少年プリズン

まさみ

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二十一話

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 目覚めると視界が歪んでいた。
 水面下から見上げた世界のように歪み軋んだ事物の輪郭に眩暈をおぼえながら、身に染み付いた習性で無意識に枕元を探る。求めた感触が得られず不審げに手をひっこめた僕は、そこで初めて痛恨の失態を演じたことに気付く。
 
 眼鏡は壊れていたんだ。

 眼鏡の修理をリョウに頼んでから今日で三日が経つ。それなのに長年刷り込まれた習性とはおそろしいもので、覚醒の浅い僕は全く無意識に眼鏡を求めて枕元を探っていたのだ。ぶざまな自分を呪いつつ、背凭れのパイプを握り締めて片足を下ろす。ひたり、コンクリ剥き出しの冷ややかな床が素足に吸い付く不快な感触。ゴキブリやネズミが走り回る床にはどこからか漏れてきた汚水の路が引かれ、お世辞にも清潔とは言い難い。即座に足をどけたくなるのを自制しながらもう片方の足を降ろし、立つ。頭の芯にはまだ乳白色の靄がまとわりついていた。

 なんだか、懐かしい夢を見ていた気がする。夢の中で懐かしい音を聴いた気がする。

 頭の底に沈殿した夢の残滓をかぶりを振って散らし、洗面台へと向かう。夢とは日頃抑圧している願望が無意識下で昇華したものだと心理学の本で読んだ。それならば僕が見た夢は、僕が今最も欲しているものが虚構の世界で仮初の像を結んだ姿なのだろう。
 足をひきずるように洗面台に辿り着き、蛇口を捻る。勢いよく迸った水流をてのひらですくい、顔を洗う。頬が水を弾く感触に背筋が伸びる。洗顔を終えた僕はタオルをさがして振り向く。
 僕のベッドの上、枕元に放置されている手ぬぐいが目にとまる。
 ベッドに取って返した僕は枕元に投げ置かれていた手ぬぐいを手にとると、できるだけ汚れの少ない部分を表面にして念入りに顔を拭いた。三日前にサムライから借り受けた手ぬぐいだ。正直、この手ぬぐいのおかげで随分と助かっている。サムライから伝授された方法で手首を固定すれば、ヒビの入った薬指を動かさずともなんとか作業が続行できる。砂漠での強制労働は容赦なく人体の水分を蒸発させるが、要領さえ掴んでしまえば初日ほど苦ではない。
 手ぬぐいで顔を拭き終えた僕はようやく人心地ついてあたりを見回す。無表情なコンクリ壁を晒した四囲から隣のベッドへと視線を転じる。
 サムライは不在だった。
 どこへ行ったのだろう、といぶかしみはしなかった。僕が起床する時刻には決まってサムライは房を留守にしている。不在の理由が気にならないといえば嘘になるが、本人に直接聞くのはためらわれた。サムライは僕の観察対象だが、僕が彼に興味を持っていることを本人に気付かれたくはない。サムライが僕の観察対象であることは僕と彼が共同生活を続けている限り本人には伏せなければならないのだ。
 鉄扉が開き、サムライが戻ってきた。
 無造作に房へと足を踏み入れたサムライが手挟んでいるのは一振りの木刀だ。彼がベッドの下に秘匿している年季の入った木刀は今この瞬間も手入れのよさを誇るように艶光りし、コンクリ床に一条の影を刻んでいる。
 「起きたのか」
 「今な」
 「そうか」
 サムライとの会話、終了。
 彼と同房にいれられて三日になるが、僕とサムライはごくわずかしか会話を交わしてない。事実、ほんの二・三言の単語の応酬でなにもかもが済んでしまうのだ。サムライは本当に寡黙な男だ。護送中のジープで僕と一緒になったダイスケのように低脳丸出しの会話をしかけてこないだけ遥かにマシではあるが。
 端正な所作で房の床に座したサムライが懐から経典をとりだし、膝の上に広げる。
 ほら、始まるぞ。
 「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色……」
 連綿と流れ始めた読経の声に気分が滅入る。うんざりした色を隠そうともせず傍らに突っ立ってる僕には一瞥もくれず、経典に目を落としたサムライはひどく真面目くさって般若心経を唱え始める。白州の茣蓙の上で切腹に臨む武士のように鬼気迫る真剣味をおびたサムライの横顔に気圧された僕は、このまま立っていても間抜けさを増長するだけだと気付いてベッドに腰をおろす。 
