少年プリズン

まさみ

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三十三話

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 僕は変人かもしれないが、変態じゃない。
 今までそう信じてきたし、事実そうだったはずだ。世間の九割を占めている凡人どもの中で、僕の言動が一般の価値観から外れている自覚はある。脳の造りからして違う天才の考えは所詮凡人には理解できないのだ。
 しかし、くどいようだが、僕は変態じゃない。リンチとレイプが横行する悪名高い東京プリズンに収監されてからも同性に性的興味を抱いたことはないと自信をもって断言できる。
 サムライ?まさか。冗談じゃない。
 女でも男でも好みにあえば性別は問わないと声高に吹聴してはばからないレイジのような節操なしでもないし、どちらかといえば同性愛への偏見はないほうだが皆無というわけでもない。
 否、正確には、僕はもともと妹以外の女性に興味がない。恵以外の人間に関心がない。
 まったく関心のない他人が個人の嗜好で同性を好きになろうが異性を好きになろうがどうでもいい、僕の目の届かないところでやってくれればそれでいい。しかし、東京プリズンではそうもいかない。東京プリズンに収監されているのは十代前半から後半までの最も性欲旺盛な時期の少年たちばかり、そんな彼らが性的対象となる異性のいない環境でどうにか正気を保っていくためには仮性的同性愛に走るのはやむをえない。僕が昔読んだ心理学の本にも同じ事例が記載されていた。男女が半半に存在する外の世界ではごく普通に女性と性交渉して家庭を持っていた男性が犯罪を犯して刑務所に収容される。見渡すかぎり男ばかりの異常な環境下でも性欲が減退するわけではない。むしろ、厳しい規律に支配された束縛の多い刑務所生活の中ではストレスとともに性欲もたまる一方。この二つを同時に解消するためには服役囚への集団レイプや強姦などは非常に効率的な手段でもある。だからといって彼が真性の同性愛者になったわけではない―中にはそういう者もいるだろうが、大半の囚人は出所と同時に元の生活に戻り、以前と変わりなく何の抵抗もなく女性とベッドをともにするようになる。

 発狂するのを防ぐための苦渋の選択、異常な環境への一時的な適応。 

 俗な言い方をすれば、女がいなければ男で手を打つしかない。刑務所で集団レイプが横行するのはそういうわけだが、彼らだって刑期を終えて俗世間に戻れば何も好き好んで同性と寝ようなどと酔狂に試みたりはしないだろう。 
 
 僕はまともだ。頭がおかしくなんてない。

 今の今までそう信じていたし、今この瞬間まで疑ってみたことすらなかった強固な確信がはげしく揺らいでいる。僕の目の前では相変わらずレイジが靴を舐め続けている。犬のように這いつくばりコンクリートに手足をついた屈辱的な姿勢で、一心不乱ともいえる愚直さで顔に押し付けられた靴の表裏に舌を這わせるレイジの表情はこの距離からでは窺えないが、彼が顎を傾げるたびに聞こえてくる衣擦れの音と不規則に乱れた息遣いが背徳的な光景を際立たせている。
 いや、この距離までレイジの息遣いが聞こえてくるわけはない。興奮に吐息を弾ませ、頬を紅潮させて屋上中央の光景を凝視しているのは僕の周囲の少年たちだ。彼らも僕と同様か、それ以上の動揺と戦慄を感じているのは一目瞭然だ。
 サーシャはなぶるような薄笑いを浮かべて四つん這いにさせたレイジに靴を舐めさせていた。既に何分たったかは定かではないが、行為が始まってから最低でも三分は経過しているだろう。その間サーシャはレイジに一呼吸つく間も与えず、体を支える肘が萎えてレイジの上体がくずおれそうになるたびに脇にもぐらせたつま先を蹴り上げて力づくで起こし、顎が靴の先端からすべりおちそうになるたびにそんな怠慢は許さないとばかりにぐいと持ち上げる。
