少年プリズン

まさみ

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六十一話

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 手ぬぐいが落ちた。
 「……………」
 僕の手をすりぬけて床へと落ちた手ぬぐいに目をやる。無意識な動作で首に手へと持ってゆき、さすり、はげしく咳き込む。瞼の裏側で爆ぜた光は豆電球の光芒。そこで初めて房に明かりが点っていることに気付いた。
 酸素が不足すると毛細血管が充血して瞼の裏側が赤く染まるんだな。
 妙なことに感心しながら顔を起こし、上方へと目を転じる。僕の前に立っていたのは長身痩躯の影。豆電球の逆光に塗りつぶされて判然としなかった表情が一歩を踏み出した途端に鮮明に暴かれる。

 サムライ。

 「なにをしようとしていた」
 平静な声音で問うたサムライの片手の先、僕の顔の横に突き立てられたのはよく使いこんだ木刀。僕の手から手ぬぐいをはじいた突風の正体はこれだ。入ってきたことにも気付かなかった、扉の開く音さえ聞こえなかった。足音どころか気配すら抑制して房へと入ってきたサムライは、切れ長の奥二重を底光りさせていた。
 「俺の手ぬぐいで首を吊るなと言っただろう」
 サムライの声にかすかに苦いものが混じる。
 開け放たれた扉の外がざわめいている。騒ぎを聞きつけた囚人たちが大挙して廊下に押し寄せてきたのだ。押し合いへし合いながら房の中を覗きこむ囚人たちを完全無視し、僕の目だけをまっすぐに見つめるサムライ。
 揺るぎない眼光。
 「首を吊ろうとしてたわけじゃない」
 「ではなんだ」 
 「首を吊ったらどんな気分がするか、試してみただけだ」
 半分本当で半分嘘だ。
 自分で自分の首を締めるのは不可能だ。首が絞まりきる前に手の力が緩んでしまうのが実状で、とても窒息には至らない。今のはただの準備に過ぎない、なにごとにも準備は欠かせない。自殺に踏みきる前段階、どの程度の握力なら窒息に至るか、どの程度の長さの布なら首を吊るのにちょうどいいか試していただけだ。
 本当に首を吊るときは裸電球が下がっている鉤に手ぬぐいを括って死ぬ、あの日のリュウホウのように。
 「命を粗末にする悪ふざけはよせ」
 サムライの説教臭い台詞に失笑する。
 「他人の命は粗末にしても自分の命は大事にしろと?人殺しの論理だな」
 そうだ。もう引き返せない、どうせ僕は人殺しなんだ。
 恵から軽蔑され世間から忌避される人殺しなのだからいっそのこと―
 「なんの騒ぎだ?」
 「サムライの房だ」
 「例の親殺しだよ」
 「どうやら首吊ろうとしたらしいぜ」
 「マジかよ、見たかった!」
 「まだ吊ってねえよ、これからだよ」
 廊下にたむろった野次馬が下卑た好奇心をあらわにして身を乗り出してくる。不躾な注視にさらされながら立ち尽くした僕の耳に響いてきたのは、窮屈な刑務所暮らしで刺激に飢えた囚人が一斉に手を叩いて囃し立てる声。
 「「吊れ!吊れ!」」
 「「吊れ!吊れ!」」
 「生きてたってなにもねえんだ、最低最悪の親殺しが生きてけるような場所はここにもどこにもねえ」
 「一日でもはやく首吊っちまうのがお前のためだ、お前のため」
 「処女奪われるまえに綺麗なケツのまま死ねよ」
 「そうだ死ね死ね」
 「あっさり死ね」
 「今この場で首を吊れ」
 「「吊れ!吊れ!」」
 「「吊れ!吊れ!吊れ」」
 吊れ吊れ吊れ……ふくれあがる濁声の合唱、かまびすしく手を打ち鳴らす音。猟奇的な興奮に目をぎらつかせ、顔を上気させた囚人の大群から目を逸らし、のろのろと床に手をのばし手ぬぐいを拾い上げる。手ぬぐいに付着した埃を軽く払い、もう一回……

