少年プリズン

まさみ

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三十話

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 身も凍る絶叫を発したのは、レイジと対峙していた少年だった。
 その額が割れ、血飛沫が噴き出している。
 血飛沫の幕の向こう側で笑っているのは、聖書を水平に翳したレイジ。
 理解した。
 レイジは火炎瓶を投げて身の周りの少年らの注意を逸らしている間に、最も至近距離にいた少年の額に電光石火の速さで聖書を打ちこんだのだ。
 「ああああああああああっ、あっ、」
 縦に割れた額を覆って膝を屈した少年の背後から、新手がとびだしてくる。自分めがけて三方から突撃してきた少年たちを見回し、レイジは軽くステップを踏んで後退。鼻先をかすめて振りかぶられた拳を顎先を反らして回避、死角から突っ込んできた少年が両腕をのばしてレイジを抱きすくめようとするも、その手が脇腹へと達する前に右足を軸に半回転、巧みな体捌きで敵手の軌道上から脱する。
 レイジが踵を返して拳を避けたとき、彼の首元でなにかが光った。
 レイジの首元へと目を凝らす。
 シャツの内側にぶらさげていた金鎖のネックレスがはげしい運動の余波で宙へと泳ぎ、金鎖の先に括られていた十字架がサーチライトの光を反射して、鈍くきらめいたのだ。
 胸に十字架をさげ、片手に聖書をたずさえた国籍不明の外見の男は、小さく唇を動かしながら次々に襲いくる少年らを翻弄していた。
 レイジの唇に目を凝らし、その動きを読み取ろうと全神経を集中する。
 五人まとめてかかってきた少年たちを、ゆったりリラックスした動作で両手を体の脇にたらし、悠然と待ち構えるレイジ。

 『―ほふり場につれていかれる羊のように』

 瞬間。
 僕の耳朶をかすめたのは、独特の韻律を帯びたかすれ声。
 甘くかすれた独特の響きがある、高純度のコカインのように三半規管を酔わせる、抗いがたい依存性のある声。
 
