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四十四話
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「……今ロンって言った?」
鍵屋崎はしれっと言う。
「言ったが」
「それ、レイジと同房のロンのこと?」
「東京プリズンに他のロンがいるかどうかは知らないが、僕が面識のあるロンはレイジと同房の彼だけだな。よくある名前なのは確かだが、レイジの会話中にでてきたロンはまず彼と確定していいだろう」
まてまて、どうしてそういうしょっぱいオチになる。
仮にも東棟の王様の弱点が同房の相方でしかも男だなんてちょっとしょっぱすぎないかいこの展開はねえ。
こめかみを指でおさえて考えをまとめてから、猫なで声で先を促す。
「……えーとメガネくん、イチから説明してほしいんだけど。一体なにをどうしてどんな根拠があってロンがレイジの弱点だって結論に辿り着いたのかな?僕、まったく意味不明なんだけど」
「レイジ本人がそう言っていた」
徹底的に無駄を省いた簡潔な答え。
「…………レイジに聞いたんだ?」
「聞いたが、なにか不都合でもあるのか?」
おおありだよこのバカ。
「あのさメガネくん。僕言ったよね、『レイジの弱味を探ってきてくれ』って。君がしたことは秘密裏に『探った』んじゃなくて直接『聞いてきた』だけでしょ?」
「過程はちがうが結論は同じだ。僕は結果論を重視する」
「過程が大事なんだよ」
ああもう処置なしだ、これからどうしよう。ぐったり頭を抱えこんだ僕はこの頭でっかちで理屈屋の日本人をどう説得したものかと思案する。
「君に頼んだのが失敗だったよ。てゆーかメガネくん、そのメガネ伊達じゃないの?頭いいふりしてるだけじゃないのホントは。ホントに頭いいならそのへんの呼吸わかるっしょ、暗黙の了解ってゆーかお約束ってゆーかさ。なんで本人前にして直接聞くのさ。もう全部おしまい、君が余計なことしてくれたせいでなにもかもおしまい。ジ・エンド。へたしたらレイジにスパイの存在勘付かれたかもしれないし……」
「スパイ?」
「こっちのこと」
やばい、口を滑らせた。まあいい、鍵屋崎にはなんのことかわからないだろう。軽く手を振ってごまかした僕は、哀れっぽい顔で向かいのベッドを仰ぐ。
「ビバリーなんとかしてよ、僕このままじゃサーシャに殺されちゃう」
「僕は関係ないっすよ、てめえのケツぐらいてめえで拭いてくださいリョウさん」
向かいのベッドに腰掛けたビバリーは自業自得だといわんばかりの様子で僕を眺めている。恨むよビバリー。サーシャのナイフで切り裂かれて中庭に撒かれてカラスの餌にされる自分を思い浮かべて気分が悪くなった僕を眼鏡の奥で冷たく光る目でしげしげと観察していた鍵屋崎だが、ふいに興味を失ったように目を細める。
「―僕は言われたことを果たしにきただけだ。やることは済ませたしもう君とは関係ないだろう、帰らせてもらう」
用は済んだとあっさり踵を返した鍵屋崎が鉄扉へと向かいかける。無防備に背中をさらす格好になった鍵屋崎を眺めていると目の前が赤く染まるような怒りにかられ、理性が吹っ飛ぶ。
コイツが余計なことをしてくれたせいで、レイジにスパイの存在が悟られたかもしれない。野性的なまでに勘の鋭いレイジのことだ、鍵屋崎を裏で操ってるのが僕だとすでに見当をつけているのかもしれない。今後レイジが僕と鍵屋崎を警戒して動くようになれば、僕はサーシャから命じられた目的を果たせず北の皇帝から見捨てられる。だけではなく、冷酷無慈悲な氷の皇帝として恐れられるサーシャにどんなひどい目にあわされるかわかったもんじゃない。
それもこれも全部目の前のメガネのせいだ。
そしてその馬鹿メガネは絶体絶命ピンチの僕をおいて、ひとりで勝手に房を出て行こうとしている。
頭きた。
「帰さない」
ポケットに片手をつっこみ針金の感触をたしかめる。針金の下方を握り、振り上げる。異変を察した鍵屋崎が振り向くより早く、その首の後ろに針金の切っ先をつきつける。
