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七十三話
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裸電球の光が目に痛い。
天井中央に吊られた裸電球が投じるわずかな明かりをたよりに毛布にくるまり、固くしけったマットレスに横たわり便箋を読み返す。書いては消し書いては消し、その不毛な繰り返しについに終止符を打つ。便箋に散った消しゴムの滓を手で払い、冒頭から末尾まで一気に読み返す。 強制労働終了後はその足で図書室に行き目立たない机の隅で手紙を書いたが、自由時間終了と同時に図書室は閉鎖される。図書室を閉め出された後は房に帰って手紙を書き続け、睡眠時間を削って何度も内容を練り直した。深夜、囚人がちゃんと就寝しているかどうか看守が確かめにきたときは裸電球を消し、毛布にくるまって寝たふりをした。
格子窓から中を覗き、納得した看守が房の前を去るのを辛抱強く待ち、遠慮がちに裸電球を点けて枕の下に隠した便箋と鉛筆を引っ張り出す。
とにかく時間が惜しかった。一刻も早く完成させなければと気が急くばかりで一向に納得のいくものができない、何度読み返して熟考しても完璧とはほど遠い稚拙な仕上がりになってしまう。違う、僕が書きたいのはこんな手紙じゃない、こんな陳腐な手紙じゃない。そう思って何度文章を消したことだろう。
でも、これ以上は無理だ。どんなに足掻いてもこれ以上の手紙は書けそうにない。
今の自分の気持ちをありのままに言葉にすることができたか自信はない。できるだけ率直に書くよう心がけたつもりだがこの手紙を恵が読んでくれるという保証はない。それでも書かずにはいられなかった、体の底に溜まった澱のようなものを吐き出さずにはいられなかった。ようやく完成した手紙を裸電球に透かし、恵の顔を重ねる。今は仙台の小児精神病棟に収容されている最愛の妹の顔。
「サムライ、起きているか」
隣のベッドに控えめに声をかける。反応はない。熟睡しているのだろうかと訝しんだ僕の耳をかすかな声が打つ。
「…………なんだ」
寝起きの不機嫌そうな声だ。毛布にくるまり背中を向けたままのサムライにちらりと目をやりどう切り出したらいいものかと逡巡する。毛布をどけてベッドに腰掛ける。こちらに背中を向けたままのサムライを見つめ、ごくりと唾を飲み下す。
「手紙を読んで欲しいんだ。いいか?」
こんな時間に非常識な、という考えが脳裏を掠めなかったわけではない。
今は深夜だ、夜明けもさほど遠くない時刻だろう。常識的な囚人ならぐっすりと寝入っている頃合だ。サムライも僕が声をかけるまでは熟睡していたのかもしれない、気のせいか声のトーンがいつもより低かった。朝まで、せめて強制労働終了後の自由時間まで待てないものかと自制する気持ちも片方ではあったが生殺しの状態ではそれまで保ちそうにないのが本音だ。
早くこの手紙を恵に届けたい、今の気持ちを恵に伝えたい。
だから―……この手紙が妹に出して恥ずかしくないものか、冷静かつ公平な目を持った第三者に確かめて欲しい。
固唾を呑んでサムライの反応を待つ。裸電球の薄ぼやけた光の下でサムライが寝返りを打ち、毛布をはだけて起き上がる。ベッドに上体を起こしたサムライが体ごと僕に向き直る。
「貸せ」
無造作に突き出された片手に肩の力を抜く。どうやら読んでくれるらしい。サムライの方に身を乗り出し、痩せさらばえた手に便箋を渡す。手紙を渡すとき、てのひらを深々と抉った古い刀傷が目に入った。サムライがサムライたる証、幼少期からの過酷な修行を物語る傷痕。
僕が傷痕に見入っていることに気付いたか、スッと手をひっこめたサムライが淡白な無表情で手紙に目を落とす。
静寂。
裸電球がジジジ、と唸る音さえ聞こえてきそうな重苦しい沈黙だった。裸電球の領域の外には闇の帳が落ちている。壁を通して聞こえてくるのは悪夢にうなされる囚人の寝言と衣擦れ音だけだ。
長かった。実際にはそれほど経過してないのだろうか、体感時間では半日にも等しかった。
