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四十九話
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「茶色の毛並みの雑種のサバーカ」
薄い唇をめくりあげ、爬虫類の笑みを刻んだサーシャが優位を誇るようにゆったりとレイジの頭上に手を伸ばす。
「お前は従順でいい犬だ。東の王を名乗るより私の愛犬として靴を磨くほうが汚らしい雑種のお前にはふさわしい。どうだ?私の犬にならないか。待遇は保証するぞ」
あはは、笑っちゃうほど陰湿だ。サーシャってばいい性格してるね。
一方レイジはサーシャの靴を舐める行為に夢中で憎まれ口を叩き返す余裕もないらしく、戯れに髪をかきまわされても反応しようとしない。レイジの無抵抗・無反応を従順な忠誠の証ととったか、表情に乏しい顔に喜色を覗かせてサーシャが笑う。
「―止めても無駄だ」
力強い声が聞こえてきた。
鍵屋崎の隣、今にもとびだしていきかねない形相で片ひざついたロンの目にはまっすぐな怒りが燃えていた。もう一分一秒たりともこんな胸糞悪い光景は見てられないと息巻いたロンを小声で制したのは鍵屋崎だ。
「なにをする気だ」
「もう辛包できねえ」
ロンの目は真剣だった。
さらになにか言い募ろうとした鍵屋崎が何かに気付いたようにはっとし、そのまま小声で話し出す。最初は驚き、次に理解。ロンの顔に去来した表情を正確に読み取った僕は、声がよく聞こえるようにとコンクリートの手摺から身を乗り出しかけ……
「うわっと!?」
あぶない!
お尻をずらした拍子にまたも手摺から転落しかけ、虚空で腕をばたばたさせる。間一髪、後ろ向きに転落する前に手足を振ってバランスを取り戻した僕はほっと胸を撫で下ろす。下はコンクリートの固い地面だ、落ちたら骨折は免れないだろう。最悪即死だ。九死に一生をえた僕の鼻孔になにか焦げ臭い匂いがもぐりこむ。
何の匂いだろう?それにこの、ぱちぱちと鼓膜を炙る乾いた音は。
異臭の源をさがしてぐるり視線を巡らした僕の目の前を、炎の帯を描いてよこぎったのは一冊の本。レイジが武器として携帯し、先刻鍵屋崎のピンチを救ったまま存在を忘れ去られていた世界一のベストセラー……聖書。
赤々と燃えながら宙を飛んだ聖書はロンと鍵屋崎をとりおさえていた少年のひとりにぶつかり、瞬く間にパッと燃え上がった。
「ぎゃあああああああああ!」
炎に巻かれて絶叫する少年を手をつかねて取り巻く仲間たち、拘束が緩んだ隙をついて示し合わせたように駆け出すロンと鍵屋崎。
一直線に加速したロンが頭からサーシャの腰に激突、そのまま腕を前に突き出して押し倒す。もんどり打って地面に突っ伏したサーシャがこめかみを押さえて上体を起こす。
白い五指の間から滴っていたのは、一筋の血。
「―――クローフィの臭い雑種が」
死を招く骸骨のような手を夜空にさしのべ、サーシャが咆哮する。その手にすべりこんできたのは一振りのナイフ。家臣が投げたナイフを宙でキャッチしたサーシャが腕を一閃、地面から上体を起こそうとしていたロンの頭上に凶刃が迫る。
「ロ、」
鍵屋崎が叫び、風が起こる。
裂帛の疾風を起こして屋上を駆け抜けたレイジが間一髪ロンを押し倒し、唸りをあげて迫りきたナイフの軌道から救出する。錐揉み状に転げながら3メートル向こうで停止したレイジは、自分の腕の下で目を回しているロンを心配そうに覗きこむ。
「生きてるか?生きてるな」
