてなかったことを肘の間接をのばした瞬間に思い知らされる羽目になった。とはいえ、せっかくここまで来て引き返すのはプライドが許さない。諦めきれず、もう一度図鑑へと手を伸ばしかけた僕の頭上をサッと手がかすめる。
忽然と図鑑が消えた。
書架の最上段からたやすく図鑑を抜き取った人物を振り向けば隣には見覚えのある顔。毛先の不揃いな茶髪を襟足で結ったその青年は、健康的な褐色肌と色素の薄い茶色の目という人種不明な容姿をしていた。
「コレ?キーストアが取ろうとしてたの」
「返せ」
レイジの手から本を奪い取る。頭に本を乗せてバランスをとりながらレイジが不思議そうに言う。
「植物図鑑なんて借りて花でも育てる気か」
「関係ないだろう」
図鑑を開いて項目をたどりはじめた僕の横顔を何か言いたげに眺めていたレイジがおもむろに呟く。
「『ありがとう』」
「?」
図鑑から顔を上げてレイジを見れば、してやったりと笑っていた。
「知らねーみたいだから教えてやったんだ。ひとにもの取ってもらったら何を置いてもまず『ありがとう』だろ」
『Salamat』
「あん?」
今度はレイジが当惑する番だった。眉をへの字にしたレイジに興味をなくし、図鑑へと目を戻す。ぱらぱらとページを繰りながら熱のない声で付け加える。
「きみはフィリピン育ちだから現地の言葉、すなわちタガログ語でありがとうと言ったんだ。自分の生まれた国の言葉くらい覚えておけ」
「………かっわいくねー。ちょっとはロンのかわいさを見習え」
あきれたように絶句したレイジがなぜかロンの名前を出す。レイジを無視して項目をひいてみたが生憎「芽吹かない苗」の謎を紐解くような記述にはお目にかかれなかった。少々落胆しつつ図鑑を戻した僕の目に映ったのは、本を頭にのせて書架を物色しはじめたレイジ。
「本で遊ぶな」
忠告するがはやいか、「ん?」と生返事して振り向いたレイジの頭からバランスを崩して本が落下する。反射的に床に落ちた本を拾い上げる。おそらくヒロインだろう金髪の外人女性がしどけなく服をはだけ、その背後できらめくナイフにはでな血飛沫というイラストの表紙。ペーパーバックの推理小説だった。
「低俗な本だな」
「お前は誤解してる」
見たままありのままの感想を呟いた僕の手から推理小説を奪い返し、悪趣味な表紙を掲げてレイジが断言する。
「本にいいも悪いもねえ、面白いか面白くないかだけだ」
「……ごくたまに天文学的確率で良いことを言うんだな」
「皮肉か?」
「そうとってもらってもかまわない」
これ以上レイジと無駄話を続けていても収穫はなそうだ。
レイジを書架と書架の間に残してその場を立ち去りかけた僕は階段をおりかけてふと気付く。階段の手摺に手を置いて振り向き、書架の間に立ち尽くしたレイジを振り向き、問う。
「レイジ、きみは東京プリズンにきて長いと聞くが」
「あー?そうだな、けっこー長いな。このムショじゃ古株に入る」
「サムライより古いか?」
「どうだっけ……俺が入った頃にはもういたような気がする。ああ、思い出した、たしか一週間差だ。サムライが一週間先輩だってどっかで聞いたような……なんでそんなこと聞くんだ?」
書架に凭れてペーパーバッグの推理小説を読み始めていたレイジがふと真顔になる。手摺に手をおいたまま逡巡する。東京プリズンに収監されて長いレイジならサムライについて何か知ってるんじゃないかと期待したのだが……僕の表情を読んで何か勘付いたのか、パタンとペーパーバッグの推理小説を閉じて小脇に抱えたレイジがこちらに歩み寄ってくる。
「サムライより古株って聞いてぱっと思い浮かぶのはひとりっきゃいねえな」
「だれだ?」
間髪いれずに問い返していた。息を呑んだ僕の隣で手摺から身を乗り出したレイジが階下を覗きこむように声を張り上げる。
「おーい、ヨンイル!」
「なんやあ」
二階の書架奥から間延びした声が跳ね返ってきた。少し間をおいて二階の手摺からこちらを仰いだのはいつかのゴーグル少年。手摺に肘をついたレイジが階下を覗きこみ、ヨンイルに呼びかける。
「お前、ここに来て何年になる?」
「ちょ待ち。たしか……」
ひい、ふう、みい、よ……と指折り数えながら過去を遡っていたヨンイルが屈託ない笑顔でこちらを仰ぎ、五本指を突き出す。
「五年や」
声もなく驚く。
ゴーグルをかけた少年はせいぜい15,6歳。尖った八重歯を覗かせた笑顔はまだあどけなさを残しているというのに、彼は東京プリズンにきてもう五年が経つという。ということは外見年齢から逆算して、11歳前後で東京プリズンに収監されたというのか?
