少年プリズン

まさみ

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七十九話

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 その家は暗く湿った木造家屋だった。
 どっしりと太く貫禄のある黒光りする梁、威圧感のある重厚な骨組み。天井は開放的に高いが、日本家屋特有の採光の悪さから板張りの廊下の端々にはいつも闇がたちこめていた。
 森閑と静まった外廊を一人の男が歩いている。
 否、男というより少年と形容したほうが正しい。
 外見は十代半ばに見えるが、もう少し若いかもしれない。とても姿勢が良い。一足ごとに歩いていても少しも姿勢が崩れず、身のこなしは極力贅を殺ぎ落としたように無駄なく、狩りで鍛えた肉食獣の如く敏捷かつ流麗。ただでさえ背が高いというのに小揺るもせず背筋をのばし、きびきびと大股に歩くせいで本人は意図せず周囲に威圧感を振りまいている。
 足袋を穿いて板張りの廊下を歩けば、飴色に輝く檜の床の軋り音がする。よく磨きこまれ、艶やかな飴色の光沢を放つ縁側を殆ど衣擦れの音もさせずに歩いていた少年はふと踏み石に目をとめる。石臼のようにひらべったい丸石の上には下駄が一足、きちんと並べて置かれている。この屋敷は日本家屋独特の造りで屋敷をめぐる縁側から直接庭に出られるようになっている。
 胴着の腰にさした木刀の鍔に知らず手を添え、丸石の上におかれた下駄の鼻緒に足の指をもぐらせる。下駄を穿いて庭に出た少年はしばらく木刀の鍔に手を添え、爛漫とした春の陽気に酔うかのように鼻孔を上向けてそこにたたずむ。暦が如月に変わり、陽射しもだいぶ柔らかくなった。陽射しのぬくもりを背に感じ、冬眠から覚めて芽吹き始めた木々の新芽を眺める目は凪のように穏やかだ。切れ長の一重はともすると近寄りがたく剣呑な印象を与えがちだが、口元をゆるめて目を細めれば表情はずいぶんとやさしくなる。
 しかし、少年が笑みを浮かべるのは稀だった。
 少年は物心ついた時から泣くのを法度とする家に生まれた。母は知らない、物心ついたときには既に他界していた。父は母に関する話を渋った。夫婦仲がよくなかったのかと子供心に邪推するほどに母の話を避けた。少年もまた、亡き母を恋しがって泣いたりはしなかった。
 顔も知らない、息子に思い出も残さずに逝ってしまった母に実の所執着はない。
 少年の家族は父だけだった。
 鬼のような父だった。
 鬼の如く外道、というわけではない。否、世間的には十分そう評価されてもふしぎではない気性のはげしさと荒々しさを持ち合わせていたが、少年はどんなにひどく不条理に痛めつけられても父を憎むことがなかった。これも修行のうち、と心得ていたからだ。実際剣の腕では父の右に出る者はない。元禄年間から続く由緒ある道場を継がせるためにも厳格な父が跡取り息子に幼少期から真剣を握らせたのは至極道理の習いだった。父もまた、今は亡き祖父からそう育てられたのだろう。
 少年は箸の握り方よりさきに真剣の握り方を教えられ、それを覚えた。
 血が滲むような日々の鍛錬と過酷な修行の末に剣術を体得した少年は、しかし、無口で何を考えてるかわからない子供だと使用人から陰口を叩かれた。口数は決して多くなく、必要以上のことは言わない。徹底して無駄を省いたそのしゃべり方は世間が定義する「子供らしさ」とはかけはなれており、子供が子供らしくあることを望む大多数の大人には好まれざるものだった。
 少年にとってはこれが自然だった。物心ついたときから身に染み付いた姿勢、というべきか。必要以上のことも必要以外のことも言わず、他人にそしられる隙をあたえぬよういつでも背筋をただして歩く。隙を見せない子供は隙を見せぬままに成長し、その本心を知る者はただ一人を除いて皆無であった。そう、実の父でさえも彼の胸のうちを余す所なく把握していたとはとても言えない。
 下駄をつっかけて庭に出た少年は、そのまま鬱蒼とした木暗闇を歩いた。
 屋敷の庭は広く、さまざまな樹木が植わっている。松、杉、欅、檜……そして桜に梅。四季折々の花を咲かせて人目をたのしませる庭をあてどもなく散策するのは剣を握ることしか知らない少年の無聊をなぐさめる数少ない趣味のひとつだった。 
 季節は如月。どこからか桜の香が薫ってくる。
 馥郁たる桜の香に誘われるように木暗闇を抜ければ視界に吹き荒れたのは薄紅の嵐。鬱蒼とした木暗闇の涯て、樹木が開けた場所には桜の老木が一本植わっている。大樹である。どっしりと貫禄のある枝ぶり、老齢をしめすおびただしい皺が刻まれ、瘡に覆われた幹。四方に枝をのばして天を覆った桜の大樹の下に佇んでいるのは女。
 否、これも少女と形容したほうが正しい。
 たおやかななで肩、女性らしい丸みをおびはじめた腰の曲線。つややかな黒髪を背中の中ほどで一つに絞った背格好は薄紅の嵐に吹き飛ばされてしまいそうなほどに儚げで、少年は足を速めた。桜の花弁が淡雪のように降り積もるなか、大樹の下に立ち、心もち顎を傾げて天を仰いでいた女に声をかける。