「生きてるよ」
「上出来だ」
ふてくされたように吐き捨てたロンに極上の笑顔を湛え、ひとり蚊屋の外におかれていた鍵屋崎へと向き直るレイジ。
「キーストアも無事か?」
「非常に不本意だがな」
やれやれ、のんきに歓談してる場合じゃないでしょうに。王様は余裕だね。
「!」
はじかれたようにレイジを押し倒すロン。ロンの反応があと一瞬遅れていれば、レイジの前髪をかすめたナイフは狙い違わず彼の頚動脈を切り裂いていたことだろう。助けたり助けられたり相互扶助の精神ってやつですか?美しい友情だね。
スローモーションのように緩慢な動きで立ち上がったサーシャが掌中のナイフをぎりぎりと握り締め、呪詛を吐く。
「血の汚れた雑種のくせに同胞を庇うとは上等な真似をしてくれる。先刻まで私の足もとに四つ脚ついて這いつくばり靴を舐め、強者には節操なく媚びへつらう雑種の本性を露呈していたくせに……」
「顎がこったぜ」
わざとらしく顎を撫でながらのレイジの挑発に、サーシャの目に殺意が宿る。
「躾のなってない犬の末路はふたつ……去勢か屠殺だ」
「いいか?今から当たり前のことを言うから耳の穴かっぽじってよおく聞け」
芝居がかったため息をつき、レイジが言う。
「I am not a dog. You are a goddamn guy.」
綺麗な発音だった。なめらかで非の打ち所がない。
僕みたいな日本生まれ日本育ちの英国系にはイヤミにしか聞こえないほどネイティブな発音だけど、ここで問題にすべきはその内容。生粋ロシア人のサーシャにもレイジが言わんとしていることが汲み取れたようで、その目に氷点下の火花が散る。
「北棟の威信に賭けて今晩お前を生きて帰すわけにはいかなくなった」
「そんな大義名分じゃなく、皇帝の本音が聞きたいね」
「私自身の名誉に賭けて、お前を生きて帰すわけにはいかなくなった」
「ああ、それならいいぜ。踊ってやるよ」
余裕たっぷりにサーシャの挑戦を受けたレイジへと腰だめにナイフを構えて突進してゆくサーシャ、コンクリートを踏み割らんばかりの気迫がびりびりと大気を震わせ、鼓膜が破れそうな錯覚に襲われる。死角から巧みに浴びせられる斬撃をひらりひらりとかわし、赤子の手をひねるようにサーシャを翻弄するレイジだが弧を描いて戻ってきたナイフがそのシャツを切り裂く。
一進一退のすさまじい攻防戦。
一瞬でも隙を見せたら負け、敗北、死だ。
皇帝と王の対決を金縛りにあったように見つめる北の少年たち、人間ばなれしたブラックワーク上位陣の実力に度肝をぬかれた彼らの目の前で熾烈な死闘を繰り広げながらサーシャが呟く。
「どうした?逃げてばかりだな」
「あのな……」
ナイフを弄びつつのサーシャの台詞に、レイジはあきれたふうに首を振る。
「ずるいと思わないかこの状況?お前はナイフを持ってるのに俺はこのとおり手ぶら。アンフェアもいいところだよ」
「無敵の王を称すなら徒手で勝利を奪いとれ」
「お前はそれで勝って満足なのか?誇り高い北の皇帝サマともあろうお方が自分だけナイフ持って対戦相手にはなにひとつ武器を与えずに勝利したとあっちゃ、かえって他の棟の連中に馬鹿にされるぜ」
「なぜ私が馬鹿にされなければならない、奇妙なことを言うな。自分の胸に手をあてて考えて見ろ……お前は収監以来無敗を誇るブラックワークの覇者であらゆる武器の扱いに通じている。ナイフ?聖書で人を廃人にできるお前には無用の長物だ。私はこの目で見たぞ、お前が聖書ひとつで枯れ草のように敵を薙ぎ倒してゆくさまを」
