少年プリズン

まさみ

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七十四話

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 「これがシンディこれがレイチェルこれがチェマム……」
 さっきから延延と長ったらしい呪文が続いている。
 出所は向かいのベッドだ。壁の方を向いて無視を決め込もうにもこれもまた嫌がらせの一環なのか一向に呪文が止む気配がない。軽快な節回しで延延と女の名前を連ねてゆく男の方を見れば奴ときたらでれでれと鼻の下を伸ばしていた。
 「なにやってんだよ、気色悪い」
 ベッドに肘をついて寝返りを打ち、レイジの方を向く。次から次へと手紙に接吻していたレイジが笑みを含んだ上目遣いで俺を仰ぐ。
 「仕上げに愛をこめてんだよ」
 「へいへい」
 また何か頭の沸いたこと言い出したぞ。
 「なんだよ信じてねえな」
 うんざり気味にそっぽを向いた俺にレイジがさも心外なといわんばかりに食いついてくる。奴の膝に積まれているのは娑婆の女への返事が二十通ばかり、そのうち半分は鍵屋崎に代筆を頼んだものだろう。他人に代筆させた手紙に仕上げのキスを施して真心こめたつもりになってるような男は世の女から刺されて当然だと思う。むしろ刺されろ。
 べつにレイジが手紙にキスしてゆくさまなんて眺めていたくはないが同じ房にいるためどうしても声が聞こえてしまう、わざわざ声に出して娑婆の女の名前を挙げ連ねることもないだろうに俺に対する嫌がらせか?と襟首を掴んで問いつめたい心境だが、モテない男の僻みだと鼻で笑われても癪だしぐっと堪える。
 「これがルーシーこれが杏奈これがサマンサこれがマイケル……」
 限界だ。しかも最後男じゃねえか。
 ベッドから腰を上げ、疾風のようにレイジの前を駆け抜ける。ノブに手をかけるのと背中に声がかかるのは同時だった。
 「どこ行くんだよ」
 「お前のツラが見えないところだ」
 「さては女に嫉妬したな」
 「死ね」
 ありたけの殺意をこめて振り返れば、手にした手紙にきざったらしくキスを落としながら女を駄目にする色男の顔でレイジが微笑む。
 「お前にもキスしてやろうか」
 「別開弄笑(悪い冗談はやめろ)」
 想像したら吐き気がしてきた。
 調子づいたレイジが実力行使に及ばないうちに一刻も早く房を立ち去るにかぎると決意してノブを捻る。バタンと閉じた鉄扉によりかかりさてどこへ行こうかと候補を挙げる。夕食終了後の自由時間が始まってからまだ十分しか経過してない、多少は遠出できる時間的余裕もある。この前と同じく展望台に足を向けるのも芸がない、とはいえ他に行く所といえば限定される。黄昏の中庭では強制労働でも潰れずに体力を有り余らせた囚人が腕づく力づくでバスケットボールを奪い合ってる、命が惜しけりゃ殆ど球技じゃなく格闘技の様相を呈してきたゲームに途中参加するのはやめたほうがいい。
 まあ、中国系が幅を利かせてる東棟の中庭に俺がひょっこりと顔を出したところで歓迎されるわけもないからこの案はあっさり却下。
 行く先を決めずにぶらぶらと廊下を歩いてるうちにふと気まぐれを起こし、中央棟へと通じる渡り廊下に足を向ける。
 図書室に行こう。
 言っとくが、俺が自発的に図書室に行くことなど滅多にない。ああ見えて読書家のレイジは足繁く図書室に通っているが俺が図書室に顔を出すなんて一ヶ月に一回あるかないかだ。活字を見ると眩暈がする体質なのだ、自然と図書室から足も遠ざかろうといもの。
