少年プリズン

まさみ

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二十三話

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 その日一日は特に事件も起きず、平穏に過ぎた。

 これを平穏と表現していいのだろうか―……凱やその他の囚人に言いがかりをつけられることなく、看守の警棒を頂戴せずに一日が過ぎたのだから平穏と形容してもさしつかえないだろう。
 東京プリズンでは一日警棒で殴られることなく過ごせただけでも奇跡に近いのだ。
 朝食をおえた僕はその足で地下停留所に降り、単身バスに乗りこんでイエローワークの部署に向かった。三日前のように痴漢に遭遇することこそなかったが、バスの車内は相変わらず人口密度が高く、呼吸するのも苦しいほど人と人との間隔が狭まっていた。
 立錐の余地もないバスから降りた僕の前に広がっていたのは荒涼たる砂漠、草一本とて生えてない不毛の荒野。
 バスから降りた囚人たちを眼前に整列させ、酒焼けした濁声をはりあげて点呼をとるタジマ。直立不動の姿勢をとった囚人たちが遅滞なく返事をし、タジマに目をつけられた不運な囚人が二・三人ほど警棒の洗礼を受ける。警棒の連打を浴びた囚人が地に伏したのを顧みることなく、後ろ手に手を組んだタジマが居丈高に顎を振り点呼の終了を告げる。
 タジマの顎の一振りで蜘蛛の子を散らすように解散した囚人たちが気の合う仲間と私語を交わしつつ持ち場へ向かうのに混じり、歩度を速めて六班の持ち場へと赴く。 

 イエローワークの仕事は単調で過酷な肉体労働だ。

 僕が所属する六班の仕事は甚だ非効率的な井戸掘りだ。
 シャベルの切っ先が数十メートル地下の水脈を掘り起こすのを期待して延延穴を掘り続けるだけの単純作業。地下水脈が沸くと予測された地点を中心に班のメンバーが散り、黙々とシャベルを上下させては直径5メートルはある巨大な穴の周縁に小高い砂の砦を築いているが、半日シャベルを振り続けても一向に水が湧き出す兆候はない。
 穴の上を行き過ぎる看守は赤ペンでチェックした地図をこれみよがしに広げているが、あれはポーズだろう。僕らが額に汗して必死に捜している地下水脈の存在には捏造疑惑を挟まずにいられない。これは見渡す限り不毛の砂漠でひたすら穴を掘り続けるという、極限まで囚人の体力と精神力を搾取する新手の拷問なのだ。
 作業中、僕は一言も班のメンバーと口をきかなかった。
 無駄な会話に時間を割けばただでさえ悪い作業効率がさらに低下し、看守の叱責を浴びる羽目になる。最も、僕が配属された班の連中は誰ひとりとして僕に積極的に話しかけてこなかったし、僕の周囲の空気が私語が発生するほど和やかじゃなかったのは認めるが。
 遠巻きに僕を眺めてシャベルをふるっている囚人たちの目には、拭いがたい嫌悪感とそれを上回る露骨な好奇心が含まれていた。
 僕が両親を刺殺して東京プリズンに収監された経緯はわずか三日で班の全員に知れ渡ることになった。
 強制労働初日、イーストファームの囚人が全員集合した点呼時にタジマに暴露されたのだから今だ耳に届いてないほうが不自然だ。
 僕と同じ班の囚人たちは、作業中も僕を敬遠して決して半径1メートル以内に寄ってこようとしなかった。
 たいした警戒ぶりだ、と内心苦笑する。
 こうまであからさまに避けられると自分が不治の感染病を患った身であるかのような錯覚に襲われる。
 あれはたしか三日前だったか。バスで同乗したロンが、黄色人種の外見特徴を有した中国系の囚人にこう言われていた。