「今は手ぶらなんだけど、優しく誇り高い皇帝さまは勝負の公平を期すためにナイフを貸し与えてくれたりは―……」
「案ずるな、そんな気は毛頭ない」
「……ケチ」
唇をとがらしてぼやいたレイジだが、僕にはどうしてもレイジが敗北する図が想像できない。
たしかにレイジは手ぶらで、現時点では分が悪い。息継ぐ間もなく繰り出されるサーシャの刺突に後手後手にまわり、防御に専念しているのが現状だ。でも、どうしてもレイジが負ける気がしないのだ。
根拠はあの笑顔だ。
戦闘中でもレイジは微笑みを絶やさなかった。一方のサーシャがさすがに息を乱してレイジを追い詰めているというのに、追い詰められてる側のレイジの笑みは片時も薄れない。
まるで、こうなるのを計算してたといわんばかりの―
レイジがサーシャの腕を蹴り、天高くはじかれたナイフがロンと鍵屋崎の頭上に落ちてくる。ロンはともかく反射神経の鈍い鍵屋崎のことだ、避けられるはずがない。
でも、僕の予想はまたしても裏切られた。手錠でつながれてたのが幸いしたらしく、ロンの反応が早かったおかげで鍵屋崎も危地を脱することができた。同時に手をかざし、手錠の鎖でナイフを撃ち落とす。サーシャが舌打ちし、かちゃんと地面に落ちたナイフめがけて突撃を試みる。
サーシャの目の前でナイフが蹴りとばされ、さらに遠方に転がる。
「―小ざかしいイポーニャめ」
蹴り上げた張本人の鍵屋崎は自分がしたことが信じられないという驚きの表情をしていた。本当なら鍵屋崎を殺したいところだがナイフを拾い上げるのが先だと優先順位をつけたサーシャが踵を返し、鞭打たれたように跳ね起きたロンがその背を追う。
鍵屋崎を道連れにして。
「そうはさせるか!」
捨て身でサーシャの足にとびつき、転ばせる。
鍵屋崎を巻き添えにして勢いよく転んだロン、その下でうめくサーシャ。転んだ衝撃で意識が朦朧としてるのだろう、サーシャに隙ができたのを見逃さずにその場に現れたレイジが素早くナイフを拾い上げる。
「Lick my shoes, and it is the emperor.(今度はお前が俺の靴を舐める番だぜ、皇帝)」
王者の貫禄でサーシャを跪かせたレイジが、のろのろとサーシャの上からどいたロンを振り向き、さわやかに言う。
「とっくに12時過ぎた、舞踏会はおしまいだ。お姫様はかえしてもらうぜ」
「~~~だれが姫だ」
「我が身を挺して俺を助けてくれたのは愛してるからだろ?いい加減素直になれよ」
「いいか、よく聞けよ。俺があちこり擦りむきながらもサーシャを足止めしたのはな……」
「うん?」
怒りをおさえこむように深呼吸したロンが忌々しげにレイジを睨む。
「下賎で卑しい混血児の底力ってやつを、奢り高ぶったロシアの皇帝気取りに見せつけてやりたかったからだ。それだけだ。断じてお前のためじゃねえ」
「つれねえなあ」
そこがいいんだけどと苦笑するレイジ。なまぬるい痴話喧嘩と大団円ぽい雰囲気を手摺の特等席に腰掛けて眺め、やれやれとため息をつく。今宵の舞踏会はこれで幕切れ、かな。招待状まで書いていろいろ手配したのにサーシャの敗北で幕を閉じるなんて、骨折り損のくたびれもうけもいいところじゃないか。第一、頭のいかれたサーシャのことだ。意識を取り戻し次第「レイジに負けたのはお前のせいだ」とかわけわからない根拠不明の言いがかりをつけて僕に八つ当たりしかねない。