 サーシャの陰湿さにも閉口したが、レイジの耐久力は凄まじかった。
 相当疲労しているだろうに、弱音ひとつ吐かずに意に染まぬ行為を続行している。気を抜けばすぐに口腔につっこまれてくる靴裏で舌を押さえられ、減らず口を叩く間も与えられないというのが本当のところだ。
 「茶色の毛並みの雑種のサバーカ」
 唇の端をめくりあげ、弦月の笑みを刻んだサーシャが唄うように揶揄してレイジの頭上へと手をのばす。夜目にも透けるように白い腕が宙を泳ぎ、サーシャの足もとに跪いたレイジの頭頂部を掌握する。
 「お前は従順でいい犬だ。東の王を名乗るより私の愛犬として靴を磨くほうが、汚らしい雑種のお前にはふさわしい」
 狂気に憑かれた双眸でサーシャが嘲笑し、レイジの脳天を掌握した手に力をこめる。撫でる、というより頭蓋骨を軋ませ痛みを与えるのを目的としているかのような剣呑な握力にレイジの肘が屈しかけるが、顎が地面に接する前になんとか体勢を立て直し、短く咳き込んでからふたたび靴を舐め始める。
 サーシャは無表情に笑っていた。
 口元の笑みを裏切るように体温の低い目で恍惚とレイジを眺め、見下し、頭頂においたてのひらをゆっくりと往復させる。
 「どうだ?私の犬にならないか。待遇は保証するぞ」
 行為に没頭しているレイジの耳朶に唇をよせ、情事の後の睦言のようにいやらしく囁く。
 隣で変化があった。
 「―止めても無駄だ」
 片ひざ立ったまま硬直し、今にも堰を壊して迸り出んとしている激情を自制心を振り絞って抑圧していたロンが、低い声で言った。僕と彼の間にたらされた鎖が、楕円の輪を触れ合わせてかすかに鳴っている。耳障りな音の源はロンの拳だ。色が白く変わるほどに握り締められた拳が小刻みに震え、そのわずかな震動が鎖を遡って手錠を共有する僕のもとにまで伝わってきたのだ。
 「なにをする気だ」
 八割方予想できていたが、ロンの暴発を防ぐために声量を落として確認する。
 「もう辛包できねえ」
 ロンの目は本気だった。
 強靭な意志を宿した双眸がじっとサーシャとレイジを見つめている。握り締めた五指に骨が砕けそうな力がこもり、手錠の震えが大きくなる。危険な兆候だ。このままではロンが後先も考えずにサーシャに殴りかかり、巻き添えになった僕までサーシャの仲間たちにリンチされて死に至らしめられる最悪の結末は回避できない。
 しかし、これ以上ロンを止めるのは無理だ。僕の説得は火に油を注ぎ、状況をさらに悪化させるだけだ。
 どうにかこの窮地を切り抜ける奇策はないものか―……
 打開策をさがしてあたりを見回していた僕の目にとびこんできたのは、先刻サーシャが脱ぎ捨てた囚人服の上着。レイジが投げた火炎瓶が直撃して炎上し半ば以上燃え滓となった囚人服の布地にはまだ火の粉が燻っていた。
 そして、灰となりかけた囚人服より少し離れた場所には、レイジの手を離れて僕の窮地を救ったぼろぼろの聖書が。
 道が拓けた。
 「ロン」
 「人怒らせるしか能のない減らず口は閉じとけ」
 「いいか、これは助言だ。僕は今から君とレイジを助けるために口を開く」
 今しもコンクリートを蹴り、全力で駆け出そうとしていたロンがうろんげに振り向く。ロンの眼光に射抜かれた僕はその耳元に口をよせ、小声でささやく。ロンの目に理解の明かりが点り、驚きの表情が一転して疑わしげな色に染まる。
 「勝算はあるのか?」
 「僕の計算では75%確実だ」
 「それは確実といわねえ」
 「悪くない賭けだろう。少なくとも、素手でサーシャに殴りかかるよりはずっと」
 ロンが思案していた時間は決して長くなかったが、体感時間では永遠にひとしく感じられた。思考を絡めとろうとする逡巡を振り切って顔を上げたロンの目には峻厳な決意の色があった。
