少年プリズン

まさみ

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十八話

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 「竜巻にでも巻き込まれたのか」
 サムライが表情を動かさずに聞く。
 古ぼけた豆電球が天井から釣り下がった照度の低い房の中、自分のベッドに腰掛けた僕は目だけ動かしてサムライを見る。
 「天災ではなく人災だ」
 声が不機嫌になるのが自分でもわかった。顎を動かした途端、鋭い痛みが走って顔をしかめる。今日殴られたあとは痣になっている。
 服の下ならともかく、顔を隠すのは不可能だ。然るに、サムライの要らぬ詮索を招く事態は避けられなかった。
 強制労働を終えて房に帰還したサムライは静かに鉄扉を閉じると、僕の視線には頓着しない淡々とした足取りで自分のベッドへと向かい、腰掛ける。サムライの自重で錆びたスプリングが軋み、耳障りな音が鳴る。
 サムライより一足早く房に帰還していた僕は、右手に巻いた包帯を忌々しげに見下ろす。
 初日の強制労働はさんざんだった。思い出すだけで不愉快だ。
 詳しく説明したくもないが、要約すれば野蛮で低俗で下劣な連中に酷い目に遭わされたということになる。主犯格は凱だった。昨晩僕を強姦しにきた少年とその一味が、そのリベンジとばかりに短絡的な行動をとり、作業中の僕を強引に用具置き場へと連れこんだ。慣れない肉体労働でただでさえ体力を消費していたというのに、知能指数の低い因縁をつけられてさんざん殴られ追いまわされた。まったく辟易する。
 賄賂を受け取って事態を傍観していた看守の無能さにも腹が立つが、何より屈辱的なのは……
 「眼鏡はどうした?」
 「壊された」 
 サムライのうろんげな声に、叩きつけるように返す。神経が苛立ってるのが自分でもわかる。落ち着け鍵屋崎直、観察対象の前で取り乱すなんてみっともない。これでは僕が観察されるほうじゃないか。包帯を巻いた中指を鼻梁にもっていこうとして、はたと気付く。
 そうだ、今は眼鏡をしてないんだった。
 間抜けな行動を自覚して喉の奥に苦汁がこみあげる。宙に立てた中指をおろし、足元の床に視線を放る。眼鏡のブリッジを押し上げるのが癖になっている僕は、今も無意識に眼鏡のポジションを正そうとしていた。サムライの前で失態を演じた自分が腹立たしい。
 対岸のベッドに座したサムライの目が、僕の右手に注がれているのに気付く。サムライの目から庇うように右手を移動させた僕に、感情の窺えない声が投げかけられる。
 「凱たちか?」
 「鋭いじゃないか。まあ昨日の光景を目撃した手前、二等辺三角形の面積を求める公式よりたやすい解だと言えなくもないが」
 口の端に自嘲の笑みを昇らせた僕をちらりと流し見て、サムライが腰を上げる。定規で測ったように正確な歩幅でこちらに歩み寄ってくるサムライを挑戦的に見上げる。なにをする気だ?僕の前の床に直接腰をおろし、囚人服の懐を探るサムライ。取り出したのは昨晩読経していた般若心境の経文だ。
 訝しげな僕の前で手際よく経文を広げたサムライが、字が記されている面をこちらに向ける。
 「読めるか?」
 「馬鹿にするな、これくらい……」
 言いかけて絶句する。
 視界がぼやけて歪んでいる。わずか50センチの距離に翳された経文の文字が、墨が滲んで溶け出したような有り様に変形している。
 極力目を細め、焦点を凝らす。
 「―観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄。最後まで読むか?」
 完全に棒読みだった。内心の動揺を悟られないために、わざと感情の欠落した言い方をしたのだ。
 「……一応目は見えてるようだな。眼鏡がなくても日常生活に支障はないか」
 経文をおろしたサムライが呟くのが耳に入り、優越感をおぼえた僕は余計な一言を付け足す。
 「なんなら平家物語序文も暗唱してみせるが?」
 「暗唱だったのか?」