サーシャは僕の味方じゃない。サーシャにとっての僕は薄汚い東の犬、それだけだ。レイジのまわりを嗅ぎ回せるには便利だけどそれ以上の価値はない。北の皇帝が東の王に負けた今、サーシャの怒りの矛先が東棟の人間である僕に向かないという保証はどこにもないのだ。
まいっちゃうよね。スパイはコウモリ、コウモリは嫌われ者。
ネズミでもなけりゃ鳥でもない、両陣営から憎まれて使い捨てにされるのが宿命。
まあ、僕もそれを承知でサーシャにくっついてたんだから仕方ない。計算外だったのはサーシャの敗北。たしかにレイジはでたらめに強いけど、北の人間数十名でかかっても倒せないほどじゃないと高をくくってたのだ。
ああもう、なにもかも台無しだ。こんなしらけた幕切れアリかよ。
なんだか腹がたってきた。レイジが勝ったせいで僕の立場は一気に悪くなる。北のスパイとして動き回ってた僕はこれからどうしたらいい?サーシャの信用を失えば甘い汁が吸えなくなるじゃないか。
屋上中央で雑談してる三人に目をやる。レイジ、ロン、鍵屋崎。
和やかな雰囲気がムカツク。そりゃレイジは気分いいだろう、自分が勝利したんだから。ロンだってまんざらじゃないはずだ、口では文句言ってても自分のピンチも顧みずにレイジが助けにきてくれたのだ。今回の一件でちょっとはレイジを見直しただろう。
そして、ふたりと自然に話してる鍵屋崎。そもそも僕が巻き込んだんだけど、アイツの顔を見てると無性にむしゃくしゃしてくる。ちょっとは怯えるか泣くかすればまだ可愛げがあるのに、ナイフをつきつけられた時も平然と取り澄ました顔して気に入らない。
アイツには怖いものがないのか?
そんな人間いるわけない。だれにだってひとつやふたつ怖いものがあるはずだ。
僕には怖いものがたくさんある。
人に殴られるのは怖い、殺されるのも怖い。だからそうならないために人を利用することにした。にこにこ人懐こくしてれば人に嫌われることもない、憎まれることもない、無闇やたらと殴りつけられることもない。僕は利己的な人間だから人を蹴落とすことなんてなんとも思わない。良心だって痛まない。そうしないと生きてこれなかったからだ。
そして今、僕がいちばん怖いのはサーシャだ。
正確にはサーシャの庇護を失った後のここでの生活だ。次のパトロンをみつけるまでにかかる時間に思い馳せると気が重い。人格とか人間性はさておき、金払いに関してはサーシャは最高に気前がいい上客だったのに……
むかむかしながらふと足もとを見下ろすとナイフが転がっていた。サーシャの四次元ポケットからでてきたナイフの一本だろう。なにげなくナイフを手にとり、屋上中央の三人の顔と見比べる。
レイジ、ロン、鍵屋崎。
「まったく、大損だよ」
全部お前らのせいだ。
いつもへらへら笑ってるレイジも感じの悪い仏頂面のロンも気に食わないけど、いちばん気に入らないのはアイツだ。ちゃんとパパとママが揃った家庭に生まれたにも関わらずパパとママを殺してわざわざこんなくそったれた刑務所にきたアイツ、飢えることも殴られることもなく裕福な家庭でぬくぬく育てられた日本人、世の中のなにも怖くないって顔で人を見下してるイエローモンキー。
お前だよ鍵屋崎。
気付いたとき、僕はナイフの柄をぎゅっと握り締めていた。見えないなにかを握りつぶそうとでもいうように指に力をこめ、おもむろに腕を振り上げる。僕の視線の先にはレイジとロンと鍵屋崎がいた。
笑ってるのはレイジひとりだけど遠くから見ると友達同士に見えなくもない輪を作った、三人の少年。
その中のひとりに狙いをつけ、高く高くナイフを放る。
さよならメガネくん。