 『お前のような混血の半々にさわらたらバイキンが伝染る。あとで消毒しとかないと、俺まで台湾人の血の毒素に感染しちまう』

 ひどく非科学的な、何の根拠もない侮蔑の言葉だ。
 肌に触れただけで血の毒素が感染するわけもなければ、人殺しの遺伝子が感染するわけもない。台湾系と中国系の確執は三日前の凱の一件でいやというほど思い知らされたが、外ではこれほど極端に対立が表面化することもなかった。
 おそらく刑務所という閉塞的な環境がそうさせているのだろう。
 台湾系と中国系が厳然と住み分かれている外では、死人が二桁に上るほどの大規模な争いは年に一度や二度しか起きない。
 戦争の記憶生々しい両者の間には十五年を経た今でもさまざまな禍根が残されているのだろう。ロンは僕より年下のはずだ。
 台中戦争発生時にはまだ産まれてもなかった彼が長じて刑務所に入り、中国系・台湾系双方の派閥から睨まれることになるのは甚だ不条理で理解に苦しむ事態だ。
 とにかく、僕と同じ班の連中が黴菌を避けるように神経質かつ過敏な対応をしてくれたおかげで、右手の激痛を除けば気分よく作業を終えることができた。
 他人と関わるのが苦痛でしかない僕にとっては変に馴れ馴れしく話しかけてくる囚人の存在など、絶えず内耳に雑音をおくりこんでくる五月蝿いハエに等しい。
 シャベルの上下運動に没頭しているとあっというまに時間が過ぎ、作業終了時刻が訪れた。
 「いち」
 「に」
 「さん」
 どこかの軍隊のように直立不動の姿勢を保った囚人たちが、声を張り上げて番号を名乗る。
 「勅使河原 順」
 「ジャスパー」
 「陳賢」
 打てば響くような点呼がつつがなく終了し、手元のリストをボールペンでチェックしながらタジマが言う。
 「よし、解散だ」
 タジマが記入していたのは、イエローワークに配属された囚人の名前と個人番号がびっしりと印字出力されたリストだった。
 囚人の出欠をとり終えたタジマがぞんざいに命じるが早いか、軍隊式に整列していた囚人たちが砂埃を蹴立て、全速力でその場を走り去る。顔に砂埃をかぶったタジマがわずかに顔を歪め小さく咳をしたが、彼の手が腰の警棒に伸びる頃には既に囚人の姿は見当たらなくなっていた。 
 憎々しげに舌打ちしたタジマが警棒を腰に戻すさまを振り返り、ふたたび正面を向く。
 ぐずぐずしてはいられない、もうすぐバスが到着する。
 バスに乗り遅れたら極寒の砂漠で夜を明かさなければならない。
 最悪凍死だ。
 バス停へと向かいながら、右手首に巻いた手ぬぐいにそっと触れる。サムライから借りた手ぬぐいだ。砂埃と汗が染みた手ぬぐいは黄土色に変色していたが、この手拭いのおかげで大分助かったのも事実だ。
 ヒビの入った薬指が動かせないかわりに手拭いで間接を補助し、シャベルの柄がすべりおちないようしっかり固定する。
 サムライから伝授された方法論を採用すれば薬指の症状が悪化するのも防げるし、看守に見咎められるほど作業効率も落ちない。無意識に手ぬぐいを探りながらサムライの顔を思い出す。
 現在進行形であの男の助けを借りているのは非常に腹立たしいが、時にはプライドを挫いても優先しなければならない事がある。
 それが合理主義というものだ。
 不潔な手ぬぐいをほどき、乱暴にズボンのポケットに押し込む。ズボンのポケットに手ぬぐいをつめこんでから、少し考えてまた取り出す。皺だらけになった手ぬぐいを水平にし、掌でならして丁寧に畳んでゆく。四つ折にした手ぬぐいをポケットへと返した僕は、帰路を辿る人波に乗じてバス停へと急ぐ。
 自分でも神経質を通り越して異常だとは思うが、こういうのはきちんとしてないと生理的に落ち着かないのだ。
 バス停にはバスが到着していた。我先にとバスに乗り込む囚人たちの最後尾、矩形の口へと吸い込まれてゆく囚人服の背中を見送ってからステップを上る。どうやら僕で最後だったらしく、背中でバスの扉が閉じた。
 不景気なエンジン音をたててバスが出発する。
 「聞いたか、レイジが昇厘に勝ったって」