所在なげにベッドに腰掛けた僕は落ち着きなく五指を組み換えつつサムライを盗み見る。何を考えてるか他人に悟らせない無表情は相変わらずだが、かさりと便箋をめくる手つきは無骨な指に似合わぬほど優しく繊細だ。
「前略」
サムライがおもむろに一言を発し、危うく心臓が止まりそうになる。
はじかれたように顔を上げた僕を鋭い目で一瞥し、サムライが音読を始める。やめろ、そのさきは言うな、何も音読することはないだろうと声を荒げかけたが今が深夜で付近を看守が巡回している可能性があることを思い出し、ハッと口を閉ざす。
『前略
恵、元気にしているか。
僕は元気とは言えないが、二ヶ月が経って刑務所での生活にも慣れてきた頃だ。
ここでの生活ははっきり言ってきつい。囚人にはプライバシーが存在しない、なにをするにも厳しく規則と時間が定められている。
唯一の娯楽は読書だ。
東京少年刑務所には蔵書の充実した図書室があり、強制労働終了後の自由時間はいつも囚人たちで賑わっている(最も図書室が賑わっていては困るのだが)驚いたことに漫画もある。僕は漫画なんて下等な書物は読まないから関係ないが、囚人たちにはシェークスピアやドエトエフスキーなどの古典文学よりよほど需要があるらしい。漫画の書架がある一角だけ異常に人の出入りが激しいのはそのためだ。他の囚人は図書閲覧が目的ではなく、気の合う仲間とだべるのが目的で図書室に入り浸っている。本当に低俗な連中だ、ひとり本を読みながら彼らの猥褻なジョークや下品な笑い声を隣で聞かされる僕の身にもなってほしい。図書室はあくまで本を読む場所であって大きな声をあげて雑談に興じるところでは断じてないと主張したい。
……こんな話つまらないな。手紙を書くのは初めてだから、なにをどう書き始めたらいいかわからないんだ。
僕のことなんかどうでもいい、知りたいのは恵のことだ。
ある看守から恵は今仙台の小児精神病棟にいると聞いた。本当にそうなのか?……なんだか間抜けな質問だな。東京少年刑務所にいる限り外の情報は殆ど入ってこない、たとえ外で大地震が起きても東京少年刑務所では変わりない日常が続くんじゃないかと思わせるほどだ。囚人の手に渡る情報は厳しく制限されている。実際図書室に足を運んでも新聞を見ることはできない、図書室の蔵書は豊富だと前に述べたが現在の世相を知るための手がかりとなる新聞や雑誌は一切おかれてないのが実状だ。それには一応理由がある。事件を報じるのを主目的とした新聞や雑誌には東京少年刑務所に収監された囚人の顔写真や履歴が記載されていることがままある。看守の口から囚人のプライバシーがもれることはあるとしても表向きにはプライバシー保護の方針が生きているため、『上』が雑誌や新聞を検閲して東京刑務所に送致されてきた囚人のデータが看守以外の人間の目に触れることがないようはからってるんだ。
だからここには、外の情報が一切届かない。外で起こった出来事はすべて看守の口を介して知らされるだけで真偽を確かめる術もない。
僕は看守の言葉を信用するしかない……彼は嘘を言っているようには見えなかった。
恵。お前はたぶん、本当に仙台の小児精神病棟にいるんだろう。
あの出来事が起きてから、お前は八王子の叔母夫婦に預けられたと取調室で聞かされた。実はそう聞かされて、少しだけ安心したんだ。 子供のいない叔母夫婦は恵のことを実の娘のように可愛がっていたし、お前もすごく懐いていただろう。
あんな家にいるよりその方がずっといいと、心のどこかでそう思っていたんだ。
思ってしまったんだ。
馬鹿だった。
僕は本当に浅はかだった。両親を殺されてひとりぼっちになった恵がそれで喜ぶはずがないのに、叔母夫婦のもとで幸せになれるわけがないのに、ただ彼らのほうが人の子の親として相応しい人間だという一点で楽観していた僕はどうしようもなく馬鹿だった。
いまさらこんなこと聞きたくないよな。
僕はもう、恵の兄である資格を失ってしまったんだから。
恵、教えてくれ。
今どうしてる。元気にしてるか?不自由はないか?病院の食事はおいしいか?
