少年プリズン

まさみ

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二十六話

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 扉をノックする。
 廊下に群れる囚人の視線が僕へと注がれる。露骨な好奇心と微量の畏怖がいりまじった不快な目つき。昨日レイジと立ち話したときにも感じた肌に微電流をとおされる感覚がよみがえり、嫌な汗がてのひらに滲む。
 思い過ごしだ。ここにきてから他人の視線に過敏になっているだけだ。
 そう自己暗示をかけて気分を落ち着けようとしたが無駄だった。廊下にじかに胡坐をかいて賭けポーカーに興じている囚人も卑猥なスラングが殴り書きされた壁にもたれて談笑している囚人も鉄扉に穿たれた矩形の窓に顔を密着させてこちらを窺っている囚人も、たしかに現実に呼吸して存在しているのだから。
 露骨な好奇心と微量の畏怖、そして極大の嫌悪を表出させた目の囚人たちがレイジの房の前に立った僕を遠巻きに眺めている。
 カードをさばく手を止めた囚人たちが顔を見合わせ、ひそひそと後ろ暗いささやきを交わす。
 「アイツ三階の鍵屋崎だろ?サムライと同房の」
 「なんで一階にいるんだよ」
 「てゆーかアレ、レイジの房だろ」
 「新入りの親殺しがレイジのヤサたずねて何しようってんだ」
 「お前馬鹿だろ。有名だぜ、レイジが鍵屋崎の額にフォークつきつけて脅した話。大方それを根に持って復讐にきたんだよ」
 「執念深い奴だなおい」
 「てめえの親をぐさっと殺しちまうような外道だぜ。血のつながりもねえ他人の命なんて鼻くそほどにも思ってねえよ」
 先刻まで卑猥な軽口を連発し互いの肩を小突きあっていた二人組が僕の横顔を盗み見て、聞こえよがしに言う。
 「あれが鍵屋崎?おとなしそうなツラしてんじゃねえか」
 「ツラだけだろ。中身は平気で親殺しちまうような下衆野郎だぜ、おれたちとは違う生き物だよ」
 「そうだな、そりゃおれたちは人のもん盗むしチームの抗争でガキ殺ったりはしたけど一つ屋根の下で暮らしてるてめえの親殺すような見下げ果てた真似しなかったもんな」
 「アイツよりおれたちのが遥かにマシだ」
 「ああ、遥かに上等だ」
 扉の手前につめかけた囚人が窓の鉄格子に顔を寄せ、息を殺してこちらを見つめている。
 「レイジの房に何の用だろうな」
 「王様に媚売りにきたんじゃねーか」
 「ケツ売りにきたんだろ」
 「いいねえ、あのケツなら俺高く買うよ。二千円くらい?」
 「そんな金持ってんのかよ、この前ハデにスッたくせに」
 悪意滴る下劣な嘲笑と下衆な野次、廊下の四方から押し寄せる不躾な視線に値踏みされて辟易した僕の前で扉が開き、明るい茶髪を襟足で一つに縛った青年が眠たそうな顔を覗かせる。
 レイジの登場と同時に、あれだけ騒がしかった廊下に劇的な変化が起きた。