 だが、図書室にあるのは小難しい本ばかりではない。図書室だって伊達に広い面積は有してない、二階奥の書架には一面ずらりと漫画が並んでいて一歩足を踏み入れればなかなか壮観な眺めに酔える。
 正直、俺は日本語があまり得意じゃない。俺が物心ついたときからまわりの大人たちは台湾華語をしゃべっていた、台湾華語が飛び交うスラムで生まれ育ったガキは当たり前の習いで台湾華語をしゃべるようになる。お袋のところにやってくる客には日本人も多かったし、その影響で日常会話に不自由しない程度には日本語も話せるが決して語彙が豊富とはいえない、読み書きとなると殆どお手上げだ。図書室の本はもちろん日本語で記述されてる、中には中国語や英語で書かれた本もあるがそんなのは全体の一割にすぎない。現在刑務所に収監されてる囚人の八割はしゃべるぶんにはともかく日本語の読み書きは絶望的なスラム育ちだというのにまったく不親切だ、日本語の本なんて日本人しか読めねえじゃねえか。
 その点漫画ならコマを追ってりゃストーリーの大枠は理解できる、理解できない台詞を飛ばしたところで支障はない。気晴らしにテヅカの漫画を読み耽るのもいいだろうと閃き、滅多に足を運ばない図書室の扉を開ける。
 図書室の扉は分厚い鉄板の両開きで無駄に威圧的な構えをしている。
 錆びた軋り音をあげながら開いた扉の向こうには三階まで吹き抜けの開放的な空間が在った。閉塞感に息が詰まりそうな房の天井に慣れた身には戸惑いと違和感が禁じえない。整然と並んだ書架には娯楽小説から古典文学さらにはノンフィクションに至るまであらゆる本という本が詰め込まれているが、大抵の囚人は本になんて見向きもせずに閲覧用の机を陣取ってくっちゃべっている。
 なかでも一際騒がしい一隅に目をやった俺はおもわず顔をしかめる。見知った奴がいた、凱の取り巻き連中が何人か紛れ込んでる。向こうに気付かれる前に手近の書架にさっと隠れる。なんで何もやましいことをしてない俺がネズミのように逃げ隠れしなきゃなんねえんだと腹の底では不満が燻っていたが、俺を目の敵にしてる連中に因縁ふっかけられてトラブルに巻き込まれるのは願い下げだ。
 ちらりとカウンターに目をやる。
 カウンターの端っこに肘をついてあくびをしてるのは図書室に常駐してる看守だ。囚人が騒ぎを起こさないように立ちん坊をしている名目だがそれも所詮お飾りにすぎない、そりゃ看守の目の届くところで喧嘩をおっぱじめるような馬鹿はいないだろうが書架にさえぎられた死角ともなれば話は別だ。念には念をいれて行動するべきだろう、東京プリズンじゃどこでなにが起きてもおかしくない。
 書架の影に隠れ、二階へと上る階段めざして摺り足で移動している途中、見覚えのある顔が視界を過ぎる。
 凱の子分じゃない。
 図書室の奥まった場所にある机の隅、ひとりで座ってるアイツは―……
 鍵屋崎だ。
 「物好きだな」
 自分のことは棚に上げ、呟く。漫画ならともかく、活字恋しさに図書室に入り浸るような奇特な囚人がレイジ以外にもいたなんてと呆れる。そこまで考えてふと違和感をおぼえる、鍵屋崎が珍しく本を開いてなかったからだ。本はある。が、机上にページを開いて放置されたままだ。じゃあ当の本人はなにをしてるのだろうと訝りつつ手元に目をやった俺は眉をひそめる。
 手紙だ。
 鍵屋崎は手紙を読んでいた。五枚重ねた便箋を慎重な手つきでめくり、怖いくらい真剣な顔つきで目を通してゆく。いつにも増して近寄り難い雰囲気を纏った鍵屋崎の方へ吸い寄せられるように足を踏み出す。10メートル、8メートル、5メートル……珍しい、あの神経質な鍵屋崎が自分の5メートル以内に他人が接近しても気付かないなんて。あんまり無防備すぎてこっちが心配になってくる、今背後から襲われたらひとたまりもないじゃんか。
