少年プリズン

まさみ

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七十七話

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 今日で一週間が経った。
 サムライがいなくなってから一週間ー……長い一週間だった。
 独居房送りになったサムライの消息はわからない、体調を崩してないか健康を損なってないか僕には知るすべもない。この一週間、無人のベッドを眺めながら眠りについた。いつのまにかサムライが隣にいる生活に慣れていたからひとりきりの房は存外に広く、奇妙にがらんとして感じられた。
 空虚。僕の胸の空洞のような。
 夜、きちんと毛布が折りたたまれたサムライのベッドを眺めながら睡魔が訪れるのを待つ。心許ない裸電球の明かりに照らし出された無人のベッドはとても寒々しかった。眠りにつけずに何度も寝返りを打った、連日の強制労働で体力と気力を消耗してるはずなのにどうしても頭の片隅が冴えて無意識の眠りに没入できないのだ。
 東京プリズンに入所して二ヶ月が経った。その間、いろいろなことに慣れた。慣れざるをえなかった。
 人間はどんな過酷な環境にも時間の経過とともに順応していける図太くしたたかな生き物だ、太古から連綿と続く食物連鎖と自然淘汰、弱肉強食のシステムが遺伝子に刷り込まれた人間はどんな現実や環境にも順応して柔軟に変わっていける多面的な生き物なのだ。
 進化と呼んでいいかはわからない。成長、という言葉も違う気がする。
 ただ、いやでも慣れなければ生きていけなかっただけの話だ。単純な自然淘汰の理論。酷暑の砂漠での強制労働も栄養に乏しいまずい食事も他の囚人からの陰湿な嫌がらせも慣れてしまえば無気力にやり過ごすことができる。殴られることにも慣れた、理不尽な暴力や不条理な叱責、容赦ない罵倒にも慣れた。
 怒りの感情はエネルギーを消費する。
 だから僕は怒りの感情を排し、あらゆることに無視と無関心をきめこんだ。殴りたければ殴れ、笑いたければ笑え。事故を装って僕の足をひっかけた連中から野次と嘲笑を浴びせられてもなにも感じない、心まで不感症になってしまったように。
 知能で劣る低脳どもの嫌がらせにいちいち付き合っていてもきりがない。
 彼らときたら観察対象にもならない、僕の知的好奇心を満たすこともできない、単細胞の微生物にも劣る卑小で低劣な存在なのだ。
 僕は天才だ。今は亡き鍵屋崎夫妻が自慢にしていた優秀な長男、IQ180の天才、ゆくゆくは自分たちの研究を継がせるつもりで幼少期から高度な英才教育を施してきた最高傑作。そんな僕が愚劣な嫌がらせや野卑な揶揄に本気で腹を立てるわけがない、そんな些事はどうでもいい。