 ……迂闊だった。

 墓穴を掘った僕はサムライの顔が直視できない。鍵屋崎直ともあろう者がなんたる失態。東京プリズンに収監されてから僕の脳は確実に退化している気がする。朱にまじわれば赤くなるの諺どおり周囲の環境に汚染されてきたのだろうか。サムライに弱味を見せるのが癪なあまり、さも目が見えるよう演技した僕へと注がれるのは訝しげなまなざし。
 「本当は見えないんだな?」
 「………僕の視力は0.03だ。自慢じゃないがわずか70センチの距離にある君の顔だってパブロ・ピカソみたいに歪んで見える」
 実際こうして房に帰り着けたのも奇跡に近い。
 強制労働を終えてバスに乗り込み地下停留場で降りてから、看守に医務室の場所を聞いて中央棟に寄ってきたわけだが、壁伝いに歩むのは五里夢中の峠を越えるかのように困難だった。途中何人か人にぶつかって殴られた。苦心1時間かけて医務室に辿り着いた時はさらに怪我が増えていた。僕が声をかけた看守がたまたま親切に医務室の場所を教えてくれたからよかったものの、今日イーストファームで会ったタジマのような看守だったらと考えると、今こうして何事もなくサムライと話せてるのが夢のように思える。
 折り目正しく畳んだ経文を膝の横脇においたサムライは、しげしげと僕の右手を見つめていた。

 なんとなく、弱味を見られたようでばつが悪い。

 「触れていいか?」
 冗談じゃない。
 即座にそういい返そうとしたが、途中で思い直したのは禁欲的に細められた双眸に真剣な色があったからだ。
 逡巡する。
 人にさわられると吐き気がするのが本音だが、包帯越しなら汗や垢などの汚物が付着する恐れもないだろうし得体の知れぬ黴菌が感染する心配もないだろう。それに僕は疲れていた。今日一日でいろんなことがあった。砂漠での肉体労働で体力を極限まで消耗し、指一本動かすのも億劫なのが現状だ。口を開くのも面倒くさかったし、サムライの妙な申し出を退ける気力もなかった。往復ニ時間かけてやっと房に帰り着いた安心感があったのも否定できない。
 ―否、そうじゃない。本当は怖かったのだ、サムライの目が。清水ですすいだ日本刀の切っ先をおもわせる鋭い眼光を向けられた僕は、馬鹿な話だが「断ったら斬られる」と錯覚したのだ。根拠なんてどこにもない。冷静に考えればサムライが所有している木刀で人が斬れるわけがない。
 それでもなお、強靭に鍛鉄されたサムライのまなざしを跳ねつけるのは僕には不可能だった。
 「…………勝手にしろ」
 自分じゃ指一本動かす気もないが、したいというなら好きにすればいい。
 僕の意を汲んだのか、半歩膝を進めたサムライがそっと僕の右手をとる。包帯の巻かれた手首を支え、節くれだった親指で白い布に覆われたてのひらを注意深く探る。見た目の無骨さを裏切る繊細な手つきで僕の指を軽く折り曲げ、サムライがぼそりと呟く。
 「骨は折れてないが、ヒビが入っているな」
 「ヒビが?」
 そんな馬鹿な。医務室で僕を診た医師は「たいした怪我じゃないから一週間で完治する」と保障していたのに。僕の驚きを見抜いたサムライがごく淡白な口調で補足説明する。
 「イエローワークは慢性的に人が不足している。骨折やヒビが入った位の怪我で作業を抜けられてはたまらないと、診断書をごまかすよう看守が言い含めていることがある」
 「―腐ってるな、どいつもこいつも」
 どうりでと納得する。医務室で僕を診た医師の様子がどこかおかしかったのだ。僕の手をためつすがめつしながらサムライが述懐する。
 「こんな手じゃシャベルも握れないだろう。明日からの作業は辛いぞ」
 「だからなんだ?休んで寝てろとでも言いたいのか。有益な助言をありがとう、それを実行したら僕は看守にリンチされて死ぬがな」
 自然と言い方が皮肉げになる。サムライに罪はないと理性ではわかっていても、なにもかもを諦念して受け入れたようなサムライを見ていると反感が募るのだから仕方ない。
 こまやかな手つきで僕の指をさぐっていたサムライ、その指が包帯の表面からすべりおち、弧を描いて自らの首へと戻る。首に巻いていた手ぬぐいを素早く抜き取り、僕に背を向けて自分のベッドの下へと上体を潜らせる。サムライが取り出したのは一振りの木刀。僕が唖然と見ている前で、サムライは予想外の行動にでた。手ぬぐいの一端を口にくわえて器用に引き絞り、自らの手首に木刀の柄を巻きつける。
 ぎゅっぎゅっと手ぬぐいを引き絞り、飴色に輝く木刀を己が手首へと縛りつけたサムライがおもむろに立ち上がり、木刀の上部分を左手で掴んで固定する。
 「指が使えなければ手首を使え。シャベルの柄を手首に縛り付け、左手を添えて動かすんだ。そうすればなんとか作業は続行できる」
 「……なるほど」
 少しサムライを見直した。
 「思ったほど頭が悪くないな、君は。知能指数90くらいか?」
 「東京プリズンで生活する上の知恵だ」
 手ぬぐいをほどいたサムライが床に腰をおろし、木刀を膝へと乗せる。そして、汚れた手ぬぐいをこちらへと放る。僕の膝へと舞い落ちた手ぬぐいを興味なさそうに一瞥し、平坦な声でサムライが告げる。
 「貸してやる。手首は自分で結べるな」
 「子ども扱いするな」
 複雑な心境で膝へと落ちた手ぬぐいを見下ろす。サムライの汗と泥が染みた手ぬぐいはお世辞にも清潔とはいえなかったが、背に腹は変えられない。あとでよく洗って使おう。
 不自然な沈黙が落ちた。
 「………慰めが要るか?」
 「なに?」
 聞きなおす。木刀の表面に自らの顔を映したサムライが、同情とは縁遠い口調でたたみかける。
 「強制労働を体験した新人は大抵ぐったりと憔悴して弱音を吐く。懲役が終わるまでこんな日々が続くのならひと思いに首を吊ったほうがマシだとか自分はなんて不憫なんだとか、どれも似たような内容だ。中には有言実行、翌日の強制労働が始まる前に囚人服を縒って作った縄で首を吊る者もいる。鍵屋崎、お前がなにを考えてるかはわからないがこの房で縊死者がでるのは気分がよくない。死体の始末をさせられるのは同房の囚人だ。もしお前が首を吊りたいと考えているなら、それを思い止まらせるための言葉でもニ・三かけてやるべきなのか」
 「……さっきまでそんな気は毛頭なかったが、今は君への嫌がらせで首を吊りたい気分だ」
 「ならば」
 サムライが浅く息を吸き、木刀の切っ先を僕へと向ける。サムライの目が直線で僕をとらえる。
 「首を吊りたくなったら外に思い残した人間のことを考えろ。その顔を思い出し、言葉を肝に銘じろ。東京プリズンにいる限り外に残してきた想い人とふたたび相見える確率はかぎりなく低いが、冥府へと旅立てば生者と再会する可能性は完全に断たれる。外へと繋がる可能性が絶無でない限り、お前の未来にはわずかながらの希望が残されている」