いったいどんな凶悪犯罪を犯したらわずか11歳の少年が史上最低と悪名高いこの刑務所に収監されることになるんだ?
「サムライのこと知りたいなら図書室のヌシに聞いてみろよ。ヨンイルの城に案内してやるからさ」
絶句した僕に気軽に顎をしゃくり、先頭に立って階段をおりはじめるレイジ。城?不審がりつつも好奇心には抗えず、レイジについて階段を降り、二階に立つ。三階とは違い、二階は多くの囚人で賑わっていた。それもそのはず、二階には漫画の書架があるのだ。床にじかにうずくまって一心不乱に漫画を読み耽っていた囚人たちがレイジの姿を目にした途端、血相変えてとびのく。漫画を片手に持ったまま、書架にへばりつくように道を開けた囚人を左右に流し見ながら悠然と歩くレイジの背中に質問する。
「きみとその、ヨンイルという少年はどういう関係なんだ?」
レイジに声をかけられてもヨンイルには少しも怖じるところはなかった。東棟の王様の目を見てあれだけ堂々と振るまえる囚人は少ない。ロンやリョウ、それにサムライや僕など例外もいるにはいるが他の棟の囚人は特にレイジを避ける傾向がある。
レイジと対等に渡り合える西棟のヨンイルとは何者なんだ?
「どういう関係ねえ……強いていえば、同じテヅカファンかな」
「テヅカ?」
なんのことだ?作家名か?
「ようヨンイル」
「おうレイジ」
ヨンイルがいた。ゴーグルをかけているため顔の造作は判別しがたいが、ひょうきんなかんじがする笑顔が人当たりのよさをふりまいている。背後に顎をしゃくり、レイジが言う。
「こいつが聞きたいことあんだって」
「俺に?」
頭上の書架に手をのばして漫画を抜き取ろうとした姿勢で固まり、レイジの肩越しに僕を一瞥するヨンイル。
瞬間、僕は見てしまった。
囚人服の袖口がはらりとめくれ、健康的に日焼けした手首が覗く。
ヨンイルの手首には鱗があった。
毒々しく照り輝く緑の鱗。手首に巻きつき腕に巻きつき、服に隠された素肌まで舐めているにちがいない大蛇の刺青。螺旋を巻くが如く四肢を抱きすくめた大蛇の刺青を服の上から透視した気分になった僕を現実に戻したのはヨンイルのあっけらかんとした声。
「ええで、俺に答えられることならな」
漫画を抜き取ると同時にはらりと袖が落ち、光沢のある鱗が隠れる。
僕が今目にしたものは幻だったのだろうか?
