少年プリズン

まさみ

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六十六話

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 「この野郎!」
 奇声を発して鍵屋崎にとびかかったリョウ、発情期の猫のような敏捷さで鍵屋崎を押し倒す。全体重をかけてコンクリートに押し倒された鍵屋崎の手からそれまで読んでいた本が飛び、転がる。ページが開かれたままの本を冷静に眺め、呟く。
 「いいところだったのに」
 さして残念そうでもない口ぶりで嘆いた鍵屋崎の胸ぐらを締め上げ、顔を真っ赤にしてリョウが怒鳴る。
 「よくも……よくもママからの手紙を!!」 
 「たかが手紙一枚、大袈裟に嘆くほどのことでもないだろう」
 「ママが、ママからの手紙なのに!僕がどんだけこの日をたのしみにしてたか、ママからの手紙を待ってたか知らないくせに!!」
 演技ではない、リョウは本気で怒っていた。媚売る用の笑顔が板についた普段のリョウからは想像もつかない半狂乱の醜態で鍵屋崎を罵る。対する鍵屋崎はポーカーフェイス、押し倒されてズレた眼鏡を中指で正しながら落ち着き払って指摘する。
 「知らないし知りたくもないな、そんなことは。付け加えるならばリョウ、きみは自分の年齢を自覚してるか?実年齢以上にきみの精神年齢は幼稚きわまりない、指しゃぶりの傾向がある四歳児の典型だ。知ってるか?幼児が執拗に指を吸うのは潜在的に母乳を恋しがっているからだそうだ、乳離れして間もない時期の潜在的不安を指をしゃぶることでごまかしてるんだ」
 ちらりと眼鏡越しの視線が動き、襟首を鷲掴んだリョウの手を見る。爪がギザギザの子供っぽい手。
 「爪を噛む癖が抜けないのもその延長だ。母親の愛情に飢えた幼児期を過ごした人間にはよく見られる傾向らしいが、きみの母親は幼い子供よりも恋人との交際を優先するような自己中心的な女性だったんじゃないか」
 まずい。
 腋の下を冷や汗が流れる。患者の心にメスを入れて解剖してゆくように淡々と解説した鍵屋崎、その言葉が終わるより前に襟首を締め上げた手がぶるぶると震え出す。
 止めに入るタイミングを逃した。
 鈍い音。おもいきり鍵屋崎を殴ったリョウはそれでもまだ気が休まらず、肩で息をしながら命じる。
 「今の言葉取り消してよ」
 かん高いボーイソプラノに凄みを与えて低め、鍵屋崎を脅迫する。顔を殴られた鍵屋崎はずれた眼鏡を押し上げる余裕さえ見え、相変わらずの無表情で物珍しげにリョウを見上げる。
 「ママはそんな女じゃない、そんな最低女じゃない。いつもでいちばんに僕のことを考えてくれるんだ、いつでもいちばんに僕のことを愛してくれるんだ。ちっちゃい頃、寝る前には必ず絵本を読んでくれたし寂しくないようにってクマのぬいぐるみも買ってくれたし、客に体を売ってたのだって僕を食べさせてくために仕方なく―」
 「マザーコンプレックス」
 鍵屋崎がぼそりと呟き、リョウの顔が強張る。
 「なに?」
 「母親が過度に愛情を注いで子供を育てた場合、結果として母親への依存心が潜在的に内在化し成長しても自分一人ではなにもできない人間になってしまう。いいか?「コンプレックス」にはよく使われる「劣等感」という意味の他に「こだわり、執着」といった意味がある。 つまりマザー・コンプレックスとは「母親に対して強い執着心を持つ人間」という意味で、母親に対して肉親としての感情を超えた恋愛感情や独占欲を持った人間をさす」
 そこで一呼吸おいた鍵屋崎が、哀れむような蔑むような、その実勝ち誇ったまなざしで蒼白のリョウを凝視する。
 「つまり……きみのように異常な性癖の持ち主をさす言葉だ、リョウ」
 「……異常なのはどっちさ」
 「何?」
 リョウの声はごく小さく、くぐもっていて聞き取りにくかったが、鍵屋崎にはちゃんと聞こえたらしい。不審げな表情の鍵屋崎をのぞきこんだリョウの顔は不自然にひきつっていた。卑屈に喉を鳴らし、軋んだ笑い声を漏らし、鍵屋崎の襟首を力の限り締め上げる。
 「妹に欲情してる変態のくせに」 
 それまで無抵抗に徹していた鍵屋崎の顔にわかりやすい変化が起きる。眼鏡越しの双眸に宿ったのは明らかな敵意。 
 「撤回しろ。僕は恵に、妹に欲情したことなんか一度もない」