 希望。
 恵。

 『おにいちゃん』
 そうだ。僕が今死んだら恵のことはだれが守る?だれが恵を守ってやれるんだ?恵が生きている限り、僕は死ぬわけにはいかない。東京プリズンに収監された僕は恵の身に万一のことが起きても駆けつけることができない無力な立場だが、今ぼくがリンチの犠牲になって死ぬか発作的に首を吊るかしたら、恵は本当に独りぼっちになってしまうのだ。
 鍵屋崎の家にいた時のような思いを、二度と恵にさせたくない。
 僕の胸に擬された切っ先が引かれ、サムライの手中へと戻る。今の自分がどんな顔をしてるのかわからない。どんな顔をしたらいいかもわからない。とにかくサムライに顔を見られるのが嫌で下を向き、はたと思い当たる。
 「サムライ」
 「なんだ」
 「君にもいるのか?」
 サムライがうろんげにこちらを向く。薄ぼやけたサムライの顔に焦点を絞り、低く押し殺した声で聞く。
 「外に思い残してきた人間が君にもいるのか?」
 重たい沈黙。永遠にひとしい間をおいてから、サムライはぽつりと呟いた。  
 「………いや」
 その時、サムライがどんな顔をしていたのか僕にはわからない。眼鏡をかけてない僕にはサムライの表情がわからない。わからなくてよかったと思う。きっとサムライは今の僕と鏡に映すが如く同じ顔をしているはずだから。
 「俺が逢いたい人は、既にこの世にない」
 心の虚から吹いてきた風のように寂然とした声だった。
 サムライが逢いたい人間の顔を上手く思い描くことができない。
 僕はこの男について知らないことが多すぎる。親と門下生を斬殺して東京少年刑務所に収監された大量殺人犯であり、般若神経の読経と写経が日課という以外、サムライについて何も知らないのだ。昨日出会ったばかりなのだからそれが当然だろうと嘲る気持ちも一方にはある。しかしもう一方では、この男について何も知らないことがとてつもなく歯痒かった。