 「お前は馬鹿だけど頭はいい。今はお前を信じる」
 「―生憎と」
 口元に自嘲の笑みが浮かぶのがわかった。こんな状況だというのにまだ笑える自分には、若干の余裕が残っていることに気付く。
 「信頼には足らないが、信用には足る自信がある」
 「よし」
 ロンがさりげなさを装って正面を向き、僕から視線を逸らす。悪くない演技だ。事実、周囲の少年らはだれひとりとしてこちらの動きに気付いてない。彼らの注意が屋上中央へと向けられている今がチャンスだ。コンクリートと鎖が擦れて鳴らないよう、少しずつ少しずつ尻で地面を擦り遅々として移動。コンクリートの地面に放置されていた聖書を手に取り、顔を上げる。聖書の落下地点より50センチ離れた場所にサーシャの上着が落ちている。いまだ火種が燻る上着へと手を伸ばしてさっと引き寄せる。ページの端、血が付着してない乾燥した箇所を選んでサーシャの上着で爆ぜる火の粉へと近づける。
 まだ生きていた火の粉が紙へと燃え移り、ちりちりと音をあげて見る間に大きくなる。
 「?なんか焦げ臭くないか」
 「そういえば……」
 大気にまざりはじめた焦げ臭い異臭にようやく違和を察した鈍感な少年たちが、鼻孔を上向けてあたりを見回し始め、そして、僕の手の中で燃え始めた本に気付く。
 「!なっ…………、」
 泡を食ってこちらを指さした少年めがけ、この瞬間を待っていたかの如く勢いよく炎上した聖書を投げる。夜闇に鮮やかに炎を踊らせた聖書は狙い違わず少年めがけて飛んでいき、反射的に手を突き出して払いのけようとした少年の上着に引火して一気に燃え上がらす。
 たまたま近くにいた少年の上着が盛大に燃え上がり、耳を刺し貫くような絶叫が屋上狭しと響いた。
 「ぎゃあああああああああああああああっ!!」
 「火を消せっ、水、水!」
 「馬鹿、脱がせるのが先だ!」
 「あばれんなよ、脱げねーよ!」
 目の前で炎上した仲間に、周囲の少年らは完全に理性を失っていた。熱と激痛に苛まれて手足を振り乱し、一生耳にこびりついて離れないような尾を引く絶叫をまきちらして苦悶する少年の服をどうにかこうにか脱がそうと、動揺した少年たち全員の注意がそちらに向く。
 今だ。
 「―せっ、」
 短い呼気を吐いたロンが、僕の手首を掴んで走り出す。炎上した少年を取り囲み、素手でその背中を叩いて火を消そうと努めていた見張り役が「あっ」と声をあげて追ってくる構えを見せたが、立ち止まっている暇はない。走りながら振り返ってみれば、聖書から引火した炎に包まれた少年は無数の火の粉をまとわせた両腕を高々と夜空に突き上げ、死に物狂いで見えない星を掴もうとしていた。
 屋上中央でレイジを跪かせたサーシャが接近の気配に気付き、ゆるやかに振り向く。
 衝撃。
 一気に加速してサーシャに激突したロンが、そのままサーシャを巻き添えにしてコンクリートの地面に四肢を投げ出す。当然、手錠でつながれた僕もロンとおなじ運命を辿る。後ろ向きに転倒したサーシャは後頭部を強打したと見え、こめかみを押さえて上体を起こしたその手の間から一筋の血が滴っていた。
 「―――クローフィの臭い雑種が」
 憤怒の形相を浮かべたサーシャが憎々しげに唇を捻り、骸骨のように痩せさらばえた手を夜空に突き上げる。快哉をあげるように突き上げた腕へと銀の円弧を描いて夜空を滑ってきたのは、見張りの少年が投擲したナイフ。白い五指がナイフの柄を掴んで目にもとまらぬ速さで振り下ろす、その軌跡の延長線上には、今まさにコンクリートから上体を起こそうとしていたロンの首筋が。 
 「!ロ、」
 ロンの頚動脈が裂かれ、噴水のように鮮血が噴き出す幻を見た僕の目の前を影がよこぎる。
