少年プリズン

まさみ

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七十一話

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 東京プリズンのいいところは図書室の蔵書が充実してるその一点に尽きる。
 囚人の娯楽は限られている。束縛の多い生活を強いられた囚人の中には必ずしも読書を目的とせずに図書室に入り浸って机を占領しては、読書に励む隣人の集中力読書を妨げる大声でだべりつづける非常識な連中もいるが、純粋に図書閲覧を目的として図書室に足を運ぶ囚人も何割かはいるのだ。図書室通いが日々の習慣となった囚人の中にはもちろん僕も含まれる。強制労働終了後の限られた自由時間を利用して東京プリズンの囚人がすることと言ったら廊下で車座になってのカードゲームか気に入らない人間へのはげしいリンチか腕づくのレイプ、体力がありあまってる囚人は競うように中庭にとびだしてバスケットボール等の健全なスポーツに興じているが、もともと体を動かすのが好きではない僕は図書室でひとりしずかに読書する方を好む。
 図書室は中央棟にある。
 中央棟へ行くには東棟唯一の渡り廊下を使う。サムライが言うには昔はもう二つ、東棟と隣接する棟とを結ぶ渡り廊下が存在していたらしいが件の廊下は封鎖されて久しい。有刺鉄線付きのバリケードで厳重に封鎖された渡り廊下の向こうは昼間でも薄暗くて不気味で、天井の蛍光灯は微塵に割れたまま交換されることなく放置され、分厚く埃をかぶっている。
 正直好奇心を刺激されないでもなかったが、バリケードに近づくのは自殺行為だと怖い顔で言い含められた。言うなれば国境線なのだ、これよりよりさきに許可なく踏みこんだら命はないぞというだれの目にも見えるわかりやすい脅し。北と南とをつなぐ渡り廊下は現在封鎖されて棟同士の交流は完全に途絶えているが、中央棟へと通じる渡り廊下は今でも普通に使用されている。
 つまり中央棟は、普段は断絶されて行き来もない四つの棟の囚人が一堂に会する貴重な場所なのだ。
 中央棟の図書室は各棟の囚人に平等に開放されており、図書室では東西南北四つの棟の囚人が雑然と入り混じることになる。当然その騒がしさは廊下の比ではない、そもそも図書室に収容される人数が半端ではない。活気と喧騒、笑声と怒声。異常な賑わいを呈した図書室は三階まで吹き抜けの構造で四囲の壁を巡るように手摺があり、それぞれの階に整然と書架が並んでいる。歴史・ノンフィクション・古典・純文学から大衆小説、はては漫画に至るまであらゆる本を網羅した知識の貯蔵庫が自分たちの生活圏内に存在しているというのに、ここの囚人ときたら何しに図書室にきてるんだ?本になんて見向きもせず、机に行儀悪く肘をついて品のない大口をあけてだべりにきているだけじゃないか。
 「なに怒ってんだよ」
 「怒ってない、これが地顔なんだ」
 目の前にドンと辞書が置かれる。分厚い辞書を運んできた人物は襟足で茶髪をひとつに括った軽薄な男―レイジ。パイプ椅子を引き、矩刑の机を挟んだ向かいの席へと腰掛けたレイジが「さて」と手紙の小山を脇にのけて作業に着手する。ペンを右手にとり辞書を広げ、便箋の一行目に文字を記入しようとしたレイジが怪訝そうに眉をひそめる。
 「お前辞書は?」
 一足先に代筆にとりかかっていた僕は顔も上げずに右手ひとさし指でこめかみをつつく。
 「ここに入ってる」
 レイジが口笛を吹く。あきれ半分感心半分、苦笑いを浮かべたレイジが指に挟んだペンを器用に回しながら茶々をいれる。
 「さっすが天才の言うコトはちがう。俺も読むぶんにはヘイキだけど書く段になるとさすがにちょっと、な。辞書要らずで翻訳できるお前みたいな奴がいてよかったぜ」
 「無駄口を慎め、図書室は私語厳禁だぞ」
 「おかたいな、相変わらず」