 観察対象のくせに、なんでこの男は土足で人の心に上がりこんでくる。
 なんでこの男の言動すべてがこんなにも気に障るんだ。
 僕の頭脳を持ってすればわからないことなどないはずなのに、この男については考えれば考えるほど謎が深まる。

 「どこへ行くんだ鍵屋崎?」
 サムライの声に背を向け、ベッドから腰を上げた僕はそのまま房を横切る。ノブを握り締めた背中越しにぴしゃりと言い返す。
 「君は僕の保護者か?いちいち人の行動を詮索しないでくれ、プライバシーの侵害だ」
 刑務所でプライバシーもなにもあったものじゃない。自分でも支離滅裂なことを言っているとわかっているが、この場を切り抜ける上手い言い訳が思いつかない。サムライの独白を聞いた時から僕の舌先は鉛のように鈍っている。
 これ以上サムライと同じ空気を吸ってるのが耐えられない、彼と同じ空間を共有しているのが我慢できない。
 逃げるように房を出た僕は、背後で扉が閉まる音を聞く。珍しく廊下は無人だった。行く当てもなく、ただサムライのいる房から少しでも遠く離れたい一心で足を速めた僕の脳裏で恒星が爆発した。
 ずきずき疼く額を片手で支えて顔を上げると、正面にコンクリートの壁があった。廊下の曲がり角にきたのに気付かず直進した結果、行き止まりの壁に激突したらしい。眼鏡がないと距離感が掴みにくい。これは事故だ、僕に過失はない。眼鏡をかけてればこんな間の抜けた失態は犯さなかった、決して。
 ぽんぽんと肩を叩かれ、ぎょっと振り向く。
 「メガネをかけてないメガネくんに忠告しておくけど、この壁には通り抜けフープなんてないよ」
 この声は聞き覚えがある。リョウだ。
 「そんなことは知っている、僕は有事の場合に備えて壁の硬度を確かめていたんだ。この壁の材質は1メートルの厚みのある鉄筋コンクリートだな。鉄筋コンクリートとはコンクリートの中に鉄筋を入れ,圧縮にも引張りにも強い部材を作る構造になっていてその特徴をラーメン構造と……」
 「きみほんとに目が悪いんだねえ」
 屈めた膝の上に頬杖ついたリョウが、この上もなく楽しそうに僕の顔を覗きこむ。非常に不愉快だ。
 「で、何の用だ?行き止まりとも知らずに直進して壁に激突したぶざまな僕を笑いにきたのか」
 「商売道具を返してもらいにきたのさ」
 僕の前に片手を突き出すリョウ。壁を支えにして立ち上がった僕は、無事な左手を使ってズボンのポケットから例のものを取り出す。先端のねじれた針金を受け取ったリョウはすぐにしまおうとはせず、自分の頭上に翳してためつすがめつしていたが、やがて口を開く。
 「これ、ちゃんと洗った?」
 「ああ。血がついたままだと錆びると思ってな」
 「そう」
 僕の言葉を聞いたリョウが手中の針金を回転させる。砂漠での騒動を思い出す。僕の上に馬乗りになった少年をどかせるためやむをえず実力行使したが、できればあんな野蛮な手は使いたくなかった。ただ、あれ以上砂と汗でまみれた汚い手で素肌をまさぐられるのに我慢できなかったのだ。看守に連行されていった囚人の中に片目を押さえた少年が混ざっているのを見たから、応急処置が的確ならば失明は免れるだろう。その点に関しては医師の腕を信用するしかない。
 「砂漠のアレ、すごかったね。メガネくんてばそんなおとなしそうな顔してためらいなく目玉を刺すんだもん、みんなびびってたよ」
 手中の針金から僕の顔へと上目遣いの視線を転じ、リョウが無邪気に笑う。
 「パパとママを殺したときもあんなかんじだったの?」
 いまさら驚かなかった。噂の出回る速度は速い。
 「……質問の意図が不明だ。凶器のことを言ってるならば全然違う。僕が両親を刺殺したときに使用したのは刃渡り20センチのナイフで、針金とは殺傷能力が比べ物にならない。刺した箇所も全然違う。砂漠でのしかかられた時は腕か肩を狙ったつもりがたまたま目測が狂って目玉を刺したが、両親を刺すときは確実に致命傷を狙った。母親の場合は心臓、父親の場合は右肺。大動脈を掠れば失血性ショックで心臓が停止すると医学書で読んだことがあったからな」
 ぽんぽんと針金を投げ上げていたリョウの手が虚空で止まり、声から不謹慎な笑みがひっこむ。
 「―それを冷静に説明する君って、やっぱイカれてるよ」
 リョウがどんな表情をしてるか漠然と予想できる。嫌悪と好奇心が等分に入り混じった空恐ろしげな顔。
 眼鏡が壊れていて確かめられないのが残念だ。
 僕の思考を読んだのかふっと空気が変わり、リョウがまた笑顔を浮かべたのがわかる。
 「まあいいや。実際すかっとしたしね、君が凱たちに一矢報いてくれて」
 「?どういう意味だ」
