少年プリズン

まさみ

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二十五話

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 翌日、僕は東棟三階二号房を訪れた。

 控えめに扉をノックする。
 内側から聞こえてきたのは「は~い」という間延びした声、体重の軽い足音。錠が外れる音についでノブが半回転し、癖の強い赤毛が覗く。鉄扉の内側から無防備に顔を覗かせたその人物は、廊下に立ち尽くしている僕を視界に入れると、上の前歯が一本欠けた童顔でにっこり笑った。
 「よく僕の房がわかったね。サムライに聞いたの?」
 「それ以外にどんな情報入手手段がある」
 半身を傾けて脇にしりぞき、僕を迎え入れる体勢をとったリョウの前を無関心に通り過ぎ、三階二号房へと足を踏み入れる。他人の房に足を踏み入れるのはこれがはじめてだ。純粋に興味をひかれてあたりを見回してみるがとくに新鮮な発見も異質な差異もない。房に足を踏み入れた時からつきまとっているのは奇妙な既視感だ。コンクリート打ち放しの殺風景な天井には錆びた配水管が幾何学的に這いまわり、接合部から滴った汚水が暗色の壁をスクリーンに見立てて奇怪な抽象画を描き出している。壁際に並んでいるのは廃品寸前のパイプベッドが一対。マットレスの裂け目から無残に綿のはらわたがはみだしたベッド、その一方の枕元にちょこんと置かれているものに目がとまる。
 