四ヶ月での目に見える変化といえば少し日に焼けたこと、少し背が伸びたことくらいだ。
身長に比例して増えるはずの体重は減った。
心境の変化として挙げられるのはここでの生活に馴染み、外のことをあまり思い出さなくなった点だ。
強制労働中は頭を空白にし、シャベルの上げ下げだけに集中する。
雑念を散らし、頭をからっぽにし、シャベルを握る手元に意識を傾けてひたすら単調な作業に没頭すれば時間はあっというまに過ぎて強制労働が終了する。夕食後の自由時間は決まって図書室から借りてきた本を読んで過ごす。ベッドに腰掛けて読書する僕の隣でサムライは大抵読経か写経かそれでもなくば木刀を磨いている。会話はあまりしない。口を開くのは大抵僕の方で、その内容も「読経の声がうるさくて読書に集中できない」「トーンを下げろ」という一辺倒の抗議に尽きる。
サムライは寡黙な男だ。
サムライと一緒にいるのは気楽でいい、互いの存在が重荷にならない。使い道もないのに一日も手入れを欠かさず、飴色の艶がでるまで丹念に木刀を磨いているサムライの横顔を開いた本越しにちらりと盗み見ればいつも気難しい顔をしている。眉間に不本意な皺を刻んだ仏頂面は誇り高い武士というより傘張りに精を出す食いつめ浪人に近い。房の床に写経に用いた半紙が散らばっている状況にも慣れた。至極真面目な顔で筆をとり、一字一句写経にとりくむサムライの顔を見るともなく眺めているとふと疑問になる。
『なえ』とはなんだ?
背筋を凛と伸ばして床に端坐したサムライの肩越し、べッド下の薄暗がりを凝視する。サムライがベッドの下に秘匿している小箱、その中に保管されている古い手紙。かすれて薄れた記述の中、唯一読み取ることができたのは「芽吹かない苗」という一文。先日サムライがうなされながら口にしたのも「苗」だった。奇妙な符号の一致。この事実が示唆するものはなんだろう?手紙に記述された「苗」とサムライが寝言で呟いた「苗」は同じものなのか?そう考えるのが妥当だろう。苗……植物の苗。わからないのは何故サムライがそれほど苗にこだわるのかという点だ。サムライに盆栽の趣味があるかどうかは知らないが、十八歳という実年齢が偽証としかおもえない老けた未成年なら般若心境の写経と読経のほかに年寄りくさい趣味があってもおかしくはない。
サムライは外においてきた盆栽に心を残してる?
外になんら未練がないように見えるこの男が盆栽ごときに?
「なにを見ている」
訝しげに声をかけられ、本から顔を上げる。木刀を拭う手を止めたサムライが不審げな目をしている。いつのまにか本から心が離れ、サムライの過去に思い馳せていた自分に気付き、ひどくばつの悪い思いを味わう。
「手に墨がついてるからあとで洗ったほうがいいぞ」
わざとらしく見えないよう、余裕ぶって本のページをめくりながら指摘する。右手に目をやったサムライが「言われずとも心得ている」と返し、墨で手を汚しつつも精魂こめて写経に取り組む。その真剣な目、俗離れした雰囲気にかける言葉を失い、仕方なく本に戻る。
が、漫然と活字を追っていても一向に内容が頭に入ってこない。僕には珍しい、いや、珍しいどころではない……異常事態だ。
視線が活字を上滑りしていく感覚、集中力の低下。脳裏によみがえるのは先日の光景。
裸電球の明かりもない暗闇の中、僕の手を握って離さないサムライ。僕よりひとまわり大きい骨ばった手の感触、すがるように手首を掴んでくる節くれだった指。眉間に寄った苦悩の皺、一文字に引き結ばれた唇、そしてー……
『なえ』