 鋭い風が吹いた。

 「散れ」
 サムライが木刀を一閃しただけで、風に薙がれた葦のように場がしずまりかえった。境界線を超えて房の中にまで押し寄せようとしていた野次馬の先頭が木刀の切っ先をむけられ、気圧されたようにあとじさる。顔面蒼白であとじさった囚人が壁際まで下がるのを確認し、素早く扉を閉じる。
 扉の閉まる音はやけに重々しかった。
 扉の向こう側がら轟々たる非難の声が聞こえてくるが、サムライはどこ吹く風という顔をしている。常と変わらぬ能面のような無表情にどこか厳粛な翳りがさしているように見えたのは気のせいだろうか。
 力なく木刀をさげおろしたサムライはふたたび僕と向き合い、口を開く。
 「一週間前に死んだリュウホウという名の囚人が原因か」
 リュウホウ。
 「ちがう」
 思いがけず強くはげしく否定する。リュウホウは関係ない、僕はリュウホウの死に責任を感じて自殺するわけじゃない。自分で首を吊ろうと判断して行動にうつしたまでだ、リュウホウなんて関係ない。
 「僕は僕の死を自己決定しただけだ。リュウホウなんか関係ないだれがなんといおうが関係ない、僕はリュウホウの死に関してなんの罪悪感も責任も感じてない、彼は友人でもなんでもないただの他人だったんだから当たり前だそうだそれが当たり前だ」
 僕は悪くない。
 リュウホウが勝手に死んだんだ、勝手に首を吊ったんだ。
 それなのに、叫べば叫ぶほどむなしくなるのはどうしてただろう。叫べば叫ぶほど「ちがう」と胸の中でだれかが呟くのはなぜだろう。悪くない悪くない悪くない、延延と自己暗示をかけて鈍りがちな舌を動かす。僕は悪くない、僕はリュウホウを殺してなんか―……
 「では、なぜ謝る」
 「謝る?」 
 なにを言ってるんだこの男は。
 鸚鵡返しにサムライの言葉をくりかえし、当惑する。僕は口に出してリュウホウに謝罪したことなど一度もない、彼が生きてるときも死んでからもそんな真似したことがない。
 虚をつかれたような僕の顔を見て何かを悟ったらしく、サムライの表情にかすかな驚きが浮かぶ。
 「気付いてなかったのか」
 いや……これは、驚きというよりも。
 「なんでそんな顔をするんだ」
 一瞬にも満たない一刹那、サムライの目をかすめた淡い波紋は憐憫。なぜこの僕が、天才たるこの僕が、無教養なサムライに哀れまれなければならない?
 「謝っているんだ、鍵屋崎。おまえ自身が預かり知らぬところで、何度も何度も」
 「どういう……」
 「寝言だ」
 サムライが言う。
 「毎晩ひどくうなされながら謝っているんだ。悪かったとくりかえし、一週間前からずっと」
 寝言。
 夢の中でひどくうなされながら僕が謝っている?リュウホウに対して?何回も何回もくりかえし?
 「うそだ」
 「うそではない」
 「認めない」
 「まことだ」
 「アイツが勝手に首を吊ったんだ」
 房の床がぐにゃりと歪み、平衡感覚が狂う。嘘だ、そんなことがあるはずない。僕が夢の中でリュウホウに謝っているだって?プライドをまるごと投げ捨ててリュウホウに謝罪しているというのか?無意識の領域でうわ言を口走ろうが僕にはまったく覚えがないし記憶にない、そんなのはサムライの捏造だ、ぼくを動揺させて反応を楽しもうという意地の悪い試みの詭弁だ。そうだ、そうに違いない。