鍵屋崎は動かなかった。少しでも身動ぎしたら針金の鋭い先端が皮膚を突き破り血が流れると、憎たらしいほど冷静に予想していたのだろう。背後からでは表情の窺えない鍵屋崎に、憎々しげに愚痴をこぼす。
「まったく……君が余計なことしてくれたせいで僕までピンチじゃないか。レイジに警戒されてない新入りなら彼に近づくのはラクだろうなとか高をくくってたけど、君ときたら全然ダメ。役立たず。最低。君よりそこらを這いずりまわってるゴキブリのがよっぽど役に立つね、だってゴキブリはいざってときの非常食になるもん。それに比べてどう?君ときたら頭の中身がどんだけ優秀かしらないけど、東京プリズンじゃ人に尻拭いしてもらってばっかり、自分じゃなんにもできないお荷物で役立たずで無力で非力なモヤシじゃないか」
まったく鍵屋崎ときたら僕が嫌いな、いや、囚人の大半が毛嫌いしている典型的日本人じゃないか。自分の身を守る術を持ち周囲に敵を作るほど自己主張をせずに物静かに暮らしてるサムライはべつとして、自分の身を守る術なんてなにひとつ身につけてないくせに平然とデカイ口を叩く。
身の程知らずも甚だしい。弱肉強食がここの掟なのに、狩られる側にいる当の本人が全然恐怖を感じてないばかりか狩る側の囚人たちを見下してるなんてありえない。
いっそ本当に刺してやろうか、という物騒な考えがちらりと脳裏をかすめる。
それもいいだろう、こいつが生きてたところでだれも得をしない。損得の打算で動く僕みたいな人間には利用価値がない人間だと、さっき証明してみせたばかりじゃないか。
リンチされて殺される前に、絶望して首を吊る前に、ここでひと思いに刺してやったほうが―
「たしかに一理ある。ここでの僕は非力で無力、他人に助けられてばかりのゴキブリにも劣る存在だな」
針金の先を進めようとしていた腕がびくりと止まり、はじかれたように顔を上げる。
首を捻って振り向いた鍵屋崎が、じっと僕を見つめている。
「非常に不愉快かつ不本意だが、君の言うことは正論だと認めるざるをえない。……一部だけな」
首の皮膚に針金が食いこむのも構わず、痛覚が存在しない人間のように機械的に振り向いた鍵屋崎は完璧な無表情だった。
ディスプレイに表示された写真とおなじ、いや、あれ以上の―
「誤解されては困る。僕は尻拭いしてくれと彼らに泣きついたわけじゃない。傲慢に聞こえるかもしれないが、サムライもロンも彼らが一方的に僕を補佐しただけだ。僕はむしろそれを不愉快に感じている。僕だって東京プリズンに収監された時点でひと通りの覚悟はできている。他人に触られるのはたしかに不愉快だ、吐き気がするほどおぞましい。だからといっていつまでも避けていられるわけがない。……結論からいえば」
こめかみを指さし、続ける。
「僕はこの中身さえ無事なら、下半身不随の重傷を負ってもいいと思っている。レイプでもリンチでもしたければすればいい、頭の中身さえ致命的な損傷を負わなければ僕は別にかまわない」
コイツは本気だ。
目を見ればわかる。コイツは一言だって嘘を言ってない。本当に頭の中身「だけ」が大事で、脳味噌さえ無事ならあとがどうなろうがかまわないと思っているんだ。
そんな人間いるか、普通。
「……ば、かじゃないの」
口元がひきつり、笑みに似たものを浮かべた。なにもおかしくない、むしろ恐怖してたのに、恐怖が臨界点を突破すると顔筋が痙攣して笑顔を作るもんなんだなあと頭の片隅の冷めた理性で妙に感心する。
「レイプでもリンチでもしたけりゃ勝手にすればいいって、それ、誘ってるようにしか聞こえないんだけど」
「誘ってるわけじゃない。諦めてるだけだ。針金をあと3ミリ右にずらせ。正確に頚動脈の上を狙うんだ。君の手元が狂ったせいで長く苦しむのはぞっとしないからな」
「…………」
か細い息を吐いて腕をおろしたとき、僕は疲れきっていた。
「―冗談だよ、冗談。お茶目な悪ふざけ。この前のレイジを真似てみただけさ」