 『請問一下(聞いていいか)』
 『煩雑不可以(わずらわしいからだめだ)』  
 おい待て、そこは「何をだ?」と返すところだろう。あてつけがましく台湾語で拒否された俺はムキになり、反射的に嫌味で応じる。
 『我抽煙這裡可以馬?(ここでタバコ吸ってもいいか)』
 カサリと音が鳴る。
 折り重ねた手紙を机上に伏せて振り向いた鍵屋崎が凍った針のような軽蔑の眼差しをむけてくる。
 『弥不可以抽煙(図書室は禁煙だ)』
 「冗談だよ」
 日本語に切り替え、鍵屋崎の隣の椅子を引いて腰掛ける。椅子の脚が床を擦る音を聞きとがめた鍵屋崎があからさまに不機嫌になるが50センチしか離れてない場所に座るからってわざわざコイツの許可をとる義務はないだろう。俺は日本人が嫌いだ、日本人のご機嫌窺いなんてまっぴらごめんだ。
 「タバコはもう吸っちまった」
 「それは結構なことだ。きみの将来的な肺がん発症率は0.5パーセント上昇したな」
 「ひとの死因をかってに決め付けんな」 
 「誤解しないでくれ、きみの死因になど興味はない。刺殺だろうが絞殺だろうが殴殺だろうが僕は一切関知しない」
 「かってに他殺だと決め付けんな」
 軽口をたたきつつ、気のない素振りで手紙を盗み見ようとしたらサッとてのひらで隠された。バレたか。
 「図々しいな。隣に座るのを許可した覚えはないぞ」
 どうしてこう偉そうなんだろうか、自覚がないんだとしたら逆にたいしたものだ。
 「妹への手紙、書きあがったのか」
 「…………ああ」
 無意識に手紙を庇った鍵屋崎が警戒心をむきだして椅子ごとあとじさり俺から距離をとる。そんなに見せたくないのかよ、重箱の隅をつつくような完璧主義の上に秘密主義の二重苦じゃそりゃトモダチできねえはずだ。……俺もひとのこと言える立場じゃねえけどさ。
 鍵屋崎のてのひらには鉛筆の跡がついていた。察するに図書室奥の机の隅で今の今まで手直しを加えてたんだろう、ご苦労なこった。
 「いいお兄ちゃんだな」
 椅子の背もたれに腕をかけて揺らしながら、レイジによく似たいやらしい笑みが顔に浮かぶのを自覚する。俺の口をぽろりとついてでた皮肉に鍵屋崎が気色ばむ。
 「馬鹿にしてるのか?」
 「よくわかったな」
 俺らしくもねえ。
 鍵屋崎に喧嘩を売ってどうする、コイツに冗談が通じないなんてわかりきったことじゃねえか。なんでこんなに腹が立つんだ、なんでこんなに苛立ってるんだ?自分で自分の行動を不審に思いつつ、それでも一度回りだした舌は止まらない。
 「まったく日本人ってのは物好きだよな、わざわざ檻の中から手紙を書いて出そうなんて奴の気がしれねえ。頼まれたわけでもねーのによ」
 椅子を軋ませながら言い放つ。
 「娑婆から手紙がきたんならわかるよ、返事をだすのが礼儀だもんな。でも」
 そこで一呼吸おき、鍵屋崎に向き直る。
 「お前にいつ手紙が来たんだよ」
 神経がささくれだって、いつにも増して攻撃的になってるのが自分でもよくわかる。それでも言わずにはいられなかった、図書室の奥で手紙を見直してる鍵屋崎の背中を見た時からそのみじめな境遇を自分と重ねずにはいられなかった。
 だれからも手紙なんかこないくせに、今だに娑婆への未練を捨てきれずにみっともなく足掻いてるコイツが自分と重なって自己嫌悪に押し潰されそうで耐えられなかった。 