 潮が引くように嘲笑と野次が大気に溶けて消滅し、廊下に群れていた囚人たちがよそよそしく顔を逸らしてりにわかに忙しげに立ち上がり自らの房へと帰ってゆく。膝に広げていたカードを束に纏めて輪ゴムをかけた少年が足早に廊下をよこぎり、壁際にふたり並んで僕を観察していた囚人がうしろめたそうに顔を背けて退散してゆく。鉄扉の内側からこちらを盗み見ているらしい人影は相変わらずそこにいたが、レイジが寝ぼけ眼で廊下を見渡すと同時にすばらしい反応速度でさっと奥にひっこんだ。
 皆が皆、レイジと関わり合いになるのを忌避するかのように。
 潮が引くように囚人が失せた廊下にただ二人立ち尽くしているのは僕とレイジだ。閑散としたコンクリートの廊下をぼんやり見渡していたレイジの目が正面の僕の顔へと戻ってくる。
 「……あれ、キーストア。何か用?」
 別段僕が房を訪れたことに驚く様子も見せず、平素とまったく変わらぬ様子でレイジが聞く。あくびを噛み殺したレイジの問いにそっけなく僕は答える。
 「用がなければ友人でもない君の房を訪れる理由がないだろう?当たり前のことを聞くな」
 「お前、天然で喧嘩売ってる自覚ある?」
 半ば感心したようにレイジが苦笑する。喉元まででかけたあくびを飲みこんだレイジの顔を睨み、早急に用を済ませようとズボンのポケットに手をさしいれる。
 「ま、入れよ」
 何を勘違いしたのか、レイジが鉄扉の脇へとしりぞいて僕を通す道を作る。レイジに手紙を渡して自分の房に直帰する予定を立てていた僕はこの予想外の行動に戸惑う。
 「―妙なことを言うな。大体僕が君の房に足を踏み入れる理由がないだろう?用件は今ここで済む、わざわざ余計な手間と時間をかける意味も利益もない」
 「お前がそう言うならいいけど」
 鉄扉の表面にもたれたレイジが薄笑いを浮かべ、意味ありげな視線を廊下に流す。レイジにつられて廊下をかえりみた僕は、左右の壁に等間隔に並んだ鉄扉の内側で幾つもの影が怪しくうごめいているのを目撃する。
 「囚人環視の状態でおしゃべりすんのは精神的に落ち着かねえんじゃないか?俺には視姦プレイの趣味ないし。それとも」
 鉄扉に片手をついて前傾姿勢をとったレイジが虚をつかれた僕へと顔を近づけ、甘い声でささやく。
 「キーストアは見られてたほうが感じるの?」
 「……馬鹿を言うな。僕は不感症だ」
 肩で押すようにしてレイジの顔を回避し、三歩後退。彼の意図したところを悟り、大人しくその言葉に従う。背に注がれる何対もの視線を過剰に意識しつつ、ぎくしゃくした足運びでレイジが待つ鉄扉の内側へと足を踏み入れる。
 背後で金属と金属が擦れる音が鳴り、それまで僕の四肢を束縛していた粘着質な視線が遮蔽された。
 レイジの房へと初めて足を踏み入れた僕は内心の緊張を紛らわすように視線を巡らす。僕の房と同じ、リョウの房とも殆ど変わらない殺風景な内観。コンクリート打ち放しの天井と壁と床は陰鬱な石肌をさらしていた。壁際に位置するパイプベッドの錆びれ具合まで僕にはよく見慣れたものだ。
 洗面台と便器、ベッドの配置にいたるまでなにからなにまで寸分たがわぬ無個性な内観を眺め終えた僕は、背後に人の気配を感じて振り向く。
 「面白いもんでもあったか?」
 「―あった」
 毛羽立った毛布がだらしなくめくれたベッドの片方、行儀悪く寝乱れたシーツには汗と垢と糞尿、そして精液の異臭が染み付いていたが、僕の注意をひいたのはその枕元に投げ置かれた一冊の本。