イカレてる。まったく最高にイカレてるよ。東京プリズンじゃイカレてない奴なんてひとりもいないけど、その中でもかなりキてるね。
針金をぽんと投げてお茶目な冗談にしようとした僕を、鍵屋崎は無言で見つめていた。上段に立って人を観察してるような、冷静沈着な科学者の目。
「リョウさん、タチの悪いイタズラやめてくださいっス。この房はあんたひとりのもんじゃないんだから、血の海を雑巾がけさせられる同居人のことも考えてくださいっス!」
隣のベッドで事の成り行きを見守っていたビバリーが、大袈裟に胸をおさえて抗議する。
「ごめんごめん」
「ごめんじゃ済まないっスよ、もう。頚動脈切ったら天井まで血が飛ぶんすから……あんなとこまで手が届きませんて」
「あとでフェラしてあげるから許してビバリー」
「お断りします、僕はノーマルなんっす!」
その時だ、唐突に名案が閃いたのは。
「メガネくん、悪いんだけどちょっと、ちょっと出てってくれる?」
「何だ急に。用が済んだのなら僕はもう帰っていいだろう?」
「STOP!すぐ終わるからそこで待ってて!!」
訝しげに眉をひそめた鍵屋崎の背中を押して無理矢理に房の外へと追い出す。バタンと鉄扉を閉じて鍵屋崎の視界を隔てた僕は一散に房に駆け戻るや、自分のベッドの下に頭をつっこんで封筒とボールペンをとりだす。
「うっひょー怖かったっスね、今の見ましたか?首に針金をつきつけられてるってのに瞬きひとつしないなんてたいしたタマですよ、アイツ。僕なんかちびっちゃいそうでした……て、なにしてるんスかリョウさん」
「お手紙書くの」
「白ヤギさんからお手紙着いた黒ヤギさんたら読まずに食べた~の、あのお手紙っスか?」
「読まずに食べられちゃ困るね」
無地の封筒を片手に、もう片手にインクが残り少なくなったボールペンを持ってにっこり笑う。
「その封筒、代議士のパトロンと文通するときに使ってるやつでしょ?いいんスか、無駄づかいして」
「いーのいーの……あ、便箋きらしてるや。どうしよう」
「だれに手紙書くか知りませんがトイレットペーパーでいいんじゃないすかね。ここには男っきゃいないんだし、ファンシー便箋が欲しいと駄々こねるような気色悪い奴はいないと思いますが」
なるほど、名案だ。トイレットペーパーをちぎり、ボールペンで文字を書き付け、綺麗に折って封筒の中にしまう。床に胡坐をかき、ポケットの底に忍ばせてある剃刀の刃をとりだす。廊下の角にひそんでた囚人に襲われたり、ヤってる最中、フラッシュバックに襲われた囚人が僕の首を締めたりした時の護身用に持ち歩いてる剃刀の刃だけどそれ以外でも役に立つとは思わなかった。封筒の内側に剃刀の刃を接着し、細工の跡が残らないよう注意する。
準備完了。
封筒を手にした僕は、勢いよく扉を開ける。
「メガネくん、ご苦労様。今回はレイジの弱味を掴んできてくれてありがとう」
半ばまで廊下を去りかけてた鍵屋崎が虚をつかれたように振り向く。
このヤロウ、あれほど待てって念を押したのにさっさと帰りかけてたな。
「で、ついでなんだけど……これ、レイジの奴に渡してきてくんない?」
警戒を抱かせない笑顔で鍵屋崎に歩み寄り、その胸に一通の封筒を押し付ける。
「?なんで僕がそんなことをしなければならない」
「いいじゃん、減るもんじゃないし。君の命の次に大事なメガネを直してあげたんだから刑務所内のメッセンジャーくらい引き受けてくれてもいいっしょ?」
「『命と妹の次に大事なメガネ』だ、正確には」
口ではいやがりつつも、しぶしぶ手紙を受け取る。妹の次に大事なメガネを持ち出されると強くはでれないらしい。手紙を受け取って廊下を去ってゆく鍵屋崎を見届け、バタンと扉を閉ざす。
房の中でひとり待っていたビバリーが、もう我慢できないとばかりに目を輝かせて食いついてくる。
「リョウさん、なんだったんすかあの手紙?」
「レイジへの果たし状。メガネくんにメッセンジャーを頼んだよ」
「なんですって!?」
ひっくりかえらんばかりのオーバーリアクションで驚愕したビバリーをよそに、すたすた歩いて自分のベッドに腰掛ける。
