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六十五話
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調子っ外れの鼻歌が聞こえてきた。
「大漁大漁っと」
踊り場の窓を乗り越えて歩いてきたレイジに所在なげに展望台に散っていた囚人たちから嫉妬と羨望の入り混じった視線が注がれる。両腕いっぱいに抱えているのは手紙の束だ。
「ロン、こんなとこにいたのか。さがしちまったじゃねーか」
「大漁だな」
にやけ面のレイジにイヤミっぽく言ってやる。両手に抱えた手紙の山を見下ろしたレイジはまんざらでもなさそうに笑う。
「これでも昔に比べて倍近く減ったんだぜ」
レイジの手の中に目をやる。手紙は全部で二十通、この倍近く届いていたということは四十通か?展望台のコンクリートに胡座をかき、どさりと手紙を投げ落として一通ずつ目を通してゆく。
「スヨン、杏奈、シェリファ、メアリー、麗羅、ソーニャ、テレサ……」
長ったらしい呪文のようにブツブツと女の名前を唱えながら右から左へと手紙を移し変えて小山を築いてゆくレイジは一瞥もせず、つまらなそうな無表情で本に読み耽る鍵屋崎。興味ないふりを装っているが、苛立たしげにページをめくる手つきから奴が酷くぴりぴりしていることがわかった。最後の一通を頂点にのせる。手紙の小山を築き終えたレイジは「よっしゃ」と腕まくりし、嬉嬉として開封作業にとりかかる。手紙の山の中腹からランダムにとりだした封筒を日に翳して差出人名を確かめ、いそいそと封を破く。
「くさい」
おもわず鼻をつまむ。レイジが広げた便箋からすえた香辛料の刺激臭のようななんともいえない匂いが漂ってきた。
「ばか、香だよ。インドの」
どうやら便箋に香が焚き染められていたらしい。顔の前に漂ってきた異臭を手で払いながら好奇心にかられてレイジの手元を覗きこむ。膝這いに這ってレイジへと近寄った俺の目にとびこんできたのは便箋上のミミズの行進。
「……何語だ?」
毒を呷ったミミズが七転八倒してるようにしか見えない外国語は俺にはさっぱり理解できない。便箋の文面に目を走らせながらレイジが言う。
「ヒンドゥー語」
……男でも女でもとっかえひっかえ手当たり構わずの節操なしだとは知っていたが、人種はおろか国にもこだわらないなんて。レイジはある意味究極の平等主義者かもしれない、レイジの中にはそもそも国境線が存在しないのだ。次から次へと手当たり次第に便箋を広げてはとっかえひっかえ目を通してゆくレイジのにやけ面が無性に腹立たしくなって舌打ちしながら鍵屋崎の隣に戻る。ガサガサと手紙を広げる音が背後で聞こえる。レイジがうらやましいわけじゃない、そんなことはない絶対に。最初から期待してなかったから落ちこむ理由もない。だいたいこんな極東の刑務所宛に、俺宛の手紙が舞いこむわけがないのだ。
お袋とはとうに縁を切った。親でもなけりゃ子でもない。だから別に―……
「落ち込んでんのか」
背後で声。
「落ち込んでねえよ」
膝這いに這って俺の顔を覗きこんだレイジが一瞬逡巡するような表情を見せてから、俺の顔の前に一通の手紙を突き出す。
「やるよ」
「……は?」
馬鹿かコイツ。
「お前宛の手紙くれても嬉しくねーんだけど」
「たくさんきたからお裾分けだ」
真性の馬鹿だコイツ。