あの時、サムライはそう発音した。あのサムライが、起きているときも殆ど表情筋を動かさず、必要以上のことはおろか必要以外のことも滅多にしゃべらない男が夢という無意識の領域で苦悶していた。悪夢。サムライは悪夢に苛まれていた、ここの囚人なら珍しくもないことだ。僕も収監当初に比べてだいぶ頻度は減ったがそれでも週に二・三回は悪夢を見る。毎晩のように悪夢にうなされて飛び起きていた頃よりはマシになったが、連日の強制労働で精神的にも肉体的にも消耗して悪夢を見る余裕がなくなっただけだろう。東京プリズンに入所して間もない頃は心身ともに極度の緊張状態が続き、混沌の無意識領域にあっても自我を没することができなかった。四ヶ月が経過して東京プリズンでの生活にも多少慣れてきた現在は緊張も緩み、心身の疲労を回復するための眠りに抵抗なく没入できるようになった。
サムライは強靭な精神力の持ち主だ。それはこの四ヶ月、共に暮らしてみてよくわかった。心身ともに強靭で頑健なサムライが悪夢にうなされるなんて珍しいこともあるものだとあの晩は妙に感心したが、考えれば考えるほどに疑問は募り、好奇心が刺激される。
外の世界になんの未練もないように見えるこの男が唯一心を残しているもの……『なえ』。
手紙にしたためられていた謎の一文……『芽吹かない苗』。
それが、サムライの譲れないものなのだろうか。僕にも増して外界や他者に無関心なこの男が人並みに執着している対象なのだろうか。
ページをめくる手が速まるにつれ知的欲求が向上し、探究心が刺激される。
サムライの過去が知りたい。
『芽吹かない苗』の謎を解き明かしたい。
顔を隠すように広げた本の向こう側ではサムライが熱心に写経に励んでいる。姿勢よく端坐し、右手に筆、左手で半紙を押さえたその姿は垢じみた囚人服を纏っているというのに一種の風格さえある。
サムライと同じ房になって四ヶ月。
四ヶ月も経つというのに僕はサムライのことをなにも知らない。不公平ではないか。
サムライは僕のことを知っている、最愛の妹を外に残してきたことも最愛の妹から拒絶されたことも熟知して許容している。転じて僕はどうだ?もう四ヶ月が経とうとしているというのにサムライについてなにも知らない、サムライは僕にとって依然謎多き存在のままだ。あの日、東京プリズンに来た最初の日に暗がりの房で木刀をつきつけられて以降なにも変わってない。
どうして父親を含む門下生十二人を惨殺したのか?
本当に力量を試したかっただけなのか?
そのすべての謎を解く手がかりが「芽吹かない苗」の一文に秘められている、というのは考えすぎだろうか?―否、僕の予測は正しい。IQ180の天才たるこの僕が立てた予測が間違っているはずがない、サムライの過去を探る手がかりは「芽吹かない苗」の一文にある。
だれから来た手紙なのだろう、あれは。
だいぶ古い手紙だった。端は黄ばんで鉛筆書きの字は薄れて、肉眼では殆ど判別がつかなくなっていた。おそらくは数年前に届いた手紙……サムライが入所して間もない頃に届いた手紙だろう。差出人の候補に挙げられるのはサムライの肉親、または友人?後者の可能性は却下。あの寡黙で偏屈な男に、刑務所に収監されてからも手紙を送ってくるような友人の類がいるとは思えない……僕自身人のことを言えた立場じゃないが。
ということは、最有力候補として挙げられるのはサムライの身内?その可能性が高いのは否定できないが……それでもまだ釈然としないものが残る。とにもかくにも差出人を特定するか「芽吹かない苗」の暗号を解読しないかぎりサムライの過去を暴くのは不可能だ。
――解明してやろうじゃないか。
サムライが寝言で呟くほどに心を残しているもの、サムライの譲れないもの。絶対に突き止めてやる。口元に笑みが浮かぶのが押さえられない。東京プリズンに収監されて四ヶ月、過酷な強制労働にすり削られて休眠していた知的好奇心が疼きだす。サムライは非常に興味深い観察対象だ。見ていて飽きない、次になにをするか予想がつかない。
そのサムライが現時点で唯一人並みに執着する対象―……『なえ』。