「決闘日時は今夜。場所は中庭監視塔。送り主はサーシャ」
「サーシャさんに許可もとらずに果たし状だなんて、そんな勝手な真似していいんすか?」
怯えたビバリーを上目遣いに見上げ、枕元のテディベアをひょいと膝の上に乗せる。
「僕がわざわざ果たし状なんて書かなくても、今夜あたりサーシャたちは襲撃しかけたはずさ。試合まであんまり日にちないしね、殺るなら今夜っきゃチャンスはない。僕はただ演出しただけさ、北の皇帝VS東棟の王様の決戦にふさわしい舞台ってやつを」
テディベアの手を持ってふりまわしながらの説明にビバリーは釈然としない顔でだまりこんだが、一拍おき、おそるおそるといったかんじで身を乗り出す。
「―それだけっスか?」
「それだけじゃないけどねえ。あんまり多くを知っちゃうと君だって無関係ってわけにはいかなくなるよ、ビバリー」
「やめときます」
降参と両手を挙げたビバリーの前で、頭上にテディベアを抱き上げ、頬擦りする。ママの残り香が染み付いたテディベアに顔を埋め、ちょっとホームシックになる。
「おっと、そうだ。メガネくんが邪魔に入ったせいで最後のひとりのデータを見逃してたね」
「レイジさんっすね」
テディベアを抱いたまま、膝這いで床を這いビバリーのベッドの下をのぞきこむ。ベッド下に頭をつっこんで埃をかぶったパソコンを引っ張りだしたビバリーがかちゃかちゃとキーをいじくりだす。ベッド下の薄暗がりで額をつきあわせ、青白く発光するディスプレイを食い入るように凝視していた僕とビバリーの前に、予想外のデータが表示される。
パッと画面が切り替わる。
ディスプレイに現れたのは、今より少し髪の短いレイジの顔写真。現在は襟足で結んでいる髪をうなじにかかるかかからないかという長さで流している。推定年齢は14歳か15歳。精巧なガラス玉を彷彿とさせる色素の薄い瞳、しなやかな猫科の獣のように男女問わず魅了するエキゾチックな容姿。耳のピアスの数は今と変わってない。
ところが。
レイジのファイルにアクセスした途端、間断なく響きだしたエラー音。
「なんじゃこりゃあ!?」
泡を食ったビバリーが両手の指を総動員してキーを操作するけど間に合わない。ディスプレイに表示されたレイジの顔写真が「×」で塗りつぶされ、個人情報が羅列されるスペースに注意と警告を促す赤い文字が浮かび上がる。
『NO DATA』
「ノ-データ………資料がない、だって」
お互い顔を見合わせる。僕は困惑していた。東京プリズンのデータベースには、何十万という膨大な数にのぼる囚人の個人データが文章化されて記録・保管されているはずだ。東京プリズンが設立されてから現在にいたるまで、過去と未来を網羅した個人情報データベースにアクセスすれば大抵の囚人のプライバシーが覗けるはずだ。
なのに、『NO DATA』の一文がでてきたということは。
「考えられるのはふたつ」
ビバリーが二本指を立てる。
「文字どおり、レイジさんのデータはなんらかの理由で紛失、もしくはこの地上から抹消されたか。もうひとつは……」
「『上』の人間が故意に隠蔽してるか」
「正解」
画面を端から端まで占めた『NO DATA』の一文を複雑な気分で見つめていた僕だけど、あることに気付いてはっとする。
「懲役は書いてない?」
「ありました!」
画面をスクロールさせたビバリーが勝利したように叫ぶが、一秒後にはその顔色がさあっと青ざめる。テディベアを抱いたままディスプレイをのぞきこんだ僕は、そこに記された年数を見てひきつけを起こしかける。
「「懲役110年!?」」
テディベアを抱く手に力がこもる。僕とビバリーは無言で顔を見合わせた。ビバリーの瞳に浮かんでいるのは、見てはいけないものを見てしまったという呵責と後悔、謎に謎が上塗りされたレイジに対する純粋な畏怖とそれを超える恐怖の念。
ディスプレイの右上、四角い枠の中では相変わらずレイジが笑っている。
今と全然変わらない、表面的には何も考えてないように見える能天気な笑顔の男を見つめ、おそるおそる呟く。