それとも天然で残酷か天然でお人よしなのだろうか、寛容で博愛精神あふれる偉大な王様の発言に俺は口を噤んで一寸迷うそぶりを見せてからおずおずと手紙を受け取る。そして、満足そうに微笑したレイジと手紙とを見比べて早速行動にでる。封筒から薄い便箋をとりだしてコンクリートの地面に広げ、丁寧にしごいて折り目をのばす。何のつもりだと怪訝な顔のレイジをよそに便箋をさっさと折りたたんで紙飛行機を作る。
俺は天性の不器用だから出来はお世辞にも素晴らしいとはいえないが、まあいいだろう。
完成した飛行機を角度を変えてためつすがめつしてから、ひょいと手首を撓らせる。俺が飛ばした紙飛行機は上手いこと風に乗り、ツバメのようにあざやかに滑空した。
「なんてことすんだよ!?」
俺の奇行をあぜんと見守っていたレイジがこれ以上なく情けない顔で訴えるが、無視して飛行機の行方を追う。小手をかざした俺の視線の先、不恰好な紙飛行機はよれよれと不安定な軌道を描いて遂に力尽き中庭に墜落。バスケットボールを追って駈けずり回っていたガキどもに踏まれ、揉みくちゃにされ、泥だらけになる。
「飛距離30メートルというところだな」
本から顔を上げた鍵屋崎が一言呟き、すぐにまた本に目を戻す。意外と飛んだな。上々な成果に気をよくした俺の隣ではレイジがコンクリートに手をついて大袈裟に嘆いていた。
「ひどい、ひどすぎる、親切を仇で返しやがって……娑婆の愛人のシェリファが真心こめた手紙なのにっ」
恋人じゃなくて愛人ときたか。レイジらしい。
「一枚くらいケチケチすんな、沢山余ってるだろうが」
俺を哀れんで分けてくれるくらいだからもとから執着は薄かったのだろう。案の定レイジの立ち直りは早かった。ため息をついて胡座をかいたレイジは手紙の山を両手に抱え直すと今初めて気付いたように鍵屋崎に目をやる。
「キーストアには手紙きたの?」
「来たのならこんなところにいない」
にべもない返答だ。
眼鏡越しの目を伏せて即答した鍵屋崎を「ふ~ん」と眺め、両腕に手紙を抱えたレイジが何か言いかけたときだ。
「やっほ、みんな集まってるね」
澄んだボーイソプラノに揃って振り向く。
今しも窓枠を越えて展望台に降り立ったのは燃えるような赤毛のガキ。鼻梁にそばかすが散った童顔にあどけない笑みを湛え、俺らの方に気安く手を振ったのは男娼のリョウ。にこにこ笑いながらスキップするように近づいてきたリョウの後ろ、窓枠を跨いで姿を見せたのはリョウと同房の黒人だ。名前は忘れたが、レイジと仲がいいからツラは知ってる。
人懐こく笑いながら俺の隣に腰掛けたリョウが手にしていたのは一通の手紙。よっぽど大事な人から届いた手紙らしく、もう一通、無造作に尻ポケットに突っ込まれてる手紙とは扱いからして違う。尻ポケットの手紙のほうが白い上質紙の封筒で高級感あふれてるのに。
「ようビバリー、その節は世話んなったな」
「いえいえ。またテキーラが必要になったらいつでも言ってくださいっす、王様と仲良くしといて損はないっすからね」
ビバリーと呼ばれたガキと和気藹々と会話してるレイジ、その言葉の何かがひっかかる。
「飲みたくなったら、じゃなくて必要になったら?」
囚人が酒を隠してるのはいまさら不思議に思わない。要領のいい囚人の中には看守に取り入って酒や煙草やガムなんかの禁制品をゲットする奴もいるし、博打が強い囚人の中には看守と賭けをして戦利品をぶんどるのを生き甲斐にしてる奴もいる。ビバリーは愛想もいいし世辞も上手いし看守受けは悪くなさそうだ。テキーラを手に入れる機会はいくらでもあったわけだ。