 僕が腹を立てているのはサムライの行動だ。
 
 強制労働終了後。
 自由時間が開始され、廊下には暇を持て余した囚人が三々五々あふれだす。僕は扉越しにその喧騒を聞いていた。自分のベッドに腰掛け、黄昏が訪れた房の壁を見つめる。薄暗がりに沈んだ殺風景な壁を見つめ、落ち着きなく五指を組み替える。
 今日で一週間、サムライが帰ってくる日だ。
 『お前のせいだよ』
 一週間前、ロンに言われた言葉が耳によみがえる。
 サムライは僕のせいで独居房に送られた。タジマが僕の手紙を燃やしたことに怒り、こともあろうにタジマを殴り、独居房に送致された。独居房の噂は聞いている。独居房から出てきた囚人がどんな有り様をしてるか、一週間後に出された囚人で正気を保ってる割合がどれだけ少ないかも。
 サムライはどんな姿で帰ってくるのだろう。
 ……否、帰ってこられるのだろうか。正気を保ち、五体満足で、この房に帰ってこれるのだろうか。
 房の扉を開けて、薄暗がりの部屋を見回して、僕の顔がちゃんとわかるのだろうか。僕の存在に気付くだろうか。
 サムライは僕より遥かにここでの暮らしが長い。独居房の恐ろしさは入所して日が浅い僕より遥かに正確に理解していたはずだ。
 サムライは鈍感だが、聡明な男だ。でなければ僕がモルモットに指名したりしない。そのサムライが看守に手を上げた囚人を待ち受ける仕打ちを予期しなかったはずがない。サムライは覚悟の上でタジマを殴りその結果一週間の期限つきで独居房に送られた。
 なんでそんなことをするんだ?頼んでもないのに。
 奥歯に力をこめ、抱えた膝の間に顔を伏せる。
 僕のことなど放っておけばいい、手紙のことなど見ないふりをすればいい。サムライの手紙じゃない、あれは僕の手紙だ。僕が不注意で落とした手紙がタジマの手に渡り燃やされたところでサムライが怒るのはおかしい、理屈にあわない。どう考えても合理主義に反する。
 あの時のことを思い出す。
 中央棟から帰る渡り廊下で通りすがりの囚人にわざと肩をぶつけられた。
 よろめき、バランスを崩した僕は本の間に挟んだ封筒を落としたことに気付かずにそのまま房に帰った。房に帰り、ふたたび手紙を読み直そうとしてはじめて封筒を紛失したことに気付き、慌てて現場に引き返したときにはもう遅かった。
 手紙はタジマの手で跡片もなく灰にされた後だった。
 威圧的な靴音が近づいてくる。
 この靴音は看守のものだ。革靴の底が廊下を叩く神経質な音は扉越しでも聞き間違えようがない。それに続くひらたい足音は……
 顔を上げる。息を呑む。耳を澄ます。 
 尖った靴音と二重奏を奏でるのはひらべったい足音。東京プリズンの囚人はたいてい護送された時に履いてきた靴一足でその後を過ごすが、履き古して底が抜けた時の代用品として半年に一回スニーカーが支給されるそうだ。僕はまだ東京プリズンにきて二ヶ月、新しい靴はもらえていない。強制労働終了後は二日に一度の頻度で自分でスニーカーを洗って砂を落としているが酷使が祟ってだいぶ傷んできた。東西南北各棟のトップたる特権階級の四人はこの範疇外で望めばすぐにでもセンスのよい新品を入手できるというが真偽は定かではない。
 サムライのスニーカーはぼろぼろだった。
 いったい何年間履いてきたのだろう、ぼろぼろに擦り切れて底が抜けかけたみすぼらしいスニーカーを汚れた踝につっかけたサムライを思い出す。サムライのことだ、スニーカーの底が抜けて踵が削れても文句ひとつ言わずに日々を過ごしてきたのだろう。
 半年に一度新品が支給されるといっても、東京プリズンの総人口を賄いきるのは不可能だ。
 サムライが我慢すれば、サムライに行き渡るはずだった新品のスニーカーは別の囚人に履かれることになる。無欲なサムライは自分はぼろぼろのスニーカーで我慢して新品の靴がほかの囚人に行き渡るよう配慮したのだろう。
 だから、サムライの靴音はすぐにわかる。遠くからでも聞き間違えるはずがない。
 廊下を近づいてきた靴音が房の前で止まる。
 看守が腰の鍵束を探る金属音、中のひとつが鍵穴にさしこまれカチャリとノブが回る。
 細い隙間から射したのは一条の光、廊下に設置された蛍光灯の光明。
 暗闇に慣れた目を細めた僕の前にスッと影が立つ。蛍光灯の光を背に扉の向こうに佇立した影、右側は紺の制服に身を包んだ看守、左側には―