 汚れたテディベアだった。

 「HEY,welcome!」
 声がした方を振り向く。
 テディベアが枕元に据えられたベッドの隣、向かいの壁際に設置されたベッドに腰掛けていたのは陽気な笑顔の黒人少年だ。年は僕と同じ位だろうか。底抜けに明るい笑顔を湛えた少年は大袈裟な動作で両手を広げ、全身で歓迎の意を表現する。コールタールの肌とは対照的に白い歯を光らせベッドを立った少年は、踊るような足取りで僕へと近づいてくるや、スッと片手をさしだした。
 その動作が意味しているところを事前に悟った僕は、速やかに回避行動をとる。
 「!?」
 図々しくも僕と握手しようとした少年、その手が僕の手を掴む前に無造作に腕を振りかぶる。友好の証たる握手を無下に拒絶された少年は一瞬きょとんとしたが、次に彼が浮かべたのは僕の予想を裏切る表情だった。
 「なるほど……潔癖症ってのはマジだったんスね!」
 空白の表情から一転、はずむような笑顔を湛えて無邪気に事実を確認した少年に僕のほうが当惑する。彼の舌からつむがれたのが流暢な日本語だったことにも。鉄扉を閉めて戻ってきたリョウが苦笑して僕と少年の間に割り込む。
 「ビバリー、新人くんをあんまりからかわないでよ。君のテンションについてける囚人なんて同房の僕くらいだよ?」
 「からかうなんて人聞き悪いっス、ただ僕はフレンドリーな外人のフリしてコトの真相を確かめてみただけっス!新入りの鍵屋崎はとにかく人にさわられるのを嫌がる、鍵屋崎を剥こうとした凱の手下なんて針金で目ん玉刺されて失明寸前までいったらしいとか、あることないこと噂が流布してるし……どこまで本当だか体を張って確かめてみただけっス、グレテイストでソウルフルなチャレンジ精神を褒めてくださいよ」
 ビバリーと呼ばれた少年は我が身の潔白を訴えるように両手を広げると、演技過剰のコメディアンを彷彿とさせる動作で大袈裟に肩をすくめた。大仰な身振り手振りをまじえ、熱っぽい口調で釈明するビバリーを背にしたリョウは、親指の腹で騒がしい同居人を示して続ける。
 「紹介が遅れたね。コイツ僕の同房の住人でビバリーっての」
 「ビバリー……本名か?」
 「違います!」
 リョウの背からとび出したビバリーが得意げに鼻の穴をふくらませ、自らのあだ名の由来を語りだす。
 「僕のグランパは黒人ではじめてビバリ―ヒルズに豪邸を構えたアメリカンドリームの実現者なんっス!だから孫の僕もビバリーって呼ばれてるんス!」
 僕の反応を期待するかのように爛々と目を輝かせたビバリーに水をさしたのは、肩をひくつかせて笑いを噛み殺してるリョウだった。
 「コイツの言うコト本気にしないほうがいいよ。八割ガセだからさ」
 「ガセじゃないっす、本当っス!いくらリョウさんでもマイグランパとマイファミリーを馬鹿にしたら許さないっスよ!?」
 「はいはい、じゃあそういうことにしといてあげるよ」
 「マジで僕はビバリ―ヒルズ出身なんです、ビバリ―ヒルズの実家ではかわいい妹のロザンナが僕の帰りを待ってるんス!兄の出所の日を待ち望んで僕の好物のママレードパイを焼いてるロザンナの姿が目に浮かびます……」
 胸の前で五指を組み合わせ陶然と妄想にひたっているビバリーを一瞥、ある疑惑が脳裏に浮上した僕は小声でリョウに訊ねる。
 「彼はクスリをやっているのか?」
 「あれがノーマルなテンションだよ。脳内麻薬を生成できるからわざわざクスリを打つ必要ないのさ」
 自分のベッドへと退散したビバリーから改めて僕へと向き直ったリョウは、「で?」と斜め四十五度の角度に小首を傾げる。
 「そろそろ用件を聞こうか。なんで僕の房に来たの?」
 普段から使用しているのだろう、左側のベッドに腰掛けたリョウがあっけらかんと聞く。ベッドには特に座れとも勧められなかったし、床に直接座るのは抵抗がある。立ったまま会話を続行することにした僕は、胸の位置にあるリョウの顔を高圧的に見下ろして口を開く。