 錯覚かと思った。動体視力すら追いつかない超人的な速度でコンクリートを蹴り跳躍した影は、自分を狙う凶刃には気付いてないロンを突き飛ばし、彼を守るように懐に抱えこんで1メートル向こうの地面に転げる。ロンと一心同体の僕も必然的に巻き添えを食い、勢いよく突き飛ばされて地を転げる羽目になる。
 視界が二回反転し、殺風景なコンクリートの地面と大気の汚れた夜空が交互におりてくる。連続横転し、なんとか回転が止んだ視界に映ったのはサーチライトの光を透かして金に輝く茶髪。目を凝らしてみれば僕に背を向けて屈みこんだレイジの後姿だ。
 「生きてるか?生きてるな」
 「生きてるよ」
 ロンの首の後ろに腕をさしいれて頭を支え起こしたレイジが、不敵に笑う。
 「上出来だ」
 無敵の笑顔。
 「キーストアも無事か?」
 「非常に不本意だがな」
 ついでのように聞かれ、表情が渋くなるのを押さえられない。不機嫌な声で応酬した僕に笑み返したレイジの頭上に影がさす。
 「!」
 今度の窮地を救ったのはロンだった。
 レイジの名を呼ぶ間も惜しかったらしく、何も言わずに彼を押し倒して上体を伏せさせる。レイジの前髪を掠めて過ぎ去ったのは、ナイフ。サーチライトの光が屋上の闇を斜めに轢断して眩く降り注ぐ中、押し倒された風圧でふわりと舞い上がったレイジの前髪がナイフに切断されて宙に散る。
 スローモーションのような一連の光景を演出したのは、体前にナイフを構えて立ちはだかるサーシャ。
 肋骨の形がはっきりと浮き上がった上半身を惜しげもなくサーチライトの光に曝け出し、静脈の拍動がはっきりと見極められるほど痩せさらばえた右手にナイフを握り、絹の光沢のある白蛇のように美しい銀髪を燦然と輝かせたサーシャは、わずかに息を喘がせてレイジを凝視している。
 その目に宿っているのは、純然たる殺意の結晶。
 「血の汚れた雑種のくせに同胞を庇うとは、上等な真似をしてくれる」
 こめかみを押さえた左五指から滴った血が点々とコンクリートに染み、サーシャの声が憎悪に軋る。憤怒を漲らせたアイスブルーの双眸が膝をはたいて立ち上がったレイジを射抜く。
 「先刻まで私の足もとに四つ脚ついて這いつくばり靴を舐め、強者には節操なく媚びへつらう雑種の本性を露呈していたくせに……」 
 嘲弄の響きがこもった挑発に顔を上げ、見せつけるように緩慢な動作で顎をさすりながらレイジが笑う。
 「顎がこったぜ」
 不敵な角度に顎を傾げ、鼻先で笑い捨てたレイジにサーシャの表情が一変する。まとう空気を氷点下に豹変させ、酷寒の憎悪を双眸にこめたサーシャが機械的に唇の端をつりあげる。
 「躾のなってない犬の末路はふたつ……」
 殺意を凝縮した切っ先をサーチライトに反射させ、隙のない構えでナイフを体前に翳し、爬虫類の皇帝が邪悪に笑む。
 「去勢か屠殺だ」
 レイジはやる気なさそうに耳の穴をほじりながらサーシャの演説に耳を傾けていたが、ひとさし指に付着した耳垢をふっと吹き散らすや、目にした者すべてを貪欲に飲みこむブラックホールのように底知れない笑みを湛える。
 「いいか?今から当たり前のことを言うから耳の穴かっぽじってよおく聞け」
 底知れない、底冷えする笑顔。
 「I am not a dog. You are a goddamn guy.俺は犬じゃないし、あんたはクソ野郎だ)」 
 本当に―本当の本当に、コイツの笑顔は吐き気がする。
 サーシャは黙ってレイジを見つめていた。サーチライトの光を吸い込んだアイスブルーの目にレイジの顔が映りこむ。大理石の彫像のように白い裸身を曝して立ち竦んでいたサーシャの唇から吐息が漏れ、アイスブルーの目に激情の波紋が生じる。
 「北棟の威信に賭けて今晩お前を生きて帰すわけにはいかなくなった」
 「そんな大義名分じゃなく、皇帝の本音が聞きたいね」
 興醒めしたように肩をすくめたレイジをちらりと流し見て、サーシャが言葉少なく付け加える。
 「私自身の名誉に賭けて、お前を生きて帰すわけにはいかなくなった」