だからその点に関しては疑問は抱かなかったが妙な言い回しが気になった俺に、レイジが意味ありげに微笑する。
「また火炎瓶が必要になったら、な」
すとん腑に落ちた。
「ガキの頃よく火炎瓶作って遊んだなー。テキーラを瓶にいれて火をつけて投げる遊び」
「レイジさんどんな子供時代すごしたんすか」
火炎瓶にテキーラを流しこむ動作をしながら昔なつかしむレイジにあきれ顔のビバリーが一同を代表してツッコミをいれる。俺もチームにいた頃は火炎瓶のひとつやふたつ自前で用意したが、ガキの頃からそんな物騒なもんを持ち歩いたりはしなかった。
「で?お前は手紙もらえたのか」
回想から覚めたレイジにビバリーが腕を広げる。手ぶらの証明。
「仕方ないっすよ。ほら、僕のファミリーってビバリ―ヒルズ在住じゃないスか。届くまで時差があるんスよ、エアメールだし」
残念そうに主張したビバリーから俺の隣に腰掛けたリョウへと視線を転じるレイジ。
「お前は?」
「じゃーん」
待ってましたといわんばかりに顔の横に手紙を掲げる。得意満面、胸を反らしたリョウの右手に鍵屋崎を除く全員の視線が集中する。
「ママからだよ」
ママ。
舌の上で砂糖菓子がとけるような発音。
「そっちは?」
「ああ、パトロンの親父から」
顎をしゃくったレイジに凄まじい温度差のある声で答え、興味なさそうに尻ポケットを一瞥する。くるりと前を向いたリョウは母親から届いた手紙のことしか眼中になかった。
「視聴覚ホールから戻ってくるまでの間にもう何回も読み返しちゃった。ママってば相変わらずだ、元気にしてるみたいで良かったけど相変わらず男にだまされて泣いてばっかいるらしい。やっぱりリョウちゃんがいなきゃだめだって、僕がいないと寂しくて死んじゃいそうだって、はやく戻ってきてほしいって……まったく、どっちが子供だかわかりゃしないよ」
「参ったなあ」と弱りきって頭を掻いているが俺には愚痴を気取った惚気にしか聞こえなかった。事実、いとおしげに親からの手紙を見つめるリョウの顔は見てるこっちが憎らしくなるくらい幸せそうに笑み崩れている。どうやって人を出し抜こうかと企んでるいつもの笑顔ではない、素の笑顔。
「でね、ママってば僕がここに入ってから三人目の男ができたみたいなんだけどそいつとうまくいかなくて家出中なんだって。この手紙はホテルで書いたらしい。もうすぐ持ち金が底を尽くから早いとこホテルをでてかなきゃって悩んでるけど行くあてあるのかなあ、ママ美人だから変な虫にひっかかって場末の売春窟にでも売り飛ばされたらどうし」
「うるさい」
饒舌にまくし立てていたリョウをさえぎった鍵屋崎に全員の視線が集中する。それまで我関せずと本を読み耽っていた鍵屋崎がパタンと表紙を閉じ、本を膝においてからキッと向き直る。眼鏡越しのきつい眼差し。
「読書中なんだ、私語は慎んでくれないか」
「ああ、いたんだメガネくん」
最初から気付いていたくせに、今鍵屋崎が目に入ったといわんばかりの大仰さでリョウが驚く。神経質そうに眼鏡のブリッジを押し上げて顔を伏せた鍵屋崎をじろじろ眺め、高慢ちきに腕組みしてリョウがうそぶく。
「メガネくんは手紙きたの?」
「……………いや」
「ふうん」
「なんだ、言いたいことでもあるのか」
「べっつにー。ただ、だれからも手紙がこないなんて可哀相だなあって」
「きみに同情される筋合いはない。それにリョウ、きみこそ自分のおかれた立場を忘れてないか?ぼく達は服役中の犯罪者で身内の恥さらしだ、そんな人間に好き好んで手紙を書くような手合いはよほどの偽善者で自己本位な奉仕精神に酔いしれてるとしか思えない」