 「受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中無色 無受想行識」
 読経している間もサムライの顔筋は必要最低限しか動かなかった。僕だって人のことを言えた義理じゃないが、なんと表情に乏しい男だろう。陰にこもった声が独特の抑揚をつけて房の大気に溶けてゆくのをすることもなく傍観していた僕は、ふとサムライに声をかける。
 「サムライ」
 「なんだ」
 「君は仏教徒なのか?」
 読経を止めたサムライが怪訝そうにこちらを向く。サムライの注視を受けた僕は淡々と疑問を述べる。
 「僕が東京プリズンに入所してからというもの、君は毎朝毎晩欠かさず般若心境を唱え続けている。そんなに熱心な仏教徒なのか?宗派はなんだ」
 「いや」
 朝の儀式を滞りなく終えたサムライが手早く経典を畳み、サッと膝を払って立ち上がる。端正な所作で立ち上がったサムライは体ごと僕に向き直ると、ひどく格式張った実直な口調で答える。
 「俺はとくに仏教を信仰しているわけではない。実家は浄土真宗だったが俺個人には関係ない」
 「じゃあなんで毎朝毎晩般若心経を唱えるんだ?」
 自分でも口調が粘着質になるのがわかる。自分が苛立ってる原因もよくわかる。僕と相対したサムライの鉄板の如き無表情を見ていると、理性では御しがたい反発が沸々とこみあげてくるのだ。
 ベッドに腰掛けた僕は挑発的な角度に顎を傾げ、皮肉げな笑みを塗った顔でサムライを仰ぐ。
 「まさかとは思うが、それで罪滅ぼしをしてるつもりか?」
 サムライの表情に変化はなかった。
 経典をしまった懐を片手でおさえ、無言で僕を見返している。その瞳は明鏡止水の四字熟語を体現するが如く深沈と静まり、清濁併せ呑んだあるがままの現実をまるごと映しこんでいる。
 もしサムライが自らの手で葬り去った人間のために般若心経を唱えていたのなら、僕は彼に対する興味を失ったかもしれない。僕はそんな当たり前の回答に興味はない。もしサムライが自分の犯した罪を心底から悔い、自分が殺めた人間の冥福を祈る名目で般若心経を唱えているのなら「見苦しい偽善はやめろ」とでも吐き捨てていたかもしれない。
 いかにサムライが罪を悔いて死者の成仏を祈ったところで自分のしたことには取り返しがつかないのだから、読経も写経も全部無意味だ。そんなのは所詮自分の罪悪感を紛らわすためのみじめたらしい自慰行為にほかならない。
 「………罪滅ぼしか」
 間をおいて僕の言葉を反駁したサムライの顔には、表情の片鱗すら浮かんでこなかった。その目は凪の深淵のように寂と静まり返り、たやすく近寄りがたいものを感じさせた。
 「鍵屋崎」
 静かに名を呼ばれ、顔をあげる。サムライは感情の読めない目で僕を見返し、淡々と言う。
 「滅ぼせる罪などこの世にありはしない。たとえ俺が頭を剃って仏門に入ったところで、罪は夢うつつの境を越えて俺にまとわりついてくる。いいか」
 そこで一呼吸おき、サムライはひたと僕を直視する。
 「償える罪などこの世にありはしない。たとえ俺が般若心経を百万遍唱えたところで罪が浄化されるわけがない。それよりはむしろ、俺は……自分の犯した罪の核を骨の髄にまで刻みこむために般若心経を唱えているのだ。償うことはできずとも、罪と一生涯寄り添って心中することはできるからな」
 「…………」
 僕は口を開け、また閉じた。サムライと対峙しているうちに、刃物のように尖った全身から放たれる尋常ならざる威圧感に呑まれてしまったようだ。むなしく口を噤んだ僕を顧みることなく、ベッドの下へと木刀を収納したサムライが虚空に目を馳せる。
 「くる」
 なにがくるのかはわかっていた。
 凄まじいベルが鳴り響いた。
 「朝餉の刻限だ」
 方向転換したサムライがいつなんどきも乱れることない歩幅で鉄扉に歩み寄り、ノブを握る。その背に続いて立ち上がった僕は、サムライの言葉になにひとつ反論できなかった自分にひそかに絶望していた。
 沈んだ面持ちの僕を背にしたサムライは、錆びたノブを握ったまま天井と平行に伸びる廊下を見回した。早くも廊下は人でごった返していた。朝食開始のベルを聞いて一斉に房からとびだしてきた囚人たちが白と黒の濁流となり、同一方向めざして怒涛の勢いで移動してゆく。絶えず流動する囚人の列にまざり、慣れた様子で食堂へ向かうサムライ。