小さい頃、恵は絵を描くのが好きだったよな。あの家にいた頃もひとりでずっと絵を描いてた。クレヨンを握って脇目もふらずに熱中して、僕が声をかけても気付かないことがよくあった。
あれはまだ恵が六歳ぐらいの頃だ。
自分の部屋で本を読んでいた僕のところに画用紙いっぱいにクレヨンを塗りたくった絵を持ってきてくれた。父親でも母親でもなく、完成した絵をいちばんに僕に見せにきてくれた。
その絵には四人の人間が描かれていた。
僕と恵と、父と母と。
……たぶん、あれは僕だよな。メガネらしきまるいものをかけていたし、そうだと思うんだが。両手の指が六本あるように見えたのはかなり斬新な抽象表現だな、ピカソの再来かと思った。
両親はすぐにわかった。お世辞じゃなくてよく描けていたぞ。あのむすっとした顔はそっくりだった。恵はピアノだけじゃなくて絵の才能もあるな。
その四人は手をつないでいた。
最初僕はなんで手をつないでるのか不思議だった。実際のぼくたちは一度も手をつないだことがない。いや、それ以前に親子で手をつないでどこかへ遊びにでかけることがなかったから『手をつなぐ』という行為が意味するものがよくわからなかった。
だって、手なんてさわったら汚いじゃないか。
僕はもう物心ついたときからそう思っていた。今思い返せば父の影響だ。父は僕以上の潔癖症で常に身辺を清潔に保っていたし、一つ屋根の下の家族にもそうするよう強制していた。ノブに手形がつくのを毛嫌いし、塵ひとつでも机に残っていれば家政婦を呼びつけて容赦なく叱責するような狭量な男だった、彼は。……僕と似てるな。
だから最初その絵を見た時、ただただ疑問だったんだ。なんで彼らが手をつないでいるのかわからなくて恵に聞いてみたら、たしかこう答えたよな。
『普通の家族ならこうするよ』って。
今でも疑問なんだが、恵はどこで普通の基準を知ったんだ?
テレビか?それとも学校か?
僕はそんなこと知らなかった。あの家が、あの両親こそ僕にとっての「普通」の基準だったんだ。
でも今思えば、恵がそれを絵に描いたというのは無意識の願望の表出だったんじゃないか?
現実には手をつないだことない家族が絵の中では手をつないでいた。恵はずっとそうしたかったんじゃないか?普通の家族がしているようにみんなで手をつなぎたかったんじゃないか?