 「僕が別段親しくもない君の房を訊ねる目的など一つしかない。君に命じられた件を処理しにきたんだ」
 「へえ」
 媚を売るような上目遣いで僕を仰ぎ、リョウが笑う。無邪気な子猫の皮をかぶった、したたかで貪欲な雌猫の笑み。極端な二面性のある笑みを浮かべたリョウは緩慢な動作で足を組みかえ、甘ったるい猫撫で声で促す。 
 「それなら話は早い。レイジの弱点て、なに」
 赤い舌で下唇を湿らし、リョウがささやく。男を誘惑する娼婦のように淫猥なしぐさに、僕はとくに何の感慨も抱かない。ただ、僕が知りえたありのままの事実を報告するだけだ。
 「レイジの弱点は……」
 興味津々、リョウが身を乗り出す。背後のベッドではビバリーが息をつめてことの成り行きを見守っているらしく、房の空気が緊迫する。張りつめた空気を肌に感じながら、僕は端的に簡潔にレイジの弱点を告げた。
 「ロンだ」
 「「…………………………は?」」
 リョウとビバリーがテンポのずれた声で唱和する。 
 頬杖をくずしたリョウが、不自然な体勢で僕を仰ぐ。超常現象にでも立ち会ったかのように不可解な表情のリョウが不審げに問い返す。
 「……今ロンって言った?」
 「言ったが」
 「それ、レイジと同房のロンのこと?」
 「東京プリズンに他のロンがいるかどうかは知らないが、僕が面識のあるロンはレイジと同房の彼だけだな。よくある名前なのは確かだが、レイジの会話中にでてきたロンはまず彼と確定していいだろう」
 実際、中国系の囚人に石を投げれば当たる確率で「ロン」という名前は存在するだろう。だがレイジが言及していたのは正真正銘、彼と同房の住人であるロンだけだ。三日前、自身には何の利益もないにも関わらず凱たちに目をつけられた僕をフォローしてくれた少年。自身が不利益を被ってまで他人を助けようとする行為は僕には理解しがたく非効率的な愚の骨頂だが、不思議とロンの行動からは偽善臭がしなかった。
 どうやらロンは僕にある種のシンパシーを感じていたらしいが、そのシンパシーの根拠が何であるかはわからない。
 「……えーとメガネくん、イチから説明してほしいんだけど。一体なにをどうしてどんな根拠があってロンがレイジの弱点だって結論に辿り着いたのかな?僕、まったく意味不明なんだけど」
 表面だけの愛想笑いを浮かべたリョウの疑問に、言葉少なに僕は答える。
 「レイジ本人がそう言っていた」
 「…………レイジに聞いたんだ?」
 「聞いたが、なにか不都合でもあるのか?」
 驚愕をとおりこして絶句したリョウの口が力なく閉じられ、表情を拭ったように愛想笑いがかき消える。かわりに貼り付いたのは僕の愚かさを嘆いて呪うようなあきれかえった表情だ。自らの膝の間にがっくりと頭をたれたリョウが、深い深いため息をつく。
 「あのさメガネくん。僕言ったよね、『レイジの弱味を探ってきてくれ』って。君がしたことは秘密裏に『探った』んじゃなくて直接『聞いてきた』だけでしょ?」
 「過程はちがうが結論は同じだ。僕は結果論を重視する」
 「過程が大事なんだよ」
 リョウが辛抱強く繰り返す。膝の間に頭を抱えこんだリョウは恨めしげな上目遣いで僕をねめつけると、のろのろと緩慢な動作で上体を起こす。上体を立て直したリョウはなげやりに両手を後ろにつくと、もうお手上げだといわんばかりにかぶりを振る。
 「君に頼んだのが失敗だったよ。てゆーかメガネくん、そのメガネ伊達じゃないの?頭いいふりしてるだけじゃないのホントは。ホントに頭いいならそのへんの呼吸わかるっしょ、暗黙の了解ってゆーかお約束ってゆーかさ。なんで本人前にして直接聞くのさ。もう全部おしまい、君が余計なことしてくれたせいでなにもかもおしまい。ジ・エンド。へたしたらレイジにスパイの存在勘付かれたかもしれないし……」