 僕もはやく食堂へ行かなければ、席を確保することもできない。最悪、朝食にもありつけないだろう。
 サムライの背を追って房からよろばいだした僕の鼻面が、なにか、固い物に激突する。
 これは……人間の後頭部だ。
 「なにすんだよウスノロ!!」
 頭上に浴びせられる罵声に言葉を返す暇もなく、肩を小突かれて後ろによろめく。その衝撃で、今度は真後ろの人物と接触。「頭のうしろに目ん玉つけとけ!」という不条理きわまりない罵倒とともに肩を殴られ、そばの壁に激突する。
 まったく、ここの連中ときたら程度の低い悪態しかつけない野蛮人ばかりだ。 
 壁に手をついて上体を起こした僕は、濁流の如き勢いでうねる雑踏に目を凝らす。囚人たちが着ている白黒格子縞のシャツが歪み、溶け合い、シマウマの大群が砂埃を蹴立てて大移動しているサバンナの幻がぼんやり浮上してくる。
 手の甲で目を擦り、瞬き。
 状況が改善される気配はない。焦点は依然ぼやけたまま、シマウマの個体数はますます増えてゆくばかり。ウマ目・ウマ科シマウマの個体識別を諦めた僕は、肩で壁を擦るようにして一歩ずつ歩き出す。遠近法の狂った天井が今にも落ちてくるんじゃないかという錯覚にとらわれつつ、注意深く歩を運んでいた僕の前にひょろ高い影がそびえる。
 僕の進行方向に立っていたのは、周囲の囚人から頭ひとつ分抜けたサムライだった。
 「……なんだ?僕は食堂に行く途中なんだ、そこをどいてくれ」
 「―鍵屋崎。忠告しておくが、眼鏡をしてない状態のお前が食堂に辿り着く頃には朝飯はあらかた食い尽くされ、米一粒だって残っている保証はないぞ」
 「忠告には感謝する。だからどけ」
 僕の進行方向に立ったサムライは相変わらず感情の読めない目でぼくを見下ろしていたが、やがて、突拍子もないことを命じる。
 「俺の背中を掴め」 
 言うが早いかこちらに背を向けたサムライをしげしげと観察し、僕は一つの結論に達する。
 この場合は無視だ、無視。
 サムライの脇を足早に素通りしようとした僕だが、サムライを追い越して二歩もいかないうちに前を横切った囚人を接触しかけ、あとじさった拍子にバランスを崩して蹴つまずく。あわや後ろ向きに転倒しかけた僕の片肘を掴んで支え起こしたのは、存在感を消して背後に控えていたサムライだった。
 ほとんど空気と同化していたサムライが肘を掴んだまま僕を見下ろし、口を開くのも煩わしげに言葉を追加する。
 「イエローワークの作業はきつい。朝の栄養補給を怠れば倒れても仕方ない。お前が作業中に倒れても俺は関与しないが、今この場で転んで頭を割られてはさすがに気が咎める」
 「なれなれしくさわるな」
 サムライの肘を力づくで振り払い、正面から睨みつける。サムライは動じない。同房の住人が廊下で転倒して頭を割らないかと案じているかどうかも定かではない鉄壁の無表情だ。サムライに掴まれた肘を囚人服の脇腹にこすりつけて拭いながら逡巡する。他人にさわられるのはごめんだ、吐き気がする。しかしサムライは「手をつなげ」と言ってるわけじゃない。掴むのは背中だ、シャツだ。
 背に腹は変えられない。
 苦渋の決断を下した僕はサムライの背後に回りこむと、ためらいがちに彼の背中へと手を伸ばす。葛藤せめぎあう僕の胸中を汲んだわけでもないだろうが、サムライは長い間こちらを向こうとしなかった。サムライの背中に触れる寸前、土壇場で決心が鈍る。
 他人に同情されるのはごめんだ。他人の手を借りるのもごめんだ。
 他人の助けなどなくても僕にはこの頭脳がある。世間一般の凡人ともとは一線を画したこの頭脳さえあれば、どんな過酷な窮地も切り抜けられるはずだ。そうだ、こんな得体の知れない男に頼らなくても食堂に辿り着くことくらい造作もな……
 背中に衝撃。
 「ボケッと突っ立ってんじゃねえ、ボーリングのピンかお前は!ガーターさせるぞ!」
 後ろからやってきた囚人におもいきりぶつかられ、前方へと泳いだ手が縋るものをさがしてサムライのシャツを掴む。意に反してサムライのシャツを握り締めた僕は苦々しげにうつむく。
 これは事故だ、過失だ。僕の意志じゃない。
 サムライが歩き出す。一度握り締めたシャツをいまさら手放すのもわざとらしく、不承不承僕も歩き出す。 
 「―今だけだからな」
 なにが今だけなんだ、わけがわからない。文脈の陥穽に嵌まった僕が気まずく押し黙ったのを背に感じ、サムライが重々しく答える。
 「心得た」