リョウの顔色が変わる。そりゃそうだろう、世界でいちばん大好きな母親を「自己本位な奉仕精神に酔いしれた偽善者」よばわりされたんじゃ頭にくるのも頷ける。
「ほんとは嫉妬してるんでしょ」
「嫉妬?」
理解できないというふうに眉をひそめた鍵屋崎を見下ろし、手紙で風を送りながらリョウが続ける。
「僕にはちゃんと手紙がきた。君にはきてない。ママはぼくのことを忘れてない、今でもぼくが大事だからこうして欠かさず手紙をくれる。君はどう?だれからも大事に思われてないから、出てくるのを待ち望まれてないから一通も手紙がこないんでしょ」
リョウの言葉が胸に突き刺さる。
確かにそれはそのとおりで、俺に一通も手紙がとどかないのは娑婆の人間は俺のことなんかとっくに忘れ去って普通に暮らしてるからだろう。お袋だってそうだ、いや、お袋こそいい例だ。自分が腹を痛めて産んだガキの存在なんか綺麗さっぱり忘れ去って今頃は新しい男をくわえこんでるにちがいない。
俺も鍵屋崎も、娑婆の連中にとっては一日も早く記憶から消し去りたい存在なのだ。
「可哀相だね、ホント」
リョウが首を振る。
「きみの大事な妹さんは大好きなお兄ちゃんに手紙ひとつくれないわけ?兄妹仲はよかったんでしょ。刑務所にとじこめられてひとりぼっちのお兄ちゃんのことが心配じゃないのかなー妹さんは。冷たいねー。まあ仕方ないよね、きみってば両親殺しちゃったんだし。それってつまり妹さんのパパとママも殺しちゃったわけでしょ、ぐさっと。つまりきみは妹さんにとってただひとりのお兄ちゃんであると同時にパパとママを殺した憎い仇でもあるわけだ、うん、なら仕方ないね手紙がこなくても」
「おい、そのへんに……」
ねちねちと陰険なイヤミを聞くに耐えきれずに腰を上げかけた俺を制したのは鍵屋崎。ずんずんと自分に歩み寄る鍵屋崎を見据えるリョウの目には露骨な優越感がある。
「こうも考えられる。パパとママが死んでおにいちゃんは刑務所にいれられて、ひとりぼっちになった妹さんは首を吊って―……」
「リョウさん!!」
調子に乗りすぎたリョウが言ってはならないことを口走りビバリーが止めに入ったが、鍵屋崎が手紙を奪い取るほうが早かった。
リョウの手から強引に手紙を奪い取った鍵屋崎がコンクリートの突堤に立ち、胸の前に手紙を翳す。
「!なにす、」
狼狽しきったリョウの叫びを無視し、鍵屋崎が手紙を引き裂く。
一度ではない。
二度、三度、四度、五度。原形を留めない断片にまで千切り捨てた手紙を両腕からこぼし、抜けるような青空の下にばらまく。
青い空に舞う幾千の白い紙片。
鮮烈なコントラストをさらに印象付けたのは、コンクリートの先端にたたずむ鍵屋崎の背中。孤独が人の形をとったような背中の向こうに降り注ぐのは、折から吹いた風にさらわれ、吹雪のように儚く淡く積もりゆく千々に裂かれた手紙の切れ端。
中庭に散らばっていた囚人たちがてのひらで紙片を受け、「何だ?」「何だ?」と顔をあげる。その目に映った光景が俺にはありありと想像できる。
展望台のへりに立ち尽くし、陽射しに反射したレンズの下に表情を押し隠し、紙吹雪にさえぎられた鍵屋崎の姿。
紙吹雪を演出した当の本人は落ち着き払ったしぐさでシャツに付着した紙片を払い落とすと何事もなかったように読書に戻った。妙にすっきりした顔でしおり紐をはさんだページをひらき、次のページをめくろうとした―