 サムライ。

 「入れ」
 右側の看守が横柄に顎をしゃくる。その命に従い、房の中へと足を踏み入れる。幽鬼じみた足取りで房の中へと歩み入ったサムライを見送り、看守がふんと鼻を鳴らす。 
 「これに懲りたら二度と看守にはむかうなよ」
 バタンと扉が閉じ、靴音が遠ざかってゆく。
 一週間、僕以外の気配が絶えてなかった房に今はもうひとり、サムライの気配がある。
 顔が上げられない。
 サムライがすぐそばにいるのはわかる。たぶん、顔を上げればまともに目を合わせてしまうほどの距離に。動機が早まる。心臓が強く鼓動を打つ。何を言おう、何を言えばいい?僕のせいで独居房送りになって今帰ってきたサムライになんて声をかければいい?考えれば考えるほど頭が混乱してきて息をするのも苦しくなる。落ち着け、鍵屋崎直。お前は天才だろう、なにもかも完璧に完全にこなすことができるIQの持ち主だろう。なにも取り乱すことはない、独居房送りになった同房の囚人が一週間ぶりに帰ってきた、言葉で説明してしまえばただそれだけのことじゃないか。
 なにも無理して会話の接ぎ穂をさがす必要はない、そんなのはまるで無意味な行いだ。
 今までどおり無視すればいいんだ、サムライの存在を空気のように無視して―
 「…………単刀直入に聞く。正気か?」
 両手の五指を握り締め、顔は上げずに聞く。沈黙。房の薄暗がりに佇んでいた痩躯の影が凪のような声で話す。
 「ああ」
 サムライの声はしっかりしていた。どうやら正気のようだ。
 体の力が抜けてゆく。少し緊張が解け、顔を上げる決心がついた。慎重に顔を起こし、暗闇に溶けるように佇むサムライを仰ぐ。
 サムライは痩せていた。
 もとから痩せた男だったが、たった一週間ではっきりそれとわかるほどに面変わりしていた。色艶を失った頬は鋭角的に削げて剣呑な印象がさらに際立ち、喉周りの肉が落ちたせいか喉仏の突起がやけに目立った。落ち窪んだ目は疲労で濁り、二・三歳は老けて見えた。この一週間、サムライの周りだけ密度の違う時が流れていたかのような凄惨な変貌ぶりに言葉を失った僕を見下ろし、サムライが言う。
 「くさいか?」
 「え?」
 囚人服の袖口に鼻を近づけたサムライが平板な口調で述べる。
 「……あんまりひどい有り様だったからここに来る前にシャワー室に連れていかれたんだが、まだ臭うか」
 どうやら僕の凝視を違う風に解釈したらしい。顔の筋肉を動かさない独特のしゃべり方は奇妙に感情が欠落していて、そのしゃべり方は僕がよく見知ったサムライと全然変わらなくて、意味なく胸がざわめいた。
 「なんでタジマを殴ったんだ」
 今にも理性の枷を破って噴き上げてきそうな激情をなんとか抑制し、感情を欠いた声で問う。不健康に痩せたサムライが怪訝そうに眉をひそめ、一拍おいてようやくなにを言われてるか悟る。サムライがなにか言おうとしたのをさえぎり、苦々しく続ける。
 「僕への同情か?義憤か?偽善か?時代遅れの武士の正義感とやらか。物好きな男だなきみは、タジマが目の前で手紙を破いたからってなんの関係もないきみが手を上げる理由がどこにある。ないだろうそんなもの」
 今まで塞き止めていた感情の汚濁が裂け目から迸り、怒涛の勢いで理性を押し流してゆく。怒りの濁流に呑みこまれた理性に楔を打とうと両手の指を強く強く握り締める。
 「だれがそんなことをしてくれと頼んだ、そんなことをされて僕が喜ぶとでも思ったか」
 喜べるはずがない。
 サムライは僕のせいで独居房送りになった、僕を哀れんで看守に手を上げた結果がこれだ。だれが哀れんでくれなんて頼んだ?余計なお世話だ。他人に同情されるのは虫唾がはしる、僕はひとから同情されなければならないような情けない人間じゃない。
 特にサムライには。
 この男にだけは、絶対に同情なんかされたくなかったのに。
 妹にすら打ち明けることのできない、今のみじめな境遇を思い知らされたくなかったのに。
 「お節介はたくさんだ」
 吐き捨てるように言った僕をサムライは無言で見下ろしていたが、おもむろに口を開く。
 「お前はそれでいいのか」
 「……なに?」 
 裸電球も点けない薄暗がりの中、黙然と立ち竦んだサムライが静かに語る。
 「俺に夜毎読み聞かせてくれたのは大事な妹宛の手紙だったんじゃないのか」
 サムライの言葉が胸を抉る。
 「―あれは、ただの紙だ。手書きの字を連ねたただの紙だ、前時代の遺物だ。僕にとってなんら重要じゃない、タジマに燃やされたところでどうということはない。僕はただ、なにごとも完璧にやり遂げなければ気がすまなかったから何度も修正を加えていただけだ。すべては自己満足、ただの余興だ」
 「本当か」
 「本当だ」
 「本当か」
 「本当だ」
 「俺の目を見ろ」
 「…………………………」
 「見ろ、鍵屋崎。俺の目を見て今の言葉をくりかえせ」
 「…………………………」
 「なぜ目を見ない」
 「強制されたくない」
 なぜモルモットの命令に従わなければならない?
 それでもサムライは引き下がらない。顔を背けた僕に一歩詰めより、命令というには静か過ぎる声で忍耐強くくりかえす。
 「俺の目を見ろ」
 「見たくない」
 「やはりな」
 「なにがだ」
 「お前は自分で思ってるほど器用じゃない、ひとの目を見て嘘がつけないのがなによりの証拠だ」
 