 食堂は活況を呈していた。
 全速力で食堂になだれこんだ囚人たちが床や卓上で乱闘を演じ、腕づく力づくで先客をねじ伏せてゆく。席の確保に出遅れ、トレイを抱えて徘徊している囚人も一人や二人ではない。せわしないにも程がある朝の食事風景だ。うんざりしながらカウンターの列に並び、変わりばえのしないメニューをトレイに受け取る。今朝の献立はワカメの味噌汁とかぶの漬物、白米と焼き魚という純和食。人種の坩堝たる東京プリズンの食堂では、洋食と和食が交互に巡ってくる。隔日で交替するメニューだが、味気なさでは同格だ。どこの給食センターで作られているのか定かではないが、東京プリズンにおける日々の献立は質素倹約を旨とした粗末なもので、育ち盛りの少年らが心ゆくまで満足いくものとはとても言えない。
 それでも空腹を満たすため、半日に及ぶ強制労働に備えて栄養をたくわえるため、食堂におしかけた囚人たちは押し合いへし合いの大騒動の末にカウンターの前列に割りこみ、給仕の看守を脅してアルミの椀に山盛りの白米をよそらせている。野蛮な振る舞いが好かない僕とサムライは大人しく列の最後尾に並び、順番どおりに列が進むのを待った。結果、僕とサムライが前後してトレイを受け取ってカウンターを辞した頃には食堂の席は八割方埋まっていた。
 「…………席がないな」
 「見ればわかることを口にだすな、自分の頭の悪さを露呈することになるぞ」
 辛辣に切りかえしたが、サムライが遅れた責任の一端は僕にあるのだ。僕の歩調にあわせたせいで食堂に到着するのが遅れたサムライは、胸の前にトレイを掲げたまま、長方形のテーブルが等間隔に配置された食堂を漫然と見回した。
 同じくトレイを抱えてサムライの隣に突っ立っていた僕の肘にだれかがぶつかる。
 