 僕が見ている前でレイジの手首が撓り、宙高く放り上げられた聖書が頭上で旋回する。一回、二回、二回半。中空で回転した聖書の残像がレイジの右手へと収束した刹那、レイジまであと三歩の距離に迫っていた少年の喉首を横に寝かせた聖書の背表紙が痛打する。
 『ほふり場につれていかれる羊のように また、黙々として毛を刈る者の前に立つ子羊のように、彼は口を開かなかった』
 水平に寝かせた聖書で人体の急所、喉仏の上に位置する突起を一撃され、先頭にいた少年があっけなく膝を折る。喉を押さえて悶絶する少年の横から後ろから、奇声を発して攻めてきた後続の集団と衝突し、淡々とレイジが続ける。
 『彼は卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、誰が話すことができようか』
 返す刀で腕を一閃。
 風切る唸りをあげて宙を薙いだ腕の先、分厚い本の角で敵集団の先頭にいた少年の目を殴る。抉るような一撃にたまらず絶叫し、鬱血した目を覆って膝から崩れ落ちた仲間は捨て置き、二番手につけていた別の少年がレイジに襲いかかる。
 懲りずに攻めてくる少年らに冷笑的な表情を閃かせ、肉眼では把握できぬ速度で右足を振り上げるレイジ。
 『彼の命は地上から取り去られたのである』
 残像をひいて宙へと蹴り上げられた右膝が敵の鳩尾を容赦なく抉り、凶悪な角度で振り下ろされた聖書の背表紙が別の少年の鼻骨を粉砕する。
 「……ロン、聞いていいか」
 「……俺に答えられることなら」
 「レイジが手に持っているあれは、100%天然パルプの聖書に間違いないのか?」
 「ああ」
 「本当に?中に鉄でも仕込んであるんじゃないのか」
 そうとでも仮定しなければ、100%天然パルプ―水に漬ければふやけるし火をつければ燃えるただの紙だ―の聖書で、遥かに数で勝る敵相手に互角以上の戦闘を演じられるはずがない。おまけに、聖書で殴打された少年たちは皆額から血を流し、鬱血して倍ほどに膨れあがった瞼をおさえ、痛恨の一撃を喰らった喉をかきむしって地獄の責め苦を味わっているではないか。
 聖書を武器にするなんて、なんて罰当たりな戦い方なんだ。
 ロンは表情の漂白された横顔で孤軍奮闘するレイジに見入っていたが、鼻歌まじりに聖書の詩句を口ずさみながら敵を屠ってゆくその姿に背筋を寒くさせる狂気を感じたのだろう。
 楽しくて楽しくて仕方がないと笑みを浮かべ、息継ぐ間もなく襲いかかってくる敵集団を聖書ひとつで迎え撃つレイジを見下ろし、心ここにあらずといった虚ろな口調で呟く。
 「レイジの名前の由来知ってるか?」
 「?」
 脈絡のない問いかけに面食らうが、素直に答える。
 「知らないが、外見にそぐわない日本的な名前だな」
 最も、名前に関しては他人のことは言えないが。僕だってあの男がつけたセンスの悪い名前を自分の本名だとは絶対に認めたくない。
 「日本語じゃねえ」
 眼下の光景に見入ったまま、ロンが否定する。指の関節が白くなるほどコンクリートの手摺を握り締め、苦いものを吐き出すようにロンが言う。
 「レイジの名前は英語なんだ」
 ロンの視線を追い、眼下へと目をやる。北の皇帝に絶対忠誠を誓う十五名近い少年たちを相手に、無駄のないしなやかな動きで確実に戦力を削ってゆくレイジ。無造作に振りかぶった腕で水平に喉を直撃、その反動で浮上した肘を斜めに跳ね上げ、別の少年の下顎にうちこむ。コンクリートを削って蹴り上げた踵で後ろ向きに敵の股間を抉り、その反動で前方へと返ってきた膝を垂直に立て、必死の形相で殴りかかってきた正面の敵の股間を抉る。
 流れるようにスピーディーかつ芸術的なまでに美しい、実戦に特化した一連の動き。
 確実な波及効果が見込める人体の中心線に狙い定めて凶器を振るうレイジの顔には、終始笑みが浮かんでいた。