「懲役110年て、アイツ一体なにしたのさ……」
写真の男は答えない。
ただ、笑ってるだけ。
鍵屋崎はしれっと言う。
「言ったが」
「それ、レイジと同房のロンのこと?」
「東京プリズンに他のロンがいるかどうかは知らないが、僕が面識のあるロンはレイジと同房の彼だけだな。よくある名前なのは確かだが、レイジの会話中にでてきたロンはまず彼と確定していいだろう」
まてまて、どうしてそういうしょっぱいオチになる。
仮にも東棟の王様の弱点が同房の相方でしかも男だなんてちょっとしょっぱすぎないかいこの展開はねえ。
こめかみを指でおさえて考えをまとめてから、猫なで声で先を促す。
「……えーとメガネくん、イチから説明してほしいんだけど。一体なにをどうしてどんな根拠があってロンがレイジの弱点だって結論に辿り着いたのかな?僕、まったく意味不明なんだけど」
「レイジ本人がそう言っていた」
徹底的に無駄を省いた簡潔な答え。
「…………レイジに聞いたんだ?」
「聞いたが、なにか不都合でもあるのか?」
おおありだよこのバカ。
「あのさメガネくん。僕言ったよね、『レイジの弱味を探ってきてくれ』って。君がしたことは秘密裏に『探った』んじゃなくて直接『聞いてきた』だけでしょ?」
「過程はちがうが結論は同じだ。僕は結果論を重視する」
「過程が大事なんだよ」
ああもう処置なしだ、これからどうしよう。ぐったり頭を抱えこんだ僕はこの頭でっかちで理屈屋の日本人をどう説得したものかと思案する。
「君に頼んだのが失敗だったよ。てゆーかメガネくん、そのメガネ伊達じゃないの?頭いいふりしてるだけじゃないのホントは。ホントに頭いいならそのへんの呼吸わかるっしょ、暗黙の了解ってゆーかお約束ってゆーかさ。なんで本人前にして直接聞くのさ。もう全部おしまい、君が余計なことしてくれたせいでなにもかもおしまい。ジ・エンド。へたしたらレイジにスパイの存在勘付かれたかもしれないし……」
「スパイ?」
「こっちのこと」
やばい、口を滑らせた。まあいい、鍵屋崎にはなんのことかわからないだろう。軽く手を振ってごまかした僕は、哀れっぽい顔で向かいのベッドを仰ぐ。
「ビバリーなんとかしてよ、僕このままじゃサーシャに殺されちゃう」
「僕は関係ないっすよ、てめえのケツぐらいてめえで拭いてくださいリョウさん」
向かいのベッドに腰掛けたビバリーは自業自得だといわんばかりの様子で僕を眺めている。恨むよビバリー。サーシャのナイフで切り裂かれて中庭に撒かれてカラスの餌にされる自分を思い浮かべて気分が悪くなった僕を眼鏡の奥で冷たく光る目でしげしげと観察していた鍵屋崎だが、ふいに興味を失ったように目を細める。
「―僕は言われたことを果たしにきただけだ。やることは済ませたしもう君とは関係ないだろう、帰らせてもらう」
用は済んだとあっさり踵を返した鍵屋崎が鉄扉へと向かいかける。無防備に背中をさらす格好になった鍵屋崎を眺めていると目の前が赤く染まるような怒りにかられ、理性が吹っ飛ぶ。
コイツが余計なことをしてくれたせいで、レイジにスパイの存在が悟られたかもしれない。野性的なまでに勘の鋭いレイジのことだ、鍵屋崎を裏で操ってるのが僕だとすでに見当をつけているのかもしれない。今後レイジが僕と鍵屋崎を警戒して動くようになれば、僕はサーシャから命じられた目的を果たせず北の皇帝から見捨てられる。だけではなく、冷酷無慈悲な氷の皇帝として恐れられるサーシャにどんなひどい目にあわされるかわかったもんじゃない。
それもこれも全部目の前のメガネのせいだ。
そしてその馬鹿メガネは絶体絶命ピンチの僕をおいて、ひとりで勝手に房を出て行こうとしている。
頭きた。
「帰さない」
ポケットに片手をつっこみ針金の感触をたしかめる。針金の下方を握り、振り上げる。異変を察した鍵屋崎が振り向くより早く、その首の後ろに針金の切っ先をつきつける。
鍵屋崎は動かなかった。少しでも身動ぎしたら針金の鋭い先端が皮膚を突き破り血が流れると、憎たらしいほど冷静に予想していたのだろう。背後からでは表情の窺えない鍵屋崎に、憎々しげに愚痴をこぼす。