その時だ、リョウが鍵屋崎にとびかかったのは。
「大漁大漁っと」
踊り場の窓を乗り越えて歩いてきたレイジに所在なげに展望台に散っていた囚人たちから嫉妬と羨望の入り混じった視線が注がれる。両腕いっぱいに抱えているのは手紙の束だ。
「ロン、こんなとこにいたのか。さがしちまったじゃねーか」
「大漁だな」
にやけ面のレイジにイヤミっぽく言ってやる。両手に抱えた手紙の山を見下ろしたレイジはまんざらでもなさそうに笑う。
「これでも昔に比べて倍近く減ったんだぜ」
レイジの手の中に目をやる。手紙は全部で二十通、この倍近く届いていたということは四十通か?展望台のコンクリートに胡座をかき、どさりと手紙を投げ落として一通ずつ目を通してゆく。
「スヨン、杏奈、シェリファ、メアリー、麗羅、ソーニャ、テレサ……」
長ったらしい呪文のようにブツブツと女の名前を唱えながら右から左へと手紙を移し変えて小山を築いてゆくレイジは一瞥もせず、つまらなそうな無表情で本に読み耽る鍵屋崎。興味ないふりを装っているが、苛立たしげにページをめくる手つきから奴が酷くぴりぴりしていることがわかった。最後の一通を頂点にのせる。手紙の小山を築き終えたレイジは「よっしゃ」と腕まくりし、嬉嬉として開封作業にとりかかる。手紙の山の中腹からランダムにとりだした封筒を日に翳して差出人名を確かめ、いそいそと封を破く。
「くさい」
おもわず鼻をつまむ。レイジが広げた便箋からすえた香辛料の刺激臭のようななんともいえない匂いが漂ってきた。
「ばか、香だよ。インドの」
どうやら便箋に香が焚き染められていたらしい。顔の前に漂ってきた異臭を手で払いながら好奇心にかられてレイジの手元を覗きこむ。膝這いに這ってレイジへと近寄った俺の目にとびこんできたのは便箋上のミミズの行進。
「……何語だ?」
毒を呷ったミミズが七転八倒してるようにしか見えない外国語は俺にはさっぱり理解できない。便箋の文面に目を走らせながらレイジが言う。
「ヒンドゥー語」
……男でも女でもとっかえひっかえ手当たり構わずの節操なしだとは知っていたが、人種はおろか国にもこだわらないなんて。レイジはある意味究極の平等主義者かもしれない、レイジの中にはそもそも国境線が存在しないのだ。次から次へと手当たり次第に便箋を広げてはとっかえひっかえ目を通してゆくレイジのにやけ面が無性に腹立たしくなって舌打ちしながら鍵屋崎の隣に戻る。ガサガサと手紙を広げる音が背後で聞こえる。レイジがうらやましいわけじゃない、そんなことはない絶対に。最初から期待してなかったから落ちこむ理由もない。だいたいこんな極東の刑務所宛に、俺宛の手紙が舞いこむわけがないのだ。
お袋とはとうに縁を切った。親でもなけりゃ子でもない。だから別に―……
「落ち込んでんのか」
背後で声。
「落ち込んでねえよ」
膝這いに這って俺の顔を覗きこんだレイジが一瞬逡巡するような表情を見せてから、俺の顔の前に一通の手紙を突き出す。
「やるよ」
「……は?」
馬鹿かコイツ。
「お前宛の手紙くれても嬉しくねーんだけど」
「たくさんきたからお裾分けだ」
真性の馬鹿だコイツ。
それとも天然で残酷か天然でお人よしなのだろうか、寛容で博愛精神あふれる偉大な王様の発言に俺は口を噤んで一寸迷うそぶりを見せてからおずおずと手紙を受け取る。そして、満足そうに微笑したレイジと手紙とを見比べて早速行動にでる。封筒から薄い便箋をとりだしてコンクリートの地面に広げ、丁寧にしごいて折り目をのばす。何のつもりだと怪訝な顔のレイジをよそに便箋をさっさと折りたたんで紙飛行機を作る。