 聖書だ。

 「このベッドの持ち主はロンか?」
 「俺だよ」
 レイジがさらりと明言し、不覚にも僕は驚く。意外に思った僕の胸中を見抜いたのか、自分のベッドに腰掛けたレイジが屈託なく笑う。
 「おどろいただろ?俺みたいにパッと見人種不明な奴がイエス・キリストのホラ話を読んでるから」
 「君はキリスト教なのか?念のため指摘しておくが、キリスト教では同性愛はタブーだぞ」
 「いんや、無宗教」
 ひょいと枕元の本を拾い上げ、両の手でお手玉をはじめるレイジ。傷んで擦り切れた皮表紙の本がめまぐるしくレイジの両の手を渡る。左右の手の間を投げ渡される本の残像を無意識に目で追いながら、僕は疑り深く問いを重ねる。
 「下品で下劣で軽薄な言動が日常化している君が聖書を読んでるなんて意外だな。サムライの写経とおなじで、聖書を読んで罪滅ぼしでもしてるつもりなのか?もしそうなら」
 一呼吸おく。優雅に膝を組んだレイジの手中、だれかのプライドのように無残に擦り切れた皮表紙の聖書を一瞥して唾棄する。
 「君の良心はずいぶん安いんだな」
 「そうだな。日本円で80円くらいだ」
 右手で聖書を受け止めたレイジがさもおかしげに声をたてて笑う。鋭く尖った喉仏を上下させてけたたましく笑うレイジにうんざりし、僕は話題を変える。
 「ロンはどこにいる?」
 「シャワーだよ」
 なるほど。僕と同じで、ロンも今日がシャワーの日だったのか。納得した僕をよそに、レイジは深々とため息をつく。
 「まったく、アイツってばつれないんだぜ?一緒にシャワー浴びようぜって誘ったらこれだ」
 レイジが左手の甲を掲げる。おもいきりつねられたらしく、手の甲の中央部が赤く腫れていた。蜂にさされたように痛々しく腫れ上がった患部に哀れっぽく吐息をふきかけ、伏し目がちにレイジが愚痴をこぼす。
 「男同士なんだし照れることねーじゃんか。ああ、それともアイツまだ剥けてないのかな。だから俺と入るのいやがったとか。どう思うキーストア?」
 「悪いが君たちの下半身には一切興味がない。どちらかというとその手の話題には不快感を禁じえない」
 「つれねえなあ、お前もロンも。俺たち同じ穴のムジナじゃねーか、仲良くやろうぜ」
 膝に聖書を投げ置き、ベッドに後ろ手をついた怠惰な姿勢でコンクリートの天井を仰ぎ、レイジが大仰に嘆く。ふと疑問に思った僕は何が起きても迅速に対処できる安全圏に自分の身をおいたまま、ベッドに腰掛けたレイジに質問する。
 「レイジ、君はいつでも自由にシャワーが使えるのか?」
 「いまさらだな」
 愚問だといわんばかりに含み笑ったレイジ、その自信家然とした態度にどこか空恐ろしいものを感じる。ペンキの剥げたパイプベッドを粗末な玉座に見立てて後ろ手をついたレイジが、見る者すべてを魅了するカリスマの笑顔を浮かべる。
 「俺は東棟の王様だ。王様には特権が与えられる。王様権限でシャワーでも何でもパスだ」
 特別待遇というわけか。
 どうやら看守に気に入られたごく一部の囚人に限り、シャワーなどの設備を優先的に使用できるというのは本当だったらしい。好待遇のレイジに嫉妬したわけでもないが、僕はもう一刻もこの房に留まっているのがいやになった。悠悠自適な身分のレイジは優雅に暇をもてあましているらしいが、炎天下での強制労働を終えた僕は心身ともに疲れきっており、用を終えたらさっさと房に直帰してベッドに倒れこみたいのが本音だった。
 ズボンのポケットに片手をもぐりこませ、手紙をとる。ベッドに腰掛けたレイジの鼻先に手紙をつきつけ、言う。
 「君にだ」
 レイジが瞬きした。当然「だれから?」と誰何されると思ったが、予想に反してレイジは疑義を挟まなかった。ただ、押し付けられるがままに鼻先につきつけられた手紙を受け取ると、神妙に片目を眇めてあらゆる角度からためつすがめつしてみせる。それこそ一流鑑定士の細心さで手紙を頭上に翳して検分していたレイジの顔に不可解な笑みが浮かぶ。
 レイジが奇妙な行動にでた。
 僕は当然口から開けると予想していたのだが、レイジは手中の手紙を逆さにするや、封筒の後部を一直線に破り捨てたではないか。封筒の尻の部分を一気に破り捨てたレイジは、ぎりぎりまで片目を細めて封筒の中をのぞきこむ。
 「あたり」
 唇の端に二ッと笑みをためたレイジが悪戯っぽく僕を仰ぎ、足元の床の上で封筒を逆さにする。
 軽く振られた封筒の中からすべり落ちてきたのは、鋭利な銀の輝き。封筒の傾斜をすべってきた銀の刃はあっけなく床に落下するや、カチャンとむなしい音を奏でた。
 眼鏡のブリッジを中指で押し上げて床の落下物に焦点を凝らした僕は、銀の光沢をまとう薄片の剣呑な正体に気付く。
 「剃刀の刃だ」
 口にしてからある疑惑を思い浮かべてハッとした。はじかれるようにレイジを見る。レイジは笑っていた。すべてを見通すような深淵の微笑を湛え、進退窮まって躊躇する僕の動向を探っていた。
 この状況は非常にまずい。剃刀の刃を仕込んだのは僕ではないと弁解しなければ。
 「これはー……」
 レイジの眼光に圧されて口を開いた僕をさえぎったのは、褐色のてのひら。皆まで言うなと僕を押しとどめたのは、何を隠そうレイジ本人だった。
 「わかってる。このえげつなさはリョウだ。あのガキ、トゥシューズに画鋲しこむ黎明期の少女漫画かっての」
 自分が口にしようとした事実を先回りされて言葉を喪失した僕は、眉間に皺を刻んでレイジを凝視する。何故ぼくが手紙のさしだし人を告げる前からリョウだとわかったのか?などと脳裏で疑問符が増殖してゆくが、答えを求めて仰いだレイジは相変わらず笑みを浮かべたまま、再度手中の封筒を傾げる。
 剃刀の刃が仕掛けられていた逆方向からレイジのてのひらへと滑りおちたのは、一枚の紙片―否、違う。今のは見間違いだ。レイジの右手にあるのは紙ではなく、トイレットペーパーの切れ端だ。端がびりびりにちぎれたトイレットペーパーの裏面にかすかに字が透けて見える。僕は極限まで目を細めてトイレットペーパーの裏面に浮き出た文字を読み取ろうとしたが、レイジが全文に目を通すほうが早かった。
 