「まったく……君が余計なことしてくれたせいで僕までピンチじゃないか。レイジに警戒されてない新入りなら彼に近づくのはラクだろうなとか高をくくってたけど、君ときたら全然ダメ。役立たず。最低。君よりそこらを這いずりまわってるゴキブリのがよっぽど役に立つね、だってゴキブリはいざってときの非常食になるもん。それに比べてどう?君ときたら頭の中身がどんだけ優秀かしらないけど、東京プリズンじゃ人に尻拭いしてもらってばっかり、自分じゃなんにもできないお荷物で役立たずで無力で非力なモヤシじゃないか」
まったく鍵屋崎ときたら僕が嫌いな、いや、囚人の大半が毛嫌いしている典型的日本人じゃないか。自分の身を守る術を持ち周囲に敵を作るほど自己主張をせずに物静かに暮らしてるサムライはべつとして、自分の身を守る術なんてなにひとつ身につけてないくせに平然とデカイ口を叩く。
身の程知らずも甚だしい。弱肉強食がここの掟なのに、狩られる側にいる当の本人が全然恐怖を感じてないばかりか狩る側の囚人たちを見下してるなんてありえない。
いっそ本当に刺してやろうか、という物騒な考えがちらりと脳裏をかすめる。
それもいいだろう、こいつが生きてたところでだれも得をしない。損得の打算で動く僕みたいな人間には利用価値がない人間だと、さっき証明してみせたばかりじゃないか。
リンチされて殺される前に、絶望して首を吊る前に、ここでひと思いに刺してやったほうが―
「たしかに一理ある。ここでの僕は非力で無力、他人に助けられてばかりのゴキブリにも劣る存在だな」
針金の先を進めようとしていた腕がびくりと止まり、はじかれたように顔を上げる。
首を捻って振り向いた鍵屋崎が、じっと僕を見つめている。
「非常に不愉快かつ不本意だが、君の言うことは正論だと認めるざるをえない。……一部だけな」
首の皮膚に針金が食いこむのも構わず、痛覚が存在しない人間のように機械的に振り向いた鍵屋崎は完璧な無表情だった。
ディスプレイに表示された写真とおなじ、いや、あれ以上の―
「誤解されては困る。僕は尻拭いしてくれと彼らに泣きついたわけじゃない。傲慢に聞こえるかもしれないが、サムライもロンも彼らが一方的に僕を補佐しただけだ。僕はむしろそれを不愉快に感じている。僕だって東京プリズンに収監された時点でひと通りの覚悟はできている。他人に触られるのはたしかに不愉快だ、吐き気がするほどおぞましい。だからといっていつまでも避けていられるわけがない。……結論からいえば」
こめかみを指さし、続ける。
「僕はこの中身さえ無事なら、下半身不随の重傷を負ってもいいと思っている。レイプでもリンチでもしたければすればいい、頭の中身さえ致命的な損傷を負わなければ僕は別にかまわない」
コイツは本気だ。
目を見ればわかる。コイツは一言だって嘘を言ってない。本当に頭の中身「だけ」が大事で、脳味噌さえ無事ならあとがどうなろうがかまわないと思っているんだ。
そんな人間いるか、普通。
「……ば、かじゃないの」
口元がひきつり、笑みに似たものを浮かべた。なにもおかしくない、むしろ恐怖してたのに、恐怖が臨界点を突破すると顔筋が痙攣して笑顔を作るもんなんだなあと頭の片隅の冷めた理性で妙に感心する。
「レイプでもリンチでもしたけりゃ勝手にすればいいって、それ、誘ってるようにしか聞こえないんだけど」
「誘ってるわけじゃない。諦めてるだけだ。針金をあと3ミリ右にずらせ。正確に頚動脈の上を狙うんだ。君の手元が狂ったせいで長く苦しむのはぞっとしないからな」
「…………」
か細い息を吐いて腕をおろしたとき、僕は疲れきっていた。
「―冗談だよ、冗談。お茶目な悪ふざけ。この前のレイジを真似てみただけさ」
イカレてる。まったく最高にイカレてるよ。東京プリズンじゃイカレてない奴なんてひとりもいないけど、その中でもかなりキてるね。
針金をぽんと投げてお茶目な冗談にしようとした僕を、鍵屋崎は無言で見つめていた。上段に立って人を観察してるような、冷静沈着な科学者の目。