たった今気付いたけど、僕、きみのことが大嫌いだったらしい。自分で思ってたよりずっと。
薄い唇をめくりあげ、爬虫類の笑みを刻んだサーシャが優位を誇るようにゆったりとレイジの頭上に手を伸ばす。
「お前は従順でいい犬だ。東の王を名乗るより私の愛犬として靴を磨くほうが汚らしい雑種のお前にはふさわしい。どうだ?私の犬にならないか。待遇は保証するぞ」
あはは、笑っちゃうほど陰湿だ。サーシャってばいい性格してるね。
一方レイジはサーシャの靴を舐める行為に夢中で憎まれ口を叩き返す余裕もないらしく、戯れに髪をかきまわされても反応しようとしない。レイジの無抵抗・無反応を従順な忠誠の証ととったか、表情に乏しい顔に喜色を覗かせてサーシャが笑う。
「―止めても無駄だ」
力強い声が聞こえてきた。
鍵屋崎の隣、今にもとびだしていきかねない形相で片ひざついたロンの目にはまっすぐな怒りが燃えていた。もう一分一秒たりともこんな胸糞悪い光景は見てられないと息巻いたロンを小声で制したのは鍵屋崎だ。
「なにをする気だ」
「もう辛包できねえ」
ロンの目は真剣だった。
さらになにか言い募ろうとした鍵屋崎が何かに気付いたようにはっとし、そのまま小声で話し出す。最初は驚き、次に理解。ロンの顔に去来した表情を正確に読み取った僕は、声がよく聞こえるようにとコンクリートの手摺から身を乗り出しかけ……
「うわっと!?」
あぶない!
お尻をずらした拍子にまたも手摺から転落しかけ、虚空で腕をばたばたさせる。間一髪、後ろ向きに転落する前に手足を振ってバランスを取り戻した僕はほっと胸を撫で下ろす。下はコンクリートの固い地面だ、落ちたら骨折は免れないだろう。最悪即死だ。九死に一生をえた僕の鼻孔になにか焦げ臭い匂いがもぐりこむ。
何の匂いだろう?それにこの、ぱちぱちと鼓膜を炙る乾いた音は。
異臭の源をさがしてぐるり視線を巡らした僕の目の前を、炎の帯を描いてよこぎったのは一冊の本。レイジが武器として携帯し、先刻鍵屋崎のピンチを救ったまま存在を忘れ去られていた世界一のベストセラー……聖書。
赤々と燃えながら宙を飛んだ聖書はロンと鍵屋崎をとりおさえていた少年のひとりにぶつかり、瞬く間にパッと燃え上がった。
「ぎゃあああああああああ!」
炎に巻かれて絶叫する少年を手をつかねて取り巻く仲間たち、拘束が緩んだ隙をついて示し合わせたように駆け出すロンと鍵屋崎。
一直線に加速したロンが頭からサーシャの腰に激突、そのまま腕を前に突き出して押し倒す。もんどり打って地面に突っ伏したサーシャがこめかみを押さえて上体を起こす。
白い五指の間から滴っていたのは、一筋の血。
「―――クローフィの臭い雑種が」
死を招く骸骨のような手を夜空にさしのべ、サーシャが咆哮する。その手にすべりこんできたのは一振りのナイフ。家臣が投げたナイフを宙でキャッチしたサーシャが腕を一閃、地面から上体を起こそうとしていたロンの頭上に凶刃が迫る。
「ロ、」
鍵屋崎が叫び、風が起こる。
裂帛の疾風を起こして屋上を駆け抜けたレイジが間一髪ロンを押し倒し、唸りをあげて迫りきたナイフの軌道から救出する。錐揉み状に転げながら3メートル向こうで停止したレイジは、自分の腕の下で目を回しているロンを心配そうに覗きこむ。
「生きてるか?生きてるな」
「生きてるよ」
「上出来だ」
ふてくされたように吐き捨てたロンに極上の笑顔を湛え、ひとり蚊屋の外におかれていた鍵屋崎へと向き直るレイジ。
「キーストアも無事か?」
「非常に不本意だがな」