 一瞬、レイジの笑みが深まったように見えたのは気のせいだろうか。

 おもむろに席を立ったレイジが僕の横を通り過ぎ、大股に便器へと向かう。無意識にレイジのあとを追った僕の目の前で、自分が手にしたトイレットペーパーの切れ端を一抹の未練なく便器へと流す。ザアア。勢いよく水が迸り、ポンプを押しこむ一動作で証拠隠滅したレイジが爽やかに振り向く。
 「さんきゅうキーストア。お前の用は済んだ、もう帰っていいぞ」
 「帰っていい」と促されたのは理解できたが、床の表面に足裏が接着されたような心地がするのはあまりにも腑に落ちないことが多すぎるからだろう。音痴な口笛を吹きつつ僕のもとへと戻ってきたレイジ、その耳元でささやく。
 「今のトイレットペーパーには何が書かれていた?何か、重大な用件じゃないのか」
 「気になるか?自分が運んできた爆弾の正体が」
 「爆弾?僕は爆弾か、それに類する危険物を知らず知らずのうちに運ばされたというのか?」
 「悪い、物騒なたとえだったな。メガネくんには刺激が強すぎたか」
 レイジがけたけた笑いながらベッドに尻を落とし、その衝撃でスプリングが軋み、マットレスが弾む。

 レイジの目を直線で覗いて気付いた。
 レイジの口元はたしかに笑っていた。それが不正確な表現なら、たしかに笑みに類似する表情を形作っていた。
 だが、悪魔のように吊り上がった口角と収縮した顔筋の上に嵌め込まれたおそろしく透明度の高い薄茶の瞳に浮かんだ表情は、笑みというにはあまりにも。
 
 「強いて言えば、招待状だな」
 あまりにも。
 好戦的で攻撃的。
 野蛮な娯楽ではなく、生命維持欲求の必然で獲物を捕食する動物のように血なまぐさい笑み。
 笑みに分類できない笑みを満面に湛えたレイジはさも愉快げに喉を鳴らすと、ひどくおもわせぶりに僕を一瞥する。
 「俺はこの城の王様だから、玉座の脚をかじるのが大好きなシマシマのネズミたちから素敵な招待状をもらうこともあるのさ」
 