 いぶかしんだ僕の目の前へリョウが顔を突き出す。至近距離に浮かんだリョウの笑顔、その前歯が一本抜けていることを知る。
 「僕の本業は鍵屋じゃなくてウリ。刑務所内の看守や囚人を相手に性欲解消のお手伝いしてあげてんだけど、中には礼儀のなってない客がいてね。殴りながらヤるのが好きだとか複数プレイが好きだとか、そういう乱暴で暴力的な連中ね。ちゃんと料金払ってくれればいんだよ、それでも。けどね、凱の手下ときたらそろいもそろって屑揃いで……僕の前歯を折ったくせに慰謝料払わないわ料金ごまかすわで、いい加減頭にきてたんだ」
 「だから僕に針金を貸したのか?」
 「ほんとはアイツらのペニスを串刺しにしてほしかったんだけど、贅沢は言えないね」
 おどけて肩をすくめたリョウが興味深そうに僕を見る。
 「ところで眼鏡はどうするの。壊れたまんまだと日常生活にさしつかえるんじゃない?」
 無意識にズボンのポケットに手をやる。弦がひしゃげてレンズが粉微塵に割れた眼鏡を拾ってきたはいいが、知識はともかく技術がない僕がいちから修理するのはむずかしい。ただでさえ今現在僕の右手は使い物にならないのだ。不自然にふくらんだポケットにじっと目を注ぎ、リョウが口を開く。
 「僕が直してあげよっか」
 え?
 「直せるのか?」
 かすかな驚きをこめて聞き返すと、「僕ならね」と得意げに首肯された。是が非でもない申し出だった。人と関わりをもつのは極力避けたいという気持ちも捨てきれないが、裸眼では確実に日常生活に支障がでる。至近距離にいるリョウの顔さえこうしてぼやける始末なのだ。背に腹は変えられないと苦渋の決断を下した僕は、ポケットから取り出した眼鏡をリョウの手に乗せようとする。
 「交換条件がある」
 「交換条件?」
 レンズが割れてフレームだけになった眼鏡をリョウに握らそうとして、思いとどまる。リョウはにこにこと笑っていた。
 食えない笑顔。
 ネコのような動作で僕の肩へと半身をすりよせたリョウが、吐息の下から囁く。
 『レイジの弱味を探ってきて』
 「なんだって?」
 なんでレイジの名前がでてくるんだと当惑した僕を上目遣いに見上げ、リョウが笑みを深める。
 「新入りの君なら警戒されないだろうし昨日の食堂の一件もあるし、実に適役だと思うんだよね。いい取引だと思わない?君はレイジの友達になって彼の弱味を掴んでくればいい。そしてレイジの弱味を僕に報告すれば、それと引き換えに元通りレンズの嵌まった眼鏡が手元に戻ってくるってわけ。悪い話じゃないでしょ」
 僕の手から奪い取った眼鏡を目にあてがい、ひきつれるように喉を鳴らすリョウに違和感を覚える。
 「どうしてレイジの弱味を知りたいんだ?どうして僕を指名する?レイジの弱味を知りたいならば彼と同房の住人に聞けばいい。たとえば昨日彼の隣に座ってたロンとか、身近にいる彼のほうがよほど適役だと思うが」
 「ロンはだめだよ、アイツ妙に鋭いから。それに根がいい奴だから、口ではどんなに嫌っててもレイジを裏切るような真似はできない」
 「裏切る?」
 「てゆーかさ、メガネくん。君そんなに他人に関心ある人だっけ?」
 リョウの口調ががらりと変わる。どこかとぼけた雰囲気から、人の神経を逆撫でするような挑戦的な響きを帯びる。弦の曲がったメガネを手中でもてあそびながら、腹をすかせた雌猫のようにしたたかな笑みを浮かべるリョウ。
 「自分以外はどうでもいいんじゃないの?周囲に関心ないんじゃないの?程度の低い周りの連中がなにしようがどうしようが僕には関係ないって、エリート崩れの日本人らしく冷めたスタイル気取ってるんじゃなかったの?それとも……」
 リョウが間合いに踏み込んでくる。リョウに押されるかたちであとじさった僕の背中が固いものに当たり、肩に激痛が走る。強制労働中に警棒で殴打された肩を壁にぶつけ、痣に埋めこまれた火種が爆ぜる。
 肩を庇って頭上を仰いだ僕の顎を親指で支え起こし、リョウが続ける。
 「たった一日でサムライに感化されちゃったわけ?刑務所内で浮いてる親殺しふたり、囚人間でも後ろ指さされる負け犬同士がぴちゃぴちゃ傷なめあってなぐさめあってんの?反吐が出るほど美しい友情だね。鳥肌立ちそう、別の意味で」
 瞬間、理性が蒸発した。
 「―気色悪い妄想をふくらませるな」
 リョウの手を振り払い、肩の痛みを堪えて立ち上がる。
 「サムライは僕の観察対象だ。レイジもそうだ。この世に存在する全ての人間は僕にとってただの観察対象に過ぎない。君は顕微鏡の中のミトコンドリアと友情を築けるか?赤血球に恋愛感情がもてるか?そんなことは不可能だ、絶対に」