僕は今でも人にさわるのが不快でしょうがない。人にさわられるのも同様だ。手をつなぐなんて冗談じゃない、そんな気持ち悪いことはしたくない……ただひとりの例外を除いては。
その例外が恵だったんだ。
叔母の家にピアノがあるかどうかは知らないし病院にはたぶんピアノがないだろうから、今恵ができることといえば絵を描くことくらいだ。違うか?世田谷の家にあったピアノはどうなったんだろう、業者に処分されてしまったんだろうか。
また恵のピアノが聞きたい。またショパンを聞かせて欲しい。
……なんて、無理だよな。嫌だよな。恵はもう僕の顔なんか見たくないだろうし、いっそ存在自体を忘れてしまいたいだろう。
……こんなことを言えた立場じゃないのは十分すぎるほどわかってる。
でも、ひとつだけ頼みがある。図々しい願いだと承知している、理解している。
全部わかった上で、これだけは言わせてくれ。
僕のことを憎んでかまわないから、忘れないでほしい。
僕の存在を『無かったこと』にしないでほしい。
わかっている。いっそ僕のことなんか忘れてしまったほうが恵がラクになれるとわかってるんだ。
こんな最低の人間のことなんて一日も早く忘れてしまうに限る、十五年一つ屋根の下で暮らした両親を刺殺するような見下げ果てた人間のことなど覚えていても意味がない。
恵だって、自分をひとりぼっちにした人間のことなんか覚えていたくないだろう。
あの日僕に死んでほしいと言ったのは誓って本当だろう。
だが、僕はまだ死ねそうにない。
……恵から両親を奪っておいて自分は死ねないなんて、図々しいな。でも、時間の問題だと思う。心が先か体が先かはわからないが僕が死ぬ日はそう遠くない気がする。僕の懲役は八十年、八十年たったら九十五歳だ。懲役刑を生きて終えるのはまず絶望的だ。
どのみち恵が生きている間はここを出られそうにない。
僕はもう二度と恵に逢えない……なにをいまさら、だ。両親を殺して恵をひとりぼっちにさせておいて合わす顔もないだろうに。
だからせめて、僕のことを忘れないでほしい。
恵の記憶から消されたら僕の存在には何の意味もなくなってしまう、僕の人生には何の意義もなくなってしまう。
贅沢な願いだ。贅沢な望みだ。
親殺しの人殺しのくせに自分の立場もわきまえないでこんなことを言い出すなんてと恵は軽蔑するだろう。
それでいいんだ。永遠に憎まれることで恵の心の片隅に存在できるなら、それで十分だ。
……鉛筆をおいて読み返してみたが、主旨のよくわからない変な手紙になってしまった。
おまけに支離滅裂でまとまりのない文章で、とても僕のような天才が書いたものとは思えない。論文を書くようにスムーズにいけばいいのに、なんで手紙を書くのにこんなに時間がかかるんだろう。
長々と書いてしまったが、これで終わりにする。
恵が嫌ならもう手紙は書かない、これきりにする。…返事は書かなくていい。書いてくれれば嬉しいけど本来僕は強要できる立場じゃない、この手紙を読むという行為そのものが恵に苦痛を強いることを考えればこれきりにするのが最善だろう。
最後に、恵がまたピアノが弾ける日がくることを祈ってる。心の底から』
……長い長い沈黙だった。
手紙から顔を上げたサムライがまっすぐに僕を見る。
「いい手紙だ」
サムライの笑顔を見るのは初めてだ。
ひどく落ち着いて大人びた笑い方だが、思っていたより年寄りくさくはない。
笑うと老ける人間と若く見える人間がいるというがサムライはどうやら後者のタイプだったらしい、と関係ないことを考えていたのは顔が熱くてその目を直視する勇気が湧かなかったからだ。
ベッドから腰をあげ、サムライの手から手紙を毟り取る。サムライに背を向けて自分のベッドに戻り、枕元の鉛筆を手に取り命じる。
「サムライ、僕がいいと言うまでむこうを向いていてくれないか」
「?なぜだ」
「いいから。絶対に振り向くなよ」
それ以上は追及せずサムライが壁の方を向いたのを確かめ、便箋の末尾、最後の一行を書き加える。サムライに読まれることを前提にしたらどうしても書けなかった最後の一行を。