 女が振り返る。
 女は地味な着物を身に纏っていた。裾が綻び、袖が汚れた粗末な着物。故あって屋敷の隅に間借りしているが、女の立場は一介の使用人である。とても衣服に贅沢できるような恵まれた身分ではない。
 しかしそれをさしひいても、女は十分に美しい容姿をしていた。
 垂れ目がちのやさしいまなじり、常に潤んだ黒目がちの目。鼻は高くもなく低くもない。常に微笑を含んでいるかの如くふくよかな唇。黄色人種のそれと比べても、東洋と西洋が中和したかのように肌の色は白い。抜けるような白さ、と表現するのがふさわしいだろう。
 たおやかで優しげで、今にも大気に溶けて消えそうに儚げな容姿の少女だった。
 『こんなところにいたのか』
 なにげない一言で、少年が女をさがして庭にさまよいでたことが判明する。桜の下の少女はすまなさそうに微笑んだ。わざわざ私なんかを捜させてしまって申し訳ない、という控えめな謝罪の微笑。
 『桜を嗅いでいたんです』
 桜を見ていた、とは言わなかった。否、言えなかったのだ。
 女は目が見えなかった。
 いつ頃からそうなのか、生まれつきなのか、少年は知らなかった。少年が物心ついたときにはもう女の目は光を失っていた。女は少年の二歳上、今は十六歳のはずである。女は少年の遠縁にあたる親類の子で、幼い時に両親を亡くして本家の屋敷に引き取られてきたらしいがその扱いは使用人も同然だった。ほんの幼い頃から使用人として仕えてきた女のことを、しかし、少年は彼の父がそうするように決して蔑んではいなかった。
 それが証拠に、こうして女とふたり並んで語らうときが少年にとっては殆ど唯一といえる貴重な安らぎの時だった。
 『小さい頃からずっとふしぎでした』
 唐突に女が呟き、先を促すように少年が振り返る。その姿が見えているわけでもないのに、空気の震えが伝わるのだろう。
 女は遠慮がちに微笑み、さきを続けた。
 『わたしが知っているのは黒だけです。瞼裏の暗闇の色、漆黒の夜の色。小さい頃はこれでも目が見えていたんですけど、光を失うと同時に色の記憶も薄れていって……桜を見たことだってたしかにあったはずなのに、今ではこの木がどんな色の花を咲かせるのか、それさえも思い出せないんです』
 女は淡々と語った。流れる水のように、ただ淡々と。
 憂えているわけでも哀しんでいるわけでもない。ただ、少しだけ残念そうに伏し目がちに微笑した。桜の花弁に降られながら、それでも桜の色がわからないと途方に暮れる女の横顔をしばらく無言で見つめていた少年がおもむろに行動にでる。無造作な歩幅で桜に歩み寄り、頭上に手をのばし、小枝を手折る。小枝の先端は薄紅の花弁で可憐に彩られていた。女の傍らに引き返した少年は、白い顔の前にスッと小枝をさしだす。
 『……本当にいい香り』
 胸いっぱいに清涼な香りを吸い込んだ女が、幸せそうに頬を上気させ、うっとりと呟く。焦点のあわない目を虚空に向け、薄紅の花弁を頭に積もらせてたたずむ女。邪気のない笑顔につりこまれ、少年もふと笑う。
 花弁ははらはらと降り積もる。
 女は桜の下から動かない。立ち去るのがたいそう名残惜しいようで、なかなか踏ん切りがつかずにいる。着物の胸に片方の拳をあて、放心したように立ち竦む女の顔前に小枝をさしだしたまま、少年もまた微動だにしない。女の頭に花弁が降り積もっているのに気付き、少年が片手をあげる。小枝をささげもったのとは別の手をそっと女の頭上に翳し、少し躊躇してから決心し、薄紅の薄片を払い落とす。
 頭に触れた無骨な手、その不器用さと誠実さが嬉しくて愛しくて、見えない目でじっと少年を見据える。
 『ありがとうございます』
 鈴を振るような声で礼を言った女に少年がなにか返そうとしたその時、屋敷の方からさかんに声がした。女の名を連呼する横柄な声。使用人を取り仕切る筆頭格の女中が女を呼びつけ、また何か雑用を言いつける気だろう。せわしない呼び声に我に返った女が屋敷の方角を仰ぎ見て「いけない」と呟く。
 『私、もう行きます』
 『ああ』 
 『みつぐさんはまだ?』
 『……ああ』
 『じゃあ、ここでお別れですね』
 寂しげに微笑み別れを告げた女、その足音がぱたぱたと遠ざかり、桜の木の下には小枝を胸に抱いた少年だけが残される。足音が止み、木暗闇の隋道の半ばで女が振り向く。着物の袖をたくしあげ、ちょっと片手を挙げるしぐさをしてみせた少女が、次の瞬間には自分のはしたなさに赤面して下を向く。
 足音が再開される。
 屋敷の方角へと走り去った少女を見送り、桜を仰ぎ、おのれの手の中の小枝を見下ろす。
 桜を見ることができない女にせめて香りだけでも存分に嗅がせたいと小枝を手折ったが、桜も生きている。枝には命が通っているのだ。少年は心なしばつが悪そうに手の中の小枝を見下ろしていたが、やがてその場に片ひざつくや、桜の木の根元にそっと小枝を横たえる。
 『……すまん』
 片手を軽く掲げて合掌する。 

 桜はなにも答えず、ただ、薄紅の嵐を降らせるだけ。
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