 そうだ、この世に存在するすべての人間は僕にとってただの観察対象。
 サムライもレイジも例外ではない。
 例外はただ一人ー……恵だけで十分だ。異物がまぎれこむ余地はない。
 そうだろ、鍵屋崎直。恵さえいればお前は十分だろ?

 「……いいだろう。甚だ理解できないし不条理ではあるが、君の条件を呑む」 
 唾棄するように吐き捨てた僕の前で、リョウが跳び上がって喜ぶ。
 「そうこなくっちゃ!」
 「ただし、こちらも条件がある」   
 有頂天のリョウをさえぎり、断固として念を押す。
 「眼鏡は先に直してくれ、なるべく早く。これ以上一日だってメガネのない生活は考えられない」
 僕にとって眼鏡とは自分の頭脳と妹の恵の次に大事なものだ。眼鏡がなければ生きていけない。眼鏡をしてなければ目の前に落とし穴があっても気付かず落ちてしまうだろう。まわりの風景がよく見えないというのは途方もなく不安で心許なく、こうして話している今もリョウの視線が僕のどこに向けられてるのかわからず、一向に落ち着かない。
 リョウは眼鏡の弦を口にくわえて思案していたが、僕の焦燥が本物だと見抜いたのか、やがて鷹揚に頷く。
 「……まあいいや。レイジの弱味をもってくる前に、君が壁にごっつんこして事故死しちゃったら困るしね」
 言うなりぱっと踵を返しその場から走り去ったリョウが、廊下の奥で立ち止まり片手を振る。
 「じゃあよろしくねメガネくんー。君の分析力に期待してるからねー」
 声と足音が遠ざかり、大気に溶けて完全に消滅する。
 無人の廊下にとり残された僕は、囚人服の背中が汗でぐっしょり湿っていることに気付いた。

 眼鏡の代償は高くつくかもしれない。  
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