『なにもできない、だめなお兄ちゃんですまなかった』
句点を打ってから振り向き、サムライが壁の方を向いたままでいるのを確かめて心底安堵する。
よりにもよってサムライに声にだして最後の一行を読まれるくらいなら、今この場で蒸発して消えてしまったほうがマシだ。
天井中央に吊られた裸電球が投じるわずかな明かりをたよりに毛布にくるまり、固くしけったマットレスに横たわり便箋を読み返す。書いては消し書いては消し、その不毛な繰り返しについに終止符を打つ。便箋に散った消しゴムの滓を手で払い、冒頭から末尾まで一気に読み返す。 強制労働終了後はその足で図書室に行き目立たない机の隅で手紙を書いたが、自由時間終了と同時に図書室は閉鎖される。図書室を閉め出された後は房に帰って手紙を書き続け、睡眠時間を削って何度も内容を練り直した。深夜、囚人がちゃんと就寝しているかどうか看守が確かめにきたときは裸電球を消し、毛布にくるまって寝たふりをした。
格子窓から中を覗き、納得した看守が房の前を去るのを辛抱強く待ち、遠慮がちに裸電球を点けて枕の下に隠した便箋と鉛筆を引っ張り出す。
とにかく時間が惜しかった。一刻も早く完成させなければと気が急くばかりで一向に納得のいくものができない、何度読み返して熟考しても完璧とはほど遠い稚拙な仕上がりになってしまう。違う、僕が書きたいのはこんな手紙じゃない、こんな陳腐な手紙じゃない。そう思って何度文章を消したことだろう。
でも、これ以上は無理だ。どんなに足掻いてもこれ以上の手紙は書けそうにない。
今の自分の気持ちをありのままに言葉にすることができたか自信はない。できるだけ率直に書くよう心がけたつもりだがこの手紙を恵が読んでくれるという保証はない。それでも書かずにはいられなかった、体の底に溜まった澱のようなものを吐き出さずにはいられなかった。ようやく完成した手紙を裸電球に透かし、恵の顔を重ねる。今は仙台の小児精神病棟に収容されている最愛の妹の顔。
「サムライ、起きているか」
隣のベッドに控えめに声をかける。反応はない。熟睡しているのだろうかと訝しんだ僕の耳をかすかな声が打つ。
「…………なんだ」
寝起きの不機嫌そうな声だ。毛布にくるまり背中を向けたままのサムライにちらりと目をやりどう切り出したらいいものかと逡巡する。毛布をどけてベッドに腰掛ける。こちらに背中を向けたままのサムライを見つめ、ごくりと唾を飲み下す。
「手紙を読んで欲しいんだ。いいか?」
こんな時間に非常識な、という考えが脳裏を掠めなかったわけではない。
今は深夜だ、夜明けもさほど遠くない時刻だろう。常識的な囚人ならぐっすりと寝入っている頃合だ。サムライも僕が声をかけるまでは熟睡していたのかもしれない、気のせいか声のトーンがいつもより低かった。朝まで、せめて強制労働終了後の自由時間まで待てないものかと自制する気持ちも片方ではあったが生殺しの状態ではそれまで保ちそうにないのが本音だ。
早くこの手紙を恵に届けたい、今の気持ちを恵に伝えたい。
だから―……この手紙が妹に出して恥ずかしくないものか、冷静かつ公平な目を持った第三者に確かめて欲しい。
固唾を呑んでサムライの反応を待つ。裸電球の薄ぼやけた光の下でサムライが寝返りを打ち、毛布をはだけて起き上がる。ベッドに上体を起こしたサムライが体ごと僕に向き直る。
「貸せ」
無造作に突き出された片手に肩の力を抜く。どうやら読んでくれるらしい。サムライの方に身を乗り出し、痩せさらばえた手に便箋を渡す。手紙を渡すとき、てのひらを深々と抉った古い刀傷が目に入った。サムライがサムライたる証、幼少期からの過酷な修行を物語る傷痕。
僕が傷痕に見入っていることに気付いたか、スッと手をひっこめたサムライが淡白な無表情で手紙に目を落とす。
静寂。
裸電球がジジジ、と唸る音さえ聞こえてきそうな重苦しい沈黙だった。裸電球の領域の外には闇の帳が落ちている。壁を通して聞こえてくるのは悪夢にうなされる囚人の寝言と衣擦れ音だけだ。
長かった。実際にはそれほど経過してないのだろうか、体感時間では半日にも等しかった。