 その一言で、たった一言で、頭が真っ白になった。

 「………調子にのるなよ」
 モルモットの分際で、低脳の分際で、凡人の分際で。
 衝動的に立ち上がり、サムライの顔を睨む。体の脇で拳を握り締め、叫ぶ。
 「僕は本当にどうでもよかったんだ、あんな手紙破かれようが燃やされようがどうでもよかったんだ、どうせ汚い手紙だ何回も消して書き直した汚い手紙でとても完璧とはいえない代物だった、文章だってひどかった、要領を得なくて支離滅裂で主旨が曖昧でなにが言いたいのかわからなかった、あんな手紙送られるほうが迷惑だ!おかしいじゃないか、僕は天才なのに、日本語の語彙は野卑なスラングしか知らないこの刑務所の低脳どもの何倍何十倍も豊富なはずなのに、なんで手紙ひとつまともに書けないんだ!!あんな手紙届かなくてよかったんだ届いたところで恵を哀しませて苦しませるだけだった、僕みたいな人殺しから手紙がきたところで恵が喜ぶわけ―……」
 
 『おにいちゃん』 

 「喜んでくれるわけなかったんだ!!」

 拒絶されるのは怖い。
 でも、忘れられるほうがずっと怖い。
 あの時ロンに言ったのは掛け値なしの真実だ。僕は恵に忘れられたくなかった、今までしてきたことを無かったことにされるのが怖かった。
 だからわざわざ手紙を書いて「忘れないでくれ」と懇願しようとした。わざわざ手紙を書いて僕のことを思い出させようとした。
 そんなことをされて、恵が喜ぶわけないのに。
 「もうどうでもいいんだ」
 どうでもいいんだ。 
 手紙は燃えた。恵はいない。僕はひとりだ。
 僕の人生には何の意味もない。
 だれもいない。なにもない。どんなにIQが高くても、優れた遺伝子を持って生まれても、僕にはなにもない。
 この世でただひとつの譲れないもの、大事な妹を失った今の僕に一体なにが残るというんだ?
 ズボンのポケットに手をやり、一片の灰を掴む。
 一週間前、ロンとの言い争いを打ち切って房に帰る前、廊下で立ち止まって裾に付着した灰をはたき落とした。そのときポケットにまぎれこんだ一片の灰が、まだ残っていたのだ。
 「タジマに燃やされた手紙の灰だ」
 こんなものを後生大事に持ってる自分の愚かさに呆れるを通り越して笑えてくる。 
 僕の手に残されたのは一片の灰だ。こんなものなんになるというんだ。くだらない感傷だ、不条理な感情だ。くだらない、くだらない―
 灰を握り締めた手がおもむろに掴まれる。
 シャツの袖の上から僕の手首を掴んだのは目の前のサムライ。なにをするんだと抗議する間も与えず大股に歩き出したサムライの背中にむなしく叫ぶ。
 「はなせ、汚い手でさわー……」
 さかんに身をよじりサムライの手を振り払おうとした僕の目にとびこんできたのは、空気を孕んでめくれ上がった袖口、そこから覗いた手首の傷痕。生々しく血を滲ませた傷痕は手錠の跡。独居房に監禁された囚人は看守に反抗した罰として後ろ手に手を戒められて過ごすという。肉が抉れた手首を目にして抵抗を躊躇した僕を強引にひきずり、房をよこぎり、廊下に出る。鈍い響きを残して扉が閉じ、廊下にたむろした囚人を押しのけるようにしてサムライが歩みだす。