 降参とばかりに首を竦めたレイジがペンを回すのを止め、机上に突っ伏していた姿勢を正し、「よし」と腕まくりしてようやく冒頭の文を書き出す。逐一辞書を引きながら手紙の返信を執筆しはじめたレイジと面と向き合った僕は、ペンを握り締めた手をひそかに開閉し、正常に指が機能するのを確かめる。薬指の骨は完全にくっついたようだ。痛みもないし、代筆業に支障はない。右手が使えなくてとにかく不便だったこの二ヶ月間の苦渋に満ちた思い出を反芻し、内心深く安堵する。薬指の怪我も完治したことだしこれで心置きなく作業にとりかかれると気を取り直し、レイジが用意した下書きの文面と途中まで書き写した便箋とを見比べる。歯の浮くようなきざったらしい修飾を散りばめた、お世辞にも文学的とはいえない陳腐な内容の恋文だが語彙に乏しいレイジがしたためたのだから仕方ないだろう。
 ペンと便箋を手に入れる交換条件にレイジの代筆を引き受けた僕は、強制労働終了後の図書室で彼と待ち合わせてこうして執筆作業に励んでいたのだが肝心のレイジにはあまりやる気がなさそうだ。それとも生来の気まぐれなのか、ちょっと目を放すとすぐにサボりだす。ペンを回したり辞書に顔を埋めてまどろんだり、ひとに代筆業を押し付けて自分は適当に時間を潰してるようにしか見えないレイジにさすがに不快感が募る。
 「きみにきた手紙だろう、少しは自分で書いたらどうだ」 
 「交換条件を呑んだのはお前だろう、精をだせよゴーストライター」
 反省した素振りもなく手をひらひらさせながらレイジが笑う。なんて男だ。椅子の後ろ脚に体重をかけてバランスをとりながら音痴な口笛を吹き始めたレイジを睨み、こんな男には構ってられないとペンを取り直した時、書きっぱなしで放置されたレイジの便箋が目に入る。
 「レイジ、綴りが間違ってるぞ」
 僕の指摘にレイジが眉をひそめ、便箋の一行目にちらりと目を落とす。抽象的な外国語が羅列された便箋をじっと凝視し、ついでまじまじとこちらを見る。
 「すげえ。ヒンドゥー語の間違い指摘されたの生まれて初めてだ」
 何がすごいんだ。
 「きみにやる気がないならいい、全部ぼくがやる。きみが視界に入ると気が散るからどこかよそに行ってくれないか」
 腹立たしくなって語気荒く命令する。おどけて首を竦めたレイジが「はいはい」とペンを握りなおし二行目から書き始める。そのまましばらくは会話もなくお互い集中して作業に没頭する。時折レイジが辞書を引くぱらぱらという音を除けばカリカリという鉛筆の音しか聞こえてこない。猥雑な活況を呈した図書室の一隅、僕らが陣取った机の周囲だけが別世界のように静まり返っている。これも王様効果だろうか、レイジを恐れる囚人の多くは僕らの机を避けて通る。うるさい喋り声もここまでは届かない、カリカリと鉛筆の走る乾いた音が心地よい。図書室でこんな満ち足りた気分になれたことを思えば彼を知ってから初めてレイジに感謝をしたくなる。
 一枚目、二枚目、三枚目。順調に手紙を消化していた僕の正面、インクの減ったボールペンをカチャカチャ振りながらレイジが呟く。
 「なあキーストア」
 「なんだ」
 「自分のこと嫌ってる人間に手紙を書くとしたらどんな内容が喜ばれると思う?」
 耳を疑う。
 質問の意図が理解できずに顔を上げた僕の目に映ったのは、ボールペンを鼻の下に挟み、スランプ中の作家のように苦悩するレイジ。鼻面に皺を寄せた滑稽な顔でボールペンのバランスをとるレイジに愛想が尽きて顔を伏せ、作業に戻る。
 「自分が嫌ってる人間から手紙なんて欲しくない」
 「身も蓋もねえこと言うなよ……」
 何故だか僕の言葉にショックを受けた様子で机上に突っ伏すレイジ、その顔の下でぐしゃりと便箋がつぶれる。執筆途中の便箋を巻き込んで机に伏せたレイジが何か言いたげな上目遣いでちらりと僕を見る。未練がましく答えを欲してるようだったので、大仰にため息をついてからペンを置き、顎を引いて正面に向き直る。
 「そんなの決まってる」
 眼鏡のレンズに埃が付着していた。眼鏡を外し、ふっと埃を吹いてから慎重に上着の裾で拭う。綺麗になったレンズを天井の蛍光灯に透かし、完全に埃が取り除かれたことを確かめる。レイジの視線を顔に感じながら眼鏡をかけ直し、言う。
 「『この手紙を最後に貴方の前から消えます』」
 「……………いやーーー、ちょーーーーーーーっとそれは無理だな?」
 変な男だ。
 今にも崩れそうな半笑いの微妙な表情で困り果てたレイジにますます不審感が募る。頭を抱えたレイジが「わっかんねーよ、アイツが貰って嬉しい手紙なんてよ」と悶絶するのをひややかに眺めていたらぐるりを巡る二階の回廊から間延びした声が聞こえてきた。