やれやれ、のんきに歓談してる場合じゃないでしょうに。王様は余裕だね。
「!」
はじかれたようにレイジを押し倒すロン。ロンの反応があと一瞬遅れていれば、レイジの前髪をかすめたナイフは狙い違わず彼の頚動脈を切り裂いていたことだろう。助けたり助けられたり相互扶助の精神ってやつですか?美しい友情だね。
スローモーションのように緩慢な動きで立ち上がったサーシャが掌中のナイフをぎりぎりと握り締め、呪詛を吐く。
「血の汚れた雑種のくせに同胞を庇うとは上等な真似をしてくれる。先刻まで私の足もとに四つ脚ついて這いつくばり靴を舐め、強者には節操なく媚びへつらう雑種の本性を露呈していたくせに……」
「顎がこったぜ」
わざとらしく顎を撫でながらのレイジの挑発に、サーシャの目に殺意が宿る。
「躾のなってない犬の末路はふたつ……去勢か屠殺だ」
「いいか?今から当たり前のことを言うから耳の穴かっぽじってよおく聞け」
芝居がかったため息をつき、レイジが言う。
「I am not a dog. You are a goddamn guy.」
綺麗な発音だった。なめらかで非の打ち所がない。
僕みたいな日本生まれ日本育ちの英国系にはイヤミにしか聞こえないほどネイティブな発音だけど、ここで問題にすべきはその内容。生粋ロシア人のサーシャにもレイジが言わんとしていることが汲み取れたようで、その目に氷点下の火花が散る。
「北棟の威信に賭けて今晩お前を生きて帰すわけにはいかなくなった」
「そんな大義名分じゃなく、皇帝の本音が聞きたいね」
「私自身の名誉に賭けて、お前を生きて帰すわけにはいかなくなった」
「ああ、それならいいぜ。踊ってやるよ」
余裕たっぷりにサーシャの挑戦を受けたレイジへと腰だめにナイフを構えて突進してゆくサーシャ、コンクリートを踏み割らんばかりの気迫がびりびりと大気を震わせ、鼓膜が破れそうな錯覚に襲われる。死角から巧みに浴びせられる斬撃をひらりひらりとかわし、赤子の手をひねるようにサーシャを翻弄するレイジだが弧を描いて戻ってきたナイフがそのシャツを切り裂く。
一進一退のすさまじい攻防戦。
一瞬でも隙を見せたら負け、敗北、死だ。
皇帝と王の対決を金縛りにあったように見つめる北の少年たち、人間ばなれしたブラックワーク上位陣の実力に度肝をぬかれた彼らの目の前で熾烈な死闘を繰り広げながらサーシャが呟く。
「どうした?逃げてばかりだな」
「あのな……」
ナイフを弄びつつのサーシャの台詞に、レイジはあきれたふうに首を振る。
「ずるいと思わないかこの状況?お前はナイフを持ってるのに俺はこのとおり手ぶら。アンフェアもいいところだよ」
「無敵の王を称すなら徒手で勝利を奪いとれ」
「お前はそれで勝って満足なのか?誇り高い北の皇帝サマともあろうお方が自分だけナイフ持って対戦相手にはなにひとつ武器を与えずに勝利したとあっちゃ、かえって他の棟の連中に馬鹿にされるぜ」
「なぜ私が馬鹿にされなければならない、奇妙なことを言うな。自分の胸に手をあてて考えて見ろ……お前は収監以来無敗を誇るブラックワークの覇者であらゆる武器の扱いに通じている。ナイフ?聖書で人を廃人にできるお前には無用の長物だ。私はこの目で見たぞ、お前が聖書ひとつで枯れ草のように敵を薙ぎ倒してゆくさまを」
「今は手ぶらなんだけど、優しく誇り高い皇帝さまは勝負の公平を期すためにナイフを貸し与えてくれたりは―……」
「案ずるな、そんな気は毛頭ない」
「……ケチ」