 ぞっとした。

 リョウに針金をつきつけられたときでもここまで本能的な危機感はおぼえなかった。全身の肌が粟立つ感覚、背骨を貫く氷柱の戦慄。たった今ぼくの目の前でトイレットペーパーの招待状を千々に破り捨てたレイジは、何がたのしいのか全く理解できない笑みを浮かべ、唄うように続ける。
 「俺もおちおちできねえな。北国生まれのネズミは永久凍土も噛み砕ける歯が自慢だから、呑気に舞踏会の日を待ってたら全部の脚を齧られて王座が転覆しちまう。今晩、予行演習に出向くのも悪かねえな」
 まったく意味不明の独り言を饒舌に述べ立てるレイジから半歩ずつあとじさり、充分な距離がひらいたところで方向転換。ひとおもいに鉄扉を開け放ち、廊下へと飛び出す。
 廊下にたむろっていた囚人と肩がぶつかり、背中に怒号が浴びせられる。矢継ぎ早に浴びせられる怒号を追い風にして足を速め、ただ一刻も早くレイジのいる房から逃れたい一心で床を蹴る。途中、何人もの囚人にぶつかった。何度も肩や腕や脛をぶつけた。
 しかし、一度も立ち止まらなかった。一度も立ち止まらずに廊下を全力疾走し、入所初日にあてがわられた自分の房へと帰還した僕はノブに片手をかけた時点で力尽き、とんと廊下に膝をついた。
 房の中で動く気配があった。
 カチャリとノブが半回転し、鈍い響きを伴って鉄扉が開く。侵入者を警戒して薄く開かれた鉄扉の隙間から無愛想な顔を覗かせたのはサムライだった。
 「羅刹でも見た顔をしてるな」
 「………らせつ?」
 「大丈夫か」などという生ぬるい言葉を期待していたわけではないが、この一言には面食らった。とっさに漢字を思いつけなかったのは失態だ。いくら気が動転してたとはいえ、僕はここにいる低脳どもとは違う天才なのだから。

 そして、なぜ鍵屋崎 直ともあろう者がこのような見苦しいまでの恐慌状態に陥ったのだろうかと首を捻る。

 僕はいつでも冷静沈着に物事に対処していたはずだ。東京プリズンにきてからずっとそうだったじゃないか。対象を観察し、分析する。
 僕は他の人間に対してしてるのと同じ行為をレイジにしようとしただけだ。
 それなのに、このザマはなんだ?

 「暴悪で恐ろしい意の梵語の音訳」
 サムライの呟きにぎょっと顔をあげる。僕の体が入りこめるだけ鉄扉を開けた用心深いサムライが、抑揚のない声で繰り返す。
 「空中を飛行し、人を食うといわれる鬼のことだ。羅刹とは」
 「―そんなことは貴様に教授されなくても知っている。馬鹿にするな」
 サムライを押しのけて房へと足を踏み入れた僕は、覚束ない足取りで自分のベッドへと向かう。膝から下が崩れ落ちるようにベッドに腰掛けた僕の耳に鉄扉の閉じる音が響く。房内へと帰ってきたサムライがじかに床に胡坐をかき、手前に伏せられていた経文を手にとる。どうやら読経の最中だったらしい。無表情に読経を再開したサムライの横顔をすることもなく眺めているうちに動悸が鎮まってきた。
 読経が終了した。
 僕の心拍数も平常値に戻った。
 経文をきちんと折りたたんで懐へと戻したサムライが、平時でも細い目をさらに細めてこちらを振り向く。
 「鍵屋崎、お前も読経の習慣をつけてはどうだ?」
 「は?」
 おもわず反駁した僕に向き直り、サムライが淡々と解説する。
 「今のお前は羅刹が人を喰らうところを目撃したようなひどい顔色をしてる。魔除けの効果までは保証しないが、気休めぐらいにはなるぞ。般若心境は」
 「……そんな無意味な言葉の羅列にご利益があるとは思えないし、僕は非科学的な物を一切信じない主義だ。第一、僕が見たのは羅刹とかいう名の架空のインド神じゃない」
 「なにを見たんだ?」
 興味なさそうにサムライが聞き、レイジの笑顔を思い出した僕はこう言うしかなかった。
 「暴君だ」
 なぜレイジが東棟の王様を自称するのかわからない。
 東棟の囚人がレイジを恐れる理由も、レイジが特別待遇を受けている理由もわからない。
 わからない―理解できない。
 レイジの笑顔は、レイジの存在は、まったく僕の理解の範疇外にあるのだ。僕の知らないものを見て僕の知らないものを飲み食いし僕の知らない空気を呼吸した生物だけが浮かべることができる、異質な笑顔。
 価値観が相容れないとか、そんな次元の問題ではないのだ。極端な話、さっきの僕の動揺は……こちらが観察者だと思って顕微鏡を覗いていたら、観察対象のミトコンドリアが突然しゃべりだしたような超常の恐怖。それまでこちらが完璧に優位に立っていると信じて疑わなかったのに、あちらはいつでも使い捨てがきく観察対象のひとりに過ぎなかったのに、一瞬で立場が逆転したのだ。
 