 お前はだれからも必要とされてない、だれからも待たれていない。
 何の意味も価値もない人間なんだという現実が足の先から染みてくるようで。

 「…………放っといてくれ」
 神経質な手つきで手紙をかさねて折りたたみ、封筒にいれる。その封筒を本のページに挟んで腰を上げる。椅子を軋らせて立ち上がった鍵屋崎は俺の方を見もせず淡々と言う。
 「たしかにきみの言い分も一理ある、人と人とのコミュニケーションは双方向の意思疎通でしか成立しえない。頼まれてもない人間に手紙を書くなんて行為ははっきり言って自己中の極み、一方的に気持ちを押し付ける自己満足の典型症例でしかない」
 機械のように無機質で平板な声にはなんの感情もこめられてない、寂しさも自己嫌悪もその声からは感じられない。
 ただ、事実を事実としてありのままに告げていただけの声に初めて感情らしきものがこもる。
 「だからなんだ」
 鍵屋崎が毅然と顔を上げ、挑むような眼差しを俺の顔へと叩きつける。
 眼鏡越しの貫くような視線……心の奥底に溜まった澱をかきまぜて波立たせるような、真っ直ぐすぎて怖いほどの目。
 「書きたいから書くんだ。自己満足のどこが悪い」
 「…………物好きな日本人」
 それしか言えなかった。言い返せなかった。
 相手は口ばかり達者な日本人なのに、一発拳をくれてやればそれで参っちまうような軟弱な奴なのに、ストリートで喧嘩慣れしたこの俺が気圧されて何もいえなくなっちまうほど鍵屋崎の眼光は力強かった。小脇に本を抱えた鍵屋崎が書架と書架の間に消えてゆく。
 ガン!!
 腹立ち紛れに机を蹴る。足が痺れた。俺に八つ当たりされた机が斜めにずれ、最前まで鍵屋崎が座っていた椅子が連動して倒れる。知るか。頼まれてもないのに手紙を書こうなんて発起する奴の気がしれねえ、だれからも必要とされてないのにアイツときたらまだ縋ってる、まだ諦めてないのかよ。
 まったく情けない奴だ、どこかのだれかそっくりの。
 「畜生、俺じゃねえか…………」
 鍵屋崎は俺にそっくりだ。本当に、嫌になるほど。 
 漫画を読む気は失せた。
 図書室までやってきながら鍵屋崎のお高くとまったツラを見て読書意欲がすっかり失せてしまった。仕方なく椅子を立ち、もときた廊下を引き返す。幸い凱の子分に見咎められることなくカウンターの前を通過し、東棟へと戻る渡り廊下を歩く。すれ違う囚人すれ違う囚人片っ端から胸ぐらを掴んで殴り倒したい気分だ、いつもは抑制してる暴力衝動が理性の枷を破って沸々とこみあげてくる。
 耳によみがえるのは自分の声。
 『まったく日本人ってのは物好きだよな、わざわざ檻の中から手紙を書いて出そうなんて奴の気がしれねえ。頼まれたわけでもねーのによ』
 頼まれたわけでもないのに、必要とされてるわけでもないのに。
 『娑婆から手紙がきたんならわかるよ、返事をだすのが礼儀だもんな。でも』
 娑婆から手紙が届けば返事をだす口実ができる、手紙をだす口実ができる。でも。
 『お前にいつ手紙がきたんだよ』
 俺に、お前に、いつ手紙がきたんだ?なんで娑婆から手紙が届いてもないのに相手に書こうなんて気を起こすんだ。そんなのただの道化じゃねえか、みじめすぎて滑稽すぎて笑えもしねえ。11の時アパートを飛び出てからお袋とは会ってない、お袋が今でもあのアパートに住んでる保証はどこにもない。手紙を出したところで住所不定で戻ってきてしまう可能性は捨てきれない、いや、それよりなにより俺から手紙が届いたところであのお袋が涙を流して喜ぶか?とうの昔に喧嘩別れしたきり行方不明の音沙汰知れずだったガキから今頃手紙が届いたところで母性愛に目覚めるようなタマかよ、あの淫売が。
 なんで見返りを期待せずにそんなことができる?
 傷つくだけだと、さらに絶望を深めるだけだと諦観していながら自分から手紙を出すなんて真似ができるんだ?
 俺と鍵屋崎は似てるけど俺にはアイツがわからない。俺は生まれも育ちも卑しい人間だ、淫売の台湾人と放蕩者の中国人の間に生まれた薄汚い混血だ。だから性根まで卑しいのか、考え方まで卑しくなるのか?
 俺にはできない。
 期待して裏切られるのはごめんだ、拒絶されるのはいやだ。俺はずっとお袋に振り向いてほしかった、ガキの頃からずっと。11で家を出てやっと未練を吹っ切ったと思ったのに、いまさら、こんなー……

 『書きたいから書くんだ。自己満足で悪いか』  
 なんでアイツは、拒絶されるのが怖くないんだ?