 「三分でKO勝ちだろ?やるね」
 「昇厘の奴、靴に鉄板までしこんでたってのにいいザマだ。どのツラさげて西棟に帰ってったんだろうな」
 「負け犬の吠えヅラに決まってんだろ?」
 下劣な笑い声が弾けた方角を振り向く。バスの運転席に程近い前方に四・五人の囚人が群れていた。どれも見覚えのない顔だ。
 僕が反応したのはレイジの名前だ。
 「まったくレイジさまさまだ、連戦連勝のキングが東京プリズンに君臨してくれてるおかげでこちとら大儲けで笑いがとまらねぜ」
 中の一人、バスの天井から床まで垂直に穿たれた鉄の手摺を掴んだ少年が盛大に唾をとばして笑う。その隣、吊り革を掴んでいた少年が顔前に手を掲げて唾を避け、迷惑そうに続ける。
 「大穴狙いの俺は毎回残念賞だよ。実際反則だろレイジは、アイツ強すぎ」
 「あそこまで強いといっそ化け物の領域だよなあ」
 「知ってるか?レイジは本で人を殺せるんだぜ」
 「角で?」
 「角でおもいきり殴るの?」
 少年の言葉に興味を示した仲間たちが一斉に身を乗り出し、同方向に重心が片寄ったせいで気のせいか車体が傾いだ気がした。
 不吉な軋り音とエンジンの不発音を合図に、周囲の囚人に睨まれた少年らが慌てて元の席に戻る。瞬時に身を引いた仲間たちを得意満面で見回し、吊り革の少年が偉そうに吹聴する。
 「さあな、よく知んねーけど……聞いたか?レイジが前に頭のイカれたガキとやりあったときの話。レイジの奴、ヒス起こしてナイフ振り回してるガキ相手に聖書一冊で立ち向かってったって話だぜ。で、瞬き一回の間にKO勝ち」
 「エクソシストかよ」
 「作ってんじゃねえのお前」
 「マジ、マジだって。おめーら三ヶ月だから知らねえだろうけど、一年以上前から東京プリズンにいる奴らの間じゃ有名な話だぜ」
 「てゆーか伝説の域だろ、そりゃ」
 座席の背凭れに反り返って爆笑する少年たちの声が僕のいる場所まで届く。僕は彼らの声がさらによく聞けるよう、聴覚を研ぎ澄ませて身を乗り出す。
 「四日後の一戦がミモノだぜ。東棟の王様VS北棟の皇帝のガチンコ対決。どっちが死んでも不思議じゃねえ」
 「北の皇帝ってロシアの純血だろ?俺見たことねーんだけど、どんな奴?」
 「イカレてるよ」
 「レイジといい勝負だ」
 「ツラはどっちが上だ?」
 「決まってんだろ、東だ東」 
 「もったいねーよなあ。あんなキレイなツラしてんだから物陰にでもつれこんで一発ヤりたいのが本音だけど、レイジ相手に変な気起こしたらキンタマ潰されるしな」
 「そこらの女よかよっぽど上玉なのに、東棟の王様相手じゃだれも手をだせないってか」
 少年達の関心が下半身の話題に移行しかけたところでバスが停まる。 僕が背にしていた扉が開き、イーストファームAの1番地の囚人たちが乗り込んでくる。囚人を収容して再び扉が閉じた時に振り返れば、前方席の少年達の話題は僕の預かり知らぬ内容に脱線していた。
 「あーあ、ほんともったいねーよ。レイジならブラックワーク「中」でもいちばんの稼ぎ頭になるのに」
 「お前馬鹿か、「上」で稼いでるからそんな必要ねーんだよ」
 「でもさ、痛くて苦しい思いして「上」のトップに君臨し続けるよか「中」で気持ちいいことして稼いだほうが幸せじゃん?いいぜえ「中」は、世の為囚人の為東京プリズンの秩序安寧に貢献する素晴らしいお仕事だ」
 「痛くて苦しいのが好きなんだろ、レイジは。早い話が真性のマゾ」
 「趣味と実益を兼ねてるわけだな」
 したり顔で議論を戦わせる囚人たちを横目に眺め、首を捻る。
 彼らの会話中に頻出する「ブラックワーク」「中」「上」やらの単語は一体何を示してるんだ?今朝食堂で相席したリュウホウも「ブラックワーク」に配属されたと言っていたが、レイジもリュウホウと同じ部署なのか?それにしてはリュウホウの返答は歯切れ悪かったが……
 能天気なレイジと気弱なリュウホウが同じ仕事場で顔をつき合わせている絵ははっきり言って想像しにくい。
 待て、今の話を総合するとレイジは「ブラックワーク」の「上」に属しているらしい。