 「やかまし―」

 レイジと同時に頭上を仰ぐ。
 その人物は二階の回廊にいた。整然と並んだ書架を背景に手摺によりかかり、両手を虚空にたらしただらしない姿勢でちょうど真下にいる僕らを見下ろしている。何にも増して特徴的なのは目をすっぽりと覆い隠す大きさの黒いゴーグル。顔の上半分を覆うゴーグルにさえぎられて詳細な容貌まで視認できないが、針金のように立たせたこざっぱりした短髪が活動的な少年らしさを強調している。
 手摺に顎を乗せたその少年は大袈裟にかぶりを振るや、階下のレイジに視線を投じて嘆く。
 「お前の話し声がうるそうて読書に集中できひん、ちィと静かにしてくれへん?」
 ゴーグルにさえぎられていてもうんざりした表情を浮かべているのが目に見えるようだ。
 「わりぃヨンイル、気をつける」
 頭を抱えたままのレイジが犬でも追い払うようなしぐさでぞんざいに片手を振る。ヨンイル。名前の語感から察するに韓国系だろうか。東棟では見たことのない顔だからおおかた他の棟の囚人だろう。僕と初対面になる囚人はようやくレイジの向かいに座る僕の存在に気付いたらしく一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに気さくな笑顔に切り替えて片手を挙げてくる。笑うと八重歯が覗いて悪童めいた印象が増長される。
 「そっちのメガネは見いひん顔やけど東の新入りか?」
 「鍵屋崎っての。下の名前は……ナオだっけ」
 「女みたいやな」
 「だろ」
 「よっ」と反動をつけて手摺に飛び乗った少年が、汚れたズックをひっかけた足で虚空を蹴りながら、不躾に観察するような目を階下の僕に向けてくる。好奇心むきだしの眼差しが不愉快になった僕が席を立ちかけたのをレイジが片手で制する。何のつもりだと目をやれば、レイジはまっすぐにヨンイルと名乗る少年を見つめていた。
 親愛と牽制が等分に入り混じった、油断ならない横顔。
 レイジの横顔にただならぬものを感じて大人しく椅子に戻る。二階の手摺に腰掛けたヨンイルは足をぶらぶらさせながら笑う。
 「つれない女に恋文でも書くんか」
 「そんなとこ」
 曖昧に頷いたレイジをゴーグル越しに眺めてなにやら思案していたヨンイルがぱっと顔を輝かせる。
 「天邪鬼にはカウンターが効くで。小細工なしのストレートで今の気持ちをぶつけるんや、あとはひたすらに打つべし打つべし」
 「お前明日のジョー読んでたな」
 脇を締めてパンチを繰り出すヨンイルにレイジは苦笑い。シャドウボクシングしながらあっけらかんと言い放ったヨンイルのアドバイスを咀嚼したレイジがのろのろと上体を起こし、椅子の背もたれに反り返って間延びした声を張り上げる。
 「参考にするよ」
 にこりと感じよく笑ったヨンイルが手摺から飛び下り、口笛を吹きつつ書架の谷間に消えてゆくのを目で追ってからレイジに向き直る。
 「あれはなんだ?」
 「んー。西の知り合い」
 西、ということは西棟の人間か。いまさらわかりきったことだが、レイジの知り合いにはエキセントリックな人間が多い。
 「またの名を殆ど漫画しか読まない図書室のヌシ」
 最悪だ。
 「図書室の常連になるなら知っといて損ねえぜ、古今東西の漫画のことならアイツに聞きゃすぐわかる」 
 「僕が漫画なんて読むわけないだろう」
 余計な邪魔が入って作業を中断された、執筆速度を上げて取り返さなければ。
 ふたたび便箋をひろげてペンを走らせはじめた僕の正面、腕組みしたレイジがなにやら真剣に考えこんでいたが、ふと呟く。
 「キーストアはだれに手紙を書くんだ」
 「またその質問か」
 「妹だろう」
 見抜かれていたのか。
 「…………知ってたのなら聞くな」
 まったく嫌な性格だ、ロンがレイジを毛嫌いするのも頷ける。視線に殺せそうな圧力をこめてレイジを睨んだが当の本人は涼しい顔でぱらぱらと辞書をめくっている。
 「むずかしいよな。実の妹相手に愛してるを連発するわけにもいかねーし」 
 「きみは節操なく愛してるを連発して行を埋めてたんだな。かなり適当に」
 「適当に」をわざと強調してやったのは僕なりの反抗心のあらわれだ。どうでもいいが無駄口叩いてる暇があったら手を動かせと催促しかけてふと不安になる。
 僕はこれまで手紙を書いたことがない。なにごとも完璧にやり遂げなければ気が済まない僕が、はたして完璧な手紙を書けるだろうか?
 「そういえばリョウには謝ったか」
 レイジの声で物思いから覚める。
 「?なんで僕がリョウに謝るんだ、悪いのは彼だろう。サムライと同じで変なことを言うんだな」
 手を止めずに返した僕を頬杖ついて眺めていたレイジがおもむろに口を開く。
 「『ごめんなさい』」
 「?」
 おもわず手を止め、八割方書き終えた便箋から顔を上げる。人を食った笑顔で身を乗り出したレイジが辛抱強くくりかえす。
 「知らないみたいだから教えてやろうと思って。『ごめんなさい』」
 「英語でsorry中国語で対不起韓国語でカムサハムニダロシア語でイズヴィニーチェ、タミル語でマンニチュカンガ」
 レイジがきょとんとする。
 瞬きも忘れてあっけにとられたレイジを眼鏡の奥から無表情に眺める。
 「親切に教えてもらうまでもなく約百二十カ国語で知ってる。ただ、言いたくないから言わないだけだ」
 「…………さいですか」
 なぜこの僕がIQで遥かに劣る低脳に頭をさげなければならない?そんな必要どこにもない、よって使用する理由がない。
 僕が悪かったと謝罪したい人間はこの世にただひとりだけだ。
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