 「なんだこりゃあ」
 条件反射で体が強張る。
 場所は東棟の廊下。房に帰ろうと歩いていた俺の足をその場に縫い止めたのは酒焼けした野太い声ー……天敵のタジマの声。イエローワークの仕事が終了して中央棟の詰め所に戻ろうとしていたところらしい。よりにもよってタジマとでくわしちまうなんてと自分の運の悪さを呪ったのも束の間、奴の手に掲げられている白い封筒にぎょっとする。
 図書室の光景がフラッシュバックする。
 椅子に腰掛けた鍵屋崎、開かれた本のページ、その間に挟まれていたのは白い封筒―……タジマが手にしているのと同じ封筒。
 廊下の角に隠れ、少しだけ顔をだす。手中の封筒をじろじろ眺めていたタジマの眉間に皺が寄る。
 「なになに宛名は『鍵屋崎 恵様』……鍵屋崎だあ?」
 やばい。
 封筒を裏返して差出人名を確かめたタジマ、すっと眉間の皺が晴れ、絵に描いたような企み顔に切り替わる。
 「あのクソかわいげねえ親殺しの手紙がなんでこんなとこに落ちてんだよ。……にしても、看守の許可なく娑婆の身内に手紙だそうなんてこずるいこと考えるじゃねえか。さすがIQ180の天才は出来が違う、どっからか封筒まで手に入れやがって」
 なんでこんな廊下のど真ん中に手紙を落としたまま気付かないで行っちまうんだよ。
 声を大にして鍵屋崎を罵りたいが生憎と本人の姿は跡片もない。廊下のど真ん中を占領してすれ違う囚人の注意を浴びているのはタジマとその隣の看守……名前はたしか五十嵐。短気で傲慢で囚人よりタチの悪い奴ばかりと盛大に嘆かれる東京プリズンの看守の中では、珍しく囚人を人間扱いしてくれる出来た看守だ。その五十嵐を振り返り、にやにやとタジマが続ける。
 「中、見てみるか」
 「よせよ」
 五十嵐が諌める。が、タジマはこれを無視。まだ糊付けされてなかった封筒を逆さにして便箋をとりだすや、ざっと目を通しにかかる。
 「どうした」
 ぎょっとする。
 背後に人の気配を感じて振り向けば半紙を抱えたサムライがいた。
 「お前なんでここに!?」
 「これを干しに行っていた。扉を閉めきった房より風が通る展望台のほうが墨の乾きが早い」 
 まだ墨の匂いも芳しい写経の束を抱えたサムライが前方のタジマに気付き、スッと目を細める。脳裏で警鐘が鳴り響き、瞼の裏側で危険信号が点滅する。破れ鐘のような笑い声で我に返る。壁に隠れて覗き見れば、手紙を握り締めたタジマが大量の唾を撒き散らして爆笑していた。 
 「おい、これ読んでみろよ!笑えるぜ、くそったれの親殺しの分際で実の妹相手にゃずいぶん下手にでてるじゃねえか。シスコンだって噂は本当だったんだなあ、恵恵って何回妹の名前だしてんだよおい」
 「親殺し」の単語にサムライが反応し、俺を押しのけて前にでる。サムライの肩越しに繰り広げられるのはタジマの哄笑とその傍らに立ち尽くす五十嵐のあきれ顔。
 「お前ら、これ見ろよ!」
 渋面を作った同僚を無視し、廊下を行き交う囚人にタジマが呼びかける。なんだなんだと物見高い野次馬が周囲に集まりだしたのに気をよくしたタジマが頭上に高々と手紙を掲げて演説を打つ。
 「この手紙の差出人だれだと思う?聞いて驚け、親殺しの鍵屋崎だ!」
 「かぎやざき?」「サムライと同房の?」「イエローワークだよな」「メガネの」……ひそひそと囁き交わされる声に混じるのは露骨な好奇心と興奮の色。潮騒の如くざわめき始めた囚人を満足げに見下ろし、周囲によく見えるよう頭上に掲げた手紙を打ち振るタジマ。
 「あの天才気取りのクソガキめ、看守に無断で手紙を書いてやがったんだがその内容ときたら……元気にしてるか?さびしくないか?ちゃんと食事はとってるか?だとよ!まるっきり妹にぞっこんの情けねえ兄貴じゃねえか、でれでれ鼻の下のばしながら手紙書いてるところが目に浮かぜ」
 タジマの手の中でがさがさと手紙が鳴り、その光景を想像した囚人たちの間から失笑が漏れる。
 陰湿な喜びに目を炯炯と輝かせたタジマがかん高い声を張り上げる。
 「留めは最後の一行だ。なにもできない、だめなおにいちゃんですまなかった、だとよ!キャラ違うじゃねえか気色わりぃ!!」
 演技感情に最後の一文を読み上げたタジマに囚人が腹を抱えて爆笑する。本気で笑ってる奴もいるだろうが、タジマに追従して大袈裟に笑い転げてる奴も三割はいるだろう。爆笑の渦に包まれた廊下で平静を保ってるのは俺とサムライとあと一人、五十嵐だけ。
 「そのへんにしとけよ」
 さすがに見かねた五十嵐がタジマに注意するが本人に聞き入れる様子はない。制服の胸ポケットからライターを取り出し、親指を上下させてスイッチを押しこむ。
 いやな、予感。
 下劣な笑みを満面に湛え、ライターの火に手紙の角を翳したタジマの腕がぐいと掴まれる。五十嵐が怖い顔をしていた。
 「やりすぎだ、かわいそうだろう」
 「囚人に同情するのかよ」
 「見ろよ。その手紙、何度も消して書き直したあとがあるじゃねえか」
 ちらりと手紙を一瞥するタジマ。しらけた目。
 俺の視線の先、ふたたび五十嵐に向き直ったタジマの言葉に耳を疑う。
 「だからどうした?俺が書いたんじゃねえ」
 絶句した五十嵐がさらになにか言い募ろうとしたのを制したのはタジマの意味ありげな微笑。
 「偽善ぶるなよ、五十嵐。本音じゃここの囚人を憎んでも憎みたりねえくせに」 
 瞬間、五十嵐の目に生じたのは狼狽の波紋。負の感情の汚濁が裂け目から迸るような悲痛な眼差し。
 「………どういう意味だ?」
 「そのとおりの意味だ」
 狼狽した五十嵐の腕を力づくで振りほどき、ライターの火で手紙を炙る。