 「スパイ?」
 「こっちのこと」
 顔の前に手を掲げて僕の追及を遮ったリョウが、助けを乞うように向かいのベッドに声をかける。
 「ビバリーなんとかしてよ、僕このままじゃサーシャに殺されちゃう」
 「僕は関係ないっすよ、てめえのケツぐらいてめえで拭いてくださいリョウさん」
 背後のベッドに腰掛けたビバリーがトラブルに巻き込まれるのを避け、我関せずと高速で首を振る。動体視力の限界のスピードで首を振り続ける同居人を苦々しげに睨み、唇を引き結んで正面を向くリョウ。
 なにがなんだかわからない。僕はリョウに言われたとおり、レイジの弱点を探って報告しにきただけだ。何故こんな恨みがましい目つきで見られなければならない?
 「―僕は言われたことを果たしにきただけだ。やることは済ませたしもう君とは関係ないだろう、帰らせてもらう」
 用は済んだ。これ以上ここに居残っている理由はない。
 我が身の行く末を悲観しているリョウに踵を返し、すみやかにその場を立ち去ろうとした僕の首筋にひやりとした金属の感触。
 「帰さない」 
 いつのまに動いたのだろうか。
 僕の背後に立ったリョウが、いつかの針金を僕の首筋に擬してほくそ笑んでいる。鋭利に研磨された針金の切っ先が首の薄皮一枚越しに頚動脈を撫でてゆく感触に心臓の動悸が速まる。
 僕の背中にぴたりと薄い腹を密着させたリョウが、なげかわしげにかぶりを振りながら愚痴を連ねる。
 「まったく……君が余計なことしてくれたせいで僕までピンチじゃないか。レイジに警戒されてない新入りなら彼に近づくのはラクだろうなとか高をくくってたけど、君ときたら全然ダメ。役立たず。最低。君よりそこらを這いずりまわってるゴキブリのがよっぽど役に立つね、だってゴキブリはいざってときの非常食になるもん。それに比べてどう?君ときたら頭の中身がどんだけ優秀かしらないけど、東京プリズンじゃ人に尻拭いしてもらってばっかり、自分じゃなんにもできないお荷物で役立たずで無力で非力なモヤシじゃないか」
 向かいのベッドのビバリーが片ひざ立ちになり、固唾を呑んでこちらの状況を見守っている。首の真後ろに針金をつきつけられた僕は目線でビバリーを制すと、首の皮膚に切っ先が食い込まないよう用心して首を捻り、肩越しにリョウと目をあわせる。
 「たしかに一理ある。ここでの僕は非力で無力、他人に助けられてばかりのゴキブリにも劣る存在だな」
 熱のない声で肯定する。首の後ろに擬された針金が怯み、リョウの目に困惑の波紋が浮かぶ。
 「非常に不愉快かつ不本意だが、君の言うことは正論だと認めるざるをえない。……一部だけな」
 首の後ろに鋭い痛みが走る。針金の切っ先が2ミリほど食い込んだらしいが、この程度ならたいした出血もないだろうと計算して振り向く。片手に針金を握り締めたリョウが、気圧されたように僕の目の奥を覗きこむ。
 リョウの緑の目に映った僕は、彼に「二種類しかない」と評された表情のうち一つを選択していた。
 人を人ともおもわない、冷血で傲慢な無表情。
 「誤解されては困る。僕は尻拭いしてくれと彼らに泣きついたわけじゃない。傲慢に聞こえるかもしれないが、サムライもロンも彼らが一方的に僕を補佐しただけだ。僕はむしろそれを不愉快に感じている。僕だって東京プリズンに収監された時点でひと通りの覚悟はできている。他人に触られるのはたしかに不愉快だ、吐き気がするほどおぞましい。だからといっていつまでも避けていられるわけがない。……結論からいえば」
 こめかみを指さし、続ける。
 「僕はこの中身さえ無事なら、下半身不随の重傷を負ってもいいと思っている。レイプでもリンチでもしたければすればいい、頭の中身さえ致命的な損傷を負わなければ僕は別にかまわない」