 「ああ、それなら―」
 完璧な角度に尖った顎先を反らし、サーシャをさし招くレイジ。
 「それならいいぜ。踊ってやるよ」
 そして、舞踏会の終幕を飾る王と皇帝の対決が始まった。
 戦いの火蓋を切って落としたのはサーシャだった。腰だめにナイフを構えて突進してきたサーシャの軌道からひらりと半身をかわして脱したレイジ、弧を描いて返ってきたナイフがその胸板をかすめ生地を切り裂く。一直線にシャツの胸を切り裂いたナイフがふたたび返ってきてレイジの頚動脈を狙うが、首を左方に倒して紙一重の差で回避。風切る唸りをあげて腕を引いたサーシャが三歩後退、レイジと距離をとりナイフを構えなおす。
 空気が撓み、はりつめる。
 ちりちりと産毛がこげてゆく音が聞こえそうなほどの凄まじい緊迫感に、僕の横で王と皇帝の対決を見守っていたロンが生唾を嚥下する。こちらに駆け付けてくるタイミングを逸した少年らも、茫然自失の体でこの対決に見入っている。炎に絡みつかれて七転八倒しながらも上着を脱ぐことに成功した少年が、肩から腕にかけて生じた火傷に苦悶の呻きを漏らしつつ、それでも目を逸らすことができないジレンマで屋上中央を仰ぎ見ている。
 呼吸するのも憚られる殺伐とした沈黙を破ったのは、サーシャの嘲弄。
 「どうした?逃げてばかりだな」
 「あのな……」
 ナイフを弄びつつのサーシャの台詞に、レイジはあきれたふうに首を振る。
 「ずるいと思わないかこの状況?お前はナイフを持ってるのに俺はこのとおり手ぶら。アンフェアもいいところだよ」
 「無敵の王を称すなら徒手で勝利を奪いとれ」
 「んな無茶な」
 あきれを通りこし嘆きの境地に入ったレイジが大袈裟に両手を広げる。
 「お前はそれで勝って満足なのか?誇り高い北の皇帝サマともあろうお方が自分だけナイフ持って対戦相手にはなにひとつ武器を与えずに勝利したとあっちゃ、かえって他の棟の連中に馬鹿にされるぜ」
 「なぜ私が馬鹿にされなければならない」
 レイジの訴えを鼻で笑って一蹴し、サーシャが続ける。
 「奇妙なことを言うな。自分の胸に手をあてて考えて見ろ……お前は収監以来無敗を誇るブラックワークの覇者であらゆる武器の扱いに通じている。ナイフ?聖書で人を廃人にできるお前には無用の長物だ。私はこの目で見たぞ、お前が聖書ひとつで枯れ草のように敵を薙ぎ倒してゆくさまを」
 「今は手ぶらなんだけど」
 レイジの言う通り、聖書は燃えた。正確には僕が燃やした。現在の彼が手にする武器はない。
 「優しく誇り高い皇帝さまは勝負の公平を期すためにナイフを貸し与えてくれたりは―……」
 「案ずるな、そんな気は毛頭ない」
 「……ケチ」
 すごすごと両手をおろし、レイジがため息をつく。
 「ケチとかそういう次元の問題ではないだろう。彼は馬鹿か?」
 「お前ほどじゃねーよ」
 「?どういう意味だ」
 「それよりなんか武器になるもの持ってねーか?先がとがってるものとか、固いものとか」
 サーシャとその仲間たちの注意が逸れている隙に、僕の脇腹へと体をすり寄せてきたロンが耳打ちする。肩口ににじり寄ってきたロンから自然に距離をとり、首を振る。
 「僕が今身につけているのは眼鏡だけだ」
 「その優秀な頭脳を絞って眼鏡を使った有効な戦い方を考えろ。いますぐ」
 「さっき君は僕のことを馬鹿と言ったろ?前言と矛盾してるな」
 「根にもってんのか日本人」
 「万一眼鏡を使った有効な戦い方を思いついたとしても、僕の大事な眼鏡をそんなくだらないことのために渡したくない」
 「~~真的愚蠢ッ!!」
 お前本当に馬鹿だと叫んだロンに怒り任せに突き飛ばされ、よろめいたとき。
 僕とロンの中間めがけ、ナイフがおちてきた。
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