 狂気と正気の狭間を振り子のように揺れ動く、危うい均衡の上に成り立つ笑顔。
 じっと見ていると吐き気さえ催させる、人を酔わして堕落させる麻薬のような笑顔。

 「Rage……英語の『憎しみ』だ」

 おそらく、僕と同様の不快感を感じているのだろう。
 ロンは忌まわしいものでも見るかのように顔をしかめたが、それでも強力な磁力のあるレイジの笑顔から目を放せなかった。放心状態の僕らの目の前で、憎しみの名を持つ男は楽しげに楽しげに次々とせめてくる敵を屠っていた。
 「おかしいだろう……」
 言葉の途中で、てのひらがびっしょりと汗をかいていることに気付いた。
 冷や汗。
 レイジは完全に僕の予想の範疇を超えている、僕の理解の及ばない存在だ。
 尋常ではない強さ。すべてのものを圧倒する怪物のような強さ。
 人体の急所を余す所なく知り尽くし、その時その場の状況に応じて、最も効果的な一撃を最小限の動きで繰り出すことのできる人間。
 『主よ。どうか彼らのことばを混乱させ、分裂させてください』
 恍惚とした笑顔を浮かべ、聖書を振り上げるレイジ。
 唇から紡がれるのは、戦いの興奮を鎮静させる、信仰の熱をともなわない単なる音の連なり。
 『私はこの町の中に暴虐と争いを見ています。彼らは昼も夜も町の城壁の上を歩き回り、町の真中には罪悪と害毒があります』
 それは聖書におさめられた架空の挿話ではなく、東京プリズンの現実だ。
 「神への冒涜」。
 自己暗示をかけるようにぶつぶつ呟いている当の本人は、悪魔のように綺麗な顔でにっこりとほほえむ。
 『破滅は町の真中にあり、虐待と詐欺とは、その市場から離れません』
 狂える呪文を連ねて笑みを深めたレイジは、まったく無造作に、一気に腕を加速させて聖書を振り下ろす。
 レイジの手前にいた少年の右耳に水平に寝かせた聖書が激突、鼓膜が破れて血が滴り落ち、耳小骨が砕けて乾いた音が鳴る。
 「サ、サーシャさまあああああああっ」
 一方的な殺戮の様相を呈してきた下界から、背後のサーシャへと目を転じる。
 サーシャはどこまでも冷徹な爬虫類の目で死屍累々たる眼下の惨状を睥睨していたが、妙に堅苦しく格式張った口調で嘆く。
 「誇り高きロシアの末裔たる者が、混血の害虫一匹に駆逐されるとは情けない」
 大儀そうにかぶりを振ったサーシャが仰々しく腕を振りかざし、腰のポケットから一本のナイフを召喚する。
 芸術的な装飾の施された鞘を抜き放ち、抜き身のナイフを手に握る。
 静脈が浮いた手にナイフを握り締めたサーシャは無表情にそれを一閃、弱音を吐いた少年のもとへと投擲する。コンクリートの地面を穿ち、鋭く突き刺さった銀の刃に、流血した耳をおさえて尻餅ついた少年が「ひっ!?」とあとじさる。蒼白の顔で後退した少年に無慈悲な一瞥をくれ、奢り高ぶったサーシャが非情な宣告を下す。
 「北棟の恥さらし、ロシアの面汚しが。潔く頚動脈をかき切って自害しろ。恥辱を拭うには誇り高い自死しかない」
 自分の下した命令で戦い傷ついたというのに、同胞にかける憐憫の情など一片たりとも持ち合わせてないらしいサーシャは終始冷たい目をしていた。恐怖のあまり失禁し、ズボンの股間を湿らした少年のもとに歩いてきたのは、あらかた敵を始末し終えたレイジ。
 コンクリートの地面に刺さったナイフ、その柄を勢いよく踏み込み、器用に宙に蹴り上げる。
 柄に力をくわえられた反動で地面から跳ね上がったナイフは縦方向にくるくる旋回しつつ、狙い定めたようにレイジの手の中にすべりこむ。
 「おりてこいよ皇帝。決着つけようぜ」
 聖書とは逆の手にナイフを構えたレイジが叫び、上半身裸のサーシャが叫び返す。
 「私は王座から動かない。そちらが上がってくるのが筋というものだろう」
 「階段に罠があるかもしれねえからな」
 レイジが肩をすくめる。最も、その台詞がまったくの冗談ではないという証に目は笑ってない。
 「―罠を恐れる東の王ではないと思うがな。買いかぶりだったか」
 嘲りを含んだ台詞に、レイジの笑みが深まる。抜き身のナイフを腰にさし、聖書を抱え直したレイジが「いいだろう」とふてぶてしく歩き出す。死屍累々、額を割られ鳩尾を蹴られ鼓膜を破られ鼻骨を砕かれ、杜寫物と血にまみれて悶え苦しむ少年らには一瞥もくれず、悠々と監視塔に通じる階段をのぼりはじめる。
 カツン、カツン。
 サーチライトが照らす暗闇に響く、のびのびした靴音。自信と矜持に満ち溢れた、絶対無敵を誇る王者の歩幅。
 傾斜が急な階段をのぼり、ようやく屋上へと辿り着いたレイジは、コンクリート塀にもたれたロンを見つけるや否や返り血を浴びた顔でにっこりと微笑む。 
 「門限すぎても帰ってこねえから心配したぜ」
 「煩死了(おまえにはうんざりだ)」
 台湾語がでたということは、本当に怒ってる証拠だ。
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