 そうだ、僕は本当に別にかまわないのだ。
 凱やその他の囚人に襲われたときはタイミングよくサムライが助けに入りことなきを得たが、いつまでもそんな幸運が続くとは現実的に考えられない。僕がいまだに輪姦も強姦もされず、右手の薬指の他は日常生活に差し障る怪我もなく過ごしてこれたのは単なる偶然の連続で産物にすぎない。
 そんな都合のいい状況がいつまでも続くはずがない。
 サムライが助けに入らず、ロンが我が身の保身を優先して凱たちにからまれている僕を放置することだってこの先あるだろう。たとえ彼らが自己の保身と安全を優先して結果的に僕が被害を被っても、それを非難する気は毛頭ない。
 何故ならそれが東京プリズンの「日常」で、最も賢い選択なのだから。
 僕が昨日リュウホウにしたのは特例だ。べつにリュウホウに同情を寄せたわけでも、不遇な立場のリュウホウに対し慈悲をかけることで安い優越感に浸ろうとしたわけでもない。あの時はああするより仕方なかった。動くエレベーターの中という逃げ場のない状況でリュウホウの嗚咽を聞かされるのが本当にたまらなかったのだ。

 泣き声を聞くと恵を思い出す。
 僕が思い出すのは恵の泣き顔ばかりだ。鍵屋崎の家での恵はいつも泣いていた。だから僕は人の泣き声が嫌いだ。それだけなのだ。

 「……ば、かじゃないの」
 リョウがたじろいだ。卑屈な笑みを口角にはりつけ、不均衡な嘲弄の表情を作る。 
 「レイプでもリンチでもしたけりゃ勝手にすればいいって、それ、誘ってるようにしか聞こえないんだけど」
 「誘ってるわけじゃない。諦めてるだけだ」
 そうだ。僕はもうすべてを諦めた。恵以外のすべてを。
 今の僕ならおそらく、何人にレイプされようが何人にリンチされようが「仕方ない」の一言で片付けてしまえる。不運な事故だと諦念して受容することができる。痛くも痒くもないというわけではない。多分、僕の想像を軽く絶するほどその行為は苦痛をともなうだろう。
 だからなんだ?それがここの日常ならいやでも慣れるしかないじゃないか。
 僕は冷めた目でリョウを観察した。貧弱で小柄な体躯のリョウに針金で人が殺せるとは思えないが、鋭利な先端を首に刺さればそれなりの出血は覚悟しなければならない。針金の切っ先が頚動脈まで達した場合、失血性ショックを起こし死に至る危険性もないとは言えない。
 だから僕は忠告してやった。
 「針金をあと3ミリ右にずらせ。正確に頚動脈の上を狙うんだ。君の手元が狂ったせいで長く苦しむのはぞっとしないからな」
 「…………」
 か細い息を吐いて腕をおろしたとき、リョウの顔はぐったりと弛緩しきっていた。
 「―冗談だよ、冗談。お茶目な悪ふざけ。この前のレイジを真似てみただけさ」
 唇の端に不敵な笑みをためたリョウが、手中の針金をぽんと放り上げる。天井近くまで浮上した針金は半弧を描いてまたリョウの手へと戻ってきた。背後のベッドでは片ひざ立ちの姿勢で食い入るように事態を静観していたビバリーが安堵に胸撫で下ろしていた。
 「リョウさん、タチの悪いイタズラやめてくださいっス。この房はあんたひとりのもんじゃないんだから、血の海を雑巾がけさせられる同居人のことも考えてくださいっス!」
 「ごめんごめん」
 「ごめんじゃ済まないっスよ、もう。頚動脈切ったら天井まで血が飛ぶんすから……あんなとこまで手が届きませんて」
 「あとでフェラしてあげるから許してビバリー」
 「お断りします、僕はノーマルなんっす!」
 ちろりと舌先を覗かせたリョウの謝罪にビバリーは憤然と拳を振り上げて反論したが、リョウ本人に反省の色はない。手中の針金を囚人服のズボンにさしこむと、思案げに眉根を寄せて僕の顔を覗きこむ。僕から三歩距離をとって思考に没頭していたリョウがふと何事か思いついたように顔をあげる。
 「メガネくん、悪いんだけどちょっと、ちょっと出てってくれる?」
 「何?」
 急きこんで歩み寄ってきたリョウに肩を押され後退を余儀なくされた僕は、リョウの勢いに押されるかたちで房から追い出される。後ろ向きに廊下へと押し出された僕はリョウの豹変ぶりにわけもわからずたじろぐ。
 「何だ急に。用が済んだのなら僕はもう帰っていいだろう?」
 「STOP!すぐ終わるからそこで待ってて!!」
 僕の首筋に針金をつきつけていたときとは別人のような慌てぶりで、興奮気味にまくし立てたリョウが乱暴に扉を閉じる。ドングリ集めに奔走するリスさながら扉の内側でごそごそと動き回っている気配がしたが、メガネの修理を承る代わりに課された役目を終えたぼくに彼の言葉を遵守する義務はないだろう。自分の房へ帰還しようと歩き出した僕の背後で勢いよく扉が開き、ぱたぱたとせわしない足音が追いかけてくる。
 「メガネくん、ご苦労様。今回はレイジの弱味を掴んできてくれてありがとう」
 意外な言葉に振り向く。
 息を切らして立ち止まったリョウが、あどけない頬を上気させてにこにこと笑っている。満面に笑顔を湛えて僕の労をねぎらったリョウは、害意などかけらもない単調な足取りで間合いを詰めると、混乱している僕の胸に一通の封筒を押し付けた。
 「で、ついでなんだけど……これ、レイジの奴に渡してきてくんない?」
 「?なんで僕がそんなことをしなければならない」
 「いいじゃん、減るもんじゃないし。君の命の次に大事なメガネを直してあげたんだから刑務所内のメッセンジャーくらい引き受けてくれてもいいっしょ?」 
 「『命と妹の次に大事なメガネ』だ、正確には」
 僕の手に手紙を握らせたリョウは「そうこなくっちゃ」と笑う。しぶしぶ手紙を受け取った―正確には受け取らされた―僕の前で軽快に背を翻し、自分の房へと今きた廊下を駆け戻ってゆくリョウ。はずむような足取りで去ってゆくリョウから手中の手紙へと目を戻した僕は、ふいに胸騒ぎをおぼえる。
 胸騒ぎの原因は、今、僕の手の中にあるこの手紙だった。
 馬鹿な。胸騒ぎなんてそんな非科学的なものに惑わされるなんて、僕らしくもない。 
 ともすると手紙を破り捨てたくなる衝動をかろうじて抑えつつ、ズボンのポケットへとしまいこむ。この手紙をレイジに渡せば晴れて僕の役目は終わりだ。リョウともレイジともさっぱり縁が切れ、他人に煩わされることなく今より少しはマシな日々を送れるようになるだろう。

 今より少しはマシな日々なんてものが東京プリズンに存在すればの話だが。
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