 ブラックワークが「上」と「中」に区分されてるのなら、レイジとリュウホウが同じ部署だとは限らないんじゃないか?

 「ま、「下」よりゃマシだよな」
 声の方に目をやる。
 前方、右列のシートにふんぞり返った大柄な少年が片手を振って笑っている。そのなんとも形容しがたい笑みにつられるかのように、周りの席の仲間が厳粛な面持ちで頷く。
 「知ってるか?ブラックワークの自殺者は「下」がいちばん多いんだぜ。鬱病発生率も「下」がダントツ。まあ、「中」はちがう病気がはびこってるけどな」
 「「下」は入れ替えはげしいからな……今月入った新人も三割ブラックワークに回されたんだろ?」
 「イエローワークにまわされた新人はまだ幸せなほうだぜ」
 一斉に同感の意を表した囚人らのグループから目を逸らし、ふたたび思考に没頭する。
 リュウホウが配属されたブラックワークは、その内部でも「上」「中」「下」に三分類されるそうだ。仕事内容も違うらしい。今朝、食堂で隣の席に腰掛けたリュウホウの顔が脳裏に浮かぶ。
 手中の箸の存在も忘れてうなだれたリュウホウ、その目は救いがたい暗さを秘めていた。僕らが入所してたった三日ー……たった三日だというのに、あの憔悴ぶりは尋常ではない。一体リュウホウの身に何が起こったんだ?

 リュウホウの異変にはブラックワークが関係してるのか?

 がくんとバスが揺れ、車内に立っていた囚人たちが慣性の法則にしたがってバスの前方へと押し寄せる。
 僕が思考をめぐらせているうちに地下停留所に到着したらしい。緩やかに傾斜したスロープを下り、コンクリ剥き出しの広大な空間へと飲み込まれてゆくバス。人工的な闇が車窓を塗りつぶし、黒い表面に自分の顔が映る。
 車窓に映った僕は眉間に苦悩の皺を刻み、気難しそうに唇を引き結んでいた。目にかけたメガネは完璧に元通り、修復の跡さえ判別するのが難しいほどだ。
 眼鏡の弦へと手をやった僕の脳裏で、聖歌隊にスカウトされてもおかしくない澄んだボーイソプラノが響き渡る。
 『期限はあと四日。四日後までにレイジの弱点を掴んできて』
 頭蓋骨の裏側にこだまするリョウの宣告。なにかがひっかかる。眼鏡の弦に手をおいたまま、眉間の裏側に意識を集中して目を閉じる。 
 そして、違和感の正体を突き止めた。
 『四日後の一戦がミモノだぜ。東棟の王様VS北棟の皇帝のガチンコ対決。どっちが死んでも不思議じゃねえ』
 先刻、前方席に陣取った少年が口にした言葉だ。
 リョウは四日後までにレイジの弱味を掴んで来いと僕に命じた。そして件のレイジは、ちょうど四日後に「北棟の皇帝」なる人物と対決するらしい。奇妙な符号の一致を、しかしただの偶然で片付けるほど僕の頭は悪くない。脳内検索を終えた僕はもっと詳しい話を聞こうと前方席の少年に接近を図ったが、決意の一歩を踏み出したところでバスが停まり、慣性の法則に従って前のめりにバランスを崩した。
 あわや転倒寸前の前傾姿勢で横の吊り革に掴まりことなきを得たが、一息つくひまもなく後方から囚人の大群が押し寄せてくる。
 バスの扉が開き、ぞろぞろと囚人たちが降りてゆく。
 むなしく手をのばした僕が声をかけるより先に、前方席に陣取っていた少年は仲間と連れ立ってバスを降りてしまった。
 今から追っても囚人服の雑踏に紛れて見分けがつかないだろうし、諦めるしかない。後ろから押し出されるかたちでバスから降りた僕は、コンクリートの地面を踏んで重たい息を吐く。