俺は天性の不器用だから出来はお世辞にも素晴らしいとはいえないが、まあいいだろう。
完成した飛行機を角度を変えてためつすがめつしてから、ひょいと手首を撓らせる。俺が飛ばした紙飛行機は上手いこと風に乗り、ツバメのようにあざやかに滑空した。
「なんてことすんだよ!?」
俺の奇行をあぜんと見守っていたレイジがこれ以上なく情けない顔で訴えるが、無視して飛行機の行方を追う。小手をかざした俺の視線の先、不恰好な紙飛行機はよれよれと不安定な軌道を描いて遂に力尽き中庭に墜落。バスケットボールを追って駈けずり回っていたガキどもに踏まれ、揉みくちゃにされ、泥だらけになる。
「飛距離30メートルというところだな」
本から顔を上げた鍵屋崎が一言呟き、すぐにまた本に目を戻す。意外と飛んだな。上々な成果に気をよくした俺の隣ではレイジがコンクリートに手をついて大袈裟に嘆いていた。
「ひどい、ひどすぎる、親切を仇で返しやがって……娑婆の愛人のシェリファが真心こめた手紙なのにっ」
恋人じゃなくて愛人ときたか。レイジらしい。
「一枚くらいケチケチすんな、沢山余ってるだろうが」
俺を哀れんで分けてくれるくらいだからもとから執着は薄かったのだろう。案の定レイジの立ち直りは早かった。ため息をついて胡座をかいたレイジは手紙の山を両手に抱え直すと今初めて気付いたように鍵屋崎に目をやる。
「キーストアには手紙きたの?」
「来たのならこんなところにいない」
にべもない返答だ。
眼鏡越しの目を伏せて即答した鍵屋崎を「ふ~ん」と眺め、両腕に手紙を抱えたレイジが何か言いかけたときだ。
「やっほ、みんな集まってるね」
澄んだボーイソプラノに揃って振り向く。
今しも窓枠を越えて展望台に降り立ったのは燃えるような赤毛のガキ。鼻梁にそばかすが散った童顔にあどけない笑みを湛え、俺らの方に気安く手を振ったのは男娼のリョウ。にこにこ笑いながらスキップするように近づいてきたリョウの後ろ、窓枠を跨いで姿を見せたのはリョウと同房の黒人だ。名前は忘れたが、レイジと仲がいいからツラは知ってる。
人懐こく笑いながら俺の隣に腰掛けたリョウが手にしていたのは一通の手紙。よっぽど大事な人から届いた手紙らしく、もう一通、無造作に尻ポケットに突っ込まれてる手紙とは扱いからして違う。尻ポケットの手紙のほうが白い上質紙の封筒で高級感あふれてるのに。
「ようビバリー、その節は世話んなったな」
「いえいえ。またテキーラが必要になったらいつでも言ってくださいっす、王様と仲良くしといて損はないっすからね」
ビバリーと呼ばれたガキと和気藹々と会話してるレイジ、その言葉の何かがひっかかる。
「飲みたくなったら、じゃなくて必要になったら?」
囚人が酒を隠してるのはいまさら不思議に思わない。要領のいい囚人の中には看守に取り入って酒や煙草やガムなんかの禁制品をゲットする奴もいるし、博打が強い囚人の中には看守と賭けをして戦利品をぶんどるのを生き甲斐にしてる奴もいる。ビバリーは愛想もいいし世辞も上手いし看守受けは悪くなさそうだ。テキーラを手に入れる機会はいくらでもあったわけだ。
だからその点に関しては疑問は抱かなかったが妙な言い回しが気になった俺に、レイジが意味ありげに微笑する。
「また火炎瓶が必要になったら、な」
すとん腑に落ちた。