 十五年生きてきたが、あんな気持ち悪い笑顔を浮かべる人間には初めて出会った。
 あれは人間が浮かべる笑みじゃない。もっと動物的な、むきだしの攻撃本能が昇華した笑み。

 生理的嫌悪などというなまやさしい感情じゃない、もっと凶暴で攻撃的な感情が一挙に押し寄せてきて胃が縮む。猛烈な吐き気をおぼえて口元に手をやった僕を目の端でとらえ、サムライがぽつりと呟く。
 「吐きたいなら俺はよそを向いてるが?」

 見抜かれていた。

 片手で口を覆ったまま、殺意をこめてサムライを睨む。有言実行のサムライは平然とした顔で壁の方を向く。奥歯を食いしばってなんとか吐き気を飲み下した僕は、無関心を気取ったサムライの背中に刺々しい皮肉を叩きつける。
 「君と同房にいれられてから吐き気が止まない。こんな換気の悪い房で赤の他人と同じ空気を吸ってるのかとおもうと気分が悪くなる。―簡潔に言えば、ここで吐いたら止まらなくなるぞ。いいのか」
 「よくはない」
 背中越しにサムライが答える。大きく深呼吸して気分を落ち着かせた僕の鼓膜を、深沈と静まった声が叩く。
 「ただ、それ以上にー……そうやってしなくていい無理をしているお前の姿は見苦しい」
 頭をうしろから殴られたような衝撃。
 サムライは依然壁と向き合ったまま、ぴんと背筋を伸ばして瞑想に耽っている。その背を罵倒しようとしたが、途中で舌が萎える。
 「…………」
 荒々しく毛布を羽織り、壁の方を向いてベッドに横たわる。僕は強制労働で疲れていた。明日に備えて一分一秒でも泥のような眠りを貪りたい。この男の意味不明な戯言に付き合って貴重な睡眠時間を削るのは馬鹿らしすぎる。
 
 目を閉じる前に見たサムライの背中が、瞼の裏の暗闇に浮上する。
 強い意志を感じさせる不動の背中。自分を支える芯が中心に備わっている人間だけが持つ安定した存在感。

 見苦しいのはどちらだ。
 シャワーもろくに浴びてないような、髪もフケだらけの貴様に言われたくない。
 そんな台詞は自分の身なりを鏡に映してから言え。

 そう言おうとした。しかし、言えなかった。何故なら心の底の底で、僕は「サムライが見苦しい」と言い切れなかったから。
 はたして、この男が見苦しく見えるだろうか?
 身なりの問題ではない。もっと本質的な部分で、この男が見苦しく見えるだろうか?

 答えは既にでていた。僕の頭は悪くない。正解など、眠りにおちるまでのごく短時間で見つけてしまった。

 そして僕は、サムライと共に過ごす今日この夜ほど自分の頭のよさを呪ったことはない。
 だから僕は嘘をついた。
 ほかの誰に対してでもない、自分に対しての嘘。
 「……見苦しいのは貴様のほうだ、サムライ」
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