 もう少しで僕を苛立たせている謎の一つが解明できそうだったのに、くそ。

 バスから吐き出された囚人たちであふれた地下停留場で、僕はただ一人暗澹たる絶望感に打ちのめされていた。
 一日の労働を終えてまだなお余力を残した囚人たちが、頭からシャワーを浴びて体に染み付いた汗と汚れを洗い流そうと各棟へ駆け戻ってゆく。ブルーワークならともかく、砂漠での肉体労働主体のイエローワークでは最低でも一日おきにシャワーを浴びなければ鼻がもげて落ちてしまう。東京プリズンの規則では「イエローワークに配属された者は隔日でシャワーを浴びるべし」と義務付けられているらしい。
 シャワーの数にも限りがあるし、レッドワークやブルーワークなど他の部署との交代制なので、毎日欠かさずシャワーを浴びるのは不可能だ。
 看守に気に入られた囚人の中には優先的にシャワーを使用できる者もいるらしいが、真相はわからない。
 非常に残念だが、僕は昨日シャワーを浴びたから今日はこのまま房に戻るしかない。本当ならバスを降りたこの足でシャワー室に寄って垢や汗などの老廃物及び皮膚にこびりついた砂を洗い落としたかったが、入所間もない今の段階で大胆不敵にも規則を破ったら見せしめとして独居房送りになりかねない。
 囚人服の裾に付着した砂埃をはたき落としながら歩いていた僕は、地下停留場から東棟地下一階へと上がるコンクリートの通路でふと足を止める。コンクリートの空間を埋めた囚人服の群れから一人壁際へと逸れ、あたりを見回す。今、たしかに聞き覚えのある声がした。
 ほんのかすかだが、たしかに僕の鼓膜に大気を介した音の振動が伝わってきた。眼鏡なしで生活している間、視覚を代替していた聴覚がいまだ過敏な冴えを残していたのかもしれない。
 壁に沿って進むとますます声が大きくなる。
 やはり聞き間違いではない、たしかにこちらの方角から聞こえてくる。
 東棟上階に設置された房へと帰還してゆく囚人達の本流を外れ、コンクリートの通路を左折する。通路正面のエレベーターに乗り込めば自然と東棟地下一階で吐き出される仕組みなので、見当違いの左の通路にはまったく人気がなかった。
 いや……そのはずだった。
 「うう、う……」
 「?」
 どこからか呻き声が漏れてくる。
 ひどく聞き取りづらい、こもった声だ。
 何故かこの先には進まない方がいいような気がしたが、結局僕は足を止めることができなかった。左折した廊下の先に半開きのドアがあった。つんと鼻孔をつく消毒液の刺激臭と、ドアの横に表示された絵文字で見当がつく。
 ここはトイレだ。
 一応それぞれの房に便器が設置されているが、下水管理が行き届いてない東京プリズンではたびたび水詰まりを起こして使用不可になる。そのような緊急時に備えて、各棟に共同トイレが設置されていると安田から教えられた覚えがあるが……
 トイレから呻き声が聞こえてくるなんて、そんな馬鹿な。半世紀前に流行った学校の七不思議でもあるまいし。
 「………」
 足音をひそめてドアへと歩み寄り、隙間から中を覗き見る。