「リョウさん、タチの悪いイタズラやめてくださいっス。この房はあんたひとりのもんじゃないんだから、血の海を雑巾がけさせられる同居人のことも考えてくださいっス!」
隣のベッドで事の成り行きを見守っていたビバリーが、大袈裟に胸をおさえて抗議する。
「ごめんごめん」
「ごめんじゃ済まないっスよ、もう。頚動脈切ったら天井まで血が飛ぶんすから……あんなとこまで手が届きませんて」
「あとでフェラしてあげるから許してビバリー」
「お断りします、僕はノーマルなんっす!」
その時だ、唐突に名案が閃いたのは。
「メガネくん、悪いんだけどちょっと、ちょっと出てってくれる?」
「何だ急に。用が済んだのなら僕はもう帰っていいだろう?」
「STOP!すぐ終わるからそこで待ってて!!」
訝しげに眉をひそめた鍵屋崎の背中を押して無理矢理に房の外へと追い出す。バタンと鉄扉を閉じて鍵屋崎の視界を隔てた僕は一散に房に駆け戻るや、自分のベッドの下に頭をつっこんで封筒とボールペンをとりだす。
「うっひょー怖かったっスね、今の見ましたか?首に針金をつきつけられてるってのに瞬きひとつしないなんてたいしたタマですよ、アイツ。僕なんかちびっちゃいそうでした……て、なにしてるんスかリョウさん」
「お手紙書くの」
「白ヤギさんからお手紙着いた黒ヤギさんたら読まずに食べた~の、あのお手紙っスか?」
「読まずに食べられちゃ困るね」
無地の封筒を片手に、もう片手にインクが残り少なくなったボールペンを持ってにっこり笑う。
「その封筒、代議士のパトロンと文通するときに使ってるやつでしょ?いいんスか、無駄づかいして」
「いーのいーの……あ、便箋きらしてるや。どうしよう」
「だれに手紙書くか知りませんがトイレットペーパーでいいんじゃないすかね。ここには男っきゃいないんだし、ファンシー便箋が欲しいと駄々こねるような気色悪い奴はいないと思いますが」
なるほど、名案だ。トイレットペーパーをちぎり、ボールペンで文字を書き付け、綺麗に折って封筒の中にしまう。床に胡坐をかき、ポケットの底に忍ばせてある剃刀の刃をとりだす。廊下の角にひそんでた囚人に襲われたり、ヤってる最中、フラッシュバックに襲われた囚人が僕の首を締めたりした時の護身用に持ち歩いてる剃刀の刃だけどそれ以外でも役に立つとは思わなかった。封筒の内側に剃刀の刃を接着し、細工の跡が残らないよう注意する。
準備完了。
封筒を手にした僕は、勢いよく扉を開ける。
「メガネくん、ご苦労様。今回はレイジの弱味を掴んできてくれてありがとう」
半ばまで廊下を去りかけてた鍵屋崎が虚をつかれたように振り向く。
このヤロウ、あれほど待てって念を押したのにさっさと帰りかけてたな。
「で、ついでなんだけど……これ、レイジの奴に渡してきてくんない?」
警戒を抱かせない笑顔で鍵屋崎に歩み寄り、その胸に一通の封筒を押し付ける。
「?なんで僕がそんなことをしなければならない」
「いいじゃん、減るもんじゃないし。君の命の次に大事なメガネを直してあげたんだから刑務所内のメッセンジャーくらい引き受けてくれてもいいっしょ?」
「『命と妹の次に大事なメガネ』だ、正確には」
口ではいやがりつつも、しぶしぶ手紙を受け取る。妹の次に大事なメガネを持ち出されると強くはでれないらしい。手紙を受け取って廊下を去ってゆく鍵屋崎を見届け、バタンと扉を閉ざす。
房の中でひとり待っていたビバリーが、もう我慢できないとばかりに目を輝かせて食いついてくる。
「リョウさん、なんだったんすかあの手紙?」
「レイジへの果たし状。メガネくんにメッセンジャーを頼んだよ」
「なんですって!?」
ひっくりかえらんばかりのオーバーリアクションで驚愕したビバリーをよそに、すたすた歩いて自分のベッドに腰掛ける。
「決闘日時は今夜。場所は中庭監視塔。送り主はサーシャ」
「サーシャさんに許可もとらずに果たし状だなんて、そんな勝手な真似していいんすか?」
怯えたビバリーを上目遣いに見上げ、枕元のテディベアをひょいと膝の上に乗せる。