 あっというまのことだった。

 接触の衝撃でトレイに乗っていた椀が傾ぎ、宙で中身をぶちまけて床へと転げ落ちた。床に落下したアルミ皿が甲高い騒音を奏で、周囲のテーブルに着席していた囚人たちと真横のサムライの注意を僕へと向ける。トレイの半面積を占めていたアルミ皿が床にひっくりかえり、ワカメを浮かべた味噌汁が靴裏を濡らしてゆくさまを呆然と眺めていた僕の耳に、だれかがささやく。
 「わっりい、当たっちまった。わざとじゃねえんだけどよー」
 わざととしか思えない口調で弁明したのは、まったく面識のない少年だった。カウンターで僕の後ろに並んでいたらしい少年は、自分のトレイを持ったままへらへらと笑っていた。しまりのない笑顔の少年はご丁寧に床に落ちたアルミ皿を蹴飛ばすと、床一面にこぼれた味噌汁の飛沫をはね散らかして、連れが陣取っているらしきテーブルへと向かう。
 「もったいねえから四つん這いになって舐めたらどうだ?犬畜生にも劣る親殺しにはお似合いの格好だろうが」
 反論する気力はなかった。
 大股に去ってゆく少年を一瞥、僕へと目を転じたサムライが平板な口調で感想を述べる。
 「災難だったな」
 「…………この刑務所の人間は看守も囚人も愚劣な低脳揃いだな。言動の全てがあまりにも短絡的だ。今の行動に至った心理的背景も容易に推察できる。少しは複雑な過程を踏んで思考を成立させたらどうだ、それが霊長類ヒト科ホモサピエンスの特権かつ条件だろう?」
 この三日で、僕が両親を刺殺した一件は東棟ほぼすべての人間にとって周知の事実となった。
 最も、彼らが知っているのは「僕が両親を殺した」というその一点のみでそれに至る動機はおろか、僕がどういう家庭環境で育ったかも知らない連中ばかりだろう。「親殺し」の事実が先行して出回っている現状に、むしろ僕は感謝しなければならない。
 僕が知られたくないのは白日の下に曝された事実ではなく、その裏にひそむ真実だ。
 僕が親殺しだと知った連中の中には、今の少年のように露骨ないやがらせをしかけてくる者もいる。今や日常の一部となったさまざまないやらがせに、いちいち腹を立てていてもきりがない。
 味噌汁のこぼれたトレイを抱えて立ち尽くして僕のもとに落ち着きのない足音が近づいてくる。聞いたことのある足音だ。ふと顔をあげた僕の目に映ったのは、同じジープに乗せられて東京プリズンに護送されてきたリュウホウ。
 僕の足元を浸した味噌汁とひっくり返った椀を見てすべてを察したらしいリュウホウが、おどおどと口を開く。
 「……これ、あげる」
 何?
 床から拾い上げたアルミ皿を僕のトレイに乗せ、自分の器を傾けて味噌汁を半分ほど注ぐ。味噌汁の最後の一滴を注ぎ終えたリュウホウが、何かを期待するような物欲しげな目でちらりと僕を見る。
 「…………同情してくれるのか?」
 自然、口調が皮肉げになる。リュウホウがぎくりとする。
 「ちが、ちがう……そういうわけじゃなくて……」 
 へどもど弁解したリュウホウを冷ややかに流し見、彼を迂回して食堂の真ん中へと歩みだした僕を性急な足音が追いかけてくる。振り向かなくてもわかる、追ってきたのはリュウホウだった。
 なんなんだ一体?
 辟易した僕に半身をすりよせるようにして同行し、ひどく思いつめた目でリュウホウが言う。
 「席、一緒していいかな……」
 返事を保留し、サムライの姿を求めて食堂に視線を馳せる。サムライの姿はどこにもなかった。神出鬼没のあの男は、リュウホウにまとわりつかれてる僕を捨て置いて単身席を捜しにでもいってしまったんだろう。舌打ちしたい衝動をこらえ、憔悴しきったリュウホウの顔を観察する。別れてからたった三日だというのに、リュウホウの容貌は十年の時を経たように様変わりしていた。ただし、よい変化ではなく悪い兆候だ。病的にこけた頬には頬骨の尖りが目立ち始め、血の気の失せた唇は嘔吐をこらえるように固く引き結ばれたまま。 
 トレイを支えた手はこうしている今もカタカタと震え、味噌汁の水面が微弱に漣立っている。
 いつもの僕なら一蹴したはずだ。友達扱いされるのは迷惑だと冷淡に背を向けていたはずだ。
 だが、どうしたことか―この時の僕は、リュウホウの様子にただならぬものを感じ、彼の申し出を断るタイミングを逸してしまった。
 涙で潤んだリュウホウのまなざしに、いつかの恵のまなざしが重なったためかもしれない。
 僕の沈黙を肯定と受け取ったらしいリュウホウが、食事を終えた囚人と入れ違いに席に座る。今しがた席を立った囚人と連れ立ち、リュウホウの隣の席がこれ以上ないタイミングで空く。
 仕方がない。
 ジープに同乗した縁で一方的な親近感を抱かれるのは困りものだが、席が空いたのには素直に感謝したい。直接床に座って食事するなんて冗談じゃない。仏頂面で椅子を引き、リュウホウの隣に腰掛け、箸をとる。無言で食事を開始した僕の横顔をちらちらと盗み見ながら申し訳程度に白米をつまんでいたリュウホウだが、先刻から箸が進んでいないのはだれの目にも明らかだ。
 「成人男性が一日に摂取するべきカロリーの目安は2000kcalだ」
 リュウホウが振り向く。味噌汁を啜りながら僕は続ける。
 「君の身長体重及び年齢から導き出したカロリー摂取量は一日2,550kcalだ。午前中のエネルギー源となる朝食はとくに重要だな。君がどこの部署に配属されたかは知らないが、もしイエローワークなら朝食を抜くのは命取りにもなりうる」
 イエローワークの過酷さは骨身に染みている。朝食の重要性も身をもって思い知った。
 僕の賢明な指摘にしかし、リュウホウは前より暗い顔でだまりこむ。手中の椀をトレイへと戻し、膝に手をおいてうつむいてしまったリュウホウになにげなく聞いてみる。
 「君はどこの部署に配属されたんだ?」
 「………ブラックワーク」
 箸が止まる。
 僕はさぞ不審げな顔をしていたことだろう。何故なら、リュウホウが配属された部署がまったくの初耳だったからだ。「ブラックワーク」なんて聞いたことがない。ロンの説明が正しいなら、東京プリズンに存在するのは「イエローワーク」「ブルーワーク」「レッドワーク」の三種類ではないのか?いや、待て。何かがひっかかる。
 あの時、ロンはこう言ったのではなかったか?   
 『残るひとつは、東京プリズンにいりゃそのうちわかる』
 そうだ。あの時、ロンは故意に答えなかったのだ。その存在を知っていながら、意図的に説明を省いたのだ。 

 残る一つ………ブラックワークとはなんだ? 
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