 「僕は殺しちゃいない」
 リュウホウは勝手に首を吊ったんだ、僕が殺したわけじゃない。僕が止める間もなく、僕が見つけ出すよりさきに、僕に弁解の余地も与えず。
 今でもおもいだす。寝ても覚めても脳裏にまざまざと浮かび上がる。
 排泄物の悪臭がたちこめた房の真ん中、本来なら裸電球がぶらさがっているはずの鉤に手ぬぐいを結び首を括ったリュウホウの死体。
 なにもかもから許し許されたような安らかな死に顔。
 「僕が殺したんじゃないそんなつもりで手ぬぐいを渡したんじゃないアイツが、アイツが勝手に―」
 「でも悪いと思ってるんだろう!?」
 ふいに肩を掴まれた。鼓膜が痺れるような悲痛な叫びに打たれたように顔をあげる。
 サムライは初めて見る顔をしていた。
 僕に初めて見せる顔、僕が初めて見る顔―こらえきれないものをこらえるかのような、生身の人間らしい、感情をあらわにした顔。唇を一文字に引き結び、能面らしい無表情をかなぐりすて、眉間に苦悩の皺を刻んだその顔はいつも見慣れた無精ひげのサムライより遥かに若く見えた。
 サムライの目がまっすぐに僕をのぞきこむ。
 目の奥の奥の本心まで暴き立てるような、一点の曇りない真剣をおもわせる揺るぎない眼光。
 「そう、だ」
 唇がひとりでに動く。
 「僕が悪いんだ」
 本当はわかっていた。ただ認めたくなかっただけだ。認めてしまえば今の僕を支えているプライドが崩壊し、二本の足で立ちつづけることさえむずかしくなる。無意識の領域では嘘がつけない、おそらく僕はひどく寝苦しい悪夢にさいなまれながらくりかえしくりかえしリュウホウに謝罪していたのだろう。
 悪かった。悪かった、リュウホウ。
 口の中で舌を動かしてみてもまるで実感がわかない。僕じゃないだれかがしゃべっているかのようだ。でもこれは現実だ、まぎれもない現実だ。
 僕はリュウホウを殺して両親を殺し、最愛の妹をひとりぼっちにさせた。
 みんなぼくが悪い。
 「リュウホウを殺したのも両親を殺したのも」
 父にとどめを刺したのはぼくだ、母を刺し殺したのはぼくだ。
 「恵をひとりぼっちにしたのも」
 お前だ、カギヤザキスグル。
 「すべての原因と責任は、ぼくにある」
 名前は偽れても本性までは偽れない。僕の本性は親殺しの人殺しだ、頭の狂った失敗作だ。僕さえいなければリュウホウは死ななくてすんだ、恵はしあわせになれた。だからいま僕がいなくなればリュウホウを生き返らせることはできなくてもせめて恵だけは―……
 「鍵屋崎」
 強い力で肩を掴まれ、顔を起こされる。頭ふたつぶん高いところにサムライの顔があった。
 裸電球の光を背負ったサムライが、辛抱強く言い聞かせるように口を開く。
 「思う存分悔やんだら自分を責めるのはよせ」
 のろのろと顔をあげ、サムライの目を見る。揺るぎない眼光を少しだけやわらげ、表情をゆるめる。サムライの目をぬくめた光の正体は厳しさと表裏一体の優しさに似たもの、あるいは……
 力強く肩を握り締め、まっすぐに僕の目をのぞきこみ、サムライが断言する。
 「俺はお前を責めない。だからお前も自分を責めるな」
 そして今、僕が最も欲していた言葉を呟く。彼らしく、そっけなく。
 