面白いじゃないか。久しぶりに、本当に久しぶりに手応えのある研究課題ができた。
「なにを笑ってるんだ」
ハッとした。
おもわず本を取り落としそうになり、慌てて両手を前に出す。ベッドから腰を浮かした姿勢で本を抱え持った僕を見て、サムライが怪訝な顔をする。
「本に面白いことでも書いてあるのか」
純粋な疑問を述べたサムライに動揺を知られるのを恐れ、膝の上で本を立て直して視線をさえぎる。
「ああ。きみのように般若心境を写経するしか能がない男には理解できないかもしれないが、非常に為になる、興味深いことが書かれている」
務めて平静を装い、表情を消し、本を再読するフリをする。本越しに注がれていたサムライの視線がついと逸れ、緩慢に墨を擦る動作が再開される。
「結構なことだ」
本心から述べたのか彼流の嫌味なのか……否、サムライは表情を変えずに嫌味を言えるほど器用ではない。察するに本心から述べた言葉だろう。うまくごまかせたようで安心する。本を読むふりをしてサムライの横顔を見上げ、決意する。
『芽吹かない苗』の謎は、僕が自力で解き明かす。
天才に不可能はない。
調べ物があるときはまず図書室だ。
東京プリズンの図書室は面積が広く、蔵書が豊富だ。古今東西、あらゆるジャンルを網羅した書物が整然と並んだ書架に一分の隙なく収められた光景はいっそ壮観である。人類の知的財産が集積された知識の宝庫、教養の泉。まずは本を手にとり、その重さを確かめる。ずっしりした手応えを感じつつページを開き、インクの匂いを嗅ぐ。そして、活字を読む。
世田谷の実家にいた頃は自室にパソコンがあり、調べ物をしたいときはインターネットを検索するだけでよかった。インターネットで検索すればたちどころに必要な情報が呼び出されて手間と時間が省けるが、確実性を期したいときは本を頼る。僕の戸籍上の父として名前が記載されている鍵屋崎教授は職業柄豊富な蔵書を有していて、論文執筆の折には僕もたびたび彼の自室から本を借りてきてインターネットで検索した項目に関する徹底的な裏づけ作業を行った。骨が折れる作業だったが決して苦ではなかった。本を開けば常に新たな発見があった、一枚一枚ページを繰るたびに鮮度のいい知識が増えてゆく喜びがあった。
電子の網が世界中に張り巡らされ、遠距離近距離問わずほとんどの用件はメール上のやりとりで済んでしまう今の時世にあり、僕がオーソドックスな読書を好むのはそういうわけだ。パソコン上で電子化された書籍を読むこともあったが、手ずから本を読んで得られる充足感にはかなわない。
それに、パソコンで文章を読むのは目が疲れる。
三分の一まで行かずに眼底がハレーションを起こし、いちいちメガネを取って目頭を揉まずにはいられなくなる。……今気付いたが好悪の問題というよりたんに体質に合わないだけかもしれない。
強制労働終了後の自由時間、単身図書室に足を踏み入れる。
三階まで吹き抜けの開放的な天井、整然と並んだ書架にはノンフィクションや伝記などジャンル別に分類札が貼られている。看守が常駐したカウンターの目の前、図書閲覧用の机を陣取って騒いでいるのは品のない囚人たち。東棟の囚人もいるが他の棟の囚人も多多混じっている、東西南北の棟はそれぞれ仲が悪く囚人同士も険悪であると聞いたが監視の目があるせいか表面的には和気藹々とやっている……あくまで表面的には。
声高に雑談に興じる囚人たちの脇を素通りし、一直線に書架に向かう。僕が目指すのは三階、図鑑や事典など学術的な資料が置かれたスペース。階段をのぼり、三階に到着。幸い人けはない、誰にも邪魔されることなく目的の資料をさがすことができそうだ。手摺に手をおき、眼下を覗きこむ。この位置からだとちょうどカウンター前に並んだ閲覧用の机が見渡せる。机に行儀悪く足を乗せ、口々に下卑た冗談をとばす輩に眉をひそめる。