「僕がわざわざ果たし状なんて書かなくても、今夜あたりサーシャたちは襲撃しかけたはずさ。試合まであんまり日にちないしね、殺るなら今夜っきゃチャンスはない。僕はただ演出しただけさ、北の皇帝VS東棟の王様の決戦にふさわしい舞台ってやつを」
テディベアの手を持ってふりまわしながらの説明にビバリーは釈然としない顔でだまりこんだが、一拍おき、おそるおそるといったかんじで身を乗り出す。
「―それだけっスか?」
「それだけじゃないけどねえ。あんまり多くを知っちゃうと君だって無関係ってわけにはいかなくなるよ、ビバリー」
「やめときます」
降参と両手を挙げたビバリーの前で、頭上にテディベアを抱き上げ、頬擦りする。ママの残り香が染み付いたテディベアに顔を埋め、ちょっとホームシックになる。
「おっと、そうだ。メガネくんが邪魔に入ったせいで最後のひとりのデータを見逃してたね」
「レイジさんっすね」
テディベアを抱いたまま、膝這いで床を這いビバリーのベッドの下をのぞきこむ。ベッド下に頭をつっこんで埃をかぶったパソコンを引っ張りだしたビバリーがかちゃかちゃとキーをいじくりだす。ベッド下の薄暗がりで額をつきあわせ、青白く発光するディスプレイを食い入るように凝視していた僕とビバリーの前に、予想外のデータが表示される。
パッと画面が切り替わる。
ディスプレイに現れたのは、今より少し髪の短いレイジの顔写真。現在は襟足で結んでいる髪をうなじにかかるかかからないかという長さで流している。推定年齢は14歳か15歳。精巧なガラス玉を彷彿とさせる色素の薄い瞳、しなやかな猫科の獣のように男女問わず魅了するエキゾチックな容姿。耳のピアスの数は今と変わってない。
ところが。
レイジのファイルにアクセスした途端、間断なく響きだしたエラー音。
「なんじゃこりゃあ!?」
泡を食ったビバリーが両手の指を総動員してキーを操作するけど間に合わない。ディスプレイに表示されたレイジの顔写真が「×」で塗りつぶされ、個人情報が羅列されるスペースに注意と警告を促す赤い文字が浮かび上がる。
『NO DATA』
「ノ-データ………資料がない、だって」
お互い顔を見合わせる。僕は困惑していた。東京プリズンのデータベースには、何十万という膨大な数にのぼる囚人の個人データが文章化されて記録・保管されているはずだ。東京プリズンが設立されてから現在にいたるまで、過去と未来を網羅した個人情報データベースにアクセスすれば大抵の囚人のプライバシーが覗けるはずだ。
なのに、『NO DATA』の一文がでてきたということは。
「考えられるのはふたつ」
ビバリーが二本指を立てる。
「文字どおり、レイジさんのデータはなんらかの理由で紛失、もしくはこの地上から抹消されたか。もうひとつは……」
「『上』の人間が故意に隠蔽してるか」
「正解」
画面を端から端まで占めた『NO DATA』の一文を複雑な気分で見つめていた僕だけど、あることに気付いてはっとする。
「懲役は書いてない?」
「ありました!」
画面をスクロールさせたビバリーが勝利したように叫ぶが、一秒後にはその顔色がさあっと青ざめる。テディベアを抱いたままディスプレイをのぞきこんだ僕は、そこに記された年数を見てひきつけを起こしかける。
「「懲役110年!?」」
テディベアを抱く手に力がこもる。僕とビバリーは無言で顔を見合わせた。ビバリーの瞳に浮かんでいるのは、見てはいけないものを見てしまったという呵責と後悔、謎に謎が上塗りされたレイジに対する純粋な畏怖とそれを超える恐怖の念。
ディスプレイの右上、四角い枠の中では相変わらずレイジが笑っている。
今と全然変わらない、表面的には何も考えてないように見える能天気な笑顔の男を見つめ、おそるおそる呟く。
「懲役110年て、アイツ一体なにしたのさ……」
写真の男は答えない。
ただ、笑ってるだけ。
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