 「どこに行くんだ!?」
 この男、わけがわからない。
 突飛な行動に当惑した僕を片手でやすやすと引きずってサムライが向かったのは見覚えのある廊下、これは展望台へと向かう道だ。好奇の眼差しを注いでくる囚人など物ともせず、毅然とした歩みで廊下を抜け、ガラスの取り除かれた窓を踏み越えて展望台にでる。サムライに引っぱられて窓枠を踏み越えた僕は砂漠を朱に染める夕日の眩さに目を細める。



 展望台の向こうには涯てのない砂漠が茫茫と広がっている。  

 そのまま展望台を一直線に歩いてコンクリートの先端に立ち、ようやく僕の手を放す。なにがなんだかわからず混乱している僕の手からサムライがおもむろになにかを毟り取る。それは手紙の燃え滓、一週間が過ぎても捨てるに捨てられず僕が持ち歩いていた一片の灰。
 砂まじりの強風が吹いた。
 砂漠の彼方に沈む夕日と対峙するかの如く展望台のへりに立ったサムライが、黄昏の風に吹かれながら暮れなずむ空へと手を翳す。
 眩い残照と砂漠、そしてサムライ。一幅の絵画のようにあざやかな光景。 
 天へとさしのべられたサムライの手、その手から舞い上がったのは一片の灰。風にさらわれて天高く舞い上がった灰はやがてこの広大な砂漠に紛れる一粒の砂のように小さくなり、完全に見えなくなった。
 しばらくは風の鳴る音だけが秒秒と響いた。
 「………何の真似だ」
 声をひそめて聞く。サムライはしばらく無言でそこに佇んでいたが、やがて呟く。
 「届くように祈れ」 
 朱の残照に照り映える横顔、風に吹き乱れてたなびく烏の濡れ羽色の黒髪。
 「お前の気持ちが風に乗って大事な人のもとに届くように祈れ」
 絶句した。
 「……きみは、馬鹿じゃないか」
 ようやくそれだけ言った。
 「あれはただの灰だ、手紙じゃない。ただの灰だぞ、燃え滓だぞ」
 「だからなんだ」
 「なんだって、」
 正真正銘の馬鹿か?
 「……待て、冷静になれ。距離と風速と風向きとを計算したら一片の灰が仙台まで届くわけがないだろう。あの風は西緯30度から吹いたから灰が落ちるのは現在地から北緯60度の地点だ」
 冷静にならなければいけないのは僕だ。そんなの口に出すまでもなくわかりきったことじゃないか、サムライの奇矯なふるまいにあてられてどうかしてしまったのか?
 「本当は届けたかったんだろう」
 サムライの声で我に返る。いつのまにかこちらを向いたサムライが、沈みゆく夕日を背にしてゆっくりと語りだす。
 乾燥した風が吹く。
 はるかな砂漠を渡ってきた風が、脂じみたサムライの髪を、垢染みた囚人服の裾を、そして、僕の前髪をはためかせる。
 「手紙は届かない。だが、想いは届くかもしれない」
 