図書室は本を読むところだ。ああいう輩には即刻ここを立ち去れと忠告したい。
これ以上見ていても腹が立つので、踵を返して奥の書架へと歩む。きちんと等間隔に整列した書架の一角、図鑑が並んだスペースで立ち止まり、最上段の右端から順に背表紙を追ってゆく。
あった。
最上段の右から三番目に目的の図鑑を見つけ、手を伸ばして取ろうとした刹那、ずきんと右腕が疼く。
「!」
右腕を押さえ、書架に凭れる。この前シャベルをぶつけられた痣がまだ癒えてなかったことを肘の間接をのばした瞬間に思い知らされる羽目になった。とはいえ、せっかくここまで来て引き返すのはプライドが許さない。諦めきれず、もう一度図鑑へと手を伸ばしかけた僕の頭上をサッと手がかすめる。
忽然と図鑑が消えた。
書架の最上段からたやすく図鑑を抜き取った人物を振り向けば隣には見覚えのある顔。毛先の不揃いな茶髪を襟足で結ったその青年は、健康的な褐色肌と色素の薄い茶色の目という人種不明な容姿をしていた。
「コレ?キーストアが取ろうとしてたの」
「返せ」
レイジの手から本を奪い取る。頭に本を乗せてバランスをとりながらレイジが不思議そうに言う。
「植物図鑑なんて借りて花でも育てる気か」
「関係ないだろう」
図鑑を開いて項目をたどりはじめた僕の横顔を何か言いたげに眺めていたレイジがおもむろに呟く。
「『ありがとう』」
「?」
図鑑から顔を上げてレイジを見れば、してやったりと笑っていた。
「知らねーみたいだから教えてやったんだ。ひとにもの取ってもらったら何を置いてもまず『ありがとう』だろ」
『Salamat』
「あん?」
今度はレイジが当惑する番だった。眉をへの字にしたレイジに興味をなくし、図鑑へと目を戻す。ぱらぱらとページを繰りながら熱のない声で付け加える。
「きみはフィリピン育ちだから現地の言葉、すなわちタガログ語でありがとうと言ったんだ。自分の生まれた国の言葉くらい覚えておけ」
「………かっわいくねー。ちょっとはロンのかわいさを見習え」
あきれたように絶句したレイジがなぜかロンの名前を出す。レイジを無視して項目をひいてみたが生憎「芽吹かない苗」の謎を紐解くような記述にはお目にかかれなかった。少々落胆しつつ図鑑を戻した僕の目に映ったのは、本を頭にのせて書架を物色しはじめたレイジ。
「本で遊ぶな」
忠告するがはやいか、「ん?」と生返事して振り向いたレイジの頭からバランスを崩して本が落下する。反射的に床に落ちた本を拾い上げる。おそらくヒロインだろう金髪の外人女性がしどけなく服をはだけ、その背後できらめくナイフにはでな血飛沫というイラストの表紙。ペーパーバックの推理小説だった。
「低俗な本だな」
「お前は誤解してる」
見たままありのままの感想を呟いた僕の手から推理小説を奪い返し、悪趣味な表紙を掲げてレイジが断言する。
「本にいいも悪いもねえ、面白いか面白くないかだけだ」
「……ごくたまに天文学的確率で良いことを言うんだな」
「皮肉か?」
「そうとってもらってもかまわない」
これ以上レイジと無駄話を続けていても収穫はなそうだ。
レイジを書架と書架の間に残してその場を立ち去りかけた僕は階段をおりかけてふと気付く。階段の手摺に手を置いて振り向き、書架の間に立ち尽くしたレイジを振り向き、問う。
「レイジ、きみは東京プリズンにきて長いと聞くが」
「あー?そうだな、けっこー長いな。このムショじゃ古株に入る」
「サムライより古いか?」
「どうだっけ……俺が入った頃にはもういたような気がする。ああ、思い出した、たしか一週間差だ。サムライが一週間先輩だってどっかで聞いたような……なんでそんなこと聞くんだ?」