唇をとがらしてぼやいたレイジだが、僕にはどうしてもレイジが敗北する図が想像できない。
たしかにレイジは手ぶらで、現時点では分が悪い。息継ぐ間もなく繰り出されるサーシャの刺突に後手後手にまわり、防御に専念しているのが現状だ。でも、どうしてもレイジが負ける気がしないのだ。
根拠はあの笑顔だ。
戦闘中でもレイジは微笑みを絶やさなかった。一方のサーシャがさすがに息を乱してレイジを追い詰めているというのに、追い詰められてる側のレイジの笑みは片時も薄れない。
まるで、こうなるのを計算してたといわんばかりの―
レイジがサーシャの腕を蹴り、天高くはじかれたナイフがロンと鍵屋崎の頭上に落ちてくる。ロンはともかく反射神経の鈍い鍵屋崎のことだ、避けられるはずがない。
でも、僕の予想はまたしても裏切られた。手錠でつながれてたのが幸いしたらしく、ロンの反応が早かったおかげで鍵屋崎も危地を脱することができた。同時に手をかざし、手錠の鎖でナイフを撃ち落とす。サーシャが舌打ちし、かちゃんと地面に落ちたナイフめがけて突撃を試みる。
サーシャの目の前でナイフが蹴りとばされ、さらに遠方に転がる。
「―小ざかしいイポーニャめ」
蹴り上げた張本人の鍵屋崎は自分がしたことが信じられないという驚きの表情をしていた。本当なら鍵屋崎を殺したいところだがナイフを拾い上げるのが先だと優先順位をつけたサーシャが踵を返し、鞭打たれたように跳ね起きたロンがその背を追う。
鍵屋崎を道連れにして。
「そうはさせるか!」
捨て身でサーシャの足にとびつき、転ばせる。
鍵屋崎を巻き添えにして勢いよく転んだロン、その下でうめくサーシャ。転んだ衝撃で意識が朦朧としてるのだろう、サーシャに隙ができたのを見逃さずにその場に現れたレイジが素早くナイフを拾い上げる。
「Lick my shoes, and it is the emperor.(今度はお前が俺の靴を舐める番だぜ、皇帝)」
王者の貫禄でサーシャを跪かせたレイジが、のろのろとサーシャの上からどいたロンを振り向き、さわやかに言う。
「とっくに12時過ぎた、舞踏会はおしまいだ。お姫様はかえしてもらうぜ」
「~~~だれが姫だ」
「我が身を挺して俺を助けてくれたのは愛してるからだろ?いい加減素直になれよ」
「いいか、よく聞けよ。俺があちこり擦りむきながらもサーシャを足止めしたのはな……」
「うん?」
怒りをおさえこむように深呼吸したロンが忌々しげにレイジを睨む。
「下賎で卑しい混血児の底力ってやつを、奢り高ぶったロシアの皇帝気取りに見せつけてやりたかったからだ。それだけだ。断じてお前のためじゃねえ」
「つれねえなあ」
そこがいいんだけどと苦笑するレイジ。なまぬるい痴話喧嘩と大団円ぽい雰囲気を手摺の特等席に腰掛けて眺め、やれやれとため息をつく。今宵の舞踏会はこれで幕切れ、かな。招待状まで書いていろいろ手配したのにサーシャの敗北で幕を閉じるなんて、骨折り損のくたびれもうけもいいところじゃないか。第一、頭のいかれたサーシャのことだ。意識を取り戻し次第「レイジに負けたのはお前のせいだ」とかわけわからない根拠不明の言いがかりをつけて僕に八つ当たりしかねない。
サーシャは僕の味方じゃない。サーシャにとっての僕は薄汚い東の犬、それだけだ。レイジのまわりを嗅ぎ回せるには便利だけどそれ以上の価値はない。北の皇帝が東の王に負けた今、サーシャの怒りの矛先が東棟の人間である僕に向かないという保証はどこにもないのだ。
まいっちゃうよね。スパイはコウモリ、コウモリは嫌われ者。