 「お前は正しくないが、間違っても無い」 
 
 『間違ってない』
 そのとき初めて僕は、鼓膜よりさきに胸に染みる言葉が存在することを知った。
 ずっと悩んでいた、気が狂いそうになるほど考えつづけていた。
 僕はいつどこで間違えたのだろうか、いつに戻ればやりなおせるのだろうか。リュウホウが首を吊る前、ジープの荷台から降りる前、パトカーに乗りこむ前、恵の手からナイフを奪い取る前。試験管の中の受精卵の段階まで戻ればすべてがまるくおさまるのだろうか、こんなふうな結果にはならなかったのだろうか。
 いつどこで判断を誤ったのだろう、選択をまちがえたのだろう。
 ずっとそればかり考え続けていた。僕は天才だ、天才の僕が判断を誤るはずがない。おろかな過信。
 僕は間違っていた、さまざまなことを間違いすぎてなにを間違えたのか気付かないほどに間違え続けてきた。ここにきてからもそうだ、あの時リョウとレイジの制止をふりきってリュウホウを追っていれば彼を助けられたはずなのにそうしなかった。
 
 でも、恵を守ろうとした自分の気持だけは間違ってると思いたくない。
 リュウホウを助けようとした自分の気持だけは間違ってると思いたくない。

 たとえそれが実現できなくても逆の結果に終わってしまったとしても、恵を守りたかったのは本当だ。恵を守り通したかったのは本当なのだ。僕は本当にリュウホウを助けたかった、彼にまとわりつかれて迷惑していたのも本音だが放っておけなかったのも事実なのだ。

 恵もリュウホウも助けたかった。救いたかった。
 そしてそれ以上に、彼らを救うことで自分が救われたかった。

 「………」
 胸が詰まる。
 息ができない。
 物心ついてから僕は泣いたことがない。出生時、受精卵を移植されてから十ヶ月が経過して母胎の体外にでたときは肺に酸素をとりいれるために産声をあげて泣いたはずだ。でも、その時のことは覚えてない。だから僕は一度も泣いたことがないのだ、自分が覚えているかぎりは、幼少時からずっと。
 わからない。泣きたくなるのはどういう時なのか、その時どういう気持なのか。
 だから今もうまく泣けない。目は乾いて涙はでてこない。ただ、サムライに肩をつかまれたままうつむいただけだ。
 ふいに、全身から力がぬけてゆく。
 ぐったり弛緩した体を背後の壁にあずけてずり落ちる。目ににとまったのは足もとに落ちた手ぬぐい、もう必要がなくなった手ぬぐい。
 床に尻餅をついた僕の前にぶっきらぼうにさしだされたのは一本の手。
 手を辿ってすべらせると、無愛想なサムライがいた。
 急かさず促さず、放っておけばいつまでもそうして手を突き出しているだろうサムライをよわよわしく仰ぎ、呟く。
 「サムライ」
 「なんだ」
 「きみはぼくの友達か?」
 『生き残りたければ友人をつくれ』
 安田の声と顔を思い出す。彼はたしかにそう言った。僕は友人の作り方など知らないし、目の前の男がそうだとはこれっぽっちも思わない。けど……
 僕の声は不明瞭にかすれて相当聞き取りにくかったはずだ。しかしサムライは眉ひとつひそめるでもなく、億劫そうな様子などみじんも見せず、凪のような目で僕を見つめている。
 「お前が決めろ」
 どこまでもそっけない声だった。
 壁に背中をあずけて考えこむ。今度こそ、今度という今度こそ選択を間違ってはいけない。後悔するような選択をしてはいけない。自虐と自責をはきちがえて自分を苦しめるような愚の骨頂をくりかえしてはいけない。

 そして決断した。
 リュウホウのためでも恵のためでもなく、自分のために。

 宙にのばしかけ、ためらい、ひっこめかけて止める。今度は迷わなかった。袖の上からしっかりとサムライの手首を掴み、立ち上がる。
 僕の判断は正しいんだろうか、間違っているんだろうか。
 今はわからなくてもこのさききっとわかるはずだ、判断の正否は常に結果がでてからでないとわからないのだ。
 「サムライ」
 サムライの手をはなし、下を向く。
 「なんだ」
 「昨日、僕が寝ているのを見て房をでていったのは芝居を見抜いていたからか。それとも寝言が耳に入らないようにという配慮か」
 サムライは心なしばつが悪そうな顔をした。
 「前者だ」
 ぶっきらぼうに言い添えた横顔を見て、ひとつ発見する。
 サムライは案外うそがへただ。
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