所在なげにベッドに腰掛けた僕は落ち着きなく五指を組み換えつつサムライを盗み見る。何を考えてるか他人に悟らせない無表情は相変わらずだが、かさりと便箋をめくる手つきは無骨な指に似合わぬほど優しく繊細だ。
「前略」
サムライがおもむろに一言を発し、危うく心臓が止まりそうになる。
はじかれたように顔を上げた僕を鋭い目で一瞥し、サムライが音読を始める。やめろ、そのさきは言うな、何も音読することはないだろうと声を荒げかけたが今が深夜で付近を看守が巡回している可能性があることを思い出し、ハッと口を閉ざす。
『前略
恵、元気にしているか。
僕は元気とは言えないが、二ヶ月が経って刑務所での生活にも慣れてきた頃だ。
ここでの生活ははっきり言ってきつい。囚人にはプライバシーが存在しない、なにをするにも厳しく規則と時間が定められている。
唯一の娯楽は読書だ。
東京少年刑務所には蔵書の充実した図書室があり、強制労働終了後の自由時間はいつも囚人たちで賑わっている(最も図書室が賑わっていては困るのだが)驚いたことに漫画もある。僕は漫画なんて下等な書物は読まないから関係ないが、囚人たちにはシェークスピアやドエトエフスキーなどの古典文学よりよほど需要があるらしい。漫画の書架がある一角だけ異常に人の出入りが激しいのはそのためだ。他の囚人は図書閲覧が目的ではなく、気の合う仲間とだべるのが目的で図書室に入り浸っている。本当に低俗な連中だ、ひとり本を読みながら彼らの猥褻なジョークや下品な笑い声を隣で聞かされる僕の身にもなってほしい。図書室はあくまで本を読む場所であって大きな声をあげて雑談に興じるところでは断じてないと主張したい。
……こんな話つまらないな。手紙を書くのは初めてだから、なにをどう書き始めたらいいかわからないんだ。
僕のことなんかどうでもいい、知りたいのは恵のことだ。
ある看守から恵は今仙台の小児精神病棟にいると聞いた。本当にそうなのか?……なんだか間抜けな質問だな。東京少年刑務所にいる限り外の情報は殆ど入ってこない、たとえ外で大地震が起きても東京少年刑務所では変わりない日常が続くんじゃないかと思わせるほどだ。囚人の手に渡る情報は厳しく制限されている。実際図書室に足を運んでも新聞を見ることはできない、図書室の蔵書は豊富だと前に述べたが現在の世相を知るための手がかりとなる新聞や雑誌は一切おかれてないのが実状だ。それには一応理由がある。事件を報じるのを主目的とした新聞や雑誌には東京少年刑務所に収監された囚人の顔写真や履歴が記載されていることがままある。看守の口から囚人のプライバシーがもれることはあるとしても表向きにはプライバシー保護の方針が生きているため、『上』が雑誌や新聞を検閲して東京刑務所に送致されてきた囚人のデータが看守以外の人間の目に触れることがないようはからってるんだ。
だからここには、外の情報が一切届かない。外で起こった出来事はすべて看守の口を介して知らされるだけで真偽を確かめる術もない。
僕は看守の言葉を信用するしかない……彼は嘘を言っているようには見えなかった。
恵。お前はたぶん、本当に仙台の小児精神病棟にいるんだろう。
あの出来事が起きてから、お前は八王子の叔母夫婦に預けられたと取調室で聞かされた。実はそう聞かされて、少しだけ安心したんだ。 子供のいない叔母夫婦は恵のことを実の娘のように可愛がっていたし、お前もすごく懐いていただろう。
あんな家にいるよりその方がずっといいと、心のどこかでそう思っていたんだ。
思ってしまったんだ。
馬鹿だった。
僕は本当に浅はかだった。両親を殺されてひとりぼっちになった恵がそれで喜ぶはずがないのに、叔母夫婦のもとで幸せになれるわけがないのに、ただ彼らのほうが人の子の親として相応しい人間だという一点で楽観していた僕はどうしようもなく馬鹿だった。
いまさらこんなこと聞きたくないよな。
僕はもう、恵の兄である資格を失ってしまったんだから。
恵、教えてくれ。
今どうしてる。元気にしてるか?不自由はないか?病院の食事はおいしいか?