 危うく声を出すところだった。

 トイレの床に人が倒れていた。
 うつ伏せに倒れた人物は、下半身に何も穿いてなかった。
 ズボンはおろか下着も身につけてない。それらは踝までひきずりおろされていて、発育不良の足首と鳥肌が浮いた太腿、薄く青白い少年の尻が無残なまでに露骨に外気にさらされていた。貧弱な臀部を露出してトイレの床に寝転がった少年は、「うう、うう……」と不明瞭な声で呻いていた。
 僕は見てしまった。
 少年の太腿に血痕が散っているのを。
 少年の周囲に四人の人間が散らばっているのを。
 トイレの床に横臥した少年がよわよわしく顔を傾げ、こちらを見た。無意識の動作には違いないだろうが、少年の顔を見た瞬間、僕はここに来たことを後悔した。
 少年はリュウホウだった。
 そして、リュウホウの身になにが起きたかは明白だ。リュウホウを囲んだ少年四人のうち、二人までがズボンと下着を脱いでいるのも見てしまった。局部を露出した少年二人はにやにやと笑っていた。嗜虐的な笑みを浮かべた四人を順繰りに仰ぎ、涙と鼻水と唾液とそれ以外の粘液で顔を濡れ光らせたリュウホウが哀れっぽく懇願する。
 「ゆ、ゆふしてくらはい……もう、房にかえらへて」
 肘で這ってトイレの床を進み、自分を見下ろした少年の膝へとすがりつくリュウホウ。発音が不明瞭なのは歯が何本か折れているせいかもしれない。弛緩した口から血の溶けた唾液を垂れ流したリュウホウの必死の懇願に、眼前の少年がすっとんきょうな声をあげる。
 「おいおい、全部の棒しゃぶってからじゃねえと帰してやらねえって言っただろ?」
 「まだ二本しかしゃぶってねえぜ」
 「手を抜くのはいただけねえな」
 「正確には舌を抜く?」
 「シタはシタでも下半身だろ」
 「ちげーねえ!」
 少年たちの間で哄笑がはじけ、リュウホウが悲愴な顔をする。
 怯えたように身をひいたリュウホウの前髪を乱暴に掴み、強引に顔を起こす。中腰に屈んだ少年が平手でリュウホウの顔を叩きつつ、容赦ない口調で命じる。
 「お前言ったよな、殴られるのとヤられるのどっちがいいかって聞いたとき。ヤられるほうがいいって」
 「だからこうしてヤッてやってるんじゃねえか、なあ、俺たち優しくしてやっただろ?」
 「お前の口こじあけるのにちょっと力いれすぎたせいで歯が何本か折れたけど、別に歯の二本や三本なくたって飯は食えんだろ?」
 「野郎のもんしゃぶって生きてくなら歯なんて物騒なもんは全部抜いたほうがトクだぜ?」
 「途中で噛みちぎられる心配もねえしな」 
 おもいおもいにリュウホウを小突き、蹴り、殴りながら少年たちが高笑いする。
 リュウホウの裸の尻を平手で叩いて立ち直らせようとしている者もいる。それでもリュウホウは立とうとはせず、屈辱に歯を食いしばり嗚咽を殺していた。見かけによらず頑固で強情なリュウホウに逆上したか、リュウホウの前に立っていた少年がぐいと前髪を掴んで便器の方へと引きずってゆく。タイルの床を膝で擦りながら便器の方へと引きずられていったリュウホウの顔が絶望に青ざめる。
 便器には排泄物が放置されたまま、二匹の蝿がたかっていた。
 小動物に備わっている自衛の本能で何をされるか直感したリュウホウが、嫌々するように首を振る。
 「や、やだ……やだあああああああああ!!」
 「うるせえ、はやくこい!!」
 リュウホウの前髪を掴んだ少年が手首に渾身の力をこめ、背後に回った別の少年が裸の尻を蹴って追い立てられる。
 保健所に連行されてゆく犬を見ているような残虐な光景に、ドアに隠れて傍観していた僕の全身から血がひいてゆくのがわかる。抵抗むなしく便器の前に連れて来られたリュウホウの顔を覗きこみ、前髪を掴んだ少年が冷血に笑う。
 「これを食えばしゃぶらなくても許してやるよ」
 歯の根ががちがちと震える音がここまで聞こえてくる。四つん這いの姿勢のリュウホウはタイルの枠に爪をひっかけて最後の最後まで抵抗したが、四人が相手では多勢に無勢、まったくの無力で非力だった。
 「!」
 リュウホウの顔が強引に便器へと押しこまれる。
 水の飛沫が跳ねる音、長い長い苦鳴。
 「東京プリズン名物生スカトロショウだ!」
 「ギャラリー呼んでこいよ、金とって儲けようぜ」
 「クソの味はどうだ、クソッたれ。クソがクソ食うなんて共食いだな」
 「俺たちのモンよか美味いか不味いか、窒息する前にどっちか感想聞かせてくれよ?」
 揶揄、嘲笑、侮蔑、憫笑。
 変声期を終えた少年たちの低く野太い笑い声がトイレの天井に殷殷と反響し、僕の鼓膜を打つ。
 『ぼくはだめだ』
 『ぼくはもう、やっていけそうにない』
 際限なく膨張する笑い声に重なるのは今朝食堂で聞いたリュウホウの気弱げな声、気弱げな台詞。
 あの時、リュウホウは僕に助けを求めていたのか?同じジープで護送されてきただけの間柄の僕を一方的に友達だと勘違いして、この苦境から救い出してくれと暗に懇願していたのか?
 
 低脳に友達扱いされるのは本当の本当に迷惑だ。
 その考えに変わりはない。変わりはないが―……

 僕が両親を刺殺したとジープの荷台で看守に暴露されたときも、リュウホウは僕を軽蔑する台詞など一個も吐かなかった。三日前、東棟の廊下で別れたときには後ろ髪をひかれるように僕のほうを振り向いていた。あの時僕はリュウホウになにも答えなかったし、これから先もなにも答える気はない。

 今、この場だけ。これっきりだ。

 そして僕は、ごく単調にトイレのドアをノックした。
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