 「どうだかね、きみだって心ん中じゃなに思ってたんだか……そんなことさっぱり興味ないですって淡白な顔した奴に限ってとんでもない淫乱の変態だったりするんだ。不感症てのも嘘で、本当はずっと妹さんとヤリたくてヤリたくてたまらなかったんじゃない?」
 言い過ぎだ。
 さすがにまずいと思い、「お前らいい加減に……」と仲裁に入りかけた俺の肩を押さえて制したのはよく日に焼けた褐色の手。手を辿って後ろを向く。背後にレイジがいた。
 「放っとけよ」
 「けどよ」
 「まあ待て、これから面白くなるんだから」
 聞き間違いではなかった。レイジは「これから面白くなりそうだ」とぬかしやがったのだ、ぬけぬけと。身勝手なレイジに頭にきて乱暴に手を払い、鍵屋崎とリョウを引きはがそうととびだしかけてあぜんとする。
 鍵屋崎の上でリョウが大きく仰け反った。
 大きく顎を仰け反らせたリョウの顔が前へと戻ってきたとき、唇の端には血が滲んでいた。殴られた衝撃で唇を切ったらしい。発作的にリョウを殴った鍵屋崎は自分のしたことにうろたえる素振りもなくひややかに取り澄ましていたが、リョウが狙い定めて吐き捨てた唾がその頬に付着する。
 それが合図だった。
 毛を逆立てた猫のような奇声を発して一目散に鍵屋崎にとびかかるリョウ、押し倒され組み伏せられコンクリートで背中を強打する鍵屋崎、その襟首を掴もうとのびてきた手を顎で振り払い、逆にリョウの襟首を掴んで力をくわえる。身長と体格では鍵屋崎が勝ってる、リョウの襟首を掴んで動きを奪い拳をお見舞いする。その拍子に地面にすっ転んだリョウのポケットから手紙が落ち、レイジと肩を並べてぽかんと傍観してた俺の足もとまでコンクリートをすべってくる。なにげなく手紙を拾い、裏返す。差出人の名前はない。不審に思い、もっとよく確かめようと顔を近づけた俺の手の内から手紙が消える。
 ビバリーだった。
 「プライバシーの侵害っすよ」
 右隣にいたビバリーが非難するような目で俺を睨み、ズボンのゴムに手紙を突っ込んでとびだしてゆく。ビバリーが駆けつけた先では、リョウと鍵屋崎がせわしく上下逆転しながら取っ組み合っていた。
 「ママを悪く言うな!」
 拳を振り上げ、おもいきり横っ面を殴るリョウ。
 「推論を述べただけだ、事実だとは言ってない」
 眼鏡のレンズが割れないようとっさに顔を逸らし、鍵屋崎が反論する。
 「ただ僕は親から子への形質遺伝を否定しない。後天的な性格は幼児期の生育環境に左右されるが行動原理の本質は両親から受け継いだ遺伝子に拠るところが大きい」
 「なにが言いたいんだよ!?」
 「きみの男好きは母親から遺伝したんじゃないか?」
 最悪だコイツ。
 おもわず額を覆った俺の隣、レイジは「キーストアも言うようになったなあ」と子の成長を微笑ましく見守る親父のツラでのんきに笑ってる。どいつもこいつもくそったれだ。鈍い音。激怒したリョウが力任せに鍵屋崎の後頭部をコンクリに打ちつけ、噛みつかんばかりの形相で怒鳴り返す。
 「その理論でいくと君のクチの悪さは父親譲りなわけ?性格の悪さはパパとママどっち似?ああ、でも妹さんはよかったねえこれっぽっちも君と似てなくて。てゆーかマジで血がつながってんのこの娘、養女じゃない?って疑わしくなるくらい似てなかったもんね!」
 「恵の写真を見たのか?」
 リョウの言葉にひっかかりを覚え、訝しげに問い返す鍵屋崎。やばい、とリョウが狼狽した隙に下肢を跳ね上げて胴からふりおとす。
 「妹さんも君みたいなクソ兄貴に溺愛されていい迷惑さ、しかも兄貴は人殺しときた。恥ずかしくて表だって歩けないだろうさ、かわいそうに。―ああ、それとも」
 地面に尻もちついたリョウが足払いをかけ、巧みに鍵屋崎を転ばせる。背中から転倒した鍵屋崎の上によじのぼり、無我夢中で襟首を締め上げて窒息させようとする。
 「妹さんのほうが誘ったのかな。もしそうなら色恋沙汰にまったく興味のないきみが実の妹にだけ異常にこだわるのも頷けるよ、かわいい顔してヤるねあの子」
 リョウが吹っ飛ぶ。
 俺は見た、奴がリョウの腹を蹴る瞬間を。大人しい鍵屋崎がぶちぎれる瞬間を。
 両手で膝を払ってゆっくり立ち上がった鍵屋崎が腹を抱えて苦悶しているリョウを見下ろし、聞く。氷点下の声。目が合った刹那に心臓が蒸発しそうな、人が殺せそうな視線。
 「恵を侮辱したな」 
 「ママを馬鹿にしたね」
 腹を抱えてよろよろ立ち上がったリョウが中腰の姿勢でしんどそうに笑う。―いや、笑っているのではない。怒りが沸点を突破し、表情筋がひきつっているのだ。