 詭弁だ。
 そう言い返したかった。言い返せなかったのは、サムライがひどく柔和な目をしていたからだ。

 膝から下の力が抜けてゆく。
 尻餅をつくようにその場に座りこんだ僕は、サムライを見上げる格好で吐き捨てる。
 「……ばかばかしい。茶番だ。付き合ってられない」
 本当に、付き合ってられない。サムライときたら言動のすべてが突飛すぎる、予想の範疇を超えている、理解の枠を超えている。
 「仙台まで風が吹くわけないじゃないか」
 「吹くかもしれない」
 「貴様気象予報士か」
 「ゆっくりと時間をかければ届くかもしれない」
 ゆっくりと時間をかければこの想いも届くというのか?
 仙台の恵のもとに。大事な妹のところに。
 抱えこんだ膝の間に顔を埋め、呟く。
 「どうせ届かなかったんだ、あの手紙は。住所がなかったからな」
 サムライがあっけにとられたような顔をする。
 そう、あの手紙には住所がなかった。まったくこの僕としたことが失念していた。何度も手直しをくわえて書き上げてしまうまで、恵が収容された病院の住所をまったく知らないことを忘れていたのだ。だからどのみちあの手紙は届かなかった、それに気付いたのは一週間前、図書室でロンと話し、本を抱えて房に帰ってからだ。それまではまったく気付かなかった、手紙を不備なく完成させることにばかり気をとられて肝心の住所を失念していた。手紙を紛失したことに気付いた僕が慌てて廊下に戻ったのはそれでもどこかで未練があったからだ。
 つまりサムライは、どのみち届かない手紙のためにタジマを殴り、一週間ものあいだ独居房にいれられたのだ。
 猛烈に腹が立った。僕に無断で勝手なことをしたサムライに、僕の手紙のためにひとを殴って重すぎる罰を受けたサムライに。 
 最初からとどかない手紙のために必死になっていたサムライと自分に。
 「……住所の件だが、看守に聞いてみてはどうだ」
 「聞いた」
 「どうだった」
 「殴られた」
 「そうか」
 数呼吸の沈黙の後、サムライが感慨深げにため息をつく。
 「そうだったのか」
 脱力したようにその場に正座したサムライを前に、呟く。 
 「サムライ、きみは馬鹿だ」
 「そうだな」
 「僕も馬鹿だ」
 「……少しな」
 否定してほしかったわけじゃないが、すんなり肯定されるとそれはそれで腹が立つ。
 むっとした僕を一瞥したサムライがもののついでとばかりにつけくわえる。 
 「勘違いするな。俺は手紙の一件だけで看守を殴ったんじゃない、タジマの言葉に腹を立てたからだ。あの男は俺のふるさとを悪し様に言った、仙台くんだりと」
 「仙台出身なのか!?」
 「ああ」
 おもわず声を荒げた僕に言葉少なく頷くサムライ。この男が仙台で生まれ育ったなんて今の今まで知らなかった。恵がいる仙台、遠く離れた仙台……
 「仙台はいいところか」
 ぽろりとそんな質問が口をついてでた。
 「ああ」
 「空気はおいしいか」
 「ああ」
 「人はやさしいか」
 「ああ」
 「食事はおいしいか」
 「ああ」
 「恵は元気にしてると思うか」
 最後の質問に、サムライはひときわ力強く頷いた。
 「ああ」
 膝を抱いた腕が弛緩し、極度の緊張に強張っていた体がほぐれてゆく。膝と膝が接するほどの距離でサムライが覗きこんでいる。
 頬がこけてだいぶ面変わりしていたが、なぜか、その顔には薄く笑みが浮かんでいた。
 サムライは力強く請け負ってくれた。
 仙台はいいところだと。恵は今でも元気にしていると。願い続けていれば、いつか、いつの日か、僕の想いは届くかもしれないと。
 「よかった………」
 よくないけど、よかった。
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