「ガキの頃よく火炎瓶作って遊んだなー。テキーラを瓶にいれて火をつけて投げる遊び」
「レイジさんどんな子供時代すごしたんすか」
火炎瓶にテキーラを流しこむ動作をしながら昔なつかしむレイジにあきれ顔のビバリーが一同を代表してツッコミをいれる。俺もチームにいた頃は火炎瓶のひとつやふたつ自前で用意したが、ガキの頃からそんな物騒なもんを持ち歩いたりはしなかった。
「で?お前は手紙もらえたのか」
回想から覚めたレイジにビバリーが腕を広げる。手ぶらの証明。
「仕方ないっすよ。ほら、僕のファミリーってビバリ―ヒルズ在住じゃないスか。届くまで時差があるんスよ、エアメールだし」
残念そうに主張したビバリーから俺の隣に腰掛けたリョウへと視線を転じるレイジ。
「お前は?」
「じゃーん」
待ってましたといわんばかりに顔の横に手紙を掲げる。得意満面、胸を反らしたリョウの右手に鍵屋崎を除く全員の視線が集中する。
「ママからだよ」
ママ。
舌の上で砂糖菓子がとけるような発音。
「そっちは?」
「ああ、パトロンの親父から」
顎をしゃくったレイジに凄まじい温度差のある声で答え、興味なさそうに尻ポケットを一瞥する。くるりと前を向いたリョウは母親から届いた手紙のことしか眼中になかった。
「視聴覚ホールから戻ってくるまでの間にもう何回も読み返しちゃった。ママってば相変わらずだ、元気にしてるみたいで良かったけど相変わらず男にだまされて泣いてばっかいるらしい。やっぱりリョウちゃんがいなきゃだめだって、僕がいないと寂しくて死んじゃいそうだって、はやく戻ってきてほしいって……まったく、どっちが子供だかわかりゃしないよ」
「参ったなあ」と弱りきって頭を掻いているが俺には愚痴を気取った惚気にしか聞こえなかった。事実、いとおしげに親からの手紙を見つめるリョウの顔は見てるこっちが憎らしくなるくらい幸せそうに笑み崩れている。どうやって人を出し抜こうかと企んでるいつもの笑顔ではない、素の笑顔。
「でね、ママってば僕がここに入ってから三人目の男ができたみたいなんだけどそいつとうまくいかなくて家出中なんだって。この手紙はホテルで書いたらしい。もうすぐ持ち金が底を尽くから早いとこホテルをでてかなきゃって悩んでるけど行くあてあるのかなあ、ママ美人だから変な虫にひっかかって場末の売春窟にでも売り飛ばされたらどうし」
「うるさい」
饒舌にまくし立てていたリョウをさえぎった鍵屋崎に全員の視線が集中する。それまで我関せずと本を読み耽っていた鍵屋崎がパタンと表紙を閉じ、本を膝においてからキッと向き直る。眼鏡越しのきつい眼差し。
「読書中なんだ、私語は慎んでくれないか」
「ああ、いたんだメガネくん」
最初から気付いていたくせに、今鍵屋崎が目に入ったといわんばかりの大仰さでリョウが驚く。神経質そうに眼鏡のブリッジを押し上げて顔を伏せた鍵屋崎をじろじろ眺め、高慢ちきに腕組みしてリョウがうそぶく。
「メガネくんは手紙きたの?」
「……………いや」
「ふうん」
「なんだ、言いたいことでもあるのか」
「べっつにー。ただ、だれからも手紙がこないなんて可哀相だなあって」
「きみに同情される筋合いはない。それにリョウ、きみこそ自分のおかれた立場を忘れてないか?ぼく達は服役中の犯罪者で身内の恥さらしだ、そんな人間に好き好んで手紙を書くような手合いはよほどの偽善者で自己本位な奉仕精神に酔いしれてるとしか思えない」