小さい頃、恵は絵を描くのが好きだったよな。あの家にいた頃もひとりでずっと絵を描いてた。クレヨンを握って脇目もふらずに熱中して、僕が声をかけても気付かないことがよくあった。
あれはまだ恵が六歳ぐらいの頃だ。
自分の部屋で本を読んでいた僕のところに画用紙いっぱいにクレヨンを塗りたくった絵を持ってきてくれた。父親でも母親でもなく、完成した絵をいちばんに僕に見せにきてくれた。
その絵には四人の人間が描かれていた。
僕と恵と、父と母と。
……たぶん、あれは僕だよな。メガネらしきまるいものをかけていたし、そうだと思うんだが。両手の指が六本あるように見えたのはかなり斬新な抽象表現だな、ピカソの再来かと思った。
両親はすぐにわかった。お世辞じゃなくてよく描けていたぞ。あのむすっとした顔はそっくりだった。恵はピアノだけじゃなくて絵の才能もあるな。
その四人は手をつないでいた。
最初僕はなんで手をつないでるのか不思議だった。実際のぼくたちは一度も手をつないだことがない。いや、それ以前に親子で手をつないでどこかへ遊びにでかけることがなかったから『手をつなぐ』という行為が意味するものがよくわからなかった。
だって、手なんてさわったら汚いじゃないか。
僕はもう物心ついたときからそう思っていた。今思い返せば父の影響だ。父は僕以上の潔癖症で常に身辺を清潔に保っていたし、一つ屋根の下の家族にもそうするよう強制していた。ノブに手形がつくのを毛嫌いし、塵ひとつでも机に残っていれば家政婦を呼びつけて容赦なく叱責するような狭量な男だった、彼は。……僕と似てるな。
だから最初その絵を見た時、ただただ疑問だったんだ。なんで彼らが手をつないでいるのかわからなくて恵に聞いてみたら、たしかこう答えたよな。
『普通の家族ならこうするよ』って。
今でも疑問なんだが、恵はどこで普通の基準を知ったんだ?
テレビか?それとも学校か?
僕はそんなこと知らなかった。あの家が、あの両親こそ僕にとっての「普通」の基準だったんだ。
でも今思えば、恵がそれを絵に描いたというのは無意識の願望の表出だったんじゃないか?
現実には手をつないだことない家族が絵の中では手をつないでいた。恵はずっとそうしたかったんじゃないか?普通の家族がしているようにみんなで手をつなぎたかったんじゃないか?