ネズミでもなけりゃ鳥でもない、両陣営から憎まれて使い捨てにされるのが宿命。
まあ、僕もそれを承知でサーシャにくっついてたんだから仕方ない。計算外だったのはサーシャの敗北。たしかにレイジはでたらめに強いけど、北の人間数十名でかかっても倒せないほどじゃないと高をくくってたのだ。
ああもう、なにもかも台無しだ。こんなしらけた幕切れアリかよ。
なんだか腹がたってきた。レイジが勝ったせいで僕の立場は一気に悪くなる。北のスパイとして動き回ってた僕はこれからどうしたらいい?サーシャの信用を失えば甘い汁が吸えなくなるじゃないか。
屋上中央で雑談してる三人に目をやる。レイジ、ロン、鍵屋崎。
和やかな雰囲気がムカツク。そりゃレイジは気分いいだろう、自分が勝利したんだから。ロンだってまんざらじゃないはずだ、口では文句言ってても自分のピンチも顧みずにレイジが助けにきてくれたのだ。今回の一件でちょっとはレイジを見直しただろう。
そして、ふたりと自然に話してる鍵屋崎。そもそも僕が巻き込んだんだけど、アイツの顔を見てると無性にむしゃくしゃしてくる。ちょっとは怯えるか泣くかすればまだ可愛げがあるのに、ナイフをつきつけられた時も平然と取り澄ました顔して気に入らない。
アイツには怖いものがないのか?
そんな人間いるわけない。だれにだってひとつやふたつ怖いものがあるはずだ。
僕には怖いものがたくさんある。
人に殴られるのは怖い、殺されるのも怖い。だからそうならないために人を利用することにした。にこにこ人懐こくしてれば人に嫌われることもない、憎まれることもない、無闇やたらと殴りつけられることもない。僕は利己的な人間だから人を蹴落とすことなんてなんとも思わない。良心だって痛まない。そうしないと生きてこれなかったからだ。
そして今、僕がいちばん怖いのはサーシャだ。
正確にはサーシャの庇護を失った後のここでの生活だ。次のパトロンをみつけるまでにかかる時間に思い馳せると気が重い。人格とか人間性はさておき、金払いに関してはサーシャは最高に気前がいい上客だったのに……
むかむかしながらふと足もとを見下ろすとナイフが転がっていた。サーシャの四次元ポケットからでてきたナイフの一本だろう。なにげなくナイフを手にとり、屋上中央の三人の顔と見比べる。
レイジ、ロン、鍵屋崎。
「まったく、大損だよ」
全部お前らのせいだ。
いつもへらへら笑ってるレイジも感じの悪い仏頂面のロンも気に食わないけど、いちばん気に入らないのはアイツだ。ちゃんとパパとママが揃った家庭に生まれたにも関わらずパパとママを殺してわざわざこんなくそったれた刑務所にきたアイツ、飢えることも殴られることもなく裕福な家庭でぬくぬく育てられた日本人、世の中のなにも怖くないって顔で人を見下してるイエローモンキー。
お前だよ鍵屋崎。
気付いたとき、僕はナイフの柄をぎゅっと握り締めていた。見えないなにかを握りつぶそうとでもいうように指に力をこめ、おもむろに腕を振り上げる。僕の視線の先にはレイジとロンと鍵屋崎がいた。
笑ってるのはレイジひとりだけど遠くから見ると友達同士に見えなくもない輪を作った、三人の少年。
その中のひとりに狙いをつけ、高く高くナイフを放る。
さよならメガネくん。
たった今気付いたけど、僕、きみのことが大嫌いだったらしい。自分で思ってたよりずっと。
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