「妹とヤッてろシスコン、気色悪いんだよ」
 「マザコンに言われたくない」
 人懐こい童顔を怒りの朱に染めたリョウが鬼の形相で鍵屋崎に突進、めちゃくちゃに手足を振り回して暴れる。リョウが振り回した拳が顎をかすめ、たたらを踏んであとじさった鍵屋崎が片腕を顔の前にかざして攻撃を防ぎながら、もう一方の手を握り固めて拳を作り、斜め下方の死角からリョウの顎を殴る。うまく急所に入った。喧嘩慣れしてない鍵屋崎のことだからまったくの偶然だろう。立ち眩みをおぼえたリョウがそれでも諦めきれず、かん高い声で泣き喚いて頭を低め、コンクリートを蹴って一気に加速。体勢を屈めて鍵屋崎の腹につっこみ、そのまま体重を乗せて押し倒す。
 ふたたび形勢逆転、腹に直撃を受けてはげしく咳き込む鍵屋崎を殴ろうとした手首ががしっと掴まれる。
 「リョウさんもうやめましょうよ、そんだけやれば気が済んだっしょ!?」
 「はなせよ!!」
 「はなしません!!」
 ビバリーに羽交い締めされてもリョウはまだ諦めきれず、しきりに手足をばたつかせていたが、やがてその手首から力が抜けてゆく。拳をほどいて体の脇にたらし、うつむいてしまったリョウ。その頬を伝ったのは大粒の涙。
 「うえっ、えっ」
 堪えきれずにしゃくりあげるリョウ。ビバリーの腕の中、肩を上下させて泣き出したリョウの足もとでは鍵屋崎が唇を拭っていた。顔を殴られたときに唇が切れたらしい。血の混ざった唾を吐き捨て、ふらつきながら立ち上がる。そのまま振り返りもせずに落ちた本を拾い上げ、展望台を去ろうとした鍵屋崎を我に返って追いかける。
 「おい待てよ、」
 鍵屋崎の背中にむなしく手をのばした俺を追ってきたのは奥歯で噛み潰された悲痛な嗚咽。おもわず足を止め、振り返る。涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして号泣するリョウをビバリーが必死に慰めている。
 リョウの泣きっ面と鍵屋崎の背中を見比べ、決意する。
 「謝らないのか?」
 背中が立ち止まる。
 「なんで僕が謝るんだ?」
 小脇に本を抱え、囚人服のあちこちを砂利と泥で汚した悲惨な格好の鍵屋崎が、それでも振り返らずに聞く。主張はしないが主観は譲らない、自分は完全完璧に正しいと頑なに信じこんでる奴の声。
 「手紙破いただろ」
 「それが?」
 「リョウのお袋からきた手紙だったんだぞ」
 「だから?」
 「あのな……」
 舌打ち。どう言えばいいんだよ、ちくしょう。
 「謝るのは僕じゃないだろう」
 わずかに振り向く。ビバリーによしよしと頭をなでられてしゃくりあげてるリョウから手前の俺へと冷めた視線を移し、言う。
 「恵を馬鹿にしたんだ。謝るべきなのは彼だ」
 言うだけ言って歩き出した背中に今度こそかける言葉を失う。頑固すぎだコイツ。あきらめて踵を返し、修羅場真っ最中のリョウたちの所に戻る。コンクリートの地面に屈みこんだリョウが何かを懸命にかき集めている。手紙だ。鍵屋崎が引き裂いてばらまいた紙片を脇目もふらずにかき集めながらブツブツと呟く。
 「殺してやる」
 真っ赤に泣き腫らした目。憎々しげに歪んだ唇。
 「絶対に殺してやる」
 いまさらだれを?なんて間抜けな質問はしなかった。この場の全員がわかりきっていたことだ。
 ネクラな呪詛を吐きながら、なにかに憑かれたのように無数の紙片をかき集めるリョウを地べたに這いつくばって手伝いながら尻ポケットをしゃくるビバリー。
 「元気だしてくださいよリョウさん、まだ一枚残ってますから」
 「ママじゃないならいらない」
 「来るだけマシじゃないっすか」
 にべもない返答にビバリーは苦笑い。そりゃそうだ、ビバリーには一通も手紙がきてないのだ。
 俺と、鍵屋崎もおなじく。
 「面白かったかレイジ」
 不機嫌な声で隣の人物の真意を問えば、レイジは大あくびで返す。
 「まあな」
 両手に抱えた手紙の山にちらりと目をやり、薄笑いを浮かべたレイジを仰ぐ。
 レイジ宛の手紙なんか欲しくない。
 俺が欲しいのはその他大勢の女からの手紙じゃなくて、ただ一人からの手紙なんだ。 
 本当に大事な人から届いた手紙しか大事じゃないリョウの気持ちはよくわかる。
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