 ライターの火が手紙に燃え移るのはあっというまだった。

 手紙の右端に点じた炎はみるみる領域を拡大し、便箋を黒く変色させてゆく。焦げ臭い臭気があたりにたちこめ、火に炙られたタジマの顔が地獄の悪鬼の形相に変貌する。タジマの手の中で燃え尽きた便箋がパサリと廊下に落ちる。
 いつのまにか、あれだけうるさかった廊下がしんとしていた。
 水を打ったように静まり返った廊下に響くのはどこか空疎なタジマの哄笑。  
 「せいせいしたぜ。親殺しの手垢がついた手紙なんて長いことさわってたら俺まで親不孝菌が伝染っちまうよ、灰にして空気に返すのが正しいやり方だ。仙台の妹に届かなくて残念だったけどよ、まあ、てめえの親父とお袋を殺した兄貴からの手紙なんて迷惑なだけだよな。両親亡くして傷ついてる女の子をこの上さらに哀しませずに済んでよかったぜ、鍵屋崎にゃ感謝して欲しいもんだな。ああ、今回の礼はケツで払ってくれりゃそれでいいよ!この前はトイレで首締められて興醒めしたからな、今度はちゃんと房のベッドで」

 目の前からサムライの背中が消失。 
 
 廊下に舞い散ったのはサムライの手からこぼれおちた半紙の束。ひらひらと空中を滑ってゆく薄っぺらい半紙にほんの数日前の光景が重なる。展望台のへりに立った孤独な背中、鍵屋崎の手からこぼれた無数の紙片が白い雪のように風に乗り、あたり一面に散らばってゆく。
 あの日の鍵屋崎の背中が今、タジマのもとへ大股に歩んでゆくサムライの背中に被さる。
 「アイツの細腕を組み敷いて細腰を突いて教えてやる、なくした手紙がどうなったか、大事な妹が仙台くんだりの病院でどうしてるか―……」
 ヤニくさい歯を剥きだして念入りに灰を踏みにじっていたタジマは、しかし、最後まで言いきることができなかった。

 サムライが、タジマを殴ったからだ。
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