リョウの顔色が変わる。そりゃそうだろう、世界でいちばん大好きな母親を「自己本位な奉仕精神に酔いしれた偽善者」よばわりされたんじゃ頭にくるのも頷ける。
「ほんとは嫉妬してるんでしょ」
「嫉妬?」
理解できないというふうに眉をひそめた鍵屋崎を見下ろし、手紙で風を送りながらリョウが続ける。
「僕にはちゃんと手紙がきた。君にはきてない。ママはぼくのことを忘れてない、今でもぼくが大事だからこうして欠かさず手紙をくれる。君はどう?だれからも大事に思われてないから、出てくるのを待ち望まれてないから一通も手紙がこないんでしょ」
リョウの言葉が胸に突き刺さる。
確かにそれはそのとおりで、俺に一通も手紙がとどかないのは娑婆の人間は俺のことなんかとっくに忘れ去って普通に暮らしてるからだろう。お袋だってそうだ、いや、お袋こそいい例だ。自分が腹を痛めて産んだガキの存在なんか綺麗さっぱり忘れ去って今頃は新しい男をくわえこんでるにちがいない。
俺も鍵屋崎も、娑婆の連中にとっては一日も早く記憶から消し去りたい存在なのだ。
「可哀相だね、ホント」
リョウが首を振る。
「きみの大事な妹さんは大好きなお兄ちゃんに手紙ひとつくれないわけ?兄妹仲はよかったんでしょ。刑務所にとじこめられてひとりぼっちのお兄ちゃんのことが心配じゃないのかなー妹さんは。冷たいねー。まあ仕方ないよね、きみってば両親殺しちゃったんだし。それってつまり妹さんのパパとママも殺しちゃったわけでしょ、ぐさっと。つまりきみは妹さんにとってただひとりのお兄ちゃんであると同時にパパとママを殺した憎い仇でもあるわけだ、うん、なら仕方ないね手紙がこなくても」
「おい、そのへんに……」
ねちねちと陰険なイヤミを聞くに耐えきれずに腰を上げかけた俺を制したのは鍵屋崎。ずんずんと自分に歩み寄る鍵屋崎を見据えるリョウの目には露骨な優越感がある。
「こうも考えられる。パパとママが死んでおにいちゃんは刑務所にいれられて、ひとりぼっちになった妹さんは首を吊って―……」
「リョウさん!!」
調子に乗りすぎたリョウが言ってはならないことを口走りビバリーが止めに入ったが、鍵屋崎が手紙を奪い取るほうが早かった。
リョウの手から強引に手紙を奪い取った鍵屋崎がコンクリートの突堤に立ち、胸の前に手紙を翳す。
「!なにす、」
狼狽しきったリョウの叫びを無視し、鍵屋崎が手紙を引き裂く。
一度ではない。
二度、三度、四度、五度。原形を留めない断片にまで千切り捨てた手紙を両腕からこぼし、抜けるような青空の下にばらまく。
青い空に舞う幾千の白い紙片。
鮮烈なコントラストをさらに印象付けたのは、コンクリートの先端にたたずむ鍵屋崎の背中。孤独が人の形をとったような背中の向こうに降り注ぐのは、折から吹いた風にさらわれ、吹雪のように儚く淡く積もりゆく千々に裂かれた手紙の切れ端。
中庭に散らばっていた囚人たちがてのひらで紙片を受け、「何だ?」「何だ?」と顔をあげる。その目に映った光景が俺にはありありと想像できる。
展望台のへりに立ち尽くし、陽射しに反射したレンズの下に表情を押し隠し、紙吹雪にさえぎられた鍵屋崎の姿。
紙吹雪を演出した当の本人は落ち着き払ったしぐさでシャツに付着した紙片を払い落とすと何事もなかったように読書に戻った。妙にすっきりした顔でしおり紐をはさんだページをひらき、次のページをめくろうとした―
その時だ、リョウが鍵屋崎にとびかかったのは。
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