書架に凭れてペーパーバッグの推理小説を読み始めていたレイジがふと真顔になる。手摺に手をおいたまま逡巡する。東京プリズンに収監されて長いレイジならサムライについて何か知ってるんじゃないかと期待したのだが……僕の表情を読んで何か勘付いたのか、パタンとペーパーバッグの推理小説を閉じて小脇に抱えたレイジがこちらに歩み寄ってくる。
「サムライより古株って聞いてぱっと思い浮かぶのはひとりっきゃいねえな」
「だれだ?」
間髪いれずに問い返していた。息を呑んだ僕の隣で手摺から身を乗り出したレイジが階下を覗きこむように声を張り上げる。
「おーい、ヨンイル!」
「なんやあ」
二階の書架奥から間延びした声が跳ね返ってきた。少し間をおいて二階の手摺からこちらを仰いだのはいつかのゴーグル少年。手摺に肘をついたレイジが階下を覗きこみ、ヨンイルに呼びかける。
「お前、ここに来て何年になる?」
「ちょ待ち。たしか……」
ひい、ふう、みい、よ……と指折り数えながら過去を遡っていたヨンイルが屈託ない笑顔でこちらを仰ぎ、五本指を突き出す。
「五年や」
声もなく驚く。
ゴーグルをかけた少年はせいぜい15,6歳。尖った八重歯を覗かせた笑顔はまだあどけなさを残しているというのに、彼は東京プリズンにきてもう五年が経つという。ということは外見年齢から逆算して、11歳前後で東京プリズンに収監されたというのか?
いったいどんな凶悪犯罪を犯したらわずか11歳の少年が史上最低と悪名高いこの刑務所に収監されることになるんだ?
「サムライのこと知りたいなら図書室のヌシに聞いてみろよ。ヨンイルの城に案内してやるからさ」
絶句した僕に気軽に顎をしゃくり、先頭に立って階段をおりはじめるレイジ。城?不審がりつつも好奇心には抗えず、レイジについて階段を降り、二階に立つ。三階とは違い、二階は多くの囚人で賑わっていた。それもそのはず、二階には漫画の書架があるのだ。床にじかにうずくまって一心不乱に漫画を読み耽っていた囚人たちがレイジの姿を目にした途端、血相変えてとびのく。漫画を片手に持ったまま、書架にへばりつくように道を開けた囚人を左右に流し見ながら悠然と歩くレイジの背中に質問する。
「きみとその、ヨンイルという少年はどういう関係なんだ?」
レイジに声をかけられてもヨンイルには少しも怖じるところはなかった。東棟の王様の目を見てあれだけ堂々と振るまえる囚人は少ない。ロンやリョウ、それにサムライや僕など例外もいるにはいるが他の棟の囚人は特にレイジを避ける傾向がある。
レイジと対等に渡り合える西棟のヨンイルとは何者なんだ?
「どういう関係ねえ……強いていえば、同じテヅカファンかな」
「テヅカ?」
なんのことだ?作家名か?
「ようヨンイル」
「おうレイジ」
ヨンイルがいた。ゴーグルをかけているため顔の造作は判別しがたいが、ひょうきんなかんじがする笑顔が人当たりのよさをふりまいている。背後に顎をしゃくり、レイジが言う。
「こいつが聞きたいことあんだって」
「俺に?」
頭上の書架に手をのばして漫画を抜き取ろうとした姿勢で固まり、レイジの肩越しに僕を一瞥するヨンイル。
瞬間、僕は見てしまった。
囚人服の袖口がはらりとめくれ、健康的に日焼けした手首が覗く。
ヨンイルの手首には鱗があった。
毒々しく照り輝く緑の鱗。手首に巻きつき腕に巻きつき、服に隠された素肌まで舐めているにちがいない大蛇の刺青。螺旋を巻くが如く四肢を抱きすくめた大蛇の刺青を服の上から透視した気分になった僕を現実に戻したのはヨンイルのあっけらかんとした声。
「ええで、俺に答えられることならな」
漫画を抜き取ると同時にはらりと袖が落ち、光沢のある鱗が隠れる。
僕が今目にしたものは幻だったのだろうか?
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