僕は今でも人にさわるのが不快でしょうがない。人にさわられるのも同様だ。手をつなぐなんて冗談じゃない、そんな気持ち悪いことはしたくない……ただひとりの例外を除いては。
その例外が恵だったんだ。
叔母の家にピアノがあるかどうかは知らないし病院にはたぶんピアノがないだろうから、今恵ができることといえば絵を描くことくらいだ。違うか?世田谷の家にあったピアノはどうなったんだろう、業者に処分されてしまったんだろうか。
また恵のピアノが聞きたい。またショパンを聞かせて欲しい。
……なんて、無理だよな。嫌だよな。恵はもう僕の顔なんか見たくないだろうし、いっそ存在自体を忘れてしまいたいだろう。
……こんなことを言えた立場じゃないのは十分すぎるほどわかってる。
でも、ひとつだけ頼みがある。図々しい願いだと承知している、理解している。
全部わかった上で、これだけは言わせてくれ。
僕のことを憎んでかまわないから、忘れないでほしい。
僕の存在を『無かったこと』にしないでほしい。
わかっている。いっそ僕のことなんか忘れてしまったほうが恵がラクになれるとわかってるんだ。
こんな最低の人間のことなんて一日も早く忘れてしまうに限る、十五年一つ屋根の下で暮らした両親を刺殺するような見下げ果てた人間のことなど覚えていても意味がない。
恵だって、自分をひとりぼっちにした人間のことなんか覚えていたくないだろう。
あの日僕に死んでほしいと言ったのは誓って本当だろう。
だが、僕はまだ死ねそうにない。
……恵から両親を奪っておいて自分は死ねないなんて、図々しいな。でも、時間の問題だと思う。心が先か体が先かはわからないが僕が死ぬ日はそう遠くない気がする。僕の懲役は八十年、八十年たったら九十五歳だ。懲役刑を生きて終えるのはまず絶望的だ。
どのみち恵が生きている間はここを出られそうにない。
僕はもう二度と恵に逢えない……なにをいまさら、だ。両親を殺して恵をひとりぼっちにさせておいて合わす顔もないだろうに。
だからせめて、僕のことを忘れないでほしい。
恵の記憶から消されたら僕の存在には何の意味もなくなってしまう、僕の人生には何の意義もなくなってしまう。
贅沢な願いだ。贅沢な望みだ。
親殺しの人殺しのくせに自分の立場もわきまえないでこんなことを言い出すなんてと恵は軽蔑するだろう。
それでいいんだ。永遠に憎まれることで恵の心の片隅に存在できるなら、それで十分だ。
……鉛筆をおいて読み返してみたが、主旨のよくわからない変な手紙になってしまった。
おまけに支離滅裂でまとまりのない文章で、とても僕のような天才が書いたものとは思えない。論文を書くようにスムーズにいけばいいのに、なんで手紙を書くのにこんなに時間がかかるんだろう。
長々と書いてしまったが、これで終わりにする。
恵が嫌ならもう手紙は書かない、これきりにする。…返事は書かなくていい。書いてくれれば嬉しいけど本来僕は強要できる立場じゃない、この手紙を読むという行為そのものが恵に苦痛を強いることを考えればこれきりにするのが最善だろう。
最後に、恵がまたピアノが弾ける日がくることを祈ってる。心の底から』
……長い長い沈黙だった。
手紙から顔を上げたサムライがまっすぐに僕を見る。
「いい手紙だ」
サムライの笑顔を見るのは初めてだ。
ひどく落ち着いて大人びた笑い方だが、思っていたより年寄りくさくはない。
笑うと老ける人間と若く見える人間がいるというがサムライはどうやら後者のタイプだったらしい、と関係ないことを考えていたのは顔が熱くてその目を直視する勇気が湧かなかったからだ。
ベッドから腰をあげ、サムライの手から手紙を毟り取る。サムライに背を向けて自分のベッドに戻り、枕元の鉛筆を手に取り命じる。
「サムライ、僕がいいと言うまでむこうを向いていてくれないか」
「?なぜだ」
「いいから。絶対に振り向くなよ」
それ以上は追及せずサムライが壁の方を向いたのを確かめ、便箋の末尾、最後の一行を書き加える。サムライに読まれることを前提にしたらどうしても書けなかった最後の一行を。
『なにもできない、だめなお兄ちゃんですまなかった』
句点を打ってから振り向き、サムライが壁の方を向いたままでいるのを確かめて心底安堵する。
よりにもよってサムライに声にだして最後の一行を読まれるくらいなら、今この場で蒸発